浄土真宗ならでは!!

明恵上人に「浄土教には菩提心がない」と言われ、親鸞は他力の大菩提心を説いたが、それすらも「阿弥陀サイドにあって、煩悩の人間にはない」ということをいう人たちがお西には多いけれど、信力増上縁によって、それが私の菩提心になると説かれているのに、わかっていない!!

 

浄土の大菩提心は  

 願作仏心をすすめしむ  

 すなはち願作仏心を  

 度衆生心となづけたり

 

このことが信文類の菩提心釈にも書かれています。

また、そもそも二河白道でも、白道を歩まねば無意味です。

白道があるよといっても歩まないものばかりです😱

行文類の【14】に信力増上縁が信力転増して→信受す→〈深く大悲を行じ〉という風にも、とにかくこういうことは至る所に表現は違えども記述されています!!

 

行文類で、諸仏の称讃が、この信力増上から、五念門に変化して、【34】の六字釈において、「即是其行」は「選択本願これなり」とあって、南無のニ字の解釈になっています。

「阿弥陀仏」の四字は、【50】の【51】の手前に「万徳すべて四字にあらわる」と記述されるのみで、六字釈の「即是其行」の後に「必得往生」→「不退の位に至る」とされて、それを「即得」と結ばれます。

そして万徳の意味内容が記述され、【50】の「万徳すべて四字にあらわる」

となって行きます。

そして行についてさまざまな本質を説かれて【71】に「真実の行信を獲れば[歓喜地]に至ることを記述されて、【73】に、往相の回向について「行一念」を論じて【82】の10行目あたりから、五果門の「出第五門」の利他について記述され、覈求其本釈にも「阿弥陀如来を増上縁として「他利利他」の仏力によって私も利他のものになることが記述されます。

そして第十一願(正定聚)と第二十二願(利他)が記述されて、五念門の讃嘆門が五果門の薗林遊戯地門であるという証文類に付合させています。

このように、教行証文類では、論註の五念門五果門から、明確に往相と還相は因果同時に働く増上縁であり、その上での私のありようを示されています。

 

ある大和上と言われている人の教行証文類の講義を…若い頃に聞きましたが、単に語句や単語の解説ばっかりで、そもそも教行証文類に何が書かれてるなんて言う話は1ミリもありませんでした!!

例えば、

「教」とは「教え諭すの意味で、そもそも日本の漢字において教という文字は云々カンヌン」

といった風で、「顕浄土真実」というのは、「顕」は表すということで、あらわすには「表、現、露、著」などの文字があるけど、まず「表」は云々、「現」は云々、…といった調子の講義で、どうでもいいけど「ウオーキングディクショナリー」みたいに「よく知ってるね」という講義です。

1行進むのに半年や1年かかるのが「よく知ってて凄い」という「物知り」になりたいけれど、本質を問いもしない群れになっていました。

結局、教行証文類に何が書いてあるの?

なんてわかりもしない講義です!!

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真宗の空華派という学派では、行を南无阿弥陀仏そのもの(名号)だとするので、「信じる対象の法」(所信の法)だと平気で当然のようにいう。

しかしこれは全くのミスである。

なぜなら、親鸞は教行証文類に、行は讃嘆であると明確に記述している。

これは浄土論註の五念門の讃嘆門である。

つまり、この時点で大きくミスっているから教行証文類がわからなくなる。

そして信を「名号を疑いなくいただくこと」という解釈をするから意味不明になる。

教行証文類には、「信」は如来の増上縁であって、私を行文類の「讃嘆門と薗林遊戯地門(五果門)」に導く「強力な縁である」とされている。

その強力な縁を「疑いなく受け入れる(無疑)」になった時、その縁が因としての意味を持つということを信文類には記述される。

そして、証文類では、そのプロセスが「現生正定聚(五念門)と五果門の第五薗林遊戯地門の実践になる」と明示されて、「往相と還相の因果同時を生きるものになること」が一生補処の私であって、滅度に至るものになることが明確にされている。

こんなことは、解説書や講義録を読まないで、直接本文にあたればわかることであり、なにも難しくもなんともない。

既成概念を刷り込まれるから難しいと思ってしまうだけである。

既成概念を取っ払って本文を読むことをお勧めする!!

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参考にしてください。

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正定聚は浄土での立場。

なので、一生補処の願つまりラストの一生をそこで過ごすことで滅度に至るとされる22願+11願は、浄土で正定聚に住んで、同時に利他教化の還相回向を行じるという同一次元におけること。

五念門の讃嘆門がそのまま第五果門の薗林遊戯地門であると論註に記述されている。

いま信力によって正定聚に住んでいるなら、そこが浄土という次元であり、この一生を過ぎれば滅度に至るということである。

かつて岩波仏教辞典でミスったのは「現生で悟る」と定義したのであり、「現生で往生している」というのが、大経に依り、論註に依った親鸞特有の教義である。

つまり、浄土教は「菩提心をもって大乗菩薩道を歩む」という定義である。

方便の観経に依った法然浄土教では、あくまでも、来世浄土であり、「菩提心は阿弥陀にあって私にはない」ことになる。

不定聚や邪定聚にしかなり得ない。

なぜ親鸞が正定聚を現生に繰り上げたのか!

そこに現生に浄土を観察して利他を行じるという菩薩道が現前するからである。

現生で往生はしないのであるなら、また浄土で一生補処しなきゃいけなくなって、現生では二生補処になってしまう…!かの大和上は法然浄土教にこだわった結果、ウオーキングディクショナリーではあったが、根本をミスっていると言わざるを得ない!!

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真宗で「罪業深重」が説かれるのは、難しい学問がわからない人のために、人間の価値観を誤謬である(邪見や驕慢である)ことを教え、自我を破る「無我」への移行を促すためである。

その中で「他利利他」を生きられるようになるのである。