いろんなこと!!

 【善悪を知る実】

私たち人間は、多くの物事を二極化させるのが好きなのか、「生と死」「健康と病気」「富と貧」「自と他」などキリがないほどですが、「善と悪」もそうでしょう。
良し悪しを言い出すといろんな問題が出てきます。
また「病気」は悪くて「健康第一」といえば、「病気になれば価値が下がる」といったイメージになって「病気から学ぶ」ということがなくなります。
「死」ということも生の変化であって、天国で違ういのちになると解釈できます。
「死」もまた学びです。
およそ、アダムとエバはこういう「二極化思考」をしないものだったのに、この思考を持ったために「死ぬ身になった」といわれているのかもしれません。
「死」を「死」と思わなければ、変化であり永遠の小宇宙としておられたのかも知れないのです。
私が、「善悪を知る実」についてこのように考えるようになってから、入退院をしてた生前の母にも「親子の議論」で「お母さんは死ぬんじゃなくて、変化するんだ!」と伝えました。
「それが善悪を知ることだ」というふうに…!
なので、私自身母の死について「悲しいという思いはなかった」んです。
お葬式のあとで酒飲んで「義兄と爆笑しつつの宴会」でした。
この頃から、私も仏教からなんとはなくキリスト教の研究者になっていたようです。

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「はじめに言葉ありき」と現代心理学(NLP)

 

キリスト教における「はじめに言葉ありき」という言葉は、新約聖書の『ヨハネによる福音書』冒頭に出てくるフレーズです。ここで「言葉」(ギリシャ語で「ロゴス」)は、神の創造的な力や意志、知恵を象徴しています。言葉によって世界が創造されたとされ、神の言葉は実際に存在や行為を引き起こす力を持っていると解釈されます。この概念は、言葉が現実を形作るという考え方に基づいています。

 

一方、心理学におけるNLP(Neuro-Linguistic Programming、神経言語プログラミング)は、言語(言葉)が思考や行動、感情に大きな影響を与えるという理論です。NLPでは、言葉が私たちの認識や行動にどのように影響を与えるかに焦点を当て、言語の使い方を変えることで、望む結果を得るための行動や感情を変えることができるとされています。

 

これらを結びつけて考えると、「はじめに言葉ありき」というキリスト教の概念は、NLPの理論と共通する部分があります。つまり、言葉は単なるコミュニケーションのツール以上のものであり、現実を構築する力を持っているという点です。神の言葉が宇宙を創造したように、人間の言葉も自身の思考や行動を形作る力を持ち、それによって周囲の現実に影響を与えるという考え方です。

 

NLPでは、例えば「ポジティブな自己対話」や「肯定的な言語の使用」を強調しますが、これは自分自身の内面的な現実を変えるために言葉を利用する方法です。このように、言葉は単なる情報伝達の手段ではなく、心理的・霊的な力を持っており、それを適切に使うことで人生において新しい可能性を創造することができると考えられます。

 

キリスト教の視点から見れば、神が言葉で世界を創造したように、NLP理論では私たち自身が言葉を使って自分の内外の現実を創り出すことができるという共通点が見られるのです。

 

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NLP(Neuro-Linguistic Programming、神経言語プログラミング)は、1970年代にリチャード・バンドラーとジョン・グリンダーによって開発された心理学的アプローチです。この理論は、脳(Neuro)、言語(Linguistic)、そして行動のプログラム化(Programming)の三つの要素に基づいています。NLPの基本的な考え方は、人間の思考、感情、行動はすべて脳の神経活動と、それを表現する言語によって制御されており、これを変えることで望ましい結果を得ることができるというものです。

 

NLPの主な要素を説明すると以下の通りです。

 

1. Neuro(神経)

私たちの経験や感情は、神経系、つまり脳や体全体に広がる神経ネットワークを通じて処理されます。私たちが世界をどのように認識し、感じるかは、神経活動に依存しており、この活動は訓練や意識的な変化を通じて調整できると考えられています。

2. Linguistic(言語)

言葉や非言語的なコミュニケーションは、私たちの思考や感情を形作り、それによって私たちの行動にも影響を与えます。NLPでは、言語がどのように使われるかが非常に重要であり、言語の使い方を変えることで思考や感情のパターンも変えることができるとされています。

