🔎教行蚌文類講3  19/04/17 5–5たで 「人間皮の愚かさぞ」 「二河癜道」 「信文類本文」 (重芁な前提のあずから) 🚚

🔎講矩の5−6から「その4」にしたす。

https://r.goope.jp/sainenji/free/kosugi4

 

💖ずある読者さたから。。「Aの䜓調」を気にかけおくださり以䞋のメヌルをいただきたした。

【ご無沙汰しおいたす。これたで本圓に十分に曞いおきおくださったので、読者には教行蚌文類の孊び方の基本姿勢はちゃんず䌝わっおいるず思いたす。なので、䌑講しおもらっおも、自習したり、これたでの講矩を再読するずいう孊びを各人がやっおいけるはずです。】

💛っおいうご心配をいただきたしたので、【䌑筆】ではなく。。

少しず぀ペヌスを萜ずしお曞いおたいりたす❣

【チョコチョコのぞいおみおください❗

長くおも日以䞊は開けない぀もりです❣】

 

講矩は少し䞋から始たりたす⏬

 

講矩は本願寺掟「本願寺出版瀟」から出おいる「浄土真宗聖兞(泚釈版第2版)」を甚いおいたす。

なお「浄土真宗聖兞珟代語蚳」を甚いる぀もりでしたが「補䜜者様には申し蚳ない」のですが、「恣意的な翻蚳ず思われるずころが倚く倧雑把な翻蚳」なので「特別な理由がない限り」䜿甚したせん。

https://r.goope.jp/sainenji/free/honden

 

💮講矩3の《補足その》

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku3

 

🙆‍♀仏教解説(関西颚)「教行蚌文類理解に必芁な仏教解説」です。

たずここをご理解ください。

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase

 ðŸ”Žæ•™è¡ŒèšŒæ–‡é¡žè¬›çŸ©ãã®2です3−23たで

https://r.goope.jp/sainenji/free/kyougyou2

💫ここの3−23ぐらいは䞀床読んでみおください❣

◯補足その2

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 ðŸ”µæ•™è¡ŒèšŒæ–‡é¡žè¬›çŸ©ãã®ïŒ‘

https://r.goope.jp/sainenji/free/honden

 â—¯è£œè¶³ãã®ïŒ‘

https://r.goope.jp/sainenji/free/hodoku

⭕どなたでもお問い合わせから「ご質問」をい぀でもお受けいたしおおりたす。お気軜にい぀でも「ご質問」をください。

✎💫講矩は最䞋からスタヌトしお順々に䞊に曎新しおたす❣🔌

 

ヌヌヌヌヌヌヌ【おニュヌ】はもう少し🔜

 

なお、以䞋のような郚分も読んでみおください。

 å°é›£ã—い話

https://r.goope.jp/sainenji/free/sinsyuugaku

 å°é›£ã—い話2

https://r.goope.jp/sainenji/free/komuzukasi2

 

ヌヌヌヌヌヌヌ【おニュヌ】はここ🆕

【お知らせ】

🔵2月末から「いきなり重芁な仕事(行)」が入っおきお、たた忙しくお「曎新」が遅れおすみたせん❣

「キッチリ曞き䞊げたす」ので、ちょくちょくのぞいおください❣

ヌヌヌヌヌヌヌヌ

【本題】🔎この前提のしたに「本文」を続けたす。

 

信文類を読む前に前提を解析Plus‌(3/22蚘)

 

真宗は「自力を廃しお他力に䟝る」っお蚀いたすけど、これかお「真劂実盞」からいえば、

「どちらもあるずもないずもいえたす」

「無垞無我、空」や「真劂実盞」なんかが「論理的にわかればそのたた《五念門》を行じたらいい」んです。

「それは自力行だ」なんおいうこずそのものが「自力(はからい)」「分別」です。

そもそも「他力は瞁起力」ですから、「自他分別のはからいを陀く方向」で「法楜、真楜」を埗ればいいんです。

 

仏教っおのは「暩嚁や法」に《拘束する》ものではなく、「あらゆる拘束から解攟される方法」です。

これが、「真理」に基づくので「法」を重芖したすが、「法」は「無垞無我、空」なので、《拘束》したせん。

 

仏教に「ねばならない」はないんです。

仏教は「こう考えおこうしたらいい」っおいう「論ず方法」が「真理、真実」に基づくから、「あらゆる拘束を解攟する」んです。

 

「論」がわかるなら「盎(ちょく)」に「教→行→蚌」っお進んだらいいんです。

だから「顕浄土真実《教行蚌》文類」なのだず思いたす。

 

けれど、「論」がわからないずいうひずの倚い時代には、「信が必芁になる」っおこず、

たた、重芁なこずは、そもそも「念仏でなぜさずりに至るか」っおいうポむントを「解析しお論じる」必芁があったずいう理由で、

「信文類」を特別に分けた圢で「曞いおはる」んです。

 

「念仏でさずるこずができるのは、阿匥陀劂来を受け入れお《砎我》されるからだ」

「それは、《信心》を通過するからだ」っお論じおはるんです。

だから「念仏」を「乃至十念」定矩ではなく、「至心信楜」定矩されおいるのだず蚀えたす。

そういうこずだから、「信文類」には「別に序文」があるんですっお、これは「宗孊䞊」でも蚀われおいたす。

 

もちろん「珟代でも」阿匥陀ストヌリヌの「方䟿則」でもいいんです。

「難しい仏教孊」なんお「今さらわからん」っおいう方は、ありのたた「阿匥陀ストヌリヌ」を受け入れる「信心」を通過した方がいいず思うのです。

 

぀たりは「阿匥陀劂来の真実心を疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」っおいう「無疑の䞀心」で受け入れお、

ただ「自然を䞻」にしお生きるこずです。

 

これも結果的には、ここたでの蚘述でいう「自我名字」を「南無阿匥陀仏名字」に入れ換えるこずで「名号ずいう利他を行じるこず」になりたす。

぀たり「自我」が「機の深信」で吊定されお、「法の深信」で「願力に乗る」っおいうこずが同時(䞀䜓)ですから、

「結果」⇒「砎我」されお「自己の䞻客が入れ換わる」こずになるっおいう構造です。

 

ですから、本来は「浄土真実教行蚌」でいいのですが、「信文類」を別に曞き起こされたんです。

「行→蚌」っおスムヌズにわからない、進めない人のために「信」が入るんです。

たた、ほかの仏教者に「行には《信》が内圚しおいるからさずりに至るんです」ず論じおいるんです。

 

これは「事実䞊《行文類》の䞭に「信」が蚘述されおいる」ように、

「行→蚌」ず進む人にも「起こっおいるこず」ですが、スムヌズに「行→蚌」ず進むひずには、特に説明の必芁がないこずです。

 

たた、サンスクリット語原兞での「信」が「浄心(プラサヌダ)」である以䞊、「自我」ではない。

仏教で「なにを行じる」にせよ「プラサヌダ(浄心)」前提でなければ、「無我の法楜」にならないんです。

倧げさにいえば「仏教である以䞊《プラサヌダ》抜きでは仏教にならない」ずいうメッセヌゞでもありたす。

これをスムヌズに「行文類」で理解できる人ず「そうでない人」があるから「信文類」があるんです。

 

「信」に぀いお「説明を芁するひず」に向けた内容が「信文類」になるようです。

しかも「阿闍䞖」ずいう「極悪人を持ち出しお」たで、その察象者を「唯陀」ずしお説明されたす。

 

「唯陀」は䟋えるず「芪が」「お前は出お行け」ず蚀わなければならないほど、どうしようもない「愚者」であり、か぀「心配な子」ずいう「陀は摂取の意味」ずいう郚分こそが、「第十八願(本願)の真意」であるっおいう重芁ポむントです。

(ここでは「わかりやすいように」あえお「芪子」で䟋えたした。)

 

以䞊のように「行」を「自力だの他力だの」ず論じるこずに意味はありたせん。

結果「自我」であるか「無我や空に向かっおいるか」っおこずです。

 â˜†â˜†â˜†

しかし‌「どちらのルヌトを進むにせよ《倖せない》のは四十八願」ですから、ゎヌルは同じです。

☆☆☆

 æ¥µè«–でいうなら

「法蔵菩薩モデルコヌス」(真実則)で進むか、

「阿匥陀劂来乗蚗コヌス」(善巧方䟿則)で進むか

どっちでも「同じゎヌルです」っおこずです。

 

ずにかく真宗の教えを粟査するず「自我自力」「無我(砎我)他力」ずいう意味で「自力他力」の文蚀を䜿っおはるっお解析できたす。

 

 

🔎5の前提Plus

  

《名号倧行ず信心正因》の矛盟。

名号が「正因」にならないのは、基本的には「無為法」(色も圢もない蚀葉も絶えた法そのもの)だからです。(無為法は因にならないが仏教の因果論原則です。)

だから「増䞊瞁」の「瞁」扱いです。

「無為法は瞁にはなる」原則だからです。

だからなのか、䞻流掟では「信心正因」ずいいたす。

これは「人間」ずいう「有為法」でなければ「因」にならない原則だからでしょう。

 

ならば「倧行」を「名号(法䜓)そのもの」ずする堎合。

 

「法蔵菩薩」ずいう「こずばやストヌリヌ」を蚭定しお、その「法蔵菩薩」ずいう「有為法に該圓する存圚」が《行じた》結果が「名号」だずいう流れがあらわすこずを、

「有為法が無為法になったずいう流れ」だず解釈する。

 

そうだずしおも「名号を無為法」ずしお扱うには問題がありたす。

なぜなら「名号」は「こずばが意味を持぀」ずいう「性栌である以䞊」さたざたな解釈が起こるから「無為法」にはなれたせん。

 

だから、「名号を独甚の倧行に定矩する」ず、このようなあいたいな「蚀語的存圚」を「無為法」ずしお扱うずいう「課題」を生みたす。

぀たり「名号」は「取り扱い方」によっお、「阿匥陀さた」ずいう「実䜓抂念」になる「人栌存圚」になる「可胜性」を持぀からです。

 

わかりやすく蚀えば「十九願、二十願」ずいう状態を生む可胜性を持぀「存圚の状態」を完党「無為法」ずはいえたせん。

 

それを「受け取る偎の問題」ずいいたくおも、そもそも「行」は「有為法」がなければ成立したせん。

「名号倧行が、果䜍の䞊で《利他》を行じおいる」ずいえば「完党無為法」のように錯芚したすが、

「利他」を行じる以䞊、「利他られる迷界の存圚がいなければ《利他》そのものが成立したせん」

぀たり、「迷いの存圚」がいない以䞊「名号は存圚できない」のです。

 

このように「有為法に䟝存」しお「存圚」する以䞊、「受け取る偎の問題」ずもいいきれないのです。

 

しかもその「迷いの存圚」は、「名号を人栌存圚ずいう実圚化」いわゆる「阿匥陀さた」ずしおずらえる可胜性が充分にありえたす。

 

「成就文」の有無に関わらず、単独存圚できないから「蚭我埗仏〜䞍取正芚」のたた「蚀説有為法」ずいうのが「真実」です。

「名号が出来たした」ずいっおも「迷界の人間(衆生)」がいない堎合には「存圚」になれず、

たた「実䜓抂念」になる可胜性がある以䞊「有為法」扱いです。

 

結果「名号倧行」は「名号単独では存圚できない《矛盟した抂念》」ずいうこずです。

 

「信心が正因」なのは「正因」は「人間の偎」でしか蚀えないからずいうのは「理にかなっお」いたす。「因は有為法」ずいう「理」です。

 

しかし「行」も「受け入れる迷界の人間などの衆生(有為法)」が存圚しないず成り立たない、

しかも、「こずば」である以䞊「察象者」は珟実的には「ほが人間限定」です。

だから「人間を離れた《利他行》は無意味」になる。

 

぀たり「倧行」は「法䜓」で語れないから「讃嘆門」の「称無碍光劂来名」ずいう「人間」の偎からしか語れたせん。

結果「名号倧行」は成り立たないので、「讃嘆」(埓来でいう略讃でいえば「称名」)でしか「定矩」できたせん。

 

☆☆☆

だから「法蔵菩薩のように行じる」が「真実則」で、

「二皮深信のように名号に砎我される」が「方䟿則」になりたす。

☆☆☆

 

⭕この「二皮深信」が必芁なひずが「方䟿則」を行じるひずになるんです❣

 

しかし、

スタヌトから「仏教孊」的に「無垞無我、空」を理解できお、

法蔵菩薩ずしお「讃嘆行をメむンに五念門、五果門」を行じお生きるこずが可胜なひず。

 

⭕「二皮深信」を必芁ずしないひずにずっおは「信文類」はほが䞍芁です。

 

しかし、難しいこずはわからないずいう「方䟿則のひず」にずっおは、二皮深信ずいうプロセスによっお「南无阿匥陀仏」に砎我されお、南无阿匥陀仏がわたしの「䞻䜓」であり、

「䞖俗名」は客䜓であるずいう「砎我」の歩み(二皮深信)を生きるほうが適しおいたす。

 

この「どっちをを歩むか」ずいうのが「教行蚌文類」が蚀っおるこずです。

 

このポむントからいえば「称名報恩」は、「感謝」(ありがたい)ではなく、「報謝」(慚愧)だずしなければ、「自我の行信」になっおしたいたす。

(報謝の「報」は、教えに「応じる」っおいう意味で、「謝」は、謝眪ずいう内容を意味する「慚愧」ずいうこずです。)「恩埳讃は肉䜓(五蘊)を粉にしおも、骚を砕いおも、報謝せよ」っおいう内容です。

 

いずれにしろ、共通するのは「受け入れる」→「信心」です。

これが「真実則」の人は「仏教孊」を通しお「スムヌズ」なので、それほど「テヌマ」になりたせん。

しかし「方䟿則」のひずにすれば「重芁ポむント」だず「匷調」しなければならないので、

「信文類」が別立おで「論じられおいる」ずいえたす。

 

珟代は「その䞡方のひず」が混圚したす。

むかしは「方䟿則」のひずが倚かったずいうこずは「想像に難くありたせん」けれど、

珟代に「方䟿則」ばかりでは、逆に「受け入れないひず」が倚くなっおいたす。

 

そこで「内容」に戻りたす。

 

ヌヌヌヌヌヌヌ【ここから本文です】5−1は⬇からスタヌトしおいたす❣❣❣

 

🔎ここからです❣

 

2019/04/175−5

 

227ペヌゞの【14】に「慚愧によっお、。。。《皮々の善巧方䟿》によっお、我らが無䞊の信心を発起する」っお曞いおあっお、

【15】にも「慚愧」によっお「深心」ずいう「真実の信心」が埗られる。

そしお「善根薄少」で「火に芆われた家から出られない」たた流転しおいるず知っお、

「名号を称する」こずで「埀生」する。

このこずに「疑心」がないから「深心」っお蚀いたす。

そしおこの「䞀心」を至せば「埀生を埗る」っお、぀たりは「二皮深信」が「善巧方䟿」のポむントであるっお曞いおたす。

 

【16】の埀生芁集の匕甚も「䞀心」をクスリにたずえおいたす。

そしお【17】においお、これは芋えない「摂取の光明」だけれど、それは「煩悩に県がさえぎられおいるから」で、「倧慈悲の光明は飜きるこずなく照らしおいたす」っお曞いおいたす。

この郚分は、「あくたでも善巧方䟿」ですから、ここの論調は「論」ずいうより、

「情」に蚎えかける「こういうこずです」ずいった、倚少「匷匕な流れ」になっおいたす。

 

【18】には、行文類、信文類で蚘述しおいる「行信ずもに」「阿匥陀劂来の枅浄願心」によっお回向されたものであっお「これが因になっお埀生する」のだから「ほかの因があるわけではない」んです。

っお、「方䟿則」で「阿匥陀劂来の」ずいう「人栌衚珟」されおいたす。

本来ここは、「真実則」でいえば、「法蔵菩薩の枅浄願心」ずなり、「その願心」をよりどころにしお「五念門行」を行じるこずが、本来、倩芪さんがいっおいる「䞖尊我䞀心、垰呜尜十方無碍光劂来、願生安楜囜」になりたす。

 

けれど、ここでは【19】の問答によっお、倩芪さんの「䞀心」は、第十八願の「至心信楜欲生」の「䞉心」を「信楜」の「䞀心」(疑蓋無雑)に「圧瞮しお」衚珟されおいるのであり、

けっきょく倩芪さんの「䞖尊我䞀心」は「信楜」のこずです。

っおいう論調で、「真実則」ず「方䟿則」を同じゎヌルに蚭定しおいたす。

 

この【20】の郚分は3−6に蚘述したしたから、ここでは「省きたす」が、

【21】の郚分でも、「機(人間皮)の愚かさ」を培底しお蚘述しお、

「劂来が䞎えおくれた《真実心》」を利他の真実心ずしお「疑蓋無雑」の(信楜)で受け入れるこずがポむントで、この「真実心」は「至埳の尊号」です。

っお曞いおはるんですが、3−7に曞きたしたが、「尊号」ずいう「理屈抜きで尊い」ず蚘述しお、しかも「有為法」であるかのように「その䜓」ず曞かれおいるのは「方䟿則」だからず蚀えたす。

 

ずにかく信文類の「䞉心釈」ずいわれおいるこのあたりの郚分は、「人間皮は真実心がない」ずいう「無垞無我、空」を抜象抂念がわからない人向けに「阿匥陀劂来ずいう善巧方䟿」を䜿っお、

「至心」たたは「至誠心」を受け入れるこずを匷調しおいたす。

 

これは、「結果」《二皮深信》を論じおいお、「方䟿則」からしか「さずりに向かえない人」に向けお「あえお」蚭定された論点であるず蚀えたす。

ここたでには、「人間皮(機)の愚かさに察する真実心」に぀いお曞かれおいたすが、

【22】からは、「至心」がどういうものかずいうこずに぀いお詳しく述べおいたす。

ただしこのあたりは「善導によっおいお」人栌衚珟で阿匥陀劂来を衚しおいるので、「有為法衚珟」です。

 

ですから、【25】においおは「釈尊ず善導さん」ずいうペアで、「真実心至心」ず定矩しおいたす。

しかし【26】には、「涅槃経」によっお「最終的に仏性を真実」ずしお、「真実則」定矩されおいたす。

そしお【27】からは、「至心」を受け入れる「信楜のあり方」に論を進めお、詳説しおいかれたす。

🔵いずれにせよ「信文類」は、「二皮深信」前提で解説されおいたすので、党面的に「善巧方䟿」に぀いお曞かれおいるずいうこずは、䞀貫しおいたす。

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/04/175−6☝講矩その4ぞ

講矩その4  https://r.goope.jp/sainenji/free/kosugi4

 

 

2019/04/085−4

 

「逌悩」っおいう「さしせたる、狭たる」苊悩の䞭にいる「凡倫」は、

この苊を受けないように3−2で曞いたように、「必生圌囜」っお「浄土に生たれたらいいねん」から、「䞉心」のプロセスを経たら「浄土に生たれられお、「逌悩」から「解攟されたすよ」っおいう内容になっおいたす。

そこで「仏の真実心(至誠心)」に぀いお曞いおお、

「二぀には(二者)深心」っおずころから、218ペヌゞの埌ろ4行目には「真の仏匟子」っお曞いおお、ここには「わたしたちも《仏の捚おたものを捚おお、仏が行じたものを行じお、仏が去らしめた凊を去る》」っおいう感じで「仏願に随順する」こずですよ❣

そうやっお「行を深信」すれば、間違うこずはないですっお曞いおたす。

 

詳现は3−2に曞いおるから省きたすけど、この論の流れは、こういうこずです。

 

特に、ここに「二皮深信」に぀いお曞かれおお、わたしが苊悩から離れるために「向かうべき状態」に぀いお曞かれおたす。

この「二皮深信」に、「曠劫(むちゃくちゃ昔から)いたに至るたで、぀ねに没しお、぀ねに流転しおそこから出るも離れるもできないわたしだから」仏願に埓えば、「間違いない」っお曞いおるんです。

 

この「話し」を聞くたでもなく「無垞無我、空」に背いお生きおるんやから、苊しむっおわかるなら、あえお「二皮深信」は䞍芁です❣

そしお、仏願に随順するっおのは「䞀心に匥陀の名号を専念するこず」っお定矩されたすけど、

これが「号」っおいう「果䜍」である以䞊、ここには「利他」るこずが「内圚」されおたす。

だからこの蟺に「十方諞仏が匥陀の名号を称念しお、衆生を勧励(かんれい)しお埀生を埗る」っお「讃嘆」するんです。

っおいうように、「名号の称念」が「果䜍」ずしお「利他」るこずが曞かれおるんです。

 

そしお「䞉者回向発願心」に移っお、「埗生の想いをしなさい」っお「浄土に生たれおいるっおおもっお生きたら、違う芋解やなんかに迷わされなくなる、振り回されなくなる」っおこずを明確にしおたす。

 

だから「珟生埀生」が基本にならぞんかったら「間違う」んです。

 

221ペヌゞ埌ろ4行目からの問答は、

「この教えに疑問を呈しお、そんなんで埀生できるかいな」「今たでいっぱい眪を䜜っおきお、それが陀かれおもいないのに、䞉悪道にしか行かぞんっお」「そんだけ眪が深いのになんで《無挏無生》の状態(囜)に入っお、さずりを埗るなんおありえぞん」っお思いたすねん。

っおいう、基本的な仏教の「同類因、等流果」で考えるべきなんちゃんたすか

っお問いが曞いおあっお、

回答には、「諞仏の教えも行も数限りなくあっお、さずり「ずいう認識」を埗る機瞁は「䞀぀じゃないんです」たずえば「䞖俗の人が芋おるものを信じるけど」それらはみんな「法の䞭」だから「埅察の法」っおいうお、「絶察的な芳点じゃあなくお《盞察的な䞍確定な芋方》で千差䞇別」ですねん‌

っお「芋おるものを誀認したり、それぞれの限定的な芳点」だから「仏法䞍思議の力」が「皮々にいろんな利益がある」こずが分からぞんのんです。

だから「仏法は、それぞれの状態に埓っお、それぞれの状態に応じた《解脱智慧の門》がありたすねん」だから「瞁に随順しお、行を起こしお解脱を求めたらええんです」

「県を過去に向けるんやなくお、過去が眪深いっお思うんなら、なおさらさずりっおいう前向いお《所愛(求めるずころ)》は、「瞁がある行」なんだから、「瞁ず願い(楜)」に随がっお、「その行を行じたらええ」んです。

そしお「行者」になっお「孊べば」「さわりない(無碍)」になるんです。

っお曞いおたすけど、これが、「ただ念仏を称える」教えの構造にある「称える身になったら《孊ぶものになる》」っおいう「念仏のシステム」なんです。

 

っお感じで、「眪深いこず」が「さずりぞ向かう念仏行者になる方向づけになっお、孊ぶものになるこず」を「方䟿則」で語っおいたす。

 

ここで「有名」な「二河癜道」の譬えが蚘述されたす。

これはあたりにも「知られおいたす」し「完党方䟿則」の譬えなので、

あえお「省きたす」けど、

「癜道四、五寞」っおいうのは、「衆生が《枅浄願埀生の心を生たせるこずに譬えられおいる》」ずするなら、「貪欲、瞋恚」の「氎ず火」が「匷い」こずをあらわしおいるっおいうこずですから、「枅浄願埀生の心が匷くなる」ず「四、五寞がじ぀はむちゃくちゃ広かった」っおわかりたす。

 

どれだけ「氎(貪欲)」や「火(瞋恚)」が、癜道に芆いかかっおきおも、癜道を進んでいれば、

「氎も火にも萜ちるこずがない」っおわかるからです❣

癜道を進み始めたら「䞍退転」だっおわかるから、「氎や火の河」も「癜道」だったっおわかるんです‌

 

ずにかく「僧䟶や同行」ずいう「行者」である以䞊、

「真実則」の「法蔵菩薩モデル」で五念門を行じるにせよ、

「方䟿則」の「癜道コヌス(阿匥陀劂来乗蚗)」で称念するにせよ、

進むしかないのですから、「癜道があるんです」っおいう「法話」ではなく、

「癜道の䞊を進んでたす」っおいう「法話」でなければ「意味」がありたせん。

「戯論(お遊びの論を話しおいる)」にしかならないんです。

 

結果227ペヌゞの真ん䞭らぞんに「䞉心をすでにをなえたら、行が成る」「願行が成る」そしお「浄土に生きる」っおいう「こずわり」があるっおわかっお、なおか぀「どんなすぐれた行にも通じる」っおたずめおはりたす。

ここに「定善の内容をおさめおいる」(通摂)っお曞いおるのは、「返っお《定善》の行以䞊の行である」っおいうおはるようです。

 

続く【14】も、「このように䞀切埀生の知識(埀生しおそこを生きおいる行者)」に「慚愧すべし」っお曞いおるのも「二皮深信」を意味しおいお、「釈迊が善巧方䟿で私たちに無䞊の信心を起こさせる方法」ずしお「説いたんです」っお、「方䟿則」定矩をしおいたす。

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/04/085−5☝

 

 

2019/04/055−3

 

216ペヌゞの【11】から、善導さんになりたすけど、「曇鞞さん」の匕甚に぀いお。。

「曇鞞さん」を行文類では、

「真実則」から「法蔵菩薩モデルコヌス」っおいう芳点から匕甚しおいたした。

぀たり「無碍光劂来」を《讃嘆しおいる諞仏の讃嘆》を《聞信しお》わたしも諞仏のように《讃嘆を行じるものになる》こずが、

「五念門」を行じる「行者」になる「法蔵菩薩ずずもに功埳荘厳を成就する行者になる」っおいう「法蔵菩薩モデルコヌス」をあきらかにする「真実則」で匕甚されおきたした。

 

しかし「信文類」では、「曇鞞さん」を「方䟿偎面」から匕甚しお、

【10】で定矩する《阿匥陀の埳号》を「聞きお信心歓喜」するこずが、《実のごずく》《名矩ず盞応》するっおこずを論じるために、

たず【9】に《光明智盞の劂く、名矩の劂く、実の劂く》【称名】するために《重芁なポむント》ずしお、「䞉皮の䞍盞応」っお曞いお「䞉䞍信」を蚘述しお、「信心の重芁性」を曞いおはりたす。

この「䞉䞍信」の文蚀に぀いおは以前3−13−2に曞いおるので、いたは文蚀の詳现は眮いずいお、

「たずは《䞍信》があれば《実のごずく修行できない》《名矩ず盞応しない》っおこず」を明確にするために、曇鞞さんを匕甚しおいたす。

 

「曇鞞さん」もいうおるように、「䞍信」状態では「ダメです」ねんっお曞いおはるんです。

そしお【10】に「阿匥陀の埳号を聞いお、信心歓喜しお。。。䞀念におよぶたでせん」

「至心のひず回向したたぞり。。」お「信心が芁りたすねん」っお信心の重芁性に誘導しおいたす。

 

ここで「論蚻」を匕甚しお「䞀心」を「䞀念」に眮き換えおいるこずは「ポむント」です。

たた、この文蚀に「唯陀五逆、誹謗正法。。。」たでに匕甚が及んでいるのは、これ以埌「信文類」に蚘述される「結論たでを簡朔に匕甚」しおいるからだず掚察できたす。

 

そしおここから【11】に「善導さん」を匕甚しお、「信心」を《こず现かく》論じられるんです。

この【11】にたず「劂意」っおありたすけど、よく「劂意棒」なんお「孫悟空」なんかでいわれるように、これは「思うたたに」っおいう意味で䜿われる蚀葉ですけど、ここでは「真劂から来生」した「劂来の意のたた」にず読む方が「深い意味」が理解できるず思いたす。

 

぀たり「劂来」は意のたたに、「衆生のこころや思いに応じお、匥陀がその意のたた」に「さずらせなきゃいけない衆生を芳お、その衆生のずころぞ《䞀念》を《前埌なく》《身心等しく》っおいう状態で赎いお、さずりの利益を䞎えたす。」っお曞いおたす。

 

ここにある「䞀念を前埌なく身心等しく」っおいう文蚀は、このあずに進むに埓っお論じおいく「阿匥陀が至心っおいう《真実心》を衆生に《回向(振り向ける)》こず」ず「それを《信の䞀念》」っおいう「信楜(しんぎょう)」から「欲生」ぞの意味を「暗瀺」しおいるように思えたす。

 

少し具䜓的にいえば「劂来の意」を「信の《䞀念》」で受け入れる「信楜」の䞀心は「時間軞の《前埌》」にこだわる性質のものではなく、《身も心も等しく》阿匥陀の意に「無疑」になるっおいう【50】や【60】の内容を「暗瀺」しおいたす。

 

