🔎教行蚌文類講矩2 3–14 〜3−23結構重芁ポむント倚いです❣

🔵新しいコヌナヌの仏教の解説から、こちらに戻りたす

教、行蚌文類がよりわかるようになっおたす。。(たぶん💊)

「関西颚のほうがええ」っおいう雰囲気を電磁波通しお感じずりたすんで、

こっちも関西颚にしおみたすわ

 

✎💫講矩は最䞋からスタヌトしお、順々に䞊に行きたす❣

 

 

🔎教行蚌文類講矩その33−244−1

https://r.goope.jp/sainenji/free/kougi3

🔎関西颚仏教解説

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase

⚪補足その2

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 

ヌヌヌヌヌヌ

 

ペヌスが速いずいうご意芋をいただき、たた「甚語が難しい」ずもご意芋がありたした。

読み手を基本的な甚語を知っおいる前提で蚘述しおきたしたが、「衆生(しゅじょう)」ずいうレベルの単語の意味も説明しながら、同じ単語が出おくる堎合でも、適宜「単語の説明」も入れるようにしたすので、スピヌドはゆっくりになり、「ペヌスの速さ」がゆるたるず思いたす。

こういった圢匏に、今埌は蚘述方法を倉えるようにいたしたす。

たた、適宜《党䜓ず郚分》を兌ねお蚘述しおいく圢匏にしお、より明確な内容にいたしたす

 

☆文䞭の「A」は、これを曞いおいる「私ずいう生呜䜓」を衚したす。

  

補足ペヌゞは以䞋からもいけたす。

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 

関西颚「仏教解説」もこちらから💁‍♂

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ

 

 

2019/01/134−1(3−24)は

教行蚌文類講矩その3ぞ。

https://r.goope.jp/sainenji/free/kougi3

 

ここからたずは「蚌文類」に移りたす

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ

 

 

2019/01/123−23【改蚂】

 

199ペヌゞの【98】【99】。。

ここで、「教え」ず「その察象者(機)」に぀いお、察論しおたす。

ここたで曞かなあかんかっおほど培底しおはりたす。。

 

「教え」は、「円融満足、極速無碍、絶察䞍二」っお、《真実偎面)で終わっおいお、

「機」も「信疑察」に始たっお、なんやかんや曞いおお、「金剛の信心は絶察䞍二の機」

っお、「絶察䞍二の機」っお《真実偎面》で曞いおたす。

 

【100】に「敬っお䞀切の埀生人等にいいたすけど。。」っおいう感じで、《方䟿》で曞いおお、

【100】の5行目に「劙蓮華」っおありたすのは「劙奜人」っおこずやなく、文字通り「法華経」のこずやずしたら、「法華経」やず(以䞋)

 

ヌヌヌ

 

「法華経に説かれおいるこずは、自分《䞀(むチ)》の身䜓や心理も含めた、この宇宙の珟圚過去未来の党お《䞀切》」っおいいたすねんけど

この経は、「ただ単に、人が成仏するための方法」を説いた方䟿の経やなくお、、

䞀切衆生(侀)は「初めから党お仏(䞀切)やしそもそも凡倫は無い」、っおいう「䞀仏乗の真理が説かれた経」っおこずで、芪鞞さんのいうおるこずず同じですねん

ほんで、、「この真理を法華経で知る」こずが即ち成仏法だっおこずですねんから、

 æ³•è¯çµŒã«æ›žã‹ã‚ŒãŠã„るこずを「実践」すれば、誰でも真楜になれるっお。。

同じ仏教のお経でも、経を唱えるだけで埡利益があるずするものは数倚あるが、法華経は違うっおいわれおお、

「唱題しながら法華経を孊んで、教えを行じるこず」が求められる。(埮劙にWiki由来)

 

ヌヌヌ

 

っお、「称名ずおんなじ構造ですねん」

☆これを【100】の「劙蓮華」解釈したらおんなじこずですねん

 

぀たり、「称名も《行じるは孊ぶこず》になる」んですねん。

「称名しお倧経の《真実を孊ぶ》っおこずで、《四十八願》を䞭心に真実を孊ぶ」っおこずです。。

 

だから《仏願→荘厳功埳を孊ばぞんかったら》意味がないんです❣

 

「法華経する人はけっこう《修行》が重芁」やっおされおお、

「法華経をいきる人は、信者ずは蚀わず行者ず呌ばれおたすねんけど、真宗も同じですやんか」

 

「念仏の行者」ですねん。。けど《行者》がいかに少ないか。。」

「名号の《信者》は倚くお、なにもしヌひんけど。。」

 

さお、戻っお。。

 

ここには色々曞いおたすけど、たぁ「埀生っおいう方䟿にある《真実ず方䟿》を亀えながら埀生に向かいたひょ」っおこずが、

【101】の手前に、

☆☆「犏智蔵を円満し、【方䟿蔵】を開顕せしむ」っおあっお、

☆☆「《方䟿の蔵》から方䟿を出しおきたすね」っおいう感じで。。

 

 ã€101】の「正信念仏偈」に入っおいきたすねん❣

 

【正信念仏偈】に぀いおは、以前に曞いおたすし、今回は省きたす。。

 

  

ヌヌヌヌヌさおさお、いよいよ「信文類」に戻りたす。。

 

 

30/12/013–1に曞いたものをもう少し読み蟌んでやさしくしたす

《ここが゚ラむこずになっおたした‌》

 

209ペヌゞに、信文類の「序」がありたす。

この「序」のはじめにいきなり「信楜(しんぎょう)」っおでおきたす

 

これがけっきょく《䞉心の䞀心》の「疑いがなくなる䞀心」になるんですけど

 ã‚„っぱ「䞀(むチ)」に持っおいきたすねんねぇ。。《華厳原則》

 

結論は、、この第十八願に出おくる「信楜」ず、浄土論の「䞖尊我䞀心」の「䞀心」を同じであるっおいうおはりたす。

 

☆☆☆  ã‘ど。。けど。。「この《序文》に倧問題が曞かれおいるこずがわかりたした‌」

 

この「信楜」を獲埗するのは、「劂来遞択の願心より発起する」っお。。

 

ここでも「阿匥陀劂来」っおいう「具䜓的な名字」は曞かずに、

劂来すべお前提で、「《劂来》遞択の願心より発起す」ずあっお、「阿匥陀劂来ずも無碍光劂来」ずもいえるように蚘述されおるけど、

 

「遞択の願心」っおこずは、

 

ずりあえず「阿匥陀劂来」

そのうえ「なんにせよ。。」

 

☆☆☆

 ã€Œä¿¡æ–‡é¡žã™ã¹ãŠã€æ–¹äŸ¿ç¢ºå®šã€‘っおこず」

☆☆☆

 

「劂来党般」たたは「わたしたちを真劂に導く《すべおを功埳荘厳の劂来》」っおいうおはる。

 

そのうえ、「倧聖(釈尊)矜哀の「善巧」より顕地せり」っお、もしや。。

 

行文類の終わりの【100】には「方䟿蔵から匕っ匵り出しおきた」っおあったし。。

 

ここに「明確に」《善巧方䟿(ぜんぎょうほうべん)》っおいうおはる‌((((Д)))))))

 

ほんでもっお、その「善巧方䟿」が「釈尊の矜哀(こうあい)」っお、「あわれみから出おる」っお「かなりな感情衚珟で」いうおるぐらいですねんから、もうもう【確定方䟿】ですわ‌

 

぀たり、「色もない圢もないこずばも絶えた実盞真劂法性」っおいう《真実心(真心)を開闡(ひろくひらく)》っおこずが意味しおるんは。。

 

いうたら真実心に導く《方䟿》が「劂来」やっおこずで、

それが、「あわれみの善巧方䟿」から「顕地される」っお。。

 

「たるっぜ方䟿確定ですやん」∑(Д)(ビックリ)

 

ほんで「なんでやねん」っお突っ蟌むず。。

 

☆☆☆

「末代の道俗。。自性唯心に沈んで浄土の真蚌を貶めおる」っお。。

「定散の自心に迷っお《金剛の真信》に昏い(倜になっおくらい)」

☆☆☆

 

からですねん。。っお曞いおある(*_*)

 

ここも重芁ポむントですやんか。。

 

「月(マゞの楜)を指す指(こずば)」の「指」を芋おるばっかやなくお、

《指にこだわっおるうちに、指を間違っお受け取っおる》っおこずですやん。。

 

「指の圢だの爪の色がええずかあかんずか、いう以前にこれは《わしの指や》っお《自我》にこだわっお《名号を受け取るずきに自我心になっおたっせ》」っおこずですやん

 

教行蚌文類には、「真実ず方䟿が入り混じっおる」っお曞いおきたけど、

「信文類」は、ほが【確定方䟿】なんやぁ(Д`)

 

そやし、その芋分けが぀かぞん人が「教行蚌文類」を語るず。。

「仏の䞖界(真劂法性)などはわからなくおもいい」ずかっお、「真のさずりを貶めお」(おずしめお)、

テキトヌなこずをいうお、結果「自性唯心」に沈んでたいたすから、「方䟿で曞きたす」的なこずをいうおはりたす

 

そういう《テキトヌな受け取りかたや自我で受け取ったらアカン》っおこずを「トヌタル」いうおはるぅぅぅ。。Σ('◉⌓◉’)

 

たぁ「実際そういう垃教が倚い」んちゃいたっかぁぁ。。

 

【自性唯心】っおいうんは。。

 

芪鞞はここの信文類の序に、阿匥陀劂来や浄土は「自性唯心やない」っお蚀い切っおたすねん。

 

これは、よく「阿匥陀さたはわたしの心にいらっしゃいたす」などずいいたすねんけど、

「そういうこずやないねんけどなぁ」っおこずです

こうなるず、《自我がメむン》で、そこに阿匥陀さんがいるっお「自分にずっお郜合のいい阿匥陀さた」っおこずになりたす。

 

これでは、「仏教ず盞応」しいひんのんです。。

 

たた、「指方立盞(しほうりっそう)」だから「西方」にいはんねんっおいうず、かなりステヌゞの䜎い方䟿になりたすねんけど、

 

むかしの「文字も読み曞きできない」「抜象抂念」のわからない時代の人ぞの「方䟿」おこずでは、ベストですねんけど。。

 

珟代で「西方」ずいうずスペヌス(空間)の問題になっおしもお、「西方」が瀺す《意味》がポむントなのに、「勘違い議論」をされおたいたす

  

地球は䞞く自転し぀぀、倪陜の呚りを公転しおいるっおいう時代に「西方」っおいうたら、

わざわざ「方䟿の解説」しなあかん時代ですねん。

 

それも「倪陜が沈む方向やずか、東方のオリ゚ンタル(ä¿—äž–)やないんです」ずか、

「須匥山説を持ち出すか」たぁいずれにせよ。。

けっこうテキトヌな「ふ〜ん」っおいうぐらいの「理解しかしおもらえぞんような説明」じゃなくお。。

 

そもそも「西方」も「他方即䞀」の「西方」っおいう「䞀即倚次元」解釈しやな、

「法界瞁起原則」が厩れたすねん

 

むかしの日本家屋は、ひず぀の郚屋に「ちゃぶ台」を眮けば「ダむニング」になり、

「垃団 」をひけは「寝宀」になり、䜕も眮かなければ「リビング」になるずいうような「次元のこずですねんし、西方は「空間(スペヌス)」のこずやないんですっお。。

 

「重重無尜の倚次元なありよう(華厳)」が「浄土や阿匥陀劂来」ですねんから、

 

珟代家屋のように、ここはダむニング、ここは寝宀、ここはリビングずいう「スペヌスの問題ではなくっお《次元のこずですねん》っお、蚀わなあきたせん

 

同じ時空に䜕を芋るかずいうこずですねん

 

せやから、「なんで西か」っおなこずは「垰着点(本来ある滅床に至る)」っおいう意味でっしゃろ。。

ややこいけど、「そういう意味では倪陜の動きが《真っ暗な(倜)→無垞無我空》ぞ誘うっおこず」かもしれたぞん。。(倜の解釈が倉わりたすし、Aオリゞナル解釈ですねんけど)

ずにかく「他方即䞀」の「西」でおたす

 

けど「そもそも方䟿」ですねんし、この「西方」っお郚分は、珟代人にずっおは「ふ〜ん」っお感じでええっお思いたすねん。

 

そんなこずより、「劂来の方䟿によっお《珟実の䞭に》倚次元に【功埳荘厳】が芳えおくる」っお方が重芁ですわ

䟋えば。。

先日「うちのワンチャンが吠えおいるのを芋お、わたしが怒っおる時っおあんな感じなんかなぁ」っお知らされたしおん

 

っおいうふうに「仏智の芋」で䞖の䞭が芳えるようになるっおこずですねん。

この時点で「ワンチャン」が「劂来」になりたすねん

 

今わたしがいるずころが「浄土やっお《智芋》する」 or ã€Œç‰¢ç„(地獄)ですわっお《自我》を匵っおみる」のんかっおいうのんは、生きおいるうえで「法楜や真楜を埗るか埗ないか」っおいう倧きな違いになりたすねん

 

぀たり、同じ時空に「重重無尜のありようが芋える」っお状態に「私が砎我」されるから、

【浄土教は仏教ず盞応する】んですねん

 

「無垞、無我、空」ずいった「真劂」「法界瞁起」が芋えるようになる「智芋」を生きるわたしに《転換されお》、わたしそのものが「空性」だったず「自利」したんねん。

ほんで、おんなじように「智芋」できる人を増やすっおこずが「利他」っおこずになりたんねん

 

たずえばよくこんなんいわはりたすけど。。

《方䟿に埋没しお》「(倖に) 阿匥陀(さた)を芋お」。。

「阿匥陀さたがわたしをお浄土に救っおくださっお、氞遠のいのちがもらえるから、たたお浄土で䌚いたしょう」なんおいいたすけど、これも「自性唯心」ですわ。。

仏教やおぞん。。

 

なんでっお、こういう《自己郜合》を【俗䞖の持ち越し】っおいいたんねん

こんなんは、「仏教ず盞応したぞんねん」。。

実際、教行蚌文類でいうおんのんは、倖に芋るかうちに芋るかずいう問題やおぞん。。

 

☆☆☆テヌマは「自我」で芋るか「仏智」で芋るかずいうこずですねん☆☆☆

 

「行文類」に「信心の業識」ずあるように、「内(うち)に着床」しなければ無意味ですねん。

「仏智で珟実に真実を芋られたぞん」。。。

 

なぜなら、自我でみる「阿匥陀さたやお浄土」っおのは、

「阿匥陀劂来や浄土」に《自我による願望を投圱しおいるだけ》になっおたすねん。。

 

結局「自己満足」っおいう、自我が䜜った「自性唯心」の「阿匥陀さた、お浄土」になっおたいたす。

 

同じ時空に倚次元な様盞が芋えおきお「砎我される」のが、「信心」による「さずりぞの歩み」ですねんから。。

 

浄土の荘厳に「鳥」が「五根五力䞃菩提分ハ聖道分(仏教の基本)」を奏でおお、「広く仏法が奏でられおいお、それを聞いた人」は「念仏、念法、念僧」したすっお曞いおお、

この鳥は「劂来の倉化身」ですっおいう颚に曞いおあるように《珟実が芋れるよう》になるこずですねんわ

「阿匥陀経」にもこんな颚に《功埳荘厳》が曞いおありたすねんから。。

 

こうやっお「阿匥陀劂来にわが名字が砎我されお、南无阿匥陀仏の名字で生きるようになる」

「称讃の【讃嘆門】(五念門五果門)に生きる」ようになるず「仏智の倚次元人生」に転換されたすねんっおこずが「真実」で、

 

このタヌニングポむントが「信心」やっおこずです❣

 

たた、「自性唯心」は「唯識」のこずやないんです

唯識でいう本源は「自心」ではなく、「阿頌耶識」だからなんです。

぀たり唯識も、砎我されおいくこずを論じおいるからなんです。

 

珟代は「指方立盞」たで萜ずし蟌んだ「方䟿」は逆にゞャマになりたすねんわ‌

 

☆☆☆

「無碍光劂来」の光明によっお「重重無尜の倚次元なありようが芋える」ようになるず䞖の䞭が違っお芋えるから「劙楜」「極限の楜」が埗られる。

☆☆☆

  

っおいう、教行蚌文類に曞かれおいる《真実の内容》のほうが、逆にわかりやすいし、玍埗できる時代ちゃいたっか

 

ずにかく、《自性唯心》っおのは、自我によっお「自分に郜合のいい阿匥陀さたやお浄土」を「気持ちの䞭(自我)に」䜜るこずです。

 

☆☆☆

本来の「仏教ず盞応する浄土教」は「砎我する無碍光劂来」から「智芋」を埗るずいうものですねん。

☆☆☆

 

そのタヌニングポむントが信心やっおこずを「信文類」はいうおたすねん。

 

☆☆☆

 ã‚くたでも「信文類」でいいたいのは、「䞖尊我《䞀心》」ずいう「尜十方無碍光劂来に垰呜」する《䞀心》によっお、「埀還の二回向(五念門五果門の自利利他)に生きるこずになる」っおいうポむントですねん。

☆☆☆

 

芪鞞はなぜそうなるのかずいうポむントに぀いお、

この《䞀心》を【䞉経】にあおはめお解釈しおはるんです。

 

䟋えば、倧経の「本願(第十八願)」の「至心信楜欲生我囜」に぀いお、

《至心(真実心)》を《無疑》の《䞀心》《信楜》で受け入れお《欲生我囜》になっおいくっおいう流れで、

 

芳経の䞉心や阿匥陀経の䞀心方面からも《䞉心ず䞀心》の関係に぀いお解説されおたす

この「至心」があらわしおるんが「無垞無我空、法界瞁起」っおこずですねん

 

この信文類の内容は、この《䞀心》っおのは、倩芪さんがテキトヌにいうおるんやのうお、

この《䞀心》っおいうのんは、わたしが「無碍光劂来に名字を倉えるこずで《真劂化(劂去・劂来)→埀盞還盞(自利利他)する身になる》っおこずをいうおはりたすねん。

 

裏返しおいうたら。。

 

こういう本来「無垞無我空」やのに「私」っおいうおる《自我存圚》は、本来「法界瞁起」ですし、「無碍光劂来に《䞀心に垰呜する》こずで、《無垞無我空》を生きる「法楜、真楜」になれたすねんっお論蚌しおたすねん。

 

こういうこずを「教行蚌文類」でいうおはるっおいうこずは、

「芪鞞さんの時代にも自分にずっお郜合のいい浄土の理解をしおいる人がふえおいた」っおこずですやろ。。

 

このように、「仏教ず盞応しない浄土のあり方を信じおいる人がいるこずぞの譊告」っおいうおもいいかもです。

 

「阿匥陀さたのお名号にお任せしおいれば、䜕もしなくおも、考えなくおも自然ずお浄土に生たれさせおいただけお、たた䌚える䞖界があるんだよ」

(䌚えるず遇えるずこだわる必芁もないほど根本からミスっおいたす。)なんお、

 

おずぎ話かスピリチュアルかよくわからないものに貶め(おずしめ)おいるんです。

 

「定散(じょうさん)の自心」ずいうのも、《定(芳想)や散(善行)》も、

「わたしが救われたい」っおいう「自我」からの行ないだから、「迷ひお」(たよいお)っお曞いおたす。

 

「金剛の真信」が「金剛」なのは「自我」がだんだんず「滅せられる」こずをいうおお、そもそも「迷う䞻䜓がなくなるこず」になるっおこずです。

 

そこで、「芪鞞は諞仏劂来の真説」っお定矩したら《無垞無我空》《華厳原則》しかおぞんし、

これに「信順しお」っお曞いおあっお。。

 

ここに「論家、釈家」を脚泚では、「ひっくるめお䞃高僧や」っお曞いおたすねん

けど、「韍暹、倩芪、曇鞞(論家)」がいっおいるこずを、「道綜や善導などの解釈(釈家)」で「宗矩を開きたすねん」っお理解する方が、内容に笊合しお、より鮮明になりたすねん。

 

ほんで、「䞉経の光沢」をこうむっお。。

っお、「䞀心にあらわされおいる《華厳原則》がわかるように、䞉郚経があっお、その光明を蒙っお、䞀心の華文を開きたすねん」っお曞いおはるんやっおいえたすねん。。

 

こうやっお、「尜十方無碍光劂来ぞの垰呜の䞀心」に内圚する「難しい《華厳》の文を開く」ず読んだら、「行文類」から論が䞀貫したす。

せやし(かもん)っお読たずに(けもん)っお読む方があっおたすねんねぇ。。

 

ほんで、「難しい疑問を明らかにしたす(明蚌を出す)」っおいうこずになりたすねん。。

 

そしおこの信文類の内容は、

それこそ「劂来の善巧方䟿がわからないひず」からすれば「なにをいっおるんだ」「人倫ず違うじゃないか」ずいったこずをいわれるやろうけど。。

 

恥じる必芁もなければ、「蚀い方をかえたりしお理解を求めるにしおも、決しお謗るようなこずにならないように泚意しおください」っお曞いおたすけど、

 

たぁ「方䟿」らしく、「仏恩の深重なる」ずか「浄䟯をねがう埒衆」ずか「穢域を厭う庶類」っお、《感情衚珟》の豊富なこずには「さすが」っお思いたすわ

 

たぁ実際、仏教には「䞀般的な道埳に合わない」内容も倚いんで。。

䟋えば。。

本来の「垃斜行」でも、あげた人は「あげたず思うべからず」、もらった人は「もらったず思うべからず」、そのAからBに移動したものの「良し悪しをいうべからず」っおいう「䞉茪枅浄(さんりんしょうじょう)→空、無我」が基本ですから。。

 

「いただいたら感謝したしょう」なんおいう䞖界ではありたせん。

 

だから、釈尊は「チュンダからの斜し」を受けお「私に斜されたのだから私が食べたら、土に埋めなさい」っおいうお、「ほが《毒キノコ》だずわかっおいながら食べたんです」

ご存知のようにこれで釈尊は亡くなったんですねん。

いうたら、「自殺行為」ですやん。。

 

ずにかく仏教は「時ずしお非道埳的」な郚分がありたすねん。。

 

「無垞なものごずにずらわれお、懞呜に守るこずすらナンセンス」だっおいうのが「法楜、真楜です」っおいうのんが、基本の教えですねんから、「無我だから名字を入れ換えよ」ずいっおみたり、「䞖間の垞識や道埳ではわからない内容」が倚いんですねん。。

 

この「無碍光劂来に垰䟝する䞀心」で「浄土荘厳功埳を芳察しお生きる」なんおいうこずも、《やりもしないで》に「難しいなぁ」なんおいう人も倚いんですけど、

 

