バイブルについて❣️11月16日「アダムにもう一人妻がいた!」「みんなに起こっている奇跡」《あるを証明する人間》
11月16日
アダムの最初の妻?→リリス
10月24日
神はひとりじゃない‼️
6日目に神は「我々に似せて人間を作ろう」と言ったんです。
「我々」って?
神とキリストと聖霊は、「三位一体」なので、この時点で複数形になります。
また、人間を作る前に「蛇」→メイスンリーなどで「堕天使ルシファーなど」といわれる聖霊がいたのです。
つまり「サタン」のことですが、神は無限の聖霊という母性と、絶対的な父なる神のなかにサタンが生まれているんですね…
これってけっこう真理真髄なんじゃないのでしょうか…
私たち人間は「善悪の実を食べて、神のように善悪を知っている」ハズなんですが、サタン的生き方をしている。
そしてそれも神由来だとするところから、キリストという人間の姿をとって現れて、人間の罪を贖われたんです。(買い戻す)
なので悪も善も神由来だけれど、「愛の神」=イエスキリストの教えを生きることで、真実の真髄を生きていけるもの(天にふさわしきもの)になるんですよ‼️
10月5日
なんだか、こっちの方の筆が進んでませんが、ちょっとおもしろいのが、
「創世記の第六日目」に、神は「我々にかたどり、我々に似せて’人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
ってあって、そのようになり、「それは極めて良かった」ってあるんです。
そしてこの第六日の日が終わり、「天地万物は完成された。」ってあって、
「第七日の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」として、この第七の日を神は祝福し、聖別された。
ということなんです。
神は「ある意味仕事として天地を造った」ってことです。
これは、「ビジネス」ではありません。
たぶん、「神においては、すべきこと」だったのかもしれないって思うんです。
神という「極微細で、極めて大きな存在」が、実在を証明するために、つまり、「ある」ということを証明するために造られたのではないかなぁなんて思うんです。
このニュアンスに気をつけてください。
神があるとかないとかいうことではなくて、「ある」が成立することを証明されたんです。
私たちが、「原子や量子」という状態としても「ある」という状態があることが大前提です。
そして、それを統治する「主体」として「人間」を造ったのでしょう。
神は神がいる世界があることを’人間世界に転写したんです。
なので、神も人間のような性格を持っているんです。
そうおもって神と対話の祈りをすると、さらに神との関係が楽しく思えてきます。
9月19日
あなたや私が「あなたや私」として生まれ、
仏陀が無我だといっても無我を生きることをやった人間はおよそ「仏陀を含めて」いないと思われるし、
あなたや私が、あなたや私という状態で生き、その中で起こることが、「なんとかなってきた」から今も生きている。
そしてこれからも「なんとかなる」と思っていたり、「不思議なご縁」を感じることがあったり、
この「あなたや私」ってなんだろう…
というところに「主イエスキリスト」のことばがあり、
「神の言葉」がある。
奇跡は「生まれたことから始まっている」のだろう!
9月8日
神は、世界を作ってから「アダムを創り」その肋骨から「イブを創り」「キミたちには完全な自由を与えるけど唯一守って欲しいことが、このエデンの園の中央にある〈善悪を知る実がなる木の果実〉を食べちゃいけないってことだよ」といって、その場を去った(のだろう=陰で見てたかもしれないけど)。。。
しかし、イブは、サタンにそそのかされて「その木の実を食べてしまった」そしてさらに「アダムもイブに言われて食べてしまった」ところ股間が恥ずかしくなって木の葉をつけた。
そうした時に神が帰ってきて、「なんで葉っぱをつけてるのか」って訊くと、イブは「サタンにそそのかされた」といい、アダムは「イブに言われて食べてしまった」という。
そしてこんなことをいってると「神は怒って、お前らは苦しみを背負って生き、死ぬ身となった」っていうんだけど、
これって、そもそも全知全能の神はそうなることを予測しなかったのか?