そしお【12】からの郚分を、この講矩の3−2では、「さずりぞの誘導察象を確認しおる」っお曞きたしたが、「阿匥陀劂来乗蚗コヌス」っおいう芳点から読むず、

 

この蟺りから「ボチボチ」《二皮深信がスタヌト》しおいるようで、「みんな《五濁、五苊、六道》に逌悩(ひ぀のう)しおたすやろ」っお「逌悩」っおいうのは「さしせたる、狭たる」こずですから、

けっこう「远い詰められおたすやろ」っおいう感じで、「凡人(凡数)」であるあなたは「そういう状況でしょ」っお感じで、「人間の状態を認識させお」いたす。

 

この蟺から、けっこう「危機感を自芚させる感じ」「無自芚な危機的状況を自芚させる感じ」で論が進んでいきたす。

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/04/055−4☝

  

 

2019/03/295−2

 

信文類は、倚くの「讃」のあず、「真劂䞀実の信海なり。」ず「真劂」に萜ずし蟌たれたす。

あくたでも「色も圢もなく、蚀葉も絶えた」「真劂」前提です。

そしお、この埀盞回向の《倧信》は、「念仏埀生の願」から来るものだず、「法然」の《遞択本願念仏集にある願名》をだし、あくたでも「念仏埀生の願より出おいるのである」ず蚘述しおいたす。

 

しかしここで「乃至十念」定矩ではなく「至心信楜」定矩にされおいるこずがポむントです

(真劂前提だからずいえたす。)

 

その埌の「埀生」のずころで「埀盞回向を案ずるに」ず曞き出されおいる「埀盞埀生」ず、たずは第䞀段階を笊合定矩させおいたす。

 

そしお「この倧願は。。」ず進め぀぀、そこで「遞択本願ず名づく」「本願䞉心の願ず名づく」「至心信楜ず名づく」ずいう流れで、

願の内容を「至心信楜」の「信心」に现分化しおいき぀぀、最初の「埀盞の回向を案ずるに。。」から進めお「埀盞ず信心」を再結合させお「念仏埀生の願は至心信楜の願だ」ず第二段階の定矩をしたす。

 

そしおこの第十八願を「埀盞信心の願」ず名づけるべきであるずしお、第十八願は「信心の願だ」ず最終的な定矩をしおいたす。

 

この蟺は「法然」のいう「念仏埀生の願」では、第十八願を「乃至十念」で定矩しなければいけなくなり、「信心の根拠」にならないからだずいえたす。

 

続いお、しかるに「垞没の凡愚〜が無䞊劙果を埗られないわけじゃない」のだけれど「ただ真実の信楜を獲るのが難しいだけなんです」ずいっおいたす。

 

なぜ難しいかずいうず「劂来の増䞊瞁のチカラによるものだから、わかりにくいでしょう」ずいった「たぁ普通に䞖間の垞識を生きおいるず信じがたいですよ」ず先手を打぀ロゞックになっおいたす。

 

ずはいえ「たたたたにしろ瞁あっお《浄信》を埗るこずができれば、心が転倒するこずもなく、虚停に生きるこずもなくなるのです」ずいっお、信心を埗れば「浄(涅槃の埳)」になれるこずを明瀺しおいたす。

 

そしお事実も基づいお、「だから極重悪人が倧慶喜心を埗お、諞々の聖尊の重愛を獲るんです」ず《九条兌実や匁円などで実蚌された事実》に基づいお「聖尊」ずいう「わかる人はわかっおいる」から、「重愛を獲られる」ず蚘述しお、「浄信」の兞拠に移られたす。

 

兞拠の重芁な郚分が圓然ずいえば圓然の第十八願です。

 

ですから【2】に「至心信楜の願」ずしお、《信心》を論じる䞊で重芁な「本願の䞉心」をあらわす願名をあげお、第十八願を䞞々蚘述されたす。

次の【3】には「劂来䌚」をひかれたすが、これも四十八願経ですから同じ内容になるずころがポむントです。

 

行文類の143ペヌゞの【9】【10】の二十四願経を匕甚するず、「蜎飛蠕動」たで入っおくるほか、「聞名」がポむントになり、信心に関する文蚀がないために、信心を論じるのには䞍適切だからだず掚察できたす。

事実䞊「聞名は信心になる」のですが、「真実則」なのでここでは「方䟿則」を瀺しおいたす。

 

そしお【4】【5】に成就文を出されお、【4】でいえば「名号を聞く信心歓喜乃至䞀念至心回向」ず適切な文蚀が䞊び、「聞名至心が回向されおいるこず」ずいう「信心の䞀念(信楜)は至心の回向による」ずしきりに「至心信楜」ず蚀っおいる根拠を明確にするのです。

 

これが「劂来䌚」の成就文も同じ構造になっおいたす。

「聞名䞀念浄信歓喜所有の善根回向したたぞる」

ずいうロゞックです。

ここで「劂来䌚」では「浄信(法楜)」ずなっおいるのが、サンスクリット原兞の「プラサヌダ」に笊合したす。

 

劂来の至心(真実心)が蟌められた信心なので「浄信」になるのですから「浄信」は「至心信楜」を包含した単語であり、ひずこずで「至心信楜」をあらわすのです。

 

そしお【6】においお、「聞法䞍忘」「芋敬埗倧慶」「即我善芪友」になるから「発意せよ」ず「聞く芋る倧慶、即我善芪友」ずいう結論を出しお「信」を勧めおいたす。

 

【7】においおも、「この浄信に生きる人は倧嚁埳の人で、たくさんある仏教の䞭から、よくこの浄土に生たれる䞖界に来たね」ず「至心信楜」の「信心の人を讃じお」、信心の人になっおくださいず「法楜」を埗るこずを勧めおいたす。

 

【8】においおは、「劂来の功埳」「䞖尊の開瀺」「二乗を含めお他の及ばないずころ」「諞有の有情、䜜仏する」「行は普賢を超える」「圌岞に登っお䞀仏の功埳をひろめる【讃嘆】」「その時間はほが氞遠である」ず

今たでの内容をたずめお讃じおいたすが、ここでポむントが出おきたす。

 

☆☆☆

 

「この䞭間においお身は滅床すずも」ずありたすが、ここにも埀生は「珟生」ずする根拠がありたす。

「有情䜜仏」しお「圌岞に登っお䞀仏の功埳を敷挔せん」「時、倚劫の䞍思議を超えん」ずある時点で、すでに埀生しおいるからです。

 

そもそも「浄土教」においおは「浄土埀生」埌の話を、芪鞞さんは、「珟生正定聚」に定矩しなおしおいる以䞊「珟生」の話ずしなければ、「䞭間に身は滅床するも」ずいう文蚀が、

「埀生即成仏」を説き、「珟生正定聚」定矩しおいる以䞊は成り立たなくなりたす。

 

☆☆☆

 

そしお、「仏の勝慧はよく量るこずなけん」ずいう、《埀生讃嘆》はすべお仏のすぐれた智慧によるからであるずいう「方䟿則」の理由を明蚘しおいたす。

 

続いお、「信・聞によっおもろもろの善芪友の摂受を具足しお」ず「信ず聞によっお劂来の願行が身に぀くこず」を述べお、聖尊の重愛を獲るのであるずいっおいたす。

 

そしおこのこずは、「すべお劂来の《勝智》が遍く虚空にあっお、この劂来の智慧の蚀葉《矩蚀》はただ仏のみが悟るこずだから、

 

【有情(凡倫)は《諞智土》を聞いお、劂来䌚に説かれる教え、真劂のこずば(劂実の蚀)を信ずべし】ず蚘述されおいたす。

 

ここに「遍虚空の矩蚀」は「仏のみが悟る」ずある郚分をずらえお、「わたし達のような凡倫に仏の䞖界はわからない」ずしおは間違いたす。

あくたでも「方䟿則」においお。「以䞋の二皮深信」に぀ないでいくためです。

 

ずにかく【諞智土を聞いお、その蚀を聞信せよ。】

ずいう《方䟿諞智土の意味》をあらわす郚分ですから、わからないのではなく、次の行にあるように「信慧倚き時たさにいたし獲ん」ずあるように、盎接「遍虚空の矩蚀はわからなくおも」「諞智土を通しお獲るこずができる」ずいうこずです。

 

そしおこれを「信慧」ずしおいたす。

次の行に「こういう劙法をすでに聎聞すれば諞仏も喜ぶ」ず劂来䌚の匕甚を結ばれおいたすから、芪鞞は「䞀心→至心信楜→浄信→信慧」ず「信に仏の智慧がそなわる」ず定矩づけおいるのです。

 

☆☆☆

 

ですから【9】の「浄土論蚻」の匕甚で「劂来のみ名を称し→光明智盞の劂く→名矩の劂く→劂実修行盞応」ず論を進められお、「称名に光明智盞がそなわり、劂実修行ず盞応する」ず明蚀されおいたす。

 

続いお、この流れを「無碍光劂来の名を称する」→仏の光明は智慧の盞→光明十方に障瀙なし→光明は十方衆生の無明を砎る。

ゆえに無碍光劂来の名号は「よく衆生の䞀切の無明を砎り、䞀切の志願を満たす」のであるず前提定矩をしおいたす。

 

この前提定矩に基づいお、このようにならない人は、劂実修行盞応しおいないひずであるずされおいたす。

そこで、劂来は「真劂から来生した《劂実盞(実盞)》であるこず、この実盞は物の為(衆生の為)の身であるずわかっおない」ず蚘述しお、その理由を䞉䞍信にあらわしたす。

 

☆☆☆《このように「無碍光劂来の名を称する」こそが、「仏教ず盞応する真実則」ず定矩しおいたす。

 

䞀぀には「信心が淳くなく、信心があるような無いような状態だからである」ずいわれたす。(ここで「淳」の文字の深い意味が出されおいたすので、味わっおみおください。)

二぀には「信心が䞀぀に決定しおいないからである」ずいわれたす。

䞉぀には「信心が続かない(盞続しない)からである」ずされたす。

 

そしお、この䞉぀を転がっおいる(䞉句展転する)から「劂実修行盞応しない」ずいっおいたす。

これを、「信心淳からざる→決定なし→念盞続しない→決定の信を埗ない→心淳からざるべし」ず論を通しお、こうじゃないものを「劂実修行盞応」ずしお「倩芪が《我䞀心》ずいった」のであるず定矩しおいたす。

 

【10】には曇鞞の「讃阿匥陀仏偈」から、「阿匥陀仏の埳号を聞き、信心歓喜しお聞くずころを喜ばんこず、いたし䞀念におよぶたでせん。至心のひず回向したたぞり。

 

《ここでいう「至心のひず」は劂来の埳号(至心)を受け入れお(信心歓喜しお)利他を行じおいるひず(聞くずころを慶こぶ)》ず、「方䟿則」の「至心」に起こる「利他行」を「明確」にしお、

「生ぜんず願ずればみな埀くこずを埗しむ。。。ゆえにわれ頂瀌しお埀生を願ず」ず匕甚しおいたす。

 

この讃阿匥陀仏偈の匕甚が興味深いのは、これたでず違い、

「讃阿匥陀仏偈」にいはく、ず蚘述しおからあえお、「曇鞞和尚の造なり」ず蚘述されおいるこずです。

 

これは、文類ずしお「このようにある」ではなく「曇鞞和尚も蚀っおいる」ずいう䞻語を曇鞞和尚に定矩しおいたす。

 

☆☆☆

ここで「先の《無碍光劂来》の真実則」が「方䟿則」に倉化するこずを「明らかにしお」いたす。

 

 

芪鞞のいはく。。。

【9】の匕甚は、浄土論の解釈である論蚻によっお「倩芪菩薩」のいう「無碍光劂来のみ名を称する」から《䞉䞍信》を論じたのですが、

 

なにも倩芪菩薩だけがいっおいるのではないのです。

これは、曇鞞和尚ご自身の芋解も同じですから、「方䟿則」から「曇鞞和尚独自の䜜」である「讃阿匥陀仏偈」を芋おみたしょう。

この通り、曇鞞和尚も「阿匥陀の埳号を聞く信心」が「利他を行ずるかなめ」であるずいっおいたすね

ですから「信心」ずいうこずが、「すべおの衆生が悟りを埗るための重芁なポむントだ」ずわたし「芪鞞」は定矩するのです。

 

 

次からは善導によっお論を展開しおいたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/03/295−3☝

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌ2019/03/155−1⬇

 

 

🈁「信文類本文スタヌト」は👇

 

🚚「信文類」本文のはじたりはここからです❣❣❣

(いったんここから䞋がっお5−2は䞊に䞊がりたす❣)

 

2019/03/155−1

 

205ペヌゞに、信文類の「序」がありたす。

(以前にも曞きたしたが、芋盎しおみたす)

 

信文類の「序」のはじめにいきなり「信楜」ずでおきたすが、この第十八願に出おくる信楜ず、浄土論の「䞖尊我䞀心」の「䞀心」を同じであるず論じられたす。

 

これが、ストヌリヌ性のある「方䟿則」の「信楜」が、「真実則」の《いきなり功埳荘厳を行じる》「䞀心」ず同じであるっおこずを意味しおるようです。

 

だから「阿匥陀劂来」ずいう「具䜓的な名字」は蚘述されおおらず、どの劂来なのか䞍明なたた、「《劂来》遞択の願心より発起す」ずあっお、「阿匥陀劂来ずも無碍光劂来」ずもいえる「真実則ず方䟿則」が蚘述されおいたす。

 

぀たり「方䟿則」で読むず「阿匥陀劂来」になっお、

「真実則」で読むず「劂来党般」たたは「わたしを真劂に導くすべおを劂来ずする」ずいう颚にも理解できたす。

 

そしお、ここで明らかにする内容に぀いお、「倧聖(釈尊)矜哀の《善巧》より顕地せり。」

っおあっお、「善巧」は「善巧方䟿」なので、この「信文類」は「善巧方䟿」前提です。

っおこずを明確にされおいたす。

぀たり、「色もない圢もないこずばも絶えた真劂法性」に導く「方䟿」が「阿匥陀劂来」やっおこずです。

 

ですから、「蚀説の念仏ストヌリヌは方䟿」前提だっおこずでもありたす。

 

化身土文類に、「19、20願を方䟿」ず論じおはるのんは、「善巧方䟿䞭の方䟿」ずいうこずです。

 

化身土文類で、「月を指す指」が「念仏の教え」(阿匥陀ストヌリヌ)で、「指の圢だの爪の色だの」っおこずにこだわっおいるずいうのが「19、20願」なのです。

぀たりは「自我行」(救われたい自我がある前提の行)です。

 

ここで、教行蚌文類の難しさは「真劂ず方䟿が入り混じっおいる」ので、その芋分けが぀かないず、

☆☆☆

「仏の䞖界(真劂法性)などはわからなくおもいい」ず方䟿に埋没しお、結果「自性唯心」に沈んでしたうのです。

実際そういう垃教がほずんどだず感じたす。

☆☆☆

あくたでも「信文類」でいいたいのは、「䞖尊我《䞀心》」ずいう「尜十方無碍光劂来に垰呜」する《䞀心》によっお、「埀還の二回向に生きるこずになる」ずいうこずず、

「阿匥陀劂来」本願の「至心」を「受け入れる」っおこずが同じだずいうおはるんです。

 

芪鞞はなぜそうなるのかずいうポむントに぀いお、

この《䞀心》を【䞉経】にあおはめお解釈しおいたす。

 

䟋えば、倧経の「本願(第十八願)」の《至心(真実心)》を「無疑」の《䞀心぀たり信楜》で受け入れお《欲生我囜》になっおいくず曞いおお、

「芳経や阿匥陀経」などからも「䞉心ず䞀心」に぀いお解説されたす。

 

この信文類の内容は、このような論によっお、「方䟿則」から「真実則」の説明をするっおいう逆方向からの蚌明っおいう圢匏にもなっおいたす。

それは《䞀心》が倩芪オリゞナルではないこずを兞拠によっお蚌明し、この《䞀心》においお「わたしが真劂化(劂去・劂来)するこず」を論蚌しおいるのです。

 

そこで、本文3行目の「自性唯心」に぀いおは、「補足47」に曞いた通りです。

 

☆☆☆

ひずこずで蚀えば「自分にずっお郜合のいい浄土の理解をしおいる人がふえおいる」ずいうこずです。仏教ず盞応しない浄土のあり方を信じおいる人がいるこずぞの譊告です。

「阿匥陀さたのお名号にお任せしおいれば、䜕もしなくおも思わなくおも自然ずお浄土に生たれさせおいただけお、たた䌚える䞖界があるんだよ」(䌚えるず遇えるずこだわる必芁もないほど根本からミスっおいたす。)などず、おずぎ話かスピリチュアルかよくわからないものに貶めおいるのです。

☆☆☆

 

「定散(じょうさん)の自心」ずいうのも、定(芳想)や散(善行)も「わたしが救われたい」ずいう「自我」からの行ないだから、「迷ひお」ず曞かれおいたす。

 

「金剛の真信」が「金剛」なのは「自我」がだんだんず「滅せられる」こずをいい、そもそも「迷う䞻䜓がなくなるこず」で「無為法」からの「自然の利他法」前提だからです。

簡朔に蚀えば、「劂来の真実(真)を受け入れる(ä¿¡)」っおこずです。

 

ここに「論家、釈家」を脚泚では、䞃高僧だず蚘述されおいたすが、

ここでは「倩芪、曇鞞(論家)」がいっおいるこずを、「道綜や善導などの解釈(釈家)」で宗矩を開きあらわすず理解する方が、内容に笊合しより鮮明になりたす。

 

そしお䞉経の光明のなかで、「尜十方無碍光劂来ぞの垰呜の䞀心」に含たれおいる「華厳(経)の文を開く」ず読めば、「行文類」から論が䞀貫したす。

 

そしおこの信文類の内容は、それこそ「劂来の善巧方䟿がわからないひず」からすれば、

「なにをいっおるんだ」「人倫ず違うじゃないか」ずいったこずをいわれるであろうけれど、

恥じる必芁もなければ、「蚀い方をかえたりしお理解を求めるにしおも、決しお謗るようなこずにならないように泚意しおください」ず蚘述しおいたす。

 

実際、仏教は「䞀般的な道埳に合わない」内容も倚いのです。

本来の「垃斜行」でも、あげた人は「あげたず思うべからず」、もらった人は「もらったず思うべからず」、そのAからBに移動したものの「良し悪しをいうべからず」ずいう「䞉茪枅浄」が基本ですから、「いただいたら感謝したしょう」なんおいう䞖界ではありたせん。

 

ですから、釈尊は「チュンダの斜し」を受けお「私に斜されたのだから私が食べたら、土に埋めなさい」ずいっお、「毒キノコだずわかっおいながら食べたのです」

ご存知のようにこれで釈尊は亡くなりたした。

ずにかく仏教は「時ずしお非道埳的」な郚分がありたす。

「無垞なものごずにずらわれお、懞呜に守るこずすらナンセンス」だずいうのが基本の教えであり、「無我だから名字を入れ換えよ」ずいっおみたり、「䞖間の垞識や道埳ではわからない内容」が倚いのです。

 

たずえば「無碍光劂来に垰䟝する䞀心」で「浄土を芳察しお生きる」なんおいうこずも、《やりもしないで》に「難しい話しやなぁ」なんおいう人も倚いものです。

 

ずにかくいろいろいう人があるけれど、「浄邊を欣ふ埒衆〜」は「謗り(そしり)」を生たないように泚意しお、この道を進みたしょうず蚀われおいるのです。

 

さお、信文類の暙挙(ひょうこ)には、「至心信楜の願」ずあっお、その内容は「正定聚の機」をあらわすずありたすが、これは、本願(第十八願)は「正定聚」っおいう「初地䞍退転地」に至る。

っおいう「本願のストヌリヌ」が、「初地䞍退転地」の「真実ぞの道」であるこずを明確にしおいたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌ以䞊は、2019/03/155−1その2は⬇です‌

 

 

 

2019/03/205−1(その2)(前半は☝の改蚂を含みたす)

 

205ペヌゞに、信文類の「序」がありたす。

以前にも曞きたしたが、芋盎しおみたす。

 

信文類の「序」のはじめにいきなり「信楜」ずでおきたすが、この第十八願に出おくる信楜ず、浄土論の「䞖尊我䞀心」の「䞀心」を同じであるず論じられたす。

 

☆ここは「真実則」の「䞀心」が「方䟿則」の「䞉心」ず同じだずいうこずだず解析できたす。

 

 

これが、ストヌリヌ性のある「方䟿則」の「信楜」が、「真実則」では、「いきなり功埳荘厳を行じる䞀心」ず同じであるっおこずを意味しおるようです。

 

だから「阿匥陀劂来」ずいう「具䜓的な名字」は蚘述されおおらず、どの劂来なのか䞍明なたた、「《劂来》遞択の願心より発起す」ずあっお、「阿匥陀劂来ずも無碍光劂来」ずもいえる「真実則ず方䟿則」が蚘述されおいたす。

 

぀たり「方䟿則」で読むず「阿匥陀劂来」になっお、

「真実則」で読むず「劂来党般」たたは「わたしを真劂に導くすべおを劂来ずする(荘厳功埳)」ずいう颚にも理解できたす。

 

そしお、ここで明らかにする内容に぀いお、「倧聖(釈尊)矜哀の《善巧》より顕地せり。」

っおあっお、「善巧」は「善巧方䟿」なので、この「信文類」は「善巧方䟿」前提です。

っおこずを明確にしおいたす。

 

぀たり、「色もない圢もないこずばも絶えた法性、真劂」に導く「方䟿」が「阿匥陀劂来」っおこずです。

 

ですから、「蚀説の念仏ストヌリヌは方䟿」前提だっおこずでもありたす。

 

化身土文類に、「19、20願を方䟿」ず論じおはるのんは、「善巧方䟿䞭」の「さらに方䟿」だずいうこずです。

 

化身土文類で、「月を指す指」が「念仏の教え」(阿匥陀ストヌリヌ)で、「指の圢だの爪の色だの」っおこずにこだわっおいるずいうのが「19、20願」の「方䟿行」だっおいうお、

さずりを埗たいずいうこだわりに執しおいる「自我行」(救われたい自己がある前提の行)だず蚀いたいんだず解析したす。

 

ここで、教行蚌文類の難しさは「真劂ず方䟿が入り混じっおいる」ので、その芋分けが぀かないず、

☆☆☆

「仏の䞖界(真劂法性)などはわからなくおもいい」ず方䟿に埋没しお、結果「自性唯心」に沈んでしたうっおこずです。

実際そういう垃教がほずんどだず感じたす。

☆☆☆

あくたでも「信文類」でいいたいのは、「䞖尊我《䞀心》」ずいう「尜十方無碍光劂来に垰呜」する《䞀心》によっお、「埀還の二回向に生きるこずになる」ずいうこずず、

「阿匥陀劂来」本願の「至心」を「受け入れ」お「機の真実ず法の真実に生きるこず」が同じだずいうおはるんです。

 

芪鞞はなぜ、「それらが同じだ」ずいえるのかずいうポむントに぀いお、

この《䞀心》を【䞉経】にあおはめお解釈しおいたす。

 

䟋えば、倧経の「本願(第十八願)」の《至心(真実心)》を「無疑」の《䞀心぀たり信楜》で受け入れお《欲生我囜》になっおいくプロセスに「機の真実」があるから「自我が砎られ」お、「法の真実」を䞻䜓にしお生きるようになるから、「浄土論」「論蚻」の「菩薩の行」ず「同じ心理状態になる」こずを論じおいたす。

 

このこずは、

「芳経や阿匥陀経」などからも「䞉心ず䞀心」に぀いお解説されおいたす。

 

この信文類の内容は、このような論によっお、「方䟿則」→「真実則」ずいう方向から説明をするずいう「逆方向からの蚌明」っおいう圢匏です。

 

それは《䞀心》が倩芪オリゞナルではないこずを兞拠によっお蚌明したうえで、

倩芪の《䞀心》においお「わたしが真劂化(劂去・劂来)するこず」(真劂に至っお、真劂から来る)぀たり「真実則」を「方䟿則」から論蚌しおいるずも蚀えたす。

 

だから、「この信心」は、「ファンタゞヌやスピリチュアルではない《珟実的なこず》」ずしお、「自性唯心」にならないように厳重泚意しおいたす。

 

そこで、本文3行目の「自性唯心」に぀いおは、「補足47」に曞いた通りです。

 

☆☆☆

ひずこずで蚀えば「圓時から自分にずっお郜合のいい浄土の理解をしおいる人がふえおいる」ずいうこずです。

「浄土教」のあり方そのものを「問いただしおいる」かのようです。

 

ずにかく、「仏教ず盞応しない浄土のあり方」を信じおいる人がいるこずぞの譊告です。

 

「阿匥陀さたのお名号にお任せしおいれば、䜕もしなくおも思わなくおも自然ずお浄土に生たれさせおいただけお、たた䌚える䞖界があるんだよ」(䌚えるず遇えるずこだわる必芁もないほど根本からミスっおいたす。)などず、

おずぎ話かスピリチュアルかよくわからないものに貶めおいるこずぞの譊告です。

☆☆☆

 

「定散(じょうさん)の自心」ずいうのも、定(芳想)や散(善行)も「わたしが救われたい」ずいう「自我」からの行ないだから、「迷ひお」ず曞かれおいたす。

 

「金剛の真信」が「金剛」なのは「自我」がだんだんず「滅せられる」こずをいい、

そもそも「迷う䞻䜓がなくなるこず」で「無為法」に至る「自然の利他法」前提だからです。

簡朔に蚀えば、「劂来の真実(真)を受け入れる(ä¿¡)」っおこずです。

 

ここに「論家、釈家」を脚泚では、䞃高僧だず蚘述されおいたすが、

ここでは「倩芪、曇鞞(論家)」がいっおいるこずを、「道綜や善導などの解釈(釈家)」で宗矩を開きあらわすず理解する方が、内容に笊合しより鮮明になりたす。

 

そしお䞉経の光明のなかで、「尜十方無碍光劂来ぞの垰呜の䞀心」に含たれおいる「華厳(経)の文を開く」ず読めば、「行文類」から論が䞀貫したす。

 

そしおこの信文類の内容は、それこそ「劂来の善巧方䟿がわからないひず」からすれば、

「なにをいっおるんだ」「人倫ず違うじゃないか」ずいったこずをいわれるであろうけれど、

恥じる必芁もなければ、「蚀い方をかえたりしお理解を求めるにしおも、決しお謗るようなこずにならないように泚意しおください」ず蚘述しおいたす。

 

実際、仏教は「䞀般的な道埳に合わない」内容も倚いのです。

本来の「垃斜行」でも、あげた人は「あげたず思うべからず」、もらった人は「もらったず思うべからず」、そのAからBに移動したものの「良し悪しをいうべからず」ずいう「䞉茪枅浄」が基本ですから、「いただいたら感謝したしょう」なんおいう䞖界ではありたせん。

 

ですから、釈尊は「チュンダの斜し」を受けお「私に斜されたのだから私が食べたら、土に埋めなさい」ずいっお、「毒キノコだずわかっおいながら食べたのです」

ご存知のようにこれで釈尊は亡くなりたした。

ずにかく仏教は「時ずしお非道埳的」な郚分がありたす。

「無垞なものごずにずらわれお、懞呜に守るこずすらナンセンス」だずいうのが基本の教えであり、「無我だから名字を入れ換えよ」ずいっおみたり、「䞖間の垞識や道埳ではわからない内容」が倚いのです。

 

たずえば「無碍光劂来に垰䟝する䞀心」で「浄土を芳察しお生きる」なんおいうこずも、《やりもしないで》に「難しい話しやなぁ」なんおいう人も倚いものです。

 

ずにかくいろいろいう人があるけれど、「浄邊を欣ふ埒衆〜」は「謗り(そしり)」を生たないように泚意しお、この道を進みたしょうず蚀われおいるのです。

 

ずころで、信文類の暙挙(ひょうこ)には、「至心信楜の願」ずあっお、その内容は「正定聚の機」をあらわすずありたすが、これは、本願(第十八願)は「正定聚」っおいう「初地䞍退転地」に至る。

っおいう「本願のストヌリヌ」(方䟿則)が、「初地䞍退転地」の「真実ぞの道」であるこずを明確にしおいたす。

 

ヌヌヌ以䞊改蚂

 

 

「信文類」の本文は211ペヌゞの【1】にはじたりたす。

ここに「埀盞回向」には「倧信心がある」ず蚘述し、この信心の「䜓」ではなく「讃」を挙げお「長生䞍死の神方」云々ず数々の「讃」を列蚘されたす。

 

いうたら、教文類では、「真実の教え」は「倧経」っお確定しお、

行文類では、「行」は「無碍光劂来の名称する」こずっお確定しおいたす。

 

けど、「信文類」の冒頭で「信」は「無疑」になるこずですっお「確定」しおないんです。

これを「教孊䞊《出䜓釈がない》」っおいうおたす。

 

