2019/06/05 ☝️浄土真宗を理解するための注意点⚠️
浄土真宗をややこしくしている問題点は以下のような点です❣️
問題意識が高く、聴聞をよくされている方にはわかっていただける内容だと思います(^^)
【3】日本は古来より、天皇がいて、将軍さんがいてという国で、
いわゆる「お上」(おかみ)のいう通りにせよ。
っていう指示を無条件に受け入れさせられ、上下構造の中に
身を委ねる国でした。
そこで親鸞さんは、「平等、一如」を明言し、時の上皇を批判したのですが、
覚如という「親鸞さんのひ孫」が「本願寺」を作り、組織を作りました。
その後8代目の蓮如という人が国家以上の力をつけて、「寺内町」として「治外法権本願寺シティ」を京都の山科に作りましたが、結果、組織なので、内部には上下構造が歴然としてあったんです。
そして時代の変化の中、本願寺は国家におもねるようになり、江戸時代は「儒教仏教」を説いて「仁義礼智信」を説いて、「国や親に感謝」「阿弥陀の親さまに感謝」なんてもっともらしいことをいい、明治政府の「廃仏毀釈」には本願寺の一部の僧侶のグループが働きかけて、それを止めましたが、教団自体は更に政治におもねるようになり、「天皇=阿弥陀さん」と教え、「戦争」も「なんまんだぶが《靖国浄土》へ救うから、戦死するまで戦え。」と説いてきました。
本来、「なんまんだぶのパワーで死んだら極楽にいける」なんていうファンタジックなものではなかった真宗であるのに《靖国》浄土なんていうことを「布教した」のです。
「さとり、真如、一如」に生きる「実践の教え」だったものを、「他力=無力」にしてきた教えがいまだに現場の布教使や学者によって説かれていることが、いかに情けないか。。
阿弥陀如来を「親さま」と説くように指導する本願寺の講師人のみなさま、
善巧方便の阿弥陀如来は「親」ではなく「善親友(ぜんしんぬ)」と経典にはありませんか⁉️
「経典」と違うことを教えてはなりません。。
親鸞さんが「おいおい、なにを説いてんねん。」ってツッコミを入れてはると思いますよ。。
マジマジ、石泉僧叡という人の学派だけが、江戸時代から今日まで、親鸞の真宗を説き示してくれています。。
しかしこれとて、「布教の現場では」教行証文類ではなく「御文章メイン」でしたから、どうしても「論が通らない」点はあります。
当時から今に至るまで、教団としては組織である以上「平等」は表向きで、実態としては上下構造の教えを推進するために、「石泉学派など」の人を退けているのため、今や絶滅危惧種になっていますので、こころある方は、学習していただくことをお勧めします❣️
さらにいうなら、やっと民主主義によって、言論の自由の時代に本当のことが話し聞ける時代になって70年も過ぎているのに、このような江戸時代のままなんて、残念だと思いませんか。。
n
【2】空華のお話について
(繰り返しの文章がありますが、直す時間がないので、そのままあげときます)
あるひと曰く。
空華の布教使さんが、例えば「阿弥陀経を解説しつつ、心温まるお話をまじえて進めておられるだけで、あんまり空華の学説に入り込まれることはありません。」と。。
いわば「世俗の持ち越し」がメインのおはなしが多いので、「もはや教学ですらない」
そうなんです。そこ!
空華は、扁桃体(脳の情動を司る部分)に訴えてくるから、カルト的に好まれるんです。
お釈迦さんも親鸞さんも「心温まらない話が多い」のは、本当の慈悲が智慧だからだと思います。
蓮如さんと違う点です。
怒らんといてくださいね。あくまでも冷静に書いてます。
あるひとをキッカケに、皆さんに向けて書いてますから。。
たとえば
倶会一処を共に一つのところで会うっていってもそのときは今の私ではないし、発願した善男善女が前提ですから、解釈は全く知性です。
温かい話から智慧に導かれていればまだしも、煩悩を温めていてもしかたがない。
空華はその辺が蓮如さん的なんです。
見直していかれては?
