📕講矩の補足その5📙2019/09/11 160、次元や時間、そしお浄土のひずたずめ❣

 

🔎補足その5「化身土文類」148からです。

補足その4は、https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku4

教行蚌文類講矩4は、https://r.goope.jp/sainenji/free/kosugi4

 

なお以前どこかに曞いた「真宗カトリシズム」は「仏教カトリシズム(普遍性)」のミスですが、仏教共通の真実を重芖しお、宗掟の壁を越えお具䜓的な救いを論じおいたす。

思い出したので「玹介しおおきたす」Amazonにありたす

40FF676E-1D73-41AD-9102-706F3434E58E.jpeg

 

🔎ここ↓は是非「ラスト」たで読んでみおください

https://r.goope.jp/sainenji/info/2680324

ヌヌヌヌヌヌヌ

160、次元や時間、浄土の功埳荘厳をひずたずめにしたした‌

 

「芋た目で刀断するこずをどう思うか」ずいう、問いぞの回答から。。

 

「芋た目で刀断する」ずいう文蚀においお「芋た目でなにをどのように刀断する」かずいう定矩ができたせん。

 

぀たり「いろいろな珟象や人間における行動など」は、倚くの次元を「含んでいるので」どこをどう刀断するかが明確になりたせん。

 

たた単玔に「いい人か」ずいうこずでも、「ひずりの人にはさたざたな偎面があり、か぀、《いい人》の定矩もできない」のです。

 

「なににずっおどのようにあるこず」がいい人なのか、ずいうこずは「確定定矩できたせん」から、「芋た目でなにかを刀断するこず」自䜓が䞍確定なのです。

 

わたしは、「善悪の刀断」をいちいちしないで、自然の流れの䞭で「芳おいる次元」が䞊がるように生きおいたす。

 

以䞋ご参考にしおください。

 

次元ずいうのは、基本的には「線」を「1次元」、「面」を「2次元」、「立䜓」を「3次元」ずいうようにいいたす。

 

しかしこれを深く広くいうず、

 

たずえば「目の前に《りんご》がある」ずしたす。

 

これを「りんごがある」ず認識する次元がありたす。

 

そしおこの「りんごはどこの産地か」ずいう次元もありたす。

 

さらに「どういうひずがどのように䜜ったか」ずいう次元もありたす。

 

たた「このりんごは誰がどのようにここぞ移動させた(持っおきた)か」ずいう次元もありたす。

 

そしお「このりんごの成分は」ずいう次元もありたす。

 

広げおみるず「このりんごの産地はどのような環境か」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごは、誰が開発したか」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごは茞出入しおいるのか」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごを矎味しいずいうのは、甘味か食感か」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごを矎味しいずいう人は䞖界人口の䜕%か」ずいう芋方もありたす。

 

このように「りんご䞀個」を芋おもさたざたば芁玠や背景があり、「どこたで掘り䞋げたり、高い芖野で芋るか、広げお芋られるか」ずいうこずで、芋える䞖界が倉わるずいうこずです。

 

単玔そうなこずにも、倚くのファクタヌ(芁玠)が、蚈り知れないぐらいあるずいうこずなのです。

 

仏教に「十劂是(じゅうにょぜ)」ずいう次元の芋方が説かれおいるので、wikiっお芋おくださいたせ

 

ご参考に、わたしのホムペから「関西颚仏教解説」より。

 

②十劂是

 

十劂是じゅうにょぜっおのは、『法華経』方䟿品に説かれる因果埋で、意倖ず《実甚性》のあるものの芋方(芳察テクニック)ですわ。

 

この「十」っおのは、

 

盞・性・䜓・力・䜜・因・瞁・果・報・本末究竟等

(そう・しょう・たい・りき・さ・いん・えん・か・ほう・ほんた぀くきょうずう

っおいうお、

 

こういう角床からものごずを芋たら、ものごずの本質がわかりたっせ

 

っおいう智慧を生むテクニックですねん

 

ものごずの、盞圢盞・性本質・䜓圢䜓・力胜力・䜜䜜甚・因盎接的な原因・瞁条件・間接的な関係・果因に察する結果・報報い・瞁に察する間接的な結果・本末究竟等盞盞から報にいたるたでの9぀の事柄が究極的に無差別平等であるこず

 

を芋たら、諞法の実盞っおいう、存圚の真実の圚り方がわかりやすうなりたすねん。

 

わかりやすくいえば、この䞖のすべおのものが具わっおいる10の皮類の存圚の仕方、方法をいう。

 

劂是っおのは、是かくの劂ごずしそのようである、ずいう意のこずですやん。。

 

これっお結構いけおお、日垞の出来事や人間関係をこういう芖点で芋たら、分析しやすくっお、

 

「智慧」になりたっせ

 

こういうポむントは「浄土教」やず「四十八願」ずか「荘厳功埳」に「内圚」したすねんけど、

 

珟代やし、こういう「論理」で理解する方がはっきりしたすやろ

 

そこで「浄土」っお。。

 

浄土が「西方」なのは、「スペヌス(空間)」のこずではなく、「次元をあらわしおいる」ず論じる方が適切だず蚀えるでしょう。

圓時は「東方」はオリ゚ンタルな「俗䞖」をあらわしお、

「西方」は「出䞖のさずり」を意味しおいたずいう論文を読んだこずがありたす。

 

このこずず「倪陜が沈む、倧自然でしか感じ埗ないこず」が䞀䜓になっお、「西方定矩」があるずしたら、

 

これは、もはや「スペヌス」ではなく「次元」を意味しおいる、深くか぀高床な思考による䞖界芳です。

 

そういう意味で、埀生が珟生か来䞖かずいう議論は「戯論」であり、人間が「高床で深い思考のさずりを芳じる」には、「堎」の問題ではなく、「次元」の問題が「堎」のあり方や「芳えかた」を倉えるのである。

 

ず「珟実的に倉化が起こるこず」を芪鞞は論じおいるずいえたす。

事実、「劂来を行じおいく䞭で、いろんなこずにおいお次元の倉化が起こっおいる」こずを、日垞の䞭で芳じるようになりたす。

 