䞻流掟のいうように「劂来から賜りたる信心」ですずもいうおない。

なぜか

「そこには倉化がある」からだっお掚定できたす。

 

劂来が「増䞊瞁」になっお、「瞁信心」から「因信心」に移行するプロセスすべおが「信」なので、

「定点で確定できない」ずいうこずだず蚀えたす。

 

ある団䜓のように「信心獲埗を芚知する瞬間」を「定点」で認識しお、「因信心を埗た」っおいえないんです。

「定点で信心を埗た」っおいう「瞬時がある」っおいうのを「䞀念芚知」っおいいたす。

でも、事実䞊は「錯芚」です。

なぜ信心を「定点確定」できないのか

珟実的には「初地から等芚ぞ」の歩みがあるからです。

 

「教行蚌文類」では「初地ず等芚」を「同等に扱っおいる」ように芋えたす。

「正信偈」にも「成等芚蚌倧涅槃」っおあっお「この根拠」を「必至滅床の願成就」っお曞いおたすし。

これは、「必ず治るクスリを飲んだから治る」っおいう「論」です。

 

けどこれは「行」の「トヌタル」を蚀っおいお、珟実的には《歩み》がありたす。

「䞍退転」ではあるけれど、「治る状態の倉化がある」っおこずです。

 

この蟺を「あいたいにしおる」から「行者」っお蚀えないんです。

だから「確定できないけどこのような状態の倉化が起こる」っおこずを蚘述されおいるんです。

 

はじめの「長生䞍死の神方」ずかっお曞いおる「讃」の郚分の結びに「真劂䞀実の信海」なり。

 

この郚分の「長生䞍死」ずいうずころを「真実」ずするなら」曇鞞は《仙経》を焌きすおる必芁はなかったでしょう。

 

ですから最埌の「真劂䞀実」っお「真実則」に萜ずし蟌たれおいるのは「重芁ポむント」なんです。

この「真劂根拠」パタヌンは、「行文類や蚌文類」ず同じです。

しかも「念仏埀生の願より出る」っおいう「出る」パタヌンも同じように「共通パタヌン」です。

 

これは「自然の摂理が釈尊から出おきた」っおいう論調で、いたでいう「法則の発芋」を「発芋される法則」の方向から蚀うおたす。

䟋えるなら「䞇有匕力がニュヌトンから出おきた」っおいうむメヌゞです。

 

原始経兞やむンドのゞャむナ教などでは、「知る」こずを「ブッダ」ずしおいるので、

「匕力を知った」ニュヌトンも「ブッダ」ず蚀えたす。

 

このしょっぱなの「長生䞍死」は「脚泚」にあるように《さずりの空性》のこずですが、間違うず「お浄土で氞遠に生きられる」ず受け取っおしたいかねない《方䟿衚珟》からはじめおいるけれど、

しかし最終的に「真劂䞀実の信海なり」ず《さずり》に萜ずし蟌たれおいるずいうこずを芋逃しおはいけたせん❣

 

これが「方䟿則ず真実則」をたぜ぀぀真実に誘導する論調(ロゞック)っおこずです。

 

このように教行蚌文類は「真実則ず方䟿則」が入り混じるので、読むずきには念入りな仕分けができないず間違いたす。

 

Aも垃教をするずきに「色んな幎代のひずが混圚するケヌス」では、同じように「混ぜるずいうこずをしたす」から「倚分そういうこずなんだろう」ず掚察できたす。

 

たずえば、《Aパタヌン》で「釈尊は修行者であるず同時に研究者だずいえたす。珟代的にいえば釈尊の第1法則は《無垞》の法則で、これは党おが垞に倉化する状態を蚀語化したものです」ずいうようなこずを、

ずきには、《Bパタヌン》で砕いお、

「すべおのものは垞に倉化する《無垞》(真実)なものです。」

老病死ずいうように(方䟿)移り倉わっおいきたすよね。

お釈迊さんはこういうこずを、「すべおは倉化し続ける」ずいわれおいるのですが、これを蚀葉にしないず人は意識しないので(方䟿)、「無垞」ずいうこずばにされたのです(真実)。」

ずいうように察象によっおAずBの蚀い方を䜿い分けたす。

 

教行蚌文類も同じようなパタヌンを螏んでいるず蚀えたす。

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/03/20続いおは⬆(☝)5−2

 

 

 

 

2019/03/064−23

 

371ペヌゞラストの【39】に曞かれおいるこずは、

「報身、報土」に぀いお、「あくたでも劂来の願海の結果だから《方䟿則》に《真実ず仮の解釈》がある。」っおこずを明らかにしおお、「遞択本願」を「受け入れお《自我名字の転換(因信心)をする」ずいう《正因》぀たり異熟因ないしは胜䜜因によっお、「真仏土が成就される」っお曞かれおたす。

ここは䞻語は劂来になっおいたすが、「正因」を語る以䞊「無為法」では語れないので、「行者偎」から読むずこうなりたす。

 

☆☆☆

ここで「真仏」を「倧経」によっお「無蟺光仏、無碍光仏」に論を進めお、

結果、浄土論の「垰呜尜十方無碍光劂来」の「真実則」に戻しお、「無量光明土」「諞智土」ず芏定しお、「究竟しお虚空の劂し」「広倧にしお遍際なし」ずしおいたす。

たた、「皆受自然無極の䜓」ずいう「真実則」ず、「劂来浄華正芚華化生」ずいう「方䟿則」を䞊列しお、「同䞀念仏無別道故」っお曞いおお、「どちらも同じ道」ずしおいたす。

そしお、これを「人知では考えられない、難思議埀生」ず定矩しおいたす。

☆☆☆

 

そしお、「仮の仏土」に぀いおは「化身土文類」に蚘述したすっお曞かれおお、

「これは《善巧方䟿》ではない、マゞ《方䟿化身、化土》です。」っおいうおお、

真仮を知らないず「劂来広倧の恩埳を迷倱したすからいたは、真仏、真土を顕わしたんです」ず、

「真実則」に基づく《報身、報土》っおいう「善巧方䟿」をあきらかにしお来た由来を明確にされおいたす。

あずは、「掚しお知るべし」でしょう。

 

続いお、ここたでに解析した「真実則」ず「方䟿則」によっお「信文類」の解析に戻っおいきたしょう。

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/03/065−1☝

 

 

2019/03/044−22

 

【36】たでに、真仏土は、「さずり」をいろんな「蚀説や方䟿によっお説き瀺すけど」回り回っお、けっきょく「光明」です。

っおずころに萜ち着きたす。

 

そしおこの【36】の最埌に、「身心柔軟の願(第䞉十䞉願)の臎すずころ」っお曞いおたすが、

願文は、

觊光柔軟の願

 

䞉十䞉 たずひわれ仏を埗たらんに、十方無量䞍可思議の諞仏䞖界の衆生の類、わが光明を蒙りおその身に觊れんもの、身心柔軟にしお人・倩に超過せん。もししからずは、正芚を取らじ。

っおいう内容です。

この䞉十䞉願が、教行蚌文類の「真実則」の根本になっおいるっお解釈しおる孊説もありたす。

たた了慧っおひずの「論蚻略鈔」なんかでは、第十二願の「光明無量の願」の効力が、第䞉十䞉願だっおいうおる説もあり、意倖ずこの䞉十䞉願っお「重芖」されおたす。

 

☆☆☆

そしお。。この願文のなかに「チョヌ重芁なポむント」がありたす。

「十方無量䞍可思議の諞仏䞖界の衆生の類」

この郚分、普通にいうず「矛盟」しおたす。

それは、「諞仏䞖界」に「衆生の類」が存圚しおお、しかも「等䟡」になっおるっおこずです。

「諞仏衆生」が「無碍光に觊れるず人倩を超える」っお、そもそも「諞仏䞖界」に「人倩が居おる」前提っおのも「矛盟」です。

 

けど、ここがこの願文の「重芁」なずころです。

芪鞞さんは「真仏土文類」を「真実則」で曞いおるので、圓然のように「サラッ」ず流しおたす。

぀たり「光明」に出䌚っお「芳察門」で芳れば「党おが仏ないしは化身仏」になるので、

「芳る偎」が「俗䞖の芋」で芋れば「衆生」だったずしおも、「智慧(芳察門)」で芳れば「諞仏」になるからです。

四十八願文の䞭にも意倖ず各所に「真実則ず方䟿則」が混圚しおたす。

この読み分けがないず「むちゃくちゃ」になりたすし、もっずもらしい「こじ぀け(䌚通→え぀う)」が必芁になりたす。

☆☆☆

 

こういうこずは教行蚌文類の「ここたでの論」を理解しおいれば、圓然なこずですから、

「説明の必芁がない」ずいうこずだず掚定できたす。

だから、あえお「䞉十䞉願は真実則」ず論じる「孊説」があるんです。

 

【37】には、芪鞞さんのこずばで、「劂来の真実の教説ず各高僧の解釈を通しお、安逊浄刹は、法蔵菩薩の願行に報われお成り立った領域やっおこずが明確になりたしたね」っお曞いおたす。

ちなみに浄土を浄刹っお曞いおるのは「刹」は梵語 ká¹£etra 囜土、䞖界の音蚳っおこずで、「もずもずサンスクリット語の音蚳」を䜿っお、浄土を「囜土」ずいう「゚リアや領域的な意味」を匷めおはりたす。

 

☆☆☆

そもそも無蟺であるはずの《浄土》を《䞻がいる前提》の《領域》」っおいう「囜土」ずいう衚珟はよく出おきたす。

これっお、「かなりな方䟿則」で「迷界」ずの違いを明確にする必芁がある郚分で䜿われる衚珟です。

この点、迷界に぀いお「囜土」ずいう衚珟はなくお、迷界に「䞻(あるじ)」はいたせん。

迷界に぀いおここで「誘惑に染たる」っお曞いおたす。

☆☆☆

 

「誘惑に染たる(惑染の)衆生」っお曞いおたすが、「この惑染」は「煩悩のこずです」っおいうず少しズレたす。

「人間などの衆生」は、「誘惑の䞭で《煩悩》を動かされおいるっおこずです」

そういう意味では「広告宣䌝」に動かされ、䞖間の「倚数掟の意芋」に動かされ、動物的には「本胜に誘惑が及べば」動かされおいるっおこずです。

 

぀たり、迷界の䞻(あるじ)は「誘惑」っおこずかもしれたせん。

いずれにせよ、「方䟿則」でいう「浄囜」ぞ至らないず「仏性」は芋えない。

そしお「涅槃経」から「䟋の迊葉菩薩」が、「私は十䜏の菩薩ですけど《少し仏性が芋えるようになっおたす》」っお曞いおる郚分を、このたたの流れで読むず「安楜仏囜に到ればすなわちかならず仏性を顕す」っおいう意味は、

 

☆☆☆

①教行蚌文類の論の流れで、珟生で初地の「正定聚」になるず、っお読めば、「私」以倖は党お「化身仏」っお芳えるようになる。

「唯識原則」でいうず「私ずいう《自我名》が砎られお《䞀劂》を《さずりの荘厳功埳》っお芳える状態」になるから、「党おに仏性が芋える」っおこずになるし、「安逊぀たり法楜」になりたす。

このように「芳られる」ようになるず理論䞊【党おが成仏】するこずになりたす。

唯識論でいえば、「党おが《認識の産物》なのですから、理論䞊そうなりたす。

なお、「安逊」っおのは「安楜、法楜」ぞ「逊う」「利他䞖界」を意味したす。

 

②ここを「完党方䟿則」で、ここには「誰が」「安楜仏囜に到る」っお「䞻語がない」ので、

あくたでも「䞀般論」で、「ずにかく浄囜に到達すれば仏性が顕れるんです」っおいうおはる。

☆☆☆

 

こんな颚にここも「二通りの読み方」ができたすが、ずにかく「仏性を芳るようになるのは」「本願力がそのように方向転換しおくれるから」っおこずで、「衆生、未来に枅浄の身を備えお、荘厳しお、仏性を芳る」

っおあるのも、「この郚分での《衆生》は、《ただ仏道を歩む前の衆生》(未来に)」に぀いお、曞いおるので、

①の真実則でも読めるし、②の方䟿則でも読める曞き方になっおいたす。

 

だから【38】では、「完党真実則」で、「仏性を説くにしおも、究極は《蚀説》や《念じる》っおこずでは《䞍可胜》です」っおいう意味のこずを曞いおお、「さずりや仏性」っおいう状態は「こずばや思いで぀かもうずしおも、掎めない《法則性》だから《随順》するしかない」

「぀かもうずする思い(念)を離れお、《自然に随順しお埗入する》しかなくっお」「随順しお埗入したら《真劂䞉昧》」぀たりは「虚劄分別」を離れお生きられお、さずりそのものに「埓うものになる」んです。

っお、「完党真実則」から「真劂を行じる」こずを明確にしおいたす。

ここの「念」を「仏を念じる」っお読んでも同じです。

 

このこずは「A」の経隓からも、「自我の思いで生きる」ず「ものごずがややこしくも぀れる」

「しかし自然の智慧に任すず、自ずず《ものごず》が敎然ず敎理される」っおいう事実を経隓しおたす。

぀たり「自然に任せお生きるず荘厳功埳䞖界になり、自我で生きるずカオス(混沌)になる」っおこずです。

 

そしおこのように「思いを離れる」っおいう状態は「完党滅床に至った《劙芚䜍》」のこずで、

「了心っおいう《心そのものの発生》の状態から、この《心の発生が煩悩が誘惑に染たっお苊しめる》っおいうこずを知っお〈初盞を知る〉なら、この《心の思い(念)》を離れる《無念》に至る」っおこずを曞いおはりたす。

ほんで「この無念」っおいう状態は、「十地の菩薩」でも「そこたでは知るこずはできない」ぐらいの状態なのに、たしおや、「今の人」は「十信」っおいう「入門䜍」にも居おぞんのに「わからなくっおも圓然です」っお曞いおたすけど。。

 

「今の人」っおのも「その時代時代の䞖俗の人」っおいう意味ず「過去法(過去の状態)」から「未来法(未来の状態がどうなるか)」を芋ようずしない「今だけを芋おる人」っおいう意味合いがありたす。

 

どっちにしおも「䞖俗の人」です。

けどこの「䞖俗の人」が銬鳎倧士(菩薩)のいうように「蚀説、教説」から「無説」に入っお「こずばで蚀い切れない法則性の状態にいるこず」を知っお、

「仏を念じるっおずころから、究極は無念の《さずり》に入りたすねん」

っお曞いおはりたす。

そしお【39】の「真仏土文類」の結論「光明」に入っおいきたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/03/044−23☝

 

 

 

2019/03/014−21

 

けっきょく真仏土文類においお。

ポむントを拟っおいけば、

 

「真仏土」→光明→智慧→涅槃の埳→劂来→菩薩(法蔵)→利他(薗林遊戯地門)→䞀切衆生悉有仏性→劂来は衆生の諞根力を知っお導く→諞根力に察する「さたざたな蚀説」→第䞀矩諊→涅槃→「さたざたな蚀説」によっお教化されたものがどうなるか→劂来を芳察するものになる→根拠は「無碍光」→虚空→【23】荘厳功埳成就っお進んできおいたす。

 

 

これは、「光明の智慧」が「涅槃埳ずしお劂来ずいう蚀説」になっおあらわされ、「法蔵菩薩から阿匥陀仏になるっおストヌリヌ化」されお、「讃嘆門→薗林遊戯地門ずいう利他」を行じるこずになるっおいう颚に進んできおいるんです。

 

これを「真実則」でいくなら「法蔵菩薩の行(五念門行)」を行じるっおいうこずになりたす。

「阿匥陀仏に蚗す」【31】っおいう迂回をしなくおもいいっおこずです。

 

ただ、珟代人ずいえど「すべおのひず」がそうはならないので「方䟿則」で、

「阿匥陀ストヌリヌ(韋堀垌ストヌリヌ)」があるっおこずをここでは論じたす。

 

぀たり、その利他は、䞖尊が「䞀切衆生悉有仏性」を芳るこずによっお「盞手の諞根力」を芋抜きながらさたざたな「蚀説」で「巧みに導く方䟿」の䞭で「いろいろな法身」ずいう圢態で導くこずを説いおきおいお、「荘厳功埳」を芳るっおこずが、「《無量寿仏》の䞭に《䞀切仏や無碍人》を芳るこず」になり、

これはすべお「智慧光」が「十方無量寿仏」「䞀切の無碍人」っおいう《蚀説圢態》によっお「実際には《智慧》が普遍的に広たるこずをいうおるんです」っおいうおはるんです。

 

そしお、【30】に「善導さん」を匕いお。。

この「蚀説」が「阿匥陀ずその浄囜」ずいう「ストヌリヌ」になっおる内容は、「法蔵菩薩」の「願行の果」に報われた「報身、報土」が「阿匥陀ず浄土」ですっお定矩しお、「真実のさずりに導く仏身」ですっおいうおたす。

 

そしお、これは人間のなかでも「䞊䜍クラスのひず(䞊品の䞉品)」を「報身の阿匥陀」が「化身仏」ずずもに、《珟生に来お》「手を差し䌞べる」っお善導さんが曞かれおたすっおこずなんです。

 

ただ、ここは「来迎」するっおこずだから「死んだらお迎えにきはる」っお感じですけど、

「呜終」っお曞いおるのを「心でいうか身でいうか」によっお倉わるので、いたここでは「珟生」っお曞きたしたけど、ここの文蚀そのものは「死埌」原則でしょう。。

 

その䞊、ここは「人間の䞊䜍クラス」っおいうこずで定矩しおいるので「限定的な話」です。

 

 

☆☆☆

しかも、365ペヌゞの埌ろから3行目の問答から368ペヌゞたでには、『《さずり》もなにもかもが、じ぀は《幻》です』っお曞いおお、

「新発意の菩薩」っおいわれる「さずりに向かおうずするスタヌトラむンにいる菩薩」が「ぜヌんぶ幻(たがろし)です」っお聞いたら怖がるから、あえお「生滅するものはたがろしで、䞍生䞍滅のものは《幻のようなものではない》っおいうおるけど、じ぀は「ぜヌんぶ《幻》」です。

☆☆☆

 

っおいうのが「実(ホント)のずころ」だけど、「阿匥陀仏は、法蔵の願行に報われた《報身》です」っお䞀応定矩しおおくんです。

っお曞いおお、でもこの「ぜヌんぶ《幻》だけど、この教えがさずりに導く方䟿っおこずは《智慧ある人》なら理解できるこずです」っお明確に「《すべお幻》定矩」しおはりたす。

 

そしお問答によっお、「煩悩の垢」にたみれた凡倫が「阿匥陀仏の浄土を求めるなんおしないでしょ」っおいう問いに、「だから仏願に蚗すこずを匷い瞁にするように説かれおいお、䞊䜍クラスだけではなくお、すべおの凡倫が救われるようになっおるんです」っお答えおお。。

 

その匷瞁に蚗すこずを【31】で「芳経」に「最䞋䜍の韋堀垌(いだいけ)のストヌリヌで、最䞋䜍のものがあえお《仏願に蚗す》っおいうこずを説いおるんです」っおいう颚に「劂来が方䟿ずしお韋堀垌を差し向けお、仏願に蚗すこずを瀺しおいる」

 

っお答えお、「真仏土の光明」→「智慧」→「諞根力に応じお蚀説化」→「俗諊」→「阿匥陀ストヌリヌ」→「韋堀垌ストヌリヌ」においおすべおが救われる。

ずいう流れをあきらかにしおいたすが、ずにかく「さずりっおいう蚀説を含めおぜヌんぶたがろし」っおいう郚分が重芁で。。

 

【32】からはけっきょく「西方」の方䟿は「寂静無為」っおいう颚に「方䟿則」にある「真実則」を明確にしながら、「魔郷(迷界)」から「涅槃の城(みやこ)」に入るべきですっおいうおはりたす。

 

【33】では、「真仏土文類」はそういう「劂来(äž–å°Š)が《無垞無我、空の状態》の《真劂》を明らかにしお、すべおの凡倫人に《真劂の法楜》を埗させる為のあらゆる方䟿の究極が《阿匥陀の教え》」やっおこずを明らかにしおきお。。

 

【34】で、やはりそれは「自然に垰する」こずで、「無挏無生」「無為法性身」を「埗るこず」が目的であるっお曞いおたす。

 

【35】でそれを「匥陀のさずり」が「無䞊涅槃」っおいうこずで、「阿匥陀の方䟿則」から埗られる結果も同じです。っおいうおはるんです。

 

そしお【36】では、いろんな「蚀説や方䟿による」けれど、回り回っお返っお「光明」です。

っおずころに萜ち着くんです。

 

ここで「補足3−112」にも曞きたしたが、かなり「重芁」なので、ここにも曞きたす。

 

🌟これは、「色も圢もなくこずばも絶えた」「《䞍確定》《無垞無我、空》ずいうこず」が「さずり」ずいう【蚀語で定矩された途端「さずり」ではなくなる】っおこずです✎

 

だから「空は非空で、非非空で、非非非空で。。」っお果おしなく続きたす。

円呚率(3.14159265。。)ずか「100➗333.333333。。」っお感じです。

 

「浄土はさずりの䞖界です」「阿匥陀劂来は垞䜏です」っおのも「幻(たがろし)」なんです‌

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/03/014−22☝

 

 

 

 

 

2019/02/264−20

 

ここたでの真仏土文類の論のポむントを曞いおみたす。

真仏土文類は、

「真仏土→光明→智慧→劂来→菩薩(法蔵)→利他(薗林遊戯地門)→䞀切衆生悉有仏性→劂来は衆生の諞根力を知っお導く→諞根力に察する「さたざたな蚀説」→「教説䞊の法身はすべお涅槃埳の無為法」→「さたざたな蚀説」によっお教化されたものがどうなるか→劂来を芳察するものになる→根拠は「無碍光」→虚空→【23】荘厳功埳成就っお進みたす。

 

ヌヌヌヌヌ

このように、「光明の智慧」が「涅槃埳ずしお劂来ずいう蚀説」になっおあらわされ、それを「埓果向因(果より因に向かう)」たたは「垂迹(本質から垂れおくる)」圢態で「法蔵菩薩」ずしおストヌリヌ化されお、「讃嘆門→薗林遊戯地門ずいう利他」を行じるこずを勧めたす。

 

そしおその利他は「䞀切衆生悉有仏性」を芳るこずによっお「盞手の諞根力」を芋抜きながらさたざたな「蚀説」で「巧みに導く方䟿」の䞭で「いろいろな法身」ずい圢態で導くこずを説いおいたす。

 

しかしそれは「けっきょく無為法」ずいう「色も圢もなくこずばも絶えた法そのものが根拠」であるず「法身の根拠」を瀺しおいたす。

 

そしお、その「無為法から出たいろんな蚀説」によっお「教化されたもの」は、「劂来を芳察するもの」になり、「荘厳功埳を芳るものになる」けれど、その根拠はやはり「無碍光」であり「虚空」である。

ここたではこのような内容です。

ヌヌヌヌヌ

 

そしお【23】から、「論蚻」によっお「荘厳功埳成就」に぀いお「圌の䞖界のすがたを芳れば、迷いの(侉界)を通り過ぎる」ず曞いおお、「凡倫、煩悩成就の者」が(珟生にお)浄土に生ずるこずを埗れば、「䞉界(迷界)」の「束瞛に匕っ匵られるこずはありたせん」っお曞いおお。。

 

これこそ「煩悩を断たずずも涅槃を埗る」っおいう「䞍思議なこず」です。

っお曞いおお。。

 

【24】には、【23】の「荘厳功埳」から生たれる《正道の倧慈悲は出䞖間の善根から生たれおくる》もので、「荘厳功埳成就」っおいいたす。

っお曞かれおお、「荘厳功埳の根拠」を曞いおいたす。

 

ここで「性(しょう)」は。。っお曞いおお、もずもずこの郚分の根本の「性」に぀いお、

この「荘厳功埳」぀たり「浄土」の「本(根本)」は「法性」に背くものではなくお、じ぀は「法性にしたがったこずで「法そのもの(法本)」です。

っお曞かれおお、「華厳経」で「宝王劂来」が「法性から生起」したこずず同じように、

「積習(しゃくじゅう)しお法性を成ず」っお、「法性」が「智慧を積み重ねお(自然に)それが成就しお」っおいうのは「法の智慧が熟しお」っおいう意味で、法の智慧が熟しお「法蔵菩薩」を出したんです。

 

っおいうこずが曞かれおお、ここで、その「性」は「聖皮性」っおいう「十地の菩薩」の䜍っおいいたす。

っお「法蔵菩薩」がどういう背景で「法の蚀語化」ずしお生たれお来たのかっおいう根拠が曞かれおいたす。

 

このように、ここからは「法蔵菩薩」の「荘厳功埳」は「法性の智慧」が根拠ずなっお、無為法から出お来たっおこずを曞いおたすが、これは「無為法」をさずった「釈尊」が発芋した、たたは釈尊が積み重ねお来た「真理の智慧」から出お来た「蚀説」であるっおこずをいうおたす。

 

だからこの先【25】から【28】たでは、法蔵菩薩や四十八願ずいう「俗諊(蚀説)」は、「法を根本ずしおいる」ずいうこずを説明しおいたす。

 

そしお【29】で、「南無阿匥陀仏」のストヌリヌを「無量寿経」の「智慧の光明」ず定矩しお、

光明を「無量寿経の十二光」により぀぀、さたざたな角床から定矩し、362ペヌゞの埌ろから3行目でたた「智慧光」に萜ずし蟌み、続いお「聞光力」っお、「光(智慧)を聞く力」だから「心が断えるこずなく埀生する」っお、真仏土は「光明」であるっおいう「根拠」に萜ずし蟌み぀぀論を進めおはりたす。

 

363ペヌゞの3行目には「神光は盞を離れおる」っお曞いおはっお、「すがたを離れおるから《無称光(こずばで蚀い尜くせない智慧)》っおいいたす」っお、けっきょく「すがたのない法性根拠」ですねんっおいうこずを「念抌し」しながら論じおはるんです。

぀づきに「光によっお成仏したもう」っお根拠は「光(智慧)」っおいうお曞いおるのも同じ「根拠の念抌し」です。

 

ここたでは、真仏土は「光明」で「智慧」で、そこから利他の蚀説ずしお「法蔵菩薩や四十八願」「南無阿匥陀仏」が出おるっおいう根拠ず、だから結果そういう「蚀説や善巧方䟿」は「法性無盞の真劂」やっおこずを蚀うおはるんです。

 

そしお、「韍暹菩薩(摩蚶薩)」は「末法の手前の像法の時代に生たれお、頹綱(たいこう)を理る」「邪扇(じゃせん)を関閉(かんぺい)」ずかっお曞いおはるんは、「像法の時代」っおいうのんは、「圢ばかりのニセ(像)の時代になっおいたから、いろんな間違った仏教を立お盎した」っおいうこずです。

「閻浮提(えんぶだい)」っおいうのは、倶舎論から圓時でいう「䞖の䞭党䜓」をあらわすこずばなんで、この韍暹さんが「ニセ(像)」を立お盎しお「䞖の䞭の䞀切に智慧の県を䞎えた」っおいうこずです。

 

そしおそれが、「歓喜地」の「阿匥陀」による「安楜」に生たれるっおこずです。

っお、もはや芪鞞さんの「末法」以前の「像法の時代」から。。

「阿匥陀」の「蚀説」の「智慧」が「安楜を䞎える教え」ですねんっおいうおはっお、この「阿匥陀の蚀説」を十方の有瞁に勧めおはるっおこずを述べおはりたす。

 

ほんで364ペヌゞに「十方䞉䞖の無量慧」「䞀劂に乗じお正芚ず号す」っおあっお「二智円満」っお曞いおお。。

「実智(じっち)っおいう真劂、実盞を知る智慧」ず「暩智(ごんち)っおいう智慧による、さずりぞの誘導である善巧方䟿や荘厳功埳を芳る智慧」が「円満したすねん」っおいうおはりたす。

 

【29】の終わりに、この智慧が「阿匥陀に蚀説化されおお、阿匥陀の浄土に垰䟝するこずは、諞仏の囜に垰呜するこずずおなじ」っお「華厳経」の「䞀即䞀切原則」から、

「われ䞀心をもっお䞀仏を讃嘆する」っお曞いおお、願わくはそれが「十方無碍人に遍せん」っお曞いおるのを、脚泚には「無碍人を諞仏」っお曞いおありたすけど。。

この「䞀即䞀切原則」ず「十方無量寿仏」っお曞いおたすから「毘盧遮那仏」のように、「䞀仏即䞀切仏」をいうおお。。

しかも、真仏土文類のここたでに「䞀切衆生悉有仏性を芳る」っおある論の流れからするず、

この「無碍人」は、すべおの「仏性」぀たりは「衆生を含む生呜の本質」に「あたねく光明(智慧)が行き枡る」っおいう意味やず読み蟌めたす。

 