なんていう疑問があって、いくら自由を与えたから、神はそこは知らないということは言えなくもないけど、自由を与えるとどうなるかって、試さないとわからへんかって思うんです。
普通は…
こういうところが神の神たるゆえんだってのは、クリスチャンになってわかったことですが、「やっぱ背くかって神は残念な思いを抱いたのかもしれないし、葉っぱなんか付けてないで、裸でわしと向き合えってことかもしれないし、サタンにそそのかされる怖さを教えたのかもしれない」っていろいろ考えられるんですが、私たちがアダムやイブだったとして、なにかそそのかされている、プロパガンダの中にいるということに気づく必要があるということかもしれないんです。
とにかく、聖書は「神学」にこだわらなければ、逆に本質がわかるって、ある牧師さんが言ってました‼️
9月6日
キリスト教では、聖書に書かれている「奇跡やキリストの復活」を信じますが、多くの日本人はこれを信じないか、なんらかの比喩であるという風に受け取るようです。
私は、キリスト教に「奇跡や復活がなくてもおしえは成立する」と言ってきましたが、そういう解釈も間違っていました。
いまでは、人間の存在を「量子物理学」や「ガイヤ論」「仮想現実論」などの科学によって探ることがされていて、そういう内容をよく見かけるようになりました。
しかし、わたしは、あるときからふっと「とにかく聖書はすべて事実、真実である」と、まずすべてを受け入れていこうと思う決心をして、そうしているとほんとうに現実が変化してくるのを体現しました。
これは仏教的な観察でもなく、現実解釈が変わったわけでもなく、私は何も変わっていないのに、どんどん現実が変わっていくようになったんです。
こんな風に言うと「新宗教でもはじめようとおもってるのか」といわれそうですが、「だから、たかだか30年しか生きていなかったキリストというひとの教えが、2000年も続き、世界で約30億人の信仰者がいるんだなということを体感したんです。
もちろんキリスト教に由来する戦争もあったかもしれません。
しかし、それが本物のクリスチャンによるものかどうかというと眉唾になります。
そもそもこないだまで、世界のキリスト教のトップだった「バチカンのカトリック」は資本主義者の諸悪の巣窟であり、悪魔教の施設だったと2020年には明確に暴かれています。
じゃあ「神はなぜ2020年までそういう偽物をはびこらせて居たのか、なぜそもそも悪魔つまりサタンが居るのか」ということをいう人がいますが、「理由は誰にもわからないけどそうだった」としか言えません。
そもそもなぜ「いのちは弱肉強食なのか」とか、「食物連鎖」といったいのちがいのちを食べあっていかなきゃいけないのかという、釈迦が心を痛めたようなことがあるのかという現実すらが、わからないということしか言えないのです。
とはいえ、ひとは「命は大事」といいながら、平気で食物連鎖を受け入れて生きています。
いま「目の前で生きている牛」とさっき食べた「ハンバーガーの牛」はきっちり仕分けしています。
「ベジタリアン」にしても、長生きできないという意味では、与えられた自己の命を粗末にしているといっても過言ではないかもしれません。(ベジタリアンさんごめんなさい。みんな同じだということが言いたかったんです)
とにかく「神はそういういのちやそういうじょうたいをつくった」そして、「神の体の一部をイエスキリストとして人間の罪を贖うためにあらわされた」のですが、
これを「信じる」なんて、実際には不可能だと思えますし、こんな2000年以上も続いて世界宗教であるということ自体がまさに奇跡だとも言えます。
つまりは、本当の意味でキリストを信じない人たちは、「煩悩のまま、よほど学ばなければ意味不明な悟り」を目指していても、サタンのような「名利の亡者になって」しまうのです。
しかし、聖書にあるように、旧約聖書から新約聖書に時代が移行しようとしていることは。明確なんです。
私がとりあえず信じてみようと思ったのは、その辺が見えているからなんです。
敬虔なクリスチャンが、ほんとうによい世界を創ろうとしている。
このすがたに「キリストをみた」といってもいいかもしれません。
そして、私自身がそういう人になっていく転機として、死んでるはずの検査数値をはじきだした心臓病とその急激な回復によって、自分がそれまでとは違う世界をいきていることを感じているんです。
こういったことは、じつは皆さんや多くの方に起こっているのに、気づいていないとかそもそも身近にキリスト教がないからよく知らない。
ということなのではないかと思います。
皆さんにも奇跡的な出会いとか、いろんな人知でははかりしれないことがおこっているはずなのです。
そもそも、「自己を認識する命として生まれたこと自体」が奇跡であり、科学でも「なぜ人間が生まれたのか」という問いには、永遠に回答は出せないのではないかと思うのです。
8月28日
聖書について書いていこうと思い立つに至ったので、ここに書くことにしました。
キリスト教は、「旧約聖書」と「新約聖書」によって成り立ちます。