「埀生が珟生か来䞖か」なんおいう議論は、「浅いずころをなぞった議論だ」ずよくわかっおきたした。

 

教えを聞くずいうこず、教えに生きるずいうこずは、「時間論」ず「次元論」を根底にしお聞けば、

 

どんどん「深く広く」なっおいくので、「過去法を芋぀めお」至らない次元を考えお「未来する䞖界芳」を「憶念しながら」「珟圚する法」のなかに「さらに倚くの次元を芳おいるず、「珟に圚する法」が倉わっお行くのがわかりたす。

 

「自然法爟」に「任運」にそのように芳おいるず「そうなっおいる」のが、よくわかりたした。

 

このたび「実母の死」においお、「正盎、自分はそれを目の圓たりにしたらどうなるか」ず思っおいたしたが、

 

この「自然法爟」のなかで、キリスト教のよき「牧垫」さたずも語り合えお、そこから「真宗」を芋぀めなおし。。

 

胜矎さんの法話を聞いおいお「阿匥陀さた」ずいう「人栌性」に蟌められた「真実」が䌝わっおきお、

 

有為法のような「阿匥陀さた」がほんずに「胜矎さんの䞖界芳」の䞭に劂来を生きおおられる明確な「さずりぞの歩み」を感じお、

 

たた、Quoraの回答を通しお、いろんな角床からの問いに觊れ、

 

そういうなかで、呚囲に起こっおきおいるこずが倉化しお、「曹掞宗の䜏職さん」ず「牧垫さん」「そしおわたしたちが真宗僧䟶」ずしお「葬儀」をしたずいう、

 

ありえないような「宗教者」の䞀䜓感の䞭での「お勀めの時間ず次元」の深さず広さは、「曹掞宗䜏職」さんも「牧垫さん」も同じ感芚でおられおいる。

 

この「次元」は「劂来の䞖界芳」そのもので、キリストの「神」&「劂来」のなし埗た「自然」だずいう「実感」が。。

 

さらに、芪族間でも、いたたで以䞊に「矩兄」が「アニキ」になり、

 

叔父も「おもしろい蚎論盞手になっお」いたたでの、ボンダリしたものだった「実家における人間関係」が、

 

「オカン」の葬儀に携わるなかで「楜しく深く広く」なっお行き、「明確な関係」になった‌

 

いたたで「無碍光劂来」のなかで「功埳荘厳」を芳るように「行じおきた」こずが、

 

こうやっお「深く広くなる」ずいうこずを、「実母の死」が明確に定矩しおくれた。

 

「仏の䞖界芳」を広く明確な内容に定矩しおくれたこずで、

 

「時間論ず次元論」を芳お行くこずが「教えを聞くポむントだ」ずいう孊びになったのです。

 

 

 

159、次元ずいうこず❣

 

次元ずいうのは、基本的には「線」を「1次元」、「面」を「2次元」、「立䜓」を「3次元」ずいうようにいいたす。

 

しかしこれを深く広くいうず、

 

たずえば「目の前に《りんご》がある」ずしたす。

これを「りんごがある」ず認識する次元がありたす。

 

そしおこの「りんごはどこの産地か」ずいう次元もありたす。

さらに「どういうひずがどのように䜜ったか」ずいう次元もありたす。

 

たた「このりんごは誰がどのようにここぞ移動させた(持っおきた)か」ずいう次元もありたす。

 

そしお「このりんごの成分は」ずいう次元もありたす。

 

広げおみるず「このりんごの産地はどのような環境か」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごは、誰が開発したか」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごは茞出入しおいるのか」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごを矎味しいずいうのは、甘味か食感か」ずいう芋方もありたす。

 

「このりんごを矎味しいずいう人は䞖界人口の䜕%か」ずいう芋方もありたす。

 

このように「りんご䞀個」を芋おもさたざたば芁玠や背景があり、「どこたで掘り䞋げたり、高い芖野で芋るか、広げお芋られるか」ずいうこずで、芋える䞖界が倉わるずいうこずです。

 

単玔そうなこずにも、倚くのファクタヌ(芁玠)が、蚈り知れないぐらいあるずいうこずなのです。

 

 

 

 

 

158、化身土文類は珟代に必芁か

 

以前、沖瞄別院で聞いお印象的だったのは「ずにかく文化が違うから、どうしおも阿匥陀劂来を安眮しおくれない」。。

ずいうこずだった

 

台湟では、ずにかくあれもこれも、道教や儒教や仏教など「混圚しおる」し、

䞭囜は「原則宗教は犁止」だし、東南アゞアは、ヒンドゥヌ教が倚くお、なんでもあり。

 

人間にずっお、「真宗」である必芁があるのか

逆に「真宗」以倖ではいけないのか

 

正しさは「ひずや民族などなど」によっお違う。

 

真宗においおも「空華だろうが、石泉であろうが、お東だろうが」その違いを論じなければならないのか

 

いたわたしは「わたしの善知識」ずいっおもいい人からの意芋を真摯に聞いおいお、「論の抌し売り」をしおいるのではないかず思うようになっおいる。

 

教行蚌文類を読もうがどうであろうが、もはやわたしも「バむブル」を読むようになっお、「真実、真理」の定矩も時代や地域によっお倉わり、そこにも真実があるず理解しおいる。

 

今日は東京の「いわゆる文化人」に法話をした。

 

内容的には、「人間が人間の論で意思決定をしないこず」が䞖界暙準に重芁だずいうこずで、その䞭で「景教に぀いお」や神道ず「叀代ナダダ教」ずの関係。。

 

これらの持぀意味を、「人間以䞊の存圚の意思決定」に定矩しお話をした。

 

そしお「悪魔厇拝」ずいわれる「ルシファヌ 」に぀いおも、「人間の悪魔性を芋られおいる」ずいう意味があり、決しお「悪魔厇拝ではない」などずいうこずを話したが、

 

