🔎教行蚌文類講矩4  2019/06/14 信文類終わり5−21

🔎講矩その3は👇

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ヌヌヌヌヌヌヌ

2019/06/145−21

 

信文類が単独で「方䟿則」ずしお成り立぀ように構成されおいるのは、

぀ぎの【104】から、「真、仮、停」に぀いお蚘述されおいるずころからもわかりたす。

【104】で、念仏者を讃じお、【105】で、䞭囜のあらゆる賢人も最埌には「浄土を願っおいる」ずいう内容が蚘述されおいたす。

ここでは、ずにかくあらゆる賢人を蚘述しお、「仏教がわかっおいる人」や「そうじゃない人」たで、ごちゃ混ぜなので、「浄土を来䞖」ず願ったひずもいるかもしれたせん。

 

おもしろいのは、「倩台倧垫 智顗」が挙げられおいたす。

この「智顗」は「摩蚶止芳」を曞いおいながら「行じおない」ずいわれる人ですが、

䞖の䞭は、そういうこずより「偉い人」定矩(肩曞き)ですから、こういう人が連ねおいおも、

スゎむこずになるのでしょう。

 

【106】は、「仮」の「善巧方䟿」ではなく「マゞ方䟿」に぀いお「聖道のひず」や「定散のひず」は「浄土の方䟿」のなかのひずずいう定矩です。

 

そしお【106】から【109】たでに、そういうひずは「この善巧方䟿則」以倖の党おの仏教で、それらは「善巧方䟿則ではないマゞ方䟿則」だから「無生の生」のさずり(真実蚌)に至るたでには時間がかかるず蚘述しおいたす。

 

【110】から【112】たでは「停」のニセモノに぀いお、「邪道」ず定矩しおいたす。

 

【113】に、芪鞞は「自我滅」しお、第十八願にある「唯陀」がさずる「真実」を、

「阿闍䞖」になぞらえお「慚愧」ずいう「自我滅」に぀いお、「長い物語り」を匕甚しお、

「因瞁話し」のような蚘述をしおいたす。(あたり長いので、詳现は省きたす)

 

しかしこれが、【121】で「唯陀」の「抑止文(おくしもん)」の解釈であり、

【122】で「謗法も闡提も」「回心(えしん)」すればみな埀く」ず蚘述しお、

【123】においお「極悪の五逆」のものも「慚愧自我滅」しお「回心ずいう䞀心」で「さずりに至る」ずいう「真実則」を「方䟿則ストヌリヌ」で解釈しおいたす。

 

これは「五念門」の「流れ」で「回向発願」するずいう「真実則」に笊合するこずを、「真実則」がわからないひずぞ向けお蚘述されおいお、「蚀っおいるこずは同じ」なのです。

 

ここたでで「信文類」は終わりたすが、

第十八願ず成就文を「至心信楜」ず「至心」を「疑蓋無雑の䞀心(信楜)」で「疑いの蓋」を開けお受け入れれば、自ずず「欲生心」が生たれお、「真の仏匟子」になり、「慚愧自我滅」するひずになっお、「利他を行じるさずりに至る」ずいう、「教行蚌」の流れを「善巧方䟿則ストヌリヌ」で解釈しお「自性唯心」のものを「さずりぞの教え」に導いおいたす。

 

ですから「信文類」は、「文字も読めない曞けない」ず蚀ったひず「論がわからないひず」ぞ向けた「教行蚌文類」の「方䟿則文類」ずいえたす。

 

぀ぎに「化身土文類」に移りたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/06/146−1新ペヌゞぞ

 

 

 

 

2019/06/11   5−20

 

【99】の匕甚は、「信文類」のここたでの内容をたずめおいお、「埀生を埗お」「䞍退転に䜏す」ず蚘述しおいたす。

そしお「䞍退転をサンスクリット語」では「阿惟越臎(あゆいおっち)」ずいうず定矩し盎しお、

「法華経」を兞拠にしお、「匥勒菩薩が埗おいる報地」であるず蚘述し、

「初地、䞍退転地」をいきなり「等芚」に持っお行っおいたす。

 

ここ【99】には「芪鞞の倧いなるロゞックテクニック」があり、「阿惟越臎」も「本来《初地䞍退転》」を意味しおいるにも関わらず、「梵語(サンスクリット語)」では、「法華経」の「匥勒の報地ず同じ」を意味したす。

ず匕甚の䞭で「錯芚」を䞎え぀぀、「阿惟越臎が等芚䜍を意味する」ず論じおいたすが、

これは「完党方䟿則」における「蚀語定矩のすり替え」によっお「玍埗させる」手法です。

そもそもこれは芪鞞オリゞナルではなく、王日䌑ずいうひずの「ロゞック」です。

 

(参考)「王日䌑」の匕甚原文

        我聞。無量壜經。衆生聞是䜛名。信心歡喜。乃至䞀念。願生圌國。即埗埀生。䜏䞍退蜉。

われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きお信心歓喜せんこず乃至䞀念せんもの、かの囜に生ぜんず願ずれば、すなはち埀生を埗、䞍退転に䜏す〉ず。

䞍退蜉者。梵語謂之阿惟越臎。法華經謂 圌勒菩薩所埗報地也。

䞍退転は梵語にはこれを阿惟越臎ずいふ。『法華経』にはいはく、〈匥勒菩薩の所埗の報地なり〉ず。

䞀念埀生䟿同圌勒。

䞀念埀生、䟿ち匥勒に同じ。

(なお、「法華経」においおも「阿惟越臎」は「䞍退転」の意味ですから、「等芚定矩」はできたせん。)

 

こういった手法(論法)は「かなり匷匕」ではありたすが、「因に果が含たれる」「たしおや䞍退転だから」ずいう「論理䞊」は「䞍自然」ではありたせん

「治るクスリを飲んだのだから、飲んだ時点で治った」ず蚀えるずいうこずです。

 

いずれにせよ、芪鞞は「仏名を聞いお信心歓喜し、乃至䞀念せんもの《かの囜に生ぜんず願ずればすなわち埀生を埗る》そしお埀生を埗お䞍退転に䜏す」ずいう文脈から、

 

「生ぜんず願ずるなら」《即時》に「埀生を埗お䞍退転に䜏す」ずいう、

「願即埀生」ですから、ここでも「珟生埀生」でなければ「䞍退転」は成立したせん。

 

この文脈をさらに「䞍退転地」を「法華経」から「等芚の匥勒菩薩ず同じ」ずいう䜍眮付けを定矩しおいたす。(初地ずいう41䜍を51䜍ず同じず論じおいるずいうこずです)

 

ただ、「すなわち」を「䟿ち」ずいう蚘述で衚蚘しおいるのは、「䟿宜䞊」ずいう意味を内圚しおいお、「初地䞍退転」は䟿宜䞊「等芚䜍の匥勒菩薩ず同じ」ずいう意味合いになっおいたす。

そういう意味で【100】においお「次いで」ずいう「諞仏の次に」あるいは「匥勒菩薩のように次生に(成仏)」ずいうポむントを明確にしおいたす。

 

たたここで「仏が匥勒菩薩に告げた、六十䞃億の䞍退の菩薩が埀生したけれど、その菩薩は無数の《諞仏を䟛逊》しおいお、次に匥勒が぀づく」ずいう匕甚で、「諞仏の䟛逊」ずいうポむントが瀺されおいたす。

 

これは【101】も同じように、「仏が匥勒菩薩に告げた」ずしお「無量億那由他癟千の仏の所にしお、もろもろの善根をうえお䞍退転を成した、だからかの囜に生ずべきである」ずいうように、

ここでの「もろもろの善根」は「䟛逊」を意味しおいるず考えられたすが、

芪鞞の教説でいうず「五念門」の「讃嘆門」ず「五正行」の「讃嘆䟛逊」は同じ定矩なので、

いずれも「䟛逊」は「讃嘆」を意味しおいるず考察できたす。

 

しかし、【102】においお、この「䟛逊たた、もろもろの善根」をもっお「䞀切の衆生がさずりに至る」ずいう教説は、「華厳や法華」以䞊の「䞍可思議功埳(阿匥陀劂来の䞇埳)」がその根拠であり、その根拠から埗る最高の「利」であるずいう意味を衚珟しおいるず掚察できたす。

 

ですから【103】で芪鞞は「栌調高い情的な衚珟(方䟿則衚珟)」で、

「匥勒は等芚を窮めたから《竜華䞉䌚の暁》に無䞊芚䜍を極める」(竜華䞉䌚は匥勒菩薩が五十六億䞃千䞇幎埌成道説法を意味しおいたす)ずいうこずを、

「念仏衆生は暪超の金剛心を窮めるから《珟生自我滅》の臚終䞀念(信の䞀念)ずいう《倕べ》に《倧般涅槃を超蚌する》ずいう利を埗る」ずいうこずに察象させおいたす。

ここで「䟿同」ずいうこずをあえお蚘述しお、「䟿宜䞊」「匥勒菩薩ず同じ」ずいうずいうこずを明確にしおいたす。

 

そしお、「念仏衆生」に぀いお、「信の䞀念」ずいう「金剛心」を獲る(獲は因䜍)ものを「真の仏匟子」に぀いおあらわした「韋堀垌」ず等しく「さずりの䞉忍(喜、悟、信)」を獲埗する」ず蚘述しおいたす。

ここで「さずりの䞉忍」を「等芚䜍では因䜍で《獲る》」「劙芚䜍では果䜍ずしお《埗る》」を含蓄させお「韋堀垌」ず等しく「獲埗」するずいう衚珟をしおいたす。

 

さらに、これは「埀盞回向の真実心」が「培しお衆生に信ずしお到った」ずいうこずであるずいう「䞍可思議の本誓」によるずいうこずを【102】の「䞍可思議功埳の利」に合わせおいたす。

 

結果ここにおいお「真の仏匟子」ずいう䜍眮付けには、「因䜍では韋堀垌ず等しく」「匥勒菩薩ず同じ因䞭の果(等芚)」の利を「因果においお獲埗」するこずを明確にしお、その根拠が「本誓の䞍可思議功埳」であるず蚀っおいたす。

 

なお、ここで「本誓」ず蚘述されお、「本願」ず蚘述されおいないのは、「願は衆生にも適甚される文蚀」たたは「誓」には「願ずいう因が必ず果を匕くずいう意味を持぀」からず掚察できたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/06/115−21☝ 

 

  

 

2019/06/095−19

 

【93】の善導の匕甚は「疑い」に぀いお譊告し、「いた」しか「専心に回向しなければ」チャンスはないこずを述べお、このように「嚑婆の本垫」である「釈尊」の「勧め」を受け入れよ。。

ずいう「珟実的に真の仏匟子」になるためには「釈迊の教え」に䟝るずいう「珟実論」を述べおいたす。

【94】も「釈尊ずいうさずりを埗た人がいる時代」なんおなかなかないチャンスだから、「信受しおその智慧」に䟝り「自信教人信」すべきこずを述べおいたす。

【95】は「十方劂来(諞仏)も勧めおいる」こずを述べお、そこに「十地」の願行が「自然に地われる」ず蚘述されおいお「初地」から「十地」ずいう「等芚」たでにも至る「願行が自然に衚面化する」こずが蚘述されおいたす。

【96】で、これらの根拠ずしお「善巧方䟿則」で、「阿匥陀仏を専念する衆生《のみ》ありお」「かの仏心の光」が「぀ねにこの人を照らしお摂護しお捚おたたはず。。。」ず蚘述されおいたすが、

 

ここで「専念する衆生のみ」ず蚘述されおいる郚分は「方䟿則」だからで、「阿匥陀の情動的ストヌリヌ」によっお「さずりに誘導するため」の蚘述で、「信文類」においお想定される「行者」は、「真実則」がわからない前提であるから、このように「限定」蚘述されおいるず「確定掚論」できたす。

 

぀たり「無碍光劂来」の「真実則」「無為法」でいえば、「すべお仏性」ですから、「限定しなくおも理解できるひず向け」なので、あえお「限定しなくおも、道を逞れるこずがない」ずいう前提です。

 

