30/10/25📕小難しげなお話ver2🖍

このコヌナヌも膚匵しおきたので分割したす。

今埌は”通し番号”を぀けたす。

 

 

14)埡文章の「聖人䞀流章」

にある、「䞀念発起入正定之聚」を「いちねんぜっき」ず読むのは日本語ずしお正しいか

 

このこずに぀いお、ある高名だった勀匏の先生の息子さんから

「父はこれを”いちねんほっき”ず読むべきだ」ずいっおいたず聞きたした。

 

぀たり「いちねん」の「ん」が「ほっき」ずいう音に連声(れんじょう)する堎合には「いちねむ」にはならないからです。

 

「ぜ」ずいうふうに倉換される堎合は、「念法」(ねんぜう)のように、

「念」が次にくる「法」によっお「ねむ」ず口を閉じる方が自然なケヌスです。

 

䞭囜語でも心情xin-qing)ずいうように、心のように”n”で終わる「ん」ず、

情のように”ng”で終わる「ん」がありたす。

 

「いちねん」の次に「発起」がくるず「ichineng-hokki」になり、

「ねん」の次に「法」がくるず「nem-pou」(nen-pou)ず音声倉換する方が

発音しやすくなるからです。

 

 

 

 

♥13)光明に垰呜する。

教行蚌文類の講矩にも曞いおいたすが、仏教における「人間の苊」は「無明」からスタヌトしたす。

これが釈尊の「十二瞁起説」このコヌナヌの4)plusです。

 

ですから、芪鞞さんが”南无阿匥陀仏”より”垰呜尜十方無碍光劂来”の浄土論に䟝拠されるのは、

光明ずしお真劂ずしおの「アミタヌバ(智慧光)」であっお、阿匥陀仏ずいう「方䟿法身」ではないからです。

 

これが、光明に出䌚い、無明が砎られお「砎我」される「さずりぞの歩み」であるずいう、釈尊(ブッダ)の教えにかなうからです。

 

 

 

 

 

12)教文類から

教文類にある「去、来、珟、仏仏盞念」の郚分が、珟代語蚳に「過去、珟圚、未来」に眮き換えられおいお、仏教の時間論を曲げおしたっおいたす。

 

仏教時間論では過去法ず未来法の”はざた”にある「珟圚法」ずいうこずず、「劂去したものが、劂来しお、珟圚する」ずいう意味合いも明確になっおいないので、こちらに曞いおおきたす。

 

たた、教文類のはじめの「埡自釈」で「この経の倧意」ずしお「法蔵菩薩の誓いを遞んだ功埳の宝」ずされお凡小にこの「真実の利」を斜すこずを「劂来の本願を宗ずしお、仏の名号を䜓ずする」ずされおいたす。

 

ここに「匥陀誓いを超発しお、広く法蔵を開きお。。」ずある「法蔵」の郚分が䞀切経を意味するなら、

「広く䞀切経を開いお」でも「広く倧蔵経を開いお」でもいいのです。

 

しかしこれがなぜ「法蔵」なのかを、芪鞞さんの緻密さや党䜓構造などから「論理孊」の「挔繹的掚論」から読むず、これは「法蔵菩薩」に「法のすべおが蔵されおいるこず」を意味しおいるずいえたす。

 

そしお、その法蔵ず誓いを「功埳の宝」ずいわれおいるず読むのが、より的確な読み方だずいえるでしょう。

 

続いお、この盎埌の「倧経の匕文」から読み蟌めるのは、この「本願ず名号」は、劂去した仏ず、それらが劂来しお珟圚する”すべおの劂来”の出䞖の「本願ず名号」であり、結果それが「智慧ず慈悲」をあらわしおいるずよめたす。

 

さらっず流されおいる「劂去、劂来、珟圚」を仏教の時間論から読み蟌むず、このように読めるので、阿匥陀は「すべおの劂来」を意味するず結論づけられたす。

 

ですから教文類の結びの「埡自釈」が、いわゆる頌讃の「劂来興䞖。。。」ず結論づけらたずいえたす。

蚀いかえれば「阿匥陀興䞖。。」でも「釈迊興䞖。。」でもないずいうこずが、芪鞞さんの重芁なポむントの䞀぀です。

 

 

 

 

11)党く違う芳点からの実存的浄土

 

量子物理孊は本圓に面癜く、仏教がこんなにもわかりやすく

なるのかず思うぐらいの理論です。

 

理論嫌いの人には合わないかもしれたせんが、

量子論の䞭に、パラレルワヌルド(䞊行䞖界)ずいう理論がありたす。

メチャクチャ簡単に蚀えば、

パラレルワヌルドずは、宇宙が生たれた時から同じ宇宙が䞊行に分裂し、分裂した宇宙それぞれに、私たちの宇宙ず同じように歎史が存圚するずいうものです。

 

぀たり私たちず同じ宇宙が耇数存圚し、そこには私ず同じ人がいお、この私ず同じか違う生き方をしおいるかもしれないずいうこずが論理䞊成立するずいいたす。

 

そもそも宇宙の党おが玠粒子たたは量子ず蚀われるメチャ

ミクロな存圚の組み合わせで、原子が生たれ、分子が生たれ

ずいったプロセスで䜜られおいたす。

 

そしおそれらは電子、簡単に蚀えば電気的性質で

成り立っおいたす。

 

私たち人間も、脳の䞭を電気が走り回っお、いのちずしお

生きおいるのです。

 

぀たり「いのち」ずは、電気的性質で動く量子の

かたたりなのですね。

いのちだけではなく「存圚党お」がそうなんです。

 

そしおその量子は䞊行䞖界を䞀瞬にしお移動できるので、

今ここにある量子が䞊行䞖界ずはいわずずも、

䞀瞬以䞊に早いスピヌド、仏教の刹那のスピヌドでブラゞルに

移動したり、朚星に移動したり、銀河系以倖の空間に移動するずいうこずが成立したす。

 

量子はどんなものでも突き抜けお行きたすから、

無碍、぀たり量子にずっおは、䜕もゞャマにならないのです。

 

ここで、もし量子が䞊行䞖界を移動し、その䞊行䞖界にある

地球では、資本䞻矩ではなく、智慧ず慈悲に満ちた䞖界が

実珟しおいるずしたら、それを浄土っおいいでしょう。

 

たた他の䞊行䞖界が様々な圚り方をしおいれば、

諞仏浄土ずもいえる。

 

そしお私が死ぬずいうこずが、私が量子に戻り、䞊行䞖界の

なかの智慧ず慈悲に満ちた䞖界に行くこずを意味するなら。

そしおそこぞ行く方法が、仏教の念仏だずしたら。

 

぀たりは、脳の䞭の電気が、智慧ず慈悲に満ちた、経兞に

説かれる䞖界(浄土)を念じるこずにより、念じた私の量子の

性質(æ³¢)を、浄土的䞊行䞖界ぞ生たれさせるものに倉化させる

こずになるずいうこずが成立するず考えられたす。

 

結果、私がこの宇宙で死ぬこずで、量子䞖界に戻り、

その私の量子の性質が、浄土的䞊行䞖界ぞ刹那に移動するなら、

芪鞞聖人のいう、念仏による「即埗埀生成仏」が実質的に

成立したす。

 

このように量子論から仏教を芋れば、あながちアミダ仏や

浄土ずいう䞖界芳は、ファンタゞヌではないのかもしれたせん。

 

アミダも光明を意味するサンスクリット語ですから、光は

物理的に電波であり、赀倖線から、赀橙黄…ずなり玫倖線

になりたすが、この光も党お電波です。

 

アミダを「無碍光」で定矩すれば、この電波の党おを総称しおいるずいえたす。

結局、私の脳がこの電波の総称であるアミダずいう

光明を受け入れお、倧慈悲ずいう電気の動きに私の脳

の電気の動きを倉化させるなら、阿匥陀仏こそ、

党おを智慧ず慈悲に満ちた「浄土ずいう䞊行䞖界(パラレルワヌルド)」

ぞ私の量子を導く「アミダ量子の救い」が実圚するずいえたす。

 

パラレルワヌルドのむメヌゞはこんな感じです。

07FE6A41-87B9-4BA3-BED9-813A4BC90FB6.jpeg    

雑誌「ニュヌトン」より

 

 

 

10)芪鞞さんは基本垰玍法であるず思う。

 

すでに自分自身に答えを持っおいお、匕文を集め、教行信蚌を䜜った感が拭えない。

 

ずはいえ、埡自釈の郚分ではなく匕文を含めた党䜓のはなしである。

 

私は、芪鞞さんにおいおはそうだずしおも、芪鞞さんは知性にすぐれおいお、それでいいず思っおいる。

 

どっちにせよ、党おがシュレディンガヌの猫のように、䞍確定なのだから、なんでもありなんだず思う。

人間界は。。。

 

党おがカルトであるずも蚀えるし、自由意思の遞択ずもいえる。

そういう意味では戯論(けろん)を嫌ったであろう釈尊の姿勢に孊び、

確定ずいえるこずしか語らないに越したこずはないが、

果たしおどれだけ確定的なこずがあるのか

 

それすらが䞍確定でもある。

珟代においお、◯◯こそ正しいなんおいえない。

無垞ずいうこずですら、それが真理だずしおも、぀たるずころ人間の脳に委ねられた(真理)であり、実は違うのかもしれない。。

 

結局は自分の䞭で真理だず思うこずしかないのだろう。。

 

 

 

  

 

9)灘本愛慈和䞊(わじょう)

 

昭和62幎に、䞭倮仏教孊院研究科で「本兞」の授業の講垫ずしおお越しになっおいたのが、わたしにずっお和䞊ずの出䌚いでした。

 

わたしはいたにもたしお「生意気」な孊生でしたので、「自分で先生の倀螏み」をしおいたしたが、灘本和䞊に出䌚っお「なんかほかの先生ず違う」ず感じたのです。

 

圓時は、皲城和䞊、加茂和䞊、普賢和䞊などいろいろな和䞊がおられたした。

そういう方々がどうずいうこずではなくお、灘本和䞊は普通ではなかったんです。

 

最初の講矩で灘本和䞊が

「わたしは偉い人ずいわれたいので勧孊(最高孊䜍)になったんですよ」

「なんせ、幌い頃から背が䜎いずいうのをバカにされおたので、勧孊になっお、偉い人ず尊敬されるように、䞀生懞呜勉匷したした。」

ずいわれたんです。

 

このコトバず、ず぀ず぀ずした䞭にも「ひょうきんな感じ」に魅力を感じたした。

 

「わたしの垫匠は倧江淳誠ずいうすごい人でね。。」

「石泉はわたしが最埌でしょうね」

 

ずか、いろいろず講矩のなかに出おくるお話しを含めお、速蚘のようにすべおのこずばを筆蚘したした。

 

灘本和䞊は「わたしは倧江和䞊を越えられないので匟子はずりたせん。」ずいっおおられたのですが、匟子にしおくださいず「懇願」したした。

 

しかし「芪鞞聖人も匟子をずらないっおおっしゃっおるでしょ」ず断られ、

「でも、和䞊は倧江和䞊の匟子ずいっおおられるじゃあないですか」ずいいかえすず、

ニコッずされお、「わたしが勝手に匟子ずいっおるだけです」ずいわれたした。

 

「ずにかく䞀床お家に䌺いたい」ずいっお、䞀床だけ䌺いたした。

 

すごい100冊はある手曞きの叀いノヌトから、新しいノヌトたで、

「3時間あげるからこれを自由に曞き写しおいい」ずいわれ「コピヌ」は蚱されたせんでした。

なんせどこを写せばいいのか、教えおもくれず、懞呜に写したした。

 

仏教孊、真宗孊、哲孊、科孊、芞胜、政治、などなど倚岐にわたったそのノヌトを、懞呜に写したしたが、持っおいったノヌトでは足りたせん。

「ノヌトが足りなくなりたした」ず和䞊をお呌びするず、「ハむ」ず「新聞広告のりラがみ」を枡されたした。

 

午埌4時ごろ「じゃあ終わりです」ずいわれ、「たた来おいいですか」ずいうず、

「もういいでしょう」ず断られ、なんず曞き写したわたしのノヌトずりラがみを、

「それはここにおいお垰りなさい」ず。。

「ええっ」

 

「先生なぜですか」ず聞くず「皮子(唯識のしゅうじ)は薫じられたでしょ」ず。。

 

そしお、「今日のこずは忘れおください」ずいわれたんです。

 

そもそも和䞊は、

「わたしは本を曞かないし、このノヌトはわたしず䞀緒に焌かれたすから」ずいわれおいたした。

 

和䞊は倧江和䞊を越えようずされなかったし、ほんずうに「偉くなりたかった」のかもしれたせんが、「勧孊寮郚長」を最埌に宗門から「スッ」ず気配を消されたした。

 

わたしはこのHPを曞くようになっお、「孀高の和䞊」を思い぀぀、

 

和䞊は、ほんずうの「念仏者」だったんだず、その面圱を偲ぶ日々です。

 

わたしが孊階の「殿詊」を受けるずきの「安心論題抂芁(25論題)」は灘本和䞊の監修でした。

 

和䞊が人間界を去られお、こずごずく灘本和䞊の名前の入ったものがなくなり、

寂しい思いはしおいたすが、䞭倮仏教孊院の䞀幎の「こずば」をすべお曞き残した

ノヌトだけがわたしの手元にある唯䞀の「ご本兞ガむド」だず思っおいたす。

 

そしお、曞き写しお眮いお垰っお、「わたしに薫習(くんじゅう)」された内容。。

 

最埌の石泉和䞊。

その匟子ず「勝手に名乗らせおいただきたす」ず和䞊を偲んでいたす。

 

 

  

 

8)ナニバヌサルな人間

 

私の叔父に90才の叔父がいる。

この叔父は医垫であり、私の生涯を支えおくれおいる。

 

この叔父に先日故郷の鳥取で䌚った。

 

この高霢にしお聡明な叔父は、

ネットからプリントアりトした資料を

数十枚くれた。それは日本人の由来ず神道の

由来を䞭心ずし、仏教ずの関係をも瀺した資料であった。

 

資料によるず、日本人のミトコンドリアDNAは、

叀代有色人皮が分岐する以前のもの、

シュメヌル人ず同じであるず。

 

たた叀代ヘブラむ語や文化が日本語や神瀟をはじめずした

日本文化ず同じである。

 

初期キリスト教に仏教が圱響を䞎え、䞭囜でキリスト教は

景教ず呌ばれ䞭囜では景教(キリスト教)が仏教ずずもに

文化に圱響を䞎え、䞭囜䌝来の倧乗仏教にナダダの文化が

混入しお、日本に䌝来しおいる可胜性。

 

その倧乗仏教ず神道の根底にあるヘブラむ文化。

などなど、実蚌される事実に基づいた内容であった。

(ちなみに景教を䞭囜では真宗ずしおいる石碑がある)

 

このようなこずを90才近い叔父がネットから

調べ䞊げおいるこずにも驚くが、

少なからずこのようなこずが、ナニバヌサルには論じられおいる。

 

しかしこのように実蚌的に資料を芋぀め

叀代人類からの歎史を慮っお芋るず、

悠久の歎史が今の私たちを動かし、その根底に

宇宙的歎史も関わっお、私ずいう人間皮のDNAにある

ビッグバン以埌137億幎の宇宙の歎史、人類発生以埌

700䞇幎のDNAの歎史を深く感じおいる。

 

日本人、アメリカ人、䞭囜人、韓囜人。。

仏教、神道、ナダダ教、キリスト教。。

様々な線匕きをしお私たち人間は争い、䞻匵し

どちらがいいずか悪いずか。。「愚かな。。」

 

日ごろの自分の䞭にある広倧で悠久な「実圚」、

それは「137億幎、いや量子力孊などで蚀われるように、

それ以前の宇宙発生前からの【なにかの】プログラム」があるず

思うず、深くお無蟺な生呜の根源を感じる。

 

今回叔父は人生の究極を諭しおくれたように思う。

人生芳が倧きく倉わった1日であった。

 

※今たでわたしは「空華さんや石泉」に぀いお論じおきたのは、

あくたでも知られおいない(絶滅しそうな)芳点を述べおきたたでです。

 

今埌も内容によっおは、そういうこずもあるでしょうが、基本をナニバヌサルに移行しおいきたす。

 

 

 

 

 

7)ずもに五念門に生きる。

 

瀌拝ずいうのは「自身の身を地べたに投じお自らを法に捧げる姿」を珟したす。

ここにおいお「わたし」ずいうものはなくなりたす。

 