3. Programming(プログラミング)

人間の行動はある意味で「プログラム化」されている、すなわち、パターン化されていると考えられます。これには無意識の行動や反応も含まれます。NLPは、この「プログラム」を意識的に再編成し、より良い結果を得るために新しいパターンを作り出すことができるという理論です。

 

NLPの目的は、これらの要素を使って、個人が自分の思考や行動のパターンを理解し、それをより効果的に変える手法を提供することです。NLPは、自己改善、コミュニケーションの向上、ストレス管理、目標達成、カウンセリングやビジネスの分野でも応用され、特に効果的なコミュニケーションと行動変容を促す手法として広く知られています。

 

簡単に言うと、NLPは「私たちがどのように思考し、感じ、行動するかを理解し、それを改善するための技術と方法」を提供するものです。

 

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草津恵チャペルのメンバーさんからのおもしろい解釈!
そもそもこの話は、〇〇さんという洗礼したくないけどクリスチャンだと自覚している人との話で、「神様の大きさはどのぐらいか」と言うところからお話が始まりました。
神はめちゃめちゃ大きいのか、あるいは創造神がミニマムなサイズになりながら、いろんなものに宿っていると言う状態なのか、と言うやりとりの中で、この方は、大きな神様が、すべてのものに小さな姿で宿られている、とおっしゃり、私たちの中にも神が宿り、神に背いている私たちを神へと戻そうとする神による行い、または内なる働きかけが信仰だと思うとおっしゃいました。
大変に面白い考え方であり、こういう考え方が日本の神道と結びついた教義ができると、もっとキリスト教に親しみやすくなるのではないかと言うような考察のきっかけをいただいたように思います。

 

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神のサイズを調べたところ、

聖書には、神の具体的な「サイズ」についての記述はありません。神は物理的な存在としてではなく、霊的で超越的な存在として描かれています。キリスト教の伝統では、神は無限で全知全能、全ての場所に存在する(遍在)とされるため、サイズや形に制限されるような存在ではないと理解されています。

 

いくつかの聖書の箇所では、神の偉大さや広がりが象徴的な言葉で表現されています。例えば、以下のような記述があります:

 

イザヤ書 40:12 では、「神は手のひらで水を計り、手の幅で天を測る」と表現され、神の偉大さを強調しています。これは物理的なサイズを意味するのではなく、神の力と知恵が無限であることを象徴しています。

列王記上 8:27 では、「天も、天の天も神を包み込むことはできない」と記されており、神の存在が宇宙を超えたものであることが示されています。

 

神の性質は形やサイズを超越しており、人間の理解を超えた存在であるとされています。したがって、聖書では神のサイズが具体的に述べられることはなく、むしろ神の無限の力と存在が強調されています。

ということなので、「〇〇さん説」「小宇宙説」などもありかと思いました。

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「人間がサタンにつくのも、神につくのも同じ」という論を導き出すためには、聖書の文脈を通常の解釈から離れて読み、神とサタンの対立を相対化し、両者を同じ土俵で扱う視点が必要です。しかし、この解釈は聖書の教えから直接導き出すものではなく、哲学的あるいは神学的な挑戦として捉えることが適切です。

 

その視点を得るために、次のような考察が可能です:

 

1. 神の全能性とサタンの存在の許容

 

聖書において、神は全能であり、すべてを支配している存在とされています。神は全知全能であり、サタンの存在すら神の計画の一部として許されていると解釈できます。この場合、サタンの活動や試みさえも、神の意志の範疇で動いていることになります。例えば、ヨブ記では、サタンが神の許可を得てヨブを試す場面があります(ヨブ記1:6-12)。ここで、サタンの行為さえも神の許容範囲にあることが示唆されています。

 

この観点からは、人間が神につくかサタンにつくかという選択も、究極的には神の計画の一部であり、全体として同じ目的に向かって進んでいると解釈することができるかもしれません。どちらの道を選んでも、結果的に神の全体的な意志に従っているという見方です。

 

2. 善悪の相対化

 

哲学的視点からは、善悪を相対的に見ることができます。もし善悪が絶対的ではなく相対的であるなら、神とサタンの間に明確な違いがなくなる可能性があります。この考え方に基づけば、神が善であり、サタンが悪であるという二元論的な対立は、相対化されたものとして捉えられるでしょう。人間が神につくかサタンにつくかは、単なる視点の違いであり、本質的には同じ選択であると主張することもできます。

