グローバルな宗教理解❗️ 1月9日
11日に本山の「特別講演」で「武田センセ」が30分話されます❗️
短すぎて「センセ」には、おもしろくないと思いますが。。
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一神教には「論」がある。
多神教は「現象」を見ているだけといえるから、論より「情的」である。
一神教には「現象の背景を観る」という観点があるからである。
「どんな現象にも意味や理由がある」という観点から、、
その「意味や理由」を思考するモチベーションがあるといえる。
多神教は、「風や雷」「菅原道真、徳川家康」といった「個々の現象やひと」また「善の神、悪の神」という「パーツ」で見ている。
そういう意味において、「一神教」においては「神に意味や理由を問う」という「祈り」があり、「多神教」においては「それはない」か、そういうモチベーションは起こらない。
「ユダヤ教やキリスト教」においても、「サタン」も神の部分であって、「別物」ではない。
神は「善神」、サタンは「悪神」ではない。
神は「神自身に似せた人間を生み」サタンはその人間を神に向ける「背神の天使」である。
これさえも神によって「敢えてサタンはその状態に置かれている」と考えられるからでもある。
つまり「一神教」においては、全てが神の[一](イチ)に帰結するのである。
そこには「物語のようなバイブルに包含される[論]がある」といえる。
だから「人間は人間自身も神の中にある」と「信仰」して「人生を神に委ねる祈り」を日常的にする。
この状態は「仏教の無我(非我 )」に似ている。
「仏に委ねる[信]」には、[自我滅=無我(非我 )]がある。
他力本願は、しばしば誤用されるが、「本願他力」という用法が「親鸞」にはあるけれど、、
「他力による本願」とも読める上、「本願という他力」とも読める。
そこで、教行証文類には「他力というのは如来(仏)の願いによるベクトルである」という意味の記述があるが、、
ここで「阿弥陀如来や阿弥陀仏」が主語ではない。
あくまでも「如来」である。
このポイントを見ると「如来=仏性」ということも「証文類」などから可能であり、「一切衆生」も「悉有」も「仏性」であるといえるため、、
教行証文類において、すべては「華厳原則」の「一=一切」という「法界縁起論」で説明されている。
つまり親鸞は「すべては一即一切」であるから、「如来に委ねること」を論じ、それは全てが「そもそも仏性」であるからという「一神教」の論をさらに深めたような「複雑」な論である。
この複雑な論は、じつは至って簡単であり、
すべては「神」ではなく「真理、真如そのもの」であるということに「包含される」のであり、、
「神さえも真理真如一如の中」という「論」である。
ただこれは「西洋の論理学」と「インド仏教の論理学の違い」であって、
「西洋的」に言えば、「プロビデンス」という「真理=神」という定義がされる論や、、
「神」が「真理を生んだ」という「前後次第によって位置付けが変わっていても」結果「神に委ねる」も「真理に委ねる」も同じことだといえる。
但しこのような論は「識字率が低く、高等教育のなかった時代のひとに向けた物語的な表現である」ということは、「教行証文類」があらわしていることも「バイブル」も同じである。
いずれにしろ「委ねる」「受け入れる」「任せる」「信を得る」といった[こと]から、「自我滅」をして「如(ありのまま)」を「自然に生きるようになる」という結果において符号するのである。
大乗仏教では「経典」→「論書」→「解釈」(釈)の順に、理解を得るというけれど、これは、「経典の物語」→「物語の背景にある論」→「それらの解釈」によって、「経典の物語を、現実に則して生きることが可能になる」という流れであろう。
いずれにせよ「論のない多神教のような教え」と「論を背景に持つ一神教のような教え」では、大きな違いがあり、、
こういうポイントをわからないひとが増えているために、、
人間が「どんどん人間教や倫理教、資本主義教やテクノロジー教」に委ねてしまっており、、
近い将来「アンドロイドが人間を脅かす」ということになっていくかもしれないし、、
DNAそのものから「遺伝子組み換え人間」を生み出すことにもなるであろう。
こういった現代は「資本主義」が「資本主義によって生み出したシステムやテクノロジー」によって「自己崩壊に向かっている」といえる!
やはり「すぐれた精神世界を説く教え」こそが人間にとって重要かつ有益であるから、、
現代人は、そういう教えに「自我滅」つまり「自我を聖なる世界観に委ねて、自然の中を無我(非我 )に生きる」という「人間のあり方」を「取り戻すこと」が、最も必要な時代に入っているようである‼️