教行証文類を通して学んだこと❣️【究極摂取す】という結論‼️

いろんな角度から、「教行証文類講義」を通して学んだ結論や、学んだ内容から「日常に観察」したことを記述しています。

 

【教行証文類最大の結論】

わたし(A)が、化身土文類を書き進められない理由に、「偽」をも「摂取すると読めたから」という理由があります。

これを読み込んだ理由に、「蒜山高原の自然に触れ」その後「母の滅」の縁のなか「思慮深い牧師さん」に出会ったという流れで「宗教に関する本ではないある本」を読んで、「人間各々の限界」ということがあると知ったからです。

 

これは、人間は「DNAや環境因子」の束縛から離れることが、いかに難しいかということを「マジメに書かれている本」で、たしかに「わたし(A)」にもなにがしか「離れ得ない状況」がある。

ということが、「自己によらない」という決定的な内容だったからです。

単純にいっても「死ぬに死ねない」ということもあります。

 

みなさんも「なんらかの理由や事情で離れ得ないものごと」に括られていて、「いまの事情を生きている」のですから「入門」して「南無阿弥陀仏」でよかったと思うひともあれば、「アーメン」でよかったというひともあり、「南無妙法蓮華経」がいいというひともいます。

 

また「占いだけでいいねん」というひともあり、「誰がなんと言おうと霊能力を信じる」というひともいます。

 

しかし「親鸞のすぐれていた部分」が、「このことを知っていたかのように、化身土文類のラストが《摂取》の文言で終わっている」ということです。

 

なんらかの事情や理由で「マジメに占い師をやっている」「マジメに霊能師をやっている」というひとを、「ムリクリ」にでも「真宗には誘導」できません。

とはいえ、親鸞は「出門」のなかで、このことを「真実そのものではない」ことを明確にしながらも、

ラストは「摂取」で終わる。。

 

このことを、どう文章にしようかと、ボンヤリと月日に任せ、自然に任せて、今日このことを書く気になって書いています。

「南無阿弥陀仏でお浄土に往って、またお会いしましょう」なんて「浅はかな、誰でもかけそうなストーリー」を親鸞が書いているとしたら、「カシコイ現代人」から見放されて当然だと思いつつ、「真実、真実」と記述してきたけれど、「真実に至るのに必ずしもこの道しかない」わけでもなく、

 

さまざまな「DNAや環境因子」による「多くの変数」があるなかを生きている人間が、100%「南無阿弥陀仏」へ向くはずもないのです。

だから、ここ(化身土文類)で「南無阿弥陀仏がすべてです」なんていうことの方が、「誤り」であると、親鸞さんに言われているようで。。

 

だから「出門」があると言われているように思いつつ読んでいて、親鸞という「仏体」は「偽を摂取するということまでのほんとうに真実を書いている」という「深さや広大さ」「大慈悲」を感じています。

 

ここで「なんでもあり」というような「浅はかな受け取り」をされかねない内容が持つ深さは、「なんでもありではないなかにある、なんでもあり」という「深い意図」を読みきらなければならないからこそ、

これだけ膨大な内容が「化身土文類」に記述されているのだとわかり、この内容こそ「じっくりと読み込まなければならない」と思っています。

 

ーーー

 

愚禿悲歎述懐和讃から、親鸞さんが「なに」を歎いているのか?

(化身土文類に関連して)

 

親鸞は、この和讃において、占いや迷信などを僧侶や法師という立場の者がやっていて、名誉や利益を求めていることを歎いていると思うのです。

 

つまり、「占いや迷信に迷っているひと」自体ではなく、「それを利用して利益を得ようとする《詐欺坊主》を歎き」そのように「不本意な利益で生きることしか選択できない坊主が生まれていること」を歎いている。

 

まじめに「法を説いても聞いてもらえない、生活に困る」という現代においても、同じように「真宗以外」においては、「お守りやお札」を売ったり、「霊能者を演じてみたり」という「本来仏教ではないこと」で生きている僧侶もいる。

 

また、「それができない真宗において」はどうやって生活を成り立たせようかと「悩んでいる」僧侶が多い状況で、なんとなく「先祖供養」をやってるような。。

 

どうしようかという「現代」においては、、

 

改めて「キッチリ法を生きることしかない」と思えるのです。

 

さまざまな事情で「お寺の法要も減って」布教使に渡す「お礼すら今までのように払えない」という事情もあるなかで、「布教使」や「住職のあり方」が問われているなかで、親鸞さんから「悲歎」されないように「法を生きることを本気でまじめに行なう」ことが重要なのであり、、

 

「どうしたら寺が残れるか」なんていう研修をして「なんらかのテクニックを駆使する」のではなく、「地味に利他ることを(たとえば寺の周辺を掃除することだとしても)行動に示すこと」こそが大事であると思うのです。

 

テキトーな教えを説いて、「みなさん一同でお念仏を申しましょう」なんてムリクリ念仏をさせてみたところで、「坊さんの自己満足」で終わり、一般の現代人からすれば「面倒なこと」だと思われることを「強いている」と気づかない「裸の王様」が「坊さん」だと、、

親鸞さんが歎くようなことをしない方がいいと感じています。。

そして最も「カナメ」は、そうだといっても「仮も偽も」摂取のなか。。

 

つまり「そういう状況」を歎いておられても「批判されている」わけではない。

「どうしてもそういう次元から脱出できない人もいる」けれど、

この事実を「悲歎しても非難や批判して排除するわけではない」という。。

 

すべてが究極の「摂取不捨」のなかに在る!