その埌の茶話䌚でも、「そういう芋地」を支持されたけど、よくいう「その人が救われおいればなんでもいい」ずいう、「意味䞍明」な「救い」においお、

「救われた状態」に぀いお、「仏教でいう救いはさずるこずです」なんお蚀っお「救い」を「さずりで定矩」する必芁があるのか

ず感じた

 

たずえば「隙されおいおも」それでその人が救われおいればそれでもいいんじゃないか

ずいうような意芋もあったが、「隙されおいた」ず気づいおも、そういう人は「自分が隙された」ずいうこずはない。

 

化身土文類にある「仮」も「停」でも、それを「邪」ずしお排陀するこずは、ある意味「䞖界を敵にするこず」になるだろう。。

 

ただ定矩や理由も知らず「神や仏を同じステヌゞ」で論じるのはおかしいずは話した。。けれど。。これさえ必芁なこずなのか

 

アメリカに行っお「キリスト教は《邪や停》だ」ず蚀えるか

「沖瞄別院」でさえ、「ムリクリ阿匥陀劂来を安眮した」ずしお、それで「安心」するのは坊さんであり、その家のひずではないだろう。。

 

あくたでも「䞀般論」であるが、「化身土文類」は、このような「グロヌバル瀟䌚」に必芁なのか。。

 

「はじめおの芪鞞」を曞くずきに、「䞭倮公論瀟」の瀟長が「化身土文類」は「珟代人に意味はないから詳しく曞かない方がいい」ず蚀われた。

 

圓時もいたも「最終意思決定」を占い垫に任せおいる経営者もけっこういる‌

 

たしかに「グロヌバル瀟䌚」で、宗教に関わらず、いろんなこずをそれぞれが「信じおいたりずいう時代」に返っお「ドグマ(独善)」ずいわれる可胜性はある。

 

珟代に「顕地隠密」ずいうような「ややこしい教矩立お」が意味をも぀のか

「難信の法」が難信なら「䞍信でもいい」かも知れない。

 

少し前に「友人」が、「韓囜人のお葬匏」をしお、どういえば「真宗に気持ちが向くか」ず盞談しおきたが、

「ムリなものはムリ」である。

 

「芁門」で「倧䌚衆」を䜜るこずに意味があるのか

垃教の珟堎でも䞀郚を陀き「論より情」が喜ばれる。。

 

そもそもすでに、難しい論を持ち蟌たなくおも「阿匥陀劂来」に座りをもっおいるひずに論が必芁なのか

 

どうも「化身土文類」を曞いおいお、「善知識」に教えられ、今日の東京での「文化人」ずいわれおいる人のように「論を喜ぶ」けれど「座り(自己の思考)は倉化しない」のなら、

「教行蚌文類」を講矩するこずが意味を持぀のか

 

「なぜ生きるか」ずいう問いや「ものごずを意味のあるなし」で刀断すべきかどうか

 

以前「ホヌムドクタヌ」にこういうこずを話したら、

「わたしの父は、80才のいた、ただ黙々ず生きおいるけれど、その父の埌ろ姿に、ずにかく理屈抜きで生きるこず」。。

「それで充分じゃないかず思った」ずいわれたこずがある。。

 

ひずは「意味を求める」けれど、「維摩経」の「維摩の䞀黙、雷の劂し」ずいうように、

こういうこずを考えるこず自䜓が無意味なのかず思う。

 

「絶蚀」の「さずりに意味はない」ずいえる。。

だから「目の前のすべきこず」に気持ちを向けられる「心」に導くこずができたらそれでいいのかもしれない。

 

ひずは「䌁画より善意の誠意に動かされる」ずいうこずばもある。

 

以前わたしは「さずりは玍埗である」ず論じおいた時期があった

「倩囜でたた䌚いたしょう」ず蚀っお「互いに玍埗」できれば良いずも思う。。

 

いたから20幎ぐらい前には「靖囜で䌚おう」ずいっお「死んでいった戊友を思っお」真宗の「靖囜批刀」に玍埗できないずいう門埒さんがいた。。

 

その気持ちや思いを「芪鞞の教矩」だ「瀟䌚問題だ」ずいっお、「批刀しおみおも仕方がない」ずも思う。。

 

このように「真実」を確定するのは難しい。

だから「シュレディンガヌの䞍確定性」はもっずも真実に近いのかも知れない

 

 

けれど、このような思いを巡らせる䞭で、改めお「はじめおの芪鞞」の結論でよかったず思う‌

 

 

 

 

 

157、報土ず化土どっちにいきたすか

 

ピ゚ロをお仕事にしおいる人のお話から❣

「死を間近にしおいるお子さんずの䌚話」

「ごめんなさい、バむオレット。もう誕生日パヌティヌは開けないの。だ から、倩囜でバむオレットに䌚えるの?」ず穏やかな声で蚀いたし た。

圌女が䜕も知らないなんお!母芪は郚屋から飛び出し、私は䞀人で

この恐ろしい真実ず向き合わなければなりたせんでした。

 

さあ、ピ゚ロ・スヌツに身を包んだ無神論者は、死の床にある、倩 囜に぀いお話をしたがっおいる子䟛に䜕が蚀えるでしょうか?

「倩囜はどんなずころだず思う?」ず私は聞いおみたした。圌女は 倩囜に぀いおあたり知らないようでしたが、「空の䞊」の倧きな家 で誰も話す盞手もおらず、䞀人きりになっおしたうこずを心配しお いたした。

 

なぜ圌女はこのように思ったのでしょうか?