仏教においお「瀌拝」ず蚀うのはそういう厳しい性質を持っおいたす。

単なる「お瀌」ず蚀うものではありたせん。

 

私も、私ではありたせんし、私ずいう䞀぀の生呜䜓だず認識しおいたす。

私たちは諞仏の讃嘆によっお、このように私ずいう我が砎られるご瞁(緣信心)に出䌚いたす。

 

そしおこのように諞仏の讃嘆によっお南无阿匥陀仏を受け入れお「因信心」になりたす。

 

具䜓的に蚀えば「仏陀の教え」぀たり経兞の教えによっお、自ずずそうなっお行きたす。「讃嘆」

 

私もこのプロセスのなかで、もはや自分の利益のために動く事はほがありたせん。

 

ただ仏願に生きるのみです。「䜜願」

 

 

私の生掻の䞭で党おが悟りぞの糧ずなっおいたす。

 

䜕気ないこずでも「あ〜そういうこずか」ず智慧になったり、

「これが煩悩やねんなぁ」ずわかったりっおいう颚になりたす。

 

これは日々䜓隓するものごずに悟りを芋出しおいけるず蚀うこずです。

 

自分の煩悩を芋るだけではなく、ひずの煩悩をみるこずにも意味がありたす。

 

様々なひずのあり方を芋る䞭で、私はどうすべきなのか、たたそういう方々もどうすべきなのかずいった「智慧」を働かせるような生掻になりたす。

 

さたざたな日垞の出来事やひずずの関係の䞭でどのように共に和合できるのか、そのような芖点を持぀こずができたす。「芳察」

 

仏法は本来「無我である生呜」ず「無我である生呜」がどのように和合しおいくかずいう䞖界の実珟を目指しおいるず蚀えたしょう。

 

私たちは凡人ですので、完党に無我になりきる事はできたせん。

だから、南无阿匥陀仏ずいう名号を通しお぀ながり合うのです。

 

私もあなたも南无阿匥陀仏(たたは法蔵菩薩)いう名字を名乗っお関係する瀟䌚を珟映しおいくのです。

 

ずもに讃嘆し぀぀、同じ仏の願いを持ちながら、仏願ずいう芳点から、ずもに䞖のなかを芋぀め぀぀、どのような智慧をもっお互いに生きあうのか。。

 

昚日より今日ずいうふうに、日々の歩みのなかで、より浄土(さずり)に近づく䞖界を生きおいくずいう関係です。

 

「仏願」を共に孊びながら、「仏智」によっお、そういった生き方を共にし歩んでいく関係こそ、

本圓の和合関係であるずいえたす。

 

この関係が広がれば「和合瀟䌚」になりたす。

 

このように「廻向発願(方向転換しお出発)」しおずもに日々を歩んでいきたしょう。

 

そしお、珟実を和合瀟䌚にかえお行きたしょう

 

 

 

 

 

6)恐怖

仏教で苊に぀いお「八苊」がおもに語られたす。

 

ずはいえ、経兞のいろいろなずころに「怖れがなくなる」ずいう蚘述がありたす。

 

八苊の根底にあるものは、「怖れ」なのでしょう。

「䞍安」ずもいえたす。

 

いわゆる「粟神安定剀」が「抗䞍安薬」ずいわれるのも、そういうこずなのでしょう。

 

わたしたちは、なにを怖れおいるのでしょうか

 

「終わり」

「攻撃」

「倉化」

 

これらの怖れは扁桃䜓の産物です。

いわゆる「情」です。

 

怖れない者は培底的に冷静です。

ブッダがそうですが、さずりを「無孊」ずもいいたす。

 

これは「孊ぶべきこずがなくなった」ずいう意味です。

通垞の「孊がない」ではありたせん。

 

わたしたちは、人生でいろいろなこずを経隓し、たた孊習したす。

ブッダは人間界のこずはすべお䜓隓し、孊習したずいえる状況にあるずいうこずでしょう。

 

わたしたち定䜏民族は倉化ぞの察応を苊手ずしおいたす。

 

遊牧民にずっお「倉化」は普通です。

 

たた「トラりマ」ずいうこずが普通にいわれたす。

 

しかしいっぜうで「トラりマ」ずいうこずばが「トラりマ」を぀くっおいるだけで、

脳にトラりマは存圚しない。

最近ではそういわれおいたす。

 

これが「トラりマだ」ず「固定する」からそう認識しおしたうだけであるずいわれおいたす。

 

過去のトラりマで恐怖を感じるずいうのではなく、過去の䜓隓をトラりマず固定するから恐怖になる。

 

そういうこずです。

 

「無孊」ずいう孊ぶこずがないぐらいの䜓隓や孊習をすれば、「恐怖もなくなる」ずいうのがブッダです。

 

犯眪もはじめは「おそるおそる」はじめお、慣れおくるずふ぀うにできる。

 

怖れも慣れおくれば「どうずいうこずはない」

 

わたしは以前「ゞェットコヌスタヌ」が苊手でしたが、䜕回も乗っおれば慣れたす。

 

これだず「認知行動療法」の「脱感䜜」のようですが、実際「堎数(ばかず)や慣れ」で怖れは枛りたす。

 

しかし、そういう慣れる状況がないケヌスでは、どうすればいいのでしょう。

 

さずりに向かうしかありたせん。

無孊のブッダに孊ぶんです。

 

それは「恐怖はい぀でも蚪れる」

そこに居座るこずでしょう。

 

良寛さんの「灜難にあうずきはあうがよろしくそうろう、死ぬずきは死ぬがよろしくそうろう」です。

 

そしお蚪れた恐怖にどう仏の智慧をもっお取り組むか。

 

仏教が「さずりの智慧」を根本にしおいる理由です。

 

阿匥陀劂来の智慧は四十八願にありたす。

 

 

 

 

5)シュレディンガヌの猫

〈以前どこかで曞いたんですが、ややこいかもです(≧∀≩)〉

シュレディンガヌの猫ずいう量子物理孊の論があり、

このなかに「䞍確定性原理」ずいう理論がある。

 

これが仏教の「䞭道」「空論」によく䌌おいる。

 

「䞍確定」ずいう点では、䜕が真理かずいう仏教の悟りに぀いおも蚀える。

 

さずりは「すべおが䞍確定」だずいっおいるのである。

 

もし、ファンタゞックな浄土を実圚ず思う人にずっおは、実圚ず確定する以䞊、

その思いには揺らぎがある。

 

浄土はファンタゞックな実圚ではなく、「真理を衚しおいる」ずいうケヌスも、

そこでいわれる真理が「確定的な解釈」にずどたっおいるケヌスも倚い。

 

しかし、そのたたでいいのかずいう揺らぎがある。

 

぀たりはいずれの人も「仏を信じおいる状態ず信じおいない状態」のいずれもがそこにある。

 

だから「凡人の力や胜力」に䟝存せず、名号がひずりばたらきしお救うんだずいうファンタゞックな救いが語られる傟向にある。

 

しかしそれを確定的に信じおいるのか。

 

いられるのか。

 

無疑ずいう状態で受け入れおいるのかず聞かれお、信心を獲埗したず蚀えない真宗念仏者。

「圓然である」

 

すべおが䞍確定なのだからいえなくお圓然である。

 

あなたが「人間」で、生きおいるずいうこず自䜓、たた昚日のあなたず今日のあなたは同じ次元に生きおいるのか、あなたは宇宙人ではなくしかもアンドロむドではない。

ICチップも埋め蟌たれおいない。

 

こういったこずすら「蚌明」できないのが「真実」である。

 

 

仏教を「信者」ずいうような「信」で語るずそれは揺らぎの䞭で䞍確定だずしかいえない。

この「䞍確定」こそが真理なのだから。

 

 

結果「自信教人信」の「自信」を語れない以䞊、䞍確定〈䞍定垌求(ふじょうけぐ)〉にしかならない。

 

かずいっお、「信心を獲埗した」ずいうずカルトになる恐れがある。

 

かの芪鞞◉のような。。

 

珟圚の西本願寺の垃教は、さらに増しおこのように䞍確定な曖昧なものになっおいる。

 

聎聞しおも䞍確定な「わかったようなわからんような」気持ちになる。

 

そしお䞀郚のカリスマ垃教䜿、カリスマ孊者に矀れる僧䟶が倚いのである。

 

仏教のいう「和合」は矀れではない。(これに぀いおいたは觊れない)

 

結局、真宗の信心は䞍確定であろうがなんであろうが、

 

法蔵菩薩の五念門を行じ、南无阿匥陀仏ずいう名号(無為法)を生きるなかで、

「瀌拝」し自らを仏に投じ、仏を「讃嘆」し、悟りぞの「願いをなし」さずりを珟実の䞭に「芳察」するうちに、悟りぞず人生の方向を倉える「廻向発願」を行じおいく。

 

ただそれだけ。。

 

䞍確定だずいうなかに「身を委ねる」こずしかありえない。

 

䞍確定ななかで、五念門から五果門の薗林遊戯地門の利他ぞ向かうこずを願うこずが、念仏の行者の本質である。

 

しかしこれを䞉業惑乱ず同じように捉えるずおかしくなる。

 

五念門を行じなければならないのではない。

五念門を行じるこずしかない。

 

だからこそ、念仏の行者ず蚀える。

 

自らの煩悩が名号の功埳に転じられる䜓隓をしながら、

揺らぎを超えお、確定的なものずなっおいく。

 

そのように行じおいるず、浄土に向かうのではなく、浄土が近づいお珟映しおくる。

 

そういう意味でのりパヌダ(近づく)ずいう実感が埗られる。

 

脳科孊的にいっおも、名号のひずりばたらきで、私はこのたんたは「ありえない」。

 

名号に觊れおいる以䞊、なにかが䞍確定によっお、倉化するのが珟実である。

 

たずえば、あなたがだれかに出䌚うだけでも「なにか」はかわる。

 

「なにも倉わらない」ずいうのでは、揺らぎを脱するこずはできない。

たずえ「煩悩性」も名号に觊れお「倉換する」。

 

なぜなら煩悩は扁桃䜓に䟝存した情の䞖界だからであり、五念門を行じるずいうのは、前頭葉の智慧の䞖界だから。

 

念仏システムのなかで、脳の扁桃䜓を前頭葉がコントロヌルしはじめるからである。

 

真宗の僧䟶、門信埒は、信者ではなく「行者たれ」そう提蚀したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

4plus)十二瞁起ず念仏

 

十二瞁起

 

わたしたち人間は「無明(むみょう)」ずいうありかたに瞁起した状態の「あるもの」です。

 

この「無明のあるもの」(ややこしいので以䞋「人間、わたし」ず衚蚘したす。)

 

人間は意思をもちたす。

これを「行」ずいいたす。

 

その意思の䞭で「認識」が生たれたす。

 

ここでおもしろいのは、認識がうたれるず「名」を぀けたす。

 

「パ゜コン、ボヌルペン、時蚈」など(わたしがいた芋おいるものを列蚘したした)

 

そしお、わたしたち人間はなにによっお「存圚認識」しおいるか。

ここがおもしろいのですが、わたしたちは「かたち」で認識するのか「いろ」で認識するのかずいうポむントです。

 

じ぀は、「いろ」なんです。

それは2次元じゃないか。

そうです。じ぀は人間は2次元認識が原則なんです。

 

ふ぀うにテレビの映像を芋おいたすが、2次元なのに、3次元だず無意識に認識しお芋おいたす。

奥行きを感じる「絵画も写真」も同じです。

 

人間は巊右の目で芋お、奥行きや距離を認識するんですが、基本的に2次元認識なのです。

 

そしおそれは、「いろ」で認識しおいるんです。

 

だから「識」の次に「名色」ずありたす。

 

その認識を「県耳錻舌身意」の「六凊」で「觊」れる。

 

その「觊」れたものからなにかを感「受」する。

そこに「愛」ずいうずらわれが生たれるのです。

 

このずらわれが「わたし」に「取」をうむのですが、この抂念は日本語では難しくお”have”のほうがより近い抂念です。

 

日本語だず、”ずり぀く”ずいうような衚珟になっおしたい、埮劙にちがうんです。

 

この”have”したものを「有」ずずらえ、なにかが「生」たれ、「老死」ずいう”ほろびのプロセス“を経るこずに苊悩したす。

 

この瞁起は、そもそも無明を滅すれば、すべお滅せられる瞁起なのです。

 

だから、無明あるがゆえに行あり。行あるがゆえに識あり。。。

ずいう連鎖をするのですが、無明を滅するゆえに行滅し。。。

 

ずなっおいくこずを明確にした「人間のプロファむル」ですが、かなり正確に解析されおいるので、このプロファむルによるプログラムにしたがえば「真理」を生きるようになれお「苊」がなくなるのです。

 

ここで真宗のひずは、このプログラムが念仏システムに組み蟌たれおいるこずを知るべきです。

 

なぜ「阿匥陀劂来」の「名」なのか。

この「名」がなぜわたしをさずりに向かわせるのか。

 

芪鞞は、このプログラム解析からも、念仏システムの䞭にあるさずりぞのムヌブメントの解析を完成させたのです。

 

 

 

 

 

 

4)孊習ガむドver4

 

十二瞁起論。

 

じ぀は釈尊のさずりぞのシステムでもっずも重芁なものが「十二瞁起論」です。

 

無明によっお行あり。。

ず「無明、行、識、名色、六凊、觊、受、愛、取、有、生、老死」ずいう内容です。

「無明あるがゆえに行あり。。。」ず぀づき、結論「老死」ずなりたす。

 

逆に「無明滅するがゆえに行も滅し。。。」ずなっお「老死」の滅になるのです。

 

ここでそれぞれの項目ひず぀ひず぀に深い意味がありたすが、ずりあえずりィキペディアに任すずしお、いたは、これが倶舎論では、生呜䜓の出産からの流れで論じられたすが、

 

仏教䞀般では、「ずにかく問題なのは無明」だずいうポむントです。

 

仏教においお、さずるためには「無明を滅さなければムリ」ず解析しおいたす。

 

空華空華ずいいたくないのですが、぀じ぀た合わせに「無明」を「阿匥陀劂来ぞの疑い」ず定矩したすが、これはあきらかにおかしいんです。

 

釈尊䞊は、あくたでも「真理」ぞの「無知状態」ずいう定矩です。

 

どうやっお「無明」を滅するか。

 

そのシステムが「念仏システム」にあるず芪鞞の教行蚌文類は明確にプロファむルしおいたす。

 

 

 

 

 

3)孊習ガむドver3

 

2でお話ししたように、仏教は真理を教えおいたす。

 

釈尊は、人間はなぜ「苊」ずいう存圚であるのかずいう芳点から究明した結果を、さたざたな衚珟で説かれおいたす。

 

釈尊の぀の根本法則の「苊、無垞、無我」の法則からいえば、

 

苊である理由は、

 

無垞なのに安定を求めるからである。

 

肉䜓や心の動きを“我”ずしお確定的にずらわれおも無意味なものに確定的に固定化しおずらわれるからである。

 

そんな「自我」「我」ずいうものは「存圚しない」のにずらわれるから苊しみや争いを生む。

 

だから、無垞を受け入れ、無我を生きるこずで究極の「楜」を埗られる。

 

ずいう法則を基本にしお、さらに四諊八正道ずいうさずりを埗るプロセスを論じられたす。

 

「四諊」の論では、

人間は苊である。

(人間=è‹Šè«Š)

 

苊が生たれる理由は「煩悩法」ずいう有為法の心の動きに埓うからである。

(苊は煩悩の集合䜓が生む=集諊)

 

苊の滅が無為法のさずりである。

(煩悩の集合䜓を滅するず究極の楜になる=æ»…è«Š)

 

苊を滅する方法が八正道ずいう有為法から無為法ぞの八぀の方法である。

(苊の滅に至る八正道=道諊)

 

ずいうものです。

 

この四぀の智慧によっおあきらかにされたプロセスを四諊(したい)の論ずいいたす。

そしおこの「智慧によっおあきらかにされた無為法ぞのプロセス」は「八正道」ずいう「システム」を生きるこずで実蚌できるず論じられるのです。

 

 

釈尊の論は、人間ずいう有為法が、さずりずいう無為法になるこず以倖に「真の楜」はないず論じおいるわけですが、このこずを倶舎論はさらに詳しく論じおいたす。

 

(八正道はりィキペディアでも調べられるので、調べおみおください)

 

このような釈尊の論を根拠にしお「倶舎論」はさずりに至るポむントを、「無我」になるための自我を砎る「砎我」をどうやっお実践するのかずいう方向性から論じおいたす。

 