 

 

という事実です‼️

 

ーーー

 

「迷信の次元」から「さとり(破我の和合)や友愛の次元へ」

 

悩んでいることを「霊のせい」「運気のせい」として、「拝み屋さんに拝んでもらう」「運気が上がるようなことをする」というのも「知恵」であると言えます。

 

しかしこのような知恵は「次元(ものの観点)が低いという事実があるため」根本解決にもならず、人間としての「生命の発展」にもなりません。

 

そこで「世界人類的に、より意味があり、人間的に成長できる智慧という次元から」わたしを「その次元に引き上げる教え」が「仏教やキリスト教」のような「高次元な教え」だということです。

 

これまでの「過去」の次元から、さらに「高次元」を観察できるようになって、「さらに高次元な未来を描くようになり」その「未だ来していない《未来》」が「現に在する《現在》」になる。

 

これが「過去、未来、現在」の「二法更迭」という「仏教の時間論」と「次元論」から「さとり」や「友愛」の次元に導かれるという「高次元の宗教」が教えていることであり、

 

わたしにおいて「すべてが如来」と「功徳荘厳」を「観察」できる「法(システムとその教え)」であるということです。

 

こういう世の中や人間を「多くのorさまざまな観点から」観ていくことを教えている「宗教」同士は「理解し合える」ということになるのでしょう❣️

 

親鸞が「教行証文類」のラストに「すべてを摂取する」という引用で「結ばれている理由」がこのようなことを意味している。

と、さらに学びを深くさせていただきました。

あくまでも「今日までの学びの区切り」ですから、まだ書き続けます❣️

ーーー(さらに)

仏教経典は「どうにでも理解できる」と思われる「記述」が多いため、親鸞は「読み換え」ができたのです。

 

「至心回向」を「至心に回向して」を「至心に回向したまへり」と「至心を回向する」から「至心が回向されている」という主語を「わたし」から「如来」に180度換えられたのです。

 

そこで、より次元の高い解釈が生まれたのです。

 

阿弥陀経に「西方世界有《無量寿仏》。。」とあるこの「無量寿仏は阿弥陀如来かどうか?」という議論がありますが、これも「別とも同じ」ともいえます。

 

キリスト教でも、「聖書」は「神のことば」とするか「あくまでも神のことばを預かった者(預言者)のことば」とするかによって、扱いが変わります。

 

いずれにせよ、どう読むほうが「次元が上がるのか」という観点で解釈すべきであると言えるため、解釈が「正しいかどうか」という読み方よりも「より高次元かどうか」という方が適切な読み方といえます。

 

【観察行】について。。

昨日「お尋ねがあったので記述」します。

「観察行」について、「五念門でも五正行でも」《なにを観察するのか》ということについて、、

 

[一切の仏性]であり、「自然と無我」=「有為の根拠である無為」だということを定義しています。

 

[仏性=功徳]と観れば「苦」もまた「功徳を観る真実の糧」といえます。

 

[日常の混沌とランダムな出来事が整然と荘厳されている]と観察できると、

 

見えてくる現実が整然とした「自然利他力の智慧と慈悲の世界」だと観えるのです❗️

 

「偽」は、「人の為」と書くとよくいわれますが、

これは「人為」というのが本来のようです。

 

「人為的になにかを為すこと」を「自力」というのです。

ここでわかるのは、、

 

【真実】は「自然の法」[自然即無我に至ること=利他力自然による礼拝(屈服自我滅)による讃嘆]

 

【仮】は「さとりへの自我行」(自我力行)

(発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国=第十九願=さとりが真の楽を得ると知って[諸行をする])

(聞我名号係念我国植諸徳本至心回向=二十願=さとりが真の楽を得ると知って[自我力念仏をする])

 

【偽】は「人為的救い」

つまり、「さとり『以外』の救いを説く教え」(仏教以外=外教)という種別です。

 

化身土文類は「この論点を明確」にして「真実への誘引」が「自然の法」によって成され、

それは、「外教を含めたすべてである」という内容に広められているというポイントが、、

「化身土文類の本巻」が「仏教」

「化身土文類の末巻」が「外教」となっていて、

 

ラストが「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。

結ばれている「理由」でもあり、

 

この菩薩は「一切菩薩即[法蔵菩薩]の一菩薩」ということであるといえます。

 

つまり「この教えは人為的救いを説くもの」も「世界宗教も」すべて「その根底は《自然と無我》に至る誘引」から「摂取のため」に「無色無形絶言」「無碍光」の真理から「出ている」という側面と、、

 

だから「可能な限り、無碍光の真実を行じるもの」になるようにという「深意」があると読むことができなければ、、

 

「救いの本質が《全宇宙的》であり、十方衆生への自然の法である」とはいえなくなるでしょう‼️

 

「自然」には「利他力」という「智慧と慈悲」が自ずとある。

これが「完結しない《菩薩》という位置」から「摂取す」という、、

 

[教行証文類に論じて来た法の結論]であるといえるのです。

 

【観察行】について。。

昨日「お尋ねがあったので記述」します。

「観察行」について、「五念門でも五正行でも」《なにを観察するのか》ということについて、、

 

[一切の仏性]であり、「自然と無我」=「有為の根拠である無為」だということを定義しています。

 

[仏性=功徳]と観れば「苦」もまた「功徳を観る真実の糧」といえます。

 

[日常の混沌とランダムな出来事が整然と荘厳されている]と観察できると、

見えてくる現実が整然とした「自然利他力の智慧と慈悲の世界」だと観えるのです❗️

 

 

 

ーーーーーーーー(以上)

 

以下は、「日常における観察」です‼️

 

2019/10/24  その2‼️

 

「ピンチ」に出会うという文脈は、仏道を行じるなかにはあり得ない。。ということ‼️

 

