五念門を楽しむ‼️
今日はお久しぶりにお目にかかれてうれしく思いました。
今日お話が途中になりましたが、五念門の具体的事例として、
まずは、おっしゃっていたように家族と共にお仏壇で礼拝すると言うことをやっていただき、その延長線であったり、ご家族との夕食の時間でもどのようなシーンでも良いので、まずは仏陀釈尊の無常無我の教えによって思うことなどを語り合っていただいたり、日々の中でご自身が病気などを通してどういうところで怖れを感じて自分自身にプレッシャーをかけていたかといった実体験に基づくことを話題にしていただくと言うのも良いと思います。
それが、法蔵菩薩の行である五念門の真理への屈服礼拝から、阿弥陀の光明によって知らされた自ら作り出したプレッシャーに自らが振り回されていたことに目覚めさせられた。
と言ったことを讃嘆として語っていかれたり、ご家族のご意見を聞いてみられたりするのも良いでしょう。
そして、〇〇様の命がどのように動こうとしているかと言うことを計らいなく純粋に見つめて、その〇〇さんの命の願いについても、話題にされて行かれたら良いかと思います。
そして、人間観察などをするなかで、世の中の状況や情勢をも観察の対象として、その中で感じたり思うことも話題にされたら良いかと思います。
そういった礼拝、讃嘆、作願、観察から自分の日々の歩みと願い(命の目的)を明確にしていきながら、それを実行していくと言う回向発願の歩みをスタートされると良いかと思います。
それは、人間の楽しみの中で行うこともできると思いますし、仏教は単純に真理を明確にし、迷う事は無いですよ、パニックになることも、不安に怖れることもありませんよと言う教えです。
こうであらねばならないと言うことを教えているものではありません。
ねばならないと言うありがとう歩んでしまうと、教条主義になって本来苦から解放される教えが、そうであらねばならないという新しい苦を生んでしまいます。
煩悩の林に遊ぶが如く、戯れるが如く、〇〇さんの命が仏教によって、より楽しくなっていく姿をご家族に見ていただくと言うことが、大会衆を導いていくようになっていくことでしょう。
大乗仏教の根幹とも言える華厳経を親鸞さんも根幹にしておられると思いますが、華厳経の善財童子が53人の人を訪ねていって人間と命のあり方と悟りと言うことを明確にしているのですが、この善財童子は、遊女なども訪ねて学びをされています。
そんなふうに、すごい人とか偉い人とかそんな人に学ぶと言うよりもどんな人でもどんなシーンでも観察すると言う事は大きな学びや知恵になるものです。この観察と言うことを難しく考える必要もなく、人間観察ウオッチングという気軽な感覚で取りくまれる方が良いものです。
【本願は命の願い】
教行証文類の「教文類」には、「無量寿経」という経典が真実であると書かれています。
この経典に「阿弥陀如来」という文言は出て来せん。
無量寿という「命の願い」が真実だと記述されていると思っていいでしょう。
つまり、「自分の命の願いに嘘をつかない」という命のあり方を教えていると思うのです。
「私の命に授かった願いは、計らうことなき素直な気持ち」だということです。
「どうしたらいいか?」は命が教えてくれるのです。
人間は「計らって、企てて生きよう」とします。
そこで「悩んだり、感情に流されて」しまうのです。
教行証文類の信文類に「私に真実心はない」という教えがある。
と、教学者はいうでしょう。
それは「我執心」にとらわれて苦しんでいるということを教えられているのだといえるでしょう。
純粋に世の中を生きていこうという命のあり方で言えば、「自己に湧き出す願いに嘘をつかない」ということが、「仏性、如来」を生きる「命の本願」の世界感を生きることになると言えるでしょう。
仏教は「教条や倫理」ではありません。
つまり「ねばならない」を教えているのではありません。
真実心に生きることで、「我執による、怖れや苦悩がなくなって生きていけること」を教えているのです。
教えを生きることで、「煩悩の林の中を、遊ぶが如く、戯れる如くに生きられる」ことを教えてくれているのです。