 

3. 人間の自由意志と結果の同一性

 

聖書において、人間には自由意志が与えられており、神につくかサタンにつくかを選択することが許されています(申命記30:19)。しかし、どちらの選択をしても、最終的には神の審判を受け、神の計画の一部として存在し続けるという見方をすると、人間の選択は異なっても、最終的な結末は神の意志に統合されるとも言えるかもしれません。この場合、選択の結果が同じであるならば、選択そのものも相対化され、神につくこともサタンにつくことも同じだと解釈することができます。

 

まとめ

 

「神につくこともサタンにつくことも同じ」という論を導き出すためには、神の全能性や善悪の相対化、結果の同一性といった視点を組み合わせて考えることが必要です。しかし、このような解釈は、聖書の正統的な教えからは外れており、むしろ哲学的な議論の領域に属します。

 

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私の60年の闘いは、「お金からの解放」です。

「人間がお金から解放されるために、神につくこととサタンにつくことが同じ結論に至る」という主張は、通常の神学的理解とは対立する内容ですが、哲学的に解釈すれば、善悪や目的を相対化する視点で論じることができます。以下、このテーマに基づいて考察を進めます。

 

1. お金からの解放と二元的対立の相対化

 

まず、お金は世俗的な力や欲望、権力の象徴として、多くの人々の生活を支配しています。聖書のマタイ6:24には「あなたがたは神にも仕え、富にも仕えることはできません」とあります。この節は、お金と神を対立させ、人間がどちらかを選ばなければならないとしていますが、同時にお金を手放すことで、より高次な存在への従属が強調されています。

 

この文脈で「神」と「サタン」の対立を相対化し、二者のどちらに従うにせよ、結果として人間が「お金から解放される」という点に注目することができます。もしお金が本質的な束縛であり、これからの解放が目的であれば、神を信じて禁欲的に生きることも、逆にサタンのもとで物質的な支配を否定することも、目的に至るための手段として等しいと考えることができます。

 

2. 神とサタンの共通点:お金の否定

 

神につく道は、聖書の教えに従い、物欲を捨てることによって、お金や物質的な欲望から解放されることを目指します。例えば、マタイ19:21で、イエスが「富める者が天国に入るのは難しい」と述べたように、富やお金が人間を束縛し、神に近づくことを妨げる障害として描かれています。このため、神につくことは、お金を否定し、精神的な豊かさに目を向けることだと言えます。

 

一方、サタンに従う道も、お金からの解放に繋がると考えることができます。サタンの教えに従うということは、物質世界の価値観を拒絶し、現世的な規範や社会的ルールに逆らうことを意味するかもしれません。この視点から、サタンを選ぶことも、物質的な執着を否定し、お金の支配から逃れる方法として解釈することができます。例えば、反権力や反社会的な行動を通じて、世俗的な価値観や物質主義を拒絶することがサタンの側での「自由」の一形態とされる可能性があります。

 

3. 結論の一致:お金からの解放

 

お金や物質的な価値観から解放されるという目的に焦点を当てれば、神につく道とサタンにつく道の両方が、表面的には対立しているようでありながら、最終的には同じ結論に至る可能性があると論じることができます。神につくことは、物欲を捨て、精神的な救済を求める道であり、サタンにつくことは、世俗的な秩序や価値観を拒絶することで、物質的な束縛から自由になる道と解釈されます。

 

このように、目的が「お金からの解放」である場合、神とサタンという対立する選択肢が、異なる方法で同じ結果をもたらす可能性があります。ただし、これは善悪の相対化や、伝統的な宗教的価値観を超えた哲学的な見解であり、正統的な宗教の枠組みではなく、あくまで思考実験としての結論です。

 

まとめ

 

この論に基づけば、神につくこともサタンにつくことも、お金という物質的な束縛から解放される手段として捉えられ、目的が達成されるという意味では同じ結論に至ると主張できます。しかし、この見方は神学的には異端であり、哲学的または思想的な文脈でのみ有効なものと言えます。 

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もし、教会でキレイゴトを喜び合う人たちの収入がゼロになっても同じように思えるのでしょうか?