この問いについて、Quoraに極論を書きましたが、問いの中で「ピンチ」を定義できないのと、「ピンチ」が「生命」「経済」「人間関係」「仕事」などにおける「生死をかけたこと」なのか、「肉体的苦痛」か「精神的苦悩」か、そこまでではないけれど、ふつうによく「ピンチやねん」というレベルなのか不明だったので、

このように記述しましたが、、

 

結局「どうあがいても変えられない出来事」であっても、「出来事の解釈を変えられる」ということが「人生をピンチにするかどうか」を分ける「仏教の智慧」なのです。

 

「仏教」は「宗教」というにはあまりにも「誤解が多く」日本人のひょっとしたら90%に近いぐらいのひとが「そもそも仏教とはなにか」をわかっていないのかもしれません。

「栄枯盛衰」「おごれる平家も久しからず」「いろはにほへと(色は匂えど散りぬるを)」といった「文言は、仏教が根拠」です。

 

「諸行無常」ということばは「完全仏教の根幹です」から、「安心安全」はあり得ないから「現実をどう理解するか」ということしかないといえます。

また、「すべての存在は宇宙レベルの道理(自然)」から生まれています」から、「対立概念」を「仏教は持ちません」。。

 

たとえば「生と死」「自と他」「健康と病気」「勝ち組と負け組」「富と貧困」「若いと年輩」といった概念はなく、「いずれも現象として」それを「人間や社会」が「前者は好ましく」「後者にはなりたくない」という「間違った現実解釈をしているからピンチになる」ということになります。

 

だから「釈迦」は、「現象を真理に基づいてどう観るか」ということを説いたといえます。

 

まずは「当然なこと」を「当然」と思う。この点が「諸行無常、諸法無我」ですから、「生、老、病、死」は受け入れざるを得ない「事実」です。

 

そして「人間がすること」には「DNA依存か環境因子依存による何かが背景にはある」ということを「輪廻や諸法実相」または「すべてがありのままでひとつという意味の《一如、真如》という観点」「本来の自然を《無為法》として、人為という《有為法》に苦しんでいる(ういのおくやまけふこえて、にあるように、有為を超えて無為になる)」

 

といった観点から観ることで、「現実の背景などを観ながら、現実を解釈をするのです」が、このような「智慧」の観点こそが「仏教」であるということを「理解していない」日本人が多いものです。

 

仏教は「智慧によるさとりへの道」が基本であり、そこにこういった観点を教える「慈悲」が展開されていくという性質のものといえます。

 

平たい事例で語るなら「ピンチはチャンス」だとか、「ピンチがあったからこそいまがある」といった解釈も「智慧による解釈」だといえます。

 

この「智慧さえも《自然》から与えられたもの」なので、「必ず仏教じゃなければいけない」ということでもありません!

 

また「その状況を、ピンチ」という文言で「観る」よりも「神からお試し頂きましたぁ〜(≧∀≦)❣️」「やったろやないか」っていう感じで現実を見ることを続けていたら、

 

「楽しいゲーム」になるかもしれません❣️

 

 

 

2019/10/24現在❣️

 

「偽」は、「人の為」と書くとよくいわれますが、

これは「人為」というのが本来のようです。

 

「人為的になにかを為すこと」を「ニセ」というのです。

ここでわかるのは、、

 

「真実」は「自然の法」(自然即無我に至ること=利他力念仏)

「仮」は「さとりへの自我行」(自我力行)

(発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国=第十九願=さとりが真の楽を得ると知って[諸行をする])

(聞我名号係念我国植諸徳本至心回向=二十願=さとりが真の楽を得ると知って[自我力念仏をする])

「偽」は「人為的救い」

つまり、「さとり以外の救いを説く教え」(仏教以外=外教)という種別です。

 

化身土文類は「この論点を明確」にして「真実への誘引」が「自然の法」によって成され、

それは、「外教を含めたすべてである」という内容に広められているというポイントが、、

「化身土文類の本巻」が「仏教」

「化身土文類の末巻」が「外教」となっていて、

 

ラストが「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。

結ばれている「理由」でもあり、

 

この菩薩は「一切菩薩即法蔵の一菩薩」ということであるといえます。

 

つまり「この教えは人為的救いを説くもの」も「世界宗教も」すべて「その根底は《自然と無我》に至る誘引」から「摂取のため」に「無色無形絶言」「無碍光」の真理から「出ている」という側面と、、

 

だから「可能な限り、無碍光の真実を行じるもの」になるようにという「深意」があると読むことができなければ、

「救いの本質が《全宇宙的》であり、十方衆生への自然の法である」とはいえなくなるでしょう‼️

 

【観察行】について。。

昨日「お尋ねがあったので記述」します。

「観察行」について、「五念門でも五正行でも」《なにを観察するのか》ということについて、

「一切の仏性」であり、「自然と無我」=「有為の根拠である無為」だということを定義しています。

 

 

 

2019/10/17現在❣️

「無為」ただ在るのみ。。以上‼️

「仏教の本義とさとった状態」

「在る」というところに「苦はない」

じゃあなぜ「利他」るか。。「在るという状態がいいと思える人を増やす」ことを、

【「在る」になった方が「楽」だよ】と「在る状態」から「遊び」として行なう❣️

「遊煩悩林。。。」である‼️

 

 

 

 

2019/10/16現在❣️

 

日本の「司法機関」は崩壊してきている。

三権分立の中、「司法が成り立たない」といえる。

「立法府も時代のスピードに追いつかない」ほど時代の変化が速い。

 

国際犯罪が増えて、国際的に「サイバー犯罪」「ネット詐欺」「国際的な組織がドラッグを流す」「国際的な窃盗集団」など多発するなかで、

「インターポール」に告発したら「警察庁」へ回され「県警へ」回され「近隣の警察署」へ回される。

 

このようななかで「国際化」している犯罪は「日本の国家組織でも摘発できない」うえ、

「摘発しても起訴できない」「判例がないから」《裁判が成立しない》のである。

これからの日本は「犯罪大国になる」と見られる。。

2020年から「加速する」かもしれない。(オリンピックである)

また、高齢化とともに「高齢者犯罪が増えて」80代で初犯なんてざらにある。

認知症で犯罪を犯しても「どうしようもない」だろう。

「司法機関」が成立しない国家はどうなるだろうか?