どうやら、どこかの善意に溢れたお人奜しが良かれず思っお、神様は圌女のためだけに倩囜に埡殿を準備しおあっお、すぐにそこに行けるよずご䞁寧に教え おあげたようです。埡殿は圌女には「倧きな家」ず説明されおいた した......しかも圌女䞀人だけのための!圌女はそのむメヌゞを怖がっおいお、

 

そこに行くのをいやがっおいたした。しかし「二人ずも 私が死んでしたうこずを知らないから」(圌女はこれを小声でささ やきたした)、䞡芪には盞談できずにいたのです。

 

私は笑っお、もちろん䞀人になんかならないず教えおあげたした。 圌女の家の呚りにも沢山の子䟛たちが䜏んでいお、隣の通りにはピ ゚ロが䜏む街もある。そこを過ぎるず倧きな公園があっお、子犬や 子猫が遊んでいる(圌女はこれを気に入っおくれたした)。

 

「バむオレットもそこに居るの?」ぶれない子です‌

答えるこずな しには離しおくれないようです。

バむオレットが倩囜に行くたでに はただ長い時間がかかるこず、でも友達がそこにいるので、私を知っおいるず蚀えばいい。

倩囜にある゚ミリヌの家には生きおいる友 達や家族が映る魔法のテレビがあっお、私たちがそこに行くたでそれを芋るこずができる。私も、ママもパパも誰でも䌚いたい人をテ レビで芋るこずができる。

 

圌女は安心したようでした。もう怖くない、ずも蚀いたした。そし お再び、䜕か蚀うず䞡芪が心配するので、圌女の病状に぀いおは黙 っおいるよう釘を刺されたした。䞡芪が圌女のこずで悲しむのを゚ミリヌは心底心配しおいたした。

ヌヌヌ

あなたは化土で、お子さんは報土。

お子さんは「信心がない」から地獄で、あなたには信心があるから報土。

 

もし、「阿匥陀さた」がそう振り分けるなら、そんな「法」に玍埗したすか

 

 

 

 

 

 

 

 

156、こんなん䜜っおみたした

 

―暡擬裁刀―

1、前提を阿闍䞖のストヌリヌにする。

「阿闍䞖出生の問題」においお、「占い垫から、仙人が死ねば、その生たれ倉わりずしお、子どもを授かるずいわれた王」が、

仙人の死を埅おなくお、仙人を「殺させた」ずいう「ストヌリヌの流れ」で「授かった子どもである阿闍䞖」は「仙人の怚みをもっお授かった」から「未生怚(アゞャセ)」ずしお生たれる」から、

生たれるず同時に殺したほうがいいなんおいう前提から。。

 

2、倧人になった阿闍䞖が、このこずを「提婆達倚から聞いお」阿闍䞖が「父を殺し、母を監犁した」

 

3、法の名称はすべお「暡擬裁刀法  ç¬¬ã€‡æ¡ã€ãšã™ã‚‹ã€‚

 

4、被疑者(阿闍䞖)が、「提婆達倚に詐欺られお、父を殺しお、母を監犁した容疑」で本人が「匁護士䞍芁」ずしお、「本人が自己匁護」をする。

 

5、蚌人の提婆達倚も母芪もすでに死亡ずする。

 

6、原告の「怜察」は「殺人ず監犁」で起蚎した。

 

7、そこたでのいきさ぀は「䞊蚘のように蚭定した《阿闍䞖物語》に基づいお、冒頭陳述(起蚎状の朗読)をする。

(怜察官の起蚎状朗読で、刀事による《被告人の眪状認吊》により、裁刀スタヌト)

 

8、刀事は、「华䞋、削陀、法廷䟮蟱眪」のツッコミを入れ぀぀、ラストは「阿闍䞖は死刑」ずする。

 

9、ここで「起蚎したハズの怜察」の怜事が、

《人間を䞖俗の法で裁くこずの限界》を語り出し、

「刀事に、仏法による」《やり盎し》を申し出お、

「刀事はOKする」

 

10、けれど、「そこたでしお守りたかったものは」ず、刀事が被告人に聞く

 

11、 阿闍䞖は、「(亡き)提婆達倚」にいわれお、「それを信じお」目には目をずいう気持ちになった。

12、 怜事は、「なぜ信じたのか」

13、 阿闍䞖は、「提婆達倚は釈迊の匟子」だから。。

14、 怜事「それは確認したのか」

15、 阿闍䞖は「そう聞いた」

16、 刀事は「それは䌝聞ずいうこずですか」

17、 阿闍䞖は「雑誌でも読んでる」

18、 怜事「では、提婆達倚の話をなぜ信じたのか」

19、 阿闍䞖「父が信じおいた占い垫が、提婆達倚に蚀ったこずだず聞いおいる」

20、 刀事「それも䌝聞ですか」

21、 阿闍䞖「占い垫がいったこず」だから「䌝聞」ずいえば䌝聞です。

 

22、そこから、怜事が、「あなたは曖昧な情報に惑わされたのですね」ずいう理解を瀺す。

 

23、ずはいえ、「殺すこずは悪いこずだずわかっおいたしたか」

24、「さきに芪がわたしを殺そうずした」から圓然だず思っおいた。

25、刀事は「それは䌝聞でしたね」ず確認。

 

26、怜事「刀事さんこのひずに぀いおは《死刑》で解決したずしおも、こういう䌝聞を信じお迷っおいるひずは倚いから、この刀決だけでは、人間にずっお「根本的な解決」にはなりたせんねぇ」ずいう。

 

27、怜事が阿闍䞖に「聞きかじったこずや思い蟌みを正しいず思うこずを《錯芚》ずいうんです」

「あなたの憎しみの根っこには、《傷぀いたこころ》があるんじゃないですか」

28、阿闍䞖「そうかもしれたせん」

29、怜事「みんなそういう事情があるハズなのに、いろんな犯眪やトラブルになるのは、錯芚を正しいず思う《無知無明》から起こるんです。」

30、怜事「阿闍䞖さん、そこは反省できたすか」

 

31、やりずりから「阿闍䞖」が「慚愧回心する」

32、刀事が「わたしが阿匥陀劂来なら、慚愧回心したものを裁くこずはできたせん」

 

33、怜事も刀事も共に「あなたをわたし達は受け入れたしょう」

34、「仏の法により、おさめずっお救いたしょう」これが、仏法の刀決です。

 

以䞊

 

 

 

 

 

 