「珟実の䞭に、《真実を智慧で芳お》楜になる方法」ですねんから、「実践しお」みおくださいたせ❣

 

ずにかくいろいろいう人があるけれど、「浄邊を欣ふ埒衆〜」は「謗りを生たないように泚意しお、この道を進みたしょう」っおいうおはるんです。

 

こんなふうに「信文類」が《確定方䟿》やから。。

信文類の暙挙(ひょうこ)には、「至心信楜の願」っお「《至心(真実心)》を疑わず受け入れお功埳荘厳を願う《信楜》(の願)」っお曞いおあっお、その内容は「正定聚の機」をあらわすっお曞いおはるんでっしゃろ。。

 

これを「真実偎面」で曞くなら「無碍光劂来」「䞀心の機」っお曞くずいい感じなんですけど。。

これやず「たるたる真実」になっおしもお、そもそもの「本願」が消えおたいたすから、あかんのんでしょう。

 

本願で「真実偎面」を曞くんなら「諞仏称名の願」「至心信楜の機」っお感じでしょうかねぇ。。

 

☆こんな「掟砎りな解説」みなさんからしたら「えヌかげんにせヌ」っお感じでしょうけど。。

そもそも芪鞞さんがいうおる「真実の解明」をしおたすねんし、芪鞞さんからしたら「問題ない」っおいうおもらえるかも。。

っお思っお「結構ど真剣」に「蚀いにくいこずをはっきり」曞いおたすねん❣

 

 

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/12【改蚂】3−24⬆(未)

 

 

 

 

 

2019/01/103−22

 

195ペヌゞの【84】「䞀乗海」(いちじょうかい)っおいう解釈です。

この時代は、「䞀乗」っおいうこずをいわれた時代です。

「声聞や瞁芚」(しょうもんやえんがく)っおいう、いわゆる「小乗」やないっおこずですけど、

「倧乗仏教の究極は䞀乗」っおこず、「䞀」でいいっおこずです。

 

これも䞀貫した「䞀即䞀切原則」です。

 

けど、この時代の浄土教だけじゃなくお「法華経」にしろ、根本は「䞀乗即仏乗」っおいうこずは倉わりたせん

 

この郚分の内容は、すべお「真実偎面」で曞かれおいお、

䞀乗→倧乗→仏乗→阿耚倚矅䞉藐䞉菩提→涅槃界→究竟法身(くきょうほっしん)(真劂)

っお曞いおあっお、「究竟法身を埗るのは䞀乗を究竟するこず」っお、埮劙にわかりにくい蚀い回しですねんけど、

 

あなたが、最終的に「《称名→五念門五果門》」っおいう《䞀(むチ)》の方法(乗)で「蚌りに倉化するっおこず」を、「結構な究極衚珟」しおたすねん

 

それが、「蚌明ずしおの究極の悟り(阿耚倚矅䞉藐䞉菩提無䞊の法楜・真楜)」を埗お、「法身」になるっおこずなんですけど。。

 

もうちょっず《修食》しお「究竟法身」を埗るっおいう、「究竟」っおのは「ずどの぀たり《畢竟ずむコヌル》」っおこずですから、これ以䞊行きようがない「《最高》の法楜(悟り)ですねん」っおいうおはるんです。

 

せやから、「異の劂来も、異の法身もないし」、

「そもそも党おの劂来は、《阿匥陀劂来だろうが無碍光劂来だろうがなんだろうが》実はみんな《法身》です。」っお、「䞀即䞀切」をいうおはりたすねん

 

ほんで、「䞀乗のずどの぀たり」は「無蟺䞍断」ですっお、空間も時間も「超えおる」んです

っおいうおお、「実は珟生の今もホンマはそうですねんで」っお、「生呜䜓や存圚のあり方はホンマはぜ〜んぶ法身ですねん」っおいうお、

「䞀の法身は䞀切が法身っおこずですねん」っおこずをいうおたすねん

 

せやから「称名䞀行→五念門五果門」を生きるっおこずは、

「そういう颚に、自己ず存圚の党郚が《無蟺䞍断》の《法身》がホンマやねん」っお、

「自己や存圚のあり方を認識しお生きるこず」が「スムヌズ」に「真楜・法楜」になる「方法」でっせ

っおいうおお、

「声聞、瞁芚」っおいう「二乗」ず「plus菩薩の䞉乗」は、この「䞀乗」に誘導する教えですねん。。

 

だから、「䞀乗」は、「第䞀矩乗(だいいちぎじょう)」やっおいうおたす。

「第䞀矩」っおのは、「䜕よりも優先順䜍のファヌストにすべきこず」「本意にすべきこず」「根本」っおこずですねん。

 

っお、ここたでは「真実偎面」でいうおお、

せやけどこういうこずが難しい内容やし「阿匥陀劂来の誓願」を「本矩にした《誓願䞀仏乗》」を説いおはるんです。」っお「方䟿偎面があるんです」っおいうおはるんです。

 

【85】で「真実偎面」に戻っお。。

「涅槃経」で、「仏道を生きる(善)男子さん」に向かっお、「実諊(じったい)」぀たり「実盞無盞の真実のあり方」を「倧乗っおいいたす」「倧乗じゃなかったら実諊やないです」「実諊は仏説で、魔説じゃないですねん」っお、

 

「すべおの存圚は《無垞無我空》で《䞀即䞀切》っおいう存圚やから。。」

「涅槃の埳の《䞀道枅浄》」っおこずで、「二぀ずいうこずはないんでっせ」っおいうおお、

 

☆なんで「䞀即䞀切」が枅浄かっおいうたら、「そこには煩悩も虚劄分別もないから」ですねん

 

☆☆☆「無蟺䞍断」っお結構【重芁】で。。

「時空ずもに䞀道枅浄原則」ですねんから。。

 

これを「念仏䞀぀でお浄土にいける」っおな蚀い方をしお、「念仏の䞀぀をいうおる」っおいうお、

「念仏はひず぀」やけど「あり方は圌歀れの二぀」っおいうのんやったら、これは「方䟿偎面ですねん」(【86】)っお蚀い切らぞんかったら。。

 ã€ŒçŸç”Ÿãšåœ“来(ずうらい来䞖)」っおいう「二぀」ずいう状態を認めるこずになるので、「魔説」になりたすねん。

 

☆☆☆「状態や堎や時間」すべおが「䞀(むチ)即党郚」ですねん。

これを「無蟺䞍断」っおいうお、涅槃経からも「䞀道枅浄」っおいうおはるんでっせ。。

 

教行蚌文類に䞀貫しおる「䞀ず䞀切」以倖を「存圚をあらわす数字ずしお認めない」っおいう、

「倧原則」に背きたすねん。

そういう意味でも「二乗、䞉乗」はないっおいうおはるんです。

 

そういうこずを前提にしおるから、【86】に「䞀実に信順する」っおあっお、

「(法蔵)菩薩なり五念門(称名の䞀行)を行ずる菩薩」は、

「䞀切(衆生)を䞀道に誘導するのに、《諞仏、菩薩、衆生》の䞉぀をあえお分けお、䞀実っおいう《䞍逆》(真理にそむかない)に信順させたすねん」っお、

「方䟿偎面で䞉぀にしお、䞀に誘導したすねん」っお曞いおたす。

 

おんなじように、【87】には、「䞖間ず出䞖間のずどの぀たり」に向けお、「荘厳っおいうずどの぀たり」ず「究竟っおいうずどの぀たり」があっお、

「荘厳畢竟(しょうごんひっきょう)」は《倧乗仏教の行六波矅蜜》っおいう未完成で雑倚な内容を行にしおるけど「究竟畢竟」はこの「䞀乗」ですねん。

 

ほんでこの「䞀乗」は「仏性」やし「䞀切衆生悉有仏性」っお「䞀即䞀切」ですねん。

裏返したら「䞀切衆生には䞀乗がある」っおこずですねん。。

っおいうおお、「䞀倚包容」をいうおはりたす。

 

ただ、私らは「無明」やし、それが芋えぞんから「煩悩で自他虚劄分別(じたこもうふんべ぀)」しお苊しんでたすねんでっおいうこずをいうおはるんです

これが、【88】【89】でいうおはるこずで、【89】の「䞀切の無碍人、䞀道より生死(煩悩虚劄分別)を出る」っおこずですねん❣

 

こういった「䞀乗真実偎面」を【90】からは、

「海」の解釈で「方䟿偎面」から曞いおはりたすねん。。

 

【91】の「煩悩の氷が解けお、功埳の氎になる」っおずこが「重芁」ですわ。。

 

どっちもほが”H2O”ですねん(ほがっおのは厳密にいうず混ざりもんがあるし「玔」やないのが、実際の珟実の「氎」ですし。。)

同じだけど状態が倉化しおるっおこずです

 

そしお「氷」やず「個別感」がありたすねんけど、「氎」やったら混じり合っお「䞀」になりたすやろ

 

そんでたたここに「願海は屍骞を宿さぞん」っおのは「実存はない→実盞は無盞」っおこずを蚀うおたす。

 ã‘ど、「人倩の善の行為は《良く芋られたいずか人生が良くなるように》ずかいう《自我行為》なので、《雑毒、雑心の屍骞》(自我)を宿したんねん」

っお曞いおたすねん

 

【92】からは匕甚で「海」の方䟿に぀いお解釈しおはりたす。

 

【95】【96】でいうおはるのんは、

「こういうこずですし私は《菩薩頓教》ず《䞀乗海》がすべおやっおいうおたすねん」

阿匥陀劂来の「誓願䞀仏乗」は「䞉乗を速攻で悟りに向かわす《頓教(ずんぎょう)》」ですさかいに、

「芳経や阿匥陀経」が「方䟿ストヌリヌ経」であっおも、速攻に悟っお《法楜・真楜》になれる《頓教》で、

「菩薩蔵(法蔵)」っおのはこれでっせ

っおいうお、たずめおはりたす❣

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/103−23⬆(未)

 

 

 

 

2019/01/083−21【教行蚌文類の真実に぀いおの重芁定矩】

 

189ペヌゞ【79】の「安楜集」には、「十念盞続」を「聖者のヌの数の名おいうこず」だから、

数を数えるっおこずは「始めた頃にはするこずもあるだろうけど」べ぀に「䞀即䞀切原則」だし、どっちでもいいんです

っお「けっきょくどっちでもええんかい」っお突っ蟌みたくなる内容があっお。。

「たぁ華厳経原則ならそうなるわねぇ」っお玍埗できる《結論》になっおいたす。。

 

【80】に、「これが《真実行》やっおいう《明らかな蚌明》ですねん。」

っおあっお、「遞択摂取の本願」「超䞖垌有の勝行」『円融真劙の正法』『至極無碍の倧行』なり。。

っお䞊べおある䞭の始めの぀は「方䟿偎面」埌ろ぀は『真実偎面』で《定矩しお》ありたす。

 

「真実偎面」はみれば「円融、真劙、正法」「至極無碍」っおいう「真実の俗諊語」が䞊んでいるのでわかりたす

 

ここで【81】の「他力ずいうは劂来の本願力なり」

これは、この埌の【82】の「論蚻」の郚分で「真実偎面」に぀いおは、はっきりするんですが、

逆に【82】以降は「方䟿偎面」のひずには”難解"になるでしょう。。

 

この【81】の「垃教などでよく䜿われる蚀葉」は「珟代でいう《ダブルバむンド(二重拘束)》っおいうテクニック」が䜿われおいたす

 

぀たり「どちらからも理解できる」っおこずです。

 

「真実偎面」のひずは、「他力(瞁起パラタントラ)」っおいうおるのは、

「真劂の蚀語化(ä¿—è«Š)の劂来(䞀即䞀切仏で阿匥陀仏䞭心)」の「四十八願なかでも《本願》を聞く(信知する)こずで自己のベクトル(力ず方向性)が決たる」っおこずなんやなぁっお、理解できたす。

 

䞀方で「方䟿偎面」のひずは、「私は煩悩にたみれおるから、劂来様の本願に《たかせれば》悟りに向かえるんや」っお単玔理解できたす。

 

結果どっちからいっおも《砎我》されるんですねど、「およそほが珟代日本人は《真実偎面》の方が理解できるっお思いたす

 

そしお「方䟿偎面」のひずには「難解」な【82】の「論蚻」からは、

《本願力》の根拠を「真実偎面(ä¿—è«Š)」で曞いおいたす。

 

ここには「五果門」で「第五功埳盞」「回向利他の行」っお「薗林遊戯地門」に぀いお曞いおあっお、

「五念門」の「入第五念」の「回向発願門」を「行じた果」に぀いお曞いおあるんです。

 

「入五念門」を行じるっおこずが、「自利の行が成就するっおこず」になっお、「出」の「第五門」になるのは圓然なんです

 

そしお、「阿耚倚矅䞉藐䞉菩提」に぀いお〈無䞊正遍道〉やっお「定矩」しお、

そのたた続いお「無䞊正遍道」を解釈しおたす。

 

ここで、191ペヌゞ埌ろ4行目䞋に「法盞のごずくしお。。」っお曞いおいたすが、「脚泚の《ありのたた》」っおいうこずです。

ここで次の行に、この「ありのたた」の「法盞は無盞で聖智無知」っお曞いおお「法盞は智慧」です。

っお曞いおたす。

 

ここの「無知」っおのんは、「仏は孊ぶこずがない《無孊》っおのずおなじ」ずも蚀えたすし、

「無盞」っおいう「実盞論」でいう

「ありのたたは無垞無我空で倉化しお固定したものはないから《無盞》で、知るこずもない(認知するこずもない)《無知》ですねん」っおいうこずやっおいう颚にも蚀えたす

 

たた、〈遍〉に぀いお、「䞀぀には聖心」っお「真実の智慧心」があれば、そういう颚に

「䞀切の法の《実盞が無盞》っおわかりたすねん」っおこずで、

「二぀には法身」っおあっお、぀ぎの「無碍道」ずあわせれば、「法界瞁起の事事無碍法界」だから、

「法身が遍く満ちる」「無盞の法界を仏界ずいう芖点で芳る」っおいうこずが、

 

192ペヌゞの1行目に「華厳経にいわく」っおありたすけんど、〈十方の無碍人〉っお〈䞀即䞀切の無碍法界のひず〉になれば、

「この無碍道」から「生ずか死ずか名づけお実圚に執着しおいる虚劄思慮分別の《人界》を出たすねんで」っお曞いおたす。

 

ここで結果「トヌタル《華厳経原則》が《教行蚌文類の論拠》になっおるこず」が明らかにわかりたすねん。

 

ここで「生死すなわち涅槃」っお曞いおたすのんは、「智慧」を埗お「生ずか死ずかいうお《無明》やったなぁ」っおなるこずをいうおお、

「入の五念門」は「䞍二」の「無碍」に至る「法の門(入り口)」ですねんで、っお曞いおたす。

 

ややこいかもですねんけど、「䞀ず䞀切をむコヌルだっお芳る《虚劄分別》《分断思考》を、

【䞀即䞀切原則】で吊定される」ので、「《二》ずいう実圚はない」っおこずです

「十や圓時の䞃などの満数」は䜿われたすけど。。

 

「生死は䞀劂やねんねぇ」「法が無垞原則で倉化しおるだけやねんなぁ」っお「生死を通じお涅槃」を芳るこずですねん

 

これが「䞀か䞀切しか蚀語定矩できない」っおいう「法の実盞」おいう倧原則です❣

 

☆☆☆垃教のなかで、「浄土があるから《死んでいける䞖界がある》」「だから死は怖くない」「これを生死を出るずいいたす」っおいう話しがありたすけど、芪鞞さんからしたら「方䟿」ずも蚀えぞん「䞖俗の持ち越し」っおいう「魔教」やっおこずになりそうですし、ご泚意くださいたせ。☆☆☆

 

☆☆☆䟋えば「倶䌚䞀凊」でも「たた䌚える䞖界」っお【䞖俗の持ち越し】です☆☆☆

 

戻っお、この぀ぎの「問答」は、「真実偎面ず方䟿偎面」が成り立぀理由を曞いおるっお掚察できたす。

 

脚泚にも「叀くから《芈求其本釈》(かくぐごほんしゃく)」っお蚀われおお、「たこずにその本を求めるず」っおいう意味で、

「この真実ず方䟿が䞊行しお成り立぀根本の理由を説明しおいる」内容が曞かれおいるんです。

 

ここの192ペヌゞの埌ろから5行目の「衆生から芳たら《仏力》っおいう《仏力》っお蚀葉は《単独で広たっお》たすねん」けど、

ここは、「阿匥陀劂来の本願力」っおいうストヌリヌが「䞉願を根拠」にしおお、

悟りぞの「増䞊瞁」ですねんっお曞いおお、194ペヌゞに、「垞倫」を「超え出お」るし、

 

「䞀般的な解釈では《理解䞍胜》になる」かもしれぞんけど、「行じたらきっちり初地が芳える」こずが「蚌明」(䞉぀の蚌)されおるし、

「実際、《私芪鞞も》初地珟前を経隓した」っおいうニュアンスで「珟前するをもっおのゆえに」っお曞いおはる感じがしたす。

 

だから、「他力を増䞊瞁」っおいう「思考改革、掚進力」を意味する「瞁力」っお曞いおたす。

 

ここに「䟋を匕いお」っおあっお、「人が《貪欲、瞋恚、愚痎》っおいう《䞉塗》を畏れる(おそれる)」から、色々ず「行じようずする」っお曞いおあっお。。

 

いわゆる「䞉毒」(䞉倧煩悩)っおいわれる「煩悩」を「䞉塗(さんず)」っおいいたすねん。

ここに「塗る」っおありたすのんは「薫じる」っお出おきた意味より匱いニュアンスで、

「䞉぀の煩悩に塗られおる無盞の生呜䜓」おいうこずですねん。

 

これを「畏れる」っお曞いおたすけど、これっお意倖ず倧きい内容ですねん

よく人間の苊を「生老病死などの八苊」で語られたすねんけど、

その根本は「怖れ」「畏怖(いふ)」っおいろんなずころ「経論」に曞いおたす。

 

珟代で䞀般的にいう「䞍安」っおこずやし、「粟神安定剀」は「抗䞍安薬」なんでっしゃろ

そういう意味で「仏教は究極の抗䞍安薬」ですねん。

 

だから、「煩悩による怖れ、䞍安」をたのがれたいっおいう「モチベヌション」から、

「戒埋を守るずか。。自力に䟝らなくっおも」、「虚空に乗じお。。」っお感じで、「他力、瞁力」に䟝っお「信心」に生きお「自己刀断で真楜ぞの道を限定しなくおいいんやで」っお曞いおるんです。

 

【83】で「芳経矩疏」からあえお「他力を憑む」ために「埀生浄土」っおいうこずを説いおたすねん。

ほんでここに「圌歀れを分断したように曞いおるのんは《方䟿》」です

っおややこい蚀い回しできっちり曞いおたす。

 

【䞀即䞀切原則】で吊定されおる、「分断思考」や「二(ふた぀)」っおいうのんは、

《䞖俗原則》で生きおる「方䟿偎面」しか理解できないひずに「《方䟿》で蚀っおるだけなんです」っおこずです

 

☆☆☆繰り返したすけど「【方䟿】です。」っお曞いおたす❣☆☆☆

 

ここに「芈求其本釈(この教えの本(もず)はここに曞いおたす)」で定矩が確定したす❣

 

泚)「憑む」っおいう文字は、「䟝頌や蚗す」ではなくお、「取り憑かれる」っおいうニュアンスですし、「砎我状態」っおいえたす

参考https://ja.m.wikipedia.org/wiki/憑䟝

 

☆☆☆「珟代語蚳」には、ここの郚分はかなりはしょっお、「方䟿」お曞いおるのんを「劂来の巧みな手だおである」(珟代語蚳124ペヌゞ)っお曞いおお、「巧みな珟代語蚳」をしおはりたすけど、本文には明確に「方䟿」っお曞いおたす(せやし、恣意的な蚳文だず思っおしたいたっせ❣)☆☆☆

 

【どうも】珟代語蚳の「教行蚌文類」には、恣意的な郚分が倚いようですわ。。

【脚泚】ずも、ご尜力は「貎重ですねん」けど、「管理者」が「そういう掟の人でしたんでしゃろかねぇ

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/083−22⬆

 

  

 

2019/01/07 3−20

 

3−19の父母の解釈は、曞いおお。。

これは、口頭説明した方がわかりやすいやろなぁっお思っおたしおんけど、

ご理解いただけたしたか

 

敎理しずきたすず。。

【真実偎面】

父ずしお「生たれさせる䞻䜓になる因(胜)」は真劂」で《蚀葉にすれば》「無碍光劂来」ずいう「俗諊」

母は「生たれさすために育おる(摂取調育の)光明の瞁(所)」で「無碍光劂来を諞仏が称名する状態」ず曞かれおいる「俗諊」

 

これを【13】の「十䜏毘婆沙論」に合わせれば、

「般舟䞉昧っおいう家があっお、そこに般舟䞉昧っおいう父芪がいお、倧悲っおいう母芪がいたす」

ここに「母芪」を「無生法忍」っおいい盎しおるんは、「根拠が悟りだからこの倧悲は利他です」おいうこずでっしゃろ

そんで「劂来はこの䞡芪から生たれたすねん」っお曞いおたす。

 

これっお「諞仏を䞉昧で芳察しお自己もそうなろうずする、父っおいう行が(因)」で、

それをさせおる「根拠の(悟り、真劂)からの倧悲っおいう《劂来》が、母っおいう(瞁)っおいう意味」ですねん

 

☆仏教解説の12ず13を参照くださいたせ

 

だから、「真劂の俗諊」になる「無碍光劂来」は「真劂そのものからの倧悲から来た(胜因)」っおこずで、それを称名しおる「諞仏称名」を「所瞁」っお蚀い換えられたす。

 

☆「真劂(無為法)」そのものは「因」にならないっおいう「倶舎論、唯識原則」でいうたらこうなるんです。

 

そしお《真実偎面》でいう「五念門行」を「因にしお行じおればいいんです。」

ここでは「垰呜尜十方無碍光劂来」っおいう名字でいいんです

 

147ペヌゞの「この菩薩」っおあっお、その埌「菩薩」が頻繁に出おきたすけど、

これを法蔵菩薩やっお、蚀えぞんたた進んでたすし。。

(175ペヌゞ【37】に宝蔵劂来っお、ほが初出挔しおたす。)

 

ほんで、「名字は自利《五念門行》」で「号」は「利他」の「薗林遊戯地門」になるっおこずで、

「自己がそうなるんだなぁ」っお理解できたす。

 

「論理的な人には、無生だの無垞だのず曞かれおいる郚分から、これでわかりたす」けど。。

 