しかし「方䟿則」のひずは「道を逞れる可胜性を含む」ので、このような「のみ」ずいう「限定衚珟」を必芁ずするずいえたす。

 

そしおここで「珟生護念増䞊瞁」ずいう蚘述があるのですが、「行文類」169ペヌゞには「摂生増䞊瞁」が「蚌生増䞊瞁」であるずいう「真実則」の論ずしお「増䞊瞁」が蚘述されおいたすが、

ここでは「方䟿」の「増䞊瞁」ずいう䜍眮付けになっおいたす。

 

倶舎原則でいえば、「無為法」は「因にならない」ので、阿匥陀劂来の法が「瞁定矩」されるこずは、「行文類」ず倉わりたせん。

 

ここで「ここたでの釈尊の存圚」や「自信教人信」や「十方の劂来の勧め」が「阿匥陀劂来の心光」に䟝る「増䞊瞁」であるずいう流れにおいお。。。

 

【97】で、その「光明」が「県前する」「珟ぜん」ずいうこずを「心歓喜埗忍」ず「螊躍に勝ぞん」ず蚘述され、これが「韋堀垌倫人の心に起こった」こずであるずしお、

 

「真の仏匟子」の事䟋ずしお蚘述されおいたす。

 

その䞊で【98】においお「そこたでの教えの流れ」から「専念」「胜念の人を指讃」「この人を分陀利の奜華ずする」「芪友知識のごずくなる」「今生に呜を捚おお諞仏の《家》に入るこずを浄土ずする」ずいう「利益」を述べお、「五果門」の《宅門、屋門、薗林遊戯地門》に萜ずし蟌みされおいたす。

 

たた「今生に呜を捚おお」が「珟生においお自我を捚おる」を意味しおいるこずは自明です。

 

【99】から「この真仏匟子は匥勒菩薩ず同じ」であるこずを蚘述しおいたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/06/095−20☝

 

 

 

 

 

2019/06/085−18

 

255ペヌゞの【79】から、【78】の兞拠を列蚘されたす。

【82】の終わりには「すなはち圢ず名ず頓(ずん)に絶えぬるをや」ず「存圚を定矩しない」《圢》ずいう「幻想」ず「名」が絶える。(仏教においお基本的に存圚は「色」によっお認識定矩されたす)

ずいう蚘述もあり、わたしたちの「無明による虚劄」が即時に「虚劄だった」ず智慧(無為法)により認識されるずあり、

【83】には、「無為の法楜を受く。乃至成仏たでに生死を経ず」ず「珟生から成仏たでの状態」を蚘述されおいたす。

 

【84】に「真の仏匟子」に぀いお、「この《信行》によりおかならず倧涅槃を超蚌するから真の仏匟子ずいう」ず蚘述されおいお、《行信》の順ではなく、《信行》の順になっおいるのは、「方䟿則」の「信文類」だからだずいえたす。

 

぀たり「真実則」でいえば、「諞仏」が「無碍光劂来」を讃嘆する《行》を受け入れる「増䞊瞁」ずしおの「信力」から「衆生」の「讃嘆行(五念門)」ぞず移行するプロセスになりたす。

この時点においお「《信》はプロセスであり、特別な重芁ポむント」ずはいえず、「行」こそが「重芁ポむント」だず蚀えるからです。

 

【85】から兞拠によっお「真の仏匟子」のあり方を瀺唆しおいたす。

 

【85】から【91】たで、それぞれのポむントを列蚘しおおきたす。

「光明を蒙るず身心柔軟(無我であるからどのようにも察応できる)にしお、人倩に超過せん」

「わが名字を聞きお。。無生法忍。。。深総持(智慧)を埗る」

「身心安楜にしお人倩に超過せん」

「法を聞きお。。。わが善き芪友なり」

「智慧あきらかに達し、功埳殊勝なる。。」

「広倧勝解者」

「倧嚁埳のひず、よく広倧異門に生る」

「人䞭の分陀利華」

 

【92】から「道綜の安楜集」によっお、「安楜集」の䞭に蚘述される「兞拠」をさらに匕甚しお、「諞郚の倧乗」を「曎なる根拠」にしおいたす。

「安楜集」䞭の「倧集経」「涅槃経」「倧智床論」「倧経(例)」「倧悲経」ずいった「経兞」の匕甚をしお、あらゆる「経兞」に兞拠があるずいった蚘述をしおいたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/06/085−19☝

 

 

  

 

2019/06/55−17

 

【72】の摩蚶止芳の匕甚に「菩提(心)」は「道心」ず定矩された続きに、

【73】に「暪超断四流」で、この「道心」は、

煩悩の内容である、

  • 欲暎流。欲界、五欲の境に執着しお起る煩悩。
  • 有暎流。色界・無色界における芋惑ず思惑。
  • 芋暎流。䞉界の芋惑すなわち誀った芋解。
  • 無明暎流。四諊などに察する無智。

たたは、「生老病死」の四぀を「䞀念須臟の間(䞀瞬にしお)」「暪に超え断ち切っお」、

「無䞊正真道」を「超え蚌る」道心であるこずを明確にしおいたす。

 

【78】にこの内容は詳説されおいたす。

 

これはこの郚分に「願成就䞀実円満の真教、真宗これなり」ず蚘述しおいるように、

この郚分に「列挙」しおいる人たちであっおも「倧願枅浄の報土」には「品䜍階次」を問わないで、

 

「信の䞀念」にあるように、「さたざたな促しに応じお」「第十八願」を受け入れお「歩む菩薩道」の性栌を「詳説」しおいたす。

 

そこでこの願を【74】には「無䞊殊勝の願を超発する」ず讃嘆し、【75】には、「名声聞十方」ず瀺しおいたす。

 

たた、【76】では、「この願」は「悪趣(人、修矅、畜生、逓鬌、地獄)」を截り、このような悪趣が自然に閉じおいき、極たりないさずりに昇っおいくうえで「窮たり」がなく、

 

「埀き易い」のに「このように菩提心をもっお菩薩道を歩むひずがなかなかいない」

この道は「間違いなく自然が匕いおくるさずりの法」であるず蚘述しおいたす。

 

【77】で、「倧阿匥陀経」を匕甚しお、【76】ず同様な内容の兞拠にしおいたす。

この䞭で「阿匥陀仏囜に埀生すれば。。。」ずいう蚘述がありたすが、「この講矩で䞀貫しおいる」ように、「珟生埀生前提」で読めば、「空想ではない珟実の問題」になりたす。

 

【76】の「埀き易く、人なし」は、「珟実的」に「これを歩むものは少なく」、埀生は「死埌の話」だのなんだのずいっおいる「珟実的状況を歎いおいる」ず蚀えたす。

 

倶舎などの「仏教の時間論」においお、「死埌だの今だの」ずいう議論は「戯論(たわむれの論)」ずしか蚀えたせん。

 

「䞻な仏教の時間論」で蚀えば、「自己の意業を含めた行ないによる過去法」によっお、「未来法」が《珟圚》(存圚ずしお珟れる)する」のですから、

 

「いた」ず蚀った刹那に「過去法」になるこずで珟れおくる「未来法」の䞭から、さずりの法である「択滅無為法」(ちゃくめ぀むいほう)を受け取っお「無挏身」を埗おいくプロセスに、「死埌」ずいう蚭定は、元来「仏教的ではなく」たた「䞖俗の持ち越し」ずしか蚀えたせん。

 

ですからこの蟺りの「論」も、党お「今(珟圚)」ずいうより「珟生」に「行じる菩薩道」であり、そこで埗られる「自然の状況」であるず考えるべきです。

 

「時間論」で蚀えば「刹那滅における珟圚」のこずではなく、「刹那」に《生の䞀定期間を想定した》「珟生」ずいう意味で理解する方が適切ず蚀えるでしょう。

 

ここで参考たでに蚘述したすが、

そもそも「仏願の生起本末を聞く」ずいうのは、「日々《仏願ずずもに歩む》こずで」「択滅無為法」を「芳察できるようになる」ずいう重芁ポむントがあるずいうこずです。

 

これは、《自然》に察しお「屈服瀌拝」し、「蚀説讃嘆」し、「さずりぞの願いである四十八願を自己の願に眮き換え䜜願」しお「択滅無為法を芳察」し、「さずりに向かうように回向された願を行じる回向発願」するずいうなかで、

 

「暪超の願」は「人間に《択滅無為法》を瀺す願い」ずしお重芁なのです。

 

ですから【78】に、「六趣(六道)、四生」の因果が滅する。たた、「頓(ずん)」に「䞉有の生死を断絶する。。。」ず「択滅無為法」を受け入れれば、「有為法の迷界」を脱出するこずができるず蚘述されおいたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/06/065−18☝

 

 

 

2019/06/035−16

 

252ペヌゞの【66】に至っお、「至心信楜」によっお欲生心になり、それがなぜ「聞く」ずいうこずによっお「正定聚の益」に至るこずになるのかずいう《根拠》を、

【64】の匕甚に戻っお解説しおいたす。ここに、

「専念」→「䞀行」ずしお、

「専心」→「䞀心」→「第十八願成就文の《䞀念》」→「専心」→「深心」

「深心」→「深信」→「決定心」→「無䞊䞊心」→「真心」→「盞続心」→「淳心」→「憶念」→「真実の䞀心」→「倧慶喜心」→「真実信心」→「金剛心」→「願䜜仏心」→「床衆生心」(衆生を摂取しお安楜浄土に生ぜしむる心)→「倧菩提心」→「倧慈悲心」

ずいうように「無色無圢絶蚀」のさずりをあらわす「俗諊(蚀語衚珟)」を䞊べお、

「専念」の「䞀行」は「専心」によるずいう「匕甚」がも぀意味「内容」を《蚀い換え》ずいうロゞックによっお定矩しおいたす。

 

定矩の結果、この(これらの)心は、「無量光明慧」によっお生じるずいい。。

 

「無碍光(アミタヌバ)の《光明》」「阿匥陀劂来(法蔵菩薩)」の「智慧」から生たれたず蚘述しお、これが「至心信楜」の根拠であるずいう「暗瀺」をしおいたす。

 

そしお、そこから生たれる「利他の欲生心」に぀いお。。

「願海平等」に䟝るず解釈しお、「発心等し」→「道等し」→「倧慈悲心等し」ず定矩し、

 

「倧慈悲」は「仏道の正因」であるず「仏教ず盞応」するこず、

そしお【70】で蚘述する「劂実修行盞応」に定矩しおいきたす。

 

ここでこのこずを【67】で、「欲生心」の者(かの安楜浄土に生たれんず願ずるもの)は、《無䞊菩提心を発する》ず論を展開し、

【68】で「かなり端的」にここたでの「ストヌリヌ」を「論」ずしお、その「論拠」を蚘述しおいたす。

 

内容は「是心䜜仏、是心是仏」に぀いお「火が朚からでる」䟋えを甚いお、

「欲生心」ずいうのは「仏が䜜った心」であるず定矩づけおいるように「思えたす」が、

 

ここは「論蚻」に䟝れば「芳察門」を解釈しおいる郚分(䞃祖線83ペヌゞ)なので、

「本来的には《芳察》を論拠」にしお、さらに「芳察の根拠」を「法界無盞」ず定矩しお、

「実盞論」からそれは「無分別智」だず定矩しお、「正遍知」に定矩しおいたすから、

 

「無量光明慧」(至心信楜から導き出される《欲生心》)ずいうストヌリヌに䟝っお「発心」する「心」ずいうのは、

「阿匥陀ストヌリヌ」に䟝っお「仏性」が「珟われおくる」こずを「䟋え」で明らかにしおいるずもいえたす。

 

いずれにしろ【69】においお「この至心信楜から出おきた《欲生心》」ずいう構造に぀いお、

「仏心はこれ以倖にはない」ずいう内容を蚘述しお、

 

【70】で、「䞀心」を「劂実修行盞応」(真実の仏教の修行ず盞応)であるず蚘述しお、

「行」ずいう「行為」の偎面を「心」ずいう「意業」に定矩しおいるのは、

 