無我のための「砎我」をさずりぞのシステムずしお論じおいたす。

 

倶舎論に「砎我品(はががん)」ずいう論がありたす。

そこには、自我を砎る方法がいろいろず論じおありたすが、たしかに「わたしには実践しにくい」方法です。

 

ではこれを「念仏」に眮き換えお、「念仏によっおさずり埗る」ず論じる「浄土教」のシステムの根拠はどこにあるのでしょう。

 

芳経に説かれおいる。

善導さんがそういった。

 

それでは説明になりたせん。

神秘䞻矩です。

 

芪鞞さんは「念仏」がどういう「システム」で「砎我」するのかずいう課題を究明しお、教行蚌文類にそのシステム(しくみ)を分析しお明確化しお論じおいたす。

 

念仏がなぜわたしを「砎我」しお、わたしがさずるのかずいうシステムを分析しお「念仏システム」のプログラムをあきらかにしたのです。

 

倶舎論にもないテクニックで「砎我」する「念仏システム」のプログラムをプロファむル(分析)したこずで、芪鞞さんは法然さんずいう垫匠を超えたのです。

 

真宗を孊ぶうえで、教行蚌文類はそういう性質のものずいう芖点から孊んでみおください。

この芖点で孊ぶず芪鞞さんの「いいたかったこず」がよく芋えおきたす。

 

 

 

 

2)孊習ガむドver2

「無為法ず有為法」

これは叀来から仏教の基瀎孊ずされた「倶舎論(くしゃろん)」ずいう倩芪菩薩が曞いたずされる曞籍に詳しく出おくる分類です。

 

倶舎論の内容は、論理的な郚分ず圓時の宇宙芳「須匥山説」など、珟代では明らかに「ぞん」な郚分がありたすが、メむンテヌマの、どうしお「さずる」かずいう点ではすぐれた「論曞」です。

 

わたしは珟圚も孊者である「倶舎論専門」の先生に孊びたした。

たぶん日本で「唯䞀」の「本圓の倶舎論専門のかた」ずいえたす。

 

これを曞いた倩芪菩薩さんは、お兄さんにあたる無著さんずのちに「唯識孊」を完成させたす。

 

倩芪菩薩さんは「倶舎ず唯識」においお、存圚分析をされおいたす。

 

そこでたずは存圚を「有為法ず無為法」の五䜍䞃十五法(倶舎)、五䜍癟法(唯識)に分類されたす。

 

このなかで、有為法は「人間ずその心理」、

無為法は「虚空」ずいう存圚の根底ず「さずり」ずあえおわかりやすく定矩しおおきたす。

 

぀たり、有為法はさずりそのものではないずいう定矩を理解ください。

 

では、阿匥陀劂来はどちらに属すのか。

さずりの法ずすれば、無為法です。

以前倶舎の先生に確認したずころ「そう考えられる」ずいわれたした。

 

ただし、真諊(さずりそのもの)の蚀語化である俗諊ず定矩するず、有為法だずもいえたす。

「阿匥陀さた」ずファンタゞックに語るず、完党人栌化しお有為法になっおしたいたす。

 

しかし、教行蚌文類から芳るず無為法の「善巧方䟿(ぜんぎょうほうべん)」扱いになっおいたす。

 

぀たり実䜓のないさずりぞの「道路」(道のようだけれど実䜓のない無為の存圚)ずいう衚珟もありたす。

ならば、無為法でしょう。

 

ずするなら信文類の「垰呜の解釈」の招く喚ぶや「本願招喚の勅呜」などは、

あくたでも「二河癜道」ずいう人栌化した善導さんにならっお曞かれた衚珟であり、

「方䟿法身」ずいう「仮の実䜓」ずしお衚珟されおいるので、無為法を有為法になぞらえた衚珟です。

 

教行蚌文類は、阿匥陀劂来に぀いお「有為法的無為法衚珟」が混圚するので泚意が必芁です。

 

本来、有為法か぀無為法の存圚は「釈尊」や「劂来の倉化身ずおがしき存圚」にしか䜿えたせん。

芪鞞さんからみた法然さんは本来仏の無為法です。

 

ここでいいたいのは、「無為法自䜓」が信心を䜜っお䞎えるずいうこずはありえないずいうこずです。

「垰呜せよ」ず釈尊や化身仏、諞仏が蚀ったずしおも、無為法自䜓はいいたせん。

 

ここで重芁なポむントは芪鞞さんが阿匥陀劂来を含め、すべお「劂来」ず衚珟されおいるこずです。

これは「劂」ずいう無為法から「来」た有為法であるずいう衚珟ずいえたす。

 

「法を釈尊が発芋した」を、

「法が釈尊の頭脳から出おきた」に眮き換えるず倧経は匥陀䞉昧で説かれた。

「無為法の有為法化」ずいう内容に笊合したす。

 

このポむントがじ぀は原則の倧転換なのです。

 

ずはいえ「信心」は「瞁信心」にせよ「因信心」にせよ「状態」ですから「実䜓」はありたせん。

釈尊の勧めやご瞁のなかで諞仏讃嘆によっお觊れる「仏瞁」ず、

この道を歩もうずいう「真因」ず、いずれも有為法サむドの状態です。

 

因信心を無疑ず定矩するなら、有為法サむドの状態です。

 

あなたが阿匥陀劂来の法に無疑になるか、ならないかずいう問題ですが、

阿匥陀劂来が無疑にしおくれたずいうず、阿匥陀劂来サむドの問題になりたす。

 

しかし珟実問題、「受け入れるかどうかはご瞁ず自己決定です」からわたしサむドの問題ずいえたす。

 

招喚の勅呜はあっおも、受け入れるかどうかはわたしサむドの問題です。

芪鞞さんの信心の解釈は混同を招きたす。

 

しかし結果、信心は回心するかどうかずいう「廻向発願」しお、今からさずりぞの道を歩むかどうかですから、わたしの状態が180床転換しなければ机䞊論になりたす。

 

぀たり、無為法が有為法ずなっお蚀説(教え)によっお、わたしを無為法に向けるプロセスですので、「賜りたる信心」「名号独甚(どくゆう)」などずいっおしたうずわたしず無関係なむメヌゞを䞎えたすし、ファンタゞックに聞こえたす。

 

「あなたが阿匥陀劂来にこころを開き受け入れる状態を経お、五念門行に生きる」こずがポむントです。

そのように法に生きおいくず、草朚も虫もみな成仏する芳察行の状態になりたす。

すべおが無為法からの芳点で芋えおくるようになりたす。

ここで「初地の菩薩道」を生きおいけるずいう「実益」が埗られたす。

 

 

 

 

1)仏教孊習ガむドver1

たぶん、続くのでver1にしたした。

仏教は実際「聖なるあ぀かい」を嫌っおいたす。

 

釈尊(ブッダ)は、「倧医王」であり「医者」ですから、”dr.”であっお、基本はおなじ「人間」です。

 

反カヌストのひずでもあったので、「すぐれたひず」か珟代量子論䞊の「宇宙人」「異次元の人」だずもいえるかもしれたせん。

 

ずにかく、「特別なひず扱い」されるのも嫌がられたず考えられたす。

 

これは芪鞞さんもおなじでしょう。

 

関東で充分「偉いひず扱い」されおいたのに、教行蚌文類を曞くためなのかなんなのか、倫婊別居しおたで60才過ぎお京郜に垰っお、居候(いそうろう)生掻するなんお、俗人ではありえないこずです。

 

ある意味「垰京の理由」はいろいろあったのでしょうが、「偉いひず扱い」を嫌ったのかもしれたせん。

 

歎異抄の「唯円さん」に察する態床は、珟代的にみれば「なにをいたさら」ずいう雰囲気です。

 

ずにかく「孊習ガむド」のたず「倧前提」は、「聖なる教え」ではなく「苊を陀くシステム」が仏教であるずいう「冷静な目線」です。

 

だからお東さんの「改革掟」のかたは「たず疑問を持お」から孊習されるのでしょう。

 

 

 

 

 

◯あなたには信心がありたすか

 

昔は倪陜を「お倩道さん」ず人栌化しお、

「マゞ神様」のように思っおいた人が倚かったであろう。

 

そもそも倩皇を「珟人神(あらひずがみ)」ずしお、日本人は1000幎以䞊「信じお疑わなかった」のだから。

戊埌「人間宣蚀」があったこずすら、平成生たれの人は知らない䞖の䞭である。

 

だから、珟代人は「お倩道さん」より「倪陜」の方がしっくりくる。

それだけ認識が違うのだ。

 

では、珟代人に「阿匥陀様」ずいっおしっくりくるだろうか

それは僧䟶も垃教䜿も同じである。

 

なぜ芪鞞さんは「劂来ずいう蚀葉」を倚甚しおいるのか。

「真劂より来生するずいう偎面」぀たり教えの根源にある「ダンマ」を重芖しお、智慧を重芖しおいるからだず思われる。

 

たた芪鞞さんにおいお「南无阿匥陀仏」ず同じレベルで「垰呜尜十方無碍光劂来」の讃嘆名を倚甚されるのか。

 

これもアミタヌバの光明は、党おを無碍に貫き、真劂ぞず導くずいう「智慧の偎面」を、倩芪、曇鞞から受けおいるからだず考えるずスマヌトである。

 

「南无䞍可思議光仏」も同じである。

ずにかく劂来は光明なのだ。

「光明は智慧の圢なり」である。

 

僧䟶も垃教䜿も珟代人なのだから「お倩道さん」を「倪陜」ずしか捉えられないひずが倚いはずである。

ならば、芪鞞さんの本来にかえっお、「阿匥陀劂来」ずいう「智慧の法」ずいう垃教が行われるようにならねば、珟代人には絵空事にしか聞こえないであろう。

 

「慈悲はそこから悟りぞのいざない」なのだから、智慧のない慈悲は単玔に「人間の哀れみでしかない」

 

意倖ず知られおいないけれど、仏教においお、時間の次第を「過去未来珟圚」で語られるこずが倚い。

倧経もそうである。

 

これは「過去法ずいうバランスの䞭に未来法が生じ、その間のあるかないかわからないほどの点のずころに、珟圚法の私がある」ずいうこずである。

 

そこで、有郚などでは法有を基本ずしおいるから、

 

珟圚法ずいうのは、過去法に芏定された法に応じお、未来法が自然に萜捚し珟前するその間の接点に珟圚法があるず考える。

ゆえに「過去未来珟圚」の次第ずするのが基本圢ずなっおいる。

 

぀たりは珟圚法は「過去法ず未来法に芏定される」ので「過去未来珟圚」ずなるのである。

 

もう少し突っ蟌めば、珟圚法は極々䞀刹那であり、瞬時に未来法が蚪れるから過去ず未来は倧䜓「同類因→等流果」になる。

 

しかし、そこに瞁が関わるこずによっお、因果が倉わるこずも倚く、阿匥陀ずいう増䞊瞁が珟圚法に関わり、実際「刹那の私」がその瞁に乗蚗するこずで、萜捚珟前する未来法が倉わっおくる。

 

普通私たちは、過去法によっお望たない未来法が萜捚珟前する䞭を生きおいるが、過去法により阿匥陀の瞁を埗お阿匥陀に乗蚗するこずにより、萜捚珟前する未来法が過去法を含めお「悟りぞ」ず転換するのである。

 

ここでの信は「阿匥陀の増䞊瞁」による「瞁信心」ずいえる。

行文類匕文に「信力増䞊」ずある。

 

ここにおいお、「阿匥陀の法に生きよう」ずなっお、「五念門を生きる」わたしになれば、

やがおその瞁が熟しお「無疑の䞀心」になり、「因信心」になる。

 

信文類に説明されるのはここでの信に぀いおである。

 

ここで「信心を胜入ずする」ずいわれる。

「胜入」の文蚀も意味深い。

 

出䌚う瞁ずそこで生きる因ぞの胜入である。

しかし「信心」は状態を説明しおいるので、もの柄はないため信文類に「出䜓釈」がない。

 

だから「あなたに信心はありたすか」ずいう問いには「法蔵菩薩の五念門を行じおいたす」「阿匥陀の法を生きおいたす」ずいうぐらいしかない。

 

そもそも状態でしかない「信心」の有無を論じるこずが「ナンセンス」なのだから。

 

芪鞞䌚さんにはそういえばいい。

 

時間論から信心の話しになったが、韍暹などの倧乗仏教の時間論もほずんど倉わりはない。

 

過去のバランスが未来を生みその間に刹那の珟圚があるずいう論なのである。

 

぀たりは私ぞの仏瞁を頂き、行ずる身になるこずで、りパヌダないし萜捚珟前する未来が倉化する。

だから、私たち「念仏の行者」は、垞に五念門を意識しお生きるこずが、未来法を倉える。

 

その倉化のバランスから、過去法も「悟りぞの過去法であった」ず倉化するので「80億劫の眪業が滅する」ずいう論が成立するのである。

 

+ず–の物理的なバランス関係である。

 

こういうこずから真宗においおは「阿匥陀信者」ではなく「念仏の行者たれ」ず定矩する方が適切である。

 

故に方䟿(りパヌダ)の「近づく」は、こちらから近づくずいうより未来法が「近づいおくる」ず理解する方が適しおいるのかもしれない。

 

 

 

 

 

◯「ない難い」に぀いお

これは有り難いに反するこずばで、造語ですが倶舎的には「非択滅無為」に属する法のこずを蚀っおいたす。

択滅無為は、未来法の䞭でわたしが拟いずったか、わたしに蚪れた法を指したすが、拟い取らなかった法を非択滅無為ずいいたす。

 

あなたがこれを読み終わったらなにをするか、いろんな可胜性がある䞭で、なにをするのでしょう。

たたは、なにが蚪れおくるでしょう。

 

わたしたちはそれを無意識に遞んでいるのですが、未来法は過去法に圱響を受けお、ある意味遞択せざるを埗ない流れで遞択しおいるものです。

 

その䞭で、あなたが遞択しなかったたたはあなたに蚪れなかった法は「なかったもの」ずされおいたすが、倶舎論の有郚的にいえば「あるけど珟前しなかった」ずいうこずになりたす。

 

そしお、なかったものごずに、なくおよかったずいうものがありたす。

「煩悩法」はその兞型です。

 

でもわたしたちはそれを無意識に遞びたす。

なくおいい「煩悩法」を遞んでしたうんです。

 

だから、そこに無為法に分類される「阿匥陀劂来の法」があったら人生が倉わりたす。

 

この「阿匥陀劂来の法」の効胜効果は、煩悩法を無為法に転換しおくれるずいうものです。

 

だから、珟代人の倚くは遞ばない「阿匥陀劂来の法」を遞ぶこずで、わたしの煩悩法が無為法になっおいくプロセスを生きられるのです。

 

普通はない方がいい「ない難い」、「煩悩法」や「死」ずいう䞖界があるずいうのが普通です。

たた、だから「有り難い」ずいわれおいる阿匥陀劂来の法も、どういう説かれ方をするかによっおは「ない難い」(ない方がいい)ものになるのです。

 

わたしたちの日垞は「ない難い」ものごずに振り回されおいたす。

 

なにをいっおるのか「蚀葉遊びのようでよヌわからん」っおいわれそうなんで、䞀応ご参考たで。

 

 

 

 

◯真宗の教えに、機の深信ず法の深信ずいう䞀぀の信心の二偎面が説かれるが、空華掟の話を聞いおいるず「煩悩にたみれた私である」ずいただくこずを機の深信ずいい、「そんな私を南无阿匥陀仏の名号が、私が望むず望たないずにかかわらず、すでに救いの䞭におさめずっお、浄土ぞ埀生させおくださるのだ」ずいう法の深信が語られる。

 

このように「煩悩だらけで地獄行き(䞀定)の私が、南无阿匥陀仏の法のハタラキによっお、浄土ぞ埀生させおいただくなんお、なんずありがたいこずか。」ずいうパタヌンで語られ、その䞊の称名は「そのこずを感謝する念仏である」ずいう。

 

しかしこれは明らかにおかしい

 

なぜなら煩悩は捚おられるものずなり、機(私)ず法(阿匥陀仏)が2極化する論になっおおり、論理的に「転悪成埳の正智」「䞍断煩悩埗涅槃」などの芪鞞さんの蚀葉ず倧きなズレがあるからである。

 

これでは、「地獄ぞいくあなた」「阿匥陀劂来が救う」ずいう、2段論になっおしたう。

もし阿匥陀劂来が「どんなものでも救う」のが倧前提なら、はじめの「地獄行き」は䞍芁である。

 

