✍️唯識論分けときますね❣️

30/12/06[3–4]

 

ここで少し「唯識論」に触れます。

これを記述しないでおこうか、「補足」に載せようか考えましたが、

やはり、「方便」を知るためには、あえて知っている方がいいと判断し、また、現代人ならこれを知っていただく方が「教行証文類」の理解には重要だと考えました。

 

また、この「唯識」は、天親が大成した論であり、「浄土論や論註」を中心とした「行信論」において、

これを知ると知らないでは、「真宗理解」に大きな差が出るからです。

 

「世尊我一心」の「一心」理解にも影響し、

「真如、如来論」や「仏の智慧」「荘厳功徳」「五念門五果門」

「法蔵《因位に果位名号が含まれる》という因果の同時」などなどの

意味が明確になります。

 

 

(wikipedia「唯識」から、重要なポイントを訂正しつつ掲載します。)

 

唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である[1]。

いわゆる、心といっている外に「もの」はない。

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起、

つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。

 

唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。

これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という。

また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。

他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子《倶有の種子(くゆうのしゅうじ)、後述》が存在するからであると唯識では考える。

 

阿頼耶識と種子のはたらき

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、

その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。

これを薫習(くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる《現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ》という。

 

このため阿頼耶識を別名「蔵識」、「一切種子識」とも呼ぶ。

阿頼耶識の「阿頼耶」(ālaya)は「蔵」という意味のサンスクリット語である。

 

さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ《種子生種子》。

 

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識(自我を私と認識する識)や意識(通常の認識)に作用することがある。

 

さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。

 

この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。

 

これが思考であり、外界認識であるとされる《種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう》といい、

このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。

 

この、

☆【現行薫種子→種子生種子→種子生現行】☆

これら「三法転展の因果は同時」であるとされる。

☆「三法転展因果同時(読み、さんぽうちんでんいんがどうじ)」

 

最終的には心にも実体はない。

 

このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す《刹那滅》なものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。

 

このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、

すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、

「空」であり、実体のないものである。

しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。

 

これは「唯心論」とは異なる。

なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその実在性も否定されるからである《境識倶泯》(きょうしきくみん)という。

 

単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗)・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。

 

唯識思想の特色

 

仏教の中心教義である無常・無我を体得するために、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である。

 

『般若経』の空を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする。

 

成立と発展

 

唯識はインドで成立、体系化され、中央アジアを経て、中国・日本と伝えられ、さらにはチベットにも伝播して、広く大乗仏教の根幹をなす体系である。倶舎論とともに仏教の基礎学として学ばれており、現代も依然研究は続けられている。

 

識の転変

 

唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心のもつイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。

 

これを『華厳経』などでは次のように説いている。

 

又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。

十二縁分も是れ皆な心に依る。

(又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心)

 

— 大方廣佛華嚴經十地品第二十二之三

 

識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、

経に唯心という。

分別了達の根本であるから論に唯識という。

あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。

論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。

識は了別の義であり、

【因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定している】のである。

意味的には二つのものではない。『二十論』には、心・意・識・了の名はこれ差別なり、と説く。 

(識者心也。由心集起。綵畫為主之根本故經曰唯心。分別了達之根本故。論稱唯識或經義通因果總言唯心。論說唯在因但稱唯識。識了別義。在因位中識用強故。說識為唯。其義無二。二十論云。心意識了。名之差別。)

 

— 慈恩大師 大乘法苑義林章卷第一[3]

その心の動きを「識 (vijñāna) の転変 (pariṇāma)」と言う。その転変には三種類あり、それは

 

異熟(いじゅく) - 行為の成熟

思量(しりょう) - 思考と呼ばれるもの

了別(りょうべつ) - 対象の識別

の3である。識の転変は構想である。

それによって構想されるところのものは実在ではない。

したがってこの世界全体はただ識別のみにすぎない。

 

第一能変

異熟というのは、阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、あらゆる種子 (bīja) を内蔵している。

感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。

感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。

感触その他もまた、同様である。

そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」

 

第二能変

末那識 (mano nāma vijñāna) は、阿頼耶識にもとづいて活動し、

阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。

末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。

我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。

 

なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。さらにその他に感触などを随伴する。

 

この末那識は自我意識と呼んでもよい。つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。

 

この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓(ざんさ)

やはり種子として阿頼耶識に薫習される。

 

第三能変

了別とは、第三の転変であり、六種の対象を知覚することである。

 

六識は、それぞれ眼識が色(しき、rūpa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。

そしてこの六識もまた阿頼耶識から生じたものである。

そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、

我々が意識の分野としているもので、

阿頼耶識は「無意識」としているものである。

 

これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、同時に後二者の活動の余習(余勢)が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。

 

識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。

その際に、阿頼耶識に余習(余勢)を残す。

それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、

「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。

 

三性

このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。

 

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita)

 構想された存在 凡夫の日常の認識。

依他起性(えたきしょう, paratantra)

 相対的存在、他に依存する存在

円成実性(えんじょうじっしょう, pariniṣpanna) 

 絶対的存在、完成された存在

 

このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。

 

遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当し、存在せず、空である。

 

舎利弗、仏に言(ことば)を白(もう)せり。

「世尊。諸法の実相、云何(いかん)が有なるや」

仏言わく。

「諸法は有る所無し。是の如く有り、是の如く有る所無し。是の事を知らざるを名づけて無明と為す」

 

— 摩訶般若波羅蜜経相行品第十

 

依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである。

 

このように物事は、阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば、識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である。

 

