❣️真宗の教えについて小難しげなお話し❣️
いろいろなご縁で書いているものの中から、
ちょっとだけ小難しげなお話しを載せていきます。
ver2に続きます。
⑭言わずもがな、仏教っていうのはもともと智慧から始まっています。
釈尊は、「苦悩の解決を求め、悟りに至った」というのは、苦悩を解決するために存在と人間の真理に目覚めたということです。
そこで目覚められた、現代的に言えば発見された真理は「色も形もない法そのもの」ですが、それを俗世間(人間界)に合わせて言葉にされた。
そこで大乗仏教の浄土教では、悟りをアミターバ(智慧光)という風に言語化して、その言語の表す悟りの智慧を天親、曇鸞さんでは「無碍光如来」という言語で讃嘆されているわけです。
そしてそのアミターバの寿命は無量であるということで、アミターユスという言語もあるわけですが、親鸞さんは光明系ですので、ユスよりバを重視されています。
そこでアミターバという智慧の根源は真理ですから、真如縁起により全ての存在の根源はアミターバだという結論になります。
真理(色も形もない法)→智慧→光明→アミターバ→諸仏や衆生→真理を根源とする→智慧→光明→アミターバと循環します。
このように、諸仏は結局阿弥陀の応身であり、衆生は化身であるととらえることで、私たちの認識を悟り(真理)に促してくださるのが天親の唯識に原点があるのでしょう。
換言すれば、私たちは真如の中にあるのだけれど、煩悩のまなこがその真実をさえぎっているのであるが、阿弥陀の智慧に出会うことで、「私は煩悩の中で有無にこだわっていたなぁ」と龍樹の中観である空有の存在だと知り、私の認識が変わって「煩悩は悟りに転じる糧」となり、私たちのいのちの向かう方向が「悟りという方向へ転じる」という仕組みを曇鸞さんから親鸞さんは学んだのでしょう。
ですから親鸞さんは五念門五果門を重視され、五正行以上に引用されています。
つまり阿弥陀の智慧の光明に出会い、信心という方向転換が起こり、悟りへとウパーヤ(近づく)されて行くということで、そのプロセスの中で諸仏や衆生に関する見方が変わって行くということになるわけです。
諸仏も衆生も真如縁起されたものである。
阿弥陀は真如そのものであり、そういう智慧を言語化して表すと光明であるということ、そして私がウパーヤされる中で至るありようが、真如一如であり阿弥陀となって報応化することになり、還相の菩薩と垂迹して衆生済度にあたるということを証文類に表されており、教行信証の筋が通ります。
これは布教や組織を作る原理にはなりません。
あくまでも親鸞さんのように求道者、真の念仏者にしか実体感できないことをあえて教行信証に論理化して著されたという性質のものです。
真の仏教は浄土教であれ、無我、空、阿頼耶識の種子の状態を空化する法であり、真如一如を体得する実践ですから、人間界を生きるものとしては「ありがたくも歓喜することでもありません」
ただ「たんたんと歩む悟りへのプロセス」でしかないのです。
法話や仏教に感動を求めても、それは自我の延長でしかないのですから、感動する話にはまだ悟りへのエキスが足りないと思われる方が良いと思います。
念仏に生きるということには、念仏行者としての厳しさがあるのです。
布教使、講師は、平均で大企業新卒社会人の1ヶ月分ぐらいのお礼をもらうのですから、喜ばれるような話をしたがりますが、「不浄説法」きわもなし。
真実を語るべきなのに、私の周囲だけではなく、全国的に宗派を問わず「仏教を語れない僧侶」がどれだけいるか。。
仏教議論のできない布教使、講師が多すぎる。。
全国区の布教使と話していても仏教談義が通じない布教使ばかりであることに唖然とします。
その上、ギターやキーボード、パワーポイントなどで座興のようにごまかした布教がいかに乱立してきているか。。
「私は勉強不足なので、この映写をみてください」という住職の方が誠実さを感じますが、布教使がそれをやるのはごまかしでしかないと思うのは、私だけでしょうか?
親鸞さんは阿弥陀仏のことを特別な場合を除き、あくまでも浄土論の無碍光仏と言われるのだと学びました。
それはあくまでも浄土論の讃嘆門を行じているということが、念仏の行者の立場ですから、それしかないのです。
どうしてそこまで浄土論ないしは論註にこだわるのかというのが、昨日投稿しましたように、善導は「ファンタジック」でしかなく、さらにいえば、法然さんは観経中心なのになぜ親鸞さんは大経なのかということで言えば、観経は「ファンタジックストーリー」であり、四法印乃至は三法印がないのです。
今では観経中国撰述説まであるぐらいですから、親鸞さんのように根拠を求めるタイプの人は阿弥陀と浄土の原点はなんなのかと追求すると、大経になり曇鸞になります。
そこにはたとえば「往生」は「無生の生」であるといった中観的論が展開され、大経でも「阿弥陀仏は眩しくて見えないほどの光明である」といった論がしっかりあるからだと学びました。
真仏土文類を見ても、真の仏も土も光明であるとあり、阿弥陀仏という仏の根源は光明であるという「色も形もない実体のない智慧という存在」だという仏教の根源に等しいことが明らかです。
ですから真仏土文類を読み進めると「真の仏も土も光明→それは智慧→それは涅槃→涅槃の徳とは」と進んでいきます。
そして阿弥陀仏の根源を明らかにした上で、如来(直接的には釈迦)は資質を見るに長けている。
そこで我々のような資質のものには阿弥陀仏の教えがふさわしいという意味のことが示されます。
そして、化身土文類に至ると、末法を強調され、末法の時代の私たちには「阿弥陀の教えによるしか、仏の智慧を得ることができない」ことを仕切りに訴えかけられて、「大智度論」を引かれ、有名な「月を指す指」の例えによって、
「指ばかりを見ないで、人間の分別を超えて、仏の教え(月)によるべきであること、真実の智慧によるべきであること」を強調されます。
このように教行信証を見ていく中で、各所に「浄土論に「無碍光仏」とあるように」といった言い方が出て来ます。
親鸞さんには、あくまで浄土論ないしは論註が根源にあるのです。
繰り返しますが、七高僧の中国以降の高僧で「仏教学の論拠」が明確なのが唯一「論註」なのですから。
また五念門行は五果門に至りますが、就中、第五果門の薗林遊戯地門(利他)を重視され、五念五果は阿弥陀如来の智慧と慈悲の全てをおさめているから「論註」なのでしょうと学びました。