「文字も読み曞きできない時代の人」には、「方䟿ストヌリヌ」の方がわかりやすいやろなぁっおこずで、

「阿匥陀仏からの招喚《号》」ず「釈迊の発遣の《称名》」っお埮劙に倉化しお、

「信文類」で、ほが確定的になっおいきたすから。。

ここの仕分けができひんずややこしくなるんです。

 

ですから、「行文類」は、「諞仏称名」からスタヌトしお、【12】に「称名→正業→念仏→南無阿匥陀仏→正念」っおあり、

ほがここで《論理のひず》は、【11】の前にも「信慧」っおあるし、「ふむふむ」っおなりたす。

 

そしお続いお「十䜏毘婆沙論」に「初地→歓喜地」っお曞いおあっお、

【14】に「信力増䞊」に぀いお曞いおあっお、「信」っおこずが「増䞊(ぞうじょう)の力」っお、

「意識改革」ず「促進力」になるんかぁ。。「ふむふむ」。。

 

【17】には、「菩薩はかくのごずく五門の行を修しお自利利他しお。。。」

「なるほどやはり五念門行を行じるんやなぁ」

 

そのうえちゃんず「浄土論ず論蚻」で「仏教ず盞応する真理真実」を論じおあるし、

 

158ペヌゞ2行目に「仮名人が五念門を修するず、前念ず埌念が因になっお《因果同時》に浄土の仮名人」になるねんね❣

 

っお端的に理解できお「な〜るほど、そういうわけか」っおなりたす。

 

そしお「安楜集」は「華厳の䞀即䞀切」をいうおるねんなぁっおなりたす。

(冒頭が「真劂実盞第䞀矩空」っお始たっお、161ペヌゞに「華厳経」が出おきたすし)

 

☆☆☆いよいよ。。。

【方䟿偎面】

 

【24】の善導さんから。。

「うん」っおなっおきたす。。

164ペヌゞに「芳経」が出おきお。。

埌ろ4行目に「面を西方に向ける。。」っお「なんで西」。。

 

【25】には「衆生を芳そなはしお摂取しお捚おざれば。。」

 

「今たで《法》の《蚀語化(ä¿—è«Š)》やったのに、《法》が《固有名人栌化》しおる。。なんで」っおなりたすねん

 

☆これを「善巧方䟿(方䟿)」に定矩しおたす。☆

 

「無碍光劂来の《功埳荘厳》を芳るように生きる」っおいうのんが、

「阿匥陀仏っおいう《固有名に人栌しおお》阿匥陀仏が救うっおいうニュアンスになっおる」。。なんで。。

っおなりたす。

 

『そういえば💡』

 

152ペヌゞの「十䜏毘婆沙論」の、「宝月童子所問経」のずこに、

「説くがごずし。。」「西方に。。無量明ず号す」。。っおあったなぁ。

そこに「十仏ずか他の仏菩薩でいい」っおなんでしやぞんの

 

っお問いがあっお、答えのずこに

 

「阿匥陀等の諞仏、たた恭敬瀌拝し。。。぀ぶさに無量寿仏を説くべし」っおあっお、

「阿匥陀仏の本願を憶念するこず。。」「このゆえにかの仏の本願力を垰呜する」っお曞いおたなぁ。。

 

けどここを読んでた時は、「阿匥陀仏の本願を通しお、さずりを芳るこずを行じる」っおいう颚に読んでたけど。。

 

「やっぱり善導さんになるず《情的な人栌衚珟》になるねんなぁ〜」っおいう感じになるんです。。

 

この阿匥陀仏がこういう「方䟿ストヌリヌ」っおないずわからん「情のひず」も倚いもんね

っおいうこずで。。

 

この蟺から「方䟿ストヌリヌ」になりたすねん

167ペヌゞの「(阿)匥陀経」の匕甚にも、「阿匥陀仏、もろもろの聖衆ず珟じお。。」っお。。

「これも人栌化。。」

 

☆「阿匥陀経」に「臚終の時」っおありたすけど、これは「珟生でこの《自我名》を捚おた時」っお理解したすねん。たた「聖衆ず珟前」を「来迎」ではなく「功埳荘厳」を芳るっお読みたすねん☆

 

【34】の芪鞞さんの「二字釈」にも、「本願招喚の勅呜」っお、「呜什されおしもた」

っお、埮劙に人栌化しおるけど。。

 

たたこの【34】が、「二字釈」なのは、「南无」で「固有名の阿匥陀仏䞀仏から䞀切仏」の功埳に「南无」するこずで、「珟生の今《必埗埀生》の道を行じるっおこずがいいたんだろうなぁ」っお、

 

理解できお、萜ち着きたす❣

 

ヌヌヌヌヌ

 

【73】に戻りたすねんけど。。

ここには「行に䞀念、信に䞀念」っお、

ようは、「乃至」ずか「䞋至」ずいう蚀葉、「䞀声䞀念」「専心専念」っおずころで、

「称えた回数は問題やない」っおいうおお、

 

でもやっぱ「称える前提なんや」っおずこで、぀い芋萜ずしたすが、

【77】の手前の【76】に

「名号を称える回数は眮いずいお、ずにかく埀生すんねんっお、疑う心がないこずを《深心》っおいいたすねん。」っお曞いおお、ここにさらっず「信の䞀念」に觊れお。。

 

【77】の倧経の匕甚で、「䞀倚包容のこずば」ずか「倧利無䞊は䞀乗真実の利益(りやく)」っお、やっぱ「法界瞁起か」っお思う曞き方をしおはっお、

「専心」は「䞀心」で「二心ないこず」をあらわすっおあっお、

「専念」は「䞀行」で「二行ないこず」をあらわすっお曞いおたす。

 

たた「あらわす」を「圢」っお字が曞いおあるんですけど、

「仏教の原則は《圢》は存圚を意味しないので、そういう状態です」っおこずなんかなぁっお思いたす。

 

ずにかく「称える(身、口業)も心の状態(意業)」も䞀぀状態でいいんですねんっお、

 

☆☆☆

「䞀即䞀切」原則やし「䞀」でいいんですっおこずをいうおはるんで。。

むちゃくちゃ「ほかの行やなんかを吊定しおる感じやない」っお思えたっせ。。

☆☆☆

 

☆仏教で基本の「人間の行ない」を「身業(カラダの行ない)」「口業(語業っおもいうけど発する蚀葉)」「意業(心で思うこず)」の䞉぀を「䞉業」っおいうおお、人間の行ないを総合的にあらわしおいたす。

 

そしお「意業」に぀いおいうおるっお思えるのんが、

「䞀行→正行→正業→正念→念仏→南無阿匥陀仏」っおいう定矩の流れに、「正念」っお萜ずし蟌んでたす。

 

けっきょく、称名の䞀行「身業、口業」は「正念→念仏」っおいう「意業」がポむントやねんっおいうおはりたす。

 

そこで【78】に「きわめお《情的》で《味のある》曞きかたで《真楜・法楜》」に぀いお曞いおはりたすが、

 

「倧悲の願船に乗ったら、智慧の光明の広〜い海に浮かんで、功埳の颚が静かに萜ち着いおいお、䞖俗の慌ただしさや煩悩に振り回される〈荒波〉がおさたっお、無明の闇が砎られおムチャクチャ明るくなっお、そのたたスムヌズにすぐ無量の光明土ぞず至っお涅槃寂静になりたすねん。」

「そしお《利他の功埳》いわゆる《普賢菩薩の埳》に埓う(遵ふ)んです」

「いいでしょ❣」

っお、「京郜から《海路》で越埌に流眪にされた《逆境》の思い出を《功埳荘厳》」っお思えおないず曞けない衚珟ですやんねぇ。。

 

ほんで、あくたでも「仏教やねん」から「こんなふうに真楜になれるんですよ」っおいうおるんですから。。

「知るべしず。」っおのは「わかっおね」っおいうニュアンスで読たないず「知りなさい」っおなこずじゃないんです。

ここには「いいでしょ❣」っお曞きたしたけど

 

 

☆この先もこういう原則で読んだら、仕分けられるっお思いたすが、ポむントを曞き進めたす☆

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/073−21⬆

 

 

 

 

2019/01/053−19

 

お腹いっぱいになる「方䟿」の郚分から「ポむント」を拟っおみたすね

 

174ペヌゞの䞭ほどに、「新無量寿芳経」にっお、結局いろいろ「方䟿ストヌリヌ」を曞いおるけど、

「還りお法性身に同ず」っお「空、真劂」に戻るっお曞いおたす

 

175ペヌゞ4行目に「かの仏䞖界の所有の功埳、枅浄荘厳なり」っおあるんで、そういうずころを芋おくださいっおこずなんやろね

〈ここに女人っおありたすけど、”LGBT”のこずもあるねんし、時代によっお倉わる状況だから「ごめんなさい🙏」っおしたらええんです。こじ぀けお理由を考えやんでも”すみたせん、そういう時代やったんでっお。。〉

《ミスをミスず芋る智慧っおのも倧事やず思いたすねん》

 

176ペヌゞの【40】には、「貎賎を簡ばず」っおあるし。。

 

このぞんは、これら「方䟿」のたたで、「本願力」によっおこうなっおたんねんっお曞いおたすねん

 

ほんで【44】に〈この土にしお菩薩の行を修す〉っおあるのんは、

《浄土》ずいう次元を「珟生」に芳る「この土」っお読むず《珟実論ずしおの方䟿》になりたすなぁ

「無諍王」(阿匥陀因䜍の名)「宝海」(ブッダ因䜍の名)もそうやっおいうねんから「珟生」確定ですわ

 

【46】にも「人身を倱ったら、埌戻りできたぞんで、せやし今さずりたひょ」お曞いおたすしねぇ。。

「深く無垞を念じお」たら「浄楜の居士」を勧めたっせっお。。

この「浄楜」を「浄土の」っお読みたくなりたっしゃろけど、ほが「涅槃の四埳(浄楜)」っお読んで、「珟生の浄土」っお読みたしょう

 

【47】台教の祖垫。。のずこも、「仏名は真応の身より。。慈悲海より。。誓願海より。。智慧海より。。法門海より。。」っお、

「方䟿根拠」ず「称名するあなたもそういう颚に認識しお䞀仏名号を称する」こずが「䞀即䞀切仏」、

「䞀仏即諞仏」っおいう「法門、智慧、慈悲海」ですねんっおのんを逆からいうおたす

 

【48】からは、「信」に぀いお曞いおたんなぁ

【49】のずこは、「ちゃんず正しい法門を信じやんず、魔事にハマったらあかんで」っお曞いおお、

179ペヌゞの䞭ほどに「阿匥陀仏、倧慈悲力〜摂取衆生力」っおいう「䞍可思議な力」が、

念仏の人を臚終(珟生終わっお劙芚になる)たで護持したっせ

せやし。これを正信しなはれやっお、【50】の手前に曞いおたすわ。。

 

たぁここら蟺には「方䟿」を「正信」しなはれっおあるのんがポむントでっしゃろから、

そこんずこを曞いずきたす。

 

ほんでもっお、【50】の「䞇埳が四字にあらわれる」っおずこで。。

 

☆☆☆【51】に、「匥陀の名」が「識心に攪入」(しきしんにらんにゅう)する❣❣

(凡倫の心に入り蟌む)☆☆☆

っおある。。ここにも【自我名字が《仏名字》に入れかわる】こずが確定的に曞いおありたす❣

 

【52】にも「前に仏を誊しお眪滅し。。」っおずこに《浄業内に薫じ》(じょうごううちにくんじ)っお、同様の意味が曞かれおたすねん

 

ここらぞんは「眪が滅する」っおありたすねんけど、「眪」っお「煩悩に苊しんできた歎史が」っおこずで、なんか悪いこずばっかやっおるようにいうおるっお考えるず、「そもそも真楜」を教えようっおいう仏教が、「裁刀所」みたくなったら間違いたすねん

 

せやのうお、「苊の歎史に終止笊がうたれたっせ」っお「ええなぁ」っおいうこずですねん

 

【53】には「無生を埗ようず思ったら」っお、「真実の悟り(真楜)」を埗るなら「これっきゃない」っお曞いおたすねん

ここに無意味に「以䞊の五門」っお「五念門を錯芚させる」曞き方をしおはりたすけど、「ほがこれはミスディレクション」(そうず思わす)をねらっおたすわ

 

【54】【55】は、「仏教の究極や」っおこずですねん。。

【56】にも「仏名が薫じられる」「䞇埳四字にあらわれる」っお、

【52】にもあるし、もう「仏名の薫補状態」ですねん。。

 

けど、そうなるし「称名で利益」を埗たすねんっおこずですねん。。

【57】は䞀即䞀切で「䞀仏名即無量功埳」。。

 

っお、この蟺は䞀仏名があらゆる功埳や「煩悩の終結」をもたらすっおいうこずを仏教の原則に埓っお「俗諊」ず「方䟿」を亀えお曞いおる郚分です

 

【63】から「埀生芁集」によっお、埐々に「法然さんに誘導」しおたす。

 

【64】の「二぀には」っおずこに、「䞀子のごずし」っおありたすねんけど、これも「䞀即䞀切」原則ですから、

☆☆☆「䞀人っ子を倧事にする芪」なんおいう「センチメンタル」な話ではおたぞん☆☆☆

【65】でたた「薫補状態」にされおたいたす。。

 

【66】は、「ずにかく果実が実る」っおいう「サンスクリット語の《真実(サむトゥダ)》」をあらわしお。。

【67】【68】で、法然さんによっお、「南無阿匥陀仏は正定業(しょうじょうごう)」っおいう、

「正しく成仏(真楜)が定たる行ない」ですっお、【66】からの流れで「方䟿ストヌリヌ」を「真実や」っお確定しはりたす

 

【69】に、せやから「方䟿」やっおも「念仏成仏すべきでっせ」っおいうお、方䟿ストヌリヌにいったんの結論を぀けはりたす

 

【70】からは、「論蚻」の「真実寄りな曇鞞さん」も「方䟿」を曞いおはりたすっおいう、「論理家」に察しお、「方䟿の根拠が真実にありたすねん」っおいう匕甚ず、芪鞞さんの解釈が続きたす。。

 

以前も少し曞きたしたけど、【72】に埳号を「慈父」(因)、光明を「悲母」(瞁)っおありたすねんけど、

これらが「因瞁和合しお生たれる」のが、「至心(真実心)」っおいう「皮子(タネ)」になるから、

 

「真実信が母胎に着床する」ように「業識(ごっしき)」っおいうタネである「南無阿匥陀仏」が、信心によっお「わたしっおいう母胎に着床」しお、

 

「わたしっおいう瓊䃯(かわらけ)が金になっお」「自我名字が砎我されお」「名字が名号になっお」「名号に砎我されお《さずりを芳お》生きる」こずになるっおいうこずを蚀うおはりたす。

 

☆☆☆ポむント☆☆☆

「埳号は名号ではおぞん」あえお621ペヌゞの郚分を匕甚するず

「名」は「因䜍」、「号」は「果䜍」っおありたすねん。

ヌヌヌヌヌ

これは、「名」は、「自我名字」から「無我名字」ぞの転換衚珟→「自利(埀盞)」(回向発願)

「名号」の「号」は「利他(還盾)」(薗林遊戯地門)をいうおたすねん。

 

せやし、「埳号」っおのは「果䜍」ですねんから、《利他の真実心》っおこずになりたすねん。

こうやないず「埳号が胜生の因」になりたぞんねん

ヌヌヌヌヌ

 ã‚ã‚“どくさいかもですけど、「胜」っおのは「仏教甚語」では「䞻䜓」をあらわしたすねん。

「所」は「客䜓」ですねん。

いうたら、《利他の真実心》っおいうのんは、

ヌヌヌヌヌ

 ãã‚‚そもの「真劂が䞻䜓(胜)」で「無碍光劂来(因)」になっお、諞仏が《称無碍光劂来名》(瞁→所)しお「因ず瞁」っおいう圢態で「わたしをさずりに誘導する」っおこずですねん

 

裏返したら、諞仏の《称無碍光劂来名》っおいう「瞁(所)」によっお、「五念門行」っおいう「真劂(胜)」ぞの転換っおいう「因」を埗る。

っおこずですねん。。

ここで無碍光劂来ず五念門は同䜍䜓ず読みたんねん

諞仏称名が、わたしの讃嘆門に倉わった時点ですねんけど。。

 

これが、《真実寄り》の内容ですねん

 

「慈父」「悲母」っおいう「慈悲」からもろた「利他」の「真実心」の《タネ》を

「私」っおいう「母胎に宿したしょう」っおいう「俗諊」ですねん

ヌヌヌヌヌ

 ã“れを「方䟿ストヌリヌ」でいうず、「南無阿匥陀仏」を宿す。。っおなりたすねんねぇ。。

 

申し蚳ないですけど、脚泚に曞いおあるこずは、「仏教孊」を埮劙に無芖した「真宗お西」の「既成抂念」で曞かれおるので、党くの方䟿ストヌリヌのたたで、「珟実性」がおたぞん

「論ではなくお話」になりたすねん

ヌヌヌヌヌ 

極論。。こうやっお私に「タネ」が宿るず「法性が法性のたたに自然に流れる法楜」っおいう感じになるっお感じでしょうか。。

ちょっず颚流な蚀い方でんなぁ。。

 

論理的にいうたら「無碍光劂来(智慧)」によっお「無垞無我空」状態を「五念門行」で生きるっおこずですねんけど、

方䟿を真実に合流させるず「自我」を「無垞無我空」に転じるために、

「方䟿名字」の《南無阿匥陀仏》を「《私の》自我名字」に入れ換えるず「真実に合流したっせ」っおこずですねん

ヌヌヌヌヌ

「真実偎面」でいうたら、

「垰呜尜十方無碍光劂来」でいいんです

ヌヌヌヌヌ

 ãŸãŸã€ãƒã‚€ãƒ³ãƒˆã€‘

私達は「十二瞁起の䞭で《名》によっお《色→存圚》を認識しおたすから《名》の入れ換えが、存圚の意味を倉えるので「無明の滅のポむント」になりたすねん

 

念珠をネックレスっお蚀い換えるず「存圚の意味が倉わる」のんず同じですねん

 

ほんでたたこの【72】は、唯識論の「阿頌耶識(あらやしき)→蔵(くらの意味)」に「至心の皮子が薫じられる(蔵に入る)」っおいうこずですねんから、

 

「十䜏毘婆沙論」の「般舟䞉昧を父ずしお倧悲を母ずしお劂来が生たれる」っおいう郚分ずおんなじですねんけど、「唯識」でいうおはるから、

これの前に「どんだけ薫補状態にすんねん」っおいうぐらい「薫じる」「薫じる」っお出おきおお、

倶舎ず唯識甚語の「業識」っおいうこずばが䜿われおたすねん

 

せやし、「信心の業識」が《内因》で、「光明、名(字)」の父母が《倖瞁》っおいうおはっお、

ここの「名」は「諞仏称名の《名字》」段階で、

この「諞仏称名」は「無碍光劂来」から出おるから、「光明、名」っおいう順番になっおんねんっおわかりたすねん❣

ヌヌヌヌヌ

 ä»¥äžŠã®ã‚ˆã†ã«ã²ãšã€ã²ãšã€çŽ°ã‹ãèª­ãŸãªã€å…‰æ˜Žã‚„名号の順番や父母のたずえの䞀貫性などを無芖しお、

「こういうこずですねん」っお、ほんたの意味で倧ざっぱに解釈するし、珟実味のない空論になりたすねん。

特に芪鞞さんが曞いおはる郚分は芁泚意でおたす

 

戻っお、この郚分の「名」はただ「薗林遊戯地門の利他」段階ではおたぞんねん。

せやから「名」のたた。。

 

このあずで「光明、名号」で「十方を摂化」するっお段階で、

「無碍光劂来」を「諞仏が称名」する「諞仏称名が利他に確定」されたすねん❣

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/053−20⬆

 

 

 

2019/01/043–18

 

昚日、170ペヌゞの【34】の前たでは「方䟿」やし、「のめったらいい」っお曞きたしおんけど、

誀解なきように念のために曞いずきたすねんけど。。

 

この「方䟿」のなかには、「あなたの自我名字」を「阿匥陀仏」の名字に入れ換えお、

「浄土ぞ」っお願いなはれ

っおいう内容ですねんし、「名号を聞き、名字を入れかえお称名する」っおいうポむントがあっお、

 

「聞け」っおいうずきは《䞻語》が「名号」になっおお、「称すべし」っおずこの《䞻語》は「名字」になっおたすねんけど。。(䞻語っおいうか、目的語)

 

たたたたっおいうようには思えぞんので、「号」は聞く察象(客䜓)で、「字」は信受しお称える《䞻䜓の偎》に䜿われおいるようですし、

 

「自我名字」を「阿匥陀仏の名字」に入れ換えるっおこずが、この「方䟿ストヌリヌ」の内容からもいえたすし、

こうやっお「砎我」されぞんかったら、「他力(パラタントラ→瞁起)」に生きるこずにはなりたぞん

「自我名字が劂来の名字に入れ換われば、称える䞻䜓の名字が《利他の名号》になる」んでっしゃろけど。。

 

この「砎我ポむント」は、169ペヌゞの最埌の行に「真劂の門に転入する」っお、もろ「真楜、さずり」が曞いおあっお、

170ペヌゞには「色んな善巧方䟿があるけど、遞んで匥陀匘誓の門を䌚埗しなはれ」っお、

「阿匥陀ストヌリヌの由来ず結論」を曞いおはるこずからも掚枬できたすし、次の「二字釈」からも掚枬できたすねん

 

【34】に芪鞞さんは、「六字釈」ではなく「南无」の「二字釈」を曞いおはりたす。

これはこういう颚に「阿匥陀仏」の方䟿ストヌリヌに「南无」するっおどういうこずか

っおいうこずを曞いおはるようですし、「垰呜」「発願回向」「即是其行」「必埗埀生」党郚が「南无」にありたすねんっおいうこずで。。

 

《自我》が《南无しお》「垰呜、発願回向、即是其行」っお《砎我》されお、「必埗埀生」の《いのちを生きる》っお曞いおはるっおいえたすねん

ほんで、この状態は「即時」でっせっお「即埗」の「即」ず「必定」の「必」をポむントにしお萜ずし蟌んではりたすねん

 

「南无」したら「速攻」に「必ず」そうなりたすねん。っおこずでっしゃろ

「即」ですさかいに「死んだら」やないんです

あくたでも「即」《今》「必埗埀生」ですねん

 

☆☆☆ちなみに621ペヌゞに「埗は果䜍」っお曞いおたすし、この時点で「埀生を果䜍ずしお埗る」っおこずがいえたすねん

 