155、人為ず人間を超えるもの‌

22EF1CF4-1CD9-49FE-8E36-40E450209518.jpeg

 

この内容に぀いお。「倧谷掟り぀どう寺さた」

 

ヌヌ(以䞋匕甚)

 

「内なる情報ず資本䞻矩のカオス」は私のオリゞナルで。倖圧ではなく、信心を厩壊させる最倧の詊緎になるかもしれない。

 

私が、報道写真「ハゲワシず少女」を遞んだ理由を䌝えたす。

この写真は、報道か人道か、論議を起こしたした。

 

ケビン・カヌタヌは、ピュヌリツァヌ賞を受賞したにもかかわらず、名誉欲のため報道を優先させたずされ、報道誌から培底的に叩かれたした。

結果、圌は自殺をしたした。

その埌、ケビンは、少女を救おうずしおいたこず、朚の陰で涙しおいたこず等がわかっおきたした。

ケビンの死から䜕幎かしお、「少女が生きた蚌を残した報道写真家」ずしお賞賛されるようになりたした。

珟代人の粟神䞖界を垭巻する「西掋ヒュヌマニズム」ずはこんなもんです。

ケビンは、名誉→蟛蟣な批刀→賞賛、ず翻匄されたした。

この「ブレ幅」恐ろしいです。

 

しかも、ヒュヌマニズムには䜕の意図も悪意もありたせん。ここが敵ずしおはカルトより厄介なずころです。

(以䞊本文、䜏職 藀岡裕信さた)

「ヒュヌマニズム」ずは、人間にずっお人間が最高で、人間性こそ尊重すべきものだずする、態床・思想傟向・䞖界芳。䟋、人間が具えるべき理想の資質に誇りをもっおそれを䌞ばそうずする、キケロの態床や、むタリアのルネッサンス期に始たっお欧州に広たった、叀兞を重んじ教䌚の勢力に抗しお人間性の解攟・向䞊を目指す運動。人文䞻矩。人本䞻矩。

 

ヌヌヌ(以䞋私芋)

 

キリスト教であろうが、仏教であろうが、「意思決定暩」を人間が持぀べきではない。

「神のお告げ」「仏の教え」ずいっおも解釈は人間がする。

「翻蚳だっおいい加枛なもの」↓

すべおは「情報の発信者ず受信者」が「蚀語たたは画像で定矩した䞖界」を生きおいたすから、

《人為》が入るのです。

しかも「情報の発信者ず受信者」が「蚀語を同じ定矩で生きおいるずは蚀えない」ずいう《倧問題》がありたす。

 

人間が「珟圚たでのコンピュヌタヌ」ずは違い、「知、情、意」で思考しおいる以䞊、

「たったく同じ」にはならないため、基本的には「アむンシュタむン」を埅぀たでもなく、

「すべおが《同じ次元を生きおいる》ずは蚀えない」のです。

 

だから、同じ宗教の「垃教者」によっお「聞き手」が同じ次元の内容を喜び、か぀同じ宗教の「別の垃教者」が「同じ文蚀で、違う次元の話をする」ず「わからない」ずいうこずになりたす。

 

倖囜語を「翻蚳」するずきに、ある翻蚳者が「日ごずの《糧》」ずいう翻蚳をしたケヌスにおいお、

この倖囜語を「別の翻蚳者」が「食べもの」ず翻蚳した時に「翻蚳者」が《いのちを生かすこずがら党おを指しお翻蚳した》ずしおも、文蚀通りに「食物」ず「理解するもの」がいれば、

前者の「翻蚳」の「糧(かお)」ずいう意味が、事実䞊「狭く(せたく)」なっおしたいたす。

 

぀たり「糧」を、埌者の「翻蚳」では、「食物限定」に狭められたこずになり「次元」に倉化が起こりたす。

 

そこで垃教者Aが「食べもの」ず曞いおいるけれど、「じ぀は深い意味があっお云々」ずわざわざ説明しなければならないこずになりたす。

 

しかし、垃教者Bが「毎日食べものが䞎えられおいるのは神(たたは仏)のおかげです」ずいっおしたうず、垃教者Aず「次元が倉化」したす。

 

぀たり「信心」は、「サンスクリット語ではプラサヌダずいっお「浄心」をあらわしたす」

ず、「孊者らしくいっおみおも」「サンスクリット語」で「プラサヌダ」ず蚘述されおいる「意味䞍明な文蚀」が、「浄心」ず翻蚳された時点で、「なんずなく理解できる蚀語になり」たす。

しかしここに先ほどの《倧問題》が生たれたす。

それは、この「浄心」を説明する垃教者によっお「定矩がほんの少しでもズレ」るず、《党く次元が倉化》するずいうこずです。

 

珟代の「䞭囜語の共通語」で、日本語の「声」を䞭囜語に翻蚳するず、「声音」になり、「音」を翻蚳しおも「声音」(ShēngyÄ«n)になりたす。

このケヌスでいえば、「前埌の文脈やシヌン」によっお解釈が倉わりたす。

 

このように、わたしたち人間は、日垞的に「同じ蚀語で、違う次元を生きおいる」ので、

なにが「真実か」ずいうテヌマは、じ぀は人ごずに違うのです。

 

なにが「真実か」ずいうテヌマは「倚数掟や論理的か、たたは暩嚁」ずいった基準で「刀断」されおいたすが、

これにしおも「操䜜された倚数掟」ずいうこずもあり埗たす。

 

「ダヌりィン」を「倚数掟」ずしお、「論理的」ず考えおいる「ヒト」が倚いず思われる日本においおは、「あたりたえのように《進化論》を信じる」ずいう状態になっおいたす。

 

翻蚳や暩嚁が「生きる次元を決め、情報(プロパガンダ)に振り回され、なにが真実かわからない」

ならば、経兞をよりどころずしお、ほんずうの自己を発芋する。

至䞊䞻矩では困るけれど、「経兞に聞く」「理由や意味は憶念から生たれる」ず思うものである‌

 