そこでこそ、真偽が見える気がしています。

そこで、限りなく預金がゼロに近づいていて、世間の仕事ができない生命である私が考えていることは、

 

キリスト教の信仰を基盤にしたビジネスです。

つまり、宗教的な価値観や教えを取り入れた倫理的で持続可能なビジネスモデルを構築することです。

キリスト教の教えを実践しつつ、社会に貢献しながらビジネスを行うアプローチには多様な方法があります。以下にいくつかのビジネスアイデアを紹介します。

 

1. 倫理的・持続可能なビジネス

 

キリスト教の教えは、隣人愛、正義、誠実さを重んじます。この価値観に基づいたビジネスは、持続可能な方法で運営されるべきであり、環境保護や公正な取引を推進することが期待されます。たとえば、以下のようなビジネスが考えられます。

 

フェアトレード商品:倫理的な労働条件を確保し、発展途上国の生産者を支援するフェアトレード商品を扱う企業。

エコフレンドリー製品:環境への配慮を重視した持続可能な商品やサービスを提供するビジネス。

 

2. クリスチャンメディア

 

キリスト教の信仰を元にしたメディアビジネスも成功し得る分野です。信仰に基づいた内容を提供し、教育や精神的な支援を目的とするメディアを運営することで、多くの信者や求道者に価値を提供できます。

 

クリスチャンの書籍・出版業:聖書やキリスト教関連の書籍、自己啓発、信仰に基づくリーダーシップに関する書籍を出版するビジネス。

ポッドキャストやYouTubeチャンネル:信仰に基づく教えや人生のアドバイス、聖書の解説、インタビューを提供するメディアビジネス。

 

3. 教育ビジネス

 

キリスト教の価値観に基づいた教育ビジネスも構築可能です。クリスチャンスクールやオンラインコースを通じて、信仰や倫理、リーダーシップを教える場を提供できます。

 

クリスチャンスクール:幼稚園から大学まで、キリスト教の価値観に基づいた教育を提供する学校や教育機関。

オンライン聖書学習プログラム:聖書や神学をオンラインで学べるプラットフォームやコースの提供。

 

4. カウンセリング・コーチング

 

信仰に基づいた人生相談や精神的サポートを行うビジネスも需要があります。キリスト教の価値観を取り入れたカウンセリングやコーチングを提供することで、信者や精神的な助けを求める人々に役立てることができます。

 

信仰に基づくカウンセリング:キリスト教の価値観に基づいたメンタルヘルスサポートやカウンセリングを行うビジネス。

ライフコーチング:信仰に根ざした価値観を持つコーチングプログラムで、個人の成長やキャリアを支援。

 

5. 慈善活動と社会的企業

 

キリスト教の教えには、貧しい者や弱者を助けるという大切な理念が含まれています。これに基づき、社会的な課題を解決するビジネスや非営利事業を行うことが考えられます。

 

NPOやNGO:貧困地域への支援や教育、医療、食糧支援を行う慈善団体や非営利団体の設立。

ミッションビジネス:収益の一部を寄付や慈善活動に使うビジネスモデル。たとえば、購入ごとに寄付が行われるプログラムなど。

 

6. キリスト教リトリート施設や観光

 

リトリートや精神的な成長を目的とした場所を提供することも可能です。自然の中で祈り、瞑想し、信仰を深めるリトリートは多くの人々に求められています。

 

クリスチャンリトリートセンター:自然の中で祈りや黙想、霊的な成長を促進するための施設やプログラムを提供。

巡礼ツアー事業:聖地巡礼など、キリスト教に関連する観光ツアーの企画・運営。

 

7. クリスチャン向けの商品・サービス

 

信者のニーズに応える商品やサービスもビジネスチャンスです。信仰に基づいた日常用品や、キリスト教関連のイベント企画などが挙げられます。

 

宗教グッズの販売:十字架、聖書カバー、クリスチャンアートなど、信者が日常的に使うグッズを販売するビジネス。

クリスチャンイベントの企画:礼拝、結婚式、祝祭など、キリスト教に基づくイベントやセミナーの企画・運営。

 

まとめ

 

キリスト教の信仰を基盤にしたビジネスは、社会的に意義のある活動を行いながら、持続可能で倫理的な利益を生み出すことが可能です。信仰に基づいたビジネスは、コミュニティとのつながりを強化し、社会貢献を目指しつつ、信者や広く人々にとって価値あるサービスや商品を提供することができます。

