40年の想い‼️
【私の想い】
私は高校生の頃に親鸞聖人に出会い、その素晴らしさから僧侶になり布教使になって、その教えを広めていきたいと思い、今のお寺に入ったのである。
しかし、私の期待は全く無意味だった。
なぜならお寺の檀家や門徒さんは、変化を求めていないのだった。
ほとんどの住職さえも…
それよりもお寺の将来がどうなるかと口にしながらも、実は自分たちの時代が無難に過ぎれば良いと言う門徒さんばかりである。
そういう意味で、将来的なことを考えて、どのようにお寺を守るか、またはどのようにこの教えを受け継いでいくかといった事は、求められていないと言うことが明確になった。
それからは、自分が住職をしているお寺の中においては、門徒さんが理解できるようなお話をしている。
例えば「それでは、皆さんご先祖のことを心深く思いながら、ご供養のお勤めをいたしましょう」といった具合である。
しかし各個人のおうちに法事などで行った場合には、そもそもの仏教の根本的な話であったり、仏教に関連づけられる科学の話であったりといった話を意図的にしているので、私の話は難しいとよく言われている。
しかし、結局何も住職には求められていない、むしろ何もせず、門徒にも世話になることなく、無難に次の世代へと寺を受け継ぐことのみが、私たち住職のすべきことなのだと思うと、虚しくてやるせもなくて、住職をやっている意味も感じられず、このような江戸時代のDNAをそのまま受け継いでいるような人々との思考的距離は、どうしても縮めることができないと言うことが、住職になって、約16年4人の総代のトップが変わっていく中で、全ての人がそうであったと言うことを通して、この出来事がよくわかってきたのである。
皆様には同じような思いを持っておられる方が、例えば、お寺の住職ではなくても、職場の上司や人間関係、また、所属しているコミュニティーの人々の考え方、また、そもそもの日本と言う国の多数と言われる人の考え方などと、自分の考え方が大きく乖離していることを実感し、自分が大学の教授だとか、著名な研究所の研究家であると言うような、社会的影響力を持たない者である場合、例えば、私のような人間は、ただ1人ないしは理解し合える何人かとそのような気持ちを慰め合う外は無いのかと思うほど、無力感を感じざるを得ないと思っているのです。
そういう意味ではこの40年間、布教使をやり、あちらこちらで何度もお話をしてきましたが、ほぼほとんどの場所の方々の気持ちが同じであると言う現実から、話してきたことのほとんど全てが無意味であったと言うことを今更ながらに残念に思っています。
しかし、だからこそ、今この時この2000年の悪しき歴史を変えようとしている方々とともに、世の中の良き変化に貢献するという使命において、私も我らのボスが所属する福音ルーテル教会でバプテスマを受けた身でもあり、同じ宗教的基盤で活動が可能になる喜びでもあり、今この改革へ関わっている事は、非常に大きな意義を持ち、今までの40年間の私の人生の経験が役立つと言う意味においては、今までの人生は無駄ではなかった上に、この新しい変化にプラスになるものであったと言うことがとてもありがたいと言う実感をもたらしてくれています。
ここに、やはり奇跡的な神の愛の導きを深く感じずには居られないのです。