これは、「天地創造の神」これを一神教と見るのは誤りなんですが、なぜかっていうのは後日にします。
とにかく人間やあらゆる存在を創った「神」と、エジプトで虐げられていてエジプトから脱出したユダヤ民族との契約である「旧約聖書」と、その旧約聖書に従って生き、また自らは神そのものの一部であるという「イエスキリスト」の教えを弟子やパウロという人が集め綴った「新約聖書」(神との新しい契約)に基づいているのが「キリスト教」なのです。
そこで、キリストは神そのものの体なので、「キリスト=神」なんです。
そこで、旧約聖書では、天地ができた時から、ユダヤの民が永遠の命を得るための律法などについて書かれているのです。
しかし、キリストはユダヤの民を超えて、神が創った全ての人間を、永遠の命の世界へと導く「神の愛」について、キリストが「奇跡」を見せたり、キリスト自身が復活したりということによって教えています。
とはいえ、この旧約聖書と新約聖書の神やキリストってけっこう無茶苦茶な性格や人格を見せますが、だからこそ、「キレイゴト」ではない事実が記述されているといえるし、私もそういう無茶苦茶なところを生きているということへの自覚がまずは芽生えてきます。
語弊を恐れずいうならば、仏教はけっこう「キレイゴト」に収められていくために、現実離れをしていたり、「いうてることとやってることが違う」っていう感じになってしまうんです。
キリスト教は、まずは神が「無茶苦茶」なので、人間は救われていくんです。
この辺のロジックは、今後記述していきます。
とりあえずそういう真実があるということを、まずはスタートとして書いておきます。
2022年8月17日
日本人はこれを見直しましょう‼️
2022年7月26日
《四十八願お裾分け》
第六願で見たことを第七願で聞くとともに「受持する」ってあるように、私たちのいのちの願いと苦悩を聞いて見て「受け入れる」ことで、互いの命が呼応しあうといえるでしょう。
そしてそれらがいずれも「諸仏の国と説くところ」という風に、すべてのいのちを諸仏として、どんな状態が言えたとしても諸仏の国土のあり様であり、どんな叫びも教えであると受け止めていくんです。
いろいろな命の状態を見ても「我関せず」だったり、「聞いてもよそ事」だったりという姿勢で生きていると、いのちが呼応しあうことはないでしょう。
たがいに「我れ」という自覚を持つ命をもって生まれている不思議さの中で、「我れと我れ」が呼応しあうという「感応道交」しあうことにこそ、「我れが自我ではなく、自己として独立しうる」のです。
このへんの話は「抽象的」ですが、ことばを超えた境界を言説にする限界から読み取っていくものであろうと思われます。
こういう境界にいたればわかるという性質のものです。
なので、こういう文章が響かない人には響きませんが、おおくの人にはこの部分だけのお話では響かないでしょうし、ほとんどの「精神世界」についてなにも考えていない人には永遠に響かないでしょう。
なので、とにかく物質優先社会をそのまま経済のみでただ漫然と生きているということは、いかに一つの命としてもったいないことかということがわかるでしょう。
しかし、第六、第七願による、俯瞰して見る(天眼)、かすかな声も聞き洩らさない(天耳)によって知りえた命の叫びを受け止めて、百千億那由他とかかれている限界点もあるなかで、それらに呼応していけるかということが説かれているのでしょう。
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2022年7月20日
今日から、こんなコーナーを作って見た。
お知らせに載せてたようなあれこれをこっちに積み上げようかって思ったけど、
そんな必要あるんかな?
お知らせのままでもええねんけど…
とりあえず、あれこれを書こうと思ってのこと…
まず書きたいのは「聖書はむちゃくちゃである」ってこと‼️
神も人も現実そのものであるし、そこに意外とキリストさんもきっついことをいわはるし…
そやし、ええねん‼️
仏典でも、どんな宗教の聖典でも、キレイに書かれてキレイに終わるって言うような内容がほとんどだから、私らみたいなもんには、キレイゴトのように思えるし、聖書みたいに「むちゃくちゃでっせ」っていうようなところに真実があるねんって読んでいくうちに思う…
けどこれをまた、神父(カトリック)や牧師さん(プロテスタント)が話にすると、キレイゴトみたくなるねんねぇ…
神父さんの時代は終わってるし…
ところが、そうじゃない牧師さんもいるねんってわかって嬉しくなってしまった!
関野和寛さん(日本福音ルーテル教会)っていう牧師さんだけれど、一度YouTubeで見てほしい!
やっぱ、聖書ってマジっすかっていうホンネと真実の塊なんだ‼️
そういうて「仏典」があかんっていうてるんやないんです。
普通の感覚の人は、聖書のエグイなかにある深い愛っていう真実よりも、
わかりやすいお慈悲の方がフィットすると思うし、それはそれで大切だって思うから…