単に「阿匥陀劂来はすべおを救いたす」でいい。

なぜ「機の深信」があえお必芁なのか。

 

さきほどの「䞍断」ずいうのは「煩悩はそのたたでいい」ずいう意味ではない。

 

あえお煩悩を断぀必芁がない、なぜならそれが悟りぞの糧になるからである。

教行蚌文類など、この意味があらゆるずころに散芋できる。

 

「煩悩ないし煩悩だらけずいう煩悩」は捚おられるものではなく、阿匥陀仏の智慧に出䌚うこずで悟りに向かうためのキッカケずなる重芁なものだからである。

 

阿匥陀の教えに出䌚い、煩悩を芋぀めるこずで、無明ずいう迷い(煩悩)lの䞭で生きおいるこずを知らされ、その煩悩が悟りぞ向かう私ぞず転じるタネになるのだから、南无阿匥陀仏に出䌚うこずで煩悩が名号の埳に転じられる。

 

簡朔に蚀えば、「阿匥陀仏が煩悩を芋せおくれたおかげで悟りぞ向かう私に転じられ、仏の智慧の䞭で煩悩を功埳ずしお転じ぀぀生きられるようになる」ずいうこずであり、これが機の深信ず法の深信が二皮ではあれど䞀぀の信心の偎面ずいうこずになる。

 

そうでなければ二皮䞀具の論理は成立しない。

 

 

 

 

 

 

 

◯名号。

「名号」䞀般のひずからすれば「異様で意味䞍明なコトバ」である。

この䞖界にいい意味でも、悪い意味でもどっぷり぀かっおいるず、この「異様さ」がわからない。

 

40代男性からいわれた事実であるが、おばあちゃんが「なんたんだぶ」っおいっおるのが気持ち悪いずたでいう。

 

「喚びごえ」いらヌん「よんで欲しくなヌい」。

「逃げるものたで远っかけお救う」っおストヌカヌやん。

 

そんな発想である。

 

じ぀は教行蚌文類においお「名号ず名字」は同じくらい出おくる。

 

「たねくよばう」は善導さんの着想ポむントであっお本質ではない。

問題は、名字にずらわれるこずである。

 

名前を残したいひずは倚い。

そこにたったくずいっおいいほど意味はないのに。

 

あなたは誰ですか

わたしは法蔵菩薩です。

 

わたしの名字は滅床に至るたでは法蔵菩薩であっお、滅床に至れば南无阿匥陀仏です。

 

それ以倖に名字はないのである。

 

 

 

 

◯有り難いに関しお。。。

昔の垃教䜿はお西では「人身受け難し。。。」を埡讃題で唱える垃教䜿が倚かったけれど、最近は䞉郚経、䞃祖、宗祖の埡文から匕けずいうこずもあっお、「人身受け難し。。。」がなくなり、

日垞的にも甚いられなくなった。

 

そもそも動物に察する捉え方が倉わったず蚀う瀟䌚珟象もあるし、事実犬や猫などの動物より人間の方が煩悩が深い。

 

昔は「犬や猫に生たれなくおよかったですね」なんおいう法話が倚かった。

 

今そんなこずを蚀えば「この子は犬じゃありたせん家族です」っお蚀われるだろう。

人間より䞁寧に「ペット葬儀」をする、いわゆる飌い䞻さんも増えおいる。

 

それは、心理孊的には自己感情の投圱(自分がされたかったような圢で倧事に飌う)であったりするのだろうが、ずにかく「人身受け難し。。。」ではなく「人間に生たれたくなんかなかった」っおいう人が増えおいる。

そもそも仏教のいう「生苊」はそのこずだず蚀っおもいいのかもしれない。

 

「人身受け難し今すでに受く、キリスト教あい難し今すでにあう」ず蚀ったら、間違いなのだろうか

 

若い頃、お東の前に「西村為法通」ずいう叀本屋があり、枅沢満之などのお東の傑僧に育おられたおばあちゃんがお店をやっおいお、そのおばあちゃんず䌚話する䞭で、「有るこず難しですね」っおいったら、「あんたはお西やろ」ず蚀われた。

「なんでわかるの」っお聞き返すず、「匂いがしたす」っお、しみじみず蚀われたのを思い出したすが、「有無を離れる䞖界を聞いおいるのに「有る」こず難しず蚀う矛盟したこずを蚀っおいた」んだず諭されたず気づいた。

 

なぜ仏教ならありがたく、キリスト教ならありがたいずいうこずをお西は認めないのか。

 

「有り難い」ずいう蚀葉は、セクト䞻矩、原理䞻矩、排他䞻矩、行き着くずころカルトになる可胜性がある。

 

非垞に危険な蚀葉だ

 

远加。

有り難いず無い難い。

結果有無を離れがたい。。

「そこに煩悩があるのだ」

ず気づいお「蚀語を離れ、有無を離れる」

それが䞭道すなわち悟りぞのりパヌダである。

 

続きであるが、「地獄行きの私が救われるから感謝する」ずいうのは、結果論理ずしおは「救われたい欲求の満足」であるから、悟りずは皋遠い。

 

「劂来の法に応じるこずで、煩悩に慚愧を感じ぀぀もそのありようが悟りぞず転じるものになる」ずいう状態が「報謝」ずいうありようである。

 

「報は応じる」ずいう意味であり、劂来の教えをいただくこず。「謝は教えをいただき煩悩のありように慚愧を感じるこず」で煩悩が功埳ぞ転じるプロセスをあらわす。

぀たり「報謝」ずいう蚀葉こそが、二皮深信そのものを衚すものであり、恩埳讃の内容そのものである。

身を粉にする、骚を砕く、぀たり色薀は無意味であるが、法を䌝えるずころで意味をなす。

そこにあるほんずうの「報謝」。

 

阿匥陀の法ないし教えは、人間にずっおありがたくないものでなければ、悟りぞの明確な道ずは蚀えない。

 

人間にずっおありがたいずいうのは、悟りではなく自我を満足させられたろいう蚌明ずもなり、それこそ煩悩である。

 

それ故に芪鞞さんは「法然さんに隙されお念仏によっお地獄に墜ちおも埌悔しない」ず蚀い切れる境地に達しおおられたのだずいえる。

 

 

 

 

 

 

◯問い

人間ずしお生たれたこずは喜びでもあり、苊しみでもある。䞀芋矛盟しおいるようにみえるかも知れないけれど、それは䞡立するのではないでしょうか。

生たれおこなかったならば、その他の぀の苊もあり埗ない。根本の「苊」はやはり、「生」ではないのかな、ず思いたす。

生たれおきた苊しみがあるからこそ、悟りぞの道を䞎えられたこずを喜べる気がしたす。人間以倖はその苊しみから解攟される方法がなく、悟りに至る道が閉ざされおいるのだずしたら。

 

 

【お返事】

 

時代や瀟䌚背景により、悟りぞの抂念は倉化しお、苊から解攟されおきた人がいるのは事実でしょう。

ずはいえ、江戞時代や戊前たで「支配者ず阿匥陀は同じであり、珟䞖は苊しくおも阿匥陀䜛のおかげで来䞖はいいずころぞいけるよ」ずいう論理で救われた気持ちにさせお来たずしたら。。。

 

戊時教孊のように「靖囜浄土ぞ行ける」なんお蚀われお戊死したずしたら。。

 

「銖茪に繋がれるような犬に生たれなくおよかったね」ず蚀い぀぀も銖茪に繋いでるのは誰なのか。。

 

はたしお仏瞁にあうこずだけが救いなのか

「虫に生たれたほうがよかった」ずいう若者もいたしたが、虫ではダメなのか。。

 

そもそも「問い」にある「人間以倖は苊から解攟されない。。」は間違っおいたす。

動物に人間のような「苊悩」はないずいっおいいでしょう。

 

人間であれ動物であれ、「恐怖」ずいう「危機感」が「危機回避行動」をさせるのです。

 

仏教でやたら「恐れがなくなる」ず説かれるのは、人間の苊の原点がそこにあっお、さらに人間はややこしく「苊悩」に迷うからです。

 

人間の「苊」は脳の「扁桃䜓」が生み出し、人間にこそそなわっおいる「倧脳新皮質の前頭葉」ずのせめぎ合いで、動物以䞊の「苊悩」にさいなたされおいたす。

 

぀たり動物は「死ぬずきは死ぬ」ずいう自然を生きおいたすから、すでに「さずっおいる」ずいえたす。

 

異蚳の倧経に「ケンピネンドりの類」ず定矩されおいる意味がそこにありたす。

唯信鈔文意の「草朚囜土悉く成仏す」も同じです。

 

「草朚」も自然に埓っおいるので、成仏のたたなのです。

 

ここに「成仏す」ずあるのは、念仏の行者にはそこが芋えおくるずいう「人間偎の問題」ずいうこずでしかありたせん。

 

぀たり最も「苊悩」しおいるのは、「人間」なのです。

 

「埀生芁集」あたりはそのポむントを誀解させたす。

 

さらに深めるなら、芪鞞さんがなぜ時の䞊皇を批刀したのか

それが「䜕者かが苊ず救いの䞡方を䜜っおいる」ず蚎えおいるずしたら。

 

資本䞻矩の䞭で、お金を増やせるよずいう「株」があり「増えた」ず喜ばせお、「もっず増やせるよ」ずいった、「同じ䜕者か」が意図的に「䞋萜」させたずしたら。。

 

人間界では、苊ず楜が意図的に䜜られおいるずいう事実があるこずを、芪鞞さんは教えおいる。

 

事実私が「䞭等床の知的障がい者の方」から蚀われた蚀葉ですが、「䞭途半端な障がい者に生たれなければよかった」ず。。。

 

同じ犏祉の法埋の䞭に意図的な栌差があっお、その狭間で出おきた発蚀だずわたしは受け取りたした。

このかたを仏法は救えるのか。。。

 

これらのような矛盟を䜜っおいる人間のごくごく䞀郚が「䌚い難くしお仏法にあっお救われた」ず喜んでいお、仏法に䌚っおも救われない人や瀟䌚的に貶められおいる人を芋お、どう思いどうするのか

(䌚うず遇うにこだわるようなピンポむントのこだわりが「僧䟶の自己満」にしかならないこずを知っおいるのか)

 

なぜ戊時教孊なんか䜜っおたで、教団を守らねばならないのか。

 

救われるのは仏法だけなのか

 

キリスト教で救われた人がいお、「䌚い難くしおキリスト教に䌚えた」ず喜んでいるずしお、それは違うずいうのか

 

私たち人間は「救われたず喜べるずころ」にいおおいいのか。。

 

私は悟りぞの救いずいうのは、䞖の䞭を芋お喜べなくなるこずだず実感しおいたす。

この私にどうあなたの喜びを䌝えおくださいたすか

 

そういう意味では、お東の枅沢満之などの門䞋の傑僧が、明治から「教行信蚌」などに぀いお䞀般に向けお講矩しおいたりずいうこずは超珍しいこずであり、門戞が広かった。。

そしおか぀手探りだったわけです。

 

その点お西は、䞀郚の孊者、い぀もいう空華だの石泉だのずいう人たちは孊んでいおも、門戞が広かったわけじゃない。

 

江戞時代以降、お西の垃教䜿は、孊者ではなく「お寺が貧しいから䜏職で食えないものの圹目」ずいう認識をしおいた䜏職も倚く「垃教䜿を食べさせおやっおいる」ずいう扱いもされおいたため「お瀌状」を曞いおいた。

今は「たた呌んでください」の営業瀌状に転換したけれど。。

 

近幎たでのお西の垃教䜿は、口䌝の教育であり、孊者ではないため、結構いい加枛なお話も倚かったのです。。

 

垃教䜿ならずずも「韍谷倧孊の教科曞」も、昭和3幎生たれの父の倧孊時代の教科曞は、やたら修食語ばかりで、仏教の論がほがない。

「釈尊は偉倧なる倧医王であり、念仏はこれぞず法然䞊人が遞びずられた広倧無蟺なる普遍的で非垞にすぐれた釈尊出䞖本懐の唯䞀の衆生救枈の手立おなるこず」なんおいう文章は、なにを蚌明しおきたのか。

 

お東さんは、孊者だの垃教䜿だのずいう分担ではなく、孊者であれ䜏職であれ、孊んだ人は垃教をしおいたず孊びたしたが。。。

 

たぁいずれにせよ、仏教の近代的孊問の歎史は浅いず蚀わざるを埗たせん。

 

私の蚘憶ですが、昭和50幎代たでは「生苊は生きおいく苊しみ」ず垃教䜿は話しおいたしたが、サンスクリット原兞や原始経兞などの研究が発展し「生たれる苊」であるずいうこずが明確にされ、それから生苊に぀いおは垃教䞊語られるこずが少なくなり、老病死苊などの7苊ばかりが語られるようになりたした。

 

人身受け難しず喜ぶこずず、生たれる苊ずいうこずの矛盟がそこで明確化したわけです。

 

意倖ず本圓の意味で教行信蚌や歎異抄、原始経兞などいろいろな聖兞が公開された歎史が、戊埌であり、か぀本栌的な研究が始たったのは昭和40幎代ず新しいため、実は仏教の孊問は歎史が叀いようで最近なのです。

 

぀い最近ずいっおもいい、昭和60幎代ぐらいたで、「無我」を「霊魂のような魂はない」ずいう意味で䜿われおいたしたが、これは間違いで「わたしたちすべおが〈我〉ではない」ずいう解釈がサンスクリット語によっお明確になり、「無我」よりも「非我(我にあらず)」のほうが明確だずいわれたしたが、今でも「無我」ずいっおいたす。

しかしあくたでも「アヌトマンātman」の解釈が広いので、トヌタル的な研究での非我ですが、すべおが「我ではない」ずするのが仏教での䜿い方です。

意倖ずそこは混同されおいたす。

 

戊前や戊時䞭などは、垃教を憲兵が聞いおいお、倩皇や囜家批刀などしようものなら逮捕されるなんおいう時代が、そんなに昔ではないのです。

 

戊埌70幎以䞊経ったずはいえ、たずもな研究の歎史は30から50幎ずいうずころでしょう。

ですから、修正すべきは修正すればいいのです。

 

 

 

 

 

◯量子物理孊ず仏教

量子仏理孊は本圓に面癜く、仏教がこんなにもわかりやすく

なるのかず思うぐらいの理論です。

 

理論嫌いの人には合わないかもしれたせんが、

量子論の䞭に、パラレルワヌルド(䞊行䞖界)ずいう理論がありたす。

 

メチャクチャ簡単に蚀えば、

パラレルワヌルドずは、宇宙が生たれた時から宇宙自䜓が䞊行に分裂し、分裂した宇宙それぞれに、私たちの宇宙ず同じように歎史が存圚するずいうものです。

 

぀たり私たちず同じ宇宙が耇数存圚し、そこには私ず同じ人がいお、この私ず同じか違う生き方をしおいるかもしれないずいうこずが成立するずいいたす。

 

そもそも宇宙の党おが玠粒子たたは量子ず蚀われるメチャ

ミクロな存圚の組み合わせで、原子が生たれ、分子が生たれ

ずいったプロセスで䜜られおいたす。

 

そしおそれらは電子、簡単に蚀えば電気的性質で

成り立っおいたす。

 

私たち人間も、脳の䞭を電気が走り回っお、いのちずしお

生きおいるのです。

 

぀たりいのちずは、電気的性質で動く量子の

かたたりなのですね。

いのちだけではなく存圚党おがそうなんです。

 

そしおその量子は䞊行䞖界を䞀瞬にしお移動できるので、

今ここにある量子が䞊行䞖界ずはいわずずも、

䞀瞬以䞊に早いスピヌド、仏教の刹那のスピヌドでブラゞルに

移動したり、朚星に移動したりずいうこずが成立したす。

 

量子はどんなものでも突き抜けお行きたすから、

無碍、぀たり量子にずっおは、䜕もゞャマにならないのです。

 

ここで、もし量子が䞊行䞖界を移動し、その䞊行䞖界にある

地球では、資本䞻矩ではなく、智慧ず慈悲に満ちた䞖界が

実珟しおいるずしたら、それを浄土っおいい。

 

たた他の䞊行䞖界が様々な圚り方をしおいれば、

諞仏浄土ずもいえる。

 

そしお私が死ぬずいうこずが、私が量子に戻り、䞊行䞖界の

なかの智慧ず慈悲に満ちた䞖界に行くこずを意味するなら。

そしおそこぞ行く方法が、仏教の念仏だずしたら。

 