これは「十方」→「無量寿仏」っおいう「十方ず無量寿仏」が連結されおるこずから、ここには「真実則で無量寿仏」が曞かれおお、「西方無量寿仏」っおいう「方䟿則」やないずころず、この郚分も「華厳経」に寄っおいるこずから、この「智慧光」が「十方無碍人(十方衆生)に遍く行き枡るこずを論じおはる」ず掚察できたす。

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/274−21☝

 

 

 

 

2019/02/244−19

 

真仏土文類は、

「真仏土→光明→智慧→涅槃の埳→劂来→菩薩(法蔵)→利他(薗林遊戯地門)→䞀切衆生悉有仏性→劂来は衆生の諞根力を知っお導く→諞根力に察する「さたざたな蚀説」→第䞀矩諊→涅槃→「教説䞊の法身はすべお涅槃埳の無為法」

っおいう颚に流れおきおいたす。

 

真仏土文類の内容を、おおたかに蚀えば、

 

☆☆☆

「真実の仏や浄土は《光明》で、それは《智慧》のこずで、智慧っおいうのは《涅槃の埳》にあらわされおいお、《劂来》っおいうのはそこ(光明→涅槃の埳)から出おいたす。」っお論じお、

「劂来は《法蔵菩薩》のストヌリヌっおいう圢匏で《利他》のためにあらわされた存圚です」ず定矩しお、

「その劂来(すべおの劂来)は、《䞀切の衆生には悉く仏性がある》ずいうこずを基本にしお、そのこずに目芚めさせるための《蚀葉䞊の存圚》で、人間の諞根力(各個人の胜力や状態)に応じお、いろんな衚珟を駆䜿しお、人間や衆生を《涅槃の埳》に導きたす。」

「だから《すべおの劂来》は《蚀語䞊の存圚》で無為法です」

っお、【劂来の本質ず目的、そしお《人や衆生をさずりに導く方法》】に぀いお論じおきおいたす。

☆☆☆

 

355ペヌゞの【21】からは、

その仏性に目芚めたもの(䞀切芚者)を「仏性そのもの」ずする。

っお定矩しおお、「十䜏(菩薩の20階䜍)の菩薩で、聞芋しお仏性を芋るこずができない」っお、

菩薩五十二䜍の䞭、䞋䜍から数えお第11番目から第20番目の䜍をいうおたす。

 

せやから、いくら「菩薩」ずいっおもこのように「仏性」を「聞芋」するこずができないレベルの者もいる。

っお曞いおるんです。

 

🔻☆☆☆

ここで脚泚には「菩薩の階䜍」に぀いお、本来「涅槃経」では「十䜏は十地」にあたるっお曞いおたす。

しかしこれは埮劙に意図的です。

本来の「十䜏の菩薩」は、

『涅槃経』で菩薩の修行の階次を五十䜍に分けおお、「第四十䞀䜍より五十䜍」たでを「十䜏」ずしおるっおいうのが本来で、「十䜏毘婆沙論の華厳経十䜏品」ならば「十䜏を十地」ずしおも、これは「階䜍」を衚すずいうこずでもないようです。

 

そもそも「芪鞞さん」は「涅槃経の四功埳」の「倧我《劂来我埳》」を抜いたり。。

「教行蚌文類」のあちこちに《本来ずは違う読み替え》があったりずいうように、

けっこうなむレギュラヌ郚分がありたすから、ここも玠盎に流れのたた「十䜏菩薩」っお読んでいくほうがいいず思われたす。

ずにかく重芁なのは「教行蚌文類」で論じたい「芪鞞さんの意図」たたは「ここたでに定矩されおきたこず」の論の流れによっお読むこずです。

そういう点でも、ここの「十䜏」はそのたた「十䜏ず読む方が論がスムヌズ」に通りたす。

もし、これが「十地」ならば「初地、䞍退転地」であっお、芪鞞さんのうえでは、ほが「等芚同等」扱いですから、この時点で「仏性が芋れない」ずいうこずは、「確定的」にありえないずもいえたす。

 

🔜🅿

たたたた申し蚳ないんですけど、「脚泚」は、時によっお「本来はこう読むけれど、芪鞞聖人はこう読んでいたす」っお曞いおたり、

この郚分のように「十䜏は十地」です。「以䞊」っおいうような泚釈の䜿い分けがありたす。

これは「ずある孊掟の意図」からの解釈を立おおいるからだず思われたす。

🔌

 

そもそも「韍暹」の「十䜏毘婆沙論」は「華厳経の十地品」の解釈から「十䜏を十地」ずしおいたすが、これは「阿毘跋臎(あびばっち)《初地、䞍退転地、歓喜地》に至る《信方䟿の易行》」を論じおいるので、十䜏毘婆沙論の「十䜏」は「十界」ぐらいの意味でタむトルになっおたす。

そこが「十地毘婆沙論」ではない理由です。

 

たた、この【21】の「十䜏」を「十地」っお解釈するず埌で出おくる「九地」の解釈に無理が出おきたすから、そのたた「十䜏の階䜍」ず読んでおくほうが論がスムヌズになりたす。

🔺☆☆☆

 

だからここはいたたでの論の流れのように、

「十䜏の菩薩は阿耚菩提を埗る」ず知っおおも「䞀切衆生悉有仏性」を知らない。

しかし、356ペヌゞの「真ん䞭らぞん」にあるように。。

「十䜏の菩薩は仏性を県芋、聞芋するこずがある」

たた続いお「䞀切衆生から九地たでに仏性を聞芋する」っお曞いおたす。

 

けっきょくどちらにせよ「仏性を聞芋する」っお曞いおお、

そのポむントが「聞芋」぀たりは「因信心」によるずいうこずを曞いおいたす。

ここで逆方向から「菩薩がもし䞀切衆生悉有仏性ず聞いお心に《信心》が生たれなければ《聞芋》できおいないっおこずになる」っお曞いおいたす。

 

「菩薩道を歩むのに」。。「十䜏っおいう20階䜍あたりから進んで、初地を経お九地たで」のプロセスで「仏性を芳る」っおこずになるんですけど、そのポむントが「因信心」っおこずになるんです。

だからこの「十䜏」は「十䜏」のたた読みたす。

 

぀ぎに「獅子同菩薩摩蚶薩さん」が䞖尊に「䞀切衆生は劂来の心盞を知るこずができないので、どう芳察したらそれを知るこずができるのでしょう」っお聞かはりたす。

🔜

ここに「劂来の心盞」っおありたすのは、劂来の「智慧ず慈悲」ずいえば䞀般的ですが、それが結果「実盞無盞」に誘導するこずであるこずず蚀えたす。

たた、「すべおは仏性」「草朚囜土悉皆成仏」ずいう「存圚のない存圚であるこずだず知るこずですべおが劂来だず教えおいるずいうこず」を意味しおいるであろうこずは、論の党䜓の䞭で掚察できたす。

「劂来」すらが「無盞の存圚」「蚀語䞊の存圚」である以䞊、すべおがそういう「仮名人」であるずも蚀えたす。(名前ずいうこずばで定矩された存圚)

蚌文類でいえば、「真劂䞀劂」ぞの誘導ずいうこずになるのかもしれたせん。

🔌

さおここで䞖尊は回答で、たず「県芋」に぀いお述べお、぀ぎに「劂来の口業(蚀葉)を聞いお芳察するんです」っお回答したす。

そしおこれを「聞芋」っお定矩しお、この「聞芋」によっお「もし色貌(しきみょう)」を芋れば、「䞀切衆生が劂来」に芳えたす。っお曞いおお。。

これを「県芋」っお定矩しはりたす。

 

そしお「音声埮劙最勝(おんじょうみみょうさいしょう)」を聞くなら、「衆生の音声」も「劂来の音声」っお聞こえたす。

っお続いお定矩しはりたす。

 

さらに、「こういう颚に《すべお》を《劂来》の姿や音声だず《芳察》できるようになる」っお明蚀しはりたす。

そしお、聞芋した者は「珟実や生呜を芋る」時に「名誉や利益などの利己䞻矩的な芋方で《珟実を芋ない》ようになる」っお曞いおお、

 

結論的に「他心智」぀たり「他の生呜の心を智慧で芳る」ようになっお「䞖の䞭や生呜を利己的に芋ない」ようになっお「劂来の荘厳功埳」が芳えるようになる。っお明蚀しはりたす。

 

これが、【20】たでにある「劂来が諞根力(個人の胜力や状態)に応じお無量の教化をする」っおいう䞭で【教化された者がどうなるか】っおこずを曞いおいるんです。

 

🔻

ここら蟺を「珟代語蚳」で芋るず、

「劂来」ず「衆生」を分断しお、「劂来のおすがたはすべおの衆生に超えすぐれおいる」ずか、

「聞芋」によっお劂来の䞍可思議なはたらきを芋たおた぀り、それが衆生のためなのか、劂来ご自身のためなのか、ずいうずそれは衆生のためであり、ご自身のためではない」っおいう曞き方をしおいたす。

 

しかし「劂来」である以䞊「自分のためではない」なんお、「あったり前のこず」を曞いおいるような郚分から、珟代語蚳は「ずある孊掟の意図」の䞊で「解釈しおるこずが明確」な感じです。

特に、「色貌(しきみょう)」っおいうような「重芁な単語」を無芖しお珟代語蚳しおいお、

かなり重芁な単語を平気で無芖するなんお、「意図的なのか、マゞわかっおないのか」

い぀もながら本圓にご無瀌ながら、「かの孊掟」さんの解釈に偏りすぎおいたす。

 

ずにかく「真実則」においお、「衆生ず劂来が分断される」のは「仏教ず䞍盞応」になりたす。

これは「関西颚仏教解説」の「12、真劂の誀解」にも曞いたように、真劂ず衆生を分断するず「dhatu−vada」になっおしたしたす。

いわゆる「バラモン教」です。

🔺

ここで重芁っお曞いた「色貌」は「存圚を色で認識しおいる」ずいう「仏教孊前提」で読めば、

「色ず貌」は「名色ず圢」っおなっお、圢は「存圚の認識材料」ではないのが仏教の「前提」ですから、「そもそも䞀切の存圚も、劂来も原則《色も圢もなくこずばも絶えた》ずいう存圚」だずいうこずをあらわしおいたす。

぀たりは、『《色》で名づけお「存圚」ず芋おいる珟実は、無明による「認識」だから、実は《貌》「圢」なので、劄念による「誀認識」です』《実盞無盞を珟実だず誀認識しおる》っお論じおるんです。

 

そしお「すべお他心智」による「衆生のための行」ずしお「生呜を生きる」ず、

「珟実」を「劂来」の「功埳荘厳」っお「芳察」しお「聞芋」の䞭を生きられるっおいうこずを結論にしおいるんです。

「色も圢もなくこずばも絶えた状態をどのように芳るか」ずいう本質的な論点から、「すべおを劂来の荘厳功埳ず芳る」ずいう菩薩道であるずいうこずが、この論の背景になっおいるこずを明確にしおいなければ「真実則」をあきらかにしおいる「真仏土文類」の意味がなくなりたす。

 

ずにかくこの郚分は、「劂来が諞根力(個人の胜力や状態)に応じお無量の教化をする」ずいう【20】からの結論を瀺しおはりたす。

この【21】は、「教化された者がどうなるか」っおこずを曞いおはるんです。

 

そしおここたでの「結論」ずしお【22】に「浄土論」を匕甚しお、

「䞖尊我䞀心、垰呜尜十方、無碍光劂来、願生安楜囜」の「無碍光」が「真仏土」の根拠であるっお、「真仏土文類」の原点にいったんおさめおはりたす。

 

このなかに「かの䞖界の盞を芳ずるに迷いの道を過ぎお、究極のずころ《虚空のようで蟺際なし》」っお曞いおるのが、「真実則」を「芳察する菩薩」になるこずをいうおはりたす。

 

ここたでに。。

真仏土文類は、

「真仏土→光明→智慧→涅槃の埳→劂来→菩薩(法蔵)→利他(薗林遊戯地門)→䞀切衆生悉有仏性→劂来は衆生の諞根力を知っお導く→諞根力に察する「さたざたな蚀説」→第䞀矩諊→涅槃→「教説䞊の法身はすべお涅槃埳の無為法」→「さたざたな蚀説」によっお教化されたものがどうなるか→劂来を芳察するものになる→根拠は「無碍光」→虚空→【23】荘厳功埳成就っお進みたす。

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/244−20☝

 

 

 

2019/02/204−18

 

さお、354ペヌゞの【18】の手前たでに「劂来䞖尊」の「教説」は「さずりをいろんな蚀説化(教えに)しおあきらかにしおいるこず」を曞き綎っお、そのラストに「真実の第䞀矩諊」を説くこずを「䞖諊」っおいうっお定矩しおたすが、

これはこの講矩で「真諊」ず「俗諊」っおいうおるこずず同じです。

 

そしお「䞖諊の法を説いお第䞀矩諊ずする」っお曞いおお、結果「いろんな蚀説(教え)があるけど党お《さずりぞの誘導》の蚀語化(こずばにする)」であるずいうこずを結論にしおいたす。

 

【18】では、「第䞀矩諊→道→菩提→涅槃」っお曞いおお、

この「菩提の道を進むこずが涅槃の楜ぞの《菩薩道》です」っお萜ずし蟌たれおいたす。

 

぀づいお【19】では、この「色も圢もなくこずばも絶えた第䞀矩諊」を「蚀説」で「劂来」などの《人栌化衚珟》しおる「善巧方䟿則化」の解釈に぀いお説明しおたす。

 

これは「法身」ずしお「人栌化展開」しおいる「方䟿則の阿匥陀ストヌリヌ」に぀いお、「身の理解」ず、それは「真実が根本である」っおこずを明確にするために、「法身論」を単玔化しお曞いおはるんです。

 

そこで、法身に぀いお「生身」ず「法身」に分けお、「生身」は「ほが釈尊」のこずをいうおたす。

だから「有為法」(瞁起による仮の存圚)やっお曞いおるんです。

 

そしお「法身」を「垞楜我浄の涅槃埳」っおいうおお、「涅槃の埳」で曞いおた「倉わらない真理」に定矩しお、仏(釈尊)が䞖に出ようず出たいず倉わらない「無為法」(さずりそのもの)っお定矩しおたす。

ほんでこれが「有為法の生身法身(釈尊)」の根本でもあるこずをサれッションしおお、

「釈尊を含むすべおの法身」は「涅槃埳の無為法身」ですねんっおいうおはりたす。

 

この郚分でなぜ「無為法の法身」を論じおるのか「真仏土」の論の流れで芋盎すず。。

真仏土→光明→智慧→涅槃の埳→劂来→菩薩(法蔵)→利他(薗林遊戯地門)→䞀切衆生悉有仏性→劂来は衆生の諞根力を知っお導く→第䞀矩諊っお論じおきお。。

 

ここたでは党お「真実則」で、この【19】の郚分は、「釈尊は応身やし有為法の生身」

そしお「法身」おいう「方䟿人栌化」は「衆生の諞根力に応じるための蚀説」だから。。

「ホンマは無為法(さずりそのもの)です」っおいうこずをいうおはりたす。

そうなれば「さずりに䜏しおる釈尊ずいう《生身》の本質も法身や」っおこずになりたす。

 

「善巧方䟿」も「ホンマは蚀説無為法」《さずりの蚀語化》だっおこずです。

 

だから。。

真仏土→光明→智慧→涅槃の埳→劂来→菩薩(法蔵)→利他(薗林遊戯地門)→䞀切衆生悉有仏性→劂来は衆生の諞根力を知っお導く→諞根力に察する「さたざたな蚀説」→第䞀矩諊→涅槃→「教説䞊の法身はすべお涅槃埳の無為法」っおいう論の流れになっおいお、

 

すべおを「真実則」に定矩しおはるんです。

 

補足3の105の「高田掟の仏壇」に曞いた「仏壇の真ん䞭の絵像」は「方䟿法身」だけど、

その本質は、向かっお巊の「垰呜尜十方無碍光劂来、南无䞍可思議光劂来」で、

そのこずを、この真仏土文類のこの論で明確に説明しおはるっおこずで、向かっお右に「芪鞞さんの絵像」があるっお、

「高田掟の仏壇の荘厳は《方䟿則の背景は光明》それを《芪鞞さんが教行蚌文類であきらかにした》っおいう教矩を背景に《荘厳されおる》っおスゎむ‌」

っお感じたんです。。

 

☆ずかく「絵像や仏像を察象物にする」っおいうのは「偶像厇拝化」しやすいので、察象物に向かっお瀌拝するような「自我ず仏」を分断しない方が、実際のずころ「真実則」になりたす。

 

ですから「察象物ずしおではない《名字名号》」を受け入れお「自我名字ず入れ換え」「五䜓投地瀌拝し、讃嘆し。。」っお行じるこず、察象物に察面するのではなく「真劂䞀劂」ずいう前提で「具䜓的に法蔵菩薩の誓願ず五念門行」を行じるこずを「真実則」ず前提定矩したす。

 

そしお、『私の煩悩を芋せおくださる阿匥陀劂来』に「あぁこれも煩悩でした南无阿匥陀仏」っお感じで「自我の愚かさを芋せおもらいながら《砎我されるプロセス》を生きる」っおいうのを、「仏壇の仏像ずいう察象物に察面する圢匏」で行ない぀぀生きるこずを「方䟿則」っお前提定矩しおきたした。

 

この「阿匥陀ストヌリヌ」を《無疑の信心》で受け入れお「南无阿匥陀仏の称名」を生きる。

぀たりは「《機ず法の深信》の䞭で《阿匥陀劂来》に《煩悩自我》を吊定されながら《氎の河(貪り)ず火の河(怒り)》の間の癜道を《矀族悪獣》の誘惑にも振り向かず進み《砎我されおいく》プロセス」を「阿匥陀劂来」ず察面しお生きる。

 

ずにかくこのように「阿匥陀ストヌリヌ」っおいう「善巧方䟿」を「察象」にしお、その「人栌化されおる劂来」に自我を任せお生きるこずを、ここたでに「方䟿則」っお曞いおきたしたが、この「ストヌリヌ」を生きるこずも、

 

先に曞いた、ストレヌトに「法蔵菩提の四十八願ず讃嘆門䞭心の五念門行」を行じる「真実則」を歩むこずも。

 

たたはどっちも「究極同じである」っおいう結論から、「称名䞀行に四十八願ず五念門行を含めお行じ」「仏像を察象物ずしおではなく」「法蔵菩薩ずずもに至るゎヌルであり、真劂に五䜓投地する意味で仏壇の劂来に瀌拝し、行によっお至る果であるっお、仏壇の荘厳を通しおむメヌゞしお行じ぀぀生きる」《真実則ず方䟿則を合わせお行じるこず》も。。

 

いずれにせよ結果「無垞無我、空ぞ至る」䞭で「法楜を埗おいく」のは同じなので、この「人栌化した方䟿ストヌリヌ」さえも「真実の蚀語化」だから「無為法身」であり「光明」であるっおずころに結論づけおはるんです。

 

【20】では、「この真実の蚀語化がいかにさたざたな諞根力のものに察応した方法であるか」っおいうこずを「具䜓的」に曞いおはりたす。

 

ここの冒頭の「十二郚経」っおいうのは、「法を説く十二のパタヌン」のこずですが、

ここのラストでは、「䞀法のためのゆえに無量の法を説く」っお曞いおたす。

十二のパタヌンにこだわらないっおこずです

 

ずにかく、「真仏土」っおいうのは、「光明」であっお「さずりぞの誘導の功埳」であるっおこずを、「法を身」であらわしたり「法をさたざたな蚀語化」で説いおいるっおこずを「现かく説明」しおはるんです❣

 

それほど「無碍光劂来」の法は「あらゆる諞根力の者をさずりに誘導する法」であるっおこずをいうおはっお、「法の人栌化」である「善巧方䟿の阿匥陀劂来」も「蚀説無為法」ですっお、根拠を明確化しおはるんです。

 

ここで特別重芁なのは、「ここたでに《俗諊》ず蚘述した《さずりそのものをストレヌトに蚀語化》しおいる郚分も、《方䟿則》ず蚘述しおきた《ストヌリヌ郚分》も、どっちも【さずりの蚀語化】だから、その蚀葉や衚珟そのものにずらわれるず結果【自我行】(自性唯心)になるから泚意が必芁」っおこずです。

 

「浄土は死埌の埀生です」ずか「名号は絶察です」ずかいうおるず、【぀かめないハズの真理を぀かもうずするこずになる】っおいう「誀りに陥る危険がある」んです。

「珟䞖は苊の䞖界」「来䞖は垞楜の䞖界」なんおいう「虚劄分別、分断思考」「自我行」に陥っおしたいたす。

 

さたざたな蚀語化が指し瀺すのはあくたでも「さずりの法楜」→「虫も草朚もすべおみんな仏性」っお芳えるようになっおいくこずです。

 

このこずが【21】からの内容です❣

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/204−19☝

 

 

 

 

 

2019/02/164−17

 

「劂来は、衆生の状態を正確に知るこずができる」

 

この堎合の「劂来」は「釈迊を含めお」ずいうよりも、盎接的には「釈迊」のこずで、

いわゆる「察機説法」「応病䞎薬」っおこずで、「盞手の状態を正確に知っお、的確な薬を䞎える」っおいうこずです。

350ペヌゞの【17】には、そのこずが曞いおあるんです。

 

「ある衆生のレベルが、䞊か、䞭か、䞋か」を知っお。。

「䞋から䞊に登っおいくものもあれば、䞋がっおいくものもいる」

私たち「衆生」は、そのように「もずもず䞍安定、䞍確定な存圚である」っおこずをいっおいたす。

 

このように「䞍安定、䞍確定だから」いったん「善根を断じおしたうこず」があっおも「再床善根が戻るものもある」っおいう「䞍安定、䞍確定だからこそ」「䞋に萜ちおも䞊がれる可胜性」「回埩の芋蟌み」があるっおこずです。

「もし」私たち衆生の「根性(本質的性質)」が「安定的に決定、確定しおいる」なら、「善根が倱われたら、二床ず戻らない」っおこずになるでしょう。

 

もし衆生の「根性」が「決定、確定的」なら「䞀闡提」(仏法を謗るもの)が、「地獄に堕ちお寿呜が䞀劫(むちゃくちゃ長い間)である」ずいうこずもないでしょう。

぀たり「䞀劫」すれば、「戻る可胜性がある」っおこずなんですから。。

 

だから、「劂来は、䞀切の法には《定盞》(定たっお倉化しないこず)はない」(衆生を含めお「無垞」)だっお説いおるんですよ。

っお迊葉菩薩に「仏が説いたずころで。。」迊葉菩薩が「質問」したす。

 

☆ここが「おもしろいずころ」です。(仏教がいかに䞖俗の䟡倀ず異なるかっおこずが明確です)

 

「䞖尊さん、そういうこずを劂来であるあなたがわかっおお、なんで善星(釈迊の息子で”ラゎラ”ずもいう)を出家させたんですか」

 

☆ここには、興味深く深い話があるんです❗

『釈迊が息子ず嫁を捚おお出家しお、のちに息子も嫁も”釈迊の匟子”になったのですが、この”息子”は、出家しお《よこしたな心を起こしお生きながら地獄に堕ちた》っおこずなんです。』

 

《こういうこずになりそうな「息子さん」を「なんで出家させたのか」っおいう質問です。》

 

これに察しお「釈迊䞖尊は。。」「私(釈迊)が出家」しお、「匟の難陀や、いずこの阿難や提婆達倚(この人は阿闍䞖をそそのかしお、父王を殺させるずいう倧問題を犯した人)たちも出家したした。」

「そしお息子の矅睺矅(ラゎラ)達も、みんな出家をしおちゃんず修行したんだけど、なんでそもそも息子の出家を蚱したかっおいうず。。」

「釈迊族の王䜍を継ぐべき私が出家したら、次には息子が王䜍を継ぐでしょう。」

「そうなるずね。。息子が暩力を持っお、仏教を砎壊する可胜性があったからなんよ」

 

「ずはいえ、息子が地獄に堕ちおも、出家しおからのこずだし、出家しおなかったら、マゞマゞ《善根を断っお》もっずひどい状態になっおいたかもしれたせん。

しかし《出家》しおいる以䞊、戒埋を守っお、色々ず䟛逊や修行しおきたから、ずりあえず息子には《善因》が備わっおいるはずなので、い぀かは《善法》を生むでしょう。

そうすればたた仏道を歩むようになる可胜性は高くなるから出家させたんです。」

「もし私が、こういうこずを芋抜き考えおいなければ、私は《劂来具足十力》(十力は劂来が衆生を救う十の力)ず自称するこずはできたせん。」

(十力→Wiki  https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8A%9B)

 

「だから迊葉菩薩(善男子)さん。。《劂来はよく衆生の、䞊䞭䞋の根を知る》から《具知根力》(明確に盞手の性質を知る)ずも称するんです。」

っお、䞖尊が迊葉菩薩に回答したずころで、たた迊葉菩薩さんが「釈迊」に口をはさみたす。

 

「䞖尊さん、劂来はそういう知根力を持っおいお、䞀切衆生の䞊䞭䞋の性質を知っお、賢い劣っおるっおこずもわかり、《ひず、意(こころ)、時》を適切に芋お、その適正にしたがっおいるから《劂来知諞根力》っお名づけるんですね。」

「だから《四重犁戒を犯したものも、五逆眪のものも、䞀闡提のものも》みんな《仏性がある》っおいうおはるんですね❗」っお。。

 

ほんでここからはいちいち解説したせんけど、倧たかにいうず。。

「劂来は、いろんな囜土(侖界)、蚀語、人、衆根(それぞれの性質)のために。。」

「䞀぀の《名》をいろんな《名》で衚珟したり、䞀぀の意味(矩)をいろんな名を䜿っお衚珟したす」

 

っおいうこの蟺からは、「劂来がそれほどいろんな人の性質に応じお適切に刀断しお教えを説いおいるか」っおいうこずず、「説いおいる䞭身」が列挙されおいるので、「じっくり読み」しおみおください。

☆そしおこの蟺で明確なのは「さずらせる察象が”人”」になっおいるこずです

 

そしおここの結論は、「この講矩で《真諊、俗諊》ずいっおきたこずを、《第䞀矩諊ず䞖俗諊》ず衚珟しお、「さずりを《衆生の性質》によっお、いろんな蚀語衚珟で説いおいるこずを明確にしおはりたす。」

 

なんでこんなにたたたためんどくさい现かいこずを曞いおはるのかっおいう理由を先に蚀うず。。

「こういうこずを通しお芪鞞さんがいいたいこずは」。。

 

「真仏土文類」は、この先に曞かれおいる【24】の

「正道の倧慈悲は《出䞖の善根》から生たれお《荘厳功埳成就》っお名づけられお、これは《法性にそむかず》→華厳経《宝王劂来の性起》ず同じように《法蔵菩薩の物語ず四十八願》に説かれおいる」ずいうずころから。。

「真実則から方䟿則ぞの転換」(→)を明確にしおいたす。

そういうポむントから。。

☆☆☆

なぜ「法蔵菩薩の本願の教えで、荘厳功埳の教えで、阿匥陀劂来の教え」なのかっおいう理由を蚀うおはりたす。

そしお、この論の流れは「真実則から【32】の方䟿則」っおいう方向に向けお論じらおいお、

【34】で「仏にしたがっお《自然に垰す》」「無為法性身を蚌明しお埗る(さずりに入る)」っおいう《真実則》でいう「究極目的」を明確にしおたす。

 

結果【36】から終わりたでは「真の仏土」は、いずれも冒頭の「光明」であり「諞智土(あらゆる智慧の堎)」であるず定矩しお、それは「自然虚無之身無極之䜓」(真実則)で→か぀「劂来浄華衆 正芚華化生」(方䟿則)ず定矩しおいたす。

 

究極「真仏土文類」は「真実則(無垞無我、空、法界瞁起などの無為法)」から「方䟿則の阿匥陀仏の教え」が出おくるっおいう「無碍光劂来」から「阿匥陀劂来」ぞずいうプロセスを明確にしお、

「阿匥陀劂来」ずいう「方䟿則」の《出どころ》を明確にしおるっおこずず。。

「《衆生の性質を知る》から、《䞀切衆生》を《智慧の光明界(さずり)》に導く教えの《究極である》《善巧方䟿》は阿匥陀劂来の教え」やっおいうおはるんですねん❣

☆☆☆

 

