教行証文類の総序‼️
わたしは、教行証文類の総序について、ほぼ全く書いていないけれど、
これは本文を読めばわかるという前提があったのです。
ただあえて書くとするなら、
「ひそかにおもんみれば」から「難思の弘誓は難度海を度する大船」という方便は「無碍の光明であり無明の闇を破する智慧の光(日)」という真実へ導くとあります。
続いてこの真実が「浄邦の縁が熟し、時機相応のタイミング」であると記述して、
この時機相応の教えが「智慧のストーリー」として「阿闍世」「韋堤希」を中心とした観経のストーリーに表されていると書かれています。
しかしこの「阿闍世も韋堤希」も「権化の仁」つまり「仏があえてこのような教えを説いた」のであって、歴史的事実という捉え方をされていません。
そしてその究極が「逆謗や闡提」を恵む(救う)ことが目的であるとされています。
そこで、円融至徳の「嘉号(これが南无阿弥陀仏か帰命尽十方無碍光如来であっても良いと思います)」利益は、
「悪を転じて徳となす正智」という利益があるという「煩悩を転じて徳となす」という働きを持つことをポイントにしています。
そして「至心信楽」の「信楽」は「疑蓋無雑」に誘導して「証(さとり)」を得しむる「真の理」であると、
この後には「疑い」を持たず「如来の発遣を仰ぎ」と「釈迦の大経(教文類)」への流れを促し「この直道に帰依し」、
この「行に奉え」「信を崇めよ」と「讃嘆と無疑」を勧めています。
そして「ああ、弘誓の強縁(増上縁)」は遇いがたいこと、いま「遇えたのだから宿縁を慶べ」と強く勧めておられます。
ここでまた疑うことがあっては「長い迷いに陥ること」を戒めています。
わたしがこの総序で気になるのは、つぎに「摂取不捨の《真言》」とあることです。
やはり「南无阿弥陀仏または帰命尽十方無碍光如来」は、「如実言」「真実言」であり、
それまでのさまざまな「真言」に勝る真言だと「密教を意識している」ように思えるのです。
また「正法」というのは「法華経」を意識しているとも感じます。
つまり「大乗至極のことば」だと讃嘆されていると思えます。
そして「真宗の教行証を敬信」するというのは、「教行証の真実を疑うことなく受け入れよ」と示して、
如来からの賜わりものの「万徳の恩」が「深い」ことを知って、「聞くところを慶び」「獲る(因位)」ところを讃嘆する。
と結ばれています。
つまり「総序」には「時機相応の教え」である、方便の阿闍世や韋堤希の教えを通して、
すべてを摂取不捨する真言をもって、「真実を説く教行証を受け入れて、悪を転じて徳となす正智」を生きることで、
さとりを「因位において獲ることができるから、疑うことなく強縁をもって」この道に生きよと讃嘆されていると言えるでしょう。
◯わたしの総序
このいのちのなかで南无阿弥陀仏が悟りを開くこれ信心なり‼️
このいのちのなかで無碍光の華が開く、これ等覚なり‼️
このいのちのなかで無量寿が働き始める、これ利他力なり‼️
「いのち」ひとたび悟りの種子を獲ば、「色も形もなく言葉も絶える」によりて「南无阿弥陀仏」これ自然のうちに滅す。
なにをもってのゆえに「南无阿弥陀仏滅するや」。
これ自然の「善巧方便によりてなり」。
「真如往還する」は何者なるや。
「いのち」と表するをもってす。
「倶舎に命根」とありき。