☆【名字は是れ因縁和合の作れる法なり。】☆

《但だ分別憶想》、【仮名を説く】。

是の故に菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず。

見ざるが故に著せず。

— 摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二

 

名字ということは「無量寿経」専売ではありません。

十二縁起の「名色」の名でもあります。

 

円成実性は、【仏の構想】であり、絶対的存在とも呼べるものである。

これは依他起性と別なものでもなく、別なものでもないのでもない。《依他起性から、その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である。》

 

復た次に舎利弗。菩薩摩訶薩、諸法の如・法性・実際を知らんと欲さば、当に般若波羅蜜を学すべし。

— 摩訶般若波羅蜜経序品第一

 

以上の如く、般若経の段階では三性としてまとめて整理記述しているわけではない。

時代を下って『解深密経』(玄奘訳)を待って初めて、諸法に三種の相があると説く。

 

これは法が三種類あるということではなく、法は見る人の境地によって三通りの姿かたちが顕れているということである。

 

謂く、諸法の相に略して三種有り。

何等か三と為すや。

一者は遍計所執相、二者は依他起相、三者は円成実相なり。

 

云何が諸法の遍計所執相なるや。

謂く、一切法の名、仮安立の自性差別なり、乃至言説を随起せ令むるが為なり。

 

云何が諸法の依他起相なるや。

謂く、一切法の縁の生ずる自性なり。則ち此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずる故に彼れ生ず。

謂く、無明は行に縁たり、乃至純大の苦蘊を招集す。

 

【云何が諸法の円成実相なるや】

謂く、【一切法平等の真如なり】

此の真如に於て諸の菩薩衆、勇猛・精進を因縁と為すが故に、如理の作意・無倒の思惟を因縁と為すが故に、乃ち能く通達す。此の通達に於て漸漸に修集し、乃至無上正等菩提を方(ま)さに証すること円満なり

— 解深密経一切法相品第四

 

相は性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されるようになる。

 

三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。

つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。

また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、

第三の円成実性である。

そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。

その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。

これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。

 

しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。

認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。

なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。

 

それは心が無となり、感知が無となったのである。

それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。

 

これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。

 

修行の階梯

唯識では成仏に三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれるとてつもなく長い時間の修行が必要だとされる。

その階梯は、資糧位(しりょうい)、加行位(けぎょうい)、通達位(つうだつい)、修習位(しゅうじゅうい)、究竟位(くきょうい)の五段階である。

 

【転識得智】

修行の結果悟りを開き仏になると、8つの《「識」は「智」》に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。

 

前五識は成所作智(じょうしょさち)に

意識は妙観察智(みょうかんざつち)に

末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に

阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。

転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。

 

唯心と唯識

 

「華厳経」では「唯心」という。また「唯識論」では「唯識」という言い方をする。その違いは何であろうか。

 

『華厳経』では、「集起の義」について唯心という。

『華厳経』は、《覚った仏の側》から述べているので、すべての存在現象が、そのままみずからの心のうちに取り込まれて、全世界・全宇宙が心の中にあると言うのである。そこで、すべての縁起を集めているから「集起の義」について唯心と言うのである。

 

唯識論では、「了別の義」について唯識という。

 

「教行証文類の219ページの7行目の《了教》という表現もこの義であると考えられるのです。」

 

唯識では《凡夫(われわれ普通の人間)の側》から述べているので、人間のものの考え方について見ていこうとしている。

すべての存在現象は人間が認識することによって、みずからが認識推論することのできる存在現象となりえているのであるから、みずからが了承し分別しているのである。

そこで「了別の義」について唯識というのである。

心ではなく、識としているのは、それぞれの了別する働きの体について「識」としているのであって、器官ではない。

器官は存在現象(縁起)しているものであるからである。

 

しかし、唯心といっても、唯識と言っても、その本質は一つである。

 

詳しく分けて論ずれば、「唯心」の語は、修行する段階(因位)にも悟って仏になった段階(果位)にも通じる「因果不二」

 

しかし、「唯識」と称するときには、人間がどのように認識推論するかによるので、悟りを開く前の修行中の段階(因位)のみに通用する。「唯」とは簡別の意味で、識以外に法(存在)がないことを簡別して「唯」という。

「識」とは了別の意味である。

了別の心に略して3種(初能変、第二能変、第三能変)、

広義には8種(八識)ある。これをまとめて「識」といっている。

 

識と存在

 

唯識といって、以上のように唯八識のみであるというのは、一切の物事がこの八識を離れないということである。

八識のほかに存在(諸法)がないということではない。

おおよそ区分して五法(五種類の存在)としている。

(1)心、(2)心所、(3)色、(4)不相応、(5)無為である。この前の四つを「事」として、最後を「理」として、《五法事理》という。

 

心(心王, citta) - 識それ自体。心の中心体で「八識心王」ともいわれる。

心所 (caitasika) - 識のはたらき。心王に付随して働く細かい心の作用で、さらに6種類に分類し、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定(ふじょう)とし、さらに細かく51の心所に分ける。心所有法、心数法とも訳される。

色 (rūpa) - 肉体や事物などのいわゆる物質的なものとして認識される、心と心所の現じたもの。

不相応行 (viprayukta-saṃskāra) - 心と心所と色の分位の差別。心でも物質でもなく、しかも現象を現象たらしめる原理となるもの。

無為 (asaṃskṛta) - 前四法の実性。現象の本質ともいうべき真如。

 

さらに心を8、心所を51、色を11、不相応行を24、無為を6に分けて別々に想定し、全部で百種に分けることから、五位百法と呼ばれる。なお倶舎論では「五位七十五法」を説いており、それを発展させたものと考えられる。