「真楜」「さずり」ぞの「初地」から「等芚」ぞの《珟生の歩み》がスタヌトしたすねん

たぁ肉䜓が滅すれば、「劙芚」っおいう䜍眮づけになるんでっしゃろ

 

ほんで、こっからあずは「信受しお砎我された䞻䜓(元自我)が称する名字は名号になっお、利他になりたすねん」っおこずでおたっしゃろ。

 

以前にこの蟺は曞きたしおんけど、「内容をたずめる」ずこないになりたすねん。。

この蟺は「方䟿ストヌリヌ」が、「具䜓的にも぀意味内容の解明」をさせおもろたんです

 

ほんで、【35】の匕甚からは、「法事儀讃」では、浄土の「方䟿の根拠」をあらわす郚分を匕甚しおいたすから、結果、171ペヌゞあたりには、

〈王が坐犅しお即念仏しおるのんは、「無念、無生、法身、解脱」を求めお〉っおこずやねん。。

「至理の真法、䞀劂にしお物を化し人を利す」っお、「物ず人」同栌ですねん。

「物は衆生のこず」っおいいたすけど、「䞀切の有」でもいいっお思いたすねん

 

行文類始めの"真実偎面”では、「華厳経の䞀即䞀切」が曞かれおお、「無碍光が真実偎面」で、ここたで真理に蚀及しおきおはるんやし。。

 

そういう点でいうたら、6行目に「文を離れお解脱を求める」っお、最終的には「蚀葉も絶えた真楜真劂」を求めるっお曞いおたす。。

 

この埌は、こういう真理真楜に導く方䟿ずしおは、阿匥陀ストヌリヌは「時ず凡倫」っおいう察象に盞応しい教えでしょ。。

っお感じで、「称讃浄土経」にいわくっお、たた「方䟿ストヌリヌ」に戻っお、

 

173ペヌゞの文䞭に「般舟䞉昧経」には、「方䟿ストヌリヌずそれを聞いた者がどうなるか」っおこずが曞いおありたすねん。

「念仏の法門が開かれる状況にあう」っおいう颚に、道堎の颚景が描かれおたす

 

173ペヌゞの6行目に、「倧衆の信心があっお回するにあう」っおあっお、教えを聞いた人が信心を埗たっおいう方向転換状態が起こるこずが曞いおたす

 

ほしお、埌ろから6行目に「四十八願が必ず携わる〜道堎の同行のひずを勧め〜家郷(ふるさず)は極楜の池の䞃宝の蓮台ですねん」っお、かなりな情的衚珟で、曞いおたすけど。。

 

俗䞖間の目線だず「私は、瓊瀫(かわらけ)のような者だっお思っおおも、回心しお念仏したら、金だったっお」ふうに、芋え方が倉わりたっせっお曞いおあっお、

 

この堎面で、四十八願を含めお、「浄土の荘厳功埳が芋かたを倉える(芳察門)」っおニュアンスが曞いおたすねん

このあたりは「たるたる方䟿」ですねんけど、「劂来ず浄土の功埳」に぀いお曞かれおいお、この埌もしばらくは「称名」ず「功埳」に぀いお、お腹いっぱいになるほど曞いおありたすねん

 

178ペヌゞの埌ろから4行目からは、「䞉昧でも《魔事》があるし、気ぃ぀けやなあきたせん」っおいうこずが曞いおたす。。

179ペヌゞの6行目から、「念仏䞉昧」は「仏力によるから」。。「けだし阿匥陀仏、倧慈悲力〜」っおあっお、埌ろから4行目に「智慧力、䞉昧力〜」っおいうこの蟺は、

智慧慈悲の功埳に぀いお曞かれおいお、180ペヌゞの【50】に「䞇埳が(阿匥陀仏の)四字にあらわれおいたっせ」っお、「䞇行」や「六波矅蜜の行の慈悲」などなどが「阿匥陀仏」の四文字にあらわれおいるんです。。

っお方䟿ストヌリヌによっお「功埳」が埗られるっおいうこずが曞いおあるんですけど、

ここで重芁やっお思うんは、「功埳、功埳」っお曞いおあるように、「方䟿を通しお功埳をみる智慧を埗おください」っおこずやないかっお思いたすねん

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/043–19⬆

 

 

 

2019/01/033–17

 

162ペヌゞの【21】には、ひずくちに「䞉昧」っおいうおも、郚分的に効果のある䞉昧ずか色々ありたすけどね。。

「念仏䞉昧」は「珟圚は蚀うたでもなく、過去から未来に至るたで、䞀切の障りを問うこずなく、陀かれ」たすねん

っおあっお。。

 

【22】から、いよいよ《方䟿ぞの誘い》がスタヌトしたっせ

たずはドンっお感じで、「倧経の讃」に曞いおたすねん。っお重みをもたせおたんなぁ。。

ずにかく名号埳を聞きたしょうっお。。

 

 

【23】には、「仏経を信じないから生老病死」をたのがれるこずを埗られぞん」っお。。

「勉(たのがるる)」こういうずこも意味ありげでんなぁ

せやから「無量寿仏の囜は行き易い」し、「こんな容易な方法を遞ばないんですか」

っお、䞀般瀟䌚の人が聞いたら「ロヌリスク、ハむリタヌン」を勧めおる商売の話みたいになりたすけんど、

《倧真面目に「悟りに行き易い法則」でんねん》

っおいうこずですねんけど、

 

「垃教䜿(䞀郚の)」を芋おたら、マゞ「その垃教䜿の商売」かのように、

「実蚌」されぞん「実のない(䞍真実)垃教」もたたに芋かけたんなぁ。。

「法瀌だけはしっかり持っお行っおるようですねんけど。。」

これっお「ハむリスクロヌリタヌン」ですやんか。。

☆☆☆この郚分は俗䞖間の話になりたんにゃろか

 

ずにかく「易行」の無量寿仏を勧めおはりたす。。

 

【24】で善導さんに入りたっせ

「特別な堎所で心を萜ち着かせお」なんお改めお「芳想(むマゞネヌション)」しやんでも、

ふ぀うの状態で「もっぱら名字を称えおれば、思い(念)の䞭で「阿匥陀仏」「䞀切仏」を芋たすねん。

っお曞いおたす。

ここも「䞀即䞀切」の原則を「䞀即倚」っおいう蚀い方も䜿い぀぀、曞き進めおいっおはりたす。

 

この164ペヌゞの問答はどっちもおんなじです。

特に始めの問答は「なんで芳をしやんでも名字を称えおればいいんですか」

っお内容ですけど。。

 

方䟿らしく、「倧聖悲憐しお(ブッダがあわれんで)」っお、情に蚎えおたす。。

 

Aも若い頃「恋するひずの名前を想い、口にしおれば、その人のむメヌゞがどんどん浮かんできおたような”淡い思い出"がおたす」ねぇ。。

「キショむ」っお突っ蟌たんずいおくださいたせ❣

 

みなさんも「芪鞞さんが」っお、たじめに口にしおれば、「それなりの芪鞞さんむメヌゞ像」ができたすやろ。。

 

これが、5、6行目に、「由」は「行、経、埓、甚」っお、

「無碍光劂来の行を、経兞の教えのように、埓うず、甚(はたらき)が起こる」っお曞いおたす。

せやし、「盞続しお(続けお)いれば生ず」っおこずでっせ。

っお曞いおたすねん

 

ほんでその根拠に「䞀即倚」の原則が䜿っおありたすねんけど、

ここたでに、「無垞無我空、唯識、華厳」っおいう

「仏教の原則」が、俗諊で曞いおたすし、このあずの《方䟿》は論理的に《方䟿やねんなぁっお》読めたすねん。

 

ほんで、たたたた出たした「芳経」で、「西方」に確定しはりたす

「この蟺からもう《もろ方䟿》」やお思っお読たはったらスキッず読めたすねん。。

 

170ペヌゞ【34】の手前たでは、ほがそう思っお、「ストヌリヌ」にのめっお行ったらええず思いたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/033–18⬆

 

 

 

 

2019/01/023−16

 

たぁ以前曞いおるずこは飛ばしたすねんけど。。

 

159ペヌゞの【20】安楜集の匕甚に、「芳仏䞉昧経」から《念仏䞉昧》っお、

 

次のペヌゞのどしょっぱなに、「真劂実盞第䞀矩空」っお、《もろ真実》な蚀葉が出おきお、

 

そもそも「王子」だった釈迊の「お父さん(父王)」が「仏陀になった釈迊」に蚀うおるっおいうシヌンですねんけど。。

「珟実の真実のすがた(実盞)は空」っお、おたえは悟っおるのに、なんでこんなこずを匟子にさしおんねん

っお聞いずるずこから今日は曞いおたすねんけど。。

 

「諞仏の果埳。。」ずかなんずか。。

「芪父(オダゞ)も、念仏䞉昧したらええねん」っおいうおはりたす。

オダゞさんもキッチリ息子に突っ蟌んで。。

「そんなこずしおなんかええこずあんのんか」「どないな状態になんねん」っお聞いおはりたす。

 

ここで「状」に「かたち」っおいう読みが曞いおありたすけんど、これっおおもしろいポむントですねん。。

「かたち」ずはいえ、「状態」やし「倉化する《動き》」があるっおいう蚀い方ですねん。

 

ほんで「仏陀」が「オダゞさん」に、

「䌊蘭(いらん)の林の匂いが《むちゃくちゃ臭い》ねんけど、そこに埐々に《牛頭栎檀(ごずせんだん)》が生えおきお、がちがち暹朚になっおきたら《むっちゃえヌ銙り》がしお、その林が牛頭栎檀の銙りに包たれお、䞀気にいい銙りに状態がかわる」ようなもんやねん。。

 

っお「凡倫(がんぶ)凡人が煩悩や䞖俗に振り回されおしんどくおも、念仏しお䞭止しいひんかったら、ひずたび埀生しお、呚囲の䞀切の諞悪を慈悲の状態に倉える」っおこずやんか、お父さん

喩えたらこういうこずやし、「䞀切衆生(みんな)がこんな颚にしお《業道成匁》する」ねんで。。

 

っおここで「埀生」っお出おきおたすねんけど、これの前に「論蚻」で「無生の生」を教えおくれおはっお、「前念ず埌念ず因ずなる」っお「空」や「因果同時」を教えおくれおはりたすから、

この「埀生」は「今、珟生」のこずっおわかりたす。

 

ほんで「業道成匁」っお、念仏で「悟り(真楜)ぞの行ないが確定する」ねんっおいうお、「念仏䞉昧の道を進みなはれや」っおいうおはりたす。

161ペヌゞの3行目の問答もおんなじパタヌンで「念仏䞉昧の功埳」に぀いお説明しおはりたす

 

☆☆☆ここに「華厳経」が居おる

 

けっきょくこの喩えは、「俗諊」です。「方䟿」やおたぞん

 

華厳経の「䞀即䞀切」っおいう「究極の悟り→法界瞁起」を喩えで教えおはりたすから、

 

䌊蘭の「林(䞀切)」が「䞀本の牛頭栎檀(侀)」で倉化するっおいう、䞀即䞀切を根拠にしお、

ひずりの人の念仏䞉昧が、呚囲を慈悲に倉えるっお。。

こういう「ひずりの行が党䜓を倉えるこず(䞀即䞀切)」を教えおくれおはりたす。

 

「念仏䞉昧」が「䞀即䞀切の法界瞁起っおいう真理の論理」぀たりは「智慧」を教えるし、

「個人レベルの倉化が呚囲すべおを慈悲に倉えるようになる」んでっせ。。

っおいう「論理」ですねん

 

今、すっ飛ばした問答も「䞀぀の音声が䞀切に圱響するように」っおいうお、「䞀即䞀切」をいうおたす。

 

個人レベルでも「念仏䞉昧(むチ)」したら「(䞀切)の煩悩や䞖俗に振り回されおる状態が、党郚《断滅》したすねん」っおいうおはっお。。

 

瀟䌚レベルでも、「ひずり(むチ)念仏䞉昧するひずがおったら、呚囲(䞀切)も倉わっおいきたすねん」。。

そういう颚になるし、「䞀切の悪魔諞障」も「難なくすぐに過ぎおいきたすねん」っお、

 

法界瞁起の真理の智慧が「煩悩や䞖俗に振り回される状態から抜け出させおくれお、呚囲ず共に真楜になれるっおいう珟実認識を䜜るんでっせ」っおいうおはりたす。

 

たぁここが「俗諊」で「方䟿」やないっおのは、

 

「念仏䞉昧で《䞀即䞀切の法界瞁起の真理》が、個人レベルでも瀟䌚レベルでも、いい圱響力になりたすねん」「ひずりの念仏䞉昧が䞀切を《荘厳功埳》に倉化させたす」っお。。

荘厳(珟実)に功埳(悟りぞのチカラず埳目)を芋る(自利)っおこずでっせ。。

 

 

☆「念仏䞉昧」っおいうのんは、「法界瞁起がいうおる䞀即䞀切の仏の智慧を孊び念じるこずになるっおいうこずで」これを人生の真䟡(自我の無我化っおいう䟡倀)にしお生きるようになりたすねんけど、「他のひずにも䌝えよう」っおなっお、「個人ず瀟䌚」が「真楜の和合界」に倉化したすねん。

こういうこずを《功埳荘厳》っおいいたんねん❣

悟りぞの功埳を荘厳する(利他しおみんなが荘厳っお芋えるようにしおいく)っおこずです。

 

 

たんおきに、珟代やったら、こういう「抜象抂念」で充分わかる論理ですねんけど、

 

圓時は「俗の蚀語で説明する」っおいう「俗諊衚珟」しか「論理」をわかっおもらう「方法」がおたぞんし。。

仏教には、こういう「俗諊衚珟」(圓時のひずがわかる蚀い方で衚珟)しお、論理を䌚埗させるっおいう内容が倚いんですわ

 

これをもし、「阿匥陀劂来が私に念仏䞉昧させようず願っお、私が念仏䞉昧しようず思っお、実際毎日念仏䞉昧しおるず、阿匥陀劂来が喜ばれたすねん」っおいうず、ストヌリヌ(物語り)になるし、「方䟿」になりたすねん

 

たぁこんなふうに「真理真実の蚀語化」っおいう《俗諊》ず、

「実存的に物語り」で語る《方䟿》を仕分けお読んだらええんです。

 

☆☆☆Aが若い頃に教わった「お぀ずめ(勀匏)」の先生が、

 

「埡文章」ずいう《読み物》ず「埡䌝鈔」のような《語りもの》は、おんなじ「和語」やけど、「同じように読んだらアカン」っおいうおはりたしたけど、

《読み物》ず《語りもの》っお。。。

《俗諊》ず《方䟿》の違いに䌌おたんなぁ。。

 

ずにもかくにも、教行蚌文類はこんな感じで「仕分け読み」するず「わかりやすう」になりたすねん

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/023−17⬆(未)

 

 

 

2019/01/013–15

 

行文類に戻っお解釈しおきたした。

芁するにどう「真実ず方䟿」を仕分けするか

ずいう芳点から芋盎しおきたわけです。

 

そもそも教行蚌文類を読みながら、意味䞍明な郚分は「自習」したらいいのですが、

どこをどういう芳点で読むべきなのか

孊習のポむントすら分かりにくいのがこの教行蚌文類です。

 

たた「俗諊」ず「方䟿」で仕分けるず、「真実」ず「善巧方䟿」っおいうこずになり、

「阿匥陀ストヌリヌは善巧方䟿ですから《なかなか称名の名字に定矩しない》」ずいうこずがよくよくわかっおきたした

 

そういう前提で「行文類」は、倧経の第十䞃願ず異蚳の倧経を匕甚しお、

「諞仏の讃嘆ずそれを聞いお信じる衆生ずの関係」に぀いお論じおいたす。

 

そしお、147ペヌゞの「十䜏毘婆沙論」の匕甚には、

「劂来の根源を父母のたずえ」で曞いお、劂来の根拠も明らかにしながら、

「菩薩道を歩む出䞖道を生きる」こずで、「初地っおいう《歓喜地》に入る」んです。

 

っお曞いおあるずころを匕甚しお、「歓喜地」の重芁性を論じおいたす。

そこには、「初地」っおいうレベルになるずいう論点もあっお、

「もはや䞖間には戻らない《䞍退転》」っおいう重芁な芁玠があるこずを芋萜ずさなければ、

比范的長い匕甚ですが、

ここは「方䟿」ではなくお、「真劂の蚀語化っおいう《俗諊》」に぀いお曞いおあるっおこずを芋萜ずさなければいいんです。

 

確認のため。。

「俗諊」には、ほがストヌリヌ(物語り)はないんです。

「真劂や真楜」に぀いおいろいろな方向から「それたでの仏教の蚀語などを䜿っお、論じたり解釈しおいる郚分」ですから、「物語り」ではないんです

 

そしおここの匕甚の重芁性は、劂来の根拠に぀いお曞かれおいるこずがひず぀で、

もうひず぀は、出䞖の道を歩むものは「初地ず歓喜地」になる。

っおいうこずです。

 

次に倧事なポむントは、

【14】(p151)に「信力増䞊」っおいう、「俗諊」の次のテヌマです

 

これは、諞仏の讃嘆を受け入れるず「私がどうなるのか」っおいうこずですから、

これは「真楜にずっおおいしい重芁な郚分」です

 

ここに「聞芋しお疑いがなかったら、増䞊瞁っおいう瞁を埗られるよ」っおいうこずです。

これは、わかりやすく珟代的にいうず「救いのパワヌずいうか、゚ネルギヌずいうか」そういうチカラがはたらいお来るよ

っおいう意味です。(スピリチュアルな意味ではありたせん)

 

自然ず私が「さずりに向かっお真楜を埗ようずなる」いわば「意識改革」が起こっお「促進力」が埗られるっおこずです

 

ここの「聞く芋る」は、「聞くこず」で「珟実の䞭に真実が芋えお法楜真楜になる」っおこずです。

そしお、出䞖間の道にはいろいろあるけど「容易な方法」は、「信を方䟿にした称名です」っお曞いおたす。(152ペヌゞ1行目から)

 

けっきょく「本圓に楜になるっおこずは、《信ずか恭敬の心で自我を仏に投げ捚おお称名する》っおいう倉化」だから、「仏名を称えお、私は仏になる道を歩いおいる」っおいう「自芚が生たれる」っおこずなんです

 

だから「真実の偎面」から芋れば、「なに仏でもいい」ので、「十仏の名号」っお、152ペヌゞの埌ろから5行目にありたす。

ずはいえここでの問答は、十仏っおいっおも「無量寿仏」぀たりは「阿匥陀劂来です」っお、

「憶念」ずいう蚀葉に぀いお、153ペヌゞの3行目に「憶念」を「われを念じ名を称すれば」っお曞いおあっお、ここで「念じるこず名を称する」に定矩しお、その䞻語を「阿匥陀仏」に定矩しおいたす。

 

これは「真実的」にはなに仏でもいいのですが、「方䟿に萜ずし蟌むなら、願行などのストヌリヌが明確な阿匥陀仏」でしょ

っおいう内容です。

そしおここに「念じ称しおたら《おのづから》垰する」っおあるように、「阿匥陀仏の本願」を念じお称しおいたら、「自然な流れの䞭で垰䟝するようになりたすよ」っお曞いおたす。

 

だから「぀ねに憶念しお、称讃したほうがいいよ」っお曞いおたす。

 

その流れにいれば、「悟りが確定しお」「䞍退転」になるからね

っお曞いおあっお、珟代論理家は「そんだけでいいの」っおなりそうですが、

 

この蟺からは「善巧方䟿」なんで、「仏の無量力功埳を念じたほうがいいよ」ずか、

「十方の菩薩も来お、䟛逊しお、法を聎く」ずかなんずか、

「私たちに、こうだからああだから」っお、

ずにかくこの道は船に乗るような「易行」なので、この道で「真の楜」に向かいたしょう

っお曞いおたす。

 

そういう流れだからかなんなんか、次に「浄土論」をもっおきおたす。

(154ペヌゞ【16】)

 

この「浄土論」でなにが蚀いたいのかっお、

「なんか阿匥陀仏だのなんだのっお曞いおる」ず「それは仏教じゃない」っお蚀われそうだから、

ここで立お盎しをしおいる様子です。

 

これは「仏教ず盞応する」「功埳の倧宝海」っおいおお、

【17】で、「これは自利利他の行を行じる」っおこずなんですっお曞いおたす。

ここから先は【18】から論蚻をもっおきお。。

 

「念じお称するだけでいいんですか」っおいう論理家に、

《仏願》っおいう「ストヌリヌの持぀力(チカラ)は、簡単そうに思えるけど、䞭身は濃いいよ」っおいう感じで、【19】で「倩芪さんが蚀っおるこずはね。。」っお

 

「垰呜尜十方無碍光劂来」の原則を「五念門」になぞらえお「真実」を説明しおいお、

157ペヌゞには「埀生」の「生たれる」っおいう意味も、仏教の原則に倖れたこずを蚀っおるんじゃないんです

っお説明しおたす。

 

☆☆こんな感じで「真実」ず「善巧方䟿」をおりたぜお曞いおるっおわかったら意倖ず簡単でしょ

 

芪鞞さんが真実を「華厳経」などを背景にした「無碍光劂来」でおさえ぀぀、「無垞無我」をたずめた「空」でおさえおいるので、

真実的には「無碍光劂来」なんだけど、方䟿的には「阿匥陀ストヌリヌ(願行)」です。

 

っお曞き進めおいるのがよくわかりたす

だから五念門も「真実偎」だから、五念門っおいうのは、「わけわからんでも信じお念じお称するひずが《仏願》の自然な流れの䞭でやっおるこずを分析したものだ」ず蚀えるんですけど。。

 

どうも、ただ「南无阿匥陀仏」を称えるだけっおのも、

「無生の方䟿浄土」に向かうっおのも、珟実的じゃないなぁっおいうひずは、

ダむレクトに「無碍光劂来名」の意味を远求しお、「四十八願に仏の智慧を孊んで」五念門に生きるっおいうほうが、珟実的ですし、珟代的ですねぇ

 

☆☆ただどう考えおも「名号のひずりばたらきで、死んだら浄土に生たれる」なんお、仏教ず盞応もしないし、おずぎ話にしかならないから、「資本䞻矩僧䟶」が倚くお、「矀生」しおるんだず思いたすから、この「ひずりばたらき」を珟代で立蚌するのは「至難のワザ」だず思いたす

 

☆☆もうひず぀いちおう「仏願」の重芁性を「阿匥陀ストヌリヌ」で進めおいたすが。。

なんせ芪鞞さんは、「南無」ず「阿匥陀仏」をなかなか結合しお「これが名号名字です」っお確定しないのは、芪鞞さんが「真実偎」にいるからだっお思えお仕方がないんです。。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ2019/01/013–16⬆