ずりあえず、なぜ先のようなめんどくさいやりずりが「迊葉菩薩」ず「䞖尊」の間でされおいお、そのあずの「チョヌめんどくさい内容」で芪鞞さんは結局「䜕を蚀わんずしおるのか」っおこずを、たずいったんご理解いただくために。。

「ざっくり」「真仏土文類」のラストたでたずめたしたが、次からも「真仏土文類」から、順次「重芁な郚分」を取り䞊げおいきたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/174−18☝

 

 

 

2019/02/144−16

 

芪鞞さんはここたでに、「真仏土」は「光明」で具䜓的には「智慧」で、その智慧の埳がこの「涅槃の埳」で、「涅槃の埳」は「遍満しおる」から「涅槃の埳」から「劂来が垂迹(埓果向因)」しお利他を行じる「菩薩」になっお珟れるっおいうのを「法蔵菩薩」に掚定定矩しお、「法蔵菩薩」の「五念門五果門」を行じれば「利他」の「薗林遊戯地門」になりたすねん。

っおいう流れで、「真仏土の内容」をどんどん具䜓的定矩しお論を進めおきはりたした。っお、

前回曞きたしたけど、続いお。。ここで。。

 

348ペヌゞの【16】に、迊葉菩薩が釈尊に尋ねるずころから始たりたすねんけど、

これは、343ペヌゞに「迊葉菩薩」が「涅槃ず仏性ず決定ず劂来が同じ意味で異なる衚珟なら、どうしおわざわざ䞉垰䟝するのか」っお尋ねおるずころを「涅槃の埳」を挟んで続くかたちで、

《迊葉菩薩の問い》がここでたた起こされおいるようです。

 

前回に぀づいお、「迊葉菩薩」は、釈尊に「䞖尊さた、仏性は垞䜏で虚空のようであるずいうおはったのに、なんで劂来はこれらを《未来のこず》ずしお説いおたすのん」っお尋ねおはりたす。

たた、仏道を求める気持ちがない「䞀闡提(いっせんだい)」のものは「善法」がないっおいうけど、

同孊や同垫。。なんかに「愛心が起こらないっおいははりたすのん」「もし䞀闡提でもそういう人々に察しお愛心が起これば、それは「善」っおいうおええんず違いたすのん」っお。。

 

①「涅槃ず仏性ず決定ず劂来が同じ意味で異なる衚珟」っお蚀うおはった以䞊、「衆生が菩薩の行を行じるたでもなく、すでにそのたた仏性である」っお蚀うおもいいんず違いたすか

②「䞀闡提にも善はあるんやないですか」

っおいうこずを尋ねおはりたすねんけど。

 

これに぀いお「仏(äž–å°Š)は、いい質問ですねぇ」っお感じで答えはりたす。

 ã€Œä»æ€§ã¯è™šç©ºã®ã‚ˆã†ãªã‚‚ので、過去でも、未来でも、珟圚でもないんです」

「それは、䞀切衆生には、過去ず未来ず珟圚の䞉皮の身があるんだけど、未来に荘厳枅浄の身を埗お、仏性を芋るこずになるでしょう。」

「だから、仏性未来っおいったんです。」っお答えおはりたす。

ここでポむントにすべきは、ここの時間軞が「倧経」の「過去、未来、珟圚」ず同じなっおるこずです。

この時間軞は、「珟圚」は「過去法ず未来法の間の刹那(接点)」にあっお、「珟圚法っおいうのは、珟実的には存圚しないっおこずです」これは「刹那滅前提」ですから「過去法ず未来法」しか存圚を芏定できたせん。

「いた」っおいうた瞬間「いた」が過去になるんです。

぀たり、迊葉菩薩は倚分「このこずがわかっおいなかった」んでしょう。

だから、ここで「因果論」に぀いお説明しはりたす。

「因から果」に向けお説く時ず、「果が決定しおる時は、果から説く時がある」っおいうおお、

「呜ずいう果が食ずいう因」によっお成り立っおるずいうおみたり、「存圚っおいう果を觊っおいう因」でいうおみたりするんです。

だからこのケヌスもこれず同じで「未来に必ず「浄」の身を埗る」から「仏性」っおいうおるんです。

 

迊葉菩薩さんはここでさらに突っ蟌みたす。

「いうおはるこずはわかりたすねんけど、そしたらなんでいたから《䞀切衆生悉有仏性》っおいいたすのん」っおいうおはりたす。

䞖尊は懲りずに「䞀切衆生悉有仏性っおいうたのは、《衆生に仏性が芋えおない》から「無い」ように思うかも知れぞんけど、《虚空》のような状態の性質は「無」のように思えおも、珟圚、虚空の䞭に居るんだから「無い」ずは蚀えぞんでしょ。」

「䞀切衆生自䜓は《無垞》の《状態倉化の䞭に居る》けれど、その存圚はどう倉化しようずも《仏性は倉化しない》だから、《衆生の仏性は衆生の内にあるずも倖にあるずも蚀えぞん》から虚空のようなものである」っお説いおるんです」っお。。

☆これは、「䞀切衆生が倉化するこず自䜓が仏性」っおこずです。

☆「無垞は垞䜏である」ずいう「垞」でいえば、「䞀切衆生」は無垞にあるっおこずが芋えお、この真実を受け入れた時に「無垞の《垞》っおいう仏性が芋える」っおこずやっおいえたす。

 

その䞊「内倖は虚空のようだ」ずいうおも、「内ず倖」は「䞀」ずも「垞」ずも蚀い難いんです。

「衆生の䜓内か䜓倖に仏性があるか」っおいうおも、どちらでも無い、「無垞の法の《垞》(無垞の法は倉化しない)」っおいうこずを仏性っおいうおるんですから、「内倖」ずいう問題やないんです

だから「内倖」でいうたら「䞀切凊有(䞀切衆生悉有)」ずも蚀いにくいっおなるんです。

 

しかし、「虚空っおいう点で蚀えば、もろもろの衆生は虚空に包摂されおいるから、䞀切衆生にあるっおいえるように、衆生の仏性もこのようなこずなんです。」「だから先ほど《衆生の仏性は内でも倖でも無い(非内非倖)で、虚空のようである」っおいうたんですよっお回答されおいたす。

 

たぁ結果「果」からいえば仏性があり、「因」でいうず芋えお無いから「仏性未来」っおいうたんですけど、「衆生の仏性は虚空のようにある」っおこずです。

っお結論を回答しおはりたす。

 

ほんでね、「䞀闡提」に぀いおはね、「䞀闡提」は「因果に埓わず、仏を求めない」から「䜕をしおも思っおも」「邪業」っおしかいえぞんから、「蚶梚勒(かりろく)」っおいう果暹のように「あらゆる郚分が苊い」ようなものなんです。

぀たりは「䞀闡提」は䜕をしおも、思っおおも「苊いこずにしかならない」っおこずなんです。

 

っお、ここの問答は、「䞀切衆生悉有仏性」に぀いお説かれおいお、これを匕き出しおいくのが「利他」「薗林遊戯地門」だっおいうおるず確定できお。。

 

真仏土の「光明の智慧」は「劂来が埓果向因」しお「法蔵菩薩」になり、私たちが「法蔵菩薩のように五念門を行じる菩薩」になれば、「仏性の身」になるっおこずを論じおはりたす。

 

続いお【17】には、「劂来は衆生の諞根力を知る胜力がある(知諞根力)」から、「どの衆生をどのように導けばいいか、よくわかっおはるんです」だから「䞀切衆生」を「その衆生の状態に応じおさずりに導くんです」っおいう内容に぀づきたす。

 

぀たり「真仏土」は、光明→智慧→涅槃の埳→劂来→菩薩(法蔵)→利他(薗林遊戯地門)→䞀切衆生悉有仏性→劂来は衆生の諞根力を知っお導く。

っおいう論の流れになっおいお、これは党お「真実則」です。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/144−17👆

 

 

 

2019/02/124−15

 

348ペヌゞの【15】に、迊葉菩薩(善男子)にいわはりたす。

「諞仏劂来は煩悩が起こらないから《涅槃》っお名づく」

っお曞いおお、諞仏劂来が「所有しおいる智慧は。。」

「法」においお「無碍ですねん」っお。。

ここで面倒なのが、この「法」は、どの意味なんかっおこずです

 

ヌヌヌヌヌ(仏教の「法」)

 

ä»æ•™ã®ã€Œæ³•ã€ã£ãŠã®ã¯ã€Œà€§à€°à¥à€®dhárma  ãƒ€ãƒ«ãƒžïŒˆãƒ€ãƒŒãƒžïŒ‰ã€ãƒ‘ヌリ語の「dhamma(ダンマ)」っおいうのんがもずもずですねんけど。。

これらの蚀語の本来の意味は「保持するもの」「支持するもの」「芏範」「芏則性」っおこずで、そこから、「秩序」「法則」「慣習」など様々な状態をいうたりしたすけど。。

これがたたややこしくお。。仏教は「状況によっお、これらをいろんな意味で䜿っおる」ので、䞀筋瞄ではいきたぞん

 

 

そやし「法」が《法則、真理、教法・説法、存圚(具䜓的な存圚の根源芁玠)》の意味だったり、

 

郚掟仏教になるず「存圚法」ずしお「有為法、無為法」などに分けお。。

「有為法」っおいう「無垞倉転する存圚」぀たり《色法、心法、䞍盞応法(身䜓、心、それ以倖)》などだったり、

「無為法」っおいう「垞䜏䞍倉の法《虚空などや珟前しおる法、珟前しなかった法》など」に分類しおたり。。

 

 

郚掟仏教でも特に「倶舎、唯識」などは、この《存圚ずしおの法》を「我空法有」を基本にしお「五䜍䞃十五法ずか五䜍癟法」に分類しおたりしたす。

これは「存圚をパタヌンに分けお、それらをさらに现分化した分類を法」っおいうおたす。

※ややこい分類を芋おみたい方は👇

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D

 

たた「単玔」に「教え」を「法」っおいうたりしたす。

 

 

たぁこれらをたずめたら。。

1、「真理」をあらわす仏教の「教矩」「教法」「法則」っおいう偎面。

2、「存圚するもの」の意味から《存圚の「性質」「埳性」》だったり、

3、「具䜓的な存圚」を構成しおいる「実䜓的芁玠」

(珟代なら原子や量子的なもので、仏教の叀兞的な存圚の構成芁玠の「池氎火颚空」の《五倧》ずかっおいうパタヌンになるでしょう。)

 

意倖ずサラッず、仏教で「法」っお぀こうおたすけど、実は仏教で「法」いうずきは、これらの「なにを指しおいるのか」定矩しないず間違うこずが倚いんです。

 

そういう意味で、「仏兞は読んでお《悩たしい》ずきがある」から、

 

ヌヌヌヌヌ(ここでいう「法」はどれやねん)っお感じになりたすねん‌

 

けど、「法においお無碍で《これを劂来》ずする」っおいうこずから、これらの「法」すべおを包摂しおお、

「《劂来は》これ凡倫、声聞、瞁芚、菩薩(仮和合の存圚)じゃなくっお、《それらに内圚する「仏性」そのもの》です」っお曞いおたす。

【ここで吊定されおる「菩薩」は《自我行を行じる聖者(埓因至果)の人間などの菩薩》のこず】

 

ほんで、「劂来は身心智慧。。。」っお「時空を超えおあらゆる事物に遍満しおお、さたたげるものはない(障碍するものがない)から、虚空っお蚀いたす。。」っお曞いおお。。

「劂来→垞䜏(倉易なし)→実盞」っお曞いおお、「だから劂来はずどの぀たり涅槃であるけど、単玔な涅槃じゃなくお、いわゆる《無䜏凊涅槃》」なので。。

《涅槃》は《涅槃ぞ導く「利他」のムヌブメント(動き)を自然に起こし》「䞀定な凊に安䜏せず」《無䜏凊》の法則に埓っお「菩薩になっお教化する」んですっおいうおお。。

 

真劂法性(実盞無盞)「涅槃」は、「垂迹」(すいじゃく)「埓果向因」(じゅうかこういん)っおいう動きを起こすので、さずり(涅槃)の「果䜍」から利他するために「因䜍の菩薩」に転じあらわれたすねん。

そしおそれこそが「菩薩(法蔵菩薩)ですねん」っお。。

 

芪鞞さんは、「真仏土」の「智慧」を具䜓的にあきらかにするために。。

「五念門の讃嘆門行で《倧䌚衆門》の果が起こり、回向発願門から《薗林遊戯地門》の果が起こるずいう」「五念門五果門」の「行」が《利他を行じる》っおこずを、具䜓的に蚀いたくお、こういう匕甚をしおいるように思えたす。

 

芪鞞さんは、涅槃経から「法蔵菩薩」を解釈しおはっお。。

「凡倫にも仏性がある」から「法蔵菩薩の行(砎我行)」を行じお、「自我行」ではなく「劂来行」の「五念門」を行じたら《因果同時》に「五果門の利他を行じるものになるよ」っお勧めおいるようです❣

「真仏土文類」ですし、「方䟿則」はほがありたせんねん‌

 

ここたでで「真仏土」は「光明」で具䜓的には「智慧」で、その智慧の埳がこの「涅槃の埳」で、

「涅槃の埳」は「遍満しおる」から「法蔵菩薩道」の「五念門五果門」を行じれば「利他」の「薗林遊戯地門」になりたすねんっお、どんどん具䜓的な定矩をしお論を進めおいはりたす❣

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/124−16👆

 

 

 

2019/02/114−14

 

ここたでに「涅槃経」の「涅槃の四埳」に぀いお匕甚しおきおはりたすけど。。

「我」の埳に぀いおは、匕甚されたせん‌

これっお意倖ず「重芁」だず思うんです。

 

涅槃経的には「無我」が「䞀切我、劂来我、仏性我」っおいう「倧我」であるっおいうようなこずをいうおるんですけど、芪鞞さんは「我の吊定」を培底しおいお、「それすらも受け入れられない」っおいうこずなんやないかっお思えるんです。

だから、ここから「倧我」をすっ飛ばしお、「浄の埳」に぀いお匕甚しはりたす。

 

【14】に、たず「倧涅槃」は「玔浄」っお「涅槃の浄埳」の「前提」が曞かれおいたす。

「玔浄」っお、「ピュア」「クリア」っお感じですねんけど。。。

「ありのたたの状態」「自然のたた」「自我で成り立っおいない」「色も圢もなくこずばも絶えた状態」぀たり「無垞無我、空」「実盞無盞」ずいった意味でしょう。

そこで、「浄」に「四皮」あるっお曞いおお。

 

1、二十五有(これはややこしいから「迷界」「迷いの状態」)っおこずでいいんですけど、

あえお二十五有っお曞いおるのは、ずにかく「あらゆる。。もうずにかく迷いの状態党郚」っお定矩しおるんです。

この「二十五有の迷界」を断ち切るから、「浄」っおいうっおこず

ほんでこれが「涅槃です」っお、「基本定矩」しはりたす

 

ここで芪鞞さんは、「こういう《さずりの状態》぀たり涅槃《は有る》から《涅槃》っお《名づくこずを埗る》」けど「実盞でいうず、あるわけじゃない」っお曞いおはっお。。

確かに、「色も圢もなくこずばも絶えた状態」は「無為、空性、無我」っお感じで「さずりずいう状態」ずしおは有るっおいえたすねん。

「無い」っおいう状態が「有る」っおこずで、それを「涅槃」っお蚀いたすねんっおこずです。

けどあくたでも「名づくこずを埗る」っおこずで、《蚀語化》《こずば䞊の存圚》だから「実にこれ有にあらず」っおいうおはりたす。

 

しかしここを、脚泚に曞いおるように、「かくのごずく涅槃もたた有ず名づくこずを埗れども、しかもこの涅槃は、実にこれ有にあらず」っお読むず、

「涅槃は有るっお蚀っおもいいけど実際は無いんです」「涅槃は有為法じゃなくお無為法ですねん」っおいう意味になるから、けっこうこの方がスムヌズに読めそうやのに。。

 

芪鞞さんがあえおこんなややこしい読み方をしおはるのは。。

☝(侊)の《さずりの状態は有るから涅槃っお名づくこずを埗る》っお《》の郚分を぀なげるず、

「色も圢もなくこずばも絶えた、涅槃ずいう状態は、無いけど有るから、《涅槃》っお《蚀語化》できたす」

っおいうこずで、

「涅槃ずいう名を埗る」っおいうこずが「俗諊」ですねんっお匷調したいんやず思うんです。

せやし、「諞仏劂来っおいう蚀語䞊の存圚」は「さずりの俗諊(蚀語化)」ですねん。

぀たり䞖俗にわかっおもらうために「蚀語化」しお《有るっお衚珟しおるこず》ず同じように《涅槃は有る》っおいうこずもそういうこずです」っお続いおたす。

 

぀たり脚泚のように、「涅槃も有るっお蚀えるけど実際はないんです」っお読むず。

「涅槃」も「無垞無我、空、実盞無盞だっおこずね」っおなるから。。

「涅槃」っおいう「文蚀が有る理由」ががやけおしたいたすねん。

いうたら「そもそも無為無盞なら《涅槃》っおこずばも䞍芁やんか」っおなりたす。

 

☆☆芪鞞さんは、「涅槃」っおいう「こずばの必芁性」ず「その蚀葉が瀺すこず」の重芁性をいうおはるんです☆☆

 

結果「䞖俗のために」「さずりが《涅槃》っお俗諊化(蚀語化)されおる」っおいうこずを、

たずポむントにしたいんでっしゃろっお読み蟌めたす。

ほんで、「涅槃ず《名づくる》こずを埗」っお、「色も圢もなくこずばも絶えた状態」を「涅槃」ずか「諞仏ずか劂来」っお「名づけるこず」が意味をもっおいお。。

 

「菩薩が成仏しお、諞仏や劂来や還盞回向ずいう状態になる」っお「蚀語化」するこずに「意味がある」っおいうこずでもあるように読めたす‌

☆☆☆

ここを「行文類から蚌文類」を通しお《真実則》で理解するず、「私の自我名」が「五念門の讃嘆行を行じるなかで《劂来名》に転じられお」「涅槃」ず《名づく》「さずりの状態」になり、「五果門の利他」「薗林遊戯地門」に至るっおいう䞀貫性が明確になり、「称無碍光劂来名」が「涅槃に至る行」っお明確になりたす。

☆☆☆

だから、「真実偎面」で、䟋えに「䞖の䞭で《父母》なんお実圚じゃない状態を《父母》っおいうおる」ように。。

「涅槃っおいう文蚀も䞖俗にしたがっお《仏法を説くにあたっお》諞仏が有るずか倧涅槃ずかっおいうおるんです」っお曞いおたす。

 

぀たり「涅槃」は《色も圢もなくこずばも絶えた「さずりそのもの」やし「浄」》っおこずです❣

 

歎異抄第5条の「父母の孝逊のために念仏したこずはない」っおいう理由はこのこずだっおいうなら、スムヌズなんですけど、惜しいけど歎異抄の「そのゆえは。。」からがおかしいんです。

ずりあえず「おかしい」んですけど、ラストの「たずは有瞁を床すべき」っお、さずりに「有瞁優先(うえんゆうせん)」っお「そもそもさずりに優先順䜍」はないやろ‌っおツッコミはいりたす

もちろんこれを党お「珟生埀生」やっおいうんなら、ずりあえずいた「関係者に取り組みたしょう」っおこずならわかりたすけど、「いそぎ浄土のさずりをひらきなば」が前提やったら、「劙芚」前提になりたすし。。「いけおたぞん」。。

たぁ歎異抄は「問題定矩郚分」はいけおたすけど「回答郚分がいけおぞん」のんです。

 

そしお涅槃の「浄功埳」その2。

「業枅浄」っおこれは、「涅槃っおいう蚀語化ず同じ、諞仏劂来の行ない(業)」は、「自我」による行ないやおたせん‌「利他行」のみですっおこずです。

ここで「倧浄」だから「倧涅槃」ですっお、「修食するぐらい《浄》」ですねんっおこずです

 

そしお䞉぀目。

「劂来の身」は「無垞に流されない、倉化しないから枅浄です」っお。。

そりゃそうです。「無垞無我、空性」の蚀語化ですから。。

これも「倧浄で倧涅槃」ですっお曞いおたす。

 

四぀目。

「心が枅浄」ですけど、ここに「有挏(うろ)」っおおたす。

有挏sāsrava)っおのは、「倶舎や唯識」でいう「法有の煩悩の法」をいいたすねん。

挏āsravaっおのは、さたざたな心の汚れの総称ですけど、なんで「挏れるやねん」っおいうず。

「汚れ・煩悩は六根(芖芚・聎芚など五官ず心)から流れ出お、心を散乱させる」っおこずです。

せやし、逆に「煩悩の汚れが滅し尜された状態」《仏心を無挏むろ anāsrava》っお蚀いたすねん。

けど、「法有」前提でなくおも「法空」でいうおも、「そもそもここでいう諞仏劂来は《無盞》」の「蚀語䞊の存圚」やし「挏れようがおぞん」。。

「人間や衆生は《挏れ》」たす❣

 

ずりあえずここたでに「涅槃の埳」に぀いお曞いおはっお。。

「真仏土」は「光明」で具䜓的には「智慧」で、その智慧の埳がこの「涅槃の埳」っおいう流れになっおたす‌

次には、この「智慧」を「菩薩道」ずしお「五念門五果門」「薗林遊戯地門」にあわせおいかはりたす❣

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/114−15☝(未)

 

 

2019/02/094−13

 

345ペヌゞの【12】は《涅槃の埳》の䞀぀目の「垞」に぀いお曞いおたしたが、

【13】は、涅槃の぀目の《埳》「真楜、法楜」に぀いお曞いおたす。

 

ここでは、出だしで「倧楜」っお衚珟しおたす。

この倧楜の前提ずしお「涅槃は無楜なり」っお曞いおたす。

これは圓然なこずで、「色も圢もなく蚀葉も絶えた」「法性」っおいう原点は、「苊楜の定矩ができない状態」なのですから、圓然なんです

 

しかし「この苊楜を定矩しないこず」これこそが「倧楜」なんです‌

この「倧楜」に「四皮類ある」っお曞いおたす。

 

1、これこそ、「䞖俗的な楜を求めない(諞楜を断ずる)」こずで、「䞖俗的な楜を求めるこずは《苊》です」っお曞いおたす

そしお「無苊無楜」が「倧楜」で《涅槃の性》っお曞いおたす。

 

぀いで、「①凡倫の楜ず②諞仏の楜」の定矩をしおいたす。

①凡倫の楜は、「無垞の䞊に成り立っおいるから、敗壊(壊れる)」っお「マゞ無楜(è‹Š)」ですっお曞いおたす。

②諞仏の楜は、「倉易しないから《垞楜》だから《倧楜》っおいいたすねん」っお曞いおたす。

 

この②は「倉化する(ç„¡åžž)を受け入れおいる状態だから(無垞を垞ずしおいるずいうこずだから)倉易しない」おいう意味です。

歎異抄第条の「法然聖人に隙されお地獄に堕ちおも埌悔しない」っおいうこずが、たるたるこのこずで、第条の「そのゆえは。。他の行ができる私なら、地獄に堕ちたら埌悔するかもやけど、残された道は念仏しかないから埌悔したぞん」っお、「ほな他の行ができる前提」なら「埌悔するんかい‌」

っおツッコミ入れたくなる理由が曞かれおたすが、これは「唯円か誰かの勘違いか」「唯円向けなのか」。。

「埌悔しない」っお理由に぀いお、「倧楜は、そこじゃないですよ」「あなた方が思っおいるような凡倫の楜ではないんです」っお「唯円か誰か」にいうおるはずなんです

もはや、「地獄ず極楜」は「察立抂念ではなくお、同次元に荘厳されおいたす」たたは「念仏で無垞を受け入れれば、地獄極楜は問題じゃない」っおこずになるので、ここはけっこう重芁ポむントです‌

 

☆☆☆

この「涅槃経」は「善男子よ」っお呌びかけおるので、「凡倫察象説法」ではなくお、

「倧乗菩薩道の行者察象」で曞いおるっおいうこずがポむントでもあるし、察象が「唯円なんか」だず必ずしも「唯円が善男子」じゃなかったっおいうおもいいかもです

☆☆☆

 

぀いで「善男子よ」「感受」する䞊で「3パタヌンある」っお曞いおお、「苊受」「楜受」「䞍苊䞍楜」が䞖俗レベルであるけれど、これらはみんな「苊」で、䞖俗の「苊でも楜でもない(䞍苊䞍楜)」っおいうのは、文蚀が涅槃の「䞍苊䞍楜」ず同じでも、「内容は党く違いたす」っお曞いおたす。

 

ずにかく「無垞の䞊に成り立っおいる状態はすべお《苊》」なんです。

「倧楜」だから「倧涅槃」っおいいたす。っお曞いおあっお。。

 

2、に、「涅槃の性質は倧寂静」です。っお曞いおたす。

だから、「䞀切憒鬧(かいにょう→いろんなこずに煩わされる)」の「有為法」を離れるから《倧寂》っおいいたす」っお曞いおお、「涅槃寂静」に぀いお、「事実定矩」しおたす。

実際に「名字を入れ換えお、無碍光劂来を䞻䜓にしおいるず静寂」になりたすねん❣

䞖の䞭で「客䜓(仮名人)のわたしずいう生呜䜓」ずしお「法蔵菩薩たたは称無碍光劂来名」を生きおるず、「䞖俗に振り回されるこずも、自我に振り回されるこず」も無くなっお行き、冷静で静かになりたすねん。

Aも「テレビを芋なくなった」ので「䜕が䞖間で起こっおいるか、いちいちの情報は知りたせん」し、日本の䞖の䞭の情報は「完党操䜜(プロパガンダ)前提」なので、「アホらしくお芋たせん」

たた、ネットの情報も仕分けしおいけたす。

仕分けの「智慧ポむント」は、「情動や動物脳」に反応を促そうずする情報は、ほが90%以䞊「プロパガンダ(悪意操䜜の広告、誘導)」です。

こうやっお「俗䞖のニュヌスや情報」はだれがどうやっお操䜜しおいるかずいう芖点を「智慧」で芳られるようになるず、「慌おるこずも、煩悩が隒ぐこずもないのでムチャ楜」ですねん‌

けど、この楜は「マゞマゞ䞖俗的な意味やありたぞん」「どうなろうず圓たり前ずいう状態に萜ち着く」「䞖俗の自我に執着しなくおもよくなる」補足3の97、98の「独立者」っおいうこずが、こういうこずなんだろうなぁず思いたす。

 

3、に「䞀切智」だから「楜」だっお曞いおたす。

たしかに「智慧のある状態ず無明の(智慧がない)状態」では、䞖界が党く違っお芳えたす。

そしお、ここに「諞仏plus劂来」っお。。「劂来」が出おきたす。

「凡倫を智慧に誘導する、存圚ではない存圚」だからでしょう。

諞仏が讃嘆する「智慧に誘導する《真実則》の存圚」ずしお「䞀切智」に含たれるので、

「plus劂来」になっおいるようです。

 

4、に「䞍壊」(壊れない)だから「倧楜」だっお曞いおたす。

「因瞁生起」したもの぀たり「有為法」は、「無垞」の䞭で「壊れ」たす。

「劂来」ずいう「色も圢もこずばも絶えた真劂ぞの誘導蚀語」は「そもそも《法》(無為法)」なので、壊れようがありたせん。

だから「金剛䞍壊」で「煩悩身」でもないし「無垞の身」でもないから、「劂来」は「倧楜」で「倧涅槃」ですっお、そりゃそうでおた

「あくたでも蚀語䞊の存圚(俗諊もしくは方䟿)」なんやし。。

けど、「煩悩の凡倫」が「劂来に出䌚っお、智慧を埗お、真劂の《倧楜》に向かうためには重芁な蚀語䞊の存圚」だから「劂来」っおいうのは重芁ですねん‌

 

ここたでで、「《垞ず楜》涅槃の二぀の埳」に぀いお曞いおはりたす❣

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02094−14⬆

 

 

 

2019/02/084−12

 

344ペヌゞの【12】に。。

「涅槃経」から、「道」には「垞道」ず「無垞道」ずある的な曞き方がされおいたすが、

これは、「無垞に振り回されるか、《無垞を垞》ずしお歩めるか」っおこずです。

 

ここから「涅槃の四埳」(芪鞞さんの匕甚は「䞉埳」)に぀いお曞いおはる郚分です。

345ペヌゞに「䞀切衆生は。。。煩悩に芆われお」っおあっお、あくたでも「芆われおる」ので、

「仏性有り前提」ですねん

 

ほんで「慧県」がないから「無垞の䞭にある」こずが芋えずに、䞀生懞呜に「戒、定、慧の䞉孊」を修行しお「道→菩提→涅槃」を芳お「菩薩が道菩提涅槃を埗る」っお「名づく」っおあっお。。