という提案ですので。。
たとえば
倶会一処を、「ともに一つのところで会う」っていってもそのときは私も相手も今の状態ではないし、発願した善男善女が前提で、聖衆が会うのですから、あくまでも発願を勧めているので、解釈は全く知性です。
扁桃体思考の温かい話から始まっても、合法ないしお話の結論が大脳新皮質の前頭葉思考の智慧に導かれていればまだしも、扁桃体の煩悩を温めて「ありがたいお話」をしていてもしかたがない。
空華はその辺が蓮如さん的なんです。
言い過ぎかもしれませんが、空華はカルトチックだという方も比較的多いのですが、それは扁桃体に訴えてくるから、カルト的に好まれるんです。
親鸞会の高森さんも元空華ですし。。
お釈迦さんも親鸞さんも心温まらない話が多いのは、本当の慈悲が智慧だからなのだと思います。
歎異鈔の親鸞聖人の態度は「いのちを顧みずに尋ねてきた唯円に、難しいことを知りたいなら奈良か比叡山に行けば」なんてつきはなす。。
とてもあたたかい人とは思えない発言の数々。
蓮如さんと違う点です。
怒らんといてくださいね。あくまでも冷静に書いてます。
空華の皆さんがそうだということではないのですが、お西に「ありがたい絵空事のような話」が多いといわれ、「蓮如宗」といわれる理由の一つの角度を、論理的に指摘しているだけなのですから。
僧侶布教使の皆さん。
現代への布教を真剣に考えられるなら、「あたたかいいいはなし」は、煩悩をあたためる危険なお話だとご注意をされますよう。。
「いいおはなし」をして、また呼んでもらうことを考える方は、社会悪だと自覚されますように。。
⭕️空華の典型的な法話
典型的なお西の法話
(空華の法話)
(最近はもっと低レベル化して、エセ空華が増えて、法滅の危機ですが。。)
とりあえず、典型法話は以下のようなものです。
(以下)
いのちがあるのは「当たり前」ではなく「有り難い」(あることが難しい)ことなのです。
明日があると思ってはいませんか?
次の瞬間いのちがなくなってしまっても当たり前なのですよ。
だから、今を大切にして、「いま、ご信心をいただくことでお浄土に生まれる身になるのですよ」。。。
必ず死は訪れます。
その事実に向き合わず、煩悩に振り回されている「地獄行き」の私を、阿弥陀様はお見通しなのです。
ですから阿弥陀様はそんな愚かな私を救うために四十八の願いをたてて、私のためにご苦労されて、私を浄土に救いとって成仏させてくださる、ありがた〜いお方なんですよ。
だから今この大事な問題に目を向け、「こんな愚かな私を救いの光明にすでにおさめとってくださっていること」を聴聞し、ご信心をいただいて、「あ〜私はお浄土へ生まれさせていただく身になったんだなぁ」と「正定聚(浄土に生まれさとりを得ることに定まった仲間)になったんだなぁ」と喜び感謝して、感謝の念仏の中で生きるんですよ。。。
というような法話ばかり。
しかし。。。
死に向き合う。
次の瞬間も命があると思うなかれというけれど。。。
いや命は状態を変化させてもあり続ける。
(物理的にも仏教的にも)
それを、端的に迷いの生に於いては輪廻という。
あるいはさとりで言えば真如という。
死に向き合って、浄土へ生まれることを願う(本願力によって)。
それは次の生があることを前提にしていなければ成り立たない論理でありながら、「命がいつまでもあると思うべからず」という矛盾した論を平気で展開している典型的なお西の解釈。(空華といいたいけど)
論としては『命は「予定通りいかいない」だけで、明日もその先もあり続けなければ、浄土すら存在し得ない。』のに。。。
まことに「ありがたい」教えである。
しかし重要なことは「生死出づべき道」というのは、「死」の解決を意味しているのではないということである。