 

こういったことを「念仏行者」はどう観るか、「自己を守るか」「どこを守るか」

「五濁が進んでいる」と「被害者になるまでは静観」するか。。

 

これらについて、いかに「摂取」するかという「据わり」が重要である。

「悪人正機」の真価がここにある。

ここを突破する「行動」をどうするかが「親鸞と弁円」の話し、「九条兼実と法然」にはあるのだから。。

 

◯一般向けの「悪人正機」の解説

この「悪人正機」の論は、「仏説無量寿経」の法蔵菩薩という「菩薩」のストーリーに込められている「次元」を論にしたものです。

あの当時(1173〜1262または1263)に抽象概念を理解できる人はほとんどいなかったために、「論理」ではなく「ストーリー」で説く必要性があり、

「迷いからさとりへ」のプロセスを「観無量寿経」というお経に書かれている「阿闍世(あじゃせ)」という王子が「父王」を殺して「母親」を牢獄に閉じ込めたというストーリーから「論じて」いるのです。

この阿闍世という王子にまつわる話には、「どうしようもない人間の愚かさ」が「演劇の脚本」のように、さまざまな角度から書かれています。

わたしたちは「現代」に生きていますから、「殺人」なんか「むごいこと」だと思いますが、江戸時代やそれ以前に生まれていたら、「首切り」なんて普通のことだと思って生きたかも知れません。

とはいえ「現代」が今後どう変化して「戦争状態」になるかも知れませんし、「サイコパス」の犯罪が増えるかも知れません。

また、「それ以前に心に異常をきたすような情報」によって、「奪い合う傷つけ合う社会」になるかも知れないのです。

いまでも「お金」という武器を持ちたがるひとが、「ひとを騙し追い込み」だれかが「自殺」したとしても、「ひとごと」だと思っている状態は、「普通といえる」のでしょうか?

お金に困っているひとが「餓死」しても「ウワサ話し」で終わらせる神経って「普通」といえるのでしょうか?

わたしたちのなかに、「悪の要素」はいくらでも眠っていると思いませんか?

こういう側面が「慈悲や愛」を邪魔して「限定した自己の範囲」以外で起こっていることを「平気でよそごと」と思えるのは、「脳のキャパ」なのでしょうか?

「自分たちの先祖」は大事に供養して、「他人の先祖」はどうでもいいというような「狭いキャパ」でしかないのでしょうか?

宇宙レベルの「平等感」を説く「仏教」や「神」という世界観の中で全人類を「神の子」として尊ぶことは愚かですか?

人間は「DNAや環境因子」によって、ひとごとや国ごとに大きな思考の違いがありますが、これを均一化することは「不可能に近い」でしょう。

だから「すべての生命を根源的な観点から」同じ「慈悲や愛」によって「理解し合う次元」があったとしたら、それはそういう違いを「受け入れる」という心理を育成することが大きなポイントになるでしょう。

この「受け入れる」という言葉が「南无(ナモ=ナム)」であり「アーメン(その通り)」となっています。

すべての生命は「同じ条件」の場を生きている。つまり「何か変数があると、安定が揺らいで、どういう心理状態になって、なにをするか」は不確定である。

という「事実、真実」を前提に「慈悲や愛」を施して生きるためには「悪心がなぜ起こるか」ということを「犯罪心理」だけではなく「人間が日常と非日常的に、DNAや環境因子によってどうなるのか」を知り、「受け入れること」が重要なのです。

そして「悪心」が起こることは「自己にもある得ること」は「大きなポイント」でもあるのです。

このように「悪を目当てに救うこと」ができたら「すべてを救える」「事前に対処できる」という観点から「悪心」を研究することが「救う、予防する」ためには重要だと、このような論理ではなくて「ストーリー」で説いたのが「悪人正機」という「論」であり、「教え」なのです。

これは「ルシファー」でも同じです。

「人間の悪魔性」を見られているよ!という「目」が「わたし」の「アクマ性」を「抑止する」のです。

 

 

 

2019/10/12現在❣️

 

真宗の住職さんが「日蓮正宗」に変わられました。

 

この方は「真宗僧侶」には「対、門徒さん」を含めて、「利他の行動がない、さとりに向かうモチベーションがない」という「事実」を問題にされて、僧侶への「折伏(勧誘)」を「正邪」の観点からされています。

この方の「真宗理解を含めて、僧侶がそうであるように江戸宗学」が問題点になっています。

 

このことを「身近な僧侶に投げかけて」どういう観点から「意見をくれるか」ということを観ました。

 

ほとんどの僧侶は、「ひとごと」と受け取る返信でした。。

だから、そのような僧侶には、以下のように返信(部分)しました。

 

ーーー

 

吉田氏は、「江戸幕府によって作られた教え」が「なにも行動しなくて良い」という構造になっているなかで、「教えに基づく行動がない」「ビジネスに例えたら、売れない商品を抱えて、いいものだから買ってください」という更なる堕落に陥っている。

つまり「自分のことしか考えていない」ことについて提言されている。

 