本質のないこずに《ずりあえず》「名づけ」たすねんっおこずをいうおはりたす

 

ここでいう「䞉孊」は《真実則》の「讃嘆門」(砎我)のこずやっお蚀いたいから「慧県」ずか、

このすぐあずに「称量」っおいう文蚀をあえお匕甚しおいる様子です。

 

぀たり存圚の本質は「無我、空性」ですっおいう意味を「䞍生滅」「色像ないけど仏性が芳える」「よくよく称量(讃嘆門)しお知りなはれ」そしたら「(真)実の(はたらき)甚が芋えたっせ」っお曞いおたす。

この「実」に「甚あり」っおのが「劂来する」っおこずやっおいいたいっお様盞ですねん❣

 

けど、「衆生の心」はそもそも「法有」やけれど「智慧で芋れば、色(存圚)でも、長短でも、粗(あらい)こずも现(埮现)でも、束瞛でも解脱でもないので、《実盞無盞》で「芋えるような性質のものやない」っお「法の本質による無垞の《垞》぀たり実盞を芳る」っおいう功埳に぀いお曞いおたす‌

 

なお「倧乗の涅槃経」は、韍暹の埌の成立で「倩芪さん」の圱響が匷いず蚀われおるので、

韍暹の「我空法空」やなくお「我空法有」っおいう、「我は空」やけども「法は有る」っおいう解釈になるので「倩芪さん」の「倶舎、唯識」で「五䜍䞃十五法」たたは「五䜍癟法」の「法」は「有る」っおいう前提。。

「法有」前提でここは曞かれおたす❣

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/084−13⬆

 

 

 

2019/02/044−11

 

343ペヌゞの【11】の匕甚から、「涅槃経」の「四埳」(ただし芪鞞さんは「我」を匕甚しおぞんので「䞉埳」になっおたす。

たずは「垞、楜、浄」の䞉埳の「垞」に぀いお解釈されおたす。

 

「そもそも有為(存圚)は、みんな無垞のなかにある」

「虚空っおいう《空》状態は、存圚ではないから《無為》っおいう」

だから「無為は《垞》」ですっお曞いおたす。

「いろもかたちもないこずばも絶えた状態」は無垞に巊右されない「虚空」やから、

「垞」ですねんっお、芁するに「無垞は垞」ですっお、

「存圚は《倉化する》っおいうこず自䜓は《倉化しない法則》」ですっおこずです❗

 

「倉化するずいうこずは倉化したせん」「だから真理そのものは《垞》」っおこずです。

ここが受け入れられたら、「私」っおいう「自我」は倉化するけど「私即仏性」っおこずで芋れば、

「倉化しお圓たり前の無我な存圚」っおこずになっお「仏性→無為→垞」っおなっおたす。

 

ほんで、そこから「非䜜の所䜜」っおいう「神様ずか誰かの意図ではなく」自然の智慧が「釈迊の頭脳から出おきた劂来っおのは。。」

《劂より来生した》劂来だから、「虚空→仏性→劂来→無為垞」っおなりたす。

「釈迊の頭脳から出おきた」っお感じで経兞を読むずいいのですが。。

「釈迊が智慧(仏性)で発芋した《虚空の真理》を、匘く広めるためにわかりやすく《劂来のストヌリヌ》っおいう方䟿偎面を発明した。」っおいえば、珟代的ですねん‌

 

だからここで「仏は垞」っお曞いおお、「垞は法」っお曞いお「法→無為垞」っお「䞉宝」党お「垞」っお「迊葉菩薩さん」の問いの流れから、「すべお無為に垰結するから垞です」っお曞いおはるんです。

これを「おんなじ牛乳の味がチヌズになっおいく様子」を「乳味、酪味、生蘇味、熟蘇味、醍醐味」っお「おんなじ牛乳」が劂来っおいう「究極の味」になるっお䟋えおお、

でも根本は「すべお牛乳」でそれが「仏性によっお熟しおいく様子」を衚珟しお、

この最高の醍醐味の薬は「そのほかの薬が党郚おさたっおる薬で、これを飲んだらどんな病気も治る」「衆生の煩悩や矀に振り回されるっおこずが陀かれたす」っお曞いおたす。

 

この䟋えで、「仏もこれず同じ」で、「仏→十二郚経(経や偈などの十二の説法)→修倚矅(経兞)→方等経(倧乗経兞)→般若波矅蜜(空の智慧を説く䞭芳)→倧涅槃」っおなりたすねん。

これが、「牛乳が醍醐味の薬」になるように、「仏が倧涅槃の教え」に進化しおいくプロセスをあらわしおお、「醍醐を仏性に䟋えおお、これが劂来っお薬になっお、私たち衆生の病いを治したすねん」

せやから「劂来が持っおる功埳は、無量無蟺䞍可称蚈(むりょうむぞんふかしょうげ)っお蚀いたすねん」っお曞いおたす。

 

 

  

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/02/044−12⬆

 

 

 

2019/01/294‐10

 

342ペヌゞの【】の涅槃経の匕甚ですけど。。

ここからは真実のさらに真実偎面で曞かれおいたす。

たぁずにかくこの「涅槃経」の匕甚ですねんけど「どんだけややこしいねん」っお感じで始たりたす。

ずにかくこの郚分を敎理しおみたすね。

単玔に《文蚀》を抜き出しお䞊べたす。

 

①解脱→虚無、②虚無→解脱

③解脱→劂来、劂来→虚無っおずころたでを解析しおみるず

 

①は、有為法っおいう《存圚認識》をしおいた衆生(䞻に人間)が《さずる》ず「解脱」になっお、

本来は「虚無」だったっおなる。ここは《成仏ぞの菩薩の歩み(自利)》をあらわしおいたす。

これが「解脱→虚無」

 

②そしお《そもそも自我》は「いろもかたちもなく、こずばも絶えた状態」の「虚無」から《因瞁生起》したものだから、《菩薩道》を歩めば「解脱」に至るっおいう《道理、真理を智慧ずしお知る》っおこずです。

これが「虚無→解脱」

 

③人間が「解脱」しお《成仏するこずは即利他を行じる》「劂来」になるっおいうこずをあらわしおいたす。

 

そしおこういう①②の《自利利他(埀盞還盞)》のながれが「蚌文類」の《煩悩成就の凡倫が真劂䞀劂》になっお《劂より来生する》っおいう流れのこずだけど、

けっきょく、この「劂来」の本質も《そもそも実䜓のない》「虚無」やっおこずをいうおお。。

 

①②はそもそも「虚無」っおいう「いろもかたちもなく、こずばも絶えた状態」ですねんっおこずで、③の埌ろ「劂来→虚無」っおいうこずをあきらかにしおたすねん‌

 

次のめんどくさい郚分ですけんど。。

 

「劂来」は「虚無」ですっおいうお「非䜜の所䜜」っおいう郚分は。。

「劂来」っおのは「虚無」っおこずだから「非䜜の所䜜」っおこずですねんっお、これらは《自然》に起こっおいるこずで《誰かが意図的にしおるこずではない》っお明確にしおお《神》のようなこずではないっおこず

 

ほんで、「真解脱」→「䞍生䞍滅」「解脱」→「劂来」っおいうのは、

「真解脱」っお。。

「解脱」っおいうおも《声聞や瞁芚》などのいうおる「解脱」もあるけど、「䞍生䞍滅」を蚀うおる《倧乗菩薩道》が「真解脱」で、これこそが「解脱」ですっおいうおお。。

だから《声聞や瞁芚のような自利》だけやのうお「劂来」っおいう《利他》をしたすねん‌

っおこずです。

 

ほんで「劂来」だからっおいうおも「䞍生䞍滅、䞍老䞍死、䞍砎䞍壊」が本質だし「有為法」じゃないっおこずですねん❣

っお「劂来」っおいう《実䜓があるわけじゃない》っおいうおたす

 

 ã›ã‚„から「劂来《入》倧涅槃」っお改めおいうおお。。

 

「解脱」→「無䞊䞊」っおいうお《無䞊のさずり》っおいうお、

「真解脱」→「劂来」っお《ホンマの解脱は劂来する》っおいうおるんです。

 

だから、「阿耚倚矅䞉藐䞉菩提」を成し埗たら→「無愛無疑」になりたすっお、ここで「無愛無疑」を回曞いおお「阿耚倚矅䞉藐䞉菩提」になったら「自我執着」なんかの「虚劄分別執着」がなくなっお《砎我→名字の入れ換え》「無疑」になりたすねん。

 

ほんでこの「無愛(砎我→名字の入れ換え)」ず「無疑っおいう䞀心」によっお「真解脱」になるんでっせっお蚀いたい感じになっおたす

 

☆だいたい仏教で「阿耚倚矅䞉藐䞉菩提」は《サンスクリット語そのものを挢字で曞いたもの》で、「無䞊正遍道」っおよく蚳したすけど、「無䞊のさずり」っおこずで、

「ずにかくこれ以䞊のさずりはおたぞん」っお時によく䜿われたす。

 

この「阿耚倚矅䞉藐䞉菩提」を成し埗たら「無愛無疑」で「真解脱」になっお「劂来」するっお曞いた続きに。。

 

「劂来即涅槃」っお「涅槃っおのは寂静」っお蚀われおたすけど。。

《倧乗仏教》やず《涅槃は無䜏凊》っおいうお《固定した状態にはなくお利他の動きに転じるこず》っおいう意味を持っおるので、《利他の劂来になる》っおこずですっおいうおたす。

 

ほんで、「無尜」っおのは《華厳経の法界瞁起は「党おの瞁起っおいう圢匏の存圚」は「重々無尜」に関わり合っおいる》っおいう《真理》をいうおお、だから《䞀切が「仏性」ですねん》っおなっお、

そのこずが智慧ずしお受け入れられたら《さずり》に「決定(け぀じょう)」しお「阿耚倚矅䞉藐䞉菩提」に至りたすねんっお曞いおたす。

 

この流れをたずめるず、

最高の目的に䜿われる《阿耚倚矅䞉藐䞉菩提が劂来しおいお(他利)》その「劂来」っおいう蚀葉であらわされおる「智慧慈悲」を受け入れるず「法界瞁起→仏性」の《智慧》を埗る結果になっお《䞀切衆生のさずり》が「決定」し「阿耚倚矅䞉藐䞉菩提」に至っお《劂来(還盞の菩薩などに「報応化」)したす(利他慈悲)》っおこずですねん

 

これは、「䞀切法」がさずりを埪環する䞭に「そもそも䞀切衆生はある」っおこずを「信知する(無疑)」刹那に「因果同時」に「明確になる」《真実》です。

 

☆☆☆

たたややこしい文面ですけど、「さずり」を意味する蚀葉を単玔に矅列しおるっおこずやなくお、

この流れが《真実偎面》をあきらかにしおたすし結構重芁なんで、あえお飛ばさずに解析したしおん‌

☆☆☆

 

そこで次に「迊葉菩薩っおいう圚家の菩薩(浄土教が《圚家菩薩道前提》だからあえお圚家の菩薩)」が䞖尊に尋ねはりたす。

 

「涅槃、仏性、決定、劂来」っお蚀葉が「䞀矩名(同じ意味をあらわす名字)」なら。。

なんで「䞉垰䟝」するんでっかっお。。

 

仏(äž–å°Š)は回答しはりたす。

 

善男子(ここは菩薩道を歩む迊葉さん)、䞀切衆生はね。。

「生死っおいう虚劄分別(生死分断)をしお、怖畏(おそれ)るから、䞉垰䟝を求める(䞉垰䟝した方がええんです)」

「䞉垰䟝で、仏性、決定、涅槃の意味を知るこずになっお、(さずりの智慧によっお)怖畏(おそれ)がなくなりたすねん」

 

☆☆☆

ここにあるようにあくたでも「苊からの解攟目的」「真楜・法楜」を埗るこずが仏教の目的ですねん❣

☆☆☆

 

善男子よ

「法の名《蚀葉や単語(名字)》」にはね、《䞀矩異》(蚀葉は違うけど意味が同じ)衚珟や、法の《名矩倶異》(蚀葉も意味も違う)衚珟がありたすねん」

 

「䞀矩異」には《仏法僧、涅槃、虚空》なんかが「垞」をあらわしおいたす。

『泚』(仏法僧、涅槃、虚空っおいう《真理》そのものは「垞」っおいう意味です)

これらは《蚀葉は違うけど意味は「垞」っお同じ意味》をいうおたす。

 

「名矩倶異」でいうたら「仏→芚、法→䞍芚、僧→和合」

『泚』(仏はさずる䞻䜓「芚」、法はさずられる客䜓「䞍芚」っおいう意味です)

これらは《蚀葉も意味も違うこず》をいうおたす。

 

「涅槃→解脱」「虚空→非善・無碍」っおいうのも「名矩倶異」ですねん。

『泚』ここの「非善」を脚泚に「非善は善悪っおいう盞察的なものを超える」っおこずです。

っお曞いおたすけど「超える」っお「真宗でよく䜿われたすけど、あいたいな蚀語です」

 

「非善」は「さずり」においおは「こずばが絶えた状態」だから「善や非善」っおいう《蚀語定矩できない》っおこずです‌

 

真宗は、あいたいな衚珟や蚀語が倚いから「わかりにくい」っお蚀われるんです

 

䞖尊は「善男子よ」「䞉垰䟝もこのようなこずです‌」っお結んではりたすけど、

これらは「さずり」《真諊》をあらわす「蚀語」《俗諊》に぀いお、

《䞀矩異》ず《名矩倶異》ずいう぀のパタヌンがあるこずをいうおたす。

 

冒頭の「解脱」だの「虚無」だの「劂来」だのっおのもこういうこずだっおいうこずも意味しおるっお思いたすねん

 

ほんで、この぀のパタヌンの延長が「方䟿(ストヌリヌ)」になりたすけど、この「真仏土文類」は《真実則》のみに぀いおいうおたすから、この郚分の぀のパタヌンは《俗諊》衚珟に぀いおいうおたす‌

 

☆☆☆なんでこんなめんどくさいこずを曞いおはるのかっおいう目的が。。☆☆☆

 

【10】のさりげないけど重芁やからあえお匕いおる「䞀文」にある。。

「真仏土」を「光明」っお定矩したけど、

「光明の具䜓的意味は《智慧》である」っおこずですねん❣

〈䞍矞劣っおいう「疲れず衰えず」っおいう修食語は「智慧」がそうだから、智慧を埗たものもそうなる〉っおこずだず理解したしょう

 

☆☆☆

結論「光明」は「智慧」っおこずです❣

☆☆☆

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/294−11☝

 

 

2019/01/284-9

 

真実流れでこのたた「真仏土文類」に移りたす。

337ペヌゞの【1】の芪鞞さんの「埡自釈」から曞いおいきたすけど。。

「仏は䞍可思議光劂来」「土は無量光明土」っお曞かれおたすのんは、結局「どっちも《光明》」っおなっおお、

それが、「倧悲の誓願に報われた仏土(報身ず報土)で、第十二願ず第十䞉願が根拠です」お曞いおはるんですけど、「誓願に報われた、法蔵菩薩の行果」っおいうおるこの蟺は、「真仏土ぞの序曲」でおたす。

これがそのたた暙挙になっおいたすねん。

暙挙はこれだけっお「真仏土」やし「四十八願」でいうたら、これで党郚をあらわしおたすねん。

 

ã»ã‚“ã§æ„å€–ãšé˜¿åŒ¥é™€ä»ã£ãŠã®ã¯ã‚„ã‚„ã“ã—ããŠã€Œà€…à€®à€¿à€€à€Ÿà€­ã€Amitābha」(無量光)ãšã€Œà€…à€®à€¿à€€à€Ÿà€¯à¥à€žà¥ã€€Amitāyus」(無量寿)っおいう、「無量光仏」ず「無量寿仏」の二぀の意味を持぀耇合語から構成されおるので、チベット仏教なんかでは「別々の仏っおいう扱いを受けたりする」んですねん。

 

だから337ペヌゞに「第十二ず十䞉願の匕甚」を曞いお、【4】のずころに「倧経」に出おくる「仏名」の「無量寿仏」をずりあえずたずは「根拠」にしお。。

そこから「光明」が出おくるっおいう流れになっずりたす(無量寿仏→光明)

これを逆からいうず「無量寿仏は結果《光明》ですっおこずですわ」。。(338ペヌゞ)

この《真実即》の流れで行くから「正信偈」は「無量寿劂来」から始たり「䞍可思議光」になっおるんです。

そしおさきほどの「根拠」っお思われおる「無量寿仏」を338ペヌゞでは、「無量寿仏」は「無量光仏、無蟺光仏。。」っお。。

結局、根拠ず思っおいた「無量寿仏」のさらなる根拠は「光明だった」っおこずに転じるんです。

 

だから【】に「真の仏も土も《光明》」になっおるんです。

たずは真の仏土は「光明」っおいう結論です。

 

そしおこの「光明」に出䌚ったものがどうなるかっおこずで。。 (いちいち「遇う」を䜿いたぞん)

338ペヌゞの4行目に「身意柔軟(にゅうなん)なり」っおいうずころを、脚泚では「やわらかでおだやか」っお曞いおたすけど。。

これは、【】の「異蚳の倧経」の埌ろから5行目にある「自圚の意の。。」っおいう「自圚に利他をする」っおいう意味で読たなければ、

「情」解釈になっお「柔軟」ずいう文蚀の意図が䞍明瞭になっおしたいたす。

 

☆こういう蚀語定矩をあいたいな定矩しおはいけたせん(真宗ではこういうケヌスが倚いようです)

 

いずれにせよ、ここで「真仏土」は、「光明」っおいう結論で、

光明に出䌚うず、「䞉垢ずか䞉塗」ずいうような「䞉倧煩悩」に「苊しむこずがなくなっお自圚になり、歓喜勇躍しお、善心利他心が生たれたすねん」っお。。

《光明に出䌚ったものがどうなるか》っおこずを曞いおたす。

 

ここに、「これは、光明にあっお煩悩が寿いのち終えお、解脱をこうむるっお。。」曞いおたすけど、ここの「いのち」は「時間軞に限定されおいる《自我》前提」で《寿》っお曞かれおいるので、

「光明にであっお、《自我》のいのち(寿)が終わっお解脱ぞ向かう」ず読み蟌めたす。

その「自我」のいのちが終わっお「菩薩道」を生きるようになるず「解脱を埗る」っおいうこずですねん

「無量寿仏」に「無量(寿)」に぀いお、「《ア》ミタヌ」の「ア」は「吊定」を意味しお、「ミタヌ」は「思議や蚈る」を意味するので「無量」っおいう「量れない」っおいう「吊定の仕方」がされおいたすねんけど、さらに的確な蚀い方は「数に限定されない」っおいう意味ですねんから、

倧経なんかのいろんなずころに「数えられない」っお曞いおありたすねん。。

 

そしお぀づきに「無量寿仏即光明」ずいう「䞀仏」の光明が、「十方諞仏の囜土を照らす」っおいう「䞀切仏」を照らすっお「䞀即䞀切原則」で曞かれおいお。。

「照曜しょうよう」しお「聞こえざるこずなし」っお。。

「照らしずいお聞こえないこずはない」っお、《芖芚から聎芚》っおたたややこしげなこずが曞かれおたすけど、

䞀般的に日垞で「ええ倩気ですなぁ」っお、《倪陜が照っおる状態》を蚀語にしたすわねぇ。。これず同じこずが起こる前提っおこずです。

 

ほんで぀づいお「ただわれいたその光明を称するのみにあらず」っお「私釈迊」だけがいうおるんやなくお「䞀切の諞仏・・・」「こずごずくずもに嘆譜(たんよ、たんにょ)するこずたたかくのごずし」っお曞いおる通りですねん

 

「ええ倩気」になるず「ええ倩気ですなぁ」っお、いろんなずこから「聞こえおくる」っおこずですねん。

たぁここは、「もし衆生ありお、その光明の嚁神功埳を聞きお、日倜に称説し・・・」っお曞いおるように「日倜に称えたり」「説」っお、「語り合ったり」っおこずでっしゃろ。

ここらにはこういう「真実仏土の光明による功埳」に぀いお曞かれおいたすねん。

せやし《光明が仏道を歩たす》っおいう「真実偎面」を338ペヌゞの埌ろから4行目あたりで結ばれおいたす

そしお、ここからの匕甚は「同じ内容」に぀いお「異蚳の倧経」にお蚌明しおいたす。

 

【】の匕甚の䞭で、341ペヌゞの5行目に「蜎飛蠕動(けんぎねんどう)」っお昆虫に぀いお出おくるのは、「行文類」ず同じです。

 

ただ、このペヌゞの埌ろから8行目の「擒狩きんしゅ」っおいわゆる「畜生」を「獣」にたずえおいるのは、

人間が「論理」よりも「情ず暩力」によっお動くずいう「動物脳」優䜍の人が倚いこずを意味しおいるずも蚀えたすねん。(人間も煩悩で生きおるず匱肉匷食に怖れお生きるっおこずですわ)

擒っおいう字は“けものぞん"ですねんけどパ゜コンにはおたぞん

぀たりは「珟代人」でも意倖ず「論」よりも「情」優䜍なひずが倚い。。

ここが「完党真実偎面」(前頭葉)で論じきれない「情っおいう方䟿偎面が芁る」(扁桃䜓寄りの人がただ倚い)「人間も進化の途䞭」っおこずなのかもしれたぞん。

たぁずにかく「芪鞞さん」はそういう意味でか。。

《真実偎面ず方䟿偎面》で「教行蚌文類」を曞かれおいるんでしょうねぇ( ..)φカキカキ

 

ほんでたた、そのあずに「死しお埌」っお曞いおあるのも、「自我の死」を意味しおいるっおこずは、さきほどの「寿」ず同じこずですわ。

 

【】の匕甚に「圓生」っおいう郚分は、時間軞ずいうよりも、「たさに生たれるべき凊は」っお読むべきですねん。

 

この「圓」を挢文読みしお「たさに○○すべし」っおいうのは、「将来」ず読んではいけたぞん。。

「目前」のこずですねん。

「人間」を含めお「䞀切の存圚は刹那滅の繰り返し」っおいう「倶舎論原則」でいうたら、

「䞀刹那埌」ですし、即、目前の刹那でおたす。

「無垞、無我、空原則」でいうたら「因果同時」でもありたすねん。

ずにかくい「今」ずいうた瞬間に「今ではなくなる」「今」ですねん。

 

「阿匥陀経」に「已発願、今発願、圓発願」っおあるのも、「過去、珟圚、未来」の時間軞で読むず、「仏教の時間論」ずあいたぞん。

「そもそも方䟿経だから」っおいうよりも、「すでに発願し、今発願し、たさに発願すべし、そうなるず欲生する」っおよむほうが的確ですねん。

 

【】からの「涅槃経」は、ここたでの「光明」に぀いおの「方䟿に内圚する真実」が解釈されおいる根本で「ほがたるっぜ真実」に぀いお曞かれおいたすねんけど、ややこしいので、次回にしたすわ。。

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ 2019/01/274-10👆

 

 

2019/01/244−8

補足91から読んでみおくださるずいいかもです。

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku3

 

蚌文類の《還盞回向》の内容は、

313ペヌゞの【15】の「出第五門」ずいうスタヌトからわかるように、「五果門」なかでも「薗林遊戯地門」に぀いお曞かれおいるのは明確で、教行蚌文類は「真実偎面」で読む「五念門五果門」䞭心で構成されおいるのんは明確ですねんから。。

善導の「五正行」は「方䟿偎面」だずいうこずも明確で、「お西」の《五正行原則》の「法矩立お」は「教行蚌文類」すら読めない「埡文章䞭心時代」いわゆる「第二次倧戊前埌」たでの「教矩立お」やし、

教行蚌文類をこれだけ明確に読める珟代では、「教矩の芋盎し」が必芁やず思うんです。

 

そういう意味では、「蚌文類」は「仏教孊」なしには読めたせん‌

「無垞無我、空、唯識、華厳、涅槃、実盞無盞、真劂論」などは最䜎理解しお読たなければ、「理解䞍胜」になりたすねん。

できたらここをご理解くださいたせ❣

 

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase「関西颚仏教解説」

 

「お浄土に行ったらこんな䞖界で還盞回向したすねん」なんおいう話に、こんなに「沢山の匕甚は必芁ない」っお思いたせんか

 

なかでも317ペヌゞの6行目の〈略しおハ句を説きお。。〉っおずころに。。

「自利利他功埳荘厳次第に成就したたぞるを瀺珟したたえり」〜「仏の口業。。《名聞を知んぬ》」っお、浄土で「名聞」するの

☆☆☆

぀たり、「時空を超えお《生死分断分別》を超えおるこず」が明らかになっおたす。

☆☆☆

318ペヌゞにたたいで「人倩の倧垫ずなっお化を受けるのに堪えたひずは。。」ずもあっお、浄土に人倩がいおその「倧垫」っお、「なんで浄土で化を受けおその倧垫」

そしお、真ん䞭あたりに「菩薩の荘厳功埳成就を芳察する」っおあっお「真劂は諞法の正䜓なり」

「䜓、劂にしお行ずればすなわちこれ䞍行なり」「䞍行にしお行ずるを、劂実修行ず名づく」

っお曞いおお、「四行」に぀いお曞いおいかれたすけど。。

こんなんみな「仏教孊」ですわ

 

こういうこずは「仏教孊がないずわからない」んです。

320ペヌゞの〈䞉぀には〉っおずこに、「分別心あるこずなし」なんおいう文蚀でも「さらっ」ず「〈わけぞだおしないで〉っおこずね」なんお読んでたら、

続きの「あたねく䞀切䞖界䞀切諞仏の倧䌚(だいえ)に至っお、䞀䞖界・䞀仏䌚(え)」のっお、なにいうおんのんか「䞀即䞀切原則」がわからんず、ここにも「華厳経原則」があるこずがわかりたせん

 

ほんで321ペヌゞの「浄入願心」の「浄」が「無垞無我空、実盞無盞、䞀即䞀切、真劂䞀劂」などが元になっお、「法蔵菩薩の願心」に蟌められお「荘厳功埳成就」しおいるずいう「涅槃経」から来おいる「浄」の意味が消えおしたいたす。

 

だから、ここの「浄入願心」は「仏土、仏、菩薩」の「䞉皮荘厳には《浄》」が「願心」っお蚀う「俗諊」たたは「方䟿」に蟌められおいるっお読たなあきたぞん

 

せやから、「因果の浄」っお曞いおお、〈入䞀法句(にゅういっぜっく)〉っお「十䞃句ずハ句ず四句」が「広げたもので(広)」。。「䞀法句」が「略したもの(略)」やっお曞いおお。。

「䞀切即䞀」原則を元に「荘厳功埳」が曞かれおいるこずが明確で。。

☆☆☆

「法性法身」っおいう《真実から方䟿を出しお》。。「方䟿法身」っおいう《方䟿から真実を出す》っおいう「方䟿法身から法性法身を知る」っおいう『意図』が明確にされおお、

「この二぀の法身は䞀でも異でもない」っおいう【広略盞入】〈䞀即䞀切〉を「菩薩」が知らんかったら「自利利他」できたぞんっお曞いおたす

☆☆☆

そしお、続いお「䞀法句」が「枅浄句」で「真実の智慧無為法身」で、「真実智慧→実盞智慧→無盞→真智→無智。。無為法身→法性法身」「法性寂滅→法身無盞→無盞(だから自圚にいろんな姿をずる)→盞ならざるこずなし→だから盞奜荘厳法身」云々。。

なんおいう流れは、「仏教孊」さえ知っおれば、《なんお蚀うこずのない流れ》ですねん

☆☆☆

せやし、こういうずころは「そもそも無為の法」だから「凡倫の察象によっお荘厳された功埳成就」だから「菩薩」ずしお「珟生」に「名字名号」を行じるものが「このように珟実を芳察したり、このようにみんなが芋えるように教化するこずが《利他教化地》《垞行倧悲の益》を行じる」っおこずやっお、

なんの疑問もなく読み蟌めたすねん❣

 

結果325ペヌゞに「善巧方䟿」を「善巧摂化(ぜんぎょうせっけ)」っお曞いおお、ここたでのこずが「善巧方䟿っおいうこずですねん」っおいうこずで「かくのごずき《菩薩は》《広略修行成就しお柔軟心(にゅうなんしん)なり》」っおいうお。。

「察象に応じお柔軟に察応しお利他をする」っお曞いおたす。

この荘厳功埳などの根拠は第䞉十願あたりにあっお、第䞉十䞉願に「柔軟心」に぀いお願われおたす

 

そしお「蚌文類」の結論は、332ペヌゞから「五念門ず五果門」の因果であるず締めくくっおお。。

335ペヌゞの【18】の芪鞞の蚀葉に。。

「倩芪〈論䞻〉が《䞀心》っおいうお《矀萌》の苊が開攟される教えを開いおくれはっお、

それを曇鞞〈宗垫〉が《埀還回向》にあらわしお「劂来が法蔵菩薩に垂迹しお【私たちがすべき菩薩の行(道)】を教えおくれはった《他利》によっお、私たちが《利他》に生きるようになれる《深い意図》を広めおくれはりたしおん」

 

☆ここの「倩芪の䞀心」を「信文類」で「信楜→疑いのない䞀心」っおあらわしおはるわけです

 

぀たり「蚌文類」は、

「劂より来生し報応化した《劂来》」が「私たちに《他利》する」→「私たちが名字を入れ換える」(埀盞回向)→「自我名が転換した私たちが《号》になっお《利他》を行じる」(還盞回向)→「砎我された私たちが劂ぞ至る(劂去)」→「劂より来生(劂来)しお報応化する」っお埪環しおお、これが時空を超えお因果同時に起こるこずをいうおたす。。

 

この堎合の「劂来」は《真実偎面》では「無碍光劂来」、《方䟿偎面》では「阿匥陀劂来」っおこずですねんけど。。

「菩薩の行」っおいう時には、

「法蔵菩薩の誓願」のストヌリヌに「倩芪さん」が「五念門行」を《法蔵菩薩の行》っお定矩しお。。

「倩芪さんも曇鞞さんも」の《法蔵菩薩》で統䞀されたす‌

 

こういう「五念門五果門の埀盞還盞」の「埪環」を《曇鞞さん》があきらかにした「他利利他」の「深い意図(矩)」っおいうこずですやろっお思いたすねん

 

たぁ芪鞞さんは、こんな颚に曞いおはっお、「仰いで奉持しお、こずに頂戎したしょう」っお喜んではりたす‌

 

「蚌文類」はマゞマゞ「仏教孊」を知っおれば「どうっおこずない内容」なんですけど。。

なぜかスゎむ真宗孊の先生たでも「死埌の話」っおもっおいかはるのんが䞍思議でなりたぞん

 

ずにかく「生死分断虚劄分別」を超えた「䞀即䞀切原則の因果同時」の《真実則》で。。

「今私っおいう生呜䜓が名字名号の入れ換えによっおすべき《菩薩の行》」による「荘厳功埳成就」なんです‌

それが《方䟿偎面》か《真実偎面》かっおいうこずでしかないんです❣

 

「蚌文類」はその原則を「詳现に説明」しおはりたす‌

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/244−9⬆

 

 

 

2019/01/234−7

 

313ペヌゞの【24】から、《還盞回向》になりたす

ここでおもしろいのは、「利他教化地の益」→「必至補凊(ひっしふしょ)の願より出おる」→「䞀生補凊の願ず名づく」っおあっお《22願》が根拠で、「還盞回向の願ず名づくべき」っお曞いおおきながら。。

「論蚻」にあるから【ここで願文を出さない】っお。。(・・?)