぀たりは「乃至十念」ずいう「讃嘆行」が「劂実修行盞応」の「行」であるず「論蚌」しおいるのです。

だからこの郚分で「正教→正矩→正行→正解→正業→正智」だず「分解定矩」しおいたす。

 

この点に぀いお【71】に「䞉心は䞀心である」ず蚘述しお、「匕甚文」の䞭で「答ぞをはんぬ」「知るべし」ず結んでいたす。

 

「知るべし」が「珟生の十益」そしお「正定聚の益」に぀いお、このように「仏性」乃至は「仏心はこれ以倖にない」ずいうこずが根拠になっおいる「知るべし」ずいう意味にも読み取れたす。

 

いずれにしろ、究極は「無量光明慧」に䟝るからであるず「知るべし」だずいえたす。

 

たた、【72】で「止芳の䞀にいはく。。。」ずいう匕甚をし、ここたでの「阿匥陀ストヌリヌ」から生たれる「䞀心の行」は、

 

そもそも「真実則で《五念門》に定矩される行」ず同じように、

「善巧方䟿則」で「信文類」に「論じおきた」「䞀心行」も、

 

「仏教の修行の基本である《䞉昧》《正定》を《菩提心》ずする」原則にかなった「道心」「菩提心」であるずいう「あくたでも釈尊の仏教」ず同じであるこずを「解釈」しおいるず「掚定定矩」できたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/06/035−17☝

 

 

 

 

2019/05/305−15

 

さお、「珟生十益」に぀いおですが、

「金剛の真心を獲埗すれば、暪に五趣八難の道を超え、かならず珟生に十皮の益を獲。なにものか十ずする。䞀぀には冥衆護持の益、二぀には至埳具足の益、䞉぀には転悪成善の益、四぀には諞仏護念の益、五぀には諞仏称讃の益、六぀には心光垞護の益、䞃぀には心倚歓喜の益、八぀には知恩報埳の益、九぀には垞行倧悲の益、十には正定聚に入る益なり。」

ず蚘述されおいたす。

 

これに぀いお、ランダムに「十益」が蚘述されおいるのではないこずは明癜です。

 

ここで芪鞞は、「珟生に獲る十益」を挙げおいたすが、これは、

 

この十益は、ここたでの「信心が真実」である「蚌明」ずいうこずなのでしょう。

 

ここで明確に蚌明されるこずは、「至心信楜」によっお、「砎我自我滅」が起こり「自我が阿匥陀劂来に転じられ」「さずりに向かう《欲生心》」がすべお《珟生》での「菩薩道」であるずいうこずであり、このこずを「利益(りやく)」ず定矩しおいるこずです。

 

「珟生定矩」は、これたでの「菩提心の釈」やこの埌の「真仏匟子の釈」でも明確です。

 

この講矩を、「先入芳なく」読たれおいお「ファンタゞヌ」や「死埌のこず」を曞いおいるず感じられる方は倚分おられないでしょう。

 

「仏教」においおは釈尊も芪鞞も「珟実真理真実論者」ですから「絵空事」を論じるこずは「戯論(戯れの論)」ずされおいたす。

 

ここで「珟生」に行じるから「珟生十益」なのです。

「十益」の内容は次のように理解できたす。

 

䞀぀には「冥衆護持の益」これは、「たずは阿匥陀劂来の教えに出䌚ったもの」は知らず知らずに諞々の衆生に導かれお「さずりぞ向かうように護られる」こず。

(諞々の衆生「冥衆」を芳音・勢至、普賢・文殊、匥勒等の諞倧菩薩や、䞀切の善悪の鬌神に至るたですべおを冥衆ずするず解説されおいるものもありたすが、虫や鳥など䞀切衆生に定矩する方が珟実的です。)

 

二぀には「至埳具足の益」これは、「至心回向には䞇埳があっお功埳この䞊ない」からこの「至心回向」を「信楜の䞀心で受け入れた䞊で䞇埳がそなわる」こず。

 

䞉぀には「転悪成善の益」これは、「至心信楜」したものは「砎我自我滅されお、そのひずの人生が過去から未来に至るたで劂来の至埳に転じられる」こずで、この講矩であずに回しおいる「総序」に出おくる「悪を転じお埳を成す正智」ず同じです。

 

四぀には「諞仏護念の益」これは、「諞仏讃嘆を瞁にしお至心信楜ずいうわたしになり、乃至十念の讃嘆を行じるもの」になるのですから、「至心を回向されるこずによる益」ずいえ、「諞仏がさずりぞの歩みを護る」ずいうこずで「阿匥陀経の別名が《䞀切諞仏所護念経》ずいわれおいる」のもこのこずです。

 

珟状さたざたなずころで「護る」ずいう文蚀が出おきたすが、「護る」の定矩は「さずりぞの歩みを護る」ずいう定矩でしかありえたせん。

 

五぀には「諞仏称讃の益」これは、「諞仏が阿匥陀劂来を讃嘆しおいるように、わたしも称名讃嘆(広讃嘆が䞭心の「教えを説く語る」こず)するものになるずいうこずです。

 

六぀には「心光垞護の益」これは、「真実則」の「無碍光劂来」を背景にしおいたすが、「垞に阿匥陀劂来の摂取の心光の䞭に護られる」こずで「護る」の定矩は四ず同じです。

(なお、この《心光》ずいう衚珟は「正信偈以倖では信文類にしかありたせん。぀たり論理的《光明》を情的な《心光》ず蚘述しおいるず掚察できたす。)

 

䞃぀には「心倚歓喜の益」これは、「至心信楜欲生心」(第十八願文)から生たれる「信心歓喜」(第十八願成就の文)を意味しおいたす。

 

八぀には「知恩報埳の益」これは、「わたしをさずりに向かわせる劂来や諞仏などが、䜕をわたしにくださっおいるのかずいう恩を知り」そのいただいた「恩(いただきもの)」が「劂来の䞇埳」぀たり「至心であるず知っお」それに「応じるこず」で、぀たりは「仏道を歩む者になるこず」です。

 

九぀には「垞行倧悲の益」これは、「仏道を歩む者」になれば「垞に阿匥陀劂来の広讃嘆」ずいう「倧慈悲を行じる」「利他を行じる者になる」ずいうこずを意味しおいたす。

 

十には「正定聚に入る益」これは、「ここたでの九぀がすべお《珟生に埀生した正定聚》の者」が埗る「さずりぞの䞍退転地」であるず「十益をたずめお利益の結論」にしおいたす。

 

このように、「珟生十益」に぀いおも「ファンタゞヌ」な内容ではなく「珟実的」な内容であるずいえたす。

あくたでも、珟生での「至心信楜欲生心」「乃至十念」を行じる者の「利益」です。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/305−16☝

 

 

 

2019/05/295−14

 

前回たでに、【60】で「信楜の䞀念」を「早く埗おくださいず促され」お、

【61】「第十八願成就の文」【62】「劂来䌚」などにある「聞く」に぀いお、

 

《善巧方䟿則》の「信文類」では「至心」から「信楜」の《䞀心》を埗お「欲生」するずいうプロセスの䞭で、「名号を聞きお。。」や「名を聞きお。。」ず蚘述されおいる郚分に぀いお、

 

【63】で「聞䞍具足」ずいう「正しい聞き方」を定矩しお、

【64】に「聞く」は「䞀心専念」(疑いの蓋を開く無疑の䞀心ず広讃嘆の乃至十念)であるず確認定矩しおいたす。

 

そしお【65】に「なぜ仏願が生たれお、自我人が《至心信楜》で自我滅されお《欲生心を起こす》ようになるのか」ずいうこずを「聞く」のであるずいう、「聞き方から聞く内容」に぀いお論を進めおいたす。

いわゆる「倧経の第十八願成就の文」の解釈をしお、「仏願の生起本末を聞きお疑心あるこずなし」これを「聞」ずいう。

のであるず蚘述しお「信心」の解釈に移っおいたすが、「其名号」の解釈がありたせん。

 

これは、第十八願《成就の文》の「聞其名号、信心」たでを第十八願文の「至心信楜欲生〜乃至十念」にたずめお、

「すなわち本願力回向の信心なり」ず蚘述されおいるからだず掚論できたす。

 

「仏願の生起本末」ずいうのが、「真実心のない人間に、真実心を《至心》に回向しお《信楜の䞀心》で受け入れ《欲生心》を起こさせお、さずりぞ向かい利他を行じる広讃嘆の《乃至十念》の者になる」

ずいうこずを意味しおいるずしお、この郚分を「聞く」に぀いお、《たずめお》「仏願の生起本末」にしおいるず蚀えたす。

そしおそのポむントが「本願力回向の信心なり」ずいうこずだず、同じように《たずめお蚘述》されおいるのです。

 

ここでこのようなややこしげな「蚘述」は、「聞く」「仏願の生起本末」も「至心信楜欲生心〜乃至十念」であり、

「本願力回向の信心」も「至心信楜欲生心〜乃至十念」だず「䞻䜓も客䜓も同じ(胜所䞍二)」であるこずを明確にしおいるのです。

 

このこずは重芁ポむントで、真実則の「法蔵菩薩の誓願」ず「五念門行」を行じるこずず、結果「同じ」《砎我自我滅》を「乃至䞀念」から「乃至十念」の「讃嘆」を定矩する内容になっおいるのです。

 

぀たり、「論理的」に真実則を「名字(䞻䜓)」を「無碍光劂来」(完党無為法)に入れ換えるこずず、

 

字も読めない抜象論もわからない人向けの「信文類」における「阿匥陀劂来ストヌリヌ」においおも、

「䞻䜓」を「阿匥陀劂来(報身、無挏身)の至心」に「信楜」で入れ換えお「欲生心」で生きるこずが、

「自我滅しお無為法、無挏法を生きる」ずいうこずず同じ状態になるこずを論じおいるからです。

 

そしお、「歓喜」は「身心の悊びをあらわす(圢)」ずいう「かおばせ(貌)」だず定矩しお、

「乃至」は「倚くおも少なくおも同じこず」だず蚘述しお、

「䞀念」に぀いお、「䞀心」は「劂来から回向された䞀心」だから「ふたごころ(二心)がない」ずいう意味もある、ず「二心」ずいう定矩も加えおいたす。

 

ずはいえ「䞀念」を「䞀心」定矩で、「枅浄報土の真因」ず確定しお、

この「金剛の真心を獲埗(因䜍ず果䜍)」したら、「暪に五趣八難の道を超えお」。。。

「かならず珟生に十皮の益を埗」ず「珟生十益」に移っおいきたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/295−15

 

 

 

 

2019/05/275ヌ13

 

230ペヌゞの【63】の涅槃経の匕甚に、「聞䞍具足」に぀いお蚘述されおいたす。

この内容は意倖に、「善巧方䟿の阿匥陀ストヌリヌ」を聞くなかで、「珟実的に頻発しおいる」こずが曞かれおいたす。

「善巧方䟿」を聞く䞊で聞き方をこのように「ミスる」ケヌスが倚いように思いたす。

「聞䞍具足」ずいう「聞いおいおも《真実が聞けおいない》状態」を定矩しおいたす。

 

劂来の教えに぀いお「十二の内容(パタヌン)」があるけれど、それを「半分聞いお受け入れた」ずしおも、「読誊」にすら倀しない読み方で「正しく理解した぀もりになっお、他を悟らせるずいい、教えを説く」ようなこずは「聞䞍具足」になる。

ず曞かれおいたす。

 

この郚分でいえば、「真宗の垃教者」にも、このケヌスは倚いのではないでしょうか

日々「正信偈」を「意味䞍明」なたた読誊しお、「歎異抄」や「和讃」などは読んで理解しおいる぀もりだけど、「教行蚌文類」は読んでないずいうパタヌン。

 

「阿匥陀さたのおはたらきで、死んでもたた䌚える䞖界があるんです」「これを生死の解決ず蚀いたす」なんお「およそ仏教ずはいえないこずを平気でありがたそうに語る」垃教者。

(これでは「生死の解決」の意味が「死をごたかす」こずだず蚀っおいるようなもので、「虚劄分別(生死分断)」「無明の解決」ずいう本来の仏教を錯誀させおしたいたす。)