そして冒頭に戻りますが「讃嘆すること」を重視されるのは、第十七願によるのみならず、実質的に讃嘆の行は「私という我」が破られていく状態だからです。
仏教の無我、空に至り、真如へ至るプロセスだからだと言われます。
名号徳は万徳と言われますが、名号を讃嘆する生活の中で仏の智慧により、「煩悩が私を破る功徳に転じてさとりへ導くキッカケになる」(転悪成徳の正智)のですから、煩悩が多ければ名号徳も多いのです。
煩悩即菩提とするのが名号徳ですから、煩悩や何ものにもさえぎられない無碍光という讃嘆名が究極阿弥陀の性質の最高の讃嘆名として天親は大経から用いたのでしょう。
親鸞さんはご本尊として「帰命尽十方無碍光如来」をよく用いられたのは、そういうことだと学びました。
ちなみに「月を指す指ばかり」見ていると「地獄行きの私が阿弥陀さんに救われて」というストーリーにとどまり、そのストーリーの言わんとする「仏の智慧」を見失ってしまいます。
そういう状況を明恵上人は「浄土教は菩提心がない」と批判されたのでしょう。
⑬真仏土文類の講義
(これはとある人への文章なので完全ではありません)
「四十八願を学ばない真宗は仏道ではない」といえます。
「如来の名もない。。。」の部分は、真仏土文類の引用です。
以下内容
公表すると、坊さんたちが「ざわざわ」うるさくなりますが、
敢えて真仏土文類に真実とは何かを伺います。
教行信証の「真智無分別智」が仏教の智慧なのですが、自他や生死と言った分別を超えることです。
漢文ではない聖典をお持ちの方は、分別とか真とか智でひいてみて、該当するところを読めば、そのことが書かれています。
とにかく、親鸞が「信知」ということもいわれているように、信=知ないし智となるのですから、妄信すること(真宗空華学派は「仰信」につなげますが。。)ではないのです。
信心に如来の智慧が備わり、慈悲が備わり、「如来の名も悟りの名もない、無色無形の自然(無常、無我)」へ至る。
「如来は衆生の資質を知る」と真仏土文類のそのあとにありますが、
衆生の資質に応じて、言語とイメージ「教えと仏の認識するあり方」によって、「如来の名も悟りの名もない、無色無形の自然(無常、無我)」へ至らしめる法(ダルマ)が仏道なのですから。。。
必ずしも仏教である必要もない。
あのノーベル賞のノーベルは、ダイナマイトを発明し、「これが人間破壊に使われないよう」と生涯心配したが、結果「知より出でたものを情が使い間違って、人間破壊に使われるようになってしまった」のですね。
情が煩悩の根源(扁桃体の活動)
情に傾くと人間の破壊が始まるのです。。
やがてそれが自己破壊になってしまいます。
マザーテレサも神を信じられないまま、知性により感性のバランスをとりながら、結果神については納得できずとも、あのような活動を生涯続けられたのです。
(マザーテレサの書簡)
信じられないものは「信じられないと告白」して、自他無分別の真実に生きた。
知力は人間にとって重要であり、それは、前頭葉が破壊されない限り、成長できる。。
誰でも。。
DNAに拘束されるものではないから。
だから、必ずしも仏教である必要はないのです。
本来の仏教なら、仏願に智慧と慈悲を学ぶ真宗なら、そうなりやすいという方法論だというだけのことです。
誤解なきよう、知力のないものがダメと言っているのではなく、世親の唯識を背景として、「阿弥陀経」の鳥たちが阿弥陀の変化身であると書かれているように、私以外は仏の変化身であると観察する。
これが浄土論あるいは論註の「五念門」です。
先般たまたま知人から。。
その人その人のフィットする道があっていいんじゃないか?
これでなければならないということはないのではとご意見をいただき、
そもそも仏教を教えてくださったお釈迦様は、その人その人にわかるように説法された。
この根っこがひとつだった仏教が、世界を見ると、なんと部派や宗派の多い事。
でも、こう言ったことは仏教だけじゃない。
というご意見がありました。
納得です❣️
そういう意味では布教は聴衆の方にフィットするように、仏の四十八願から
「さとりの智慧をいただき」「和合のサンガを目指す」啓発ということがまずすべきことです。
みんな自己都合だから、好き勝手に判断する。
というご意見があり。。
自分も求道者にはなれないと思いますという方がいました。
正直な方です。
求道者らしく振舞うことは、ある意味「えーカッコし」という
不真実も含む可能性が大きいので私の振る舞いはテキトーです。
寝たい時は寝るし。
everythingOK
その自然に任せるまま、ただそこに智慧があればストレス要因が減る。
人は勝手に自分にフィットするものを探しますから。。
それが餓鬼道だろうが、畜生道だろうが、その人はそれで居心地がいいんですよ❣️
心理学に「人生脚本」というのがあり、「自分はうまくいかない」って思っている人は、うまくいくことが居心地悪くなって無意識にうまくいかないように壊すんです(≧∀≦)
そういうもんで、みんな勝手に人生脚本を書くので、利他のご縁がなければ、サトリなんてどうでもいいんです。
法楽は、そうやって自然の中に任せ、智慧をもってストレス要因を減らし、利他のご縁に応じて悟りへと「利他る」っていう生き方だなぁと、
実践上思っています。
「利他る」(造語としていけるかもしれません)
⑫本覚と始覚
そもそも大乗仏教は、インドのバラモン教のブラフマンとアートマンの思考構造を踏襲していて、
「存在は真如(ブラフマン)と定義されるところから個体(アートマン)が生まれている」という内容が多く、
「基体から個体が生まれる」という思考構造が随所にあります。
このように大乗仏教は「本来みなさとりであるという本覚思想だ」といわれてきたのです。
しかし、25年ほど前でしょうか、駒沢大学の教授が「本覚思想は仏教ではない」
「仏教は存在を論じるものではなく、人間が十二縁起の流れで、迷いのものとして生まれ、
そのながれの元にある”無明”の滅によって迷いの滅、つまりは悟りに至る」ということを説いているのだ。
と論じ、このような「始覚」の教えが仏教である。
と論じました。
そこでその教授は、縁起説は「十二縁起」のみがブッダのいいたかったことであって、
存在に関する縁起思想、例えば「真如縁起、如来蔵縁起、法界縁起など」は、「ブッダの教えではない」
とも論じられました。
確かにそうかもしれないのです。