「法事法要はないか?」「どうしたら門徒さんが増えるか?」「布教先はないか?」と右往左往しているのを、門徒さんはわかっているから、余裕のある人でも応援しないという「現実」を「法に取り組まない僧侶の現実だ」と観ている。

 

僧侶の日頃の行動の背景に「法がある」ということが、まったく見えない。。

 

親鸞さんが「仏の願うところを願い、行じるところを行じ」てきた(真実則)から「関東に二十四輩」が生まれた。

蓮如さんも「行動」をした。

 

このように「この人の背景には《無碍光》がある」という「行動の源泉」がわからないから、

日常の坊さんと、法要時の坊さんは別というイメージで、「ユニホームを着ているとき」と「日常の行動」が同じ背景にあると見えない。。

 

しかしこれこそ「幕府がクーデター阻止のために構築させた現実化しない教え」が原因で、

「凡夫だからという教えに逃げる」「法と世俗は別」「現世はお上のいう通り、名号のひとりばたらきに任して、自己は変化しない」という僧侶を見て、門徒さんや世間から見たら、「死んだら終わりやんか」と、問題点が「死後」になってしまいます。

 

「いましていることは、無碍光の故」といえる「行動」ができるかどうかという問題提起を、

日常のすべてにおいて、そして吉田氏の日蓮正宗の出来事も「如来が見せている自然の世界」であり、、

 

この「偽」を含めて「摂取」するというのが、「この出来事から学びを得ること」であり、

一如法界であり「他人の事情」ではないという「見方と行動」ができるかどうかという。。

 

促し「時剋の極(促)」である、古典的に言えば「ご催促」であると観られるか。。

この度、みなさんが「このことをどう受け取るか?」ご意見を求めて、

 

《自然の法》から「行動へ」。。

「行動の源泉は《自然の法》だ」という問題提起をしている「現象」であると理解されますように。。

「現実と法」を生きることの良きご縁と思い、教材といたしました。。

 

また、わたしは「なぜ真宗にはサンガが自然発生的にできないのか?」と思っています。

 

研修会や学習グループがあっても、

「歎異抄のどこにこう書いている」とかなんとか研修して「飲みながらも同じ」で、

パワーバランスを取りながら、飲んでいて嫌われないように気をつかう。。

「だからこうしよう」と「行動に向かうこと」でも「意見でも」だれでも言える雰囲気ではない。

 

自分の意見を言えないことが、まずは「僧侶同士の意識改革」かと思います。

互いに尊敬というニュアンスではなく、リスペクトしあって、語り合うことから行動に出る。

そういうあり方が「大乗仏教」だと思いますし、

 

お釈迦さんと弟子とのやりとりも結構気を使わない表現になっています❣️

(尊敬は上に使い、リスペクトは下にも使うのが慣例なので、リスペクトを使いました)

 

サンガが他宗にはいろいろあるのに「真宗にはない」ことは、真実への学びがなく「江戸幕府宗」のままに甘んじていることへの「変革」の促しが、この出来事だと観ています。

 

この吉田氏含めて「法」であり、わたしが「関わっているのは、みなさんという《法》」なのですから。。

 

ーーー

 

という返信をしました。

「ひとごと」や「評論」が返ってきたからです。

 

ただ「驚いたのは」この教行証文類講義を書いて欲しいと依頼された方からは、

「なんでもありではないなかのなんでもあり」という「前回の内容を踏まえて」

「摂取」という「真実」にある「偽」のあり方として「この提言を理解されて」いました。

 

どうぞみなさまも「行動の源泉は、自然の法であり、利他を行じる行動」から進まれますよう。。

そのなかで「自然」が動いて来ますから、「目先の自己防衛」という「自我」の世界観では「なにごとも動かない」という「法の実態」を体感されますよう。。

 

 

 

2019/10/05現在‼️

わたし(A)が、化身土文類を書き進められない理由に、「偽」をも「摂取すると読めたから」という理由があります。

これを読み込んだ理由に、「蒜山高原の自然に触れ」その後「母の滅」の縁のなか「思慮深い牧師さん」に出会ったという流れで「宗教に関する本ではないある本」を読んで、「人間各々の限界」ということがあると知ったからです。

 

これは、人間は「DNAや環境因子」の束縛から離れることが、いかに難しいかということを「マジメに書かれている本」で、たしかに「わたし(A)」にもなにがしか「離れ得ない状況」がある。

ということが、「自己によらない」という決定的な内容だったからです。

単純にいっても「死ぬに死ねない」ということもあります。

 

みなさんも「なんらかの理由や事情で離れ得ないものごと」に括られていて、「いまの事情を生きている」のですから「入門」して「南無阿弥陀仏」でよかったと思うひともあれば、「アーメン」でよかったというひともあり、「南無妙法蓮華経」がいいというひともいます。

 

また「占いだけでいいねん」というひともあり、「誰がなんと言おうと霊能力を信じる」というひともいます。

 

しかし「親鸞のすぐれていた部分」が、「このことを知っていたかのように、化身土文類のラストが《摂取》の文言で終わっている」ということです。

 

なんらかの事情や理由で「マジメに占い師をやっている」「マジメに霊能師をやっている」というひとを、「ムリクリ」にでも「真宗には誘導」できません。

とはいえ、親鸞は「出門」のなかで、このことを「真実そのものではない」ことを明確にしながらも、

ラストは「摂取」で終わる。。

 

このことを、どう文章にしようかと、ボンヤリと月日に任せ、自然に任せて、今日このことを書く気になって書いています。

「南無阿弥陀仏でお浄土に往って、またお会いしましょう」なんて「浅はかな、誰でもかけそうなストーリー」を親鸞が書いているとしたら、「カシコイ現代人」から見放されて当然だと思いつつ、「真実、真実」と記述してきたけれど、「真実に至るのに必ずしもこの道しかない」わけでもなく、