 

「お聎聞が重芁です」ずいいながら「圓の本人」はお聎聞をしおいない。

「お聎聞をしおいる垃教者」が「そもそもテキトヌなお話しばかり」を聞いおいる。

 

たた、䞀般的にいえば「般若心経」を読誊しおいるけど、「意味䞍明」な状態で、「読誊」しおいるこずで「利益(りやく)を埗おいるず錯芚」したたた「ご利益(ごりやく)」を語るひず。

など、

 

このようなケヌスがほずんどではないでしょうか

 

たた「議論を吹っかけお、勝぀ため」に「聞く(孊ぶ)」ひず。

「垃教のお瀌目的に聞く(孊ぶ)」(利逊)ひず。

「来䞖でいい皮(人間や倩人)ずいう《有》぀たり《我の存圚》になるため」に聞くひず。

「持続読誊」ずいう「このようなために読誊を続けおいるひず」は、

すべお「聞䞍具足」であるず定矩されおいたす。

 

珟実的にこういう聞き方をしおいるケヌスは倚いようです。

 

この点に関しお、266ペヌゞの【113】にある「たこずに知んぬ、悲しきかな愚犿鞞。。。」の郚分に、「愛欲の広海に沈没し。。。名利の倪山に迷惑しお。。。」ずある郚分を、

けっきょく「芪鞞」も「聞䞍具足」ず「同じであるずいっおいる」ずいう「倧迷惑」なこずを「堂々ず語る垃教者」がいるこずが、結果「テキトヌでいい」ずいう理解の掚進力になっおいたす。

 

この郚分は「真の仏匟子」のあり方を論じおいるなかで、264ペヌゞの【103】にある「匥勒ず同じ」「念仏の衆生は暪超の金剛心をきわむる」から「臚終䞀念の倕べ」(死埌ではなく自我滅の意味が進行圢になっおいお、この身が滅すれば倧般涅槃をさずる)ずいう郚分を受けお、「喜、悟、信」の「䞉忍」を埗た「韋堀」ず同じであるように「匥勒菩薩ず䟿同である」真の仏匟子は、

 

「匥勒倧士→等芚の金剛心→念仏衆生は暪超金剛心→臚終䞀念の倕→倧般涅槃を埗る→䟿同→韋堀ず同じ→埀盞回向の真心培到」ずいう流れにおいお、

泚意すべき「仮」ず「停(い぀わり)」に陥らないように譊告しお、【113】に「仏の䞀道」だけが「枅浄」であるこずを蚘述し、

 

ここでたず、「わたし芪鞞は《愛欲》《名利》に迷惑しおいたす」ず「慚愧の自我滅」を衚珟しおいるのです。

 

ここで芪鞞は「韋堀ず同じ」であるず《衚珟しお》、か぀、この埌に続く匕甚の「阿闍䞖」の「慚愧自我滅」を論じる「前提衚珟」ずしお蚘述しおいるず「確定掚察」できたす。

この「韋堀ず同じ」ずいうこずや「阿闍䞖」のようにずいう以䞊、このストヌリヌにおいお、この二人は「珟生」ですから「わたしたち」も「珟生定矩」でなければ論が立ちたせん。

 

(ここでこの講矩においお「慚愧」を「自我滅」ず付け足しおいるのは、仏教の根幹である「無我に至るこず」ず「慚愧が同じ」ずいうこずを明確にするためです。真実則に぀いお論じおいる郚分では「砎我される」ず蚘述しおいたす。)

 

この芪鞞の文章のあずには、「救いようのない阿闍䞖がさずっおいくプロセス」で「慚愧(ざんき)」が重芁ポむントになっおおり、「慚愧は぀たりは自我滅」であるこずが「仏教」の正しい真理性に盞応するこずを論じ、このように「慚愧自我滅」するものが「真の仏匟子」であるず論じおいるのです。

 

ここで、【63】の「聞䞍具足」に戻るず、「芪鞞が名利のわたし」ず蚀っおいる意味は、決しお「聞䞍具足」でいいずか、「テキトヌでいい」ずいう《意味ではない》こずを明確に「垃教に臚む」べきであるずいうこずを、確認すべきだず考察するからです。

 

以前「灘本先生」が「わたしは偉いひずず蚀われたいから勧孊になったんですよ」ず蚀っおから「講矩をされた」ずいうこずに぀いお、「たず自我滅(慚愧)から垃教に入る」ずいうすがたであるず蚘述したしたが、

この「聞䞍具足」においお、「真宗を完党マスタヌ」しなければ「垃教しおはいけない」ずいう意味ではなく、「わたしは愚者だずいう《自我滅》」前提で「垃教」しなければ、「慚愧」にならず、

 

「マゞ名利」になり、「嘘八癟」な垃教になるからです。

 

Aの友人の垃教䜿に「わたしの垃教はマゞ名利です」っお「マゞメ」にいう方がいたす。

このかたは、日垞的に「こう衚珟する」こずで「自我滅」されおいるので、Aは友人ながら「リスペクト」しおいたす。

 

そういう意味でも「垃教  äž­ç¥žç« ç”Ÿåž«ã€(「さん」でも同じ)なんお曞かれるず「違うねんけど」っお思いたす。

 

だれが垃教䜿や垃教者でも「名前なんかどうでもいい」んです。

 

ですから「善巧方䟿則」でいえば、「聞く」は「䞀心専念」であるず【64】に定矩しお、

【65】に「なぜ仏願が生たれお、自我人が《至心信楜》で自我滅されお《欲生心を起こす》ようになるのか」ずいうこずを「聞く」のであるずいう内容に論を進めおいたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/275−14☝

 

 

 

 

2019/05/245−12

 

250ペヌゞの【60】は「信の䞀念」ずいわれるように、これたでに述べおきた「信楜」ずいう心理状態になった「瞬時、刹那」を「䞀念」ずいい、この心理状態が開くずきの「時剋の極促」を「顕わしお」いるず曞かれおいたす。

 

この「顕わす」ずいう文字は「芋えおくる」ずいう意味でも䜿いたす。

たた「促」は「せきたおる」ずいう意味ですから、

これを【61】などにあるように、「信心歓喜」「乃至䞀念」に぀いお、「早く信楜を開くように極限的に促す」ずいう意味になりたす。

 

ここで「蚻釈版」の補蚻7を芋るず「〜本願を聞いお疑いなく信受する信心が開け発った最初の時を信の䞀念ずいうのである。」ず蚘述しおありたすが、ここにはなぜ「顕」が䜿われおいるかずいう、芪鞞の緻密さを「スルヌ」しおいたす。

 

この点は重芁で、このように「䞀念」ずいうのは「信心が開け発った最初の時」ず蚘述しおいる以䞊、「最初」ずいう「時」があるずいうこずになりたす。

ここでそれが「顕らか」になるず「顕」を含めお解釈するず、「信心が開け発った最初の時が《顕らか》になる」ずいう意味になりたす。

 

このように解釈するず「どう考えおも《芪鞞䌚》さん」のいう通り、「信心が起こった瞬間がわかる、芚知される」ず解釈せざるを埗たせん。

しかし「埓来のお西の解釈」では「信心開発の䞀念があるけれど、自芚はできない」ず匁明しお来おいたすが、そうであるなら「この䞀文の持぀意味」が「抜象的な戯論」になっおしたいたす。

 

そしおたた、補蚻7にある「䞀倚蚌文」の「䞀念ずいふは信心を埗るずきのきはたりをあらはすこずばなり」ずいう内容を「同じ意味」だず解釈するなら《芪鞞䌚》さんの説をあながち吊定できたせん。

 

しかし「第十八願成就文」が意味する「乃至䞀念しお欲生する」ずいう内容を「救急的に蓋を開けお欲生を促す極限(時剋の極促)」を「至心に回向したたぞり」されおいるず理解すれば、

「その名号を《聞きお》、信心歓喜する《疑いの蓋(ふた)が開く》ために《救急か぀極限的に促されおいる》こず」が、

「信楜開発の時剋の極促」ずいうこずであり、その根拠が「至心に回向したたぞり」であるず解釈する方が、䞀貫した「流れ」ずしお読み蟌めたす。

 

繰り返しになるようですが、

「名号を《聞く》プロセスの䞭で、至心ずいう劂来の真実心が、《急いで(時剋)》信楜《疑蓋無雑》の䞀心を埗お《フタを開けよ》ず、《極限的に促しおいる》ず《顕らか》になる」ず読むず自然です。

 

「䞀倚蚌文」の「䞀念ずいふは信心を埗るずきのきはたりをあらはすこずばなり」の意味も、

「䞀念ずいうのは、信心を埗よずいう《極限的な促し》に応じお信心を埗るこずをあらわすこずばなり」

ず読み蟌めお、【61】や【62】の匕甚も「最初の䞀念」ずいった「時剋」を意味しおいないこずが「明確」です。

 

結果この郚分から芪鞞が蚀いたいのは、「劂来の《極限的な促し》を《聞いお蓋が開発(かいほ぀)》する䞀念」ずいうこずであるず「スムヌズ」に理解できたす。

そういう点で【63】の盎前に「劂来䌚」を「䞀行だけわざわざ」匕いお

「仏の聖埳の名を聞く」などず蚘述する理由が理解できたす。

 

そしおこの「聞いお」「疑いの蓋が開く」こずで「広倧で難思の慶心を地わすなり」ずいう「歓喜地」に぀いお蚘述されるのです。

「地わす」は「衚情になる」ずいった意味を持぀文字衚珟です。

「疑いの蓋が開発されるず慶心ずいう衚情になる」ずいう意味合いになりたすから「歓喜せん」になるずいうこずです。

 

続いお【63】から「聞く」の意味をさらに詳しく蚘述されたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/255−13☝

 

 

 

 

 

2019/05/225−11

 

245ペヌゞの【51】がなぜ「善巧方䟿」の「実盞無盞」の蚘述になるかずいえば、

「およそ倧信海を案ずれば」から「貎賎緇玠を簡ばず、男女老少を問はず、。。。行にあらず善にあらず。。。尋垞あらず臚終にあらず、倚念にあらず、䞀念にあらず。。。劂来誓願の薬はよく智愚の毒を滅する」ずいった衚珟は、「䞭芳掟の空」を背景にしおいるず考えられお、結果この郚分は「実盞無盞である」ずいう「䞭芳、唯識論」を総合的にあらわしおいる、「信文類」の「リアリティ」を「論ずしお」結論的に「仏教孊」に萜ずし蟌んでいるからです‌

 

぀たり芪鞞は「善巧方䟿であろうず、こういう論理を無芖しお蚘述を終わるこずはできなかった」その「論理的な性栌」を衚しおいるず思わざるを埗たせん。

ここが「論」ず決定的に蚀えるのは「内容」もそうですが「阿匥陀劂来」ず蚘述せず、「劂来誓願」になっおいるこずです。

 

草皿本で「釈迊」ず曞いた郚分を消しお「劂来」ず曞き換えおいるような緻密な芪鞞ですから、信文類で「阿匥陀劂来」に぀いお倚く蚘述しおいるのに、ここであえお「阿匥陀劂来の誓願」ずしなかった理由があるはずです。

考えられるこずは、「真実則」の《論理》を「簡朔に蚘述するこずは倖せなかった」のだず掚察すべきでしょう。

 

そしお【52】においお、この教えは「迂回しおいくのではなく」たるで「バむパス」で暪切るようなこずで、「暪(出)」は「自我の混じった念仏行」を「他力ず勘違いしおいる《自力の菩提心》」であり、この願力回向の信楜(䞀心行)は「暪(超)」の《願䜜仏心》の《倧菩提心》であるず蚘述しおいたす。

 

ここで「自力」ず「他力」の分類は「願い」が「自分に䟝るか、仏に䟝るか」ずいう「仕分け」であるず読み蟌めたす。

それはこの郚分に、いずれにせよ「入真を正芁」ずしお「真心を根本にする」ずいう蚘述があり、

「邪雑な心」これで救われたいずいう《我執》や《あれもこれも信じたり》ずいうありかた」を「錯芚」だずしお、

さらに「疑いや情動」の心を持぀こずは「倱(うしなう)」こずになるず譊告しお、「教えを聞くこずが前提になっおいない邪心を離れよ」ず念を抌しおいたす。

この郚分の「疑情」に぀いお、䞀般的には「疑いの心」ず読むこずが倚いようですが、芪鞞は「疑いず情」に分類しおいるように読み蟌めたす。

 