生と死という分断思考、いわゆる煩悩による「虚妄分別」が、「自他分別を生み、勝ち負け、苦と楽、好きや嫌い」などのあらゆる分断思考を生み、その思考が「トラブルやいのちの苦」を生むのであるから、その分断思考「虚妄分別」から脱出することが「生死出づべき道」という仏教で一貫した課題である。
虚妄分別から脱出することが、仏智つまり「真智無分別智」によって一如へ導かれることである。
阿弥陀佛の願いは、そういう法の中に私たちが過ごすことであり、大乗仏教においては虚妄分別を離れ、和合(サンガ)を実現することである。
浄土は法音の中で全てが和合している、存在が存在のまま一如になっている姿を現している。
このように仏道とは、生死一如を体得することであり、そのいずれにもとらわれないことを体得すること(体解)である。
ここにおいて、すでに私はない。
つまり今も私はない。
そういう道へ私と目されるいのちを導くのが仏智であり大慈悲である。
煩悩を見つめ、煩悩を糧として心命終することを歩むのが現生での仏道であり、「煩悩即菩提」という「煩悩がさとりへ向かわせる菩提の糧に転じられる〈廻心〉のありよう」である。
生死という分断した思考(虚妄分別)から、一如の智慧(真智無分別智)という真実のあり方へいざなわれ、その道を歩むのが仏道である。
そこに法楽という真の楽があるのであり、五蘊の色蘊がなくなったところに、残りの四蘊は無為法の名号になる。
すなわちこれが私と目される存在が成仏する、ミダ同体になるということなのだ。
そしてこのようになればこそ、称名讃嘆という念仏を生きる身に自然になるんだと、教行信証に明らかにされたのである。
お西はこういう解釈を失ってしまった。
仏道ではなくなって、死の問題ばかり語り、現実の「人間臭い問題」は放ったらかしであるが、人生の全てが永遠に仏道なのである。
死と向き合うのではなく、生死を分断し、自己に執着している自分と向き合わせてくれるのが、アミダブッダである。
そうでなければ、正定聚として大乗菩薩道を歩むことがなくなってしまう。
浄土の教えが明恵の批判通りではないことを、親鸞さんは「念仏とは、自己が仏智に導かれて、煩悩を見つめて菩提心に生きること。」
菩提の道に転じられて生きる大乗菩薩道,自信教人信,利他行にいきるいのちになることを教行信証に明らかにされたのだから。。。
※明恵の批判
法然の時代に華厳宗の明恵は「浄土宗は仏の慈悲を受けることばかりで、さとりをもとめる菩提心がない」というもの。
ついでに
仏教は情に流される私を智に誘導し、改めて止揚された情。
言い換えれば智に基づく情、これを智慧と慈悲という。
智慧がそのように慈悲に導き、そういういのちのありようを生きることを教えている。
決して「ありがたい情」に落とし込む教えではない。
色即是空の色は、止揚される前の情の私、
空即是色の色は、止揚され仏道を生きる私ならぬ私
般若(智慧)に会うことで質量が変化するのである。
空華の話に育てられた方いわく
私は1月2日生まれ、正月には67歳(私の干支は🐇)になる。
67歳はまだ若いのかどうかは知らない。平均寿命からすれば67歳は確かに若いといえる。しかし、人生は刹那的だ。
長生きは”当たり前”ではなく”有り難い”ことなのだ。
よく言われる。当たり前の反対は?
明日があるやんか。来年は〇〇をしたい?
明日や来年の命が確実に保障されているとでも思っているのだろうか。
今日がだめなら明日があると思っている愚かな私。下手をすれば何年も先の約束までしてしまっている。
たとえは悪いが「2020年の東京オリンピックを目指している・・・」。2020年まで確実にいのちがあると言い切れるだろうか?
あると思って頑張っているだけに過ぎない。
今この瞬間にも命の灯が消えるかもしれないのにだ!