 

さまざまな「DNAや環境因子」による「多くの変数」があるなかを生きている人間が、100%「南無阿弥陀仏」へ向くはずもないのです。

だから、ここ(化身土文類)で「南無阿弥陀仏がすべてです」なんていうことの方が、「誤り」であると、親鸞さんに言われているようで。。

 

だから「出門」があると言われているように思いつつ読んでいて、親鸞という「仏体」は「偽を摂取するということまでのほんとうに真実を書いている」という「深さや広大さ」「大慈悲」を感じています。

 

ここで「なんでもあり」というような「浅はかな受け取り」をされかねない内容が持つ深さは、「なんでもありではないなかにある、なんでもあり」という「深い意図」を読みきらなければならないからこそ、

これだけ膨大な内容が「化身土文類」に記述されているのだとわかり、この内容こそ「じっくりと読み込まなければならない」と思っています。。

 

 

 

2019/10/03現在‼️

愚禿悲歎述懐和讃から、親鸞さんが「なに」を歎いているのか?

(化身土文類に関連して)

 

親鸞は、この和讃において、占いや迷信などを僧侶や法師という立場の者がやっていて、名誉や利益を求めていることを歎いていると思うのです。

 

つまり、「占いや迷信に迷っているひと」自体ではなく、「それを利用して利益を得ようとする《詐欺坊主》を歎き」そのように「不本意な利益で生きることしか選択できない坊主が生まれていること」を歎いている。

 

まじめに「法を説いても聞いてもらえない、生活に困る」という現代においても、同じように「真宗以外」においては、「お守りやお札」を売ったり、「霊能者を演じてみたり」という「本来仏教ではないこと」で生きている僧侶もいる。

 

また、「それができない真宗において」はどうやって生活を成り立たせようかと「悩んでいる」僧侶が多い状況で、なんとなく「先祖供養」をやってるような。。

 

どうしようかという「現代」においては、、

 

改めて「キッチリ法を生きることしかない」と思えるのです。

 

さまざまな事情で「お寺の法要も減って」布教使に渡す「お礼すら今までのように払えない」という事情もあるなかで、「布教使」や「住職のあり方」が問われているなかで、親鸞さんから「悲歎」されないように「法を生きることを本気でまじめに行なう」ことが重要なのであり、、

 

「どうしたら寺が残れるか」なんていう研修をして「なんらかのテクニックを駆使する」のではなく、「地味に利他ることを(たとえば寺の周辺を掃除することだとしても)行動に示すこと」こそが大事であると思うのです。

 

テキトーな教えを説いて、「みなさん一同でお念仏を申しましょう」なんてムリクリ念仏をさせてみたところで、「坊さんの自己満足」で終わり、一般の現代人からすれば「面倒なこと」だと思われることを「強いている」と気づかない「裸の王様」が「坊さん」だと、、

親鸞さんが歎くようなことをしない方がいいと感じています。。

そして最も「カナメ」は、そうだといっても「仮も偽も」摂取のなか。。

 

つまり「そういう状況」を歎いておられても「批判されている」わけではない。

「どうしてもそういう次元から脱出できない人もいる」けれど、

この事実を「悲歎しても非難や批判して排除するわけではない」という。。

 

すべてが究極の「摂取不捨」のなかに在る!

 

という事実です‼️

 

 

 

 

2019/10/01日現在❣️

ーーー(その5)

真宗の「信心」は「我々凡人(凡夫)」には「真実心」がないから、阿弥陀如来が「真実心(至心)を成就して」わたしに与えてくださっているという「大慈悲」をいただき、、

 

その「真実心」(至心)を「疑いの蓋を無くして、一心に受け入れたところ」(信楽)に、「浄土に生まれようという心が発生する」(欲生)という「至心、信楽、欲生」の「三心」はもともと「阿弥陀如来がわたしに与えてくださった信心」であり、《わたしが作る信心ではない》とされています。

 

ここで、この教えの構造を「自然法爾」という「自然」の「摂理」とした時に、、

「わたしという存在は宇宙の摂理のなかにあり、このすべてが宇宙レベルで平等のなかにある」という摂理を「至心」の真実心によって「目覚めることによって、自我執が破られて」(破我)

 

「そもそもわたしも宇宙の中のイチ(一)であるという事実から、利他の念を持ちつつ、自我を離れて《自然の意思》に従って、泉のように自然に湧き上がる意思《生命の本願》を尊重しながら生きること」で、「自我の殻を破り」いわば「真のオープンマインド」(ひとを疑う心の蓋を無くす)という「信楽」の心になり、、

 

ともに「生命が和合する」という、「浄土」を生きようという「欲生」を行じるものになる。

 

このように「如来の利他力」によって「利他を行じるものになる」ということを深く掘り下げていくと。。

 

阿弥陀如来が「我々凡人に真実心を与え、それを受け入れる」というプロセスのなかで、「破我」(自我滅)という状態になり、「自己満足を追求する生き方が不自然な人為である」と思えるようになって、

「自己を自然に任せる(任運=法爾)」という在り方のなかで「利他を生きるものになるという意思の生命」になっていき、自然に自己の心がオープンマインドになるなかで「心の蓋がなくなり」広大無辺な世界を生きるようになっていきます。

 

このプロセスを「阿弥陀の門に入門して、世俗の門に出門する」と、親鸞が「五念門五果門」であきらかにしているといえます。

 

こうなると「不可思議にさまざまなシンクロナイズ(共時性)が起こって」きます。

ここでいう「シンクロナイズ」は、「遇う」(あう)という「たまたまのご縁」が「利他りあう関係の広がり」を作って行くことを言います。

 

このように「如来界」と「世俗」の網の目のような「世界観」のなかで、広大無辺に「多次元」を生きることができるという「法界縁起」が具体化します。

 

これは、事実起こることです‼️

 

 

ーーー(その4)

 

 

「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」という、

 

枕経「臨終勤行」の時などに唱える文言は、

 

「迷いの境界の中で、恩愛を断つことは難しい」

「けれど、恩を棄てて、無為に入ることこそ、真実の報恩者である」という意味です!