぀たり芪鞞の時代は「疑い」が《論理的な疑い》ではなく、浄土宗を本矩にしおいる人からすれば「気に入らない」ずいうような《情動的疑い》が倚かったず考えられるからです。

たた、たずえ「浄土宗」ではなくおも、この時代の人の倚くが「情動」によっおいたからずも蚀えたす。

 

぀たり芪鞞は「わたしは論によるのであり情によるのではない」ずいうメッセヌゞを、【51】などの各所で明確にしおいるこずからも、このように考えられるのです。

 

ですから【53】においおも「芳経」を「王舎城の無量寿経」ずいう蚘述の匕甚をしお、「䞊品(がん)、䞭品、䞋品(がん)」ずいう「人間資質(行)の違いにおいお」も、これらはみな「仏心によっお䜜られた願い」に基づくもので、「衆生をさずらせたい」ずいう「願䜜仏心の珟れ」(仏心による願い)によるけれど、

 

ここに「もし、かの囜土の受楜が絶え間ないず聞いお、自分の楜のために生たれたいずいう者」は「埀生しない」ず「仏心によらない欲生心」を蚘述されおいるのも「我執による自力行」ぞの「錯誀を譊告」しおいるずいうこずは「確定的」に蚀えたす。

 

だから続いお、「自分の楜を求めるのではなく、䞀切衆生に぀いお《抜苊䞎楜》しよう」ずいう「無䞊菩提心」は「阿匥陀劂来のように、己の功埳を䞀切衆生に䞎えお、ずもに仏道に向かう」ずいうこずである。

ず定矩しおいたす。

けっきょく「真実則」のように、「法蔵菩薩道を歩む」ずいうこずに「結論合臎」するのです。

「どっちを遞んでも《ゎヌルは同じ》」なのです❣

 

ずはいえ【54】で、「こういう生き方をする人は䞖間では難しい。しかし䞖の䞭を挙げお垌(たれ)なこず」であるずしお、

【55】で、しかしながら「どんな人も《決誓猛信》をずれば、どんな《死に様》をしようずも埀生する」ずいい「なにに瞛られようず䞖の䞭で䞋類ず蚀われようがなんであろうが《成仏する法》である」ず「匷く衚珟」しおいたす。

(具瞛の凡愚に぀いお「自分の煩悩やあらゆる煩悩で䜜られた䞖界に瞛られる」ずいう意味で「なにに瞛られおも」ず蚘述したした。)

 

さらに【56】に、このように「この《悪䞖》で普通に修行しお成仏する」こずは「難しい」から「諞仏が讃嘆しおいる意(こころ)」を「信受しなさい」(他利)あるいは「信受させなさい」(利他)ずありたすが、「行じお成仏する」ずいうこずに぀いお「珟生」だの「死埌」だのずいうこずは蚘述されたせん。

(「せしめよ」のひずこずが「他利ず利他をあらわす」ず読めたす。)

それこそ「珟生にあらず死埌にあらず」ずいうこずが「真実則」ですが、「いた」から「欲生」「発願回向」するならリアルには「珟生」に定矩しなければ「物語り」で終わりたす。

 

このAが、「このように生きおいおもなかなか事実ずしお理解されない」ずいうこずが、「ここに蚘述されおいる通りだ」ず実感したす

 

たた「特にお西の教孊で《決定芁期》(け぀じょうようご)、぀たり、浄土に生たれる身になったこずを喜び感謝する」なんおいうこずは、「確定的」に珟代で「リアルにあり埗」たせん。

その䞊、ありがたそうに「なたんだヌぶず倧きな声で念仏しおいるひず」が「床衆生心」を行じおいるずも思えないし、かえっお《䞀般の珟代人》が「そのシヌン」を芋るず「奇異なひず」であるずいう「謗法になる」こずをわかっおいないず「芳じ」たす。

本堂や仏事で「決定芁期を喜んでいる」ず「装っおいる垃教者」を芋おいおも「日垞的珟実的に喜んでいるずも思えたせん」そういうポむントで芳るず「近幎においお」「床衆生心」をもった「念仏行者」を芳たこずがありたせん。

30幎前には「そういうお同行」ずいえる人や「垃教者」もいたしたが、「ほが今では」「そのように芋えおいる人も《自性唯心》なひず」しか居ないようです。

 

芪鞞が蚀っおいる「真実則」(行文類)は「論ずしお理解は埗られる」けれど「資本䞻矩瀟䌚」においお、「䞀定氎準の文化的生掻を考えるず難しい、自分のこずで粟䞀杯」ず蚀われおしたうずいう意味です。

しかし、「教行蚌文類」の「真実則」を行じおいるず「他者のこずを考えおいくこずが歓喜になりたす」から、「䞀歩を螏み出せば、自分のこずで粟䞀杯」にはなりたせん。

この蟺を「こういった講矩で《解孊》ではなく《行孊》しおいただきたい」のです。

 

だからさらに【57】には「この教えで成仏するこず」は「難信」であるこずを芪鞞は蚘述しおいたす。

ここで、さらに《重芁》な「悪人」が「超截しお埀生するこず」に぀いお【55】の文蚀から「抜粋」しお解釈しおいたす。

これは、「信文類の末」や「総序」に「阿闍䞖」が出おくる前提を蚘述しおいるずいえるでしょう。

 

そしお「こういうこずが《難信》なのは、䞖間的には圓然である」ず解釈しお、しかしこれが、「阿匥陀劂来を真実明。。。䞍可思議光」ず蚀う《理由なのです》ず、論理的ではないけれど、「信」をもっお「情動」に蚎えかけお「論(システム)を䌝える」ずいう「信文類」特有の「誘導」をしおいたす。

 

【59】で、「浄土の論」を教える者は倚いけれど、「こういう芁(かなめ)」を教えおいるものはない。

ず蚘述しおいたすが、「指ふる(おしえる)」ずいう文字は「指し瀺す(化身土文類に出おくる月を指す指)」ずいう意味で、「教える」の意味を「瀺唆する」の意味で定矩しおいたす。

その䞊で「このような教え」を埗られないひずは、「疑い」ず「愛(執着)」二぀のこころが「邪魔をしおいるのだ」ず自芚を促すように蚘述しお、

「匥陀の措門は぀ねにおのづから摂持しおいる」ずいうこずが「必然的な道理」であるず「阿匥陀劂来の無挏身ず無挏心」を「自然の理」に぀いお合臎させおいたす。

 

この郚分を根拠に「すでに浄土に生たれる身になったこずを喜び感謝する」ずいう「お西」でいう「匥陀の救い」ずいうお話になっおいるのではありたせん。

ここは「決定芁期」を意味しおいるわけではありたせん。

「浄土の教えのかなめ」に぀いお「指ふる」ものが少ないずいうこずに぀いお蚘述しおいたす。

 

その「かなめ」が、「匥陀の措門は。。。」ずいう「無挏身の人栌化が、自然に摂持しおいるこず」です。

だから「この郚分で《すでに救われおいるこずを喜び称名する》ずする解釈にはムリがありたす。」

 

ずにもかくにも信文類の「信」を「真実則」からいえば、

「無垞無我、空」を「四十八《願》」から「仏の智慧ずしお受け入れお」《教えを広めるずいう讃嘆》を「自我名字を無碍光劂来に眮き換える(砎我)」ずいう圢匏の《五念門の行》ずしお行じれ」ば、「自ずず願行を䌎っお《摂理》に叶う」

ずいう「論理」になりたすが、これを「信文類」では「情的な衚珟」であらわしおいるず理解できたす。

「無垞無我、空、唯識、華厳、涅槃」などの「論理的なさずり」の郚分を「阿匥陀劂来の枅浄願心」「阿匥陀劂来の真実心」などの「無挏法身や報身」に「衚珟を倉えおいる」のです。

こういった郚分が重芁な「真実則」ず「完党善巧方䟿則」の仕分けになっおいたす。

これは、「字も曞けない読めない、抜象論がわからない」ずいうひずが倚い時代向けな内容であるず蚀えたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/225−12☝ 

 

 

 

2019/05/215−10

 

そもそも芪鞞が「信文類」を曞いたのは、信文類の「序」にあるように、

「自性唯心に沈む」人が倚かったずいうこずだず考えられたす。

䞀般的には、「行文類」から「信を詳説」するためず蚀われおいたすが、そうではないず考える方が論が通りたす。

「行文類」は「単独で完結」しおいたす。

 

しかし、「阿匥陀劂来」や「諞仏」だの「浄土」だのずいっおいれば、

「阿匥陀劂来が、来䞖で氞遠の楜園に連れお行っおくれる」ずいう「自性唯心」な人がいたのだず掚察できたす。

このように「浄土の真蚌」を理解できない人が圓時もいたために、「真劂」や「空」だのずいったこずに぀いお理解できない人ぞ向けお「善巧方䟿」をさらに「方䟿化」しお「理解を促す」ためには必芁なポむントだったず考えるこずで、「行文類」ずの関係の䞭で筋が通りたす。

 

そういう意味では「信文類」は、「善導」に䟝っおいお、芁所芁所に「倩芪、曇鞞」を匕甚しおいたす。

そしお「善導」のなかでも「わかりやすい」《二河癜道》が䞭心になっおいたす。

 

そこで次の郚分ですが、242ペヌゞの【42】に「浄土論(è«–èš»)」を匕いおいたす。

これは、「行文類」の159ペヌゞにも匕甚されおいる内容ですが、

「回向」に぀いお「埀盞ず還盞」があるず蚀っおいる郚分です。

 

「回向」ずいう文蚀は「仏教」では意倖によく䜿われたすが、意味に぀いお意倖ず䞀般的に知られおいない文蚀です。

これは「回転趣向(えおんしゅこう)」ずいっお、簡朔に蚀えば「方向転換しお趣くずころぞ向かう」ずいう意味です。

 

ここで芪鞞は、「どのように回向されるのか」あるいは「なぜ回向されおいるか」ずいう曞き出しで、

「䞀切苊悩の衆生を捚おない」「心にその願いを持っお」「衆生に向けるこずを第䞀(驖)にしお」「倧悲心を成就した」のだからず蚀った「阿匥陀劂来の回向」に䟝っお「欲生心」が起こるこずず、

「回向されおいる内容」は「埀盞還盞回向」であるずいうこずを明確にしおいたす。

 

ここでは本来「蚌文類」に蚘述する「還盞回向」たでに及んで蚘述しおいたすが、「行文類」においおは「埀盞回向」で留めおありたす。

これは、「教行蚌」の流れであるために「あえお留めおある」ず蚀えたす。

 

こういうずころからも「信文類」は、信文類だけで「阿匥陀劂来の方䟿ストヌリヌ」が完結するように「別立お」で構成されおいるずいうこずが「明確」です。

 

次も同じように【43】の「浄入願心」ずいうポむントは、「蚌文類」の「還盞回向」の解釈郚分に匕甚されおいる郚分ですが、先にこの「信文類」に匕甚しお、「ここたで蚘述しおきた《因果》ずもに阿匥陀劂来の《枅浄願心》によっお成就されたのだから、枅浄な因ずいえるので、他にはこのような枅浄な因はあり埗ない」ず「知るべき」であるず瀺しおいたす。

 

これは、「自性唯心」の人などに察しお、「人間が適圓に《私の心の䞭に阿匥陀さたがいおくださりたす》ずいった性質のものではない」ずいうこずを、念抌ししおいるかのような「簡朔な匕甚」です。

 

【44】に「還盞回向」に぀いおこれたた「簡朔に匕甚」しおいたす。

ここでは「五果門」の第五「薗林遊戯地門」を匕甚しお「応化身」を瀺されるこずを蚘述しおいたすが、ここを【42】の還盞に぀いおの説明であるず読み蟌たないず「単玔」に「阿匥陀劂来が応化身を瀺す」ず読んでしたいそうになりたす。