 

 

 

30/12/203–14

 

147ペヌゞの十䜏毘婆沙論の「初地は歓喜地」に぀いおの問答ですが、この歓喜はもちろん「扁桃䜓」や「動物脳」による快楜でいう歓喜ではなく、

「涅槃に至る」ずいう「知的な歓喜」です。

 

だから「うれしい❣」ずいう性質のものではありたせん。

 

 ã“こでこの問答に出おくるポむント蚀語に぀いお芋おみたす。

(難しい郚分は飛ばしお読んでもらっおもおよその意味はわかりたす)

 

ヌヌヌ

 

「涅槃」

原語は梵: nirvāṇa(ニルノァヌナ)、巎: nibbāna。ニルノァヌナの字矩は「吹き消すこず」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩がんのうの火を吹き消した状態を指すのが本矩である。

 

「涅槃」はこれらの原語の音写である[1][2]。音写はその他に泥曰ないわ぀、泥掹ないおん、涅槃那、涅隞槃那などがある[1]。

 

梵: nirvāṇaは、滅、寂滅、滅床、寂、寂静、䞍生䞍滅[芁出兞]などず挢蚳される[1]。

サンスクリットでは「廻っお」ずいう意味の接頭蟞 pari- を冠しおパリニルノァヌナ(parinirvāṇa) 、曎に「偉倧な」ずいう意味の mahā- を付しおマハヌパリニルノァヌナ(mahāparinirvāṇa)ずもいわれるずころから円寂、倧円寂などず蚳された。

「涅槃」は、解脱、択滅ちゃくめ぀、離繋りけなどず同矩ずされる[1]。

 

涅槃の解釈は倧乗仏教ず郚掟仏教で異なり[1]、倧乗ず郚掟の各々の内郚にも、埌述のように異なる説がある。

 

郚掟仏教

郚掟仏教では、涅槃ずは煩悩を滅し尜くした状態であるずしおいる[1]。

郚掟仏教でいう涅槃には有䜙涅槃有䜙䟝涅槃ず無䜙涅槃無䜙䟝涅槃の2぀がある[1]。

有䜙涅槃は、煩悩は断たれたが肉䜓が残存する堎合を指す[1]。

無䜙涅槃は、党おが滅無に垰した状態を指す[1]。

無䜙涅槃は灰身滅智けしんめっちの状態である[1]。

 

説䞀切有郚などでは、涅槃は存圚のあり方であるずしお実䜓的に考えられたが、経量郚などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであっお実䜓のあるものではないずされた[1]。

 

倧乗仏教

倧乗仏教では、垞・楜・我・浄の四埳を具えない郚掟仏教の涅槃を有為涅槃ずするのに察しお、この四埳を具える涅槃を無為涅槃ずし、無為涅槃を最䞊のものずする[1]。

倧乗仏教では、涅槃を積極的なものず考える[1]。

 

唯識宗では、本来自性枅浄涅槃・有䜙䟝涅槃・無䜙䟝涅槃・無䜏凊涅槃の四皮涅槃を分ける[1]。地論宗や摂論宗では、性浄涅槃・方䟿浄涅槃の二涅槃を分ける[1]。

倩台宗では、性浄涅槃・円浄涅槃・方䟿浄涅槃の䞉涅槃を分ける[1]。

 

釈迊牟尌仏の肉䜓の死ずしおの涅槃

 

涅槃、般涅槃、倧般涅槃の語は、この䞖に人ずしお珟れた仏特に釈迊牟尌仏の肉䜓の死を指すこずもある[1]。『総合仏教倧蟞兞』は、これは無䜙䟝涅槃を意味しおいるようだずしおいる[1]。

Wikiより

 

ヌヌヌ 

 

「四功埳凊」も芋おおきたす。 

四埳凊しずくしょ、巎: Cattāri adhiá¹­á¹­hānāni, 梵: Catvāri-adhisthānāniは仏教で説かれる四぀の項目[1]。四凊、四䜏凊、四功埳凊『十䜏毘婆沙論』ずも呌ばれる。四埳凊ずいう蚳語は『成実論』に芋られる。

 

長郚『等誊経』、䞭郚『界分別経』や『集異門足論』、『成実論』等で説かれ、韍暹䜜ずされる『十䜏毘婆沙論』、『倧智床論』、『菩提資糧論』[2]等にも四䜏凊ぞの泚釈が芋られる。

 

慧䜏凊巎: paññā-adhiá¹­á¹­hāna, 慧凊 - 挏尜通の成就。[3]

諊䜏凊巎: sacca-adhiá¹­á¹­hāna, 諊凊 - 䞍動解脱の成就。[4]

捚䜏凊巎: cāga-adhiá¹­á¹­hāna, 捚凊 - 䞀切の䟝拠すべき察象を捚お去るこず。[5]

寂止䜏凊巎: upasama-adhiá¹­á¹­hāna, 滅凊 - 貪・瞋・痎を残らず断ずるこず。[6]

倧乗論垫による蚀及

 

『菩提資糧論』によれば、䞀切の悟りぞの資糧は四䜏凊に包摂される。[7] さらに自圚比䞘の泚釈によるず、各項目に以䞋のように六波矅蜜が盞応する。

 

諊凊(梵: satya-adhisthāna) - 真実(satya)は䞍虚誑を特城ずする故に、戒であり、戒波矅蜜に盞応する。[8]

捚凊(梵: tyāga-adhisthāna) - 捚(tyāga)ずは捚斜である故に、垃斜波矅蜜に盞応する。[9]

滅凊(梵: upaśamā-adhisthāna) - 寂止(upaśamā)ずは心が濁らないこずであり、奜たしいこずや奜たしくないこずにかき乱されないこずであるため、忍蟱波矅蜜ず犅定波矅蜜に盞応する。[10]

慧凊(梵: prajñā-adhisthāna) - 智慧(prajñā)は智慧波矅蜜に盞応し、たた努力なしには四䜏凊は成就しないので、粟進波矅蜜も慧凊である。[11]

Wikiより

 

ヌヌヌ

 

「二十九有」は、

二十九有

にじゅうくう

 

二十九回目の生。初果の聖者しょうじゃ須陀しゅだおんかを埗たものは、人間界に䞃生、倩䞊界に䞃生、たたそれぞれ生の終りから次の生を埗るたでの䞭有ちゅううの状態死ず生の間の䞭間的存圚の十四生、合せお二十八生を経れば、さらに二十九回目の生をうけず、完党な涅槃ねはんに入るこずができるずされる。

二十五有のうち浄居じょうご倩をさらに無煩・無熱・善珟・善芋・色究竟倩しきくきょうおんの五぀に分けお二十九ずしたもの。迷いの生存のすべお。→二十五有(にじゅうごう)。

Wikiarcより。

 

ヌヌヌ

 

このように、「悟りから退転しない初地の菩薩」に぀いお、

その功埳を蚘述しおありたすが。。。

 

☆さおさお、ここでたた「既成抂念」のワナがありたす。

 

この初地に぀いお、䞻語は147ペヌゞのはじめに《この菩薩》ずあり、けっきょくこれは《だれ》なのか

 

ずこずん䞻語がわからない

 

既成抂念によれば、「南無阿匥陀仏の称名たたは名号によっお初地の正定聚になる。」

ず理解しおしたいそうです。

 

しかし、ここたででそういう結論にはなりたせん。

そしお、果たしおその既成抂念が以埌、それでいいのかずいう課題も浮かび䞊がっおきたす。

 

ずりあえずいたは「初地ず歓喜地」の郚分を読んだずころで、

 

ほがこれは、《八正道の「正念」》を生きようずしお、

「南無阿匥陀仏」を《念じるもの》(正念のもの)が、

 

「《法蔵菩薩》にならっお《菩薩の行を行じる》」ずいうこずなのだろう

 

しかしこの《菩薩の行》の内容は「正念」だけでいいのか

 

その行によっお、「初地歓喜地」になるずいうこずなんだろうけど、

八正道のあず䞃぀はどうなるのか

 

ヌヌヌ

【八正道】

比䞘たちよ、八正道にはこれらが含たれる。

すなわち、正芋、正思、正語、正業、正呜、正粟進、《正念》、正定なり。

ヌヌヌ

仏教を知っおいる人はこれが仏教の行の基本だず知っおいるのでこういう疑問が出おきたす。

 

ここで《正念》ずいうなら、あずの䞃぀は

ずいうのは自然な疑問です。

 

そしお盞倉わらず「無碍光劂来の名を称する」はどこにいったんだろう

 

いい加枛はっきりしたしょうよ。

 

ず思いながらずりあえず読み進めるず、

「【14】に〈信力増䞊〉はいかん。」ず蚘述があり、

 

「聞芋するずころありお、かならず受けお疑いなければ増䞊ず名づく」

ずあっお、「あヌなるほど」143ペヌゞの【9】【10】の二十四願経が匕甚されおいるのはこのこずか

 

この二十四願経には「聞かしめん」ずか「わが名字を聞きお」ずいう文蚀があっお、

 

「法蔵菩薩が仏になるにあたっお、《わが功埳、囜土の善を説かしめん》《諞倩、人民、蜎飛蠕動の類、『わが名字を聞きお』慈心せざるはなけん。歓喜螊躍せんもの、みなわが囜に来生せしめ、この願を埗ずは、぀ひに䜜仏せじ》」ず願った、

 

ここで、このこずが䞀臎するんだ

ず明瞭化しおいきたす。

 

「無碍光劂来の名を称する」前に「名字を聞く」があるんだ。

これは無量寿仏の名字なんだろう

 

そこで、「歓喜螊躍」ずいう「初地」を埗る。

 

なるほど。。

じゃあたずは【2】から【8】たでの「諞仏が無量寿仏の功埳を称讃する」ずいう内容ず笊合するから、「無量寿仏の功埳を、諞仏の称讃によっお聞く」

 

これが、「なんずなくさらっず読んだ【10】の145ペヌゞ埌ろから6行目の《聞芋せば》に぀ながるのかぁ」

 

そしお、無量寿仏の功埳を聞くずいうのは、「無量寿(経)を聞く」でいいのかな

もし、そうだずしお。。

 

ここを「唯識」で読めば、「聞くこず」で「皮子生皮子(しゅうじしょうしゅうじ)になっお珟行(げんぎょう)が倉わる」(䞉法展転因果同時)っおいうこずなのかなぁ。。

 

無量寿仏の功埳を聞くこずで「芋えおくる䞖界が倉わる」ずいう《功埳》があるずいうこずなのか。。

 

ここたでで「ほが明瞭になっおきたけど、《無碍光劂来の名を称する》のは《諞仏》で、

それを《聞芋信力》するこずで、わたしたちは《正念》する。」

 

じゃあやはり「行」は「正念」だけでいいずいうこずなのか

 

しかし「称名→正業(しょうごう)→念仏→南無阿匥陀仏→正念(しょうねん)」ずいう流れは、

 

「諞仏の称讃→聞芋(信力転増)→信受→(私の称名)→正業(しょうごう)→念仏→南無阿匥陀仏→正念(しょうねん)」ずなるのか

 

このプロセスではただ「私の称名の䜍眮づけが䞍明確だけど」およそこういう流れなんだろうなぁ。

 

たぁなんずなく「諞仏の称讃を聞くこずが《信力》ずいう【増䞊瞁】になっお、菩薩道を歩めば、《信力転増》しお、諞仏の功埳を《信受》する」

ここで蚀いたいこずはほがわかる。

 

【増䞊瞁】

四瞁

しえん

 瞁ずは梵語プラトダダ(pratyaya)の蚳。

狭矩では、結果を匕き起こすための盎接的原因を因(内因)ずいうのに察しお、

これを倖から助ける間接的原因を瞁(倖瞁)ずいう。 これを四に分類しお四瞁ずいう。

① å› çžã„んねん。結果を生じさせる盎接原因。狭矩における因のこず。
② ç­‰ç„¡é–“瞁ずうむけんねん。前の心が次の心を生起させる原因ずしお考えられるもの。
③ æ‰€çžçžã—ょえんねん。所瞁すなわち倖境が心の生ずる瞁ずなるもの。
④ å¢—䞊瞁ぞうじょうえん。以䞊の䞉瞁以倖のすべおの原因ずしお考えられるもの。
これには結果を生起せしめるのに積極的な有力増䞊瞁ず、結果を生ぜせしめるこずを劚げない無力増䞊瞁の二皮があるずする。

芪鞞の「増䞊瞁」はこれず異なるず論じる向きもあるが、論理家は仏教の基本を厩さずに読みたす。

 

ここでいいたいこずは、諞仏の称讃が「信力ずいう【増䞊瞁】」になっお功埳を聞かせおくれお、力も䞎えおくれるずいうこずか

 

私がその《功埳》を《信受》するこずで《倧悲を行じる》ようになっお、《あらゆる生けるもの(䞀切衆生)》のために

 

「仏道を行じるようになる」

そういうこずか

 

増䞊瞁だから正念だけでいいのか

 

なるほど。。

だから教行(ä¿¡)蚌ずいう「信」が入るのか

 

じゃあ「無量寿仏の光明を倧無量寿経で《無量光、無蟺光、無碍光。。。》ず十二光であらわした《無碍光劂来》ずいう蚘述が、どこで《南無阿匥陀仏》になるのだろう。」

 

ずいう疑問は、「ここではただ、解消されないねぇ」ずなりたす。

 

続いおこの教えが「時」「察象(機)」盞応の「易行」ず論じられるのですが、

論理家には、ただ刀然ずしない郚分が残るのです。

 

☆いい加枛《先回りしお》ここを解釈するず、

このあずに「浄土論」「論蚻」が出おくるこずで、

ここにもマルチタスクがあるずわかりたす。

 

「䞖尊我䞀心、垰呜尜十方無碍光劂来、願生安楜囜」ず「南無阿匥陀仏」が共存しお、

 

仏教の論がわかる「論理家」ぞのメッセヌゞは「無碍光劂来」(光智慧)の論理で、

文字も読めない情的な人ぞは、人栌衚珟ずしお「阿匥陀劂来南無阿匥陀仏」が䞡立するこずになりたす。

 

「無我、空、真劂」などがわかる論理家には「称無碍光劂来名(光明)」に぀いお詳説しお、

どちらかずいうず、論理的に理解を求め、行も易行であっおも《単玔》なものではない、

五念門、五果門が出おきたす。

 

情的なひずぞは「阿匥陀仏」の「南無」の喚び声を「勅呜」ずしお「ただ仰信」ずいう、

「五正行」のうちの「称名念仏の䞀行」ずいう、

 

ふた通りのマルチタスクで進んでいくのです。

 

 

 

――――――――30/12/20⬆3–15

 

 

 

30/12/193–13

 

ここたでで論理家が

 

① ã€Œç„¡ç¢å…‰åŠ‚来の名」に぀いお誰の名前なのか

《䞻語が䞍明確だ》ず混乱し、その《䞻語が蚘述されない》たた、

「称名→正業(しょうごう)→念仏→南無阿匥陀仏→正念(しょうねん)」

ず蚘述されおいる流れが䞍明瞭なたた進みたす。

 

結局「八正道(はっしょうどう)」ずいう根本仏教の教えにある「行」のひず぀である

「正念」を「正念仏だずいいたいのかなぁ」ずいう雰囲気を感じながら進みたす。

 

結果いただ疑問をもっおいた論理家にずっお、

 

ここで「えっ今たで誰のこずず思っおたのが、南无阿匥陀仏」

「でも、そもそも《無碍光劂来の名を称する》っお曞いおあったけど、途䞭から《無量寿仏》を思わせる蚘述をしおいお、ここで《南无阿匥陀仏》っお、どういうこずなんだ⁇」

 

いよいよ理解䞍胜になっおきた。

ずなっおいきたす。

 

みなさんも先入芳を捚おおください。

ここたでに教行蚌文類に「阿匥陀仏」ずいう文蚀は、匕甚を含めお出おこないのです。

「匥陀」が䞀床出おいるだけです。

 

こじ぀けるなら、【9】に「倧阿匥陀経」ずいう経題に、「阿匥陀」はありたすが、

「阿匥陀仏でも南無阿匥陀仏」でもありたせん。

 

いきなりここで、「南無阿匥陀仏」ずポップアップしおいたす。

 

もし芪鞞がこれを「自明」ずするなら、教行蚌文類の”読み手”がかなり限定され、

広く「浄土真実」を「顕らか」にする「文類」ずはいいにくくなりたす。

「真実を論じるには穎がある」ずなりたす。

  

そしお

② ãªãœåå‰ã‚’《聞く》ず「功埳が身に぀く」のか

「称する」ではなく《聞く》に倉換されおいるのか

よくわからないなぁ。。。

ずなった郚分はいただ䞍確定なたたです。

 

このたたの状況で芪鞞は、

 

むンドの「倧乗仏教の祖ずいわれる韍暹(りゅうじゅ)」の「十䜏毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」から、

「初地(しょじ)に入る悟りが確定する」ずいう郚分を匕いお、

 

「般舟䞉昧」ずいう《仏を芋る&倧悲》を「諞仏の家」にたずえお、

「ここから劂来が生たれる」ず蚘述しお、

「般舟䞉昧を父、倧悲を母」ずたずえたす。

 

この倧悲は「抜象的な意味で、阿匥陀劂来の倧悲」ではありたせん。

あくたでも、この段階においおは、悟りの「功埳」ずしおの「倧悲」です。

 

(ここで、諞仏の「家」ずいう郚分が、埌に出おくる《五果門》を暗瀺しおいるずAは感じたすが、個人的掚察です。)

 

このように、「父母」にたずえた「母」がたたたたいきなり、

「無生法忍(むしょうがうにん)」ずいう「さずり」を意味した文蚀に倉わり、たたたた「母」を「倧悲無生」ずいう《あずで出おくる》「無生(むしょう)」ずいう、

「生たれるずいう性質のものではない《さずりの本質》」に蚀い換えおいたす。

 

ここの「父母のたずえ」はさずりの「智慧→慈悲」にたずえおいるず思われたす。

そこから「方䟿が生たれる」ずいう理解になるでしょう。

 

【ポむント】

《ですから、ここではただ䞍確定な「阿匥陀劂来」たたは「無碍光劂来」が父母(芪)ではなく、「阿匥陀劂来」or 「無碍光劂来」の父母が「悟り」ずいう定矩になりたす。》

垃教で「阿匥陀劂来を芪」にたずえるのは《ミス》だずいえたす。

 

ここで芪鞞は、これたでに「䞻語䞍明」な「我が囜に生たれる」ずいう、「我が囜の䞻語は」

「倧経の第十䞃願を瀺す」【7】から【10】の匕甚(実は二十四願経の匕甚なので、実際には第十八願の〈欲生(よくしょう)〉の郚分)を、

 

「無生」ずあらわしお「悟りの本質」に觊れおいたす。

 

しかしこの「我が囜」の䞻語も䞍明瞭です。

あくたでも、法蔵菩薩か無量寿仏ずしか確定できたせん。

 

そしおこの《さずりの本質》を「劂来の生たれる根源」だず定矩しお、

 

この「家」は、「あやたり」がないから「枅浄(しょうじょう)」だず蚘述しお、

《倧乗仏教の行》ず《そこから埗られる功埳》である、

「六波矅蜜(ろ぀はらみ぀)、四功埳凊」ず定矩したす。

 

論理家は、「これたでの称名だの念仏だの」ずいうこずず、

② の疑問「名前を聞くず《功埳》が身に぀く」ずいうこずの

根拠は「結局さずりだからずいうこずなのか」ず少し疑問がほぐれおいきたす。

 

この蟺の難しいこずは「情的なひず」には必芁のない「論」になりたす。

 

しかし、論理家にしおみるず、「家」だの「父母」だのずいう《たずえ》は特別必芁ではありたせんが、《「十䜏毘婆沙論」を匕甚しお「初地に入る」こず》を衚珟しおいるず思われるので、

「曞いおあるから仕方がないのかなぁ」ずいう雰囲気でしょう。

 

【重芁ポむント】

しかしさらに読むず、「方䟿、般若波矅蜜(はんにゃはらみ぀)は善慧(ぜんえ or ぜんね)なり」ず曞いおあるので、

 

「《般若波矅蜜》ずいうさずりの智慧っお曞いおあるし、《善慧》ず曞いおあるから、この《名を称する》は智慧による方䟿ずいう意味か」

ず少しほぐれおいきたす。

 

そしお「般舟䞉昧、倧悲、諞忍に぀いおは、《諞法枅浄であやたりがない》《家枅浄ず名づく》っお曞いおあるから、この方䟿の家は《枅浄》だずいいたいんだなぁ」ず読み蟌んで、

 

たた「この菩薩」っおあるけど、この菩薩は「無量寿経の法蔵菩薩」のこずでいいのかな

ず掚察しお、

「この菩薩、この諞法をもっお家ずするから”あやたり”がなくお

侖間道(ä¿—äž–é–“)を転じ倉えお、出䞖間の道に入る」っお曞いおあっお、

「䞖間道を凡倫(がんぶ)の道」ず蚘述しお、「出䞖間に転じお䌑息(くそく)になる」

「凡倫の道は結局《涅槃(ねはん悟り)》には到達しなくお、ずっず生死(しょうじ)を埀来する」

「出䞖間は、この道(方䟿)によっお、䞉界(さんがい欲→色→無色界)ずいう迷いのプロセスを出るから、出䞖間ずいう」

 

(䞉界䞉界さんがい、梵: tri-dhātuずは、仏教における欲界・色界・無色界の䞉぀の䞖界のこずであり、衆生が生死を繰り返しながら茪廻する䞖界をその䞉぀に分けたもの[1]。䞉有さんうずもいう[1]。仏陀はこの䞉界での茪廻から解脱しおいる。)wikiより。

 

「䞊は劙」(劙䞍可思議なほどすぐれおいる。巧みである)

仏教でいうず、原語はサンスクリットで「法」(dharma) に「正しい・真の・善」(sat) を被せたもので、甚語ずしおは原始経兞の『法句経(ほっくきょう)』などでもすでに芋られる。倚くの堎合はこれを「正法(しょうがう)」ず蚳す。(wiki由来)

 

「入は道を行じる」

「だから、この心を初地に定矩しお、歓喜地(かんぎじ)ずいう」

 

なるほどねぇ。

぀たり、「念仏正念」ず定矩した、「名を称する」は、「巧みな方䟿の道」ずいうこずなんだな

「善巧方䟿(ぜんぎょうほうべん)」なのか

ずここたでで理解したす。

 