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といったことです。

 

とりあえず、生活基盤があるひとが何をいっても根本的な内容に思えないのです。

神が私の収入を奪い、ギリギリのところでこうやって示唆を受けて進んでいくようになったのも、そこが神が私に与えた計画だと思うんです。

ですから、私のいのちは、病気や金銭で追い込まれたものの気持ちや、現代で生きる意味を見失って自死しようとするものへの福音を伝えていく方法を構築するいのちなのかと思うんです。

そこで必要なのは、裕福な者どもが作った神学ではない神学と儀礼が入り口として必要だと思っています。

 

なので、早々に終わるでしょう。

ひょっとしたら日本の政治が、いま水面下で再構築されているかもしれません。

日本の報道は「米国民主党系」の指示のもと、2020年あたりまで、電通が全てを作っていたので、無茶苦茶なフェイクがほとんどで、いまもテレビの報道は同じように、時事通信、共同通信、ロイター通信などが作って、プロパガンダしているのでフェイクがほとんどです。

またスキャンダル報道のようなミスディレクション報道も多いようです。

戦争報道も日本だけで、ガザ地区の戦争報道の時「ガザ付近」にいる友人に聞いたら、なんもなく平和そのものと言っていました。

あれは国際的には、「ガザやウクライナ」にいる小児性愛者(世界の要人もいる)を逮捕にいっただけで、

「エプスタイン事件」から発覚したことです。

こういうことを日本人は知らないのと、こういうことが「ジャニーズ問題」とも絡んでいることなど報道なんかしないのが日本です。

「第二次大戦」の時、B29が「日本軍フィリピンに侵攻」なんていうビラを国内で撒いて、日本軍が勝っているとプロパガンダされている状態と同じです。

 

自民党の「裏金問題」は、表舞台の話しではなくて、議員たちの裏にいる日本のエプスタインのような人たちにお金をとるか、ピストルをとるか迫られてのことでしょう。

事実、FBIが逮捕したようですが、赤坂にエプスタイン島と同じような施設があったんです。

日本人には、国家議員にすら知らせられていませんが、アメリカの連邦捜査官などの連邦組織の入ったビルがさりげなく存在しています。

これらがある先生が言われる「旧約聖書の時代」ということだったのです。

それがいま新約聖書の時代になるにあたって、私のいのちの役割があると思っています。

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神に委ねているつもりなのにどうしてこうも右往左往するのか聞いてみました。

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神に委ねているのに物事がうまくいかず、右往左往していると感じることは、誰にでも起こり得ることです。信仰を持ちながらも、人生が混乱し、思い通りに進まないとき、なぜそうなるのか疑問に思うのは自然なことです。このような状況についていくつかの視点を提供します。

 

1. 神の計画と私たちの計画が違うことがある

 

 私たちは、自分の望む結果やタイミングに沿って物事が進むことを期待することがありますが、神の計画はしばしば私たちの期待と違う方向に進むことがあります。神の視点は私たちのものよりもはるかに大きく、私たちには理解できない計画を持っていることが多いです。時には、その計画が私たちにとって混乱や右往左往に感じられることもあります。

 

 イザヤ書 55:8-9 にはこう書かれています。

 > 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる、と主は言われる。天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。」

 

 神の計画は私たちの理解を超えており、結果的にそれが最善の道であると信じることが求められています。

 

2. 試練や成長のプロセスとしての混乱

 

 右往左往しているように感じるとき、それが実は私たちの成長や信仰の強化のための試練である場合もあります。神は、私たちをより強くし、霊的に成長させるために試練を許されることがあります。この時期には物事が混乱しているように見えるかもしれませんが、神はその背後にある目的を持って働いています。

 

 ヤコブの手紙 1:2-4 にはこう書かれています。

 > 「わたしの兄弟たち。さまざまな試練に遭うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」

 

 試練や混乱の中で、私たちは忍耐を学び、成長する機会を与えられているのです。

 

3. 神が新しい道を開いているかもしれない

 