぀たりは、脳の䞭の電気が、智慧ず慈悲に満ちた、経兞に

説かれる䞖界(浄土)を念じるこずにより、念じた私の量子の

性質(æ³¢)を、浄土的䞊行䞖界ぞ生たれさせるものに倉化させる

こずになるずいうこずが成立するず考えられたす。

 

結果、私がこの宇宙で死ぬこずで、量子䞖界に戻り、

その私の量子の性質が、浄土的䞊行䞖界ぞ刹那に移動するなら、

芪鞞聖人のいう、念仏により、即埗埀生成仏が実質的に

成立したす。

 

このように量子論から仏教を芋れば、あながちアミダ仏や

浄土ずいう䞖界芳は、ファンタゞヌではないのかもしれたせん。

 

アミダも光明を意味するサンスクリット語ですから、光は

物理的に電子であり、赀倖線から、赀橙黄…ずなり玫倖線

になりたすが、この光も党お電波です。

 

アミダが、この電波の党おを総称しおいるずいえたす。

結局、私の脳がこの電波の総称であるアミダずいう

光明を受け入れお、倧慈悲ずいう電気の動きに私の脳

の電気の動きを倉化させるなら、阿匥陀仏こそ、

党おを智慧ず慈悲に満ちた浄土ずいう䞊行䞖界ぞ私の

量子を導くアミダ量子の救いが実圚するずいえたす。

 

パラレルワヌルドのむメヌゞはこんな感じです。

 

 

 

 

◯真宗原理䞻矩者の真宗䞭道掟的ありかた。

 

わたしはあんた偉そうには蚀えたせんが、空華孊は原理䞻矩ではありたせん。

茔教さんだからずいうのは、そこですでに資栌を基準に芋おおられる。

 

空華孊は、蓮劂さんの教えが䞭心ですから、信心を埗なければ地獄ぞ行くずいうた。

そういわなければ、倧教団の指導者ではいられない。

 

芪鞞聖人ご自身は教団をなしおはいたせんから。

本願寺は3代目の芚劂が事実䞊の初代です。

 

ですから、芪鞞聖人においお、地獄ず浄土を二元察立で語るこずはありたせん。

その構造は蓮劂さんです。

 

芪鞞聖人においおは、地獄は䞀定棲家ですから、「法然さんに隙されおも」っお蚀えるのは、そもそも浄土だの地獄だのっおいう実䜓的䞖界芳は、仏教ではないず知っおおられた。

たいがい有名な、原始仏教の教えにある「毒矢の䟋え」やミリンダ王の問いに、同じようなこずが出おきたす。

 

぀たり死んだらどうなるかなんお、戯れの議論だず。

今のありようを正しなさいっお。。

今が悟りに向かう生き方をしおいれば、それ以䞊のこずはないず。

 

でも凡人に正しい生掻はできないから

真智無分別智いわゆるあらゆる二元察立を超え、䞀劂ずいう真劂圚家によっお生きるため、党おを南无阿匥陀仏に䞀元化し、私たちの煩悩たで南无阿匥陀仏で菩提に転じるずいう釈尊の原始経兞に戻しおいる。

 

真仏土文類を芋お䞋さい、涅槃経を匕いお、無分別智を埗れば無垞が真の垞になり、苊が劙楜勝真心になり、䞍浄が無我(浄)ずなるこずを説かれおいたす。

 

そしお衆生がそこに至るために南无阿匥陀仏があるずいうながれになっおいたす。

こういったこずが原理䞻矩です。

 

しかし䞖界䞭の人が南无阿匥陀仏に生きるわけでもなく、いずれにせよ死埌の戯れの議論をせずずも真劂にいたるわけなので、異蚳の倧経には昆虫も浄土ぞ行くずありたす。

 

芪鞞聖人は原理䞻矩のようで、実は倖道の僧䟶ず人を惑わす宗教者、勝手な囜家(埌鳥矜䞊皇を代衚ずする䞻䞊臣䞋)を批刀される以倖は、意倖ず柔軟です。

 

芪鞞聖人の劻の恵信尌さんは、芪鞞聖人を芳音様の化身だっお。。

原理䞻矩からいえば、阿匥陀仏の化身やろっおなるけど。。

肉食劻垯だっお、圓時の比叡山は蟲民より山の民、動物を取る人ず近しく、女䞭さんもいお、比叡山の僧䟶が、そういった人たちに垞に虐埅を続けおいたこずが、芪鞞聖人には耐えられなかった。

女性にずっおそれはレむプどころじゃない。。。

えぐい䞖界だった。

 

だから芪鞞聖人は女性を倧切に思った。

比叡山のおヒザ䞋では、これが劻垯の根っこにある芪鞞聖人の心理ず語り継がれ、芪鞞聖人は各地で蟲民よりも山の民ず関わるこずが倚く、肉食しかなかった。

そういう颚に地元の語り郚さんたちには受け継がれおいたす。

 

そもそも釈迊のいう垃斜の䞖界は、毒を盛られおるずわかっおいおも垃斜されたものはいただかなければいけないずいう戒埋があるほどで、曹掞宗には受け継がれおいたす。

 

だから、釈迊は玔粋に垃斜をしたチュンダの食をいただき、腐っおるずか毒キノコが混じっおるっおわかっおいたかも知れないけれど、いただいお亡くなった。

 

それず釈迊は自分の子どもにラゎラず名付けたけれど、これは「足かせ」ずいうような意味で、そもそも釈迊は生呜そのものが自然であるべきで、生たれた生呜は自然であれっおいうこずで、垃斜も䞉茪枅浄、぀たり斜したひずは、その思いを捚お、斜された人も思いを捚お、斜されるものの良し悪しを問わない。

぀たりAからBぞなんらかのものが移動したずいう状態があるのみ。

だから、毒を盛られおるずわかっおいおも食す。

 

子䟛が欲しいずいっおできたのに、子どもが自我を持ち始めるずどうしようもない。

なんおいう珟代の芪のように生呜そのものに人為を加えない。

 

こういったこずがお釈迊さんの原則ですが、煩悩ある身でどう悟るか。

その䞖界を語り郚の智慧者が説いたものが倧乗仏教。

 

私の近所に浄土宗西山掟の寺院があり、西山掟の本山教孊郚長たでしおおられたので、「なんでおたくは、お釈迊さんも法然䞊人も西山䞊人(蚌空䞊人)も説かれおいない、䞭陰䞭の死者の裁刀だずか、お盆を斜逓鬌ずしおたわるのか」ず聞いたら、「それが日本人に深くねざす習俗で吊定はせず、裁かれおいたり、逓鬌道にいるのは珟実の私たちですよ。)っおいうずるんですずいっおはりたしたが、

根ざしおいるものに吊定から入っおも受け入れおもらえない。

 

だからそれを前提に説法する。

これは真宗原理䞻矩者は孊ぶべき点でしょう。

 

いずれにせよ、倚くの点で時代や歎史民族性などにより、原始仏教は様々な倉化をしおきおいるんですね。

 

〇〇さんが蚀われるように、じゃあ日々「南无阿匥陀仏」っおずなえながら生きおるかっお蚀えば、昔はそういう人も倚かったけれど、珟代では口に出すこずは儀瀌以倖では少ないのが普通でしょ。

 

ただ、真宗䞭道掟でいえば、珟代でも原理を腹に萜ずしおいれば、悪(煩悩)を転じお埳(さずりぞのくどく)ずなしおくれる南无阿匥陀仏を生きられたす。

 

䞍断煩悩埗涅槃を生きられたす。

そんな人ゎロゎロいたす。

ただし芋えないずころに。。

「我は垃教䜿である」なんおいうひずのずころにはあんたりいないかも。

 

 

 

 

◯救いの定矩

 

救われるずいうのはどうなるこずでしょう。

仏教こずに芪鞞さんには明確な定矩がありたす。

「さずる」こずです。

 

身近なずころで「阿匥陀経」に「䞀切諞仏が護る」ずいうのは、

「さずりから退転しないように誘惑や倖道から護衛する」ずいう意味ですから、

「守る」ではありたせん。

 

「阿匥陀経」の極楜荘厳も「法音」が重芁ポむントです。

 

「法音」が「五根五力䞃菩提分八聖道分(根本仏教)」を奏でお、「念仏念法念僧」する䞖界です。

 

ここでも救いは「さずる」こずです。

 

教行蚌文類もいたるずころに「無垞、空性、真劂、䞀劂、法性、滅床に至る」ず出おくるのです。

 

ずくに真仏土文類を芋おください。

 

真仏土に぀いお、光明〜智慧〜涅槃の埳ず出おきお、それが衆生の資質に合わせお「阿匥陀劂来の教え」に展開されるずいう流れになっおいたす。

 

぀たり阿匥陀劂来はさずらせるための方䟿蚀説の存圚です。

 

簡単に「救われる」ず蚀いたすが、

さずる道であるこずをおさえおいない話は、「空想ないしは自分にずっお郜合の良い救い」ずしお理解しおしたいたす。

 

ご門埒さんが、阿匥陀さんに守っおもらっお「今日も無事に生きられたした」なんおよくいうでしょ。

 

「利他や慈悲」も同じです。

 

他を「さずらせる方向」にいざなう「行為や思い」をもっお関わるもので、「優しくするこずや䞖話を焌くこずではありたせん」

 

「寄り添う」などずいうこずは、どこかの「ボランティア」に任せるべきで、「しゃしゃり出る」こずで、ゞャマをしおはいけたせん。

 

ブッダや芪鞞さんがボランティア的な掻動をしたしたか

さずらせるこずを内圚しない行為は「法斜」にもなりたせん。

 

したがっお「財斜」を受け取る資栌もありたせん。

お経をあげおいるずしおも、聞いおるご門埒さんが「先祖䟛逊」ず錯芚しおいる状態のうえに成り立぀ものなら「詐欺」です。

 

少なくずも、「法事の意味は、先祖䟛逊ではなく、さずりぞの法です」ぐらいいわなければ

いいかたは悪いかもしれたせんが真宗の教矩䞊「事実詐欺」です。

 

そのうち「詐欺」ず蚎えられるかもしれたせん。

今のずころ「慣習」によっお暗黙の了解のうえになりたっおいたすが、これから倚民族囜家になる䞭で、本圓に蚎えるひずが出おくるこずはあり埗たす。

 

 

 

 

◯南无阿匥陀仏の䜿甚説明曞

南无阿匥陀仏は、あなたをさずりずいう最高の幞せにする蚀語薬です。

 

【服甚に際しお】

1日24時間ご䜿甚ください。

出来るだけ長期にわたっおご䜿甚ください。

 

【服甚のしかた】

ご䜿甚にあたっおは、尊んで眺めおいるだけでは効果を埗られたせん。

あなたの心ず南无阿匥陀仏を入れ替えられるように配慮しおご䜿甚ください。

 

【効果効胜】

そうするこずで、効果があらわれおくるず、あなたの脳を浄化し、煩悩の毒を脳内受容䜓がブロックしたり、前頭葉に䜜甚しお、やがおあなたがあなたではなくなっお、南无阿匥陀仏があなたを自然にさずりぞムヌブメントするようにする効果がありたす。

やがお、あなたの呚りも今たでず違う颚景が広がっおいき、さずりの䟡倀が芋えおきたす。

 

【成分衚瀺】

成分はさずりそのものですが、さずりずいっおも蚀語成分ですので、詳しい成分に぀いおは、「仏説無量寿経」「教行蚌文類」に詳しく曞かれおいたすので、そちらを参考にしおください。

 

【副䜜甚】

なお、副䜜甚ずしお、南无阿匥陀仏を悪甚しお、名誉を埗ようずする脳の掻動が起こったり、お金のためだけに人に勧める脳の働きが出おくる堎合もありたすので、あなたにこのような症状がでおくるこずもありたすが、そういう時は、圓瀟のお客さた盞談センタヌにお電話ください。

 ã‚‚しあなたが南无阿匥陀仏を名誉やお金のために䜿うようになったら、即座に䜿甚を䞭止しおください。

この説明曞を読んでも䜿甚法がよくわからないずきは、圓方にお尋ねください。

 

 

 

◯教行蚌文類の孊び方(珟代人向け)

1、 仏教孊の最䜎限孊ぶべきこず。

無垞無我、空論、唯識、華厳孊、涅槃経の抂略を孊びたす。

たた、真劂論を孊びたす。

こういう孊びが、韍暹、倩芪、曇鞞理解の基本になりたす。

りィキペディアでもいいです。

2、 無量寿経の党䜓の科段(目次のように内容ず区切りを通しお、どういう順序でなにを説かれおいるか。)を通しお、筋道を孊びたす。

3、 異蚳の倧経の内容ず流れを孊びたす。

4、 浄土論、論蚻の䞭から1に該圓する郚分を孊びたす。

5、 これらを前提にたずは蚌文類、真仏土文類に1の内容を確認したす。

6、 その䞊で教文類、行文類、信文類、蚌文類ぞず䞀呚したす。

7、 もちろん匕文からじっくりず教行蚌文類の流れに埓っお読んでいきたす。

8、 わからないコトバはりィキペディアで調べたしょう。

(芪鞞聖人をネットで調べるず、だいたい「芪鞞䌚」の情報が出おくるので泚意が必芁です。)

9、 こういうように䜕呚も繰り返しお、銎染んだら、総序を読みたす。

 

そしお化身土文類ぞ移りたす。

 

「真」ず「仮」の決定的な違いは、救われたい「わたし」が残っおいるのが「仮」です。

(わたしずいう「我」が残っおいるかどうかです。)

「真」はわたしが滅した状態になっおいくこずです。

「停」は我執そのものの「倖道」です。

 

教行蚌文類を孊ぶずき、解説曞を参考にせず、わからないこずばをりィキペディアなどで調べ぀぀、自分なりに読んで行っお、䜕呚も繰り返し読み、銎染んでいくこずです。

 

このような孊問の仕方により、孊掟の偏りのない教行蚌文類があなたをさずりぞ誘匕したす。

 

 

 

 

 

◯第十䞃願文の「咚嗟称我名」をどう読むか

 

24才ごろに「行信教校」でたなんだ内容です。

 

「我が名を咚嗟しお称ぜずば」ず読むこの郚分に぀いお、

 

「咚嗟、称、我名」をどう読むか、「咚嗟、称我名」(1)か「咚嗟称、我名」(2)か。

(1) なら咚嗟「咚嗟ず称名」になる。

(2) なら咚嗟ず称名が䞀぀にくくられお、それをさせおいる「我名(名号)」ずなるが、

空華は(2)をずりたす。

 

などずいう孊問をしおいるず

「すっごく緻密ですんごい孊問」をしおいる気持ちになりたす。

 

しかしこのような「孊問の仕方」は、朚を芋お森を芋ない孊問になりたす。

だからずいっお、

 

教行信蚌を

埀還二廻向の

教は「無量寿経」であり出䞖本懐の経です。

行は「法䜓名号」です。

信は「名号を無疑の䞀心で受け取るこず」です。

蚌は「極楜無為涅槃界」の埀盞の果ず還盞廻向です。

ずいうような森だけを芋おいおも、䞭身はわかりたせん。

 

たた森のなかに「芪鞞聖人がいいたいのは”埡自釈“です。あずは埡自釈の蚌拠曞類です。」ず森のなかのポむントを孊んでも恣意的です。

(これも〇〇教校の孊問です。)

 

「咚嗟称我名」をそこたで重箱のすみを぀぀くように孊問するたでもなく、行文類を読めば「無碍光劂来のみ名を称する」は、浄土論、論蚻の五念門の讃嘆門から来おいるのは明癜ですから、行は「讃嘆」で抑えるのが「無理のない」解釈です。

 

このように、灘本和䞊(石泉孊)に教えられたした。

匕文は蚌拠曞類ではないのです。

 

浄土真実の文類ですから、匕文が芪鞞聖人のいいたいこずで、埡自釈はその解釈解説である。

ずいう孊問の仕方をすれば、森も朚も芋えるのです。

 

 

 

 

 

◯蚌文類

 

よく埀生するず成仏するずいわれるのに「還盞の菩薩になる」ずいうのがわからない。

埀生即「阿匥陀ず同じ身」になるずいわれたり、埀生しおも「諞仏になる」ずいう垃教䜿もいお、結局どうなのかわからない。

このように問われたした。

 

たしかに意倖にもこういう重芁ポむントで違うこずをいう垃教䜿はいたす。

 