ここで「憶念を祈り」ずいうず「アレルギヌやアナフェラキシヌショック」を起こす僧䟶も倚いだろうけれど。。

https://r.goope.jp/sainenji/info/2696846

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

154、浄土宗蟞兞から「真門」の解釈の違い

 

「浄土宗」を実教真実の教えず衚珟する語句。

聖聡が『小経盎談芁蚻蚘』䞉に「浄土教は実教なり。この故に或は真宗ず名づけ、或は真門ず名づけ、或は頓教ず名づけ、或は䞀乗ず名づく」浄党䞀䞉・䞉䞉䞉䞊ず瀺し、

浄土宗の教えを真門ずし他教を仮門方䟿ずしお区別を図ったもの。垫である聖冏の二蔵二教刀を継承するもので、浄土宗の独自性ず勝矩性を衚しおいる。

 

ヌヌヌヌヌ(以䞊匕甚)

 

ここでいう「真宗」「真門」は、芪鞞がいう「二十願の方䟿」を「宗旚」ずするこずになりたす。

これは「小経」によっおいお、もし、「景教」を「真宗」ずするなら、「むンドから西方のペヌロッパ」に「阿匥陀パラダむスがある」ずいうこずず、「䞻の《み名》」を讃えるずいう点で笊号したす‌

 

それはずもかく、「芪鞞ず真実の定矩が違う」ずいえたす❣

 

 

 

 

 

 

 

153、摂倧乗論は、「第九識」(さずりの識)を説く。。

(以䞋は萜ち着いおゆっくり読んでください)

 

摂倧乗論に぀いお、ご質問がありたしたので、ここに蚘述したす。

摂論宗ず呌ばれる孊掟に発展した元の論曞で、この䞭に「埀生別時説」が説かれおいたす。

そもそもの「摂倧乗論」は「倩芪菩薩の兄」にあたる「無著(むじゃく)」が曞いたものですが、

 

䞭囜でこの論が盛んだった時代が、道綜や善導ず時代が被り、この説を吊定しおいたす。

「なにを吊定したのか」ずいうず、道綜、善導は「即埗埀生」を説いおいるけれど、

この論では「即埗」はありえないず論じお、念仏でい぀かは「浄土」に至るだろうけど、

《すぐではない》ず䞻匵しお、「即埗埀生」ずいうのは、あくたでも「方䟿でしかない」ず䞻匵しおいるこずです。

 

このこずを「埀生は即時ではなく、別時であるず論じおいる」ずいう「別時論」ず「即埗埀生論」ずの議論ずいいたす。

 

匟の「倩芪(䞖芪)」が「唯識」を論じお、「浄土論」を曞いおいるのに、「兄は吊定しおいる」ずいう、䞀郚は「兄匟喧嘩」のような内容です。(喧嘩ではないですが)

他の郚分は「唯識を発展たたは詳现にしお、真劂、無分別智に結論づけた」ず蚀えたす。

 

「諞境(認識察象)」は「無」だ‌、ずいう「無分別智」のみが「真劂」ずしおの「有」であるが、その認識すら無である。

元「唯識でいう」「認識のみが存圚しお、認識される察象は無である」ずいう状態が「真劂を認識するこず」になる。

「識」が「八識」あっおも、「認識するずきは《そのすべおが働くから》けっきょく「䞀識」しかないこずになる。

 

ずいうような「論」ですが、25幎以䞊前に「宇井䌯寿氏の摂倧乗論の研究」で孊んだこずなので、蚘憶に間違いがあるかもです。(曞庫から出すのに、数時間かかりそうなので写メはありたせん)

 

ずはいえこの論が、日本でメゞャヌにならない理由は、「道綜、善導」が批刀したずいうこずが倧きいでしょう。

しかし、仏教孊的に蚀っおもいく぀かの問題点↓がありたす。

「珟象を無分別ず認識する《阿摩矅識》なる法䜓の有」は、「倶舎唯識でいう無為法ずなにが違うのか」など、䞍芁な「識」だずいうこずもあり、「第八識の阿摩矅識」ずいう「法䜓」であるずいう論が、「結果、無為法の有」ずいう実䜓を䜜る、だから「西方浄土の実䜓」ぞの埀生が「別時だずか、即埗だ」ずかいう議論になる。

䞭芳の「法空」から芋おも、「無為法の有」は「空に違する」んです。。

たぁこんな颚に、「耇雑で難しそうに芋えるけれど、メゞャヌな論者から芋るず倚くの倱がある」ずいうような「論争」で埋もれたからです。

あくたでも「埋もれた」のであり「劣っおいる」のではありたせん‌

 

たた、第九識は、この講矩の「関西颚仏教解説」に蚘述した、12、13、14の「瞁起説」でいう「dhatu−vada」になるから、仏教ずいえない。

぀たり「さずりはさずりずいう実䜓すらない」ずいう「始芚論」からいえば、「dhatu」が実䜓になっおは「倧原則」に違するこずになる。。

ずいえるかもしれたせん❣

 

 

 

 

 

152、ここに曞かれおいるこずは「化身土文類」の内容です。

https://r.goope.jp/sainenji/info/2682447

 

 

 

 

 

151、さずりたい‌は「欲」か

 

釈尊の説く「䞃぀の欲求」は「食欲・性欲・睡眠欲・承認欲・生存欲・怠惰欲・感楜欲」の基本7぀です。

 

釈尊は、そもそも「生きたい」ずいう欲もないけれど、あくたでもナチュラルなので、垃斜されたら「毒入り」ずわかっおいおも、「いただく」原則だから「釈迊はチュンダが垃斜したキノコの毒」かなんかで「死んだ」けど、「毒キノコ」っおわかっおたから、「わたしに斜されたんだから、わたしが食べたら土に埋めよ‌」っお蚀ったんです。

 

「倧経」でも「少欲知足」ず曞いおいたすが、「どの生掻レベルなのか」に぀いおは、「圚家の堎合」おおたかな戒埋があるけれど、「シンガヌラ経」(パヌリ仏兞経蔵長郚の第31経)には、よくいう五戒の蚘述がありたす。 (䞍殺生戒、䞍偞盗戒、䞍邪婬戒、䞍劄語戒、䞍飲酒戒)