世の中で確実、絶対といえるのはこの命は必ず絶えるということだけだ!
そんなことお構いなしに自己中心にしか生きられない人間の愚かさを阿弥陀様はお見通しであり、そんな愚かな私をすくうために法蔵菩薩として四十八の誓願をたて、兆載永劫の長い期間ご修行いただいて私を浄土にすくい仏と仕上げる力(本願力)を成就され阿弥陀仏と成られました。
絶対確実な死という問題に向き合わずして大切な人生のあり方はわからないのではないか。
自己中心的で愚かな人間である私なので大変難しいことだが、いつ命が絶えようとも阿弥陀様のご本願を依りどころとして生きていけるよう常に心を阿弥陀様に向けていたいと思う!
死に向き合う。
次の瞬間も命があると思うなかれ。というけれど。。。
いや命は状態を変化させてもあり続ける。
端的に迷いの生に於いては輪廻という。
あるいはさとりで言えば真如という。
死に向き合って、浄土へ生まれることを願う(本願力によって)。
それは次の生があることを前提にしていなければ成り立たない解釈でありながら、「命がいつまでもあると思うべからず」という矛盾した論を平気で展開している典型的なお西の解釈。(空華といいたいけど)
つまり命は「予定通りいかいない」だけで、明日もその先もあり続けなければ、浄土すら存在し得ない。
まことに「ありがたい」教えである。
しかし「生死出づべき道」というのは、「死」の解決ではない。
生と死という分断思考が、自他分別を生み、勝ち負け、苦と楽、好きと嫌いなど、あらゆる分断思考を生むことを仏智によって一如へ導かれることである。
このように仏道とは、生死一如を体得することであり、そのいずれにもとらわれないことを体得すること(体解)である。
ここにおいて、すでに私はない。
つまり今も私はない。
そういう道へ私と目される命を導くのが仏智であり大慈悲である。
煩悩を見つめ、煩悩を糧として心命終することを歩むのが現生での仏道であり、
生死という分断した思考(虚妄分別)を一如の智慧(真智無分別智)という真実のあり方へ誘われ、その道を歩むのが仏道である。
そこに法楽という真の楽があるのであり、五蘊の色蘊(肉体)がなくなったところに、残りの四蘊(こころ)は無為法(さとり)の名号になる。
すなわちこれが私と目される存在が成仏するということなのだ。
お西はこういう解釈を失ってしまった。
仏道ではなくなって、死の問題ばかり語り、現実の「人間臭い問題」は放ったらかしであるが、人生の全てが永遠に仏道なのである。
なぜ空華学派がお西の主流になったのか?
ひとつには、絶滅危惧学派は親鸞聖人のように弟子を取らないことを前提とした。
わたしが学んだ石泉学の灘本和上も弟子はとらないといっておられました。
次に行信教校の存在が大きいのです。
明治から大正にかけて空華学派の私塾「専精舎」を運営していた
利井明朗氏が本願寺の執行長の立場になり、弟の鮮妙が勧学となることにより、私塾が本願寺公認の学校となったのですから、ある意味政治的に空華学派が主流になったと言えます。
揺るぎない立場を得た空華学派が本願寺の主流となったことで、その後のメジャーな学者は、空華が当たり前という自然な流れで学ぶことになりました。
また、稲城和上のように空華で蓮如さん大事、感謝大事の和上のファンが多かった。
それは基本的に文学は扁桃体思考だから。
しかし、他の学派も非力ではありつつ継承されていましたが、平成になってからは、他の学派の学者もいなくなり、空華学派、ないしは適当な学者が教えているのが今の西本願寺ですから、教学がわからないものになり、現代からどんどん遊離しているのは、現実として間違いのないことです。
【1】学問上の問題
1、行を「法体名号」(南无阿弥陀仏そのもの)とする。
能所(主体と客体)なしの存在は理論上ありえない。
諸仏称名の意味、理由を無視している。