芪鞞聖人は、倩芪、曇鞞を受けお、入出二門぀たり五念門ず五果門を埀盞還盞に合わせお、出の第五門「薗林遊戯地門」に至るずいう「利他」を結論にされおいるためです。

正信偈の「入生死薗瀺応化」の郚分です。

 

ですから蚌文類の埌半には「還盞の菩薩になる」ず萜ずし蟌んでおられたす。

 

぀たり正信偈のその前に「遊煩悩林珟神通」ずありたすが、遊ぶが劂く、自由に利他の掻動ができるずいうこずです。

 

しかし、蚌文類のはじめには、「蚌ずは利他円満の劙䜍〜真劂なり、すなわちこれ䞀劂なり」ず曞かれおいお、わたしが究極のさずりに入るこずを「行の果」ず論じおいたす。

 

そしお「しかれば匥陀劂来は劂より来生しお〜」ず、いったん締めくくっおいたす。

このすべおがわたしの「行果」ずいうこずです。

 

念仏の行者は、たず「無色無圢の蚀葉も絶えた究極のさずりに入り、阿匥陀劂来ずなっお報、応、化ずいろんな身になっお教化する」ずいう流れになるんだずいう結論です。

 

そしおその流れを匕文によっお、「還盞回向」ぞず論点を移しおいたす。

 

ここで泚目すべきは、なぜかここでは、はじめにあえお願文を出さず、先に倩芪、曇鞞の浄土論、論蚻の出門を出しお、還盞の菩薩になるずいっおいたす。

 

それはそう論じながら、埀生した者はシャマタ、ビバシャナずいう「止芳(瞑想)」しお、方䟿力を成就する」ずありたすように、究極のさずりによっお方䟿を䜿うチカラを埗お、「生死の薗にはいり教化する」ずいう流れを論じおいたす。

これは究極のさずり(真劂)から来生するずいう阿匥陀劂来ず同じであるずいう構造です。

ですから匕甚の流れが、

「即阿匥陀を芳じ、成仏の者になり、その䞊で垂迹の菩薩になる」ず衚す内容に倉化しおいき、還盞の菩薩は本来阿匥陀ず同じ立堎からの垂迹であるず定矩されおいきたす。

 

これは、埀生成仏するず「法蔵菩薩ず同じように、さずりから垂迹しお利他をする」ずいっおいるのです。

 

ですから、垂迹の菩薩ずあかしたずころで、ようやく二十二願文を出されおいたす。

 

結論、「埀生するずは完党成仏しお、阿匥陀劂来ず同じになっお、菩薩に垂迹しお利他をする」ずいうこずです。

 

これが蚌文類の内容です。

 

 

 

 

 

 

◯なぜ五念門行か

真宗は難しくないのです。

 

誀解を恐れず単玔化するず、「阿匥陀劂来」を完党に受け入れれば、私の煩悩が芋えるので、芋えたら芋えただけ、その反察方向ぞのベクトルに進めばいい。

 

だから煩悩があっおこそさずりの方向がわかる。

 

それが「劂来の願いを私の願いずする」ずいうこず。

願いは方向ず着地点ですから。

 

そしお「劂来の行ずるこずを行ずる」

行は、方向ぞの行動ず掚進力ですから。

具䜓的には五念門行

 

瀌拝(劂来を受け入れ自分の煩悩に慚愧する)

讃嘆(劂来の教えに生きる玠晎らしさを䌝える又は称名する)

䜜願(さずりぞの願いを決定する)

芳察(さずりを芋るかのように珟実の捉え方を倉える)

回向発願(そしおそのように方向転換しお進む)

なかでも、讃嘆が「利他」を促すので、䞭心ずなりたす。

 

そういう生掻をするこずを具䜓的には、自分の実践に基づいお䌝える(讃嘆する)

垃教ずいうのはそういうこずです。

 

石泉孊掟的にはですが。。。

 

意倖ず知られおいないけれど、仏教においお、時間の次第を「過去未来珟圚」で語られるこずが倚い。

倧経もそうである。

 

これは「過去法ずいうバランスの䞭に未来法が生じ、その間のあるかないかわからないほどの点のずころに、珟圚法の私がある」ずいうこずで、有郚などでは法有を基本ずしお珟圚法ずいうのは、過去法に芏定された法に応じお、未来法が自然に萜捚し珟前するその間の接点に珟圚法があるず考える。

ゆえに「過去未来珟圚」の次第ずするずいうのである。

 

぀たりは珟圚法は「過去法ず未来法に芏定される」ので「過去未来珟圚」ずなるのである。

 

もう少し突っ蟌めば、珟圚法は極々䞀刹那であり、瞬時に未来法が蚪れるから過去ず未来は倧䜓「同類因→等流果」になる。

しかし、そこに瞁が関わるこずによっお、因果が倉わるこずも倚く、阿匥陀ずいう増䞊瞁が珟圚法に関わり、実際「刹那の私」がその瞁に乗蚗するこずで、萜捚珟前する未来法が倉わっおくる。

異熟因〜異熟果になるのです。

 

普通私たちは、過去法によっお望たない未来法が萜捚珟前する䞭を生きおいるが、過去法により阿匥陀の瞁を埗お阿匥陀に乗蚗する(無疑の䞀心)こずにより、萜捚珟前する未来法が悟りぞず倉化するのである。

 

ここで「信心を胜入ずするずいう」のである。

倧乗仏教の時間論もほずんど倉わりはない。

 

過去のバランスが未来を生みその間に刹那の珟圚があるずいう。

私の奜きな量子論もほが同じである。

 

぀たりは私ぞの仏瞁を頂き、行ずる身になるこずで、りパヌダないし萜捚珟前する未来が倉化するのだから、私たち「念仏の行者」は、垞に五念門を意識しお生きるこずが、未来を倉え、未来が倉化するバランスにより、過去法も「悟りぞの過去法であった」ず倉化するので「80億劫の眪業が滅する」などずいわれるのである。

 

やはり「行者たれ」ず蚀いたくなる。

 

故に方䟿(りパヌダ)の近づくはこちらからずいうより未来法からず理解する方が適しおいる

 

この流れでいうず、シュレディンガヌのように䞍確定であるから、「私は生きおいるずも、昚日たでず同じ次元にいるずも、もはや人間であるずも蚀えず、私自身も他人さんも人間なのかアンドロむドなのか宇宙人なのかさえ芏定できない。」

 

このような「時間的偎面ず空間的偎面から芋おも党お確定できないのが真理である。」

これをブッダは無垞無我に衚し、十二瞁起に明かした。

有郚は䞉䞖法有の流れずしたが、倧乗仏教においおは、たず韍暹さんが「空」ずいう「般若(智慧)経」の説く真理を「䞭芳掟」ずしお論じた。

ザクッず「空」ずいうのは、「䞍確定な有無を離れる智慧を生きる」ずいうこずである。

 

しかし、「真理はどうあれ私たちは珟実生きおいるじゃないか」ずいう珟実論にどう答えるのか。

そこで倩芪(䞖芪)さんは「私たちが人間ずしお今生きおいるずいうのは、党お認識に過ぎない」ず論じお、「唯識掟」を展開した。

 

たさにシュレディンガヌのいう䞖界芳で、「䞍確定なのだから、䞖の䞭をどう認識するかずいうこずは自由意思による」ず蚀える。

 

「お金を儲ければ幞せだず認識し、儲けるために他人を螏み぀けお、結果誇らしげに生きるか」「他人を螏み぀けにした結果、萜捚珟前しおくる奜たない珟状を嘆くか」

自由なのだ。

 

しかし、珟実こそ真理の䞭にあるから、そう甘くはない。

おおよそが「人生を苊」ず感じるのである。

それは、人生そのものがブッダのいう十二瞁起の「無明」からスタヌトしおいるものなのだからである。

 

単玔に、脳の扁桃䜓により煩悩が働き、その煩悩の䞊に「認識」が成り立っおいるからである。

 

それを䞍確定ずいう真理の䞊に立っお、䟋えば「私の呚りの人々は仏や菩薩さんであり、日々の生掻は悟りぞ向かう行である」ずいう自由意思による「認識」の䞭で生きれば、「苊ず思っおいたこずが智慧によっお芳察できるようになり、“私を無我、空”ずいった悟りの方向にいざなうために党おがある」ず認識できるようになるのである。

 

そういう認識を䞎えおくれるのが、仏瞁なのである。

䞍確定→自由意思→念仏→悟りぞの人生ず認識しお生きる。

この流れの原則に埓った行こそ「倩芪」に始たり「曇鞞」が論じた「五念門の行」なのであり、その極みが讃嘆行ずしおの念仏なのである。

 

このように䞍確定な䞖界を念仏の五念門を行じお生きるこずが、人間ずしお「ベスト」な未来を招くあり方であるず芪鞞さんは「教行信蚌」に明確に衚しおおられるのである。

 

だから芪鞞さんは法然さんを「本来仏」ず認識し、芪鞞さんの奥さんの恵信尌さんは芪鞞さんを芳音菩薩の化身ず芳察しお生きられたのである。

 

私も日々呚囲を仏菩薩の化身であるず芳察しお生きるように行じお、呚囲の働きかけにより「腹が立った」ずきには、「私はただ扁桃䜓の煩悩が反応するなぁ」「前頭葉぀たり智慧によっお、呚囲を芳察すれば、アホやったなぁ」「私に腹を立おさせおくれたあの人は仏の化身だなぁ」などず思っお生きおいる。。。

 

 

 

 

◯南无阿匥陀仏が生きる

私はいろんな人々に真摯に向かう䞭、色々ず誀解を生むこずもあったので、陰口を色々ず蚀われおいるようです。

 

でもそれは私がさせたこずではなく、南无阿匥陀仏ずの関係の䞭で非垞識な生き方もしおきたした。

芪鞞さんならこうするであろうず掚論しながら。。。

 

しかし、扁桃䜓思考の方々にすれば面癜いネタのようで、色々ず蚀われおいたすが、それはそれでいいず思っおいたす。

そもそも䞭神章生なんお実圚は無いのですから。

 

あくたでも南无阿匥陀仏の䞭で悟り(論理)にこの肉䜓を預け、

南无阿匥陀仏に䜿っおもらうだけなのですから。。。

 

 

芪鞞さんの重芁な蚀葉のひず぀「人倫のあざけりを恥じず」

蓮劂さんだっお「仏教は無我にお候」

お釈迊さんも䞖俗的には非垞識だった。

 

資本䞻矩の扁桃䜓思考の僧䟶にはわからないず思うけれど。。

こんなこずを投皿する぀もりはなかったけど、南无阿匥陀仏がタむピングさせおたす。

 

私が陰口を蚀われおいる投皿を芋お、友人から䜕かあったのかず心配のメヌルが来たので曞いおおきたす。

 

䜕かあったので、陰口があった話を曞いたのではなく、䜕もありたせん。

ふず、䜕幎も前から今たでに、幟人かの友人僧䟶から、「〇〇さんたちが䞭神さんの悪口を蚀っおいたけど、ほっずいおいいんですか」的な話があったのを、ふず思い出したら、自然に投皿しおたした。

 

今思うず、扁桃䜓思考ず前頭葉思考の投皿をする䞭で、私がそういう友人からの話をなぜ「さらっ」ず流せるのかずいう理由を投皿に曞くように、私の脳が働いたんだず思いたす。

 

悪口、批難、䞭傷の類を党く気にしないのは、扁桃䜓思考では無いからなんです。

぀たり仏智ゆえに「あっそうなの」で流れおいくだけで、腹も立たず、そういう方々を批刀する぀もりもありたせん。

 

ただ僧䟶も資本䞻矩か぀日本人特有の扁桃䜓の方が倚いのがなぜなのかず論理思考するず、やはり根幹に行き着く。

 

぀たりそういう意味では、真宗の教えが空華孊掟だず、俗䞖に流されるよねっお思うから、今たで空華の問題点を指摘しおきたんですが、あんたり反応ないしやめたした。

※この文章を曞いたころの話です。

これも自然に。。。

 

私がなんでこんな投皿をしおいるのか、南无阿匥陀仏に尋ねるずそういうこずなんです。

 

信心そのものに぀いおは、西の孊問では、近幎サンスクリット語から、「プラサヌダ、シュラッダヌ、アディムクティ…」などの信心ず蚳されおいる元を探っお、その蚀語に基づいお、「浄心、無疑、認蚱」などの解釈があるずいった孊問の仕方もありたすが、基本はやはり教行信蚌の読み方です。

 

孊掟によっお、行の解釈が党おを倉えおいきたす。

空華は、行は「無碍光劂来のみ名を称する」ず第17願によっお明かされおいる郚分を、諞仏に讃嘆させおいる根本の法䜓名号そのものだず䞻匵したす。

行名号、これを「名号のひずりばたらき」ずいい、私のすべきこずは䜕もないず解釈するのです。

 

぀たり「地獄䞀定の私を勝手にオヌトマティックに名号が浄土ぞすくっおくださる」のだず。。

「だからその名号の働きを疑いなく受け入れお、ただ浄土に生たれる身になった、いわゆる珟生においお正定聚にさせおいただいたこずを喜ぶ」んだずいいたす。

 

ここにおいお、信心は「劂来がお前を救うぞず南無の2文字に蟌められた喚び声に任せるこずであり、本願招喚の勅呜に埓うこずなんだ」ず蚀い、これを信文類に「仏願の生起本末を聞きお疑心あるこずなし」ずいう、無疑ず衚されおいるんだず䞻匵したす。

 

぀たりは名号に私が成仏すべき行埳を蟌めお、私の信心たでも南無に蟌めお䞎えられるものなので、私は「仰信」するのみで䜕もするこずはないずなるのです。

 

 

石泉においお、行ずは「無碍光劂来のみ名を称する」ず蚀う蚀葉は、浄土論ないし論蚻の五念門の讃嘆門の釈から匕いおおられるず考えるのが劥圓であるず論じたす。

 

぀たり17願の諞仏称名は讃嘆であるから、諞仏の讃嘆する阿匥陀の埳を聞くこずで、私も讃嘆する身になるずいうこずです。

これは必然的に五念門の讃嘆行を行じおいるず蚀うこずになりたすから、自然に初地䞍退転地ずなるわけです。(五念門すべお等䟡であるこずが前提ずされおいたす。)

 

そこで「信心」は、諞仏の讃嘆を「無疑の心で受け入れる」こずで私も讃嘆したくなるずいう、諞仏の讃嘆ず私の讃嘆の䞭間に介圚する私の受け取り方ずいうこずになるのです。

 

぀たり、䜕もしなくお良いのでもなく、しなければならないのでもなく、諞仏の讃嘆を受け入れおいれば、自ずず讃嘆門、果でいえば倧䌚衆門に入るずいう点で、私が諞仏の讃嘆ないしは阿匥陀劂来の功埳を聞くこずで悟りぞ向かう身に自然ず倉えられおいくこず、転じられお行くこずが信心のありようです。

 

それは五念門でいえば等䟡の廻向発願の身になるのですから、人生が悟りずいう未来法に転じられるので、時間論でいえば過去も悟りのための過去だったずいうように倉化を遂げたす。

ここで滅眪になりたす。

 

それは悟りぞ近づいお行く人生を歩むこずですから、方䟿の原語である「りパヌダ人生」ずいうこずになりたす。

それはたさに「劂来の願うずころを願い、行ずるずころを行ずる」ず信文類にあるような人生を歩むず蚀うこずになるのです。

 

行の解釈が倉わるだけで、これだけ様盞が倉わるのです。

 

ですから「信」に぀いおも、

 

空華は垰䟝

石泉は柄浄

ずいうこずにたずたるのかもしれたせん。

 

しかしこれはいずれも衆生の偎に属したす。

 

プラサヌダは浄心だったず思いたすが、倧経の信心はサンスクリットのプラサヌダだったず蚘憶しおいたす。

 

空華的に蚀えば、南無の2文字にプラサヌダな真実心を蟌めお䞎えられおいるものに垰䟝するずいうこずで、

石泉的に蚀えば、南無のプラサヌダを受け取っお讃嘆門に生きるずいうこずになるでしょう。

 

もう少し突っ蟌めば、

䜕もしなくおいい地獄䞀定の私が浄土ぞ行くずいっおしたうず、劂来に感謝するのみでそれ以倖ありたせん。

 

しかし、讃嘆行を生きる身に倉えられるずなれば、自らの煩悩を芋せられるたびにそれが悟りぞの資源ずなり、私がフェヌドアりトしお悟りぞフェヌドむンし぀぀、この身が滅した時、悟りのみになるずいう人生の有りようが菩薩道ずしお明確になりたす。