しかし、大乗仏教が大乗仏教である理由がそこにあります。
「本覚なのに無明の中で迷っているから”阿弥陀如来の教え”によって、
無明の滅から生老死の滅(迷いの滅)に至り、本覚にかえる」という流れに意味があります。
それこそ大乗である理由です。
本覚思想を基底にして「そもそもこの迷いの問題は、わたし個人の問題ではない」
「存在すべての問題である」と定義し、「わたしが成仏の歩みを生きる中で、
存在すべてが仏性であると認識定義されていく」ことですべてが成仏するのです。
本覚思想の中で始覚を課題として生きる。
この状況には「ブラフマンもアートマンも」ありません。
すべてが無我、空性なのです。
ある大乗仏教経典に「悟りは全体の中にとけ込むことであるから”大我”をいきるといえる」と
いう意味内容があります。
しかし、親鸞聖人はその経典を重視しつつも、教行証文類にはその「大我」の部分だけすっとばして、
その前後の部分を引用しています。
親鸞聖人は、かなり慎重に「我」ということを取り扱っています。
⑪唯識と真宗
天親さんの浄土論は、唯識派の観点から書かれていますので、
そのことに触れます。
唯識という論の内容は以下のようなものです。
そもそもわたしの見ている世界は、映画のフィルムが映し出す世界を見ているように、
真如、空性、無我を根源にした「阿頼耶識(あらやしき)」という「認識の入れもの」があって、
その入れ物に「種子(しゅうじ)」といわれるデータがはいっており、
「末那識(まなしき)」という認識が、その入れものとデータをひっくるめて「自己」と認識し、
「意識」が働いて、その意識の働きが現実とおぼしき世界を「眼、耳、鼻、舌、身」の「識」によって、
作り出すというものです。
そしてそのうえで、その作り出されたデータにより、さらにデータが作られていくということで、
わたしにとっての現実が作り上げられるというものです。
ですから、わたしが認識している現実は「わたしにとってのもの」であり、
人間おのおのが全く違う世界を生きているにもかかわらず、
同じ世界を生きていると誤認識しているだけなんだということです。
そういう意味で、このような原則を知らないもの同士は「共生できない」ということにもなります。
簡単に言えば「わかりあえない」ということです。
あなたとわたしが共生しようと思うなら、まずは「わたしが認識している世界はわたしの認識が作ったものだから、あなたはどんな認識の世界を作り生きているのか」というアプローチを互いにしなければ、共生が成り立たないということです。
そういう論理で「浄土を互いに認識しましょう」という前提で論じられているのが「浄土論」なのです。
とはいえ、その浄土の根源は「さとり」ですから「無我が実現されたいのちのありよう」を浄土が表現しているということになります。
現代のような教育のなかった時代に、さとりへ至るアプローチは、阿弥陀如来と浄土という認識の世界を
共有するアプローチがふさわしかったということです。
では現代においてはどうなのかというと、釈尊と中観、唯識などの根源を前提にして、
方便としての阿弥陀如来、浄土の世界へと逆の流れで論を進め、その世界観を共有することが
さとりへのあゆみを互いに共生できる方法になります。
⑩六字釈は二字釈
親鸞聖人は、教行証文類の行文類の中に、経典や多くの書を引用して、
名字(名号)を称念することで往生する理由を述べています。
これを六字釈といっています。(南无阿弥陀仏の六文字を解釈しているということです。)
そこには、南无は「帰命」という意味を持ち、これは「本願招喚の勅命」であるといっています。
この場合の「本願」は、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の願いと定義しても問題はないので、
阿弥陀如来がわたしを招き喚んでいる。
しかも、それは天皇の命令と同じくらいのきびしさですというニュアンスです。
そして帰命について細かく解釈したあと、「発願廻向」について
「如来はすでに発願して衆生の行を回し施しているという心です」という表現で
書かれていますが、ここには主語が単に「如来」とあって、どの如来かということが不明瞭です。
「それは阿弥陀如来だろう」と、定義されていないことを学者は「無意識」に定義しています。
ここでそういった「無意識の前提」を抜いて読むと、定義されない「如来全て」となりますが、
全ての如来と定義すると、真如がわたしたち衆生の行を回し施しているということになるので、
微妙に意味が変わります。
つまり、ことばとして現れる以前の真如が「わたしたちの行を施している」とも読めるのです。
これが真如より来生した如来全てならば、ここは「諸仏が称名、称讃している称名行」となります。
そしてその流れのまま、「即是其行というは」といきなり出てきて、
これは「選択本願これなり」とありますから、この場合の選択本願を第十八願と定義すると、
「選択本願した」法然さん的には「乃至十念」の方に定義されるべきで、行文類の時点では、
「三心」に定義することにはムリがあります。
ここで特徴的なことは、この六字釈の前に「善導の六字釈」の引用がありますが、
それは、引用の中で特記されているものではなく、またこの親鸞聖人自身の説明部分(御自釈)の
直前にあるのでもないので、善導の六字釈を受けて御自釈されたものとも言い切れません。
もし善導さんの六字釈で解釈すれば、「即是其行」の「其」(その)は「阿弥陀仏」の4文字を意味する
ことになりますが、親鸞聖人は選択本願に定義しているので、善導さんの六字釈とは
異なる解釈をされていることになります。
このあと「必得往生」について解釈されて、また引用に入り、その引用では、
称名によって「無生の生」や「無常を離れる」とか、「世間を超出する」とか、
わたしたち衆生が称名することでさとりに至ることを強調される引用が出て来ます。
これは「必得往生」からの流れで、「往生による成仏」を言いたくて引用されたものと理解できます。
このように真宗学の既成概念を横に置いて、仏教としての真宗という観点で読むと、
親鸞聖人は「二字釈」をもって、わたしたち衆生は「勅命というぐらいの強いムーブメントによって
すべての如来が称讃する南无阿弥陀仏の念仏行を「南无」して受け入れ行じる」ことで「必得往生」して
さとりに至るのだから「称名称讃行」(五念門の讃嘆門)に生きてさとりを得よう。