それは行文類引文では、第17願の「諸仏称名讃嘆」の引文を徹底して引かれ、続いて「信力増上、聞名」の引文を引かれ、最終的にそれが「衆生の称名讃嘆(教えをひろめる広讃嘆)」へと展開される流れになっています。
そして浄土論、論註の五念門で行を抑え、
(法蔵)菩薩の行じられたのが五念門であるとされ(註釈版行文類【17】)そのうちの讃嘆門が利他の功徳をもつ「如実修行相応の行」であり、結果それがわれわれの讃嘆行の内容であるとされています。(同【19】)
読み手を想定しない「親鸞聖人のホンネ」が書かれていると思われる教行信証を教行証文類とされているのは、信は17願の諸仏称名が衆生の称名讃嘆に転じるという、ターニングポイントをあらわしていて、それで終わりではない。
讃嘆行が念仏の行者としての生活となるのだから、行とは無碍光如来のみ名を称する讃嘆行とされているのです。
これは、石泉学派の大江淳誠和上の講義にあるものです。
2、他力を往生のみに限定使用。
他力をパラタントラ(縁起)で理解せず、阿弥陀の他力で浄土に往生することに限定使用。
絶対他力という、すべてが他力であるという清沢満之の造語を誤用。
3、無明を「本願への疑い」と定義する。
無明は本来は「智慧がないこと」であり、真宗は別途不供(一般仏教とは違う)。
と会通(えつうとよみ、矛盾点をムリクリつじつま合わせすること)する誤り。
4、真俗二諦の誤用
真諦は「法則性(真理)」、俗諦は「その言説(教え)」という本来の意味で使わない。
5、空華学派は「法(ダンマ)」を阿弥陀の教え、はたらきにしか用いない。
「法」は本来、「無常、無我を根本としたさとりの法則性」を起点として、
「法則」から発生する「教え」や、その法則にもとづく「規範」、また法則に基づく「存在」
などを意味するしていて、阿弥陀は「法」に基づく「教え」としての「存在や規範」で
あり、その「法則」という根本へ導く「善巧方便」の理解であるということを、
布教上隠している。
6、安心(あんじん)ということばを多用する。
親鸞聖人はほとんど使われていない、浄土宗西山派が多用する安心を多用し、
曇鸞の五念門より、善導の五正行を多用することで、雑行を極端に排除する。
7、結果的に「信心条件」となっている。
行文類にもある異訳の大経の「けんぴねんどう」を無視している。
唯信鈔文意の「草木国土成仏」についても同じである。
つまりは 「十方衆生」の理解を誤っている。
8、寿命無量の誤用
寿命無量は阿弥陀に使うもので、この世と同じ状態で「倶会一処」するので
も永遠に生きるのでもない。「世俗の持ち越し」はk出世間を説く「仏教」ではない。
9、現当二益の救いではない。
正定聚(さとりに定まること)と滅度(完全なさとり=法にかえること)は分離したものではない。
浄土往生してのちに正定聚になるという「経典」の定義を、親鸞は現生に正定聚になると
されている理由は、今さとりに向かって不退転になることを意味しており、
真宗の往生は「死後」とする解釈には矛盾がある。
つまり往生は念仏の行者になり成仏に向かって歩みを始めた時点で成立し。
現世や来世に分離するのは、生死一如のさとりの原則に反する。
10、そもそも大経、浄土論、論註を重視する親鸞義を、観経、善導重視で解釈する誤り。
親鸞義は、「無生の生」というように、観経の根拠を、龍樹と世親の中観や唯識によって、明らかにされ、法然の教えの根拠を明示しているが、それを無視して仏教である阿弥陀の教えを、
「観念論」にしている。
※ざっとみてもこれだけ根本的な問題点があることは明確です。
真宗は蓮如教学によるから、仕方がないが、蓮如は他派に対しての論だてであり、「タノムタスケタマヘ」も意図的に希願の錯覚を与える表現であり、「御袖にすがる」という明確な希願もあるのです‼️