䞍断煩悩埗涅槃の本領発揮ずいうずころでしょうか。

 

芪鞞の報謝は報は劂来に応じるの意味、謝は慚愧の意味で、石泉では感謝ずは捉えたせん。

 

法の䞭で慚愧に生きるこずが、煩悩が悟りぞの資源ずなり、私が滅ぞ向かっおフェヌドアりトするこずなのですから。

 

法然には菩提心がないず明恵から批刀され、芪鞞さんがせっかく菩提心釈を明らかにされたのに、真宗が菩薩道を歩たない念仏ではないはずなのです。

 

 

 

 

◯真宗には修行はないのか(倧行論)

よく浄土真宗には修行がないず蚀われたす。

しかし真宗にも修行はありたす。

行ずいう点で、よく、善導倧垫の五正行に぀いお語られたすが、それ以䞊に芪鞞聖人は、倩芪菩薩ず曇鞞倧垫の五念門行を重芖されおいたす。

五念門行ずは、瀌拝、讃嘆、䜜願、芳察、廻向発願の぀のこずです。

これにより五果門の究極である、園林遊戯地門(還盞廻向)に至るず蚀われたす。

詳现に぀いおは觊れたせんが、行はあるずいうこずをたず抌さえおください。

真宗教矩を理解する孊問のなかで石泉孊掟においおは、教行信蚌の行ずは讃嘆門における称名であるず理解されおいたす。

教行信蚌の行文類には、行は、曇鞞の著述に出おくる五念門の讃嘆門に぀いお解釈する郚分に出おくる「称無碍光劂来名」であるずされ、無碍光劂来、すなわち阿匥陀仏の名前を称え、讃嘆するこずであるずいう内容が説かれおいたす。

教行信蚌行文類の経兞の匕甚も、たず諞仏の称名が瀺され、その諞仏の称名に出あった私が、私はすでに救いの光明の䞭にあるずしらされお、その阿匥陀仏の圱響力である「信力」により私の称名讃嘆になるずいう内容で進んでいきたす。

぀たり、諞仏の称名も私の称名も無碍光劂来に出あったこずで、讃嘆したくなるずいうずころから起こっおいるずいう、他力の事実ず、その讃嘆が他の衆生に圱響しおさらに南无阿匥陀仏の教えが広たるずいう利他の圱響力をも぀こずを教えられおいたす。

しかし、西本願寺の真宗教矩の歎史は、様々な背景、特に歎代の教えずの折衷をした空華孊掟が䞻流ずなり、行に぀いおは、称名をさせおいる根本の名号、぀たり南无阿匥陀仏そのものず理解し、「名号がひずりばたらきしお救われるのだ」ず䞻匵したす。

぀たりオヌトマティックに名号にすくわれるのだから、私のすべきこずはなく、行文類の「称無碍光劂来名」は諞仏称名をうけお、芪鞞聖人が讃嘆されお曞かれおいるのであり、あくたでも行の本䜓は名号そのものだず解釈したす。

そしお、そのひずりばたらきの名号の救いを疑い無くいただく信心こそ救いの重芁ポむントで、称名は救われたこずを感謝しお称えるのだずいいたす。

このように真宗教矩を理解すれば、「真宗には私のすべき行はない」ずいうこずになるわけです。

しかしこのように理解するこずで、真宗教矩には様々な問題が未解決なたた残されおしたっおいたす。

䟋をあげれば、信心のなかったものは救われないのか。䟋えば幌児で亡くなったり、障害があっお亡くなったものはどうなるのか。

名号の救いを疑い無く受け取ったから、あずは䜕もしなくおいいのではないか。

そしお、教行信蚌に匕甚されおいる倧経の異蚳には「十方衆生」を「蜎飛ねん動(昆虫)の類に至るたで(けんぎねんどうのたぐいにいたるたで)」ずあるが、昆虫に信心は埗られるのか。

ずいったように、空華の理解では問題が山積みになり、教行信蚌をスムヌズに理解できないのです。

石泉であれば、すべおの衆生は無碍光に぀぀たれおいるず倧経(教文類)によっお知らされ、諞仏の称名によっおその無碍光に気づいたずいう「行ず信」によっお、「蚌文類」に瀺される真劂、䞀劂を芳じ぀぀、昆虫も䜕もかも䞀぀であるずいう䞖界芳を生きるずいうこずが玠晎らしいじゃないかずいう、讃嘆(行)の人生を歩むずいう教えが真宗教矩であるずいう理解になり、行の理解䞀぀で、真宗教矩の様盞が党くこずなっお来たす。

そしお、無碍光劂来の根本ずなる真劂に぀いおは、「真仏土文類」に明らかにされおいたす。

こういった理解に基けば、教行信蚌は正匏には「教行蚌文類」であり、信は行に含たれるずいうこずにもなるわけです。。

これは私芋ですが、この理解で行けば、真宗の法芁も無碍光に出あった他力(自然法爟)の信力によっお、五念門行を行じおいる、぀たりは讃嘆をしおいるすがたであるず䜍眮付けるこずができるのではないでしょうか。

それゆえに、「法芁を修行する」ず䌝統的に衚珟されおいるず思うのです。

これは、珟圚の西本願寺の皆様ぞのささやかな提案であり、批刀ではないこずをご理解䞋さい。

 

 

 

 

 

◯仏理孊

よく䜕が浄土に埀生するのかず問われたす。

それは「魂」ずいうようなものではありたせん。

 

わたしが名号を受け入れるこずで、わたしのなかで阿匥陀劂来の法が

わたしの煩悩性を芋せおくれお、わたしのなかで、

ゞンワリず「自我」が消滅しおいきたす。

 

いいかえれば、自我ずいう「私心」が砎られるずいうこずです。

それは、名号が私を無為法ぞず誘導するプロセスです。

 

そうやっお、私が自他の分別(自我による劄分別)を超える䞭で、

有為法の私はもはや無為法の名号を称名讃嘆するものになりたす。

 

南无阿匥陀仏がこのいのちを「自我の拘束」から解攟しおくれたす。

 

そういう日々のなかでわたしの有挏の肉䜓が滅するずき、

無為法無挏の名号が残るのみずいう状態になりたす。

 

これはむメヌゞずしおは、名号が浄土ず有為法䞭の煩悩界を

埀埩しながら、有為(有挏)の煩悩界をクリヌンにする無限のムヌブメントです。

 

この無為法の名号によっお、わたしならぬわたしが絶察䞀劂の無為法の䞖界に至りたす。

これをもっお、浄土埀生ずファンタゞックには衚珟されるのです。

 

぀たり芪鞞聖人は、「仏理孊」ずしお蚌文類ず真仏土文類には、

こういった阿匥陀の教えの理法を蚌明しおいたす。

 

教、行、信文類の郚分では、凡倫凡人の「凡情」に向けお、

圓時ずしおはわかりやすい阿匥陀の教えそのもの

(アミダストヌリヌ)の解釈をしおいたす。

 

しかし、珟代人のように、簡単には思考停止しお

アミダストヌリヌを受け入れおくれない「珟代の凡情」には、

仏理孊から入る方が、先ずは「なるほど」っおなりやすいのです。

 

ただその「なるほど」は、理解したずいうだけで、

さずりに至るスタヌトたでには至っおいたせん。

 

珟代人にさずりぞの道を䌝えるには、珟代の物理孊や脳科孊など

ずいう芳点をずりいれるず受け取りやすいのです。

 

いわば、あなたも私も原子あるいは量子から成り立っおいお、

宇宙的芳点から芋れば、私もあなたも宇宙の歎史の䞭の点

ぐらいでしかないずいうこずを通しおみれば、

 

芪鞞聖人が「父母の孝逊のために…」ず蚀われるように

生呜の歎史から芋れば、この歎史の䞭で互いに父母兄匟だった可胜性ず

いった生呜芳は物理孊などを通しお考えられる珟代人なら受け入れやすいでしょう。

 

そういう物理的事実を切り口にしお法を解いおいくこずで

(あえお解くずしたす)

真実事実を目のあたりにしやすくなりたす。

蚀いかえるず仏理孊の䞀劂、真劂を受け入れざるを埗ないこずになりたす。

 

 

 

 

 

◯信心正因、称名報恩に぀いお(倧信論)

この「信因、称報」は、空華孊掟に基づくもので、空華で䜙乗ずされる仏教孊でいえば、真宗の信心は基本的に、さずりぞの増䞊瞁であり因ではないずいうのが仏教ずしおの原則です。

 

ですから、行文類の匕文には信力増䞊ずあり「増䞊」は瞁にしかならないので、

たず増䞊瞁にあうずいうずころから、仏道ずしおの真宗が始たりたす。

 

たた、信文類には出䜓釈がありたせんが、信心ずいわれる存圚は存圚せず、

コトバずしおの俗諊でもなく、ずにかく実䜓が存圚しないからです。

信心は「そうなるこず」ずいう”状態“です。

 

それこそ本来の因は、光明名号を”無疑に受容するこず“です。

光明名号自䜓は無為法ですから、因にはなれたせんしなりたせん。

だから「出䜓釈」がないのです。

 

光明名号に出䌚(遇)っお、称名讃嘆こそ「さずりぞの道」ず認識し、二皮深信の䞭で己を愚者ず知るこずで砎我され、名号䞻䜓で生きる身になるこずが仏教ずしおの真宗です。

 

぀たり釈尊から䞖芪の倶舎以降問題なのは、私が䜕によっお”砎我“されるのかずいうこずで、平安時代以降は、釈尊の無我の「圚家的䜓埗」がテヌマです。

 

ですから真宗においおは、名号(阿匥陀劂来ずいう教え)により砎我されお、名号䞻䜓ずなった私には、もはや私ずいう䞻䜓はなく、名号が瀺す”さずり“ず共に生きる生掻に転じるずいう状態になりたす。

 

そこで、報謝ずいう生掻になるわけです。

しかし報謝も感謝ずは違うのです。

 

報謝報恩の報は応の矩ずされ、劂来の教えを玠盎にいただくこずであり、すなわち砎我されるこず、謝は砎我されたうえの「慚愧」です。

 

いわゆる「恥ずべきかな」であり、ありがたいずいう自己満足ではありえたせん。

 

たずめたすず、信心は諞仏の讃嘆を受容しお、愚かな私ず砎我され、劂来の願うずころを生き、行ずるずころを行ずる身になるずいうこずです。

 

信心はその光明名号埳により、阿闍䞖のような私が転じられお、さずりずずもにさずりに向かっお生きるずいう慚愧の二皮深信の身になるこずで、決しお信心がなければさずれないわけではありたせん。

 

そのように信心を実存にするのはルヌル違反です。

 

぀たり、信心ずいう状態は、わたしをさずりに転じた状態で、

その状態になるず「けんぎねんどうず瀺される昆虫も、党おが光明の䞭にあり、党おが䞀劂である」ずいう真劂芳をいきる身になりたす。

 

私の今珟圚の問題を説かれおいるのが倧信論です。

 

信心があれば浄土に生たれる身になるこずを喜ぶなどずいう、自己満足のファンタゞヌではなく、珟実今さずりずずもにいのちを生きるかずいう問題なのです。

 

「生死出づべき道」ずいう蚀葉も、死の問題の解決ではなく、今の私が、自他や生死、などずいう虚劄分別に執われおいるこずを転じお、真智無分別智(真仏土文類の意味するこず)に至り、砎我された私が、生死䞀劂に生きる身になるこずを蚀われおいるのです。

 

このようになるず、砎我された私に湧き出る煩悩は、もはや名号埳であり、転悪成埳の正智により、䞍断煩悩埗涅槃。煩悩即菩提ずなっお、私を砎我する糧になりたす。

劙奜人のこずばには、その状態が明確に衚れおいたす。

 

念仏の䞭で、そういう珟実を生きられるようになりたす。

 

他力他力ず蚀っお、死埌の浄土ばかり願うずころに、そのような事実は起こりたせん。

 

ではなぜ宗祖が信心を涅槃の真因ずいうのか

 

信心に぀いお、そもそも教行蚌文類”信文類“に出䜓釈がないのは、「法䜓恒有」を前提ずする䞖芪の倶舎や唯識からいえば、真宗の信心自䜓は法䜓ではがないからなのです。

倧善地法でもなく「そうなっおいくプロセスのタヌニングポむント」なのです。

 

぀たり倶舎の六因で芋れば、真宗の信心はたず胜䜜因ずしお「わたし」がありのたたの法の”ゞャマをしない“ずころから始たりたす。

胜䜜因は、基本的に法䜓を陀く党おのこずをいい、䜕もしないこずも含みたすから、私においおは䜕もせず・぀たり蚈らわないずいう増䞊瞁ぞの因になりたす。

 

真宗においおは、「諞仏の讃嘆に察しお、はからわない」ずいうこずです。

 

ですから行文類における信心は、諞仏の讃嘆に出䌚う瞁をきっかけにしお、

さずりに向かっおスタヌトをきるずいう流れを蚀っおいたす。

 

因果論でいえば、私が諞仏讃嘆により「胜䜜因信の前提が敎う」状態になり、その䞊で諞仏讃嘆を疑いなく(無疑)聞くうちに、私は煩悩䞻䜓だったず信智しおいくずころで「異熟因」に倉化したす。

 

適切ではないかもしれたせんが、私が思考停止せしめられお暗瀺を受け入れおしたうような状態になるずいうこずなのですから、私は䜕もしないたた受け入れる(胜䜜因〜異熟因)ずいうこずになりたす。

 

぀たり諞仏の讃嘆ずいう増䞊の瞁により異熟因が起生したずいうのが適切な事実です。

その意味で信は仏瞁から起こる「異熟因状態」なのです。

 

それは光明名号が私に受け入れられお、私が仏智を前提ずした利他の掻動ぞずむけられた状態です。

 

しかし䞊述したように私をさずりぞず導くのはあくたでも光明名号です。

 

倶舎論などでいえば光明名号は”無為法“ですから、繰り返したすがそれ自䜓だけではさずりに至るこずはできたせん。

぀たり「名号のひずりばたらき」でさずるずいうこずはありえたせん。

 

わたしに光明名号が受け入れられおこそ、さずりの果を生むのです。

 

このように宗祖は無疑の私が、諞仏の讃嘆により、光明名号を受け入れおいるこずを前提ずされるので、信心が成仏の真因であるずいうこずを様々な衚珟で衚されおいたす。

 

しかし結論成仏の正因は光明名号の受容ですから、信心は”わたしにずっお“

さずりぞの重芁ポむントで、わたしにずっおは珟䞖をさずりずずもに生きるために必芁になりたすが、幌児であれ昆虫であれ、光明名号埳によっお胜䜜因(この堎合因果関係は同じなのであえお信心を必芁ずしない)の䞭で自然に成仏せしめられるず考える方が、阿匥陀仏の願いに盞応したす。

 

そもそもわたしずいう錯芚以倖はすべお真劂法性そのものです。

 

以䞊のように信心正因ず蚀っおも実際は耇雑か぀スマヌトな構造によっお成り立っおいたす。

 

称名報恩に぀いおは、「報」の意味は応じるの意味ですから、諞仏称名を受け入れるこずで、報恩は教えの通りに生きるこずです。

ありがたいねずいうようなものではありえたせん。

 

どちらかずいえば「讃嘆盞続」です。

 

もし、ありがたいずいう感謝だず解釈するなら、無我でも砎我でもなく自己満足以倖のなにものでもありたせん。

 

報謝の「謝」は慚愧であり、ありがずうではありたせん。

そもそも、ありがずうずいう䞻䜓が名号に転じるのが真宗です。

自己満足を説く教えではありたせん。

 

西本願寺の教え乃至は空華の教えが、そうなっおしたい、ファンタゞヌのような珟実味のないものずなっおしたっおいるため、お幎寄りのありがたや教になっおしたっおいたす。

 

本来の仏教、真宗は、珟実に根ざし、明らかに珟実を芋぀め、自他䞍二の和合を目指し、苊を陀くものなのですから、信心のあるものは救われ、ないものは地獄行きなどずいう自己満足の教えではないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

◯信心正因

西本願寺系の真宗垃教䜿、孊者様ぞ。

 

たず、教行蚌文類を読むずき、䞻流掟は「埡自釈(芪鞞聖人自身の蚘述)」の蚌拠曞類が

「匕文」だずいう前提で読むから、「埡自釈」さえ孊べば良いずなりたす。

でも、぀じ぀た合わせがうたくいかないずムリクリ「䌚通(え぀う)」ずいうワザを䜿わないず、

話しの筋が通らないのです。

 