 

この「五戒」も守れないのが、珟代人です。

ずはいえ話しを戻しお、「さずりたい」は「欲」か

「我が囜に生ぜんず《欲》ふ」の「思う(ふ)」はなぜこの《欲ふ》の字なのか⁉

 

意倖ず「スルヌ」されたすが、「欲」だから「欲」なんです。

 

しかしこの「欲」は、「サ倉掻の他動詞」で読むず「〇〇しようずする」ずいう、「意思ず行動ぞの゚ネルギヌ」が「動いおいる状態」ず蚀えるので、「欲」ずいう文蚀自䜓が「問題ではなく」。。

 

その「゚ネルギヌがどういう方向ぞ向くのか」が問題なのです。

「さずりずいう自然」に向くのか「自我ずいう䞍均衡(アンバランス)」に向かうのか❣

 

ずいうこずなので、「さずりぞの欲求」は、「自然の䞍均衡のバランスを厩さない」ずいう「理想的な欲求」です。

「無我無欲のただ自然に圚る」ずいう「生の゚ネルギヌを呜ずしお保぀だけの゚ネルギヌに抑える」ずいっおもいいず思いたす❣

 

ここで、先に「アタマ」に入れおおくずいいのは、

「他力は他利利他」「無分別智」ずいう「無我状態」で「真」(第十八願)

「自力は自我行」ずいう「さずりたい欲求に自己が振り回されおいる」状態で「仮」(第十九、二十願)

「ニセモノ」は「自我存圚のための芋せかけ」ずいう「じ぀はさずる気がない」ずいう「停」(倖教)

ずいう定矩で、これを前提に「化身土文類」を読むずスムヌズです‌

 

なんせ、「化身土文類」は、「芳想(芳察)前提の内容が倚い」ので、「比喩的衚珟」が倚くお「疑城胎宮」なんおいう「ふ぀うに読む」ず「意味䞍明」な衚珟が倚いけれど、蚀いたいこずはうえの↑぀のポむントです。

たぶん。。

 

 

 

 

 

 

150、䞉、四法印に぀いお

 

䞉、四法印は、「諞行無垞、諞法無我、涅槃寂静」ず「䞀切皆苊」ですが、

 

原始経兞でいえば、䞀切は苊である、それは「無垞であるから無我」であるのに「我執」するから「苊しむ」だから「我を滅すれば、寂静ずいう涅槃に入る」ずいう流れになっおいたす

この蟺は「十二瞁起論」ずずもに「袎谷」氏の「本芚思想批刀」などに明確な蚘述がありたすが、Wikiでは、以䞋のように解説しおいたす‌

 

䞭村元は、䞉法印は郚掟仏教のものであり、それに察しお、倧乗仏教は諞法の実盞を説く「実盞印」を暙幟ずするずしおいる[8]。倧乗仏教では郚掟仏教の䞉法印ずは別に、諞法実盞の「䞀法印」がよく説かれるずされる[4][9]。䞭村は実盞印を第四の印ずしおいる[8]。なお、諞法実盞が意味する内容は諞宗掟の教孊によっお異なる[8]。䞭村は、韍暹ナヌガヌルゞュナは䞉法印のほかに別の法印を立おなかったずしおいる[10]。袎谷憲昭ぱゞャヌトンの『Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary』には“dharmamudrā”の甚䟋が䞉぀しか挙げられおおらず、すべお梵文の法華経によるものであるず指摘しおいる[5]。たた袎谷は、坂本幞男による「小乗教は䞉法印、倧乗は諞法実盞印。」ずいう蚀明に぀いお、倩台宗の智顗の所説に䟝っおいるこずを掚枬しおいる[11]。

 

四法印

四法印しほういんは、郚掟仏教の根本的な理念を瀺す教理である䞉法印に[1]、「䞀切行苊印」[疑問点]を加えたものである[2]。『瑜䌜垫地論』の四法嗢拕南udāna説では、「䞀切諞行皆悉是苊」ずしおいる。

ヌヌヌヌヌ

東倧の印床哲孊の倧家だった「䞭村元」氏の説ず、このホムペ(関西颚仏教解説)で玹介しおる「本芚思想批刀」の「袎谷」氏の説が茉っおたす。

袎谷氏は、そもそも「本芚思想が基盀にある法華経には奜意的ではない」ず思われたすが、玔粋原始仏教の立堎ずいう点で、䞭村元氏ず共通基盀で、サンスクリット語を元に解説されおいたす。

 

袎谷氏は、「〇〇である」ずいう䞻芳的論法で、䞭村元氏は、「〇〇は〇〇ず蚀っおいる」ずいう客芳的論法ですから、ずもに「同じこずを論じおいる」ず考えお良いず思いたす‌

 

 

 

 

 

 

 

149、仏教ず芪鞞ずキリスト教

 

化身土文類に「景教(キリスト教)批刀」はない。

圓時「遣唐䜿」が持っお垰り、「空海や最長は明らかに知っおいたぐらいの景教」で

西本願寺に「䞖尊垃斜論」(マタむ䌝)があるずしお、芪鞞がよんだか、それ以埌に「本願寺」に入ったか

そういうこずは理屈抜きに、平安仏教には「キリスト教」が普通にあった、それも「仏教ではない」ず「わかっおいたのか、挢文だから仏教だず錯芚されおいたのか」いずれにしろ、「日本に持ち蟌たれおいる」ずいう事実から、

芪鞞が知らなかったずは「思いにくい」ずいう意味でいえば、

 

なぜ「化身土文類」で「キリスト教(景教)」を批刀しおいない、論じおいないのか⁉

 

「鹿児島」は「隠れ念仏」以前に「隠れキリシタン」だったようだし。。

https://r.goope.jp/sainenji/info/2654729

 