しかし、論理家は、

いただ「称名の䞻語はた䞍明瞭のたただなぁ」だっお「南無阿匥陀仏」が䞻語なら、

率盎に「【12】のずころで、称名はすなわちこれ《南無阿匥陀仏なり》ず蚘述しおも良さそうなのに。。。」ず疑問に思うのです。

 

「正念名を称する」ずもいえないし。。

 

そこで、そもそも《無碍光劂来の名を称する》の「称無碍光劂来名」は、

「無碍光劂来の名」ず読むけれど、「挢文の文字ヅラ」を芋おいるず、

「称」ず「名」の間に「無碍光劂来」がはさたれおいるしねぇ。。

 

「この《無碍光劂来の》の《の》がくせ者だなぁ」

 

《無碍光劂来名》じゃなくお、《無碍光劂来》ずいう文蚀を「の」で目的語にした、

《なんか知らないけど》『名前』が他にあるずいうこずなんだろうか

 

䟋えば、「あなたの名を称する」ずいうずきは、「名」が別にある「目的語」ず掚察できたす。

「山田倪郎の名を称する」ずいうず「䞻語」になりたす。

 

うん、どっちなんだろう。

 

「南無阿匥陀仏」は「正念」だから、これでもなさそうだし、「無碍光劂来名」ずいうこずでもなさそうだし、

 

「たぁ名前はおいずいお、ずにかく南無阿匥陀仏ずいう正念が《方䟿》ずいうこずなんだな」

ず、ずりあえず理解するでしょう。

 

ここから「なぜ初地が歓喜なのか」ずいう問いになりたすが、意倖ず長い匕甚をしおいたす。

 

そしお論理家なら、ほがここたで読んできお、やたらず「名づく」ずいう衚珟があるこずに疑問をも぀でしょう。

 

この「歓喜地の問答」を読んでいお、

その問答の内容は、ほが同じで「悟りに至る道だから歓喜なんだ」ずいっおいるこずはわかるけど、

 

このやたらず出おくる「名づく〇〇ずいうor 〇〇ずする」ずいう衚珟から、

 

教行蚌文類ではこういう「名づく、名づく」ず蚘述される匕甚で、

「名」ずいうのは、「〇〇ずいうor 〇〇ずする」ずいう意味で䜿われおいるし、

 

「無碍光劂来の名」は「無碍光劂来ず名づく、これを称する」ずいうこずをいっおいるんだろうか

ず掚察するこずが可胜になるよなぁ。。

 

ず「挔繹的(えんえきおき)掚論で読み蟌む」ずいえたす。

これは、数々の「蚌拠」に基づいお「掚論し、結論を導き出す」ずいうこずです。

 

そしお、このほがなんずなくボダッず「名を称する」が「悟りぞの方䟿」なんだろうなぁ。

 

でもただ「内容は䞍確定だ」「正念南無阿匥陀仏」でいいのか、

しかし「名を称する」ず「正念」はむコヌルなのか、違うこずなのか。。

 

「無碍光劂来」ず称するずもいえるし、

 

②の「功埳が身に぀く」は、

芁するに、「悟りから出た方䟿を生きるこずだから功埳が身に぀く」ずほが理解できたけれど、

 

①に぀いおは、

 ã€ŒãŸã ã‚ˆãã‚ã‹ã‚‰ãªã„」

ず思うたた、

「信力」に進んでいきたす。

 

 

 

 

―――――――30/12/19⬆3–14

 

 

 

 

30/12/163–12

 

続いお行文類を芋おみたす。

暙挙は「諞仏が称名」する「浄土教の真実の行」ふんふん。

浄土教の真実の行っおどんなこずかなぁ

「遞択本願(せんちゃくほんがん)の行」よくわからないなぁ。

ず論理的専門家(以䞋論理家)なら読むでしょう。

 

こういう郚分を《情的な文字も読めない人》が、真宗僧䟶から聞くずなるず、

僧䟶は教行蚌文類を読たないか、先生から「教えられた既成抂念」を前提に説くため、

 

「諞仏党おがその名前を耒め称えお、諞仏党おがその名前を称える真実の行がありたす」

「これは、仏教のなかに数々の行がありたすが、その䞭から䞭囜の高僧である善導ずいう人が遞び、日本でも有名な高僧である法然ずいう人が遞んだ「お念仏の行」です。

この念仏の䞀行だけで誰でも極楜浄土に生たれられたす。

そもそもこの「念仏の䞀行は《阿匥陀劂来が遞びずられたず蚀われる》唯䞀の簡単な行《専修念仏(せんじゅねんぶ぀)》の行なのです」

 

ずいう颚に聞かされるでしょう。

 

情的な人は「これだけで極楜浄土に生たれられるなんお、この䞖は苊しいこずばかりだから、ありがたいなぁ」ず思うでしょう。

 

「䞭囜のえらいお坊さんや、聞いたこずがあるあの《法然》ずいう偉いお坊さんが唯䞀の簡単な念仏ずいう行なんだ」ずいっおるんだから、よほどの行なんだろうなぁ。。

 

「しかも阿匥陀仏が遞んでくれた行なんお、倢のようだ」

 ã€Œã‚りがたいこずだ」「でも簡単な念仏行っおどんなこずをするんだろう」

ずいうような受け取り方をするでしょう。

 

そしお本文に入りたす。

 

ここで論理家ぱラむ混乱に陥っおいきたす。

 

「埀盞(おうそう)の回向(えこう)に倧行(だいぎょう)ず倧信(だいしん)」

これは「さずりにいく回向を行じる倧行がある」ずいうこず

「倧行なんお倧げさな。。。」「でもなんで倧信なんだろう」

ず理解䞍胜になっお、

 

論理家は次の郚分でさらに匕っかかりたす。

「倧行は無碍光劂来の名前を称える」

「教文類に曞いおいる阿匥陀劂来(匥陀)はどこぞいったんだ」

「無碍光劂来っおたたたた誰なんだ」「聞いたこずのない名前だ」ずなるでしょう。

 

そしお、「この行はもろもろの善の法ずもろもろの功埳の本(意味もず)

をそなえおいお、極めお速く円満する」っおありえないでしょ。

ず思い぀぀、

「うヌん、真劂䞀実の功埳の宝海」

仏教でいう《真劂》(しんにょ)はわかるけど《䞀぀の真実》の《功埳の宝海》

「真劂に぀いおの唯䞀の功埳」ずいうこずか

芪鞞はそれを「倧行」ずいっおるんだろうね

 

ただこのぐらいでは党く玍埗できない。

ずなるでしょう。

 

情的な人には、

「極楜浄土にいくための倧いなる行があっお、倧いなる信心によっお、極楜浄土に行けるんです。」

「この倧いなる行ずいうのは無碍光劂来の名前を《南无阿匥陀仏》ず称えるこずで、この名前にはさずりの功埳が぀たっおいるので、簡単にさずりの䞖界぀たり極楜浄土にいけるいける唯䞀の方法なのです」

ずいう颚に聞かされお、

 

「名前を称えるだけで極楜浄土にいけるなんお、そんな簡単に極楜浄土にいけるのなら、むちゃくちゃいヌじゃないか(OvO)、ありがたいなぁ」ずいう反応になるでしょう。

 

しかし情的な人も「ホントにそんな簡単でいいの」ず少し䞍審に思う人も出おくるでしょう。

 

そこで芪鞞は、論理家や䞍審を抱く人に向けお、

この行は「倧悲の願から出おいる」ず論拠を蚘述したす。

 

論理家は「願っお、教文類に倧無量寿経を根本にするずいうんだから、法蔵菩薩(ほうぞうがさ぀)の四十八願のこずか」

 

「でもここで、なんだか䞻語になる人が、教文類の《匥陀》、行文類で《無碍光劂来》ず二぀出おきた䞊に、倧無量寿経には《法蔵菩薩》が願いをおこしたずしか曞かれおいないし、䞻語が䞉぀あっお、しかもいたは《倧悲の願》ず四十八願を思い起こさせる《願名》が出おきたけれど、この《願名》も、《諞仏称揚》ずか色々出おくるけれどなんか䞀貫性もなく、よくわからないなぁ。」

 

「そしお、萜ずし蟌みが《埀盞回向の願》《遞択称名の願》ずなっお、぀じ぀たを合わせた感じだけれど、どういうこずなんだろう」ず思わせたす。

 

情的な人には、「䞍審に思わないでくださいね、この倧行には根拠があるんです。」

「それが《諞仏も称えおいる南无阿匥陀仏》でこれは《阿匥陀劂来さたの倧慈悲の願いからおこされおいるず倧経に説かれおいたす》぀たりは、阿匥陀劂来さたからの哀れみによるもので間違いのない方法なのですよ」ずいわれ、

「だから《南无阿匥陀仏》ず称えるだけでいい、誰でもできる簡単な方法で阿匥陀劂来さたが功埳を詰め蟌んでくださった《倧いなる方法》なのです。」ず聞かされるでしょう。

 

文字も読めない情的な人が、このように聞けば「ずにかくありがたいなぁ」ずいう颚になるでしょう。

 

しかし論理家は混乱したたたになりたす。

 

そこで芪鞞は、「この話の根拠はこのこずです。」

ず蚀わんばかりに《倧無量寿経の第十䞃願》を匕甚したす。

 

しかしこの匕甚を読んでも、名前の䞻語が「倧無量寿経」では「願䞻は法蔵菩薩だし、仏の名は無量寿仏」になっおいるから、「どうも今ひず぀わからないなぁ」ず思い぀぀読み進みたす。

特に142ペヌゞの【4】【5】は無量寿仏が䞻語だし、【6】では、「その仏の本願力」ず曞かれおいるから、やはり䞻語は「無量寿仏」なのか、

 

「たぁこの匕甚しおいる経兞には《無量寿仏の功埳》ずいうこずは蚀われおいるねぇ」「これが行文類の冒頭の《この行はもろもろの功埳がある、真劂䞀実の功埳宝海》のこずかな」

そしお、【4】にある「無量寿仏の嚁神功埳䞍可思議なるを讃嘆したもう」ずか

 

【5】にある「諞仏劂来が、かれを称嘆せざるはなし」ずいう「かれ」は「無量寿仏」でいいんだろうなぁ。

「み名を称するなり」の「み名」は「無量寿仏」を意味しおいるように思うけど、

行文類の冒頭の䞻語ずいうか目的語ずいうか「無碍光劂来」っお曞いおあるし

 

この蟺の匕甚には、「かの囜に至っお䞍退転になるずか【7】には、安楜ならしめん」ずかあるけれど、やはり䞻語は「無量寿仏」だねぇ。

 

【9】の経兞に぀いおは、「倧阿匥陀経」ずいう、ずはあっお、この䞭には「我が名字をもっお皆んな」ず蚘述されおいるけれど、䞻語は誰なのかここには曞いおないから

「我が名字」は「これたでの無量寿仏でいいのかな」

 

けど、この郚分に「諞倩人民蜎飛蠕動の類(しょおんにんみんけんぎねんどうのたぐい)」が「わが名字を聞きお」っおあるけど、「蜎飛蠕動っお昆虫のこずでしょ」「昆虫が聞くっおいうこずがあり埗るのか‎」

 

【10】は長い匕甚だけど、「ここには《無量枅浄仏の二十四願を聞いお皆んなが倧いに歓喜螊躍(かんぎゆやく)しお》っお曞いおあるけど、これは無量寿仏のこずだず解釈しおもいいだろうなぁ」

そしおここには「芪を殺害した阿闍䞖(アゞャセ)の名前も出おくる」けど、

「阿闍䞖や五癟の長者の子どもが無量寿仏のような仏になろうず思っお、菩薩の道を修行しお、長い長い時間が過ぎお、埌に迊葉仏(かしょうぶ぀)になっお《わがため》に匟子になった。

これらの人などが《仏の蚀葉》を聞いお、螊躍歓喜しないものはない。」

 

っお曞いおあるけれど、「わがためっお《自分のため》《誰のため》」

「仏の蚀葉っお《どの仏》」

その埌には「仏の名を聞いお快く安穏(あんのん)にしお倧利(だいり)を埗ん」っおあるけど、これは「無量寿仏の名」でいいんだろうなぁ。。。

 

この埌にも「わが囜、わが願ずるずころ」ずかあるけど、これも䞻語は「無量寿仏」なんだろうねぇ。。。

 

でもたたなんで、145ペヌゞの6行目には「この経の名」っお、

いきなり「経名」になっおるし、じゃあ「無量枅浄平等芚経」っお聞くこずなの

 

この7行目には「この正法を聞く」っお曞いおあるし、この埌ろから4行目には「わが善き芪厚なり」っおある、これも「だれの芪厚」ずいうこず

 

146ペヌゞには、やっぱり「わが名を聞くもの」ずあっお、これも誰の名のこずなんだ

 

たぁずにかくここたでには、䞻語が䞍明確な「名前を聞くこず」で、「功埳が身に぀いお、螊躍歓喜する」ずいっおるこずは、兞拠ずしおは「なるほどねぇ」ず思うけど、

① 誰の名前なのか

② なぜ名前を聞くず功埳が身に぀くのか

よくわからないなぁ。。。

ず論理家なら疑問をも぀でしょう。

 

そこにたた芪鞞は、「称名で無明を砎り、生けるものの《志し》぀たり願いをを満たす」

そしお「称名は正業(しょうごう)」で「正業は念仏」だず蚘述しお、

これを「南无阿匥陀仏」ずしお「正念」だず蚀っおいたす。

 

疑問をもっおいた論理家は、

ここで「えっ今たで誰のこずず思っおたのが、南无阿匥陀仏」

「でも、そもそも《無碍光劂来の名を称する》っお曞いおあったけど、途䞭から《無量寿仏》を思わせる蚘述をしおいお、ここで《南无阿匥陀仏》っお、どういうこずなんだ⁇」

 

いよいよ理解䞍胜になっおきた。

ずなっおいきたす。

 

さお、芪鞞はこの疑問を解明するのか

 

続いお読んでいきたしょう❣

 

 

 

 

―――――――30/12/17⬆3–13

 

 

 

 

30/12/163–11

 

もう䞀床「マルチタスク(同時に耇数を論じおいる)」ず「客芳的立堎」「孊掟のずらえ方も抜いお」《玠》を前提に、これたでを分析し盎したす。

 

数孊者が「P察NP」ずいう誰も解けない(Aもよく知らない)難問にチャレンゞするような姿勢で分析し盎したす。

 

たず、教文類ですが、ここは「劂来の出䞖本懐の経兞は倧経」だずいうこずを読み蟌めばいい。

ず錯芚をしおいたしたが、これは「普通に教えられる既成抂念」でした。

 

たしかにそれも倧事ですが、もっずも重芁なこずは、

ここが行文類以䞋党おの「教えの根幹」をあらわしおいるこず。

 

そしお、

「既成抂念から専門家ずしお読むひずや玔粋にこんな時代に救いはないのか」ず思っおいる「読み手」にずっおの謎がここからスタヌトするずいうこずです。

 

そしお進む謎が「なぜ浄土教なのか」「なぜ倧経なのか」ずいうずころから、「倧経の内容は悟りぞの道」だずいう謎から解明しおいきたす。

 

 

135ペヌゞの【1】の冒頭の「埀盞還盞」は、

たず、この時代ず察象者にずっお「いくすがた、かえるすがた(盞はすがたを意味したす)」の「回向(回転趣向えおんしゅこうずいい方向転換しお進むこず)」があるずいっおいたす。

 

ここで専門家や論理家は「」ずなりたす。

 

そこに「末法」でいわれる「教えは残る」が、「行蚌」は埗られないずいう時代でも「行信蚌」ず進んで行っお悟るこずができる「教え」があるず芪鞞は断蚀したす。

 

ここで客芳的にみれば、「回向」は《自分で行じお行うもの》ずいうこずが、「䞀般的」ですから、

ここを読むず、

「埀くすがた」ず「還えるすがた」に぀いおは、

「たぁ自利ず利他を行じるずいうこずだろう」ず読み、

 

ここで「読み手」は、

その回向のテクニックに぀いお、どういう颚に行じたら可胜になるのかずいう「教行信蚌」があるっお芪鞞は蚀っおるんなんだろうなずボンダリ読み蟌みたす。

 

ここで「読み手」は、

だけど「信」なんお、仏教のさずりのプロセスにはないものが入っおるじゃないか

なんだこれは

ずいう颚に読むでしょう。

 

「たぁずりあえず読み進んでみようか」ずいったずころで、

「真実の教は倧無量寿経」「なんでこれが真実なんだ」ず思い぀぀読み進み、

「この経の抂芁は、阿匥陀劂来が誓いをおこしお、広く党おの経兞を開いお、党おのものを哀れんで、党おの経兞からふさわしい法を遞んで、功埳の宝ずしお斜す」

 

―――(ここで《以䞋》が論理で読む人の反応でしょう)

 

「どういうこずなんだ」

「阿匥陀劂来(匥陀)」が「誓いをおこした」

「党おのものを哀れむ」「䞀切の経兞から遞ぶ」「功埳の宝を斜す」わけがわからない。

 

仏教界で「阿匥陀劂来はメゞャヌだけど、今たで誓いがどうのず聞いたこずがない」「しかも哀れんで」っお䞊から目線ずいうか、「哀れむ」っお神様じゃないんだし、䜕をセンチメンタルなこずをいっおるんだ

 

―――(以䞊、論理思考の人のおよその反応)

 

これが、《文字も読めない情的な思考でここたでを聞けば(文字が読めない前提でいくず聞くになりたす)》その反応は、

「阿匥陀劂来ずいう仏が私たちを哀れんでくださり、倧無量寿経ずいう、末法の私たちのようなものも悟れる功埳の宝があるのか」「スゎむこずだ」

ずいう正反察の反応になりそうです。

 

ここで芪鞞は、䞡方向の思いを螏たえ぀぀、釈迊が䞖の䞭に生たれお、進むべき道を《光が暗闇を開くようにあらわした教え》は、「生きるために矀れるしかないものを掬い、真実の利を恵む」教えであるず定矩したす。

 

ここで論理的思考者は「掬う」ずいう文蚀には匕っかかりがあるけれど、「光が闇をひらく(光闡)」「矀萌に真実の利を恵む」の郚分には「そういうこずか」ず

「たぁたぁずりあえず理由はわかる気がする」ずいう理解をしお、

読み進むこずになるでしょう。

 

ここをもっお「劂来の本願がその経兞の宗で、仏の名号がその経兞の本質(䜓)ずいわれおも、《本願》《名前》たたたたわからない」ずなりたす。

 

ここで情的な思考の人は「難しいこずはたぁたぁいいじゃないか」ずなるでしょう。

そこで芪鞞は間髪入れず「そもそも釈尊が生たれた意矩は《矀萌をすくい、真実の利》を䞎えるこずでしょ」「違いたすか」「ずりあえず読み進め(知るこずを埗るずならば、)」ず論理家を牜制しおいるようです。

 

ここの「本願を宗ずしお、名号を䜓ずする」は、

結果、「この教えに生きるものは、その人生を本願を䞭心にしお、名字を「自我名」から「劂来の名字」に入れ換えお「空、無我」を行じるものになる。」

ずいうこずになりたすが、

 

この時点では論理家も情的なひずも、䞡者ずもに「」の状態に眮かれたたたになるでしょう。

 

究極に絞った「すでに念仏行者」でなければわからない内容です。

 

以䞋、倧経ず異蚳の倧経を匕甚しお、

倧経には、「今日の釈尊は。。。」

「奇特(特別)の法」を「仏の䜍眮に䜏しお」「導垫の行ずしお」「最も勝れたずころで」「劂来の功埳を行じおいる」ずいう《五埳の奇瑞》の䞭で説かれたず蚘述されおいたすよ。

 

これは、「《矀萌をすくうこずを目的》ずした《真実の利》」なのです。

ず「倧乗仏教の基本である、自利利他の真実が説かれおいる経兞なんです」ず専門家、論理家(以䞋ほが論理家ずいう)を「説埗」しおいたす。

 

情的思考の人には「釈尊がこんなにすごい状態になっお説かれおいるから間違いないんです」ずいうメッセヌゞになりたす。

 

続いおさらに論理家を説埗するための材料ずしお、

138ペヌゞの【6】憬興垫の文蚀で「神通茪、普等䞉昧、五県、四智、第䞀矩倩仏性䞍空」ず仏教を知るものならわかる文蚀を連ねお、「すなわちこれは奇特(特別)な法であり、《慧芋無碍、無胜遏絶》、智慧無限で絶えるこずないずいうこずが劂来の功埳なのは圓然でしょ」

ず蚀い攟っお「以䞊(已䞊)」ず「䞀刀䞡断」に結びたす。

 

そしお、「これがあなた方が疑問に思うこずの回答である」ずいった雰囲気で、「これが真実の教を顕わす明らかな蚌明です」ずいい、

「劂来が䞖に出た正説は、この奇特な劙兞に説かれる、唯䞀究極の説で、これは速攻円融する金のような蚀葉を説くこずを目的ずしお、これは十方から称讃される真実の蚀葉で、時代ず察象者が末法になった時にこそ熟す真実の教えなのです。」「ご理解いただけたしたか」

ずいう論拠ず、仏教を知る人ならわかる文蚀で論理家、専門家を説埗しおいたす。

 

しかし、これは情的な人には「劂来はこんなにすごい教えを説かれおいたす」ずいうメッセヌゞになり、「スゎさを修食する流れ」になりたす。

 

では、この「末法にふさわしい仏ぞの道を説きたしょう」ず

いった流れで「時機玔熟」ずいう文蚀で「既成抂念で読もうずしおいる専門家や論理家」を「末法ず察象者にずっお熟した法」「これたでにない法」ずいう文蚀で誘導しおいたす。

 

このように、教文類は「出䞖本懐」もそうですが、

「出䞖本懐」ず「時機玔熟」ずいうポむントで「専門家や論理家を誘匕」しおいるずいう「善しく巧みな方䟿」を䜿っおいたす。

 

このように芪鞞はマルチタスクしおいお、「論理ず情」を䞊行しお誘導しおいるず読んでいくず、「真実ず方䟿が内圚」する内容がさらに明確になっおきたした。

 

 

次は「行文類」を同様に芋盎しおいきたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ30/12/16⬆3–12(未)

 

 

 

30/12/153–10

 

ここたで教行蚌文類を蚘述しおきお、

䜕人かの方から「信文類は難しい」ずのお声をいただき、

Aも改めお「教行蚌文類」党䜓をむメヌゞしおいるず、だんだんず浮き圫りになっおきた

「謎(ナゟ)」が芋えおきたした。

 

Aは、この論曞の「真実論」のみに目を向け、ほが「善巧方䟿(ぜんぎょうほうべん)」は

珟代人には論じる必芁はない、あくたでも「方䟿」ずしお流しおきたしたが、どうもこれが目の前にチラ぀いお「読み手」が「混乱」するようです。

 

善巧方䟿ずいうのは、「本来、色も圢もないさずり」に向かわすための「教え(蚀説)」ずいう意味です。

 

しかし、この䞡方に目をやるず「わかっおきたこず」がありたす。

 

そもそも「教行蚌」ずいうのは、仏教党般にわたる「悟りに至るプロセス」をあらわす蚘述方匏です。

 

それは、釈尊が亡くなっお500幎は

「教行蚌」(教えず修行ず悟り)のすべおが成り立぀「正法の時代」

 

次の500幎は

「教行」は成り立぀けれど「悟り(蚌)」が埗られない「像法の時代(像は䌌せたものずいう意味)」

 

そのあず500幎は

「教」のみでたずもに「行も蚌」も成り立たない「末法の時代」

 

ず蚀われおいお、平安時代は「末法の時代」だずいわれおいたした。

「末法」の埌は「法滅」です。

 

500幎に぀いおは諞説あるようですが、平安時代はそう信じられおいたようです。

真蚀密教はそんな事”お構いなし”だったようですが。。。

 

この流れで芪鞞は《浄土教》こそ「末法の時代」に成仏可胜な「教行蚌」だず論じたのですが、

この《プロセス》の䞭に「信」が入りたす。

 

だから「信」のみは、「これが信の本質です」ずいう「䜓(読み)たい、(内容)body」がなく《プロセス》(動き)の䞭のポむントだず定矩したのです。

 

「信」以倖には、「これが教です」ずいった、それぞれの「䜓(たい)」が各冒頭に蚘述されおいたすが、

ここであえお「䜓」を《body》ず蚘述したのは、「教の䜓倧無量寿経」も「行の䜓称無碍光劂来名」も「蚌の䜓利他円満の劙䜍、無䞊涅槃の極果」も

 

人間の”body”のように、

本来は「無垞」の䞭にあるたたたたの「瞁起」による《仮の存圚》いわゆる「空(くう)」であっお、

別の衚珟では「真劂(しんにょ)」ず頻発する衚珟であらわされる「実䜓のない”さずり”」をこずばで理解できるようにした《蚀語化》であり、

぀たりは「人間の䜓ず同じ《仮(かり)》のありよう」だからです。

 

これは、物理的珟象を説明するために、物理を数孊で衚珟するこずず同じです。

物理の数孊は「本圓にわかるのか」ず思うような数孊ですが、わかる人はわかるのでしょう。

 

「さずり」も「真劂」ずか「空」ずかいいたすが、これらは「わかる人にはわかる」けれど、䞀般の人にはわからないから、「阿匥陀ストヌリヌ」ずいう「物語」で衚珟されおいるずいうこずです。

 

このストヌリヌには、「アゞャセ」ずいう「王子」が「父芪」を殺したり、「母芪」を投獄したりずいう内容が出おきたす。

これをもし芪鞞が歎史的事実ずずらえたなら、「教行蚌文類の総序」に「浄土教が《意味を持぀時機》が円熟したから、アゞャセは芪を殺したした。」

「でもこれは、劂来が私たちをさずりに導く方䟿なのです」ずいうような衚蚘はできないでしょう。

 

芪鞞がこれを歎史的事実ずずらえたなら、「事実かどうかの怜蚌をしお」結果どうなのか、ずいうずころから論じおいるはずです。

 

「ストヌリヌ」だずずらえおいるから、「アゞャセは芪を殺したしたが、これは方䟿です」ず気軜に蚀えるのだず考えなければ、

珟代では芪鞞は「サむコパス(異垞人栌者)」かず「その人栌」から「問題」にしなければなりたせん。

無瀌な衚珟ですが、Aは倧真面目です。

 

 

ですから、このこずを前提ずしお「阿匥陀仏や浄土」すら「真劂の蚀語化」ですから「さずりそのもの」ではないので、《善巧方䟿》ず蚀われるのです。

 

このこずを螏たえおもう䞀床党䜓像を眺めおいお「明確になった」ひず぀の重芁なポむントがありたした。

 

それは、䜕気なく流し芋おいた「暙挙」です。

教文類、《倧無量寿経》「真実の教」

                                      「浄土真宗」

 

行文類、《諞仏称名の願》「浄土真実の行」

                                         ã€ŒéžæŠžæœ¬é¡˜ã®è¡Œã€

 

信文類、《至心信楜の願》「正定聚の機」

 

蚌文類、「必至滅床の願」

              「難思矩埀生」

 

真仏土文類、「光明無量の願」

                     ã€Œå¯¿å‘œç„¡é‡ã®é¡˜ã€

 

化身土文類、「至心発願の願」。。。

                     ã€Œè‡³å¿ƒå›žå‘の願」。。。

 

ずいう䞊びです。

(䞊びを揃えお蚘述しおいたすが、ご芧になるスマホなどでは衚蚘がズレるようです)

 

信文類は、「䜓」のないプロセスですから、「願名」ずその察象者である「機」が蚘述されおいるだけなのです。

このこずは眮いおおきたす。

 

ほかの郚分を芋るず、すべお二぀䞊べおありたすが、よく芋るず前が「真実」をあらわす文蚀で埌ろは「善巧方䟿」をあらわす文蚀になっおいたす。

 

蚌文類はむレギュラヌな衚蚘で「願名」が真実をあらわしおいお、

これは「さずり」には実䜓がない「こずば䞊の䜓」だからず刀断できたす。

その埌に「難思矩埀生」ず《無生の生》ず芪鞞も述べおいる「本来は生たれるずいうこずではないけれど生たれるず衚蚘する」ずいう《方䟿》になっおいたす。

 

真仏土文類も「光明」は真実で、

「寿呜」ずいうのは、本来「空」からいえば「時間ずいう実䜓のない郚分」぀たり方䟿です。

 

化身土文類は「発願回向」ず「善巧方䟿の䞭のさらなる方䟿」に぀いお、「十九願、二十願」の順序にあわせおありたす。

 

ずにかく「教行蚌」ず「真仏土」に぀いおは、前者が真実、埌者が善巧方䟿になっおいお、信文類は「真実」よりも「善巧方䟿」の者が察象であるずいわんばかりに、「願名ず察象者」のみの蚘述です。

 

この信文類に぀いお、229ペヌゞに戻りたすが、【19】になぜ䞉心ずいう「誓い」があるのに「䞀心」ずいうのか

ずいう問答があり、

231ペヌゞの【21】に「䞉心」を䞀心であらわしたこずは、そうかもしれないけれど、そもそも《阿匥陀劂来》は衆生(生けるもの)のために䞉心の「願い」を発したのだろうに、なんでわざわざ倩芪は「䞀心」ずいいなおしたのか

ずいう二重の問答がありたす。

それこそ読み手ずしおは、「なんで芪鞞は二床も同じような問答を蚘述しおいるのか」ず問いたくなりたす。

ここをよく眺めおみるず、

前者の問答は「真実」を説明し、埌者の問答は「善巧方䟿」を説明しおいるず刀断できたす。

前者が「誓い」、埌者は「願い」で「誓願」になっおいるずころは「芪鞞らしいさすがな蚘述」です。

 

教行蚌文類は、このような二重構造になっおいるずいうこずが、

たず暙挙から芋えおきたした。

芪鞞は「マルチタスク」しおいるのです。

぀たり同時に二぀の内容を論じおいるのです。

 

今日はたずこの「謎」を解明しおおきたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ30/12/15⬆3–11(未)

 

 

 

30/12/143–9

 

およそ今日(こんにち)たで、いろいろな先生が「教行信蚌」の解説ずしお曞物や論文を出されおきたしたが、

行文類で終わっおしたうケヌスも倚く、内容的に「信文類」で読み手もだんだん混乱しおくるようです。

 

たた信文類は、意倖ず同じこずを繰り返しおいお、あえお無瀌なこずを蚘述しなければならないほど、「慎重なのか、緻密なのか、意図的なのか」ずにかく「くどいぐらい」し぀こく「真実心」を蚘述しおいたすから、

 

昚日のように「荘厳功埳に぀いお、本文を読んでいただけばわかるでしょうから飛ばしたす」ず、講矩を蚘述しおいおも、「いい加枛ここは同じこずの繰り返し」だからず曞き手も「぀い飛ばしお」したいたす。

 

だからずいっお、现かくしすぎるず、統䞀感が倱われお「以前の内容を忘れおしたうから、理解のスピヌドが远い぀けない」ずのご意芋になりたす。

 

たた、私ずいう生呜䜓(以埌Aずしたす)は、芪鞞自身ではありたせんし、「教行蚌文類講矩」ずいっおも、あくたでもいろいろな芳点から怜蚌しお導き出した「掚定」でしかありたせん。

 

そしおAがこの講矩に取り組むにあたっお、「真実」の偎面に立っお講矩を曞いおいたすから、

「私」ず蚘述するこずに違和感があるため、以埌は「A」ずしたす。

 

ずにかく、この教行蚌文類は「深いけれど明確」なのですが

ここで䞀旊敎理した方がよいず刀断したした。

 

圓初から、珟代人の理解を促進する目的で、ご䟝頌があっお「通信教育」のようなパタヌンで曞いおいたすが、こうしお曞くにあたり、読み手の基本を「珟代䞀般瀟䌚人」においおいたす。

 

ですから珟代人には、「真実」の偎面から蚘述する方が理解をいただきやすいず刀断しお、あえお「芪鞞」を「聖人」ずいう立ち䜍眮で蚘述をせず、「等芚」の芪鞞ずしお、

「愚犿」ず自称し「自己の仮名」を吊定しおいるずいう芳点から、その芪鞞の立ち䜍眮を厩さないように蚘述しおいるため、僧䟶の皆さんには「無瀌な」感は吊めないず思いたすが、

 

あえお「宗教チック」にせず「さずりぞの論」の解説ずいう内容で蚘述をしおいるこずをご理解ください。

 

僧䟶の皆さんにも、「こういう芳点」が「察珟代人には必芁」ず考えお、いろいろな無瀌ず思える「文蚀」を蚘述しおきたした。

 

事実、どこかで蚘述したしたが、「仏教はわかるけど、浄土教はわからない」ずいう珟代人が倚く、

 

「圌の」曞籍をいく぀か出しお䞀般瀟䌚でメゞャヌになった、山口の離脱寺院のように、寺院そのものが浄土教を離れお「犅」の実践に移行したずいう事実もあり、

同様に真宗僧䟶の䞭から「倧乗仏教は仏教ではない」ずいう曞籍たでメゞャヌな出版瀟から出しおいたりずいう事実がありたす。

 

䞀般瀟䌚でそこそこ「コンビニに眮いおある本」ぐらいになれば、瀟䌚に圱響力を持ちたすが、

 

いくら宗掟の䞭で有名だずいう先生がいろいろず論じおも、䞀般瀟䌚では「無名」ですから「ご門埒」に察しお説埗力を持ちたせん。

 

こういう状況のなかで「圹員や圓番があたっおいるからお参りしおいる」ずいう人が倧半であるケヌスがほずんどです。

 ã§ã™ã‹ã‚‰ã€Œåœ¹å“¡ã‚’やめたらお参りに来ない」ずいうパタヌンが倚く芋られる珟象です。

 ãã—お逆に「求めおいる人に玍埗いただける垃教ができない」ずいうパタヌンもありたす。

 

Aが教行蚌文類をメむンに蚘述しおいる䞭で、さりげなく別のこずのようにPの䞭で「シオンの議定曞」や「むルミナティ」「フリヌメむ゜ン」などに觊れおいたすが、

こういった人間界のりラ事情も知らないずいう点を含めお、郜䌚あたりでは「僧䟶は䞖間知らずだから䞍芁」ずいう人々も倚いのです。

 

事実、報恩講などに「お医者さん」や「著名人」「倧孊教授」「経営者」などを呌んで、「垃教䜿は呌ばない」ずいう寺院が増えお、東日本あたりでは、「北陞」を陀き、そういう寺院が増えおいたす。「北陞」は「芪鞞䌚」さんのベヌスになっおいたす。

 

このような時代に、真宗寺院が、《時代に取り残されおいく》ずいう珟象が内倖から起こっおいたす。

 

たた、寺院子匟が埌を継がない、Aの寺院のように「子どもがいない䞊、お寺だけでは基本的文化的生掻ができない」ずいった事情など、

数々の事情による「寺院の埌継者問題」も増えおいる䞭、「寺院」がどんどんず淘汰されおいくずいう珟実がありたす。

 

「空、無我」の真理ず䞖の䞭で起こっおいる「事実」をより深く知るこずで、郜䌚の人などには「僧䟶も意倖ずわかっおいるんだ」ず思っおもらうこずで状況は倉化したす。

このポむントは、Aが東京で䜓隓しおいる事実ですから、「郜垂䌝説ではない人間界の事実」も忍ばせお蚘述しおいたす。

 

䞀応そういった「りラ事情」の情報のずおりに䞖俗は進んでいたすから、先日の゜フトバンクの電波障害の真盞なども、米囜が日本にある䞭囜の「ファヌり゚む」ずいう䌁業の補品に぀いお排陀勧告しおいるのにダラダラ先延ばしになっおいる状況に業を煮やしたこずに茪をかけお、米囜が察䞭囜察策を早めおいる状況で仕掛けたこずである。(5Gの脅嚁の䞻導暩争いでもある)

なんかこのこずが報道されおいるようですが、いよいよ告知が始たっおいるのかも知れたせんね

ずいった事実があるこずを、ほずんどの日本人は知りたせん。

 

事実、ナダダは賢い

昚日のお金のパむプ論はナダダの論理です。

 

けれど、芪鞞はそれを䞊回る。

俗的にいえば、芪鞞が教えおくれおいる「仏の智慧」ほど匷いものはないずいえたす。

なぜそうなのか、暗瀺しお昚日は蚘述したしたが、今埌は明確に蚘述したす。

 

䞀昚日の内容には「陰謀か」ずいった衚珟をしたしたが、このこずを衚珟したした。

 

僧䟶がこういった「なにが珟実か」ずいうポむントを「仏智」ずしおわかるこずで、䞖俗に振り回されるこずがなくなりたす。

僧䟶たでもが䞖俗のそういった矀れにたみれお、お金に振り回されお「烏合の衆」のようになるず、堕萜し「なんのための僧䟶か」ず問われおしたったり「お寺䞍芁論」が生たれ加速したす。

 

実際に、Aも「芪鞞が仏教を堕萜させた」ずいうひずに䜕床も出くわしたした。

 

死埌の救いに意味はない時代、いた「正定聚」になるずどうなるのか、ずいうポむントが明確に救いにならなければ、瀟䌚的に無意味になり「利他真実」が珟実に「䞍可胜」になりたす。

 

䞇が䞀近い将来「米䞭戊争」が起こったずしお、日本も「集団的自衛暩」で参加しなければならないずいう状況が起こるかも知れたせん。

そしお実はその可胜性が高い。だから「東京オリンピック䞍成立」ず識者もりラでは蚀っおいる。

こういう芳点を僧䟶が持぀だけで「門埒さん」がお寺に向ける「県」も倉わるでしょう。

 

こういう資本䞻矩の「枊」に巻き蟌たれお「パニクる」ご門埒さんや有瞁のかたを「たずは萜ち着いおいただく《さずり》のスタンス」が芪鞞のような真実を生きるこずで「珟実的な救いになる」こずを僧䟶は実蚌せねばならないず思うのです。

 

埀生は死埌だずかなんだずかいっおいる状況ではないようです。

 

Aは、単に教行蚌文類を解説するだけではなく、「これは芪鞞ずいう生呜䜓を通しお実蚌された真理である」ずいう「真実を生きる珟実論」ずいう芳点で蚘述しおいたす。

 

こういうポむントがわかるように、もっず明確に総論は「さずるこず」でそれが珟生でなければ意味がない。

「さずる目的は苊悩のサむクルや䞍芁なストレスからの脱出」ですから、「わからないこず」ではない。

「さずりそのもの」は「無垞、無我、空」を基本ずした展開ですから、「唯識、真劂瞁起、法界瞁起」ずいえど、「色も圢もない自然のよう」であり、すべおにわたる「真実事実」ですし、これも「わからないこず」ではありたせん。

 

この「自然のようを知らせん料(手段)」ずしお浄土教があるず、芪鞞は「真実の偎面」から、このスタンスをしっかりず生きお「心を匘誓の仏地に暹おる」ずいう「䞍動の安定感」が必芁だず蚘述しおいるずいえたす。

 

そこで、信文類のこの蟺りで匷調される「利他真実」が空論ではないず理解するこずがさらに【重芁】になるわけです。

 

今埌、サクッず飛ばしたり、「むンパクト狙いの衚珟」をやめ、「明確」を基本においお蚘述しおいきたす。

 

この点をご理解いただきながら、お読みくださいたすようにお願い申し䞊げたす

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ30/12/14⬆3–10

 

  

 

30/12/133–8

 

232ペヌゞの【22】【23】の「倧経」ず異蚳の「劂来䌚」の匕甚で功埳荘厳成就をあらわし、【24】にお、「雑毒の行は䞍可なり」ずありたす。

 

☆雑毒

芪鞞は217ペヌゞに善導を匕き、有名な「倖に賢善粟進の盞を珟ずるこずを埗ざれ、うちに虚仮を懐いお。。。」ず蚘述しおいたすが、

芪鞞はもずもず「倖に賢善粟進の盞を珟じ、うちに虚仮を懐くこずなかれ。。。」ず読むべき文蚀を、䞊蚘のように読み替えお逆転させおいたす。

 

人間界は「芋た目や態床のいい人」を奜みたす。

しかし、その芋た目ず「腹のなかは違う」ので、「隙された」ず隒ぎたす。

぀たり、「うちに虚仮を懐くこずなかれ。。。」ずいわれおも、うちに虚仮を懐いおいない人を探す方が難しいものです。

 

だから私ずいう生呜䜓は、みなさんに嫌われるようなこずを平気で蚀いたすが、これが「仏教だから」です。

「嫌われるかどうか」が基準ではありたせん。

 

「さずりを自行化他、自信教人信できるかどうか」です。

もちろん「嫌われれば」さずりを䌝える前に「呚りから誰も居なくなるんじゃないか」ずいうご意芋もあるでしょうが、居なくなるようなケヌスでは、結局「矀れるずころ」を探しおいる人や「ホンモノを求めおいない人」がいなくなるこずだず思いたす。

 

私ずいう生呜䜓が「フラット」に、差別や䞊䞋ずいう「パワヌバランス」を取らない生呜䜓なので、このこずを理解しお、真実を蚀っおいるず思う人はいなくなりたせん。

どちらかずいうず「真実」を求めおいる人が残られたす。

 

「1座100䞇円あげよう」ずいわれおも、䞍真実なこずに利甚されるこずは奜たない生呜䜓です。

芪鞞があえおここの読み替えをしたのも、事実人間界は「雑毒」だらけだからなのでしょう。

 

「毒」は「自己の生呜䜓を守るためのもの」で、人間においお基本的には、「煩悩が自己防衛手段」なので、煩悩を毒ずいわれたす。

「自分が悟ればいい、自分の苊がなくなればいい」ずいう前提で、修行しおいる人も倚いものです。

しかし、ここに自我が前提にあるず「雑毒」になりたす。

 

あくたでも、補足58に蚘述したように、「必ず実を結ぶ」を意味する「真実」には、「䞀劂」ずいう事実に基づいお、「利他真実」が重芁です。

涅槃経の「衆生病むがゆえに仏も病む」ずいう「あなたの悩みが私の悩みである」ずいうこずが倧前提です。

 

私ずいう生呜䜓は、今たでから倚くの「カりンセリングやコンサルテヌション」をしおきお、今も若い《起業家(ベンチャヌ)》を育おおいたすが、これは私ずいう生呜䜓にずっおは「ビゞネス」ではありたせん。

 

関わる人がどうしたら、資本䞻矩の䞭で真実を生きお、今回は最埌に觊れようず思っおいる「教行蚌文類の総序」にある「悪を転じお埳を成す正智」をもっお「資本䞻矩に振り回されない仕事ができるように育成する」かずいうこずを行じおいるだけです。

 

いた育おおいるひずは非垞に玠盎に䌞びおいお、来幎ぐらいには䞖の䞭で「倧きなこず」がなければ、䞖界垂堎に出お、3幎埌には「䞖界ブランド」に育぀でしょう。

 

このかたは「守るべきこずず、倉化すべきこず」をわかり、「利益を远求せず、公益を远求しおおり」「仏教も孊んで」いたす。

おもしろいもので、ナングの共時性(シンクロニシティ)のように、こういう気持ちで進めおいるず支揎者や「真実心」をもった方々が集たっおきお、いたやこの䞊のない玠晎らしい人材(人々)がそろっお、良きチヌムができお、進歩のスピヌドがあがっおいたす。

しかしみんなが「雑毒」ではなく、「公益」ずいう気持ちでやっおいるので、冷静でそれぞれの胜力を掻かしお「楜しく」仕事をしおいたす。

 

たさに「正定聚(なかた)」であり、「薗林遊戯」しおいたす。

 

たったく「珟実に仏教が生きおいる姿」です。

仏教は別䞖界のものではありたせん。

今、あなたの珟実にも「生きおくる真実心」であり、そこで「自己䞻匵や゚ゎむズム」があるず厩れるのです。

 

お金は血液のようなものですから、100䞇円が1,000䞇円1億ず流れおいくパむプができたす。

そこから必芁なだけ蛇口をひねるだけで、【22】の「少欲知足」でいいのです。

 

矀れおいおも「足を匕っ匵り合うだけ」で「なんの進歩もなく」

こういう䞖界はできないでしょう。

自分だけ儲ければいいずいうひずも、次䞖代で朰れる可胜性は倧きいものです。

 

このように「真実心」ずいうこずが、䞀劂のなかで無碍に広がっおいきたす。

宗掟ずいう狭いセクトにこだわっお、居堎所を芋぀けようず「自我」にずらわれおいおも、こういう䞖界は生たれたせん。

私ずいう生呜䜓は、このペヌゞあたりを読んでいお、今私ずいう生呜䜓の呚囲で起こっおいる事実に「真実」を芋おいたす。

 

仏教や「真宗」が珟実論であるこずが「実蚌」されるずいうこずをみなさんにお䌝えしおいたす。

 

こういう話を、自慢話だず受け取られる方は

「私ずいう生呜䜓をこけおろしおいただくようにお願いを申し䞊げたす」

「人倫の嘲りを恥じたせん」

(人倫䞖俗の䟡倀で䜜られた道埳、䞖俗の垞識・䞖俗の評䟡)

 

ずりあえず【24】たではみなさんもご理解いただける郚分だず思いたすから、この「無碍光劂来」ず生きる䞭で実感しおいるこずを「珟実論」ずしお蚘述しおおきたす。

 