しかし、「匕文が䞭心」であっお「埡自釈」はその解説だずいう芳点で読むず党く違う内容になりたす。

そしお、その方がスムヌズで党く「䌚通」の必芁はありたせん。

 

さお「信心」に぀いおですが、以䞋の通りです。

途䞭は珟代人の「理数系」の方々が、その説明ならよくわかるず蚀われたものです。

珟代人の䜿っおいる蚀語で説明せず、い぀たでも「江戞時代の蚀語」ではコトバ自䜓が

難しくおわからないずいわれたす。

 

珟代人に「劂来より賜わる埡信心」ずいっおも、聞いおいるほうは、

「ニョラむペリタマワルゎシンゞン」ずいうわけのわからない「蚘号」

にしか聞こえたせん。

 

脳科孊でも聞くずきに脳が「挢字を挢字ず聞く脳の人」ず「挢字が脳内でカタカナになる人」がいる

ずいわれたす。

 

あなたが聞いたり話したりしおいるようには聞こえおいたせん。

 

孊生も同じでしょう。

珟代語から孊びをスタヌトさせるほうがこれもスムヌズです。

 

本題です。

 

阿匥陀の救いは無条件で、私は救いのなかにあるこずに気づく無疑の䞀心においお、救いに気づく、いやその䞀心がなければ救われない。

この信心正因論は結局条件ではないか

たたは、劂来は無条件ずされおいるのに、その劂来の教えを頂かず、無疑にならない人間が問題だずいうのか

 

蓮劂さんは眮いずいお、芪鞞さんは正定聚の因を信心ずされたす。

これは有為法である私の心理状態で語られる信心です。

 

信心を空華孊掟で因ずする堎合は、劂来より賜るずいうんだから、無為法で語っおいる

こずになりたすが、仏教の根本原則の無為法は因にならないずいう原則に反したす。

 

芪鞞さんは信心は胜入であるずされる。

胜入は即因ではない。

 

劂来より賜るずいうなら賜る瞁である。

教行蚌文類には「増䞊ずいう瞁が信をもたらす」ずいう衚珟が随所に出おきたす。

 

぀たり劂来の教えを瞁ずしお、有為法の私が無疑の因の状態になるのであり、

こういう状態で名号が私に入り蟌む状態を「胜入」ずいい、

これであれば信心は因ではないから条件ずならないのです。

 

この仏瞁から無疑の因によっお私が心呜終しお、私の䞻䜓が名号(阿匥陀)になるこずが、

正定聚です。

 

そういう意味ではその時点で私は䞀床死に、改めお名号が私を、

わたしならぬわたしのいのちそのものずしおさずりに近づけおいくのです。

わたしならぬわたしの讃嘆行の歩みがスタヌトしたす。

 

぀たりは名号が、私の肉䜓の玠粒子をさずりの玠粒子に倉えおいくずいえたす。

 

そしお、私の肉䜓が玠粒子に戻った時、私を動かしおいた名号が成仏の䞖界に戻る。

名号が私の玠粒子をさずりの玠粒子に倉えお、私のさずりの玠粒子ずずもに戻る。

これが成仏です。

 

䞀般にはこのこずを、「名号をいただくず私は浄土に生たれおさずりを埗る」ずいうこずになる

んですが、これは難しい法性をわかりやすく蚀っおいる方䟿です。

 

埀生に関する議論で「私の䜕が埀生するのか」ずいう戯論(けろん)がありたすが、

心呜終の時点ですでに私の䞻䜓が名号なのだから、この問いは無意味であり、

あえおいうなら名号ずさずりの玠粒子が埀生するず蚀えたす。

 

だから異蚳の倧経「仏説諞仏アミダサンダサンブツサルブツダンカド人道経」「劂来䌚」を

芪鞞さんは教行蚌文類に䜕床か匕かれ、十方衆生の郚分に

「ケンピネンドりの類我が名字を聞きお」ずあるように、昆虫たで救われるず曞いおいたす。

昆虫も名字を聞いおいるのである。

音ずしお、たたは電磁波ずしお。

 

これであれば、さずりの電磁波぀たり阿匥陀の電磁波は宇宙に満ちおいるのだから、

かなりなレベルでグロヌバルです。

 

ここで本題をずれるようですが、「聞く」ずいうこずの意味を、

よく粟密に「聞くず聎くの違いは。。」ず解釈されたす。

しかし、そんな手間をかけなくおも明確です。

 

阿匥陀経の極楜荘厳においおは、仏法が法音、雅音ずされ、声ずいうより音ずされおいるから、

仏法の音(音声)に浞るこずが極楜荘厳なのであり、ここにおいお聞くずいうこずは、

音楜を聎いお聞き浞るようなもので  (「聎く」は意味を理解せずずもきく状態)

蓮劂さん的に蚀えばザルを氎に浞しおいる状態です。

 

そもそも音は空気の振動ですが、音を出す元になるものは、同じ電磁波を出しおいるものです。

 

ゆえにさずりの音であり電磁波に浞るずいう状態で救いは自己完結したす。

 

自分以倖は党お真劂からの化身なのだ。

 

そういう解釈も可胜です。

 

だから阿匥陀経で法音を奏でる鳥たちは、阿匥陀の倉化身であるずされ、

浄土に生たれたものは䞀床は阿匥陀になり、自由に菩薩や衆生などに倉化しお救うずありたす。

 

これは、教行信蚌の蚌文類の「真実蚌は䞀劂真劂寂滅など」であり、

そこから「劂来ずしお阿匥陀ずなり化身ずなる」ずいう内容を曞いおいたす。

 

それは、私が蚌を埗た時も同じですから、真実蚌の始めにそのように曞かれおいお、

仏から様々なものに倉化しお苊悩の衆生を救うこずを、

還盞廻向の菩薩になるずいう流れで明らかにされおいたす。

 

蚌文類の「匥陀劂来は劂より来生し…。」は私がそうなるこずを明らかにされおいたす。

空華孊掟などでは、単に阿匥陀劂来の話ず受け取るから、

「埀生したら阿匥陀になるの諞仏になるの還盞の菩薩になるの」

ずいう混乱を招いおいたす。

 

実は、䜏職さんですら「浄土で阿匥陀劂来になる」ず思っおいないひずも倚いのです。

こういう根本的な混乱をきたしおいたす。

 

蚌文類には、阿匥陀劂来は真劂から報身ずしお垂迹したもので、

その垂迹ずいう「さずりぞの誘導のストヌリヌ」に登堎する「法蔵菩薩」

ず同じになるずいうこずです。

぀たりわたしはたず阿匥陀劂来になり、皮々の身を瀺し珟じるものになるのです。

 

話を戻すず、ずにかく西本願寺は信心正因を芋盎さなければ、

このグロヌバルワヌルドの地球䞊で救われるのは、日本人の䞀郚ず

海倖のごくごく䞀郚の人でしかないこずになりたす。

 

無条件で救われるず蚀いながら信心正因ず聞かされお、

「わからない」ず蚀われるのは圓然なのです。

「救われおいたこずに気づくのが信心だから条件ではない」ずいうのは、

机䞊の空論です。

 

どうしおこんな空論が西本願寺の䞻流になったのか。

真宗孊の䞀郚孊掟の私塟を運営しおいた䜏職ずその匟が、

西本願寺の政治ず孊者のトップになったために、西本願寺公認の孊校になりたした。

 

そしお今や他の孊掟の孊者がいなくなり、消滅し぀぀ある䞭でその孊掟が暗黙に正圓ず

されるようになったいた、

わたしは絶滅危惧孊掟の孊者に孊んだものずしお、西本願寺系の垃教や孊問が

このたたである限り、救われる人はごく䞀郚の人以䞊にはならないず憂いおいたす。

 

これは珟実、事実です。

 

以前西本願寺は「念仏の声を䞖界に子や孫に」ずグロヌバルなスロヌガンを立おおいたしたが、

孊掟が限定され、宗掟の政治が私物化される䞭で、えらく井の䞭の蛙になったものだ

ず思っおいたす。

 

そもそも今や韍谷倧孊の真宗孊を孊んでいる人でも孊掟があったこずさえ知らない状況

になっおいたす。

 

こんなこずでは、玠晎らしい教えが、たもなく絶滅するでしょう。

いわんや宗掟自䜓が、絶滅危惧宗掟にならないこずを願いたす。

 

先ほどの信心に぀いおの远加です。

 

この投皿のきっかけは、先般垃教に行ったお寺の䜏職さんが

「真宗の信心正因論はどう聞いおも条件にしか聞こえない」ず

おっしゃったこずがきっかけです。

 

実はそのお寺のお隣の寺院の䜏職さんが、バリバリ空華孊掟なんですが、

垃教先のご䜏職(50才ぐらいの方)が空華の話を聞いおおも、信心が条件にしか聞こえない

ずおっしゃるので、そこで説明したこずを投皿したした。

 

教行信蚌の信文類の六字釈の「ナモの蚀は垰呜なり」ず蚀うずころで、

仏が私の信心たでも成就しお䞎えられおいるず解釈するず、

それは因ではなく、増䞊瞁になりたす。

行文類に「信力増䞊」の匕文にある通りです。

 

その瞁をいただくのが䞉心釈の信楜の無疑の䞀心ですから、

受け入れる郚分は、有為法である私が䞍障胜䜜因から異熟因ずしお受け入れるのですから、

自己の䞻䜓的偎面から芋れば信心なくば正定聚になれないので、

信心は有為法のわたしのするこずなので因になりたす。

 

その点では仏教の根本原則である無為法は因にならないず蚀うこずず矛盟しないですし、

信心正因ではありたすが、

「信心をいただく」ずいう衚珟をするず、信心が仏の偎になり、無為法が因になるずいう

ありえないこずになりたす。

 

たた、信心のないものは埀生も成仏できないず蚀っおしたうず、論理䞊条件ずなりたす。

 

これは空華孊掟が芪鞞さんず蓮劂さんをにするからです。

蓮劂さんの「信心決定」の問題ず芪鞞さんの信心理解は明確に違いたす。

 

いずれにせよ信文類に出䜓釈がないのは、信は事実䞊、それ単䜓では

仏にも衆生にも属さず、仏瞁(増䞊瞁)の䞭で、あくたでも私に自然に

生たれおくる因だからです。

 

結論、信心の有無にかかわらず、党おの衆生は成仏するず解釈するのが、

教行信蚌の䞊でスムヌズでスマヌトな解釈になりたす。

 

そう解釈できない人は逆説ずしお、六道の俗瞁ばかりを芋おいる人ず蚀えるでしょう。

 

仏瞁を受け入れおいけば、「阿匥陀の仏力は昆虫にたで及ぶのだから、党おが成仏するんだ」

あるいは「党おは私をさずりに導く化身だ」ずいただき぀぀、仏果に近づく(りパヌダ)道を

歩めたす。

 

私は石泉孊掟(灘本和䞊)に孊び、倧江淳誠和䞊の講録にも孊びたした。

倧江和䞊の講録は宗孊院での講矩ですから、石泉ず空華を折衷させお話されおいたすが、

抌さえるずころには石泉の芁玠がキッチリ入っおたす。

 

 

皆さたのご参考になれば。。

 

 

あくたでも抂念ですが、量子の振動が赀倖線の方向ぞ進み、究極れロぞ向かうこずが

無我ずいう状態ぞのベクトルであり、仏教のさずり(寂滅)ぞのベクトルであるこずを

意味しおいたす。

 

脳波でいえばδ波方向ぞ向かうこず。

私たちの肉䜓が火葬などで状態倉化した時の量子の振動がどうなるのか。

蚀いたいのはそういったこずです。

 

南无阿匥陀仏ないし阿匥陀仏は砎我の為の方䟿ずしおの存圚ですから、

本質はもちろん空や無我、色も圢もない真劂であっお、その蚀語化䞊の存圚が

阿匥陀劂来ですから阿匥陀劂来はこずばやその蚀葉で぀づられた教えの䞊に存圚する

ずいうこずでしかないのです。

 

量子論的にも仏教の無我、空論的にも、党おは䞍確定が原則ですから、事実䞊わたし以倖の人や

存圚が仏の化身なのか、茪廻に迷えるものかは確定できたせん。

自分自身すらそうなのです。

 

しかし、そのように党おが仏の化身ずみおいくこずが、私の芳点が悟りぞのベクトル

ずしお転じられ、悟りぞの道が確定に近づくでしょう。

 

あれもこれも迷いの茪廻の存圚であるず芋おいくず、芳点が俗ぞ確定しおいく確率は増えたす。

 

ですから私は悲しみ苊しむ人がいれば、仏が化身しお、そのように珟れた仏瞁ず思い぀぀

接しおいたす。

そうするこずで䞻䜓的に成仏の方向に育おられおいきたす。

 

みなさんは呚囲の人たちが茪廻の人たちだずおもっお生きおいたすか

 

わたしならぬわたしは仏の化身の䞭でさたざたないのちの姿を芋せられお、

その状況を智慧ず慈悲を぀かっおどう歩むかずいう仏道を生きるプロセスだず

うけずっおいたす。

 

そうしおみるず、珟実は自らの智慧ず慈悲が磚かれる䞖界だず実感したす。

 

あの人は逓鬌道やあの人は畜生道やず思っお生きるず、しんどい䞖界になりたせんか

 

私の生きおいるパラレルワヌルドは仏に満たされたさずりのパラレルワヌルドだず

感じお生きる方がよいず、先般も芪友から諭されたした。

尊いこずです。

 

空華孊掟は、党く正反察のものをにしようずするから、

「真宗は特別な教えで䞀般仏教ず違う」ず蚀いながら、

教行信蚌の解釈もそのズレを぀じ぀た合わせ(䌚通)しお、

無理くり同じず解釈しようずするから、このこずを知らない

僧䟶門埒が、教行信蚌は難しいず蚀いたす。

 

芪鞞奜き、蓮劂奜きで真宗を語る傟向があるようですが、

奜き、嫌いじゃなく「阿匥陀劂来に぀いお」䞀元論か二元論かずいうこずです。

 

倧経で曇鞞により、仏教孊をしっかり孊んで論理的なのが芪鞞で、

芳経で善導により、仏教孊の基瀎がない感情的なのが蓮劂、

もずもず蓮劂の孊びは道西などから浄土宗西山掟を孊んで、

芪鞞に入っおたすから根元が違いたす。

 

たしお、組織を嫌うように生きた芪鞞ず組織を䜜った蓮劂。

組織ずサンガは違いたすし、それは求道者か垃教者かの違い。

垃教ずいうず、きこえは良いですが、組織は自ずず䞊䞋や力関係を生みたす。

奜き嫌いではありたせん。

 

教行蚌文類は、仏教孊、芪鞞そのものから読めば、スマヌトに読めたすし、

玠晎らしい理論曞だずわかりたす。

もちろんキリスト教ずの違いも明確です。

 

芪鞞におけるキリスト教ずの違いに぀いおひずこず蚀及したす。

芪鞞さん的に蚀えば、はっきり成仏阿匥陀ず同じになるこず、換蚀すれば海䞀味になるこず。

そしおその䞊で、眷属や還盞の菩薩など察機により倉化自圚に利他の掻動をしたす。

そしお阿匥陀仏ずしお寿呜無量なのであり、私がこのたた寿呜無量になるのではありたせん。

 

キリスト教は真宗的に蚀えば、神の眷属になるのであっお、神にはなりたせん。

たた、利他の掻動はしたせん。

氞遠の呜を今のたたの私が埗るずいうこずです。

 

根本が党く違うのに、同じ構図ず識者がいうのは、「阿匥陀劂来二元論」

で語られるこずが倚いからです。

 

今の倧谷掟は、どこたでが宗祖の理解で、どこたでが蓮劂䞊人の理解かが曖昧のようです。

 

「仰られるように違うものずしお考えずに䞀぀にされおる傟向がありたすね。互いの捉え方を比范するなど、お二方に倱瀌だず思われおいるのか…

蓮劂さんの圱響なのか、お東は浄土に生たれるず、浄土の眷属になり菩薩になるず理解しお、このたたの私が氞遠の呜を埗るず理解しおいる、僧䟶門埒さんも倚いんです。」

 

ずお東の孊者さんのお䞀人から聞きたした。

 

生きかたは、人それぞれですが、芪鞞さんず法蔵菩薩をモデルケヌスずしお生きる。

 

阿匥陀の浄土぀たりは倧乗仏教の悟りぞ向かうベクトルにいきおいるか。

自然に蚈略なく生きおいるかずいうこずでしょう。