というように述べられている二字釈で読む方がよく、いわゆる六字釈のかなめとして「南无」こそが
すべてを決める重要ポイントだと親鸞聖人は言いたかたんだと読めます。
⑨上行菩薩⁈これも久々に聞くなぁ。
「日蓮宗の方から」
釈迦は誕生前から仏陀であり、垂迹してこの世に姿を現してくれました。これを迹教化といいます。
そして涅槃に入られて以降は久遠仏となられ、本教化が始まります。このとき最初に現われるのが上行菩薩です。
日蓮さんは自らを「私が上行菩薩です。」といわれました。
これに続き数々の菩薩が現われ人々を救います。我々もこれに続き大乗の菩薩道を歩むのです。
法華経教学ではこれからが本番で本教化といいます。
ですから強い使命感が生まれます。これって良い感じでしょう。
「以上が日蓮宗の方の内容です。」
みなさん、阿弥陀も「久遠実成という存在の阿弥陀仏」ですから、
本願寺も覚如さんが本願寺を作った時は「久遠実成阿弥陀本願寺」という名称だったんですが、
みなさんはご存じでしたか。
だから阿弥陀如来も真如(法性つまり法則性)から垂迹(すいじゃく)されたものとされています。
垂迹というのは「現れた」ということです。
如より来生して報応化種々の身を示し現じたもうなりと
証文類にあるように、まず阿弥陀如来は真如から現れたと書かれています。
そこで還相廻向っていうのも、真如からの応化身ですから、
阿弥陀如来が還相しているとも言えます。
つまり証文類の還相廻向の部分には、
それまでと違い、根拠を第二十二願とされながら、
願文をはじめに出さず、浄土論の出の第五門「薗林遊戯地門」
そして論註を引いて、阿弥陀如来と同じ平等法身を得るとあり、
それらは寂滅平等の法であるから、法性から生まれた身であると書かれていて、
ここから「報生三昧が出来る」と書かれていますが、
これが「還相廻向」を意味していて、法性から自在にどんな姿にでも
化身して、「さまざまな仏やそこに集まる大会衆(五果門の大会衆門)を供養して、
苦悩の衆生を救う」と書き進められています。
つまりは阿弥陀如来も還相廻向も法性の現れであり、方便の身であることが明らかです。
この点でわたしが阿弥陀如来の願いに生きて、「讃嘆行」をしていると、
心をもつ「有情」も心をもつとは言えないであろう草木国土のような「無情」も
法性から生まれたもので
根源が同じですから、みな成仏するということを、親鸞聖人はいっています。
だから、讃嘆行の中で、「さとりが見えてくる”観察(かんざつ)”が出来るようになり、
さとりの世界観がちらほら見えるようになる」と石泉学派は親鸞聖人の教えが
仏教の原則に従った現実的なもので、ファンタジーではないと解釈するのです。
そして、ここでいう讃嘆行というのが「日蓮宗でいう大乗菩薩道」ですが、
この菩薩道というのは、なにも日蓮宗に限ったものではなく、
大乗仏教はみな同じです。
ただ、親鸞聖人は、単純に大乗菩薩道を歩みましょうというだけではなく、
二種深信を説いて「わたしのとらえているわたしは煩悩主体の存在だから、
南无阿弥陀仏を受け入れて、菩薩道を歩む」という構造になっています。
結果阿弥陀如来の教えを、真仏土文類では、四法印に戻しているので、
大乗と原始仏教ないしは中観、唯識、華厳を並行させて、
念仏で成仏する根源を明らかにされて、その上で菩提心に生きること、
如来の願じたもうを願じ、行じたもうを行ずると教行信証に出て来るのですから、
「何もせず、名号のひとりばたらきにおまかせする」ということではありません。
このように法性を背景にした如来を「久遠実成」といい「無量寿如来」というのです。
⑧マザーテレサの書簡
女子パウロ修道会から「マザーテレサの書簡」について
まとめた本が出ています。
タイトルは、
「マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!」
というものです。
ここには神を信じられない苦悩と多くの人から賞賛を浴びても
「孤独」だということを、40代から師匠のカトリック司教と
手紙でやりとりしている内容が載せられています。
それは、例えば、親鸞聖人がアミダ仏を信じられないと苦しみながら真実を求めていて、表面的には賞賛されながらも、心は究極の孤独感に悩むといったことと同じですから、壮絶な内容です。
壮絶な内容ですから、「この本に学べることがある」というような、簡単で薄いものではなく、マザーテレサの魂が40歳ぐらいからだんだんとえぐられていく様子が、師匠との何十通もの手紙のやりとりで、そのままありのままに載せられています。
でも、そんな中でも、死ぬまで「イエスとともに」という姿勢を崩さず、戦火の中に飛び込んでも活動された。
真宗の僧侶が「お念仏とともにお浄土に」なんて平気でうそぶき、
浄土教仏教の真実を求める気などさらさらない。
お金もあって贅沢し、いい車に乗って布教に行ったりという状況では
話に真実味が感じられません。
古い歌に「そこにおわすは袈裟着た詐欺師、ここらじゃ坊主というそうな」
という歌がありますが、的確な皮肉です。
キレイに準備されたところでお経をあげ、お話をし、死に関しても、死体の処理、
湯灌だの納棺だのっていうところは立ち会うこともない。
キレイな荘厳の整ったところにキレイな袈裟を着てテキトーなお経をあげる。
まさにバックグラウンドミュージックでしかないようなお経を読んで、
お布施が安いのなんのと不満タラタラいっている。
そして、しっかり自分の遊びに興じ、しっかり貯金もし、法施しているからと
檀家や門徒に財施を求め、充分すぎるぐらいの中で贅沢三昧。。
そんな僧侶に、マザーテレサの真実はわからないだろうし、親鸞聖人の真実さえわからないだろう。
事実僧侶の大半が、スタンダードなお経が読めて、テキトーに話ができれば良しとして、本当の意味で過分な布施(というより労働対価)をむさぼっているんだから、ダラク堕落、僧侶がこういう状況だと確実に寺離れします。
まずは僧侶離れから始まるでしょう。
こんなことでは、真実なんて求める僧侶はマイノリティになっていきます。
もちろんそうではない僧侶も沢山いますが、概してここに書いてるような坊主が、
業界の力を持つものです。
マザーテレサの真実を求める姿勢は、親鸞聖人と変わらない。
もちろん仏は神ではないが、真実・求道のありさまは変わらないのです。
さいわいにも、浄土教仏教の真実を親鸞聖人が明確にされたのですから、