願文は。。 

「たずひわれ仏ぶ぀を埗えたらんに ä»–た方ほう仏ぶ぀土どの諞しょ菩が薩さ぀衆しゅ わが囜くにに来らい生しょうしお ç©¶ãç«Ÿãã‚‡ã†ã—おかならず*䞀いっ生しょう補ふ凊しょに至いたらん その本願ほんがんの自じ圚ざいの所しょ化け è¡†ã—ゅ生じょうのためのゆゑに åŒ˜ãèª“ぜいの鎧よろいを被きお åŸ³æœ¬ãšãã»ã‚“を積しゃく环るいし äž€åˆ‡ã„っさいを床ど脱だ぀し è«žä»ã—ょぶ぀の囜くにに遊あそんで è©ãŒè–©ã•ã€ã®è¡ŒãŽã‚‡ã†ã‚’修しゅし åæ–¹ã˜ã£ãœã†ã®è«žä»ã—ょぶ぀劂来にょらいを䟛く逊ようし æ’沙ごうじゃ無む量りょうの衆しゅ生じょうを開かい化けしお*無む䞊じょう正しょう真しんの道どうを立りゅうせしめんをば陀のぞく åžžã˜ã‚‡ã†å€«ã‚Šã‚“に超出ちょうしゅ぀し 《諞しょ地じの行》ぎょう珟前げんぜんし 《普ふ賢げんの埳》をずく修しゅ習じゅうせん もししからずは æ­£ã—ょう芚がくを取ずらじ」

っお内容ですねん。。

 

ここで「願文を出さない」っおのは、「珟生即埀生」解釈なら圓然ですねん

《真実偎面》でいうたら「蚌文類」のはじめに「真劂䞀劂」になっお「劂来」するっお曞いおるのに、

ここで、この願文があるず「えっ。。必至滅床で真劂劂来になったはずの者が、たた䞀生補凊の菩薩に栌䞋げ」っおややこしくなるから、

たず、「論蚻」で「荘厳功埳」や「阿匥陀劂来の方䟿偎面含めお説明」しないず「五果門ずしおの還盞回向の菩薩」っおいう「立ち䜍眮」が明確にならないから、

「第二十二願文」を埌回しにしはったんでっしゃろ。。

 

けっこうこの願文はいろんな解釈しやなあかんぐらいめんどくさくみなさん苊劎しおはりたす。

結局「ゞャマになるのが《死埌埀生解釈》ですねん」

 

そもそも今たで「還盞回向」なんお、誰もいうおぞんこずを、芪鞞さんがいうおるから。。

みなさん色々ずこじ぀けるのに倧倉なようで。。゚ラむ先生もいろいろもっずもらしくいうおはりたすけど、結局わかったようなわからんような感じになりたすねん。

だから

「死んだら劂来になるの」「還盞回向の菩薩になるの」っお、ようわかっおぞん垃教が倚いんですねん

そんなん「真実偎面」の「珟生埀生」確定したら「還盞回向」なんお「五果門」で圓たり前の話しですわ

☆☆☆

「生死にかかわらず《滅床や真劂》に至ったものが《劂来するずきに法蔵菩薩のように垂迹する》」っおこずを蚀うおはるんです。

ここで「生死にかかわらず」っおいうのは、

「珟生で因果同時」に行じる《五念門五果門》ですし、そもそも生や死っおいう《虚劄分別、生死分断のない状態》を行じるんですから、《生か死か》なんおどうでもいいんです。

☆☆☆

せやし、「わたしならぬわたしの生呜䜓を《劂来名字》が五念門を行じる」っおこずですねんから、

「もはや《私》がない」状態の生呜䜓が「同時に五果門の利他を行じる」っおいうのが、

芪鞞さんがいうおる「究極の浄土教」で「真楜・法楜」の状態ですねん‌

 

ずころで「浄土教」で「䞉願」っお論じる時は、真宗みたく「18、19、20願」ずか、いろいろありたすねんけど。。

 

曇鞞さんは「第十八・十䞀・二十二」の䞉願を重芖しおはるようです。

『埀生論蚻』(例)に「第十八願の願力によっお十念の念仏により埀生する」っおいうお、

「第十䞀願」によっお埀生しお、正定聚を埗るこずにより迷界に垰るこずがなくなっお、

「第二十二願」によっお埀生した《菩薩》が階䜍を順次に登るこずを超え(諞地の行)お、いきなり普賢菩薩の慈悲・利他の埳行を身に぀けるこずができる。。

っおいうおたす。

これっお「死埌」のこずやないんです。

ずにかく「仏教ず盞応」の教えでは「生死分断はない前提」ですし、このこずは「真宗に限ったこずやない」んです。

芪鞞さんはこういうずこを根拠にしおはるのか、「諞地ず初地(歓喜地)」を同じ扱いしおはりたすねん。。

 

぀たり「曇鞞さん」では《法蔵菩薩の》五念門・五果門の行が、「方䟿の阿匥陀仏の四十八願の《この䞉願》に曞かれおる」っおいうおお、これを「䞉願的蚌」っおいうたりしおたす。

 

せやから、曇鞞さんは、第十䞃願の「諞仏の称名讃嘆」を第十八願ず匕っ付けお(二十四願経ず同じ)、

「法蔵菩薩の五念門行」の「讃嘆門行」(第十䞃願)を「第十八願」の「乃至十念の称名行者」になればっおこずで「第十八願」の称名の行者は、

 

《称名讃嘆門行》によっお「第十䞀願の必至滅床」(五念門→五果門))になっお、「薗林遊戯地門」の《利他行》になるから「第二十二願」になるっおこずで「第18、11、22願」の䞉願ですねんけど。。

 

芪鞞さんは「第十八願の解釈」を「至心信楜」䞭心で解釈しはりたすから、

「第十䞃願」の「諞仏の称名」を「至心信楜」で受けお「讃嘆(乃至十念)するものになる」っおいう解釈で。。

「諞仏の称名讃嘆に《至心》があっお→それを《信楜》で受けお→《欲生》になっおから、(乃至十念)になる」っおいう流れですねんし、

第十八願の成就文から「願生圌囜《即埗埀生》」ですねんから。。

 

けっきょく「珟生即埀生」「埀盞還盞因果同時」で理解したら簡単なんです。

 

こういう解釈で第二十二願を読めば。。

「浄土に生たれたもの《珟生で名字を換えお五念門行(称無碍光劂来名)を生きるもの》たたは《名号に自我名を砎られお名号䞻䜓で生きるもの》が䞀生補凊になっお、《諞地の行》(初地だけど十地党お)の行を、法蔵菩薩のように《菩薩ずしお》《垞行倧悲の益(信文類の十益)》に生きる」

っおこずですから、

 

「17、18、11願22願」の流れで、そもそも11願の《必至滅床》ず22願の《利他》を同じで解釈しおはりたす。

あくたでも「11願の滅床ず22願の利他教化地(還盞回向)は同じ」なのです。

぀たり「教行蚌文類の構造」は、

 

「教(倧経)→行(諞仏称名・真実心を含む)→ä¿¡(至心を信楜しお称名讃嘆する)→蚌(埀盞の必至滅床ず還盞の利他教化地)」これらが「因信心」で「因果同時(真実偎面)に起こるけれど、珟実的(方䟿偎面)には距離or 時間がある」

 

っおこずですねんから、

《真実偎面》でいえば、「還盞回向含めお《珟生の讃嘆行者》のあり方」っおこずで簡単なんですけど。。

《方䟿偎面》があるから、ここで「論蚻」を先出ししお、「第五果門を重芖しお」けっきょく【願文を出さない】っおかなりむレギュラヌなこずをいうお、316ペヌゞにさらっず「第22願を出しおる」っおいう流れになりたすねん。。

 

たぁずにかく長い匕甚ですけど、

①五念門五果門の《真実偎面》ず阿匥陀劂来の《方䟿偎面》を合わせお論じ。。

②行者ずしお「垞行倧悲する方向」ず「その䞭でこのように功埳荘厳を芳察する」っおいう、

「還盞回向の行者のありよう」を曞いおはるんです。

 

けど、「死埌埀生」っおいうお西の暙準で読むず「けっきょく䞀生補凊はい぀」「死んだら劂来になるの菩薩になるの」「亡くなった先祖が還盞回向の菩薩さんなん」「こんな長い内容はけっきょくお浄土はこういうずこですっおこず」「ほんで、死んだらこういうずこに行くっおこずでっか」

ずかわけわからん話しになるんです。

 

【以䞋芪鞞さんが還盞回向に぀いお曞いおはる郚分ず、A以倖に珟生埀生を論じおはる方の匕甚です】

 
コノグワンハグヱンサりノヱコりノグワンナリ。䞀シダりフショノグワントマフスナリ
 宗祖埡真蹟 九願文
 
必死補凊の願 䞀生補凊の願 還盞回向の願  
 
「教行信蚌」の蚌巻にお呜名し、さらには論蚻から匕甚しお
 
実盞を知るを以おの故に、則ち䞉界の衆生の虚劄の盞を知るなり。衆生の虚劄を知れば、則ち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、則ち真実の垰䟝を起こすなり。
 
道綜の安楜集、第十倧門には
 
このゆゑに『倧経』䞊・意にのたたはく、「それ衆生ありお、わが囜に生ずるものは自然に勝進しお、垞倫諞地の行に超出しお、仏道を成じるに至るたでさらに回埩の難なし第二十二願」ず。 安楜集 第十倧門
 
「劂来二皮廻向文」には
 
二぀に、還盞廻向トむフハ、浄土論ニ曰ク、
「本願力の廻向を以おの故にず、これを出第五門{コレハコレゎネンモンノりチニ゚カりモンナリコレハミダニョラむノリタノ゚カりナリ}ず名づく」
ず。コレハコレ還盞ノ廻向ナリ。
コノコボロハ䞀生補凊ノ倧願ニアラワレタリ。
倧慈倧悲誓願ハ倧経ニノタマハク、
「たずひわれ仏を埗たらむに、他方仏土の諞の菩薩衆、わが囜に来生しお、
究竟しお必ず䞀生補凊に至らしめむ。その本願の自圚の所化、衆生のための故に、匘誓の鎧を被お、埳本を積环し、䞀切を床脱しお、諞仏の囜に遊びお、菩薩の行を修し、十方諞仏劂来を䟛逊し、恒沙無量の衆生を開化し、無䞊正真の道を立せしめんおば陀かむず。垞倫に超出し、諞地(クワンギチナリ)の行珟前し、普賢の埳を修習せむ。もししからずは、正芚を取らじ」ず。文
 
 
コレハ劂来ノ還盞廻向の埡チカヒナリ。
コレハ他力ノ還盞ノ廻向ナレバ、自利、利他トモニ行者の願楜ニアラズ、法蔵菩薩ノ誓願ナリ。他力ニハ矩ナキヲモテ矩トスト倧聖聖人ハオホセゎトアリキ。
ペクペクコノ遞択悲願ヲコボロ゚タマフベシ。
 
たず泚目しなくおはならぬは、
 
≪垞倫に超出し、諞地(クワンギチナリ)の行珟前し≫
 
この「諞地」ずは五十二䜍説にあるように華厳経の『十地論』に説かれおる初地(歓喜地)から十地たでの諞々の行成就しお䜓珟されおくるいう意味なのですが、聖人はあえお「歓喜地」即ち≪初地≫ず読んでおられる。
ヌヌヌヌヌ(以䞋お西本流の蚀い分)
 
これはずおも重芁なこずです。
 
還盞廻向などずいうこずは死埌成仏した埌この䞖に還っお思うが劂く衆生を枈床するこずで、
この䞖で煩悩成就の凡愚が行うこずなどでは断じおありえない
 
【凡愚は理屈を蚀わずただ念仏しなされ。眪悪の凡倫が今生で仏ずなるような蚀動たかりならぬ】
ヌヌヌヌヌ
 
これ《本願寺の正統掟の蚀い分》‌
こういうこずず、「名号のひずりばたらき→願船埀生」は「真実則」ではあり埗ない
っおこずです❣
ヌヌヌヌヌヌ2019/01/234−8⬆

 

 

2019/01/224−6

 

蚌文類の【10】安楜集で、いいたいのは、

釈迊は自分より「かの(阿匥陀仏)の方が《すぐれおる》から䞀切衆生を《かの仏》に垰䟝させようずしお、釈迊はいろいろなずころで(かの仏)を讃嘆しおはりたす。」っおこずで、

 

曇鞞さんも「西に垰䟝しおはりたすから《倧経》を讃嘆しお(讃阿匥陀仏偈)」に、

《安楜(浄土)》には、声聞や菩薩衆、人倩などがいるけれど、これは、《他方》でこのようにいわれるこずに順じお「方角を曞いおはる」だけで、

実際には、みんな《真実偎面》でいえば、同じ「虚無の身で無極の䜓(さずりの実盞無盞、真劂)」ですねん。

だからこういう「(さずりの)平等力を頂瀌(びょうどうりきをちょうらい)」したすねん。。

っお結果《真実偎面》をいうおはっお。。

 

【11】からの「善導さん」は、「方䟿偎面」で、「阿匥陀仏の倧願業力」に乗っお「増䞊瞁(意識改革ず促進力)」にしたすねん。

けど、こういう「仏の意図は暁(さず)りがたい」から「疑わずに釈迊の発遣(はっけん)ず阿匥陀の招喚(しょうかん)にしたがっお」《浄土の楜》を蚌りたしょう」っお。。

 

☆☆☆☆☆

「完党方䟿偎面」から「難しいこずは眮いずいお、発遣ず招喚の法に奉(぀か)えお、穢身(煩悩に穢れた身)を捚おお蚌りたしょう。」っおいう感じです。

こういうずころから、「仏の意図はわからないから、さずりに぀いお《わからなくおもいい》」っおいうような「垃教」が倚いんでしょうけど、

珟代にはこの「方䟿偎面」は逆に邪魔になっお。。

【12】に善導さんもいうおるように、「西方寂静の無為の楜(みやこ)は、《あるずかないずか》っおいうこずも離れお、倧慈悲を以っお《法界》に遊ぶ」っお、「薗林遊戯地門」のような衚珟をしお、

「倉珟の荘厳が意(こころ)にしたがっお出おきたすねん」

ほんで「矀生」がこの「荘厳」を芋れば、「眪が陀かれお」。。

「劂去劂来(さずりぞの埀盞還盞)に垰䟝しお、煩悩の魔境にはずどたらないんですねん。」

っおあっお、この「垰去来」を、脚泚には「さあ垰ろう云々」っお曞いおたすけど、

「劂去、劂来に垰䟝する」ず「仏教孊解釈」した方が、「方䟿偎面に内圚する《真実偎面》」に笊合したす。

そしお、【12】の最埌には「この生平(生涯)をおえお」「かの涅槃の城(みやこ)」に入りたしょうっお曞いおお、「この生平」が「六道流転」の「生平なのか」「荘厳を芋お眪が陀かれおからの生平か」っおいうずころも、どっちでも読めたすが。。

この匕甚郚分は、「西方の《方䟿偎面》の䞭の《真実偎面》に぀いお曞かれおいる」ので、

「荘厳を芋お生きる生平が(畢)おえお埌」っお「おえおを畢竟(ずどの぀たり)」っお曞いおある以䞊、「荘厳を芋おさずりに向かう身ずしお癜道を歩んで埌」に「究極の涅槃(正芚)に至る」ず読むべきでしょう。

☆☆☆☆☆

 

そういうこずだから、【13】に芪鞞さんは、「このこず自䜓の党お」が「因果においお」「阿匥陀劂来の枅浄願心」「回向の成就」によるねんから。。

凡倫の「自我のたじわらない」「因果枅浄」になりたすねん。。

っお「蚌」の《真実ず方䟿》に぀いお結論を曞いおはりたす

 

こういう(Aが☆で囲った)郚分を読み違えるず「さずりや仏の䞖界は凡倫にはわからなくおいいし、

六道の生平(珟生)が終わっおから「浄土埀生したすねん」っおいうこずになりたすし。。

 

ほなら

☆【11】312ペヌゞの3行目の「来迎(らいこう、らいごう)」を「どう読みたすねん」っおこずになりたす‌

「真宗」は「䞍来迎」ですねんっおいうおるのに、「19願でも20願でもない郚分に《来迎》っお曞いおたすけど、どないしたす

っおなりたすやろ。。

 

これは、「荘厳功埳」を芳お生きるこずが「珟生」に「報、応、化」の「阿匥陀劂来の荘厳《䞻》功埳成就」を芋るこずでもあっお、「珟生に来迎を芳る」っおこずならスムヌズに論が䞀貫したすねん❣

 

どうしおも「死んだらお浄土」っおいうおるず、こういうずころのムリクリな぀じ぀た合わせが必芁になりたすねん。。

せやし「お西」の話は「よ〜わからん」っお、垃教䜿自䜓が「わからんでいいんです」っおむちゃくちゃいうおるず、

聞き手は「垃教䜿がわからんでええ」っおいうおるこずも「わからん」し、「そもそもの真宗もわからぞん」っおなっお、どっちもわからぞんっおなりたすねん

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/224−7⬆

 

 

 

2019/01/214−5

 

309ペヌゞの【7】ですけど、前回に続いお、「荘厳功埳」に぀いお曞かれおいるのですけど、

埌ろから3行目の「䞍朜薬」っおいう「腐るこず」がないクスリを皮子に塗れば、どんなこずが皮子におこっおも、因ず瞁によっお生たれるように、

「安楜浄土」至れば、その埌に「䞉界」぀たり「煩悩に苊しむ䞖界」に生たれお

「衆生を教化しようずしお、浄土の呜を捚おお願いによっお煩悩の火の䞭に生たれおも」

《䞍朜薬》に譬えおる「正芚の阿匥陀が䜏持」しおるから、「煩悩に染たるようなこずはない」っお、ややこしげなこずを曞いおいたすが、これは、

「荘厳《䞻》功埳成就」の「正芚阿匥陀 法王善䜏持」を解釈しおお、

 

その最初に、「正芚の阿匥陀の善力に䜏持」されおいるからっおいう理由を曞いおお、

ほんで「䜏は䞍異䞍滅で、持は䞍散䞍倱」っお解釈しおありたす。

 

぀たり、「真実(さずり)」そのものは、「煩悩の火」ずか「浄土の呜を捚おる」ずか、そういうこずはもずもずないのだけど、わかりやすく衚珟しお「浄土の呜を捚おお」「煩悩の火に飛び蟌んでも」っおいうニュアンスで、

そこに「衆生を教化しようずしお」っおいう「慈悲前提」だから。。

悟りの智慧には、「浄土ず煩悩の火」ずか「䞍異䞍滅(異や滅)そのものがない」たた「䞍散䞍倱(散や倱)そのものがない」っおいう「察立抂念がない」っおいうこずを蚀うおたす。

 

ここでは「荘厳」の《䞻》の「功埳」は「そんだけスゎむ䜏持力がある(方䟿偎面)」っおいうおるこずず、「さずりには察立抂念がない(真実偎面)」っおこずを蚀うおたす。

この蟺は「真実偎面」「方䟿偎面」こみこみの内容ですねん。

 

だから、この次は「荘厳」《眷属》「功埳成就」っおあっお、

「䞀切の煩悩界」の「生たれかた」には、「哺乳類」のように《胎》や「鳥類」みたいに《卵》や、

圓時は「湿気」から生たれるっお思われおた「パ」みたいな生たれ方をする「眷属」の生たれ方があるけど、「そういう苊楜を持った、いろんなランクの生たれ方がある」けど、

それは「いろんな行ない(雑業)」によるからで、

「みんなが同じように念仏」した「浄土の眷属」は「化生っおいう《応然ずした》特別な生たれ方をしたすねん」ほんで、この「化生」する念仏の道「ひず぀」でこういった「生たれ方」をしたすねんけど、

「遠く通じおお(氞遠の過去未来に通じおお)」「四海」っおいう「䞖界䞭の衆生」がそうなるから「けっきょくみんなが兄匟で、浄土の眷属(䞀族)」で、「無量」ですねん。。

っお曞いおお、「異なるように思える衆生(䞀切」も「浄土の眷属《䞀(むチ)》」ですねんで。。

 

っお「眷属功埳成就」っおいう「偎面」からいうおも「真実ず方䟿」があるけど、

「䞀即䞀切」ですねん。。っお曞いおたす

【8】も「芳経の九品(くがん)」も「いろんな川の氎が海には入れば䞀味になる」ように、

違いはおぞんねん。。っお曞いおたす。

 

【9】も「枅浄功埳成就」っお曞いおお、

「生の結果、いろんな煩悩を持っおるものが、浄土に生たれれば、煩悩がそのたた涅槃の(むチ)」になりたすねん」っお、ここたでには、

 

「荘厳功埳の《䞻》《眷属》《枅浄》の成就」に぀いお「真実偎面ず方䟿偎面」から、

《䞻(正芚の阿匥陀→さずり)》においおは「察立抂念」がないから、

すべおにおいお、「䞀即䞀切」ですねんでっお曞いおありたす

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/214−6⬆

 

  

2019/01/18[4−4

 

307ペヌゞ【2】ですが、これが「蚌文類」の根拠になる《第十䞀願》です。

「必ず滅床に至る願」っおいうぐらいですから《自我の滅》っおいう「真楜・法楜」に至る願いですっおこずで。。

 

ふ぀うに真宗で䜿っおいる「倧経」では「囜䞭人倩が正定聚」っおいう「初地(歓喜地)」に䜏すっお曞いおあっお、これは。。

「珟生のいた」「讃嘆門を生きるもの」が「正定聚(しょうじょうじゅ)」っおいう「䞍退転」になっお、必ず滅床っおいう「楜」を埗られたすねんでっお曞いおたす

 

けど【3】の異蚳の倧経「劂来䌚」には、「等正芚をなり」っお曞いおお、初地っおいう「41䜍」から

「51䜍」たでランクアップしおいたすねん

 

これは【6】の劂来䌚の成就文に「邪、䞍定聚」に察象しおたすし。。

結果、因果同時の「初地も等芚も同じ」っお解釈できたすねん

そういうこずやし、「行者は初地でもあり等芚でもある」っおいうおいい根拠が、ここで明確になりたすねん❣

 

ほんで【4】は、もず「倧経」の十䞀願成就文で、「十䞀願が成就しお、みんな正定聚に䜏しお。。邪聚、䞍定聚はない」っお曞いおお、「第十九願」に該圓するものはない。。

っおいうか、そもそも「邪や䞍定」は《自我の混ざり具合》ですし、《自我の混じる行者》は、

「お名号によっお私がお浄土で氞遠の呜をいただいお、たた䌚える」っおいう、【䞖俗の持ち越し】も含みたすねん

 

そこで、「補足3」の(88)にも曞いた。。

あくたでも「《珟生埀生》《珟生に功埳荘厳を芳る》《名字の入れ換えず讃嘆→時間のある因信心の因果同時》」が䞡方にたたがる「倧前提」の《キヌポむント》ですねん❣

 

っおいうように、【5】からは、「荘厳功埳」を芳る、倚次元智慧の䞖界芳が曞かれおいたす

【7】の「論蚻」の「荘厳劙声功埳成就」っおずこで。。

「凡倫が荘厳功埳に包たれお、《囜土の名字》が《仏事(利他)》をする䞭で、名字の倉換が起こり、《枅浄安楜》を願う䞖界に埀生を願っお、埀生を埗(果䜍)る」っおこずで。。

 

《珟生で埀生を埗お、荘厳功埳成就の䞭に生きる》

 

っおいうこずを明確にしおたす

ここからはこの《荘厳功埳》をむメヌゞ化しお曞いおいたすねん

 

(あんたり䞀床にたくさん曞かない方が読み手が読みやすいっおいうご意芋があったので、

今日はこのぐらいにしずきたすね(≧∀≩)❣)

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/184−5⬆

 

2019/01/174−3

 

この307ペヌゞの「報、応、化」っおのが、実はけっこういい加枛にあ぀かわれるか、

完党方䟿に埋没するかっおいう感じですねん。。

 

仏教孊的には、

䞉身(さんしん、さんじん)っおいいたすねん。

ずりあえず䞊べおみたす。。

 

【法身ほっしん】宇宙の真理・真劂そのもの、仏性をいうおお、䞻に毘盧遮那仏のこずで。。「華厳前提」解釈が䞻流でおたす。

【報身ほうじん】「これっお”仏性”が利他っおいう動きをする」っおいう「地球が回っおたす」的な「抜象解釈」されるこずがありたすけど、

 

☆☆☆

もずは「菩薩が行に報われおブッダ(普通名詞぀たり釈迊限定じゃない)になるこず」でしおん。

こういう、「般若(智慧)からの利他(慈悲)のはたらきをする。。」っおいうストヌリヌがあるのは、「阿匥陀仏」しかおぞんし、

「法蔵菩薩が阿匥陀仏になるっおいうストヌリヌで阿匥陀仏定矩」がよく䜿われおお、

 

こういう事情で「浄土論」なんかやず、はっきり「誓願のストヌリヌがあるから法蔵菩薩・五念門行」っお曞かれおお、「法蔵菩薩がメむン」やし「法蔵菩薩の行を五念門行」っお定矩しお「無碍光劂来」で結果「光明です」っお《真実寄り》しおたすけど。。

 

「善導さん」になるず「法蔵菩薩っおどこにいはりたすねん」っおいうぐらいの勢いで、「阿匥陀仏メむン」になっおお、《方䟿寄り》になっおたいたす。。

 

せやから「讃嘆(称名)の行者」は「法蔵菩薩メむン」🈁「念仏の行者」は「阿匥陀仏メむン」みたいになっおお、《真実寄り》🈁《方䟿寄り》かどっちにしたす

みたいな「論調」が「教行蚌文類」ですねん。。

 

けど、これは「マゞどっち寄りでもゎヌルは䞀緒」っおいう構造になっおたすし、

「たさに、教行蚌文類ひず぀(むチ)で、すべおをおさめずる(䞀切)になっおる」し、

むちゃくちゃ「スゎむ」っお珍しく「修食語」を䜿いたすけど。。

「普通では曞けたぞん❣」

☆☆☆

 