 

ちなみに「なぜ入無為が報恩か?」。。

 

 

「恩は賜わりもの」「報は応じる」の義ですから、「無為という真実をいただいたのだから、世俗の価値(恩愛)を棄てること」が報恩者だということです。

 

 

ーーー(その3)

 

悪人正機説について❣️

 

この「悪人正機」の論は、「仏説無量寿経」の法蔵菩薩という「菩薩」のストーリーに込められている「次元」を論にしたものです。

しかし、あの当時(1173〜1262または1263)に抽象概念を理解できる人はほとんどいなかったために、「論理」ではなく「ストーリー」で説く必要性があり、

「迷いからさとりへ」のプロセスを「観無量寿経」というお経に書かれている「阿闍世(あじゃせ)」という王子が「父王」を殺して「母親」を牢獄に閉じ込めたというストーリーから「解説」しました。

この阿闍世という王子にまつわる話には、「どうしようもない人間の愚かさ」が「演劇の脚本」のように、さまざまな角度から書かれています。

わたしたちは「現代」に生きていますから、「殺人」なんか「むごいこと」だと思いますが、江戸時代やそれ以前に生まれていたら、「首切り」なんて普通のことだと思って生きたかも知れません。

とはいえ「現代」が今後どう変化して「戦争状態」になるかも知れませんし、「サイコパス」の犯罪が増えるかも知れません。

また、「それ以前に心に異常をきたすような情報」によって、「奪い合う傷つけ合う社会」になるかも知れないのです。

いまでも「お金」という武器を持ちたがるひとが、「ひとを騙し追い込み」だれかが「自殺」したとしても、「ひとごと」だと思っている状態は、「普通といえる」のでしょうか?

お金に困っているひとが「餓死」しても「ウワサ話し」で終わらせる神経って「普通」といえるのでしょうか?

わたしたちのなかに、「悪の要素」はいくらでも眠っていると思いませんか?

こういう側面が「慈悲や愛」を邪魔して「限定した自己の範囲」以外で起こっていることを「平気でよそごと」と思えるのは、「脳のキャパ」なのでしょうか?

「自分たちの先祖」は大事に供養して、「他人の先祖」はどうでもいいというような「狭いキャパ」でしかないのでしょうか?

宇宙レベルの「平等感」を説く「仏教」や「神」という世界観の中で全人類を「神の子」として尊ぶことは愚かですか?

人間は「DNAや環境因子」によって、ひとごとや国ごとに大きな思考の違いがありますが、これを均一化することは「不可能に近い」でしょう。

だから「すべての生命を根源的な観点から」同じ「慈悲や愛」によって「理解し合う次元」があったとしたら、それはそういう違いを「受け入れる」という心理を育成することが大きなポイントになるでしょう。

この「受け入れる」という言葉が「南无(ナモ=ナム)」であり「アーメン(その通り)」となっています。

すべての生命は「同じ条件」の場を生きている。つまり「何か変数があると、安定が揺らいで、どういう心理状態になって、なにをするか」は不確定である。

という「事実、真実」を前提に「慈悲や愛」を施して生きるためには「悪心がなぜ起こるか」ということを「犯罪心理」だけではなく「人間が日常と非日常的に、DNAや環境因子によってどうなるのか」を知り、「受け入れること」が重要なのです。

そして「悪心」が起こることは「自己にもある得ること」は「大きなポイント」でもあるのです。

このように「悪を目当てに救うこと」ができたら「すべてを救える」「事前に対処できる」という観点から「悪心」を研究することが「救う、予防する」ためには重要だと、このような論理ではなくて「ストーリー」で説いたのが「悪人正機」という「論」であり、「教え」なのです。

これは「ルシファー」でも同じです。

「人間の悪魔性」を見られているよ!という「目」が「わたし」の「アクマ性」を「抑止する」のです。

 

 

ーーー(その1)

 

五果門が「出門」の理由❣️

 

五果門の「薗林遊戯地門」が「出門」の結論として、「如来の家(宅門、屋門)」から出て「自在に教化する」ということならば、

 

「阿弥陀の世界」から出て、「セクトを出る」ということを意味しているといえるでしょう。

 

十牛図の内容のようなもので、「利他教化」する上で「セクト意識はジャマ」になります。

 

「阿弥陀如来」の世界観に「入門」して、「阿弥陀」から「出て」「如来、菩薩」など、として「教化する」。。

 

ここに「重要な意味」があると思うに至っています。

 

ーーー(その2)

 

Quoraからの「問い」❗️

ブッタは悟りへの瞑想中、憂鬱な気分になって、修行を放棄する気持ちにはならなかったのでしょうか?