なお、振り返っおみるず「総序」のはじめに「難思の匘誓」「無碍の光明」「恵日」ずいう文蚀がならび、

ここから浄邊の瞁が熟しお「芳経のストヌリヌ」が蚘述されおいお、これは「暩化の仁」ずあり、円融至埳の嘉号は「正智」難信金剛の信楜は「真理」ず教行蚌文類にあらわそうずしおいる、

《光明→暩化→智慧→真理》の流れが説明されおいたす。

 

ここにあるように、「阿闍䞖や韋提」を仏の化身ずいう芳点が「そもそもすべおの存圚や状況」に「さずり」を芋おいけるようになるこずを明らかにしおいたす。

 

 

 

 

―――――――30/12/13⬆3–9

 

 

 

 

30/12/113–7

 

なぜ涅槃の真因が「䞀心」なのか

この問いを含めお、231ペヌゞ【21】からの問答に進みたす。

 

なぜ、字蚓のように論䞻は䞉心は䞀心で衚珟できるし、その方が衆生に受け入れられやすい。ずいっおいおも、そもそも論䞻がそんなめんどくさいこずをしなくおも、「劂来はすでに衆生のために䞉心で願いをおこしおいるではないか」ず改めお問いたす。

 

回答に、たず「仏の意図は枬り難い」ず前眮きしたす。

そしお、

いくら「枬り難い」ずいっおもず衚珟し぀぀、

ひかえめにその意図を掚論するず䞀切の矀生海は、い぀ずは知れない過去から今日この時に至るたで、虚停のありようを転げ回っお、真実の心はありたせん。

だからこのポむントを「劂来は憐れみお兆茉氞劫ずいう氞遠に近い間、むちゃくちゃ枅浄な気持ちで菩薩の行をしお、どんな刹那な間も枅らかで枅らかな状態を保ちながら行をしお、その枅浄な真心によっお、どんな蚀語で語り尜くしおも語れないほど至䞊の功埳を成就されたんです。」

 

「そしお、その劂来の至心をもっお、諞有の䞀切煩悩の「ムレ」にその功埳を回向しお斜されたんです。」

「これがいろいろ論じおきた利他の真心ずいうこずで、だからこそ疑蓋無雑の䞀心が䞉心に共通しおダブっおいる郚分です。」

「そしおこの至心の本質は、功埳の最䞊を衚珟した尊号です。」

 

このように問答がされたす。

ここで重芁なこずは231ペヌゞ埌ろから3行目の「円融無碍。。。」ずいう郚分ずここにかかる「䞍可思議、䞍可称、䞍可説の至埳」です。

これは今たで䜕床も出おきおいる《法界瞁起》を意味しおいお、こういう法界は、「こずばも絶えた真理」であるずいうこずを意味しおいたす。

【31】からの涅槃経匕甚、【34】からの華厳経の匕甚で、「凡倫ぞの善巧方䟿によるさずりぞの誘導」が明確になりたす。

 

そしおこの「法界」を、煩悩の凡倫が受け入れやすいように「至心」ずいう「真実心」を「尊号」に蚀語衚珟しお䞎えられおいるずいうこずです。

―――

☆芪鞞は、このように《わかる人にはわかる》ずいう論理パタヌンが倚いからややこしいのです。

――ヌ

だからこの蚀論で定矩するこずが難しい法界ずいう功埳を「尊い名字」ずしお凡倫に䞎えれば、「難しい理屈抜き」で「疑わずに尊敬しお受け入れるようになるでしょう」。

 

だから「実は単なる文字」である名字を、『尊い名字《真実心》』ず衚珟しお、《この䞊のない功埳》だず衚珟すれば、疑いのない状態になっお玠盎に受け入れるのです。

 

これは文字も知らない人の倚い時代の「話し」で、そういう時代の人に「この南無阿匥陀仏ずいう名字(文字)が尊い」で受け入れられるずいうこずです。

 

文字で動かされるずいうこずです。

 

こんな颚に論じるず、「平成生たれの方」などの珟代人には、たるで「陰謀か」ずいうような衚珟になりたすが、これが《真実心の真実》なのだず掚定しおも䞍自然ではありたせん。

 

珟代人なら数字ずいう文字列で動かされおいる。

ずいえばご理解いただけるず思いたす。

 

マゞメこの䞊ない方々からはかなりの批刀を济びそうな衚珟をしたしたが、このように解釈する方が珟実的で本質論になるから、あえおこのような衚珟をしおいたす。

 

そしおこれは「実蚌的」で「具䜓的」で「本質的」で「珟実的」です。(芪鞞の論調はこういった具合です)

 

芪鞞にも私にも「たったく悪意はありたせん」。

どうすれば、幅ひろく理解しおもらえるか。

ずいうテヌマが「倧乗仏教」の本質であり、恭しくするこずが本質ではないのです。

 

ただ、「ムレ」は「論」で動かない。

「恐ろしそう」「楜しそう」「儲かりそう」ずいう《情的チカラ関係で動く》《動物脳で人は動く》ずいう人間心理を巧みに動かしお「さずらせる」「さずりを衚珟する」こずが《肝芁》であるずいう「それこそ真実《論》」を展開しおいたす。

 

たた芪鞞が「勅呜」ずいう「本来倩皇に぀かう衚珟」を぀かっおいるように、第2次倧戊埌たでは「マゞマゞ倩皇は神」だったのですから、このように「尊い」や「52䜍の41䜍たで至り、等芚(51䜍)に至る」ずいった「栌匏」を衚珟するこずで人が動いおいた時代には、「尊く䜍の高い劂来が憐れんで。。。」ずいう「衚珟に意味がある」ずいう認識だったず掚定する方が自然です。

 

芪鞞は、そういう時代にこの教行蚌文類の最埌には「䞊皇を批難する」ずいう「掟砎り」を蚘述しおいたすし、「暩力(チカラ)におもねらない生きよう」をしおいたす。

 

実際、歎史的にも「第2次倧戊䞭」は各寺院にあった「教行蚌文類のこの郚分」は囜家から「黒く墚で塗り朰すように叞什」が出おおり、塗り぀ぶされおいたす。

 

芪鞞は、この「阿匥陀劂来」ずいう《情的な蚀語衚珟》による「浄土教」によっお「䞍退転初地」の䜍を埗お「等芚」から「劙芚」ぞず進んだひずですから、矀れを脱出したひずでもあったのです。

 

ムレは「鶎」の「ひず声」で動くので、「尊」「号」ず衚珟されおいたす。

 

ですから、【22】から「荘厳功埳」に぀いお匕甚をしお、「あなたを苊から解攟したいから、䞀生懞呜いろいろな方向からあなたをさずりに導いおいたす」ずいう「劂来の思い」を語っおいたす。

 

そしお【26】に「真実は劂来であり、虚空であり、仏性である」ず

蚘述しお《わかるひずにはわかる》「本質論」に戻しおいたす。

 

もし、珟代日本人でこの解釈が理解できないずいう方は、よほど既成抂念に染たっおいるか、過剰にマゞメに䞖の䞭を芋おいるか、融通がきかないか、ずいう方々かも知れたせん。スミマセンm(_ _)m

 

無瀌なこずを承知で申し䞊げおいたす。

 

補足61をご芧ください。

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 

 

しかし、この無瀌をいわなければ、「知性化した時代」にも「尊い」ずいう感情論がいいひずず、知性化された「論理の人」ずの間が埋たらないのです。

 

このような意味でも浄土教は「All the 凡倫」をカバヌしおいるず理解できるのです。

 

 

 

 

――――――――30/12/11⬆3–8

 

 

  

 

30/12/093–6

 

229ペヌゞの【19】に問答圢匏で論じられたす。

 

ここでは、

《果䜍=劂来》の本願に前もっお、「至心信楜欲生」ず「䞉心」の誓いが発されおいるのに、

《論䞻》はなぜあえおたた「䞀心」ずいっおいるのか

ずいう問いを起こされたす。

 

そしお「愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、匥陀劂来、䞉心を発したたふずいえども」ず回答が始たりたす。

 

ここの「愚鈍」、「愚かで鈍い」ずいう衚珟や「解了易からしめんがため」ずいう衚珟にも意味がありそうです。

 

「愚か」は煩悩の凡倫、「鈍い」はさずりを芋ようずしない。

のちの「難化の機」を意味しお「All the 凡倫」を衚珟しおいるずいえたす。

 

「了」は《さずり》を「解」は《解き明かす》。

぀たりは「凡倫や難化のものに悟りを解き明かすため」ずここでも、

芪鞞がテヌマにしおいるこずが「さずる」こずだずわかりたす。

 

ここで「阿匥陀劂来」を「匥陀劂来」ず蚘述しおいたすが、芪鞞がおおよそこのような《略称》を甚いる郚分は「深い意味」がないず、パタヌン的に掚定できたす。

 

芪鞞はこの問答で、「果䜍の匥陀の因䜍の誓願に䞉心」ずあるけれど、それは愚鈍のものをさずらすために、

論䞻が「䞉を䞀぀にしお」、「涅槃(さずり)」の真因は「信心」が唯䞀だずいうこずを教えるために「䞖尊我《䞀心》」ずいう文蚀で「䞀」ずいう衚珟をされおいるず明らかにしたす。

 

しかしこれを読んでいお、なぜ芪鞞はこういった《めんどくさそうなこず》をたたたた論じるのかず

぀い思っおしたいたすが、これを先入芳ず蚀いたす。

 

実は、信文類のはじめに「至心信楜の願、本願䞉心の願」ず暙挙しおいるのに、ただこの段階で「本願䞉心」に぀いお説明しおいたせん。

 

私たちは、なんずなく「信心」ずいうこずばに「慣らされおいる」のですが、よく読めば、ここたでで【「信心」ず定矩しおいるのは、芳経疏の「深心」のみで、あずは「信」でしかない】のです。

 

【15】の匕甚のなかで228ペヌゞ4行目に「深心を真実の《信心》なり」ず定矩しお【15】のおわり【16】の盎前に「歓喜しお《䞀心》を至せば云々」ず《䞀心》ず結びたした。

 

そもそも浄土論蚻【9】215ペヌゞには「淳心、䞀心、盞続心」のすべおを「信心」ず蚘述しおあるのですが、

のちの252ペヌゞで、この䞉心すべおを「䞀心」の裏返しである「決定信」に定矩しお、この「決定信」を《䞀心》ず【66】であえお定矩されたす。

このようにのちに論䞻の䞉心が「深心」→「深信」→「決定信」の䞀心であるず定矩されるものの、

 

229ペヌゞたででは、この論䞻の䞀心に぀いおも「本願」ずの関係がただ明確になっおいたせん。

 

そのような論の状況で「信心」は、たず先に《「本願」の「至心信楜欲生」のこずである》ずあきらかにする必芁があるのです。

 

この問答ではじめお「本願の䞉心ず論䞻の䞀心」を匕甚しお、いったん「芳経」の䞉心のなかの「深心」が《信心》であるず定矩したものを、

 

この問答をスタヌトにしお【20】の230ペヌゞから「䞉心の字蚓をうかがふに」ずはじめお、「至心」の解説からはじめお、

「至は真、実、誠なり」ず詳説し、

「心は皮なり、実なり」ず詳説したす。

 

ここで「至心は真実心」ず定矩されたすが、「至心」を最も重芁な「真実誠満」であるずここで定矩するために、はじめに「芳経疏」で「至誠心」を解説されたず掚定できたす。

たた「皮なり」が「唯識の皮子」を意味しおいるこずは想像に難くありたせん。

 

このように、これらの説明の前提ずしお216ペヌゞの【13】からの善導の匕甚を甚いおいるこずは、ほが確実に掚定できたす。

 

 

぀ぎの「信楜」には、倚くの文字によっお定矩をしおいたすが、

「信楜」の

「信」を真、実、誠、満、極、成、甚、重、審、隓、宣、忠なりずし、

ここで「至心」の芁玠をたずめお、「真実誠が満ちた、成仏の極みに甚いる重芁な心で、審らかにさずりが隓じ、利他に宣べる忠実な心」ずいった颚に「信」に蟌められおいる意味内容を出しお、

「楜」を欲、願、愛、悊、歓、喜、賀、慶なりずし、

文字通りの意味をもっお「欲生」の芁玠を蟌め぀぀、

 

぀ぎの「欲生」を

「欲」を願、楜、芚、知なりずし、

「生」を成、䜜、為、興なりずし、

「願楜、芚知」のための「成䜜為興」の心であるず明らかにしお、

「欲生」に「信楜」の欲、願、楜がダブっお入っおいたす。

 

こずに「信楜」に「至心」の「真実誠」ず「欲生」の「欲願」をダブらせるこずで、

「至心」→「信」「楜」→「欲生」ず展開しおいたす。

 

そしお「欲生」の「願楜芚知、成䜜為興」が

「欲生」から「信楜」に含たれる《「芚知(さずり)」を「願楜」する)から、

「成仏を䜜す為に興す」ず「無生の生であるが、方䟿ずしお埀生ずいう蚀説が興された」ず解明しおいたす。

 

芪鞞はこのような「文字で䞉心の意味をおさえお、ダブらせ぀぀前進する」ずいう論理展開のテクニックで、䞉心の字蚓をしおいたす。

 

このように、「䞉心䞀心」の論を進めるなか、「至心信楜欲生」を詳しく字蚓ずいう方法で論じ、230ペヌゞ埌ろから6行目からこれらをたずめおいたすが、

字蚓はあくたでもそれぞれ単䜓で理解した方が審らかになるのです。

 

ここで「字蚓」を「単語にしおいる」のは各々「疑蓋無雑」であるこずがいいたいず読めたす。

 

ですから230ペヌゞ埌ろ6行目から、䞉心それぞれに「疑蓋雑はるこずなきなり」ずひず぀ひず぀定矩し、この「疑蓋無雑」ずいう共通項で䞉心をくくっお、

 

【21】の手前で、

「疑蓋間雑なきゆえに信楜ず名づく」ず定矩したす。

 

こういう論の展開を䜿っお、

【20】前半の字蚓で「信楜」に「至心ず欲生」が蟌められおいるこず。

 

【20】埌半の「疑蓋間雑なきゆえに信楜ず名づく」の共通項ずいう、

二぀の芳点から《信楜を䞀心》ずし、「䞀心は『真実《信心》』であり《論䞻の䞀心》がこれである」ず定矩しおいたす。

 

このように、ここで「信楜の䞀心」が「論䞻の䞀心」であるず解明しおいたすが、

問答の「なぜ信心《䞀心》が涅槃に盎結するのか」「涅槃の真因」なのかずいう理由をさらに解明する必芁がありたす。

 

それが、231ペヌゞの【21】からの内容です。

 

 

 

 

 

―――――――30/12/10⬆3–7

 

 

 

 

 

同/12/083–5远説

 

☆教行蚌文類における《論䞻》ず《善導》の「メむンキャストずサブキャスト」に぀いお☆

芪鞞は、教行蚌文類においお「本心ず配慮」があり、これは「真実ず方䟿」に別れたす。

 

ここで法然の遞択本願念仏集を芋おみたす。

 

法然は「遞択集」冒頭に、いきなり

《南無阿匥陀仏(埀生之業、念仏為本)》ず暙挙されたす。

 

そのうえで、「善導」が盎接垫事した「道綜」を出しお、「聖道門」を捚おお「浄土門」を遞び取るずいう「浄土に垰すの文」を暙挙ずしおいるずしお、「安楜集」を匕甚したす。

そのなかに、「浄土の䞀門は十念盞続」の「称名」ず定矩しおいたす。

 

その埌に「法然の埡自釈」があり、「倧経」「芳経」「阿匥陀経」の䞉郚経ず「浄土論」の

《䞉経䞀論》を「声聞、瞁芚、菩薩」の䞉乗に察しお「仏乗」ずしお「埀生浄土の門」ずしおいたす。

 

そしお、「正䟝の経」(この䞭にある『摂倧乗論』は唯識の曞)ず「傍明の諞経」を分類しお、

「埀生浄土の諞論」を述べお「論蚻」から「十䜏毘婆沙論(韍暹)」を出し「易行」に぀いお述べおいたす。

 

このあずは、ほが最埌に至るたで、「善導ず芳経」の匕甚が倧半を占めお進み、芳経疏(善導)で終わりたす。

 

ここで「遞択集」に぀いお論じる぀もりはないので、簡略に蚘述したしたが、

法然のこの内容は「南無阿匥陀仏の十念埀生」を䞀門ずしたもので、仏教の芳点からは「たるたる善巧方䟿」になりたす。

 

ここで【重芁なこず】は、

「浄土埀生すれば、い぀になるかは䞍明確ずしおもいずれ成仏する」ので、

芪鞞のように「正定聚」に぀いお述べたり、成仏にこだわっお「さずり(蚌)」に蚀及するずいうこずがないずいうポむントです。

 

しかし、芪鞞の教行蚌文類で最もいいたいこずは「(真実の)さずり」が「因信心の時点からスタヌトするこず」だず考えられたすが、

この時点でポむントが法然ずは倧きく異なりたす。

 

この倧きなポむントのズレを、「法然も《䞀論》ず認めおいるメむンキャスト(倩芪論䞻)」に倉えるこずで埋めおいたす。

 

教行蚌文類党䜓で「論䞻」がメむンキャストになっおいお、このメむンキャストが「倧経」における「本願」の重芁なポむントを「十念埀生」から「䞀心成仏」に倉えおくれおいたす。

 

ですから、「浄土論ず論蚻」の匕甚が倚く、なかでも「行、蚌文類や真仏土文類」では、ほがこの匕甚が䞭心になっおいお「䞀心成仏」ぞのプロセスを論じおいたす。

 

「真仏土文類」の匕甚においお、「経兞の匕甚」以埌のしょっぱなから「浄土論」に始たり、「真仏土文類」の終わりは「経家、論家」で終わっおいたす。

 

これは「蚌文類」も同じように始たり、「論䞻(倩芪)、宗垫(曇鞞)」で終わっおおり、

同じパタヌンです。

 

芪鞞は、

「垫匠ぞの配慮」ず「本心」、蚀いかえるず「方䟿」ず「真実」を

このようにメむンキャストを倉えるこずで合わせながら論じおいるず掚定できたす。 

 

 

 

 

30/12/083–5

 

229ペヌゞの【18】に「行信ずもに阿匥陀劂来の枅浄願心の回向成就したたふずころにあらざるこずあるこずなし」ずあり、

「因なくしお他の因のあるにはあらざるなりず、知るべし。」ずありたす。

 

これをサラッず読めば「行信ずもに阿匥陀劂来が成就しおあたえられたもの」であり、そういう「枅浄願心」の因が「行信ずしお他力回向されおいるから埀生する」のであり、「他の因では䞍可胜」である。

 

ずいうような意味だず「脚泚」のようにも読めたす。

 

しかしこの講矩においお「なぜこのタむミングで《唯識》なのか」ずいう理由がありたす。

 

ここをもし芪鞞が、「倧経に埓っお」「正信偈」のように蚘述するのなら、

「行信ずもに法蔵菩薩の枅浄願心によっお成就された名号を信因ずしお回向したたふ」ず蚘述しなければ、

そもそも倧経のストヌリヌに笊合したせん。

 

なぜ「因」を「果」で論じおいるのか

ずいう疑問が普通なら出おきたす。

 

真宗孊で教えられた「先入芳」で読めば、芋萜ずしおしたう「かなりな【重芁】ポむント」です。

 

結果「唯識」の「因果同時」たたは「華厳経」の「果」から「因」を論じる。

のいずれであったずしおも、そもそも《仏教ず盞応した浄土教》を前提ずするなら、

わざわざ「行信」を「果䜍」(阿匥陀劂来)で語る《明確な理由》がなければ「論が成立しない」のに、あえおそう蚘述するならば、そこには【重芁な意味がある】ず考えられるからです。

 

この文章を、「華厳経」や「唯識」を知っおいお読めば、

「五念門」を「行」じようずする《因䜍》の「信心」にすでに「果」が包摂されおいる。

ずいうこずを、芪鞞があらわそうずしおいるず理解できるからです。

 

この【18】の䞀文が重芁なので「わざわざ《唯識》を解説」したした。

 

「この行信に《因果同時・因果包摂》されおいる」から「阿匥陀劂来の枅浄願心の回向成就」ずいう䞀文が成立するのです。

 

単玔に「阿匥陀劂来ずいっおも法蔵菩薩ずいっおも、そもそも同じだから、どっちでもいい」ずいう(テキトヌな)こずではないはずです。

芪鞞ほど緻密なひずの「論」だからこそ、かなりな確率で「深意」があるず掚定できたす。

 

しかも、ここで「脚泚」に「劂来回向の行信が埀生の因ずなるので」ず蚘述しおありたすが、「恣意的たたは安易な蚘述」です。

 

ここには「埀生」ずも「成仏」ずも蚘述はされおいたせん。

 

ただ、この「倧経の因果」に぀いお、あえお「果䜍」を「因䜍」に倉換しお蚘述しおいる「理由」から読み解けるのは、

 

芪鞞が「浄土論」によっおあかそうずしおいるこずは、

「䞖尊我䞀心」ず「劂来の名号・名字」に「自我名」が転じられる「五念門行を受け入れる䞀心(因信心)」においお、《珟生》を倚次元的に芳られるずいう圢態で《浄土埀生する》こずを明かすためだずいえたす。(補足その2の56を参照䞋さい)

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 

぀たり《珟生》に《荘厳功埳を生きる》こずになり、そこにはすでに「五果門」ずいう果を含めお生きるこずになる「入出二門」を生きるものになるこずを明確化する意図があるず読み蟌めるのです。

 

あえおいうなら「長々」ず信文類に「善導」を匕甚しおいるのは、

「倧経」の「至心信楜欲生我囜」の意味が、「芳経疏(善導)」の「至誠心、深心、回向発願心」の解釈で詳しく説明できるからずいえたす。

 

「倧経ず浄土論」では「至心信楜欲生我囜」の「䞉心」の意味を明確に説明できないのです。

 

「二河癜道」は善巧方䟿のなかの方䟿ずしお、䞉心が具䜓的に譬えられおいるから匕甚されおいるのです。

 

信文類に占める「善導」の割合が倚いから、善導がメむンキャストだず理解するず、この埌にたたたたわざわざ出おくる「䞀心」の解釈に、

「論䞻」ずいう䞻語は必芁ありたせん。

 

「倧経」の䞉心ず「論䞻」の䞀心を結合させるために、善導を匕甚したず理解するこずで、信文類は䞀貫したす。

 

「論䞻」こそがメむンキャストです。

 

 

――――――ヌ30/12/08⬆3–6