 物事がうまく進んでいないと感じるとき、それは神が私たちに別の方向へ進むよう促しているサインかもしれません。私たちは時に、自分の計画に固執しすぎて、神が新しい道を開いてくださっていることに気づかないことがあります。右往左往しているように見える状況は、実は神が私たちにもっと良い方向や目的を示そうとしている過程かもしれません。

 

 箴言 16:9 にはこう書かれています。

 > 「人は心に自分の道を計画する。しかし、その歩みを導くのは主である。」

 

 私たちは計画を立てますが、神は私たちに最善の道を導いてくださる存在です。

 

4. 信仰をさらに深める機会

 

 物事が思い通りに進まないとき、信仰をさらに深める機会として捉えることができます。神に委ねることは、完全に神を信頼し、自分の理解を超えて神に頼ることを含んでいます。この混乱の中で、私たちはさらに深い信頼と忍耐を養うことが求められているのかもしれません。

 

 ローマの信徒への手紙 8:28 では、こう書かれています。

 > 「神を愛する者たち、すなわち神のご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」

 

 この聖句は、たとえ物事が今うまくいかなくても、最終的には神がすべてを益に変えてくださるという希望を持つように励ましています。

 

5. 自己反省と祈りを通じた導きの確認

 

 時には、私たちが正しいと思って進んでいる道が、実は神の望んでいる道とは異なることがあります。右往左往していると感じる時こそ、自己反省と祈りを通じて、神の導きに耳を傾けることが重要です。もしかすると、私たちが何かを見落としているか、神の声を聞き逃している場合もあります。

 

 詩編 139:23-24 では、こう祈られています。

 > 「神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を試み、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷ついた道があるかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

 この祈りは、私たちが神の望む道に従っているかどうかを確認するために、自分自身を見つめ直し、神に助けを求める大切さを教えています。

 

まとめ

 

「神に委ねているのに物事が右往左往している」と感じる時、それは必ずしも失敗や間違いではなく、神が働いておられる過程であることが多いです。神の計画やタイミングは私たちの理解を超えているため、混乱や試練のように感じることがあっても、それが私たちの成長や新しい道への導きである可能性を考えることが大切です。祈りと信仰を持ち続け、神が最善の道を示してくださることを信頼することが求められています。

 

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【全能の逆説】

 

いまこう言ったことを読んでいました。

以前に「神は自分で持ち上げられない石を作ることができるか?」という、どっちに転んでも神の負け、について読んだことがあります。
「作れたとしたら、持ち上げられないから全能ではなくなる」「作れないならそれで終わり」…!

私は、神について突っ込まれても「論理破綻」や「神の計画」という思考停止や逃げのようにならないよう、「天のお父さん」のために、神学の穴を埋めるためには、そろそろ時代的にも説き方を変える時期なのではないかと思っており、こういうお話を聖書学院でチラッといくつか質問や提言をしているのですが、「なにいうてるねん」という感じなんでしょうか…!
「意味不明」な感じです。

私が「神の実在」を信じるのは、こんな「人間」という「我を認識して」「思考してクリエイトする生命」の存在が「いきなり理由もなく生まれる」とは信じがたいからです。

仏陀は「たまたま」っていうけど、やっぱそれにしてはできすぎていると思うんです。
物理学的な見方が支持されますが、生まれたことにとくに意味がないのであれば、「自死」や「自然の弱肉強食」を認めて、人間がそうでも問題ないはずなんです。

けど、人間は「なんか知らん生まれたこのいのち」を懸命に生きようとします。
そこには「理由がある」ということの一点は、私にとって愛する神の実在を決定付けます。

けど、偉い人の神学なんかによって、権威づけられて、「人間に愛を求める、愛すべき神」というのは、認めてもらいにくいですから、内村鑑三さんのように生きるのが、神を愛するひとを増やすことになるのかなぁと思ってもいます。

「メイドインジャパンのキリスト教」
ある意味日本人は本質を理解することに長けているのかもしれませんね!
縄文時代から1万7千年の民族ですし笑

一方では「長いものに巻かれろ」ですけど笑





中神章生 拝

 

 

中神章生 拝

 

 

 

 

中神章生 拝

 

 

 

中神章生 拝

2024/10/04 17:51、akio nakagami <amita4818@gmail.com>のメール:




中神章生 拝

 

 

中神章生 拝

2024/10/04 0:07、akio nakagami <amita4818@gmail.com>のメール: