未完の完‼️(まとめ)
東京の一流大学に入って、卒業後から奨学金返済に追われて、一流企業に入って、執行役員ぐらいまでになって、とても華々しい人生を送っているように見えている人が、40歳に奨学金の返済を終わりながら、そのまま今度は住宅ローンを抱えて、 75歳まで借金に追われる。
その中で、子供を大学に入れたり、いろんな人との付き合いでお金を使い、結局たいした貯金もたまらず、60歳になって定年退職を迎え、天下り先もなく、どうしたらいいんだと悩んでいる東京人が今増えているようである。
人にとっての成功というのはどういうものなんだろうか。華々しく生きているから成功していると言う事が言えるのだろうか。
私の知人で、高卒で地味に生きたひとが、今長野のあるところで、まるで自給自足のような晴耕雨読の日々を送っている。
60歳のその人の表情はとても穏やかで、子や孫も含めて穏やかでゆったりとした温かい人生を生きておられる。
人間にとって、どっちの方が良いのか、別に比べたりしたくは無いけれど、華々しい生活よりは晴耕雨読と言う日々を過ごして自分の心を穏やかにさせて生きている人を見ると、人間の本来のあり方をその中に見てしまう。
これも環境なのかもしれないけれど。
確かに環境は人を左右する。また、メディアだの報道だのネットだの、そういったものを見ていれば、若い時代ではそーゆー華々しい生活を夢見ることだろう。しかし、だんだんわかってくるけれど、そういう喧騒の中を生きていて生涯借金に追われて、家族はバラバラで、そんな都会の成功を夢見る人たちにいってあげたい。
もうメディアも報道も、ネットもそういったものから離れて、もともとの田舎に戻るか、誰かの田舎に一緒に行って、ともに落ち着いた日々を過ごすか、とにかく環境の良いところに行くこと。
これは老後であろうがなかろうが、どんな人にも当てはまることだと思う。
都会の喧騒の中でローンに追われて、仕事仕事と探し回って、ストレスのために病気になって、医療ビジネスのお客になってしまって、結果どうにもならないと言う中で死んでいく。そして今度は葬儀ビジネスに利用されて、どこぞの霊園に埋葬されても、子供や孫がお参りなんかに来るはずがない。
死んだら終わりだとうそぶいて生きてきたんだから、自業自得である。
都会の中に生きていても、優しさや愛やぬくもりといったことがそもそも育つ環境ではないからである。
死んだら終わりの人の命を思い返す人もどんどん少なくなって、子供や孫もあなたのことを忘れ去ってしまうかもしれない。
そーゆーのが、成功と言うことなのだろうか。

早く田舎に帰れ!
そして、人間らしい心を持った人たちになれ!
と、大いなる自然が不自然の中を生きている人に語りかけている。
成功だのセレブだのそういったことに振り回されて、結局、何も得られないまま、子供や孫を同じようなことにのっけようとする。
優秀な人だ、あの人は仕事ができる、あの人のように夢をつかんで華々しく生きていきたい。
これは幻想である、なぜならそういう人たちが本当に満足しているとは思えないからだ。
そういう人たちは成功したのではなく、ある一定の立場を得ただけで、その立場を守ることに精一杯ストレスいっぱい我を張っているだけなんだ。
退職すれば、年賀状も来ない、お歳暮ももらえない、お中元ももらえない、だんだんそうなっていく中で、60歳すぎて、俺の人生って何だったんだって思うようになっていくものなんだ。
60歳を過ぎて、75歳まであと15年どうやってローンを返そうかそんなことに悩みながら、仕事がない仕事がないと言いつつ、そこで初めてカードローンだとかなんだとかに頼ることになって、さらに借金を増やすことになる。
都会では、1億や2億お金を貯めていても、仕事がなければあっという間になくなっていく。ローンをそれで返してしまうと言うわけにも行かない。仕事がないんだから。
成功して夢をつかむだのなんだのかんだの考えないで、田舎に帰って実家がもうないんであれば、安い所に住んで、都会で培った知恵を持って、寂れた田舎をどう盛り上げていくか、そんなことをやっていけば、晴耕雨読の人たちを増やすことができて、心や精神がストレスから解放される。
そーゆー老後を生きる人が増える。これは人間にとって大変に有益であると思われる。
私もいつか近い将来、この場所を離れるだろう、それは地球上なのか、あるいは命が別の姿に変化していくのか、それはわからないけれど、今ここにいても、自給自足はできないまでも、晴耕雨読の日々を今は送りつつ、穏やかな気持ちでこんなことを書いている。
【死後の世界の概念が与える意味】
これは私が坊さんだから言うことではありません。死後の概念と言うものを持つことを忘れてしまうことによって、命の尊さや生きる意味をあえて頭と言う頭を犯してしまっています。
つまり成功や夢の達成と言うものを追いかけながら、それを生きている数十年の間に成し遂げようと追いまくられ、ストレスにまみれ、人との関係性を利害関係だけで作り上げ、どんどんと精神的に粗雑になってきているように思います。
そもそも成功や夢の達成と言うものは、この世で成し遂げられるようなものは大した夢ではありません。キリスト教などにあるように、天国の実現であるとか、そういったことを何千年と言う計画を持ってやっていくのですから、それは壮大なものであると言えますが、今の数十年だけで達成できるような夢は子孫にも受け継がれる事はなく、結果的に実現しないものか、実現したとしても、その状態を維持することにまた追いまくられることになります。
「私はここまでで死んでしまうけれど子や孫に受け継いでくれよ」と言えるような人間世界が本当に良くなるような夢や成功を描くことができなくなります。
そういう夢や成功のイメージと言うのは、子供や孫に良い人生を歩ませるようなイメージを描かざるを得ないといえますから、子供や孫への大いなるプレゼントになるとも言えましょう。
そういう意味においても、宗教を持つか持たないかにかかわらず、死後の概念と言うものが、現在の命のあり方を決定していくと思われます。
【未完の完】
死後の概念と菩薩道
現在真宗お西の方は、現世で私は修行ができないから、阿弥陀様の力によって、極楽浄土に生まれて成仏するんだっていいますが、死後の世界の極楽浄土を望むだけで、現世においては何も特別なことをしないとするならば、それを仏教と言えるのでしょうか。
いくら、たいした菩薩道を歩むことができないとしても、その菩薩道が未完成のまま私の命が終わったとしても、その菩薩道を生きている私の姿は、子や孫や周囲の方々に何らかの影響与えていくのではないでしょうか。
少し専門的になりますが、だから無量寿経と言うお経の中の法蔵菩薩さんは、「生きとし生けるもの全てが救われなければ、私は成仏したとは言えない」と言う願いを立てておられるのでしょう。
それはつまり、現世で完成しなくても、必ず生きとし生けるものが向かうべきベクトルを明らかにしてくれているものだと思います。
だから、現世で私は修行はできないから、何もしなくていいんだといった誤った解釈が死後の世界やこの世における生き方を変えるような教えになっていないと考えます。
お西のお坊さんが、現世では何もできないから何もしなくていいんだと言うような姿勢を見せているために、浄土真宗は、どんどんと廃れていっているように思わざるをえません。
死後に浄土で成仏すると言っていい、現世で何もしないのではなく、あくまでも法蔵菩薩道を歩むと言う姿勢が必要なのではないでしょうか。
それは、現世において「未完の完」と言えるかもしれませんが、全く世俗と同じであるならば、そもそもの無量寿経の教えの存在意味がありません。
未完の完であるからこそ、次世代へと受け継いでいかれる素晴らしい菩薩道と言う教えを残していけることになるのではないかと思います。
そうであってこそ、子々孫々が、わけのわからない自己満足でしかない夢ではなく、世の中に貢献していけるような大きな夢を描いて生きていくことができるようになるでしょう。