真宗僧侶はまず教行証文類を学び、不要なものは適宜整理して、
必要なものだけで生きていくことです。
僧侶は職業ではなく、僧侶は当たり前のように仏道を歩まねばなりません。
⑦正信偈の根本
正信偈は、親鸞聖人が書かれたものというのは、僧侶ならご存知のこと。。
この正信偈の冒頭の2句を、単に帰敬序(阿弥陀如来を敬い帰依していることを表明する序文)と解釈する「安易」な解釈が多いけれど、「弥陀如来名号徳」にあるように意味があります。
「帰命無量寿如来」には、私たちをさとりに誘導するムーブメントの根拠は「法則性」であって、
それは「永遠に変わらない真如(理法)」より来生した如来であって、この真如からの善巧方便として現れた阿弥陀如来に帰依すべしということ。
ここがこのような意味でなければ、無量寿如来と書かれた根拠が消えてしまいます。
無量寿が「草木国土を含めた全てをいのちとして、その根底にある無常の法則は永遠である」という意味を内在します。
「南无不可思議光」の部分は、阿弥陀如来の教えは、無色無形の理法(無常の法則性=真如)が智慧としてとどけられている教え(真如の言説化)であり、この教えはわたしたちにとって、真実を知らせる光明=智慧だから、受け入れましょうとなります。
そもそも阿弥陀如来の語源は、「アミターバ(無量光)」です。
「名号徳」に光を経とし教えとされているのは、これ以下がその智慧のおしえであるということです。
「法蔵菩薩〜重誓名声聞十方」は依経段(無量寿経の要点を書いたもの)といわれますが、阿弥陀仏の前身である「法蔵菩薩の願い」が、どれだけわたしにとって重要ポイントかということをあきらかにされていて、それが諸仏によってあらゆるところに広まって行くんだって書かれています。
「普放無量〜」そしてその光明がどのようにスゴイのかということを十二の方向から讃嘆されています。
「本願名号〜」そしてわたしがこのスゴイ願いを受け取って生きることで、さとりのベクトルとムーブメントに導かれると明らかにされます。
まだまだ続きますが、正信偈のはじめの部分の理解を間違うと、根拠のないただのファンタジーになるので、あえてこの辺をとりあげました。
つまり「真如→智慧→教え→法蔵菩薩のストーリー」という流れに理由があり、正信偈の根拠つまりは源泉をはじめの二句で明らかにされているということが重要です。
単に帰敬序とするのは「親鸞さんの根拠、原点を知らず、何を明かそうとされているのか、仏教学の論拠のない、ただ真宗学さえ学べば良い」とする教学への姿勢が問題なのだと推察されます。
無量寿という部分を、「私が永遠の命をいただく」のではなく「私が永遠の如来になる、つまり私が如来という状態に変化して阿弥陀同体となる」という意味で理解しなければ、わたしがわたしのまま極楽に行くのであれば、そこも俗世間になってしまいます。
わたしがわたしと呼んでいる”いのち”をさとりへの願いに生きる(願いを行じる)ことで、
やがてわたしという部分が消滅し、わたしと呼んでいたいのちが一如の法則性
そのものになって行くということです。
「わたしのいのちが永遠のさとりに変化して、利他行をする身になる」という証文類の内容.
「教行」の至るプロセスと結果が明らかにされています。
⑥ 「善導独明仏正意」の意味と親鸞聖人の立脚点から
教行信証以外にも、「如来二種回向文」など親鸞聖人の
立脚点は、五念門、五果門です。
だからやたら各所に「入出五門」が出てきます。
「如来二種回向文」に書かれていることは、簡潔に、浄土論の五念門中の作願、回向発願に基づいています。
その重要なポイントは、第17願の諸仏の讃嘆(讃嘆門)が勧めている「阿弥陀如来の願い」は、
法性が信力として「私に仏縁のチャンスが到来したことよ」って教えてくれてるっていうこと。
だからこそそのチャンスを受け入れて、「私も阿弥陀如来(法蔵菩薩)の願いに生きて行こう」ってなる。
そこで、「四十八願こそ私のいのちのベクトル(方向と力)だ」っていう、
仏智(さとりの智慧)を生きるようになれます❣️
このように、「阿弥陀如来の願いを生きよう」っていう信心。。
これで、信楽(しんぎょう)「疑いがなくなって教えを受け入れ(信)願いが定まる(楽)」
という状態になるわけで。。
それは、第17願の諸仏の讃嘆と同じ「讃嘆行」を生きるわたしになったっていうこと。
こういったプロセスを通して、私が今、さとりと等しい「等覚」になれます。
この等覚になると、「人生をさとりのムーブメント」が動かしてくれるので、
日常の出来事を通して「わたしは煩悩中心のアホだ」って見えてくるので、
わたしのなかからわたしっていう「自我が破壊」されて「破我から限りなく無我へ」と近づいて、
わたしは「わたしならぬわたし」になっていけます。
こうなると、唯信鈔文類にもあるように「草木国土ことごとく成仏する」状況が、
チラホラ見えてきます。
これを「観察門」に定義します。
石泉系では「日常的な現実の中に浄土が現映する」って表現します。。
こういう状況になってみると、いろんないのちを「このいのちやできごとも還相廻向」
なんだって受け取れる「出の第五門(第五果門)」の薗林遊戯地門に囲まれて、
自然と「利他のムーブメント」に生きられるんです。
そうして「法性、仏性」に染められつつ、わたしっていう自我のエリアが
消滅の方向へと進みます。
これは、「俗世大好き」な方にとっては「とてもありがたくない教え」なんで、
さとりの価値を知らないと「歓喜地」にはならない「ありがたくない教えがありがたい」教えなんです。。
こんな風に親鸞聖人は、「念仏がなんでさとりへの道」になるのか。。
浄土論の五念門、五果門が重要なポイントだっていうのが明確なんです。
みなさん浄土宗と対峙するには善導さんの「五正行」がいいんですが、
現代人には、親鸞聖人が強調する「五念、五果」の方が適しています。
だから「善導ただひとり仏の正意をあらわす」という「正意の意味」は、
先の四祖が明確にした、「仏教の根本原理に基づく浄土教」を、
善導が「善巧方便としての阿弥陀仏」にあかしている
という、「いろも形もない、ことばも絶えた法性」が阿弥陀仏としてあきらかにされた。
ということを明らかにし、対機説法の形にまとめ上げたことを「仏の正意を明かす」の意味だと
言われていると学びました。
そういう観点では、凡夫にとっては、五正行でもいいのですが、あくまでも親鸞聖人は、教行信証などなどにおいて、五念門を中心に「仏教の根本原理に基づく浄土教」を明確にされています。
現代への対機説法で言えば、こちらの方がフィットすると思います。
⑤浄土真宗をややこしくしている問題点は以下のような点です❣️
問題意識が高く、聴聞をよくされている方にはわかっていただける内容だと思います(^^)
1、行を「法体名号」(南无阿弥陀仏そのもの)とする。
能所(主体と客体)なしの存在は理論上ありえない。
諸仏称名の意味、理由を無視している。
それは行文類引文では、第17願の「諸仏称名讃嘆」の引文を徹底して引かれ、続いて「信力増上、聞名」の引文を引かれ、最終的にそれが「衆生の称名讃嘆(教えをひろめる広讃嘆)」へと展開される流れになっています。
そして浄土論、論註の五念門で行を抑え、
(法蔵)菩薩の行じられたのが五念門であるとされ(註釈版行文類【17】)そのうちの讃嘆門が利他の功徳をもつ「如実修行相応の行」であり、結果それがわれわれの讃嘆行の内容であるとされています。(同【19】)
読み手を想定しない「親鸞聖人のホンネ」が書かれていると思われる教行信証を教行証文類とされているのは、信は17願の諸仏称名が衆生の称名讃嘆に転じるという、ターニングポイントをあらわしていて、それで終わりではない。
讃嘆行が念仏の行者としての生活となるのだから、行とは無碍光如来のみ名を称する讃嘆行とされているのです。
これは、石泉学派の大江淳誠和上の講義にあるものです。
2、他力を往生のみに限定使用。
他力をパラタントラ(縁起)で理解せず、阿弥陀の他力で浄土に往生することに限定使用。
絶対他力という、すべてが他力であるという清沢満之の造語を誤用。
3、無明を「本願への疑い」と定義する。
無明は本来は「智慧がないこと」であり、真宗は別途不供(一般仏教とは違う)。
と会通(えつうとよみ、矛盾点をムリクリつじつま合わせすること)する誤り。
4、真俗二諦の誤用
真諦は「法則性(真理)」、俗諦は「その言説(教え)」という本来の意味で使わない。
5、「法(ダンマ)」を阿弥陀の教え、はたらきにしか用いない。
「法」は本来、「無常、無我を根本としたさとりの法則性」を起点として、
「法則」から発生する「教え」や、その法則にもとづく「規範」、また法則に基づく「存在」
などを意味するしていて、阿弥陀は「法」に基づく「教え」としての「存在や規範」で
あり、その「法則」という根本へ導く「善巧方便」の理解であるということを、
布教上隠している。
6、安心(あんじん)ということばを多用する。
親鸞聖人はほとんど使われていない、浄土宗西山派が多用する安心を多用し、
曇鸞の五念門より、善導の五正行を多用することで、雑行を極端に排除する。
7、結果的に「信心条件」となっている。
行文類にもある異訳の大経の「けんぴねんどう」を無視している。
唯信鈔文意の「草木国土成仏」についても同じである。
つまりは 「十方衆生」の理解を誤っている。
8、寿命無量の誤用
寿命無量は阿弥陀に使うもので、この世と同じ状態で「倶会一処」するので
も永遠に生きるのでもない。
9、現当二益の救いではない。
正定聚(さとりに定まること)と滅度(完全なさとり=法にかえること)は分離したものではない。
浄土往生してのちに正定聚になるという「経典」の定義を、親鸞は現生に正定聚になると
されている理由は、今さとりに向かって不退転になることを意味しており、
真宗の往生は「死後」とする解釈には矛盾がある。
つまり往生は念仏の行者になり成仏に向かって歩みを始めた時点で成立し、現世や来世に分離する
のは、生死一如のさとりの原則に反する。
10、そもそも大経、浄土論、論註を重視する親鸞義を、観経、善導重視で解釈する誤り。
親鸞義は、「無生の生」というように、観経の根拠を、龍樹と世親の中観や唯識によって、明らか
にされ、法然の教えの根拠を明示しているが、それを無視して仏教である阿弥陀の教えを、
観念論にしている。
※ざっとみてもこれだけ根本的な問題点があることは明確である。
真宗は蓮如教学によるから、仕方がないが、蓮如は他派に対しての論だてであり、「タノムタスケタマヘ」も意図的に希願の錯覚を与える表現であり、「御袖にすがる」という明確な希願もある。
親鸞聖人は、やはり信心の人というより、念仏の行者でしょう。
それは行文類引文に第17願の「諸仏称名讃嘆」の引文を徹底して引かれ、続いて「信力増上、聞名」の引文を引かれ、最終的にそれが「衆生の称名讃嘆(教えをひろめる広讃嘆)」へと展開される流れになっています。
そして浄土論、論註の五念門で行を抑え、
法蔵菩薩の行じられたのが五念門であるとされ(註釈版行文類【17】)そのうちの讃嘆門が利他の功徳をもつ「如実修行相応の行」であり、われわれの讃嘆行の内容であるとされています。(同【19】)
読み手を想定しない「親鸞聖人のホンネ」が書かれていると思われる教行信証を教行証文類とされているのは、信は17願の諸仏称名が衆生の称名讃嘆に転じるという、ターニングポイントをあらわしていて、それで終わりではない。
讃嘆行が念仏の行者としての生活となるのだから、行とは無碍光如来のみ名を称する讃嘆行とされているのです。
これは石泉学派の大江淳誠和上の講義にあるものです。
④曇鸞さんの論註
行文類の引文に論註の
「無生の生」というものがあります。
こういうことが、浄土教の根拠の一つです。
以下、以前誰かの問いに回答したものです。
人間にせよ、全ての存在は仮和合の存在である。
こんなことは、分子や原子の存在を知っている現代人ならわかること。
浄土論や論註には「無生であるのに往生というのはなぜか?」という問いに、
「あくまでもそう認識した主体が真如をさとるという一貫性を表すためである。」と
いう回答する問答があり、教行信証にも引用されている。
そもそも仏教の「中観」からいえば、全て無生である。
人間に生まれたというのも、量子物理学の「不確定性原理」であり、私が人間に生まれているということさえ、証明不可能な姿なのだから、中観の無生ないしは空有と同じである。
阿弥陀仏が、人間に生まれて仏法にあうために私を念仏者たらしめたというのは、方便であって真如ではない。
真如の方便すなわち「如より来生したアミダ」という観点で、親鸞さんは「如来」という表現がやたら多いわけである。
現代の迷信や幽霊を信じる人に対しては、それと同じレベルで「阿弥陀仏が救ってくださる」という表現は適応するかもしれないが、およそ理数系というか論理的な人には「阿弥陀様」は「ご先祖様を大事に思う」というほどにしか理解されないであろう。
ならば現代においては「証文類の真如、真仏土文類の光明.智慧」の観点から説く方がいいと思うのだが、仏教学を学んでいない上、「教行証文類」すら仏教学的理解ができない念仏者には、理解していただけないのがもどかしい。。
現代に真如や中観の観点から説くことは、「真宗教学の発達」「真宗教学の進化」であり、
絶対神を説いているわけではない仏教においては、「法の進化」として、あっても良い姿であると思うのだが。。。
③親鸞聖人と七高僧
たぶんどう考えても、親鸞聖人は法然さんの念仏のファンタジックな側面を
仏教として、論理的に理解したかったのだろうとしか思えない。
だから、七高僧の龍樹(中観)、天親(倶舎、唯識)、曇鸞(それらを根拠として、
論註に浄土教の根拠を明らかにした)、の3人を浄土教の根拠を示す高僧とし、
道綽から源信までは、方便を明確にされた高僧。
法然(源空)は、専修念仏を明確にされた。
という位置付けになっているのは、流れでよくわかります。。
そして、天親の親と曇鸞の鸞をとって、親鸞と名乗られたのだろうと。。
教行信証には浄土論と論註が重要視され、入出二門(五念門、五果門)を
各所に出される所以(ゆえん)でもあります。
②お日様と阿弥陀様
昔から日本人は太陽を「お日様」と呼んでいた。
そしてお日様の恵みで、お米などがいただけるのだと「お日様」に手を合わせていた。
しかし、現代人には「太陽」は太陽であり、お日様という感覚は馴染まない。
「阿弥陀様」も同じである。
現代人に阿弥陀様といっても「???」
親鸞さんも同じ感覚だったのだろう。
親鸞聖人は「法然さんと善導さんの阿弥陀ストーリー」の根拠を明確に
された人だった。
親鸞聖人のような人は、ファンタジックなストーリーだけでは納得できなかったのかもしれない。
だから教行信証に「阿弥陀様」の本質は「光明」であり「智慧」であると示されたと推測できる。
また、末灯抄に「色もなく形もましまさず」とあり、各所には法性(法則性)であると示されているし、
「唯信鈔文意」も同じように、
迷いの「無明」から「さとり」へとこころがひるがえってみれば。。。
と私が仏法に心の方向転換をするなら(信心)、涅槃(この上のないさとり)ということは
いろいろなことばであらわされるけれど。。
つまりは法性といい真如という。。と示されていて。。
(ここから本文のまま)
真如という一如という仏性という仏性すなわち如来なり、
この如来微塵世界にみちみちてまします。
すなわち一切群生海の心にみちたまえるなり。
草木国土ことごとく皆成仏すととけり。
(以上)
と、草木国土まで仏と認知できると示されている。
(お西の註釈版では底本が違うので脚注に書かれています。)
そして、このような色も形も心もおよばず言葉も断える真如法性を
私たちに知らせるために、あくまでも方便(さとりに近づけるてだて)として
法蔵菩薩、阿弥陀如来という形があらわされているのだから、法蔵菩薩のストーリーが書かれている「大経」の教えをそのまま受け入れれば、私たちはさとりにいたる
仏道を歩むようになり、さまざまなことがらを如来の化身による導きであると
みえてくるような、智慧のなかで生きられるようになるので、この法性から方便としてあらわれた阿弥陀(原語でアミターバつまり光明)を「尽十方無碍光如来」と「讃嘆」して、仏道を生きられるというように説かれている。
こんなふうに、阿弥陀如来や浄土についてもいわゆるファンタジックな
「阿弥陀さま、お浄土」としてではなく、
「涅槃」つまり「さとり」の本質を明かす、ことばにできないことをあえて言説にしたものだと明確にされている。
そして「阿弥陀仏」というより「阿弥陀如来」。
「真如より来生した如来」という表現がほとんどである。
ましてや「阿弥陀さま」なんていう人間的表現はされない。
親鸞さんはとてつもない学問をしているのだから、その感覚は当然であろう。
すなわち現代において「阿弥陀様」という表現は、太陽を「お日様」といっているのと同じ感覚である。
特に、ほとんどこのことを話す布教使や学者はいないが、
異訳の大経であるいわゆる「大阿弥陀経」や「如来会」の本願の部分には、
「けんぴねんどうの類。。」と虫も成仏するとある。
つまりは全てが、本来仏性であるのに、人間は無明を生きているから、それがわからない。
だからそういうものにさとりの智慧を与えていこうというのが念仏なんだ。
親鸞聖人はそういうスタンスにおられる。
つまり、唯信鈔文意の最後にもあるように、いわゆる「文字も読めないようなひとびと」に向けられた方便法身のストーリーが阿弥陀如来であるが、「何をバカなことをいってるんだ」とあざけられても、根本さえわかっていれば、どんなにあざけられ中傷されようが、
「智慧のないひとに智慧をあたえていくこと」なんだから、堂々と讃嘆していきましょうというニュアンスで仏道を歩むことの深い意味合いを明言されている。
親鸞聖人のスタンスはこの点にあることが重要だ。。
とはいえ現代人でも太陽の組成は
水素73.46 %[8] ヘリウム24.85 % 酸素0.77 % 炭素0.29 %
鉄0.15 % ネオン0.12 % その他0.11 % 窒素0.09 % ケイ素0.07 %
マグネシウム0.05 % 硫黄0.04 %
なんて理解している人は少ないであろう。
また、その太陽により「光合成」が起こり、
(以下面倒なので読み飛ばしてください)
光合成とは、光のエネルギーにより生物が二酸化炭素を同化して有機化合物を生成する過程。緑色植物の場合には,クロロフィルおよびカロテノイドの働きにより光のエネルギーを吸収し,6CO2 + 12H2O → C6H12O6 + 6O2 + 6H2O の反応で,糖類,さらにこれから多糖類を生成する過程をいう。光合成の過程は,光を必要とする明反応と必要としない暗反応とから成る。前者は,光エネルギーの化学エネルギーへの転化で,アデノシン三リン酸 ATPの生成,光エネルギーによる還元型補酵素NADPの生成およびそれに伴う O2 の発生であり,後者は上に生じた ATPと NADPを用いて CO2 を有機化合物内に固定する反応である。光合成は,緑色植物のように酸素の発生を伴うものと,紅色細菌のように硫化水素その他の物質の酸化を伴うものとがある。地表上の物質変化の過程としては水の蒸発に次いで大きく,地球上の有機物の大部分および大気中の酸素の大部分は,光合成により生成されたものと推定されている。