【応身おうじん)】は珟䞖で「さずり」を埗お、「梵倩さんが《説いおください》」っおいうたのに「応じた身」っおこずで「固有名詞」の釈迊牟尌仏でおたす

 

けど、この䞉身やったら「蚌文類」にあいたぞん。。

 

《法身(ほっしん)》っおいうのんには「色身(しきしん)」だの色んなパタヌンがありたすねんけど、䞊の぀が基本ですねん。。けど。。

 

 

芪鞞さんは、「法身ず報身」をむコヌルにしおはりたす。。

ほんで。。

【報身】「法身ず報身」を「劂より来生」っおこずで合䜓させお《真実ず方䟿》の根本を同じにしはりたす。。

【応身】これは応身でいうおる《釈迊限定》で基本路線でおたす。。

【化身】倉化身っお蚀い方もしたすけど、「真劂が凡倫のレベルにあわせお珟す、倩や竜神や人っおいうような仏以倖の姿」で「利他る」こずですし、

「すべお仏性原則」でいうたら、「虫も朚もなんでもすべお《功埳荘厳・倉化身》やっお芳るこず」っおいえたすねん

 

せやし、

「劂より来生し、報応化、皮々の身を瀺し珟じたたふなり」の郚分は、

《行者がどの目線で、䞖の䞭を芳お進むのか》っおいうポむントでもあるし、

「真実寄りでも方䟿寄りでも、《行者が結果そうなる》っおこず」をいうおるんです

 

けっこう「すらっず」

「報身は阿匥陀さんで、応身はお釈迊さんで、化身は倉化身ですわ」

っお感じで「流しおたう」のず、

 

そもそもの「劂より来生し」を「きっちり《真劂定矩》せず」に、「劂」を「おさずりの䞖界でお浄土のこずです」ずかっお、そこは「方䟿解釈したらあきたせん」っおいう「重芁な郚分」ですねんけど。。

 

「テキトヌにあしらっおるなぁ」っおいう垃教が倚い感じがしたすねん。。

 

ここは根拠ず展開を曞いおはる「チョヌ重芁な郚分」ですねん‌

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/174−4⬆

 

 

 

2019/01/164−2【蚌文類内容】

 

307ペヌゞから蚌文類の本文です。

さずりを「蚌」で曞くずきは、「因が果に珟れる」っおいう意味を含めおいるケヌスです

【1】の《真実偎面》で「真実の蚌」は。。

 

「利他円満の劙䜍、無䞊涅槃の極果」のこずですねんっお曞いおお、それが、

「阿匥陀ストヌリヌの第十䞀願」から出お来おたすっお。。

「論拠」を第十䞀願の「必至滅床の願」っおいうずこにおいお、さらにこの願を。。

 

「倧涅槃が蚌明される願(蚌倧涅槃の願)」っお名づけるっお曞いおお、ここから、

《方䟿偎面》で「しかるに煩悩成就の凡倫、生死眪濁の矀萌が埀盞回向の心行を獲れば、即の時に倧乗正定聚の数に入るなり」っお。。

 

煩悩が成就しおるっお。。「成就」っおのは。。

 

「身に備えおいる」っおいう意味で、「《成就》っおいう蚀葉は本来、智慧ず功埳をパヌフェクトに備えた状態(have)」をいいたすねん。。

「I have 智慧&功埳」→「I am 智慧&功埳」っお感じですねん

 ã€Žå€¶èˆŽè«–』に、なにかを「獲埗(かくずく→俗䞖甚語での読み)」するのに、

仏教でいう「獲埗(ぎゃくずく)」を䜿うず「獲は因䜍、埗は果䜍」で、621ペヌゞにも芪鞞さんはそう曞いおたす。

「獲っおいう因䜍」が進んで、維持継続しお「埗っおいう果䜍」になった状態を「成就」っおいうのんで。。「煩悩があなたの䞭で維持されお進んできたけどそれがボチボチ成就」っおいう「煩悩の果䜍(終わり)」になりたすねんで。。

 

「煩悩」が転じられお「埀盞回向のこころ(心)ず行を獲たら」っお「さずりの因䜍」っおずこに《移動しおたすねん》でっお。。

 

「獲(さずり)の因䜍」になっお「埀盞回向のスタヌトに移る」ず

速攻で「倧乗正定聚」に入りたすねんっおいうお「正定聚になるから、即の時に必至滅床になるよ」っおいうおはりたす

☆ここも「珟生」でいうおはりたす☆

 

 ã€Œå³ã®æ™‚」っおのも「即時」っお曞いたらいいようですねんけど。。

この方が匷調されたすわなぁ

 

ほんでそのうえに「埀盞回向の《心行》」になっおお、「埀盞回向の《信行》」じゃないんです

「心の状態が《行状態》にかわる」っおこずです。。

 

☆「蚌文類」以降「ほが信心は出おこない」んです

「行はうるさいぐらい出おきたすし、やはり「五念門・五果門原則」で語られおたす

 

これは、《行状態》になったら、「滅床」に至りたすねんでこずで。。

滅床っおのんは「垞楜」でっせ❣

っおいうおはりたす。

この「垞楜」っおいうのんは、「無垞に萜ち着けば《無垞の垞》」っおいう「心」になるっおこずで、

本来的にいうたら「滅床」っおのんは「無垞に流れる《楜》ですねん」っおいうこずになりたすねん

これっお、教行蚌文類の「埌序」っおいわれるずこ(473ペヌゞ)に、「心を匘誓の仏地に暹お、念を難思の法海に《流す》」っおずこでいうおはるこずずおんなじなんです

 

けど、こういう「真実偎面」は「受け入れがたい人」も倚いので、

「涅槃経原則」で「垞楜」ですねんっお、逆から衚珟しおはるんです。。

 

戻っお、「生死眪濁の矀萌」っおのは「個人的衚珟」を「瀟䌚的衚珟」にしおはっお、

「煩悩成就の凡倫」の「䞀(むチ)」ず「生死眪濁の矀萌」っおいう「䞀切」に「分断」されおいる状態が、

【2】の手前の「真劂䞀劂(いちにょ)」の「果䜍」状態になるっおこずを曞いおはりたすねん

 

「煩悩成就の(むチ)」ず「矀萌(䞀切)」の《分断(虚劄分別)》で認識しおいたけど。。

本来「真劂䞀劂」だったっおこずですねん

「煩悩成就も生死眪濁」も「分断虚劄分別」だずわかっお「真劂䞀劂」だったっお。。

そやから、「埀盞回向の心行を埗たら」➡「垞楜→畢竟寂滅→寂滅→無䞊涅槃→無為法身→実盞→法性→真劂→䞀劂」っお。。

「これでもか」っおいうぐらい「真実偎面」で「さずり」に぀いお曞いおはりたす。

 

これは、結局「私が最終的に真劂䞀劂になっお」「匥陀劂来もこんな颚に《劂》から《来生》」した「方䟿」で、「報、応、化」身っおいう

「いろんな身を瀺しお、珟じお芳せおくれおたす」ねんでっおこずをいうおはっお、

「私もそうなるんですよ」「劂来になっお自圚に利他をしたすねん」でっおいうおはるんです

 

そやから「名字を入れ替えお、正定聚になった《私っおいう生呜䜓》が、《悟り真劂䞀劂》に入っお」。。

「阿匥陀劂来ず同じ」ように「いろんな身になっお利他したすねん」っおこずです。

だから、「蚌文類」の埌半は「還盞回向の利他の菩薩」を論じはるんですねん

 

☆結果「私」は「真劂」(あるがたたの無垞の実盞無盞)になる❣っおいう「結論」です

これは、「今」から「無盞だけど利他のベクトル」を「行じたしょう」っお、

「讃嘆門」を【7】309ペヌゞに「囜土の名字、仏事をなす」っお「浄土論」を匕甚しお曞いおはりたすし、310ペヌゞの冒頭に「衆生を教化せんず願じお」っお曞いおたす。

「埀盞還盞䞀劂(因果同時)」のいのちになるんです

っおいう、「行じおる今に因果同時に起こるこず」が曞かれおるんです❣

 

 

ヌヌヌヌヌヌ2019/01/164−3⬆

 

 

✎再確認💫

 

◯真宗は難しくない。

真宗の教えを極論単玔化するず、「阿匥陀劂来」を完党に受け入れるず、

私の煩悩がどんどん芋えたす。だから芋えたら芋えただけ、

その反察方向ぞのベクトルに進めばいい。

 

そのように煩悩があっおこそさずりの方向がわかる。

煩悩がさずりぞのナビゲヌションをしおくれたす。

劂来の願いを私の願いに眮き換えれば、その願いがナビになりたす。

「名字を阿匥陀仏の名字に入れ換えお、《名(号)》→(利他)に進む。」

 

「願い」は方向ず着地点です。《法楜・真楜です》

 

「劂来の行ずるこずを行ずる」こずは、「願いっおいう方向ぞの意識改革ず掚進力」です。

「願行」でベクトル(力ず方向)になるんです。具䜓的には五念門行を生きるっおこず

「五念門行」

瀌拝(劂来を受け入れ自分の煩悩に慚愧しお自我をさずりに投げる)

讃嘆(劂来の教えに生きる玠晎らしさを䌝える又は称名する)

䜜願(劂来の願いを自己の願いに眮き換える)

芳察(さずりを芋るかのように珟実の捉え方を倚次元に倉える)

回向発願(そしおそのように方向転換しお進む)

 

このなかでも、《讃嘆》(称名)が「利他」を促すのでポむントになるんです。

そういう生きかたで「讃嘆っおいう(自利利他の)むンフォメヌション(案内誘導)」をするんですねん。

 

ヌヌヌ

 

◯月を指す指

教行蚌文類を読んでいるず、各所に「阿匥陀劂来」の根拠になっおいる「真劂」「法性」「無為涅槃」などのさずりを指す蚀葉がいっぱい出おきたす。

「六字釈」っおいう、実際芪鞞では「南無」の二字釈の前にも、「真劂の門に転入する」ための方法(方䟿)は阿匥陀の号(号は利他偎面)ですねんっお曞かれおたす。

 

ここでの匕甚では、阿匥陀の号を「利剣(りけん)」っお曞いおたすけど、

これは、仏語。煩悩(がんのう)や邪悪なものを打ち砎る仏法や智慧のこずっおこずで「手段」を意味しおいたす。

぀たり「方䟿」っおこずですねん。

ほんで、その匕甚の最埌の郚分に「皮々の《思量巧方䟿》をもっお、遞びお阿匥陀の匘誓の門を埗しめ」っお曞いおお、「善巧方䟿(ぜんぎょうほうべん)」やっおいうおたす。。

 

぀たり「阿匥陀仏」は方䟿(梵語で「近づく」の意味)の䞀぀やっお曞いおるんです。

「阿匥陀仏の教え」はわたしたちに最も適した教えで、このアむディア(発明)は「釈迊の恩」ですっお曞いおたす。

414ペヌゞの9〜12行目に、「月を指す指ばかり芋おいおは根本がわからなくなる」っお曞いおたす。

あくたでも「阿匥陀劂来」は「指」でしかないっおこずですねん

教行蚌文類は、どこを芋おも、こんな颚に誘導しおいたす。

 

「信文類」はこの阿匥陀ストヌリヌを「方䟿偎面」で倚甚しおいるし、ややこしいになりたすねん

そしお、これを「真実偎面」の「俗諊」であらわしおる郚分が「蚌文類ず真仏土文類」なんです。

 

この「さずりの智慧」で生きおいくこずが「真楜」になるキヌですねん。

 

ヌヌヌ

 

◯阿匥陀劂来

阿匥陀劂来っおのは、「蚀葉の䞊だけで」《存圚》しおるんです。。

これを、真俗二諊っおいうお(しんぞくにたい)、「色もなく圢もなく蚀葉も絶えた(芪鞞さんが぀こうおる衚珟)」法則性の䞖界を「真諊(しんたい)」っおいうお、

それを教える「コトバによる智慧の教え」を「俗諊」っおいうおたす。

 

この「教え」(俗諊ず方䟿)に曞かれおるこずが「真理あるいは真劂」を䌝えおくれたすねん。

぀たり阿匥陀劂来は、本来法則性(無垞無我空っおいう法性)なので、実䜓はないんです

☆コトバ䞊の存圚ですねん

そしおその「俗諊」を「ストヌリヌ(物語り)」にしお、そのストヌリヌに乗っかれば、「法楜・真楜」っおいう「さずり」に向かえる「方䟿」が「阿匥陀劂来」っおいうコトバ䞊の存圚ですねん

 

せやから、珟代のように「ほずんどの人が珟代教育」を受けおいる時代やず、

䟋えば「阿匥陀劂来」の「仏像」は「趣味か、矎術か、偶像厇拝者」っお思っおる以倖のひずにしたら「ただの朚の像」でしかないし、

「阿匥陀さた」。。「なにそれ」っお感じで、「以䞊終わり」っお思われおしたいたすねん

 

けど、「阿匥陀劂来の教え(ストヌリヌ)」には、わたしを《真理真劂》に誘導しおくれる「チカラ」がありたすねん。。

☆「阿匥陀劂来っおいう蚀葉」に蟌められおる「真理・真劂」→《真》が結果「蚌明」されお《実(みのる)》こずを「劂来の真実心」によっお「蚌る(さずる)」っおいう「文字」で衚珟されおたすねん

 

阿匥陀劂来の教えに埓えたら、煩悩のわたしが突き厩されお、阿匥陀劂来っおいう䞖界芳(荘厳功埳)が生たれお、「真楜、法楜」ぞの道を歩いお行くこずになれたすねん

 

぀たり阿匥陀劂来に「自我」が砎られお、「無垞無我ないしは空性」に目芚めおいっお、さずりに至る道の䞭で「マゞ楜」になっおいきたすねん。

 

☆こんな感じの「阿匥陀劂来」の「方䟿偎面」を信文類は曞いおるんです。

 

倩芪の浄土論、そしおその内容を蚻釈された曇鞞の浄土論蚻には、菩薩の぀の行があっお、(五念門)「芪鞞さん」はこれを重芖されおたす

けど、倩芪さんの「浄土論」や曇鞞さんの「論蚻」は、どちらかずいうず「方䟿」じゃなくお「俗諊」寄りですねん

 

繰り返したすねんけど、その「浄土論、論蚻」のなかの「五念門五果門」は、「俗諊」ですねんけど、

 

☆☆☆【重芁】🔻☆☆☆

芪鞞さんはこれを「方䟿」にも持っおきお、《法蔵菩薩が行じた》重芁な「行」に定矩されおたす

特に「利他」に぀ながる「讃嘆門の称名讃嘆」を「埀盞回向の名字の入れ換え」ずしお重芁芖しお、「五果門」の「薗林遊戯地門」も「還盞回向の利他」ずしお重芖しおはりたす

もずもず「俗諊論」だった「浄土論や論蚻」は、「願行が明確になっおいる法蔵菩薩ず四十八願や荘厳功埳」を「無垞無我空、唯識など」を根拠にしお論じお、「無垞無我空などのさずりを生きる行」ずしお「五念門行」を論じおいる「浄土論や論蚻」を、芪鞞さんは「阿匥陀ストヌリヌ」(方䟿)の根拠ずしお転甚しおるっおいえたす。

だから、珟代人が教行蚌文類を読むずややこいんですねん❣

☆☆☆(重芁)🔺☆☆☆

 

 ãšã‚ŠãŸã€ç¹°ã‚Šè¿”したすけど「五念門行」をさらに珟代的に曞いずきたす。

 

瀌拝ずいうのは、わたしをわたしから投げ出すこずです。

讃嘆ずいうのは、わたしがさずりに生きおいるこずを「告知、広告、宣䌝」するこずです。

(極端に珟代的な衚珟ですが、事実わたしを通しお教えが広たるこずです。)

䜜願ずいうのは、わたしが阿匥陀劂来の四十八願を受け取っお、わたしの願いに眮き換えるこずです。

芳察ずいうのは、わたしがさずりに生きる䞭で、私ず呚囲は法性やっお芋えおくるこずです。

廻向発願ずいうのは、わたしがさずりに向かっおいのちの方向転換をしお進んで行くこずです。

 

これを五念門行(ごねんもんぎょう)っおいいたす。

 

この歩みの䞭で、わたしのいのちのもずもずが「法性」やったっお気づいお、

「わたしの脳の凊理の仕方が倉化しお」わたしが「わたしならぬわたし」を生きおいくようになれたすねん。

 

よく「真宗のお西」で、「人間は無仏性」やし「阿匥陀劂来っおいう《仏性が遍満》しおる」っおいうんですけど、「仏教原則でいうたら」わたしずいう存圚以倖を離れお、別ものずしお仏性っおのはありえたぞん。

党おが仏性やっおこずを、

倧経(倧阿匥陀経や劂来䌚)に「虫も成仏する」っお曞いおお、

唯信鈔文類(本願寺の出版による蚻釈版には異本が茉っおいたすので、脚泚をみおください)には、「草朚囜土こずごずく成仏すずいえり」っお曞いおたす。

(わたしたちが孊んだ時代の聖兞には、草朚囜土も。。ずいう方が茉っおいるもので孊びたしたけど、蚻釈版には異本が䜿われおいるずいうずころに、ずある孊掟の意図を感じたすねんけど、これは私芋でしかありたぞん。)

 

いずれにせよ、コトバずしおの存圚である阿匥陀劂来がこのようにしおくれるっおこずです。

だから、芪鞞さんは「南无阿匥陀仏か垰呜尜十方無碍光劂来」っおいう「コトバ(文字)」を本尊にしおお、蓮劂さんも「朚造より絵像、絵像より名号」を本尊ずすべきやっお教えおたす。

わたしが僧䟶になったころは、このこずを先生たちは、垞におはなしされおいたしたが、

「芪鞞䌚」っおいう新宗教団䜓がこのこずを匷く䞻匵するようになっおから、本願寺ではほずんど誰も蚀わなくなりたしおん。。

 ã»ãªã€ã€Œãªã‚“で本願寺は朚像なのか」ず思われる方もいはりたすわなぁ。。

それは「受け継がれた䌝統」やっおこず以倖に適切な衚珟が芋぀かりたぞん。

 ãƒŒãƒŒãƒŒãƒŒãƒŒãƒŒãƒŒ

ここに改めお曞いたのんは、教行蚌文類では「真実ず方䟿」「月ず指」が明確になっおお、「混圚する理由」を再確認しおいただくためですねん。。

そこで、この根拠をたず理解しおいただくために、いったん「蚌文類」に飛びたす

ヌヌヌヌヌヌヌ

 

2019/01/134−1(3−24)

 

信文類は、ずりあえず【確定方䟿】ずしお、順序を逆にするこずで「内容がいっそう明確化」するんで、

ここからたず先に「蚌文類」に移りたす

 

蚌文類の暙挙(ひょうこ)には、

「必至滅床の願」っおあっお、「さずりそのものをあらわす願名(第十䞀願名)」を挙げおお、

「難思議埀生」っおあるんですが、この「難思議」はたずは眮いずいお。。

 

んん「埀生」っお。。

そもそも「無生」やっお曞いおたのに、なんでたたこの「蚌」(さずり)を明らかにする「蚌文類」に「わざわざ埀生》を匕っ匵りだしおくるねん」っお疑問になりたす

 ã€Œãã‚‚そも仏教のさずりは《無生》なのに《埀生》っお衚珟する理由」

は《行文類》にあっお、そこでいうおはるんが、「行じるひずに因果が成立するこずを方䟿で曞いたのんが《埀生》っおこずですねん」っおある⏬のに。。

ヌヌヌヌヌ

「行文類」30/11/032−4157ペヌゞの䞭ほどに、

 ã€Œå•ã†ãŠã„わく」っおあっお、

仏教経兞のさたざたなずころに「衆生畢竟無生(しゅじょうひっきょうむしょう)にしお虚空のごずし」っおいう、

根本仏教も䞭芳掟も、その他すべお仏教は「無垞、無我、空、真劂無分別」を説いおいるっお曞いおんのに、

「生たれるずいう衚珟はおかしんやないですか」っおいう問いがありたすねん。

 

この答えに、「衆生畢竟無生にしお虚空(こくう)のごずし」っお、(ずどの぀たりは無垞無我空で生たれるずか死ぬずいうこずはないっお)曞いおお、理由は「通りある」っお曞いおたすねん。

 

1぀目に凡倫(この堎合は人間すべお)が、「衆生(人間)をマゞ存圚」っお思っおお《生ずか死がある》っお錯芚しおいるっおいうポむントからの《生たれる》ずいうこずですねんっお曞いおお。。

これは「亀に藻が぀いおいるのを亀毛(亀に毛が生たれおきた)」っお蚀うおるような、ミス思考(誀認識)だっおこず。。

 äººé–“は、「所有(しょう)(あらゆるこず)は、なきこず」぀たり「党おはないこずを有るっおいう間違った芋方」しおたすねんっお曞いおお、

そやし、このような「有る」っおいう芋方は「亀毛のようであり、虚空のようなもの」ですねんし。。

ここでいう「願生」の「埀生」は、「凡倫のいう《生たれる》ずいったこずやおたぞん」っお明蚀しお、

2぀目には、「諞法」は「因瞁生」やねんから、「生たれるずか生たれない」ずいうこずではなくっお、本来は「無生」で、

「あらゆるこずは《本来は無い》ずいうのは、《虚空ず同じ》ですねんけど、

ずりあえず《因瞁生ですねん》」っお、倩芪さんは「凡倫(人間)のものの芋方に合わせお」「埀生」っお曞いおたすねんわ。。

そやから、倩芪菩薩の「願生」っおいうんは、「因瞁生」の意味でいわれおお、仮(かり)に「生たれる」っおいうおるだけですねん。

せやし、䞀぀目の凡倫(人間)がいう「生たれる」ずは違うから「そこは間違えんずいおね」っお曞いおたすねん。

☆☆☆

ここで「倩芪さんは《真実偎面》の人」ですし、倩芪さんの「願生や埀生」っおのんは、

《人間に察しお蚀語》を぀かっお衚珟しおるんで、《真劂、空、唯識》の蚀語化(ä¿—è«Š)ですねん

☆☆☆

っお曞いおたすねんけど。。

 ãã“で぀ぎの問答で、

「ただよ〜わからぞん。」「ほななんで《無生》なこずを、わざわざ《因瞁生の埀生》っおめんどくさいこずをいうおるのんか」

っおツッコミ問答があっお、

答えお、

実は「ないねんけど」。。

「仮の《名字》で、《自他は存圚しおるっお誀認識》しおる《仮名人(けみょうにん)》」の凡倫(自我人)が、五念門を修行するず、行の「前念ず埌念で倉化するし、そこをいうおたんねん」っお理由をいうおはりたす。

 

぀たり煩悩界で「自我があるっお誀認識」しお生きおいた「仮名人」が、「五念門行」で、

即時に浄土を生きる「仮名人」になるっおいう因果が䞀぀(同じ)であるっおいうこずを明確にするために「埀生」っおいうおお、

「これっお難しい理論のわからぞんひずにいうおるんです」っお、

論理でいうたら「自我が砎我されおいく、その生呜䜓(本来空の阿頌耶識)は因果においおは同じ流れにある状態倉化っお」こずっお曞いおおも。。

「珟代人は」。。「《埀生》っおいう方が、䜙蚈わからぞんわ」っおツッコミたくなる「問答」ですねん。

 

たぁ「行」が「䞀぀の流れで盞続される(果に向かっお移りゆく)こず」をはっきりさせるために、「埀生」っおいいたすねん。っおこずなんですけんど。。

こういう「俗諊」に「方䟿偎面衚珟」が混じるず、珟代では䜙蚈ややこしいこずになりたすねん。

 

【さおず、ここに「埀生珟生」のポむントがおたす】

ここの「158ペヌゞの2行から3行目」に、

「前念ず埌念ず因ずなる」ずあるのんは、脚泚にもおたすけど、

本来なら「前念は埌念のために因ずなる」ず読むべきなのに、どうしお芪鞞さんは

「前埌ずもに因」っお曞いおるんかっおこずも「倧問題」ですねん。

 

ここで、「諞仏の称名を聞く段階の《瞁信心》」の「瞁」から、

「諞仏の称名を受け入れお、《自我名字》を劂来名字に入れ替える《因信心》」になっお「自我が砎我されおいく」「さずりぞ向かう”心の転換”(信心)ず(埀生)は」。。

「因果同時や」っおこずをいうるっお、ほが確定掚論できたすねん。

぀たり、

【ここの匕甚の芪鞞の読み方は、《埀生》は珟䞖ずか来䞖ずいうものではない「即時」やねん】っおいうこずをいうおはる、重芁ポむントになりたすねん。

 

こんな感じの「芪鞞の独特な読み方」に蟌められおる【重芁ポむント】を「無芖しお」さらっず流しおたら、重芁な内容が抜けお「ありきたりな自性唯心の浄土教」になっおしたいたすねん。。

そもそも仏教で「埀生」っおいう蚀葉は、本来は成り立たぞんのんです。

ヌヌヌヌヌ

けど、「埀生」っお曞くのに、「この埀生っおいう蚀葉の意味は、《難思》な内容(è­°)ですけど。。」っお理由を説明しおはる「難思議埀生」っおどういうこず

っお、ここで「難思議」に戻りたひょ

 

手っ取り早く《䞉省堂囜語蟞兞》には、

ふか しぎ ïŒ»2 ã€äžå¯æ€è­°ã€‘

① åžžè­˜ã§ã¯ç†è§£ã§ããªã„䞍思議なこず。たたそのさた。 「宇宙の(むチ)を解明する」 「 な話」 「 (むチ)な珟象」 

② ã€˜ä»ã€™ èš€è‘‰ã§è¡šã—たり心でおしはかったりできないこず。仏の智慧や神通力に぀いおいう。䞍思議。の。。っお曞いおお。。
 


☆☆☆これなら「華厳経」の「䞀即䞀切」で䞀貫したす。☆☆☆



《たたネット》に。。(サクッず流しおくださっおいいです)
芪鞞が「難思矩埀生」ず蚀われる蚀葉自䜓は、元々䞭囜の善導倧垫による「法事讃」の匕甚なのですが、善導ず同矩で解釈したものではありたせん。
善導の「難思議埀生」は、法䌚を勀修するにあたっお匥陀・釈迊・諞仏・聖衆の来迎を請い、穢土を厭い浄土を願っお願生の心を衚明したものです。

では、芪鞞が「䞉埀生」の蚀葉をどのように転甚しおいったのか。

「䞉埀生」ずは
①難思議埀生
②難思埀生
③双暹林䞋埀生(そうじゅりんげおうじょう)
であり、
①の難思議埀生は18願「倧無量寿経」 ②の難思埀生は20願「阿匥陀経」 ③の双暹林䞋埀生は19願「芳無量寿経」にあおはめお解釈したす。
③の双暹林䞋埀生は念仏以倖の自力諞行を指し、迷劄の諞行埀生の果は方䟿化土にしか埀生出来ない事を衚し、
②の難思埀生は③のような諞行ではなく念仏であるが、
☆自力(自我)のたたなので①に近いが真実ではないこずを知らせるために、あえお「議」の字を省いおいるのです。
 
 
☆「議」は《口から蚀葉を発する》ずいう意味ですが、難思埀生に「議」を入れたのではなく、難思議埀生から「議」を省いたのです。

 

っお蚀う颚に曞いおお、ほかの資料では、「けっきょくなぜか」がわからないので、

ずりあえずここでは、以䞊の぀を匕甚したしおんけど、

結果《あずのネット情報》の方は、《真宗孊》の「既成抂念」が入っおいるので、

ラストの「☆ポむント」ず「䞉埀生ありたっせ」っおこずを念頭においおもらおうっお思っお匕甚したしおん。。

 

☆☆☆《䞉省堂囜語蟞兞》の方が「華厳経」で䞀貫するので適切な解説だずいえたす☆☆☆

 

぀たり、「無垞無我空(無生)」や「華厳経原則」を「五念門五果門」でダむレクトに曞くず「難思議」な内容になりたすし、「埀生」っおいう方が、「さずり」ぞの「埀盞、還盞」の「阿匥陀ストヌリヌ」でわかりやすいでしょ

 

っお、「五念門、五果門」の「埀盞還盞(自利利他)」によっお「埀生の結論」ずしお「真劂(劙芚)」になっお「䞀劂に合流しお」「劂来」になりたすねん❣

っおこずを『難思議埀生』っお、暙挙しおはりたすねん

 

かえっお珟代人には「わかりにくいわ」っおな内容ですねんけど、

 æš™æŒ™ã ã‘でこんだけ曞いずいたら、あずはスムヌズに読めたすねん。。

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/144−2⬆