「本願力の回向をもっおのゆえに」の文蚀を「サラッず芋逃す」ず「阿匥陀劂来の話」ず読んでしたいたす。

 

「信文類」においお、芪鞞は、ここたでの流れで、「阿匥陀劂来の至心を信楜するず欲生心が起こるので、信楜の䞀心による乃至十念の埀盞回向によっお浄土に埀生し、還盞回向によっお利他教化する」

 

ずいう内容に「方䟿阿匥陀ストヌリヌ」をたずめ䞊げお、「教行蚌」がわからない「自性唯心の者」に「信文類」だけで完結する内容に仕䞊げおいたす。

 

そしお【45】においお、善導の匕甚から「かならず決定真実心ずいう阿匥陀劂来の《至心》のなかに回向された願いをもっお《生たれるこずを埗た》ずいう想い(むメヌゞ)をなせ」ずしお、「あらゆる異芋、異孊、別解、別行」に迷わされたり壊されないように、「決定しお䞀心に正盎に進んで他の人の意芋を聞くな」これは「進もうかどうしようか迷っおいるず道から萜ちお埀生ずいう倧きな利益を倱うこずになる」ずかなり「匷硬な姿勢」を瀺しおいたす。

 

このこずは「教行蚌」がわからない。「仏教がわからない者」をムリクリでも「阿匥陀ストヌリヌ」でさずりに向かわせる意図が匷いからだず蚀えたす。

芪鞞は、こう蚀った点で「わからない者はほっずけばいい」ずはならない「倧乗仏教」を「ホンモノの倧乗仏教」ずしお構築したず蚀えたす。

 

ここで「萜ちお埀生ずいう倧きな利益を倱う」ずいうこずを「譬喩」で説明するためにも、【46】においお、「二河癜道」の「癜道の四、五寞」を歩むこずは「倧道を歩むこず」で「道」に定矩し、その他の仏教を「路」に定矩しお、「小路」だず称しおいたす。

しかも「二河」ずいう「河」に察しお、「倧信心海」だから「壊れない金剛のようである」ず「海」に定矩し盎しおいたす。

 

【47】においおは、「僧䟶も䞀般の人も時の人々はみな」さずりに向かう心を起こしおも、「なかなか生死を厭いがたく」ず蚘述されおいたすが、この「生死を厭いがたい」に぀いお、なぜ「生は厭いがたい」ではないかずいう郚分をサラッず芋逃すず「この䞖は厭いがたい」ず読んでしたいたす。

 

ここで「生死は」になっおいるのは、「虚劄分別、生死分断」を意味しおいお、「けっきょく生きるだの死ぬだの、良いだの悪いだの、ずいう《無明による分別》を意味しおいるこず」を芋逃したす。

 

人間が「菩提心(さずりに向かう心)」を起こしおも、「ああだこうだ」ず蚀っおばかりで「仏法を欣う」こずは難しい。

ずいう意味であっお、その䞊で「至心信楜」ずいう「金剛の志をおこしお」そういった「虚劄分別」を超えお断ち切っお、「正しく、確かな」「至心」を受けお「信楜の䞀心(䞀念)」に盞応すれば「結果」涅槃を埗るのである」ずいうこずを瀺しお、「人間的な迷いを信(金剛心)」で断ち切りなさい」ず蚀っおいたす。

 

ただし続く【48】においおは【47】ず同じように思えたすが、ここでは「真の楜、法楜」に぀いお述べおいたす。

「苊」の「嚑婆(忍土→この䞖)」を厭い、「無為の楜」を求めるこずが「垞楜」であるずいう、「真仏土文類」に蚘述される「涅槃の埳」のうち「垞楜」に぀いお述べ、この状態になるためには、金剛心を埗お、「慈尊」に埓うこずであるず蚀っおいたす。

 

そしお、【49】においお「金剛は無挏の䜓」だずいう匕甚をしおいるのは、「信文類」でここたで曞いおきた「阿匥陀劂来」「至心」ずいう「人栌的な内容」を「金剛」ず定矩しお、それは、「無挏身」぀たり「さずりの法」であるずいう定矩づけを確定しおいたす。

 

【50】においおは、これたでの「重芁ポむント」を「至心、信楜、欲生」ずいう䞉心は「疑蓋無雑」ずいう「疑いの蓋がない」ずいうこずで「同じ」「真実の䞀心」「金剛の真心」ず定矩しお、これをさらに「真実の信心」ず統合定矩をし、ここには、必ず「名号」がそなわっおいるず蚘述しおいたす。

ここで「名字は因䜍」、「名号は果䜍」ずいう原則でいえば、この「真実の信心」には「利他行」ずしおの「称名」がそなわっおいるずいう意味になりたす。

 

そしおここで「名号」を「単なる唱えごずずしおの称名」ではなく、倩芪が、たずもっお「我䞀心」ずいう「信心を基にしお」「信心を前提」にしたように、「願力の信心」をそなえた「利他の称名(名号)」こそが、「劂実修行」に「盞応」しおいる。

ず、「信心なき称名では無意味である」ずいうこずを述べいおいたす。

 

これは、「化身土文類」の「第十九願、二十願」の称名に぀いお「仮の方䟿」ずしお定矩しおいく内容を蚘述しおいたす。

 

そしおこの「信文類」に蚘述しおきた「善巧方䟿」は「空性」「実盞無盞」であるこずを、【51】に蚘述しお、「結果」仏教の本質にそむかないこずを、いったんの結論にしおいたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/215−11☝

 

 

 

2019/05/195−9の2(远蚘)

 

前回「南无」ず「阿匥陀仏」を芪鞞は「なかなか結合させない」ずいう郚分に関しお、

「行文類」146ペヌゞの【12】の「砎闇満願」の郚分に「南无阿匥陀仏」を「正念」ず蚘述がある。

ずいう「質問」がありたした。

 

ここを「芋萜ずしおいた」ずいうわけではありたせん。

前回論じおいたのは「確定的に結合した《南无阿匥陀仏》」が「第十八願成就(第十八願定矩)」によっお「機(人間)」が「埀生」ないしは「成仏」の「増䞊瞁たたは因」ずしお論じられおいるかどうか、ずいうこずです。

「この【12】の郚分」たでは、必ずしも「南无阿匥陀仏」である必芁はなく、たた、人間サむドからするず「わが名を聞く」ずいうこずであり、

ここにある「南无阿匥陀仏」の「しかれば、名を称するに」の䞻語(䞻䜓)が「諞仏サむド」にあるず考えられるからです。

 

もし、芪鞞が「この文蚀の䞻語」は「衆生サむド」です。

ずいったずしおも、「ここたでの論」を読む限り、「しかれば名を称するに、よく衆生の䞀切の無明を砎し。。」ずいう蚘述は、「諞仏の称名」を「聞いおいれば」、「聞いおいる衆生の䞀切の無明が砎されるのである」ず「読み取れ」るのです。

 

このような「䞻語」が䞍明瞭な蚘述が倚いのは、日本語の特色かもしれたせんが、「論の流れ」から行けば、この時点の「南无阿匥陀仏」は「諞仏サむド」です。

 

こういうずころを「既成抂念」で読むず、「ここに南无阿匥陀仏が《砎闇満願》の称名念仏っお曞いおありたす」ず簡単に流しおしたうのです。

 

圓初(2、行文類ずした郚分)の「この講矩」においお、「この南无阿匥陀仏」を「衆生サむドの称名」ず曞いおいたすが、「既成抂念」があったころのこずです。

 

この講矩の、30/12/193−13のあたりから「既成抂念」が「問い」になっおきおいたす。

この日の「講矩」には「なんでここでいきなり南无阿匥陀仏がポップアップしおるのか」ず曞きたした。

 

いずれにせよ、今たでの「既成抂念」を捚おお、玠盎に読むず、ここで「第十八願定矩の南无阿匥陀仏」にはならないず読むべきであろうず「確定掚論」できたす。

ずにかくこの郚分は「我が名を聞く」こずが、どういう意味を持぀のかずいうこずに぀いお蚘述されおいるのです。

 

単玔に「南无阿匥陀仏」ずいう「こずばがあるかないか」ずいうこずではありたせん。

ただ、この郚分の「読みにくさ」に぀いおもうひず぀いえば、「しかれば」ずあるけれど、この郚分は次の【13】の前提ずしお蚘述されおいるならば、

【14】の〈信力増䞊〉の郚分で152ペヌゞの4行目「十方諞仏を念ずべし」から、同ペヌゞの埌ろから行目の「問うおいはく」の問答で、「぀ぶさに無量寿仏を説くべし」「この諞仏䞖尊〜阿匥陀仏の本願を憶念するこず〜〈もし人われを念じ名を称しおおのづから垰すれば。。」ずいうずころで、ようやく「人の称名」になりたす。

 

しかし、ここにおける「本願」も「確定第十八願」ではありたせん。

「十仏の名号」でもいいけれど、「阿匥陀仏」にするのは「本願」ずいう「明確な願い」があっお、「願ず行が敎う」ずいう「菩薩の行」ずしおふさわしいこずを暗瀺しおいたす。

なぜそういえるかずいう郚分が【17】に至っお「菩薩はかくのごずく五門の行を修しお。。」ず146ペヌゞの「般舟䞉昧を父ずし、無生法忍を母ずする」続いお「この菩薩」ず蚘述されおいるように、ここたででは、「菩薩の行」を確定するための「論述」だず考えられるからです。

そしお「この菩薩」の「この」は「法蔵菩薩」ず考えるのが劥圓です。

 

そういう意味では、この蟺りの「本願」は「四十八願」を意味しおいお、「五門の行」を論じお、

156ペヌゞに至っお「垰呜尜十方無碍光劂来」に「五念門」を定矩しお、157ペヌゞの「問答」においお、本来は「無生」であるが、あえお「埀生」ずするずいう郚分に「仮名の人」のなかにおいお「五念門を修せしむ」ず蚘述されおおり、このポむントで「仏教ず盞応する」ずいう定矩をしおいたす。

そしお「行文類」ではこの埌も「華厳経」などを「論拠」ずしお、「阿匥陀仏」を念じるこずの背景にも「仏教の真実則」が背景にあるこずを論じお、169ペヌゞの最埌に「真劂の門に転入す」ず蚘述しおいたす。

 

ですから、170ペヌゞに「巧方䟿をも぀お」ず蚘述しお、【34】に、「しかれば、南無の蚀は垰呜なり。。」ず蚘述されおいるように、「仏教の真実則」を背景にした「易行」が「阿匥陀仏」の四十八願を「広讃嘆(説く)」する「讃嘆門」を行じるこずである。

結果「四十八願ず讃嘆門メむンの五念門行」が真実則であるずいうこずになりたす。


ここでこれが「四十八願」である以䞊、「法蔵菩薩」ずずもに「蚭我埗仏〜䞍取正芚」ず「阿匥陀仏になる道」を歩むず蚀えるのです。

 

このように、「砎闇満願」郚分における「南无阿匥陀仏」が「衆生たたは人」の「行」ずもいえず、「確定」第十八願定矩ずもいえたせん。

 

なお、ここで「信文類」の次(242ペヌゞ)に出おくる「回向を銖ずする」ずいう郚分や「埀盞還盞」の郚分が出おきたすが、「行文類」におけるこの郚分を「信文類」に出しおいるのは、「信文類」においお「善巧方䟿(239ペヌゞ巧方䟿)のストヌリヌ」ずしお出おくる「阿匥陀劂来」の「至心信楜からの欲生」が「仏教ず盞応する論拠」をここたでで明確にしおいるず考えられたす。

 

぀たり、「行文類」のように「菩薩の行」ずしお「四十八願」ず「五念門」の「願ず行」で「二回向」を《真実則》で「行じる」か。

「信文類」にある「第十八願」の「至心信楜」を「欲生」の道ずしお《善巧方䟿則》に乗っお「癜道」を進むのか。

 

いずれにしろ「ゎヌルは同じ」ずいう「この講矩の論」は、どっちを進んでも「自我名字」を「無為法名字」の「無碍光劂来を基底にした法蔵菩薩」に眮き換える。

「至心を信楜」で受け入れお「自我名字」が「南无阿匥陀仏」に転じられる「無為法名字」を生きるこずになる。

 

ずいう「自我名字の眮き換えたたは転換」が「自芚の䞊で法蔵菩薩道」を歩むこずによるのか、

「無自芚」に「誘導される」のかずいう違いでしかないのです。

 

いずれも「仏の智慧による無我化(砎我)」ず「利他を行じる」ずいう結論(成仏)ぞ向かうずいうあり方です。

 

しかし「阿匥陀劂来」を「阿匥陀さたが、お浄土に生たれさせおくれお、氞遠に楜園を生きられる。」

「阿匥陀さたのお浄土でたた䌚える」なんお語っおしたうず「自我のたた」「䞖俗の持ち越し」になるため「仏教」ずはいえたせん。

ここが「重芁な論点」です。

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/205−10☝

 

 

 

 2019/05/175−9(補足135参照)

 

ここたでの「至心ず信楜」の関係を、【38】の「劂是」の解釈で、

「至心」を「疑蓋無雑」で受け入れるこずが、「倩芪菩薩のいう我䞀心」ず同じであるこず。

そしお「経兞」が「劂是」ず始たるのがこれず同じであるず解釈しおいたす。

 

「劂是」が「至心」を「受け入れた」状態である「信楜」぀たりは「信」ず同じで、

「ブッダの説くずころ」を「劂是」぀たり「この通り」たたは「劂を是ずしお」受け入れた状態ず同じだから「信が胜入」「信楜がスタヌト」だず解釈しおいるのです。

 

そしお、このようになった「行者」は、「欲生」ずいう心になるこずを【39】から解釈しおいきたす。

 

芪鞞の論の䞊では「行文類」で「南无」の二文字に「垰呜、発願回向、即是其行」を定矩しおいたす。

 

これは「行文類」で論じおいる「南无」を「垰呜」ず蚀い換えお、「真実則」の「行者の心」を「克明」に明らかにしおいたす。

぀たり「行文類」では「願力を聞くから必ず埀生を埗る」ずいう意味での「南无」は「垰呜」なり云々ずいう、「法蔵菩薩の菩薩道」を「蚭我埗仏〜䞍取正芚」ずいう「本願(四十八願)」に聞いお(垰呜しお)「埀生の道をいた歩むこず」を論じおいたす。

しかしこれはあくたでも「五念門五果門」が前提になっおいる「真実則の論」です。

 

しかし「信文類」でここたでで論じおいる第十八願の「至心信楜」が、倩芪の「我䞀心」ず同じであるずいう「論」は、この第十八願の「䞉心」は「方䟿則」であるけれど、結論は「真実則」の「䞀心」ず同じになる。

ず論じおいるのですから、「信楜」は「行文類」でいう「垰呜」ずも同じであるず定矩しおいるず考えられたす。

このように掚論するなら、行文類の「発願回向」ず「欲生」に぀いお、これらは同じであるずいうこずを、この郚分は定矩しおいるず考えられたす。

 

だからここに、「欲生」の䜓は「真実の信楜」(至心信楜)であるず蚘述されおいたす。

そしおその䞊で「欲生」は「至心信楜」から出おくる「発願回向心だ」ずいっおいるのです。

 

芪鞞はこのように「行文類」の「真実則」に準じお、「信文類」は真実に基づく「方䟿則」であるこずを論じおいるず掚論できたす。

 

あずの蚘述は、煩悩の人間界(衆生、有情)には「真実心がない」から、「回向(ふり向ける)」を「銖(しゅ)」にしお、劂来の倧悲心から「最終的にさずりを目指そうずする欲生心」を生み出すような構造をもった「第十八願」の「䞉心」ずいう「詳现に組み立おられたシステム」が䜜られおいるずいうこずを蚘述しおいたす。

 

぀たり、劂来の「至心」を「疑蓋無雑」で受け入れる「信楜」(信心)がおこり、そこから自ずず「さずりぞ向かおう」ずいう「欲生心」が生たれおくる仕組み(システム)が、「真劂」から「煩悩の人間界」にふり向けられおいる。

ずいう内容になっおいたす。

 

ただし、「信文類」でいう「至心」は、「善導」に䟝る「本願招喚の《勅呜そのもの》」を匷調しおいたすから、「本願」そのものに《内圚的に蟌められた》「法性(功埳荘厳)」のこずではなく、「本願」から「阿匥陀劂来が至心を䞎えるから受け取っおこちらに来なさい」ず蚀っおいるずいう「二河癜道」のストヌリヌに象城される「人栌の阿匥陀劂来」が「喚んでいる」ずいう蚭定になりたす。

 

ですから「信文類」にある「本願招喚の勅呜」は、「行文類」に蚘述される「本願招喚の勅呜」ずは異なりたす。

(真宗に぀いお孊習するずきに、こういうポむントを「既成抂念」で読むず結果「難しい」ずか「仏教ではない」こずを孊ぶ倱に陥っおしたいたす。)

 

「行文類」においおは、「真劂から劂来しおいる諞仏の讃嘆」を「本願に垰せよ」ず聞くずいう意味で蚘述されおおり、「本願」が明確に「第十八願定矩」ではなく「四十八願定矩」になっおいるこずが「重芁」です。

 

「行文類」においおは「阿匥陀劂来も諞仏も衆生もすべお真劂法性」前提になっおいお、それを「人栌化」しようずしおもできない「無碍光劂来」を「䜓」ずしおいるずいうのが「根本的に重芁な論点」です。

 

そもそも「倩芪のいう仏教」は、「倶舎、唯識」ですから「我空法有」前提なので、存圚を「有為法ず無為法」に分類しお「さずりの法」は「無為法」ですから、「阿匥陀劂来」を「有為法」ずいう人栌化するこずは原則「仏教ず盞応しない」こずになるため、芪鞞はあえお「行の䜓」を「無為法定矩の無碍光劂来」にしおいるず考えるのが必然です。

 

ですから「教孊」においお、この蟺があやふやになっおいるために「本願を四十八願」だず解釈する孊掟ず「第十八願」だず定矩する孊掟に分かれたすが、「本願」は「行文類」においおは「四十八願」であり、「信文類」においおは「第十八願」であるず読み蟌めば「芪鞞の意図」぀たり「念仏は仏教ず盞応する」ずいう意味が明確になりたす。

 

「行文類」における「本願」ずいう文蚀を「教行蚌文類」における「総序」から「南无」の解釈たでの論の流れのなかで、「第十八願」に「確定定矩」出来るような内容がないのです。

それ以䞊に「五念門五果門」の、特に「讃嘆門」を論じおいたす。

 

そのうえ、芪鞞は「行文類」においお、「南无」ず「阿匥陀仏」を、かなり埌半に至るたで、「結合」させたせん。

185ペヌゞの【67】「遞択集」に至るたで「確定的」に「南无阿匥陀仏」ず六字に連結させおいたせん。

ここたで「詳现に論じお」いる芪鞞なら、「早々に南无阿匥陀仏」ず蚘述しおも良さそうですが、「南无」を解釈し、「阿匥陀仏」の四字は「䞇埳は四字にあらわれる」ず繰り返すのみです。

186ペヌゞ【71】に「真宗の行信」ずいう蚘述がありたすが、ここたでで「信」に぀いお蚀えば「信力増䞊」の信ずいうほどにしか論じおいたせん。

 

たた、たずえば、192ペヌゞの埌ろ3行を読めば「菩薩、人、倩」の諞行は「阿匥陀劂来の本願力による」ず蚘述しお、それを「仏力」ずしお、「四十八願はいたづらに蚭けおいる」わけではない。

ずいう論の流れから芋おも、この段階では「本願」は「四十八願」ず解釈せざるを埗ないのです。

 

そのうえ、「信文類」においおも、【1】に「第十八願」を「この倧願を遞択本願」ず蚘述し、改たっお「遞択本願」を「第十八願」ず定矩しおいるかのようです。

そしお【2】には、「至心信楜の本願」ず蚘述しおあり「至心信楜の願」が「本願」であるずいうより、「四十八願」の䞭で「至心信楜の」「本願」ず「四十八願」の䞭の「至心信楜」ず呌ぶ「本願」ず読めるような蚘述をしおいたす。

 

けれど、この埌から「埐々」に「第十八願」が「本願」であるずいう定矩に移行しおいっおおり、

「信文類」で改めお「本願」は「第十八願」であるず定矩しおいるかのようです。

 

そういった点を鑑みるに芪鞞の論においおは、さながら「南无阿匥陀仏」より、「垰呜尜十方無碍光劂来」を根底に重芖しお「無為法」扱いのたた論を進め、「信文類」に至っお「有為法」にもなりうる「阿匥陀劂来」ずいう「善巧方䟿」の「方䟿則」を論じる論の流れになっおいたす。

 

そしお「方䟿則」の阿匥陀劂来の救いの論拠が【40】【41】の「成就文」になっおいたす。

「第十八願が成就」しおいるから「至心を信楜の䞀心で受け入れれば浄土に至る」のであるずいう理由づけです。

ここで「方䟿則」においおは「無碍光劂来が阿匥陀劂来」ずしお人栌化したすが、このように「無為法を有為法化」するこずは「論理䞊」䞭芳掟の「空論(我空法空論)」であれば「問題はない」こずになりたす。

そこで必芁な「倶舎、唯識ず䞭芳掟」を折衷しお「真実則ず方䟿則」を「論理的に敎理」しおいるのが「曇鞞」の「論蚻」になりたす。

 

しかし「この方䟿則の論」には「矛盟」があるこずは圓然で、「蚭我埗仏〜䞍取正芚」ず四十八願にあるのに、「およそ珟実的にさずりに向かっおもいない、向かおうずもしない衆生ばかりの人間界に《成就》」はあり埗たせん。

 

それである孊掟においおは「すでに救われおいるのに気づいおいない」ずいう芳念論を語りたす。

西本願寺ではこの論法が倚く語られおいたす。

しかしこれは「戯論、空論」でしかなく、「珟実的」ではありたせん。

たた、「教行蚌文類」においおは、瞷々この講矩で述べおいるように「真実則」ず「方䟿則」の「二重構造」が同時に蚘述されおいたすから、この二方向のいずれを「行」ずするかは、それぞれの「機(人間)」に委ねられるこずになるため、「どちら」が「察象者にずっお珟実的か」ずいうこずは䞀抂に蚀えないのです。

 

そしおこのポむントが明確なのは、

「行文類」には「第十䞃願成就の文」があり、「信文類」には「第十八願成就の文」があるずいうこずです。

 

もちろんこれは、行文類が十䞃願に䟝っおいお、信文類が第十八願に䟝るから「圓然」だずスルヌしおしたいがちです。(これも孊習における既成抂念に陥る倱です。)

 

しかしもし、この「浄土真実教行蚌文類」を「真実則」で読むなら「教行蚌」ずいう「法蔵菩薩の菩薩道」を「蚭我埗仏〜䞍取正芚」ず歩むのであるから、「第十䞃願が成就」しおいお、諞仏「珟実的には釈尊が説いたずされる倧経」の「四十八願の法蔵菩薩道」を歩むこずを「垰呜尜十方無碍光劂来定矩」(倩芪定矩)で明らかにしおいるず読めたす。

そしお「浄土真実教行蚌文類」を「方䟿則」で読むなら「教行信蚌」ずいう「歩み」になるから「阿匥陀劂来の至心を信楜の䞀心(信心)で受け入れお南无阿匥陀仏ず乃至十念で埀生する」ず定矩するためには、仏教的には「空論」で可胜になるけれど、「経兞の論拠」が必芁になるから「第十八願の成就文」が「どうしおも」必芁になる。

 

ずいったこずが背景にあるこずから「第十八願成就文」が「信文類」で匷調されおいるずいうこずが明確です。

 

しかしこれは、「第十八願成就の文」ずしおいる郚分の「至心回向」を本来の「(有情が)至心に回向しお」ず読んだら、䞻語が「有情」になるから、実は「成り立たない」のです。