(ここからまたお読みください)
なんて難しい内容までは知るひとは少ないものだ。
仏教も同じであって、細部まで難しいことを知らずとも、
阿弥陀如来の教えはそういうものなんだと、受け入れて歩めばいい。
細部まで知らずとも良いし、知っても良い。
別の角度からいえば。。
お米は、むかし「排泄物」などの肥料で肥やされた土の恵みとお日様の恵みという
感覚だった。
今は肥料は「窒素、リン酸、カリ」の要素で作られた化学肥料でいいという感覚だ。
こういう時代感覚なのに、「阿弥陀様がお救いくださる」などといっても「わからん」ということになる。
でも、化学肥料より有機肥料がいいという時代。
現代は、阿弥陀さまより阿弥陀如来という法性からの方便と明言した上での方が
しっくりくる時代なんだ。
「阿弥陀さまがお浄土にお救いくださるありがたさ。。」なんていってる人は、
よほど、「マインドコントロール」されているか、
「私は僧侶だからそう思わなければいけない」とセルフマインドコントロールするか、難しい原理を学習するモチベーションがなく、「そういうもんや」とテキトーなのかの
いずれかであろう。
ただし、親しい人が信じているから、大切な人を亡くした、というような「出会い」ということももちろんあるのでろうが。。。
しかし、「住職や僧侶布教使など」のプロフェッショナルであるなら、太陽の組成や光合成などの原理を最低限「教行信証」に学び、その上で布教しなければそれこそ「資格」がないと言えるかも知れない。(以前、僧侶は資格か?という議論があったが)
とりあえず、浄土真宗の教育は、まず教行信証をしっかり学ぶことから始めなければ、教行信証が浄土真宗の根本聖典とされる意味がない。
現代の布教は「阿弥陀様」から「阿弥陀如来」への感覚の転向が必要である。
①真宗の教えと仏教学
信楽先生の本は、石泉学派プラスオリジナルなんでいいと思います。
信楽先生の「親鸞の真宗か。蓮如の真宗か。」という本が、ネットのアマゾンで買えます。
これは一番明確ですが、真宗学者は基本的には、真如論を語らないので、
その点では真宗の本は、たいがいどれも同じなのが残念です。
しかしながら、真宗自体を理解するにはこの本は良く出来ています。
(信楽先生の亡きあと、お弟子が生前の先生の講義をまとめたものですが、本当にうまく構成されています。)
ただ、親鸞聖人の時代は、根本仏教から「倶舎論」などの部派仏教の論、そして大乗仏教の中観学、唯識学、華厳学、法華学、維摩経、涅槃経などを学んでおられるのが大前提ですから、教行信証を読むのに、そういう仏教学の原理原則を踏まえて読むのと、そういう原則なしに読むのとでは、まったく解釈が変わるというか、ほとんど教行信証が意味不明になり、ファンタジックにしか読めなくなります。
例えば、行文類の引文に「信力増上」とありますが、「増上」というはたらきは、当時の仏教の基礎学だった倶舎論の因果論から言えば、「縁」でしか語れないのが、倶舎論の六因四縁五果の大原則ですから、この引文の上では「信力」は諸仏の讃嘆に出会った「縁」でしかありません。
しかし、わたしがその讃嘆をありのまま受け入れた時点で「因」になります。
これは倶舎論の「存在論」に存在を五位七十五法に分類されている中の、
五位のなかにさとりの法として「無為法」がありますが、難しいかもしれませんが、
あえて書かせていただきますと、
わたしが諸仏の讃嘆を受け入れて「阿弥陀の法」がわたしに入り込むというのは、
無為法の中の「虚空無為」と「択滅(ちゃくめつ)無為法」が私の中に入って来ることを意味し、
これが異熟因となります。
具体的には、わたしのなかに「俗のわたしとさとりの無為法が混在」することになるんです。
このように、俗のわたしと「さとりへ発願するわたしならぬわたし(無為法=名号)」が両立することになるので、その時点で始めて信心は異熟因になり、異熟果として成仏の果へ至ります。
しかしその信心は条件でもなんでもなく「そもそも本来真如を基底にしているわたしなる存在が、真如に戻っていく菩薩道を歩む」ということであり、「ファンタジックに死んで極楽に行くため」のものではありません。
単にファンタジックな世界に行くためのファンタジックなお話しでは、そこには真如への示唆もなく、無為法の意味合いもありません。
そういう全くさとりないしは真如の要素のない「阿弥陀」という俗諦の言説(ストーリー)では、同類因から等流果という迷いのままの因果になります。
教行信証の論は、そういった仏教の原則をキッチリとおさえて論じられています。
信楽先生は以上のことを、信心には「初期の段階の”初門位”と無為法(称名)に育てられていく中で熟していく”究竟位”とある。」と説明されます。
しかし、教行信証をご都合よく解釈し、仏教学は学ばなくてもいいと言い切る空華の和上といわれる権限者によって、「信楽さんは、信心に二つを分ける誤りがある」という理由で、「異安心」と決めつけられたのです。
いずれにせよ、こういう仏教学の下地から教行信証を解説された本は、現代にはほぼないのですが、絶版のものはいくつかありますが、やはり、仏教学の下地がないと「辞書に辞書がいる」ような難しいものがほとんどですが。。
そういう点で、わたしならぬわたしが書いた「はじめての親鸞」には、現代人向けに、敢えて倶舎論だの中観だの唯識だのとは書いていませんが、この部分は中観、この部分は唯識という具合にわかる人にはその根拠がわかるように書いています。
お西の真宗学者は伝統的に「仏教学者」を「余乗」と切り捨てて、真宗について論文を書いても全く認めないので、仏教学者が真宗を論じないし、論じることはタブーになっているという、アホらしい学問体制になっていることが、真宗学の退化を促進させています。
どうぞ教行信証を現代語訳からでもいいので、じっくりと読み進めて、そのガイドをとりあえず近年では一番まともな信楽さんの本に委ねたり、こうやってお尋ねいただき学ばれれば良いかと思います。
なお、本を買われる際に著者をお知らせいただければ、何系というのがわかるので、適切かどうかはお知らせできます。
真宗学シリーズはいいと思います。