 

ーーーーー

 

Teretani Tadamasa さまの回答

 

仏陀には三人の師匠がいたことは有名ですが、どの師匠も弟子の仏陀に教団の後を継いでくれと言って断られています。

 

当たり前なんですが、師匠から様々な教えを受けて、その教団から勝手に去ってしまう、というのはかなりヤバいやつです。

 

はっきり言えば、その当時の教団とは、様々な知識を持った職能集団ですから、勝手に抜けて知識だけを持ち出されてしまうのは大迷惑だったことでしょう。

 

しかも、自分の国の国民を戦争をしないという条件で他国の奴隷として引き渡してしまいます。

 

チョーわがままで身勝手な奴、それが仏陀です。

 

そもそも修行自体が、この世の中が嫌になって始めたんですから。

 

修行自体が憂鬱な気分を何とかするためにやってたわけです。

 

で、それでも、嫌な事(教団の管理)からはいつも逃げ出してしまいます。

 

そりゃ、提婆達多も怒るよ。

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ーーー(わたしの回答)

 

学僧として回答するなら、さきに回答されている、「仏陀は身勝手なヤツ」は適切だと思います。

 

この辺で、「仏教徒は、一度見直すべき重要な提言」をされています。

 

「仏教は一般常識では語れないという重要なこと」を。。

 

歴史的にみると、仏陀は「普通」ではありません。

 

「妻も子どもも親も捨てて、一族を放棄して出家した」というのは、非常識極まりない「身勝手なヤツ」になります。

 

そもそも「生苦」なんて「生まれることの否定」を意味して「生まれることは《苦を生むこと》だ」という思考構造です。

 

ですから、「四苦」を布教で語るうえで「生苦」(生まれること自体が苦を生むことだと)「詳細」に話すことは少なくなっています。

 

現代のように「原典研究」されていなかった時代は「生きることは苦ですね」と語られていたのですが、

 

「生まれる苦」を意味することが明確になっている現代では「言いにくい人間の事実」だからなのです。

 

仏陀は歴史の中で「相当イメージアップされて」来ています。

 

ただ、このように、「仏教の根底をハッキリ語られない」まま来ていますが、いまや「先の回答者さん」の言ってることは「暴論」ではありませんから、

 

事実を元に語れる時代に、暴論のような書きぶりですが、見事に僧侶批判をも意味されていると感じました。

 

それは、「世俗の価値」では、全く理解できない内容が仏教なのに「その本質を語らず、そこを生きる(行じる)こともしないで、綺麗ごとばかり言って、お布施ばかりを考えて来ている僧侶のあり方への提言」だとも理解できるからです。

 

仏教は「無常無我原則」を徹底的に理解して、仏教の「真理性」がわからないと「世間には受け入れられない教え」なのですが、そこを生きていないで、世俗に埋没していると語れないのです。

 

基本的な仏教は、「自我は、宇宙や自然の動きと人間は変わらない」という「大原則」があるという意味です。

 

「世俗の人間の非真理性」を明確にしているのです。

 

仏陀は「自我にとらわれて、所有にとらわれて、家系は大事にするけれど、世界規模の他人はどうでもいい」という人間の「欺瞞」への提言から始まっているのです。

 

だからといって「〇〇主義反対!」という「主張」ももちません、ただ在るのみなので出家者(マジ仏陀ファン)」以外の在家者には「対機説法」していますが、

 

「原典研究」においては「かなりな非常識」を「ダイレクトに出家者に説いて」います。

 

親鸞の「教行証文類」にも「迦葉菩薩が仏陀」に、「あなたの息子は、出家しても地獄に落ちるようなことをしているのに、なぜ出家させたのか?」という問いに、

 

「あの子はわたしの次に王位を継ぐ人材だから、もしあの子が王位を継ぐと仏教グループを壊すようなロクなことをしないとわかっているから」というようなやりとりがあります、親の愛情など微塵もありません!

 

また「親鸞は父母のために供養はしない」という意味も書かれていて、「狭い人間世界の愚かな自我」に向けて「袈裟斬り」するような内容が頻繁しますが、

 

布教者は、「父母に限らず輪廻の中で、どこかでみんなが父母兄弟だったからという意味です」とごまかして論じますが、この後半の説明部分は「歎異抄」という「弟子の創作」ですから「親鸞の真意」は「著書」である「教行証文類」から読み込まなければ、深い意味が明確になりません。

 

「父母という概念は、生命の流れにおける存在」でしかなく、「生苦」の元でしかないということです。

 

また「ほかの祖師や傑僧もけっこう常識はずれなことを書いています」が、一般に向けては「語られない」のが普通です。

 

このような「仏陀の論理構造」では、とても「受け入れがたい」というところから生まれたのが「大乗仏教」です。

 

これは「そもそも人間の自我が問題だから、利他教化することで《自我を離れて》他についても同じように《自我を離れること》を説き、《無我の和合体》を作ろう」という論です。

 

仏教が「出世間と世間を止揚するにはうまくできた論理の展開」です。

 

しかしこの論理の根底を知らないひとに「ここだけをいう」と権力者や「くだらない指導者(教祖的なひと)」に「思想を利用される」ことになります。

 

「お前たちは、自我を捨てなければならない」だから「わたしのいうことを聞け!」というパターンです。

 

また、江戸時代には「こういう自然論」(人権以上の宇宙レベルな平等論)が説かれることは、「封建制度」に都合が悪いため「中国製の偽経」によって、

 

「感謝」が強調されて「目上に感謝」という「儒教を仏教として説くように命じられたため」このような「教え」が「仏教だと誤解されたまま」今に至っています。

 

「仏陀の、世間では理解されないであろう真理の達観」を「世俗と折衷する形式で生まれた」「大乗仏教の根底にある《仏陀の論理構造》」を現代人は理解して、

 

「ファンタジーではない、綺麗ごとではない仏教」を語り合える時代になっているのに、僧侶が「この重要ポイント」を「遠回しにいってみたり、そもそも僧侶もわかっていない」。。

 

だから「説けない」ということになっていて、「一般の方で、突き詰めて仏教を学んでおられる方」