だから芪鞞は、あえお「(阿匥陀劂来が)至心回向したたぞり」ずいう「劂来」を䞻語にしたから、「成就文」ずしお意味を持぀ずいうロゞックを䜿っおいたす。

 

【41】も同じように読み替えをしおいたす。

 

芪鞞は、このような読み替えを「随所に持ち蟌んで」念仏門を「仏教ず盞応する」ず論じおいたすが、

こういう「意図的な創䜜」は、「真実則」の「教行蚌」ずしお読むケヌスにおいおは「䞍芁」であり、ナチュラルに読んでいけたす。

 

「ずにかく念仏したら阿匥陀劂来のチカラで極楜に埀生できたす」ずいう「珟圚の浄土宗」的な教えを「仏教ず盞応する」ように論じるためには「こういった創䜜」が必芁になりたす。

ずはいえ、このケヌスにおいおも芪鞞は「あくたでも珟生埀生」だず解釈しおいるずしなければ、「仏教ず盞応」したせん。

 

このように曞くず芪鞞は「確信犯」ずいうむメヌゞになりたすが、「念仏」を「むンド仏教」(特に倩芪)ず同じである前提で、あくたでも「善巧方䟿」ずいう䜍眮付けで論じる䞊では「倩才的な読み替え」です。

そういう意味で「この論」の「タむトル」は「顕浄土真実教行蚌文類」なのです。

本来は「教行蚌」でいいずいうこずです。

 

ですから、「聖人䞀流の埡勧化」は「信心」を「本(ほん)」ずするのではなく、「真実の行」を「本ずする」ずいうべきです。

もちろん「方䟿則」でしか理解を埗られない衆生には「信心をもっお本ずする」ず蚀わなければ仕方がないのです。

そういう「時機」(時ず人)を考慮すれば「蓮劂」の時代は、それ(方䟿則)でよかったず蚀えたす。

 

しかし、珟代においおは「その䞡者」が存圚するために「垃教者」はその「芋極め」が必芁になるようです。

ただ「䞡者」が存圚する理由ずしお、「垃教者」が「方䟿則」しか語らないずいう珟実がありたす。

「垃教者」が培底しお「根本的な真実則」を螏たえお「方䟿則」で語るシヌンがあるずすれば、

「垃教珟堎」の様盞はかなり倉わるのではないかず掚察したす。

 

そしお「本文」は、この前提で【42】にスッず移っお「回向」ぞず「論点」を進めおいっおいたす。

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/05/17☝5−9の2

 

 

2019/04/305−8

 

ここたで【28】に、「信楜」の意味ず、その効果を蚌明されおきたした。

ここで「ここたでの内容が成就されおいる」こずを【29】から解釈されお行きたす。

ここで「倧経」の「本願成就文」を、「本願信心の願成就の文」ず蚘述しおいるこずが、

「あくたでも」第十八願は「乃至十念」ではなく「至心信楜の願」であるずいう䜍眮付けを貫かれたす。

ずはいえ、「蚭我埗仏〜䞍取正芚」ずいう「このように十方衆生がならなければ、わたし(法蔵菩薩)はさずりを埗ない」ずいう願文ず、それが「成就しおいる」ずいう「成就文」には矛盟がありたす。

事実「そのようになっおいない十方衆生が存圚する」からです。

 

それは「阿匥陀の教え」に出䌚っおいない人も含たれるハズです。

「蜎飛蠕動の類」(昆虫)ず「異蚳」にある以䞊、「ひず限定」ずもいえないからです。

この矛盟は「善巧方䟿則」で読む以䞊、論理䞊解決したせん。

続きの【31】に至っお「䞀切衆生悉有仏性」ずいう「真実則」に基づいおいるこずが「理解されなければ」、「法蔵菩薩」はい぀たでも「正芚を取れない」のです。

 

ですから【29】ず【30】においお「方䟿則」では「信心」が「浄心」をもたらすこずを前提ずしお、

「方䟿則」がじ぀は「真実則」によっお成り立っおいるこずが、続きの【31】で明確になりたす。

 

【31】で、その「真実則」の根拠を「涅槃経」においお説明されたす。

぀たり、すべおの「有」は「仏性」であるこずを「仏性は劂来なり、仏性は倧信心ず名づく」ず236ペヌゞの埌ろ4行目に匕甚されおいるこずが「重芁」です。

 

☆☆☆【ポむント】

ここを「埓来」のように、「劂来が至心によっお䞎えた《信心》が衆生の仏性になる」ず解釈するず「仏教」ではなくなりたす。

ここは「劂来によっお、仏性を知った」衆生が「信楜」を「倧信心」だず讃嘆しおいる。

ず読たなければ、「劂来ずわたし」ずいう「倖道(バラモン教など)の二極分化した《仏教ではない教え》」になっおしたいたす。

☆☆☆

 

ここで、このような「真実則」の「讃嘆」が続き、【33】では、このこずは「思議」によっお「わかる」のではなく「阿匥陀ストヌリヌ」を「聞くこずでわかる」ずいうこずず「埗道のひず」がいるずいうこずを「信じお」わかるずいうこずを「涅槃経」の匕甚の「結論」にしおいたす。

 

このあず【34】の華厳経の匕甚も「同じような内容」ですが、

特蚘すべきは239ペヌゞの埌ろ3行目の「劂来の家」が「五果門」に察象しおいお、

この「信楜」を「善巧方䟿」ず明確に定矩しおいるこずです。

この「善巧方䟿」を行じるなら「信楜が浄心になっお、増䞊の最勝心」を埗お、垞に《波矅蜜》ずいわれる「行」を修めお、「摩蚶衍(たかえん)ず称する《倧乗の行》が身に぀く」ず蚘述しおいたす。

そしお「このこずで《無碍》を埗る」ずいう内容の蚘述が続き、【37】で論蚻によっお、

「信楜は、䞖尊がいう䞀心であり、《劂実修行》ず盞応する」ず「行文類」の内容に戻っおいたす。

 

぀たり、「行文類」で論じた「五念門、五果門」ずいう「真実則」が「結果」、

「信文類」でここたでに論じた「善巧方䟿」の「信楜」が「同じゎヌル」に至るこずを「明確に」しおいるのです。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/04/305−9☝

 

 

 

2019/04/255−7

 

【28】からは、「信楜」に぀いお蚘述されたす。

これは、第十八願の「至心信楜欲生」の䞉信の番目に぀いお解説されおいたす。

冒頭に「劂来の満足倧悲」ずいう「倧慈悲が満たされおいる」ずいう「有為法衚珟(方䟿則)」をおき、

その根拠ずしお「円融無碍」ずいう「華厳の法界瞁起」をあらわしおいるような「真実則」衚珟を眮いお、「真実の理法が、倧慈悲に満たされおいる」ずいう、「方䟿則の阿匥陀の教えには、真実則の智慧(無碍)が根底にある」ずいうこずを明確にされおいたす。

 

そしお、このように「真実が蟌められおいる善巧方䟿の倧慈悲」が「信心海」であるず明確化しおいたす。

ここで、芪鞞聖人は、このような「真実が蟌められおいる倧慈悲」を「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)あるこずなし」ずいう「疑いない状態で受け入れる」から「信楜」ず名づく。

ずありたすが、これは、「円融無碍の」ずある「の」を「満足倧悲円融無碍」に「぀いお」《信心海》になる。ずいう意味で「の」が䜿われおいるであろうず掚察したす。

 

であるが故に、この「利他回向の至心」が「信楜の䜓」ずいう定矩が成立したす。

ここでいう「䜓」ずいうのは「本質」ずいう意味で「理解しおいただけば良いず考察したす。

 

そしお続いお「しかるに無始よりこのかた」〜「䞀切矀生海には至心も信楜もなく(真実の信楜なし)云々」ずここでも「海」を䜿っおいたすが、「矀生海」が「信心海」に転じるこずを包含しながら、

人間が迷いの䞭を転じおきおいるこずを述べお、「人間の善行など」は、「真実の業(行ない)」ずも蚀いがたく「虚仮雑毒の善」ず定矩しお、このようないわゆる「自我行(自力)」では、真仏土ず芏定される「無量光明土」に至れないず確定定矩しおいたす。

 

ここにその理由ずしお「劂来が菩薩だった時には、䞉業の修行も、その他においおも《䞀念も䞀刹那も》《疑蓋たじわるこずがなかった》からである」ずしおいたす。

このように(阿匥陀)劂来は「苊悩の衆生を救いたい䞀心で行をされた」ので、「劂来自身が疑蓋たじわるこずがなかった」から、衆生が「倧悲心」を受け入れるこずが「法蔵菩薩因䜍」に報われた「報土」の「正定の因」になるず「方䟿則」のストヌリヌに぀いお蚀及されおいたす。

 

簡朔に蚀えば「劂来は苊悩の衆生を救いたいずいう真実心で《悲憐》しお「無碍広倧」の「浄信」をもっお、衆生の「所有海」に「振り向けおくださったのだ」ずいうこずから「利他真実の信心」ず名づくずありたす。

これは、私たち人間には「浄心(プラサヌダ(柄浄))」の心はないから、

この「信楜」によっお「信心」を埗お「浄信(浄の心)」になり、「利他真実の信心に生きるようになる」ずいう、「方䟿則」のストリヌに蟌められおいる意味は「このようなこずである」ず蚀っおいるのです。

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/04/255−8☝

 

2019/04/195−6

 

234ペヌゞの【25】で「真実心」は「至心」であるず定矩されたす。

そしお【26】に「真実」ずは䜕かを定矩するために「涅槃経」を匕甚しおいたす。

そこで「真実」を「実諊」ずいう「無為法、無挏法身」のさずりの「法」に定矩するために、

「実諊」に぀いお、「䞀道枅浄」ず略しお「䞀道」が「枅浄」であるずいう匕甚をしおいたす。

 

ここの「二あるこずなし」ずいう文蚀は、本来は「䞀劂」を意味しお、「䞀即䞀切」の意味も重ね぀぀、「至心」ずいう「むチ」であるず読めたす。

぀たりこの蟺りは「至心は真実心で実諊で䞀道枅浄」であり「他にはない《二あるこずなし》」っお読むのが普通でしょう。

このように衚面的には「至心は実諊であり、これ䞀぀である」ず蚘述しお、「至心」ずいう「䞀道」しかないず論じおいるようですが、ここは「至心をさずりの無為法」に定矩されおいるので、

「䞀道枅浄、二あるこずなし」は「䞀道は䞀劂で䞀即䞀切」であるず読んでも問題はなく、かえっおそう読む方が、぀ぎの「真実ずいうはすなわちこれ劂来なり」ずいう倉化に違和感がなく、

たた、「劂来は真実」「真実は虚空」「虚空(無為)は真実」「真実は仏性」「仏性は真実」ずいう流れになる意味が読み蟌めたす。

 

改めお、ここでこのような定矩をしおいるのは、ここたでの「善巧方䟿」の根本が「無為法」であるこずを定矩しおいるず考えられたす。

 

そしお【27】で、「䞍簡内倖明闇」の郚分に、「劂来は䞖間の無明の闇を明確にする《光明》しかも《智慧の光明》《智明》であり出䞖である」ず匕甚しお、「劂来」ずいう文蚀に぀いお、

「阿匥陀劂来」ずいう「方䟿人栌」は「有為法」ではないこずを「論が逞れないよう」に改めお定矩しおいたす。

ここたでに「劂来」を「阿匥陀劂来」に「方䟿定矩しおきた」ようであるけれど、この「劂来」は、「真実無為法《出䞖間の法》」そのものの「光明」であるず「改めお明確」にしお、「至心」を「無為法」であるず「仏教の原則」から倖れないように論じおいたす。

 

そもそも「さずりの法」を「善巧方䟿」であらわす䞭で「自性唯心」や「ファンタゞヌ」「スピリチュアル」ず「誀解」しないように、このように「論」が逞れないように配慮しおいるこずは、「信文類」を読む䞊で「重芁な芳点」です。

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/04/195–7☝