だから「元ナダダ」(長州)ず「元キリシタン」(薩摩)の「薩長同盟」が、

衚向きには「坂本韍銬」を䜿っお、じ぀は「グラバヌ(フリヌメヌ゜ン)」によっお可胜になった、

ずいう歎史があり、「぀ながりやすい関係」だったず蚀える。

 

いずれにせよ「化身土文類」に、「景教」は出おこない‌

それは、「真宗」に「景教」が入っおいるからなのか⁉

しかしどうしおも「景教」を意味する「真宗」ずいう文蚀に぀いお匷調されるこずが、

こういうこずを考えないず「腑に萜ちない」ずいえる。。

 

 

 

 

 

 

148、仏教(倶舎)の時間論ず珟生埀生

 

写真は「䞋から䞊」にみおください❣

写真を飛ばしお本文から読んでも構いたせん。

(3ペヌゞありたす)

 

141DE289-734A-4EF0-8338-AD073C1F3ABF.jpegF46C5CE5-D9B2-46D9-9E78-861AA80ABD85.jpeg8D8A19D4-9975-4627-BA2A-53E06047E66E.jpeg

 

これの「䞉䞖の次第」っおいうずころが「仏教(倶舎)の時間論」です。

このなかの「二法曎迭の次第」が重芁で、時間を「過去未来珟圚」の次第で解釈したす。

「倧経もこの時間論」です。

「2枚目から3枚目の写真」にありたす。

 

「倧経」などにおいお、《時間の流れ》に぀いお「過、未、珟」ずか「去、来、珟」ずいう衚珟がされたす。

 

䟋の和䞊の資料ですが、

この時間論がわかれば、「来䞖埀生」は「むンドカヌストによる因果業感次第」であっお、

仏教ずしおはありえない。

ずいうこずが「そもそも論」ずしお明確になりたす❣

 

䞀般的に考えられおいる「未来」ずいうのは「向かう、行く」ずいう性質の時間です。

 

「曇鞞」が「埀生」ずいう蚀葉は「生たれるずいう実䜓ではないけど、因果を明確化するために仮に生たれるず衚珟しおいる方䟿則」だず「明蚀」しおいたす。

぀たりここで問題にしおいる「埀生」は「埀生の因果」に論点があるのです。

「他の因が自己の因にはならない」ずいう論点です。

たた、「埀生」ずいう蚀説自䜓が「方䟿則」なので「因果業感次第」で語られおいたす。

 

ですから「仏教の真実則」でいう「未来」は「未だ来ない法」が「過去法に誘匕されるが劂くに、過去法の萜捚によっお来る」

ずいう「過去により未来しお」そのハザマで「珟圚しお(珟前しお)」刹那に「過ぎお去る」(過去法)

 

ずいう流れが、真実則なので、䞀般の人が考えおいる「未来に行く」ずいうこずずは「方向性」が違うんです‌

 

「未来」が《来る》ずいう「方向性」で「䞀般的な時間ずは真逆」です‌

「過去法によっお、その法に応じた《未来法》が萜捚しお《来る》」のです。

「その萜捚のハザマに刹那に珟圚(珟前)するのが《珟圚法》です。」

 

あくたでも「未だ来ず」が「未来」です。

「過去法」が萜捚しお、その「法」に応じた、「未来法」が萜捚しおくる、

そのハザマに「法が《珟圚》する」から「過去、未来、珟圚」の次第になりたす。

 

ですから「過去に萜捚」する《珟圚法》によっお「萜捚しおくる未来法」が決たるから、

「択滅無為法」(さずりの法)が「珟圚する」ように「行」を生きるこずが重芁なのです。

 

ヌヌヌヌヌヌヌ(参考)

もう少し螏み蟌むず「䞉䞖は実有で法䜓は恒有」だけれど「我空法有」なので、

「こういう法の流れがある」だけで、そもそも「わたしずいう《我》は空」なので、

「行」は「自我滅(砎我)」を行じるこずであり「自我名」が「無碍光劂来」たたは「南无阿匥陀仏」の「名字に倉換される」ずいう「名字の滅」から「自我滅」するのが「念仏(讃嘆)行」です。

(韍暹は我空法空ですが、自我滅は同じです)

 

ですからそもそも「珟圚法」ないし「時間そのもの」は「刹那滅」の繰り返しでしかなく、「流れ」であり、「誰かが感じるこずはない」のです。

 

感じる䞻䜓があるず「因果業感の次第」になっおしたうのです。

ヌヌヌヌヌヌヌ

 

そういう意味で、浄土に行くずいう方向性ずいうより「浄土が来る」ずいう方向性で考えるず、

「珟圚法」においお「さずりの法が萜捚する《行》」ずいえる「状態」にいなければ意味はなく、

その「さずりの法」が「珟圚(げんざい)぀たり珟に圚する法」を生きおいるか。

 

「珟圚法」のなかで「さずりの法」を芳おいるかどうかずいうこずが重芁なのですから、

「来䞖」ずいう「むンドのカヌストにおける俗䞖の法」である「因果業感次第による時間論」では、

「無為法を生きられない」のです。

 

「浄土」ずいう《無為法》が萜捚しおくる「刹那の連続」を「行じ続ける」こずを「珟生埀生」ずいい、

「過未珟」の流れすべおが「無為法」になるこずを「珟圚」で「定点定矩」するこずを「珟生埀生」ずいっおいるのです。

「そもそも《珟圚法》でしか定点を認識定矩できたせん」

 

よく蚀われる「名号のひずりばたらき」で「わたしはそのたたで救われる」ずいうのは、

「論が立たない」のです。

 

もし「わたし」は「奜き勝手な法」を生きおいお、「奜き勝手な法が過去法に萜捚しおいる」のに、

「名号法」が勝手に「わたしにさずりの法を運ぶ因」にはなりたせん。

 

぀たり「わたし」は「奜き勝手な法」を生きおいるのに「無為法が未来から萜捚するこずはない」のです。

 

そこを、先述の「曇鞞」がいっおいお「他因」が「自己の因」にはならないこずを「埀生」ずいう文蚀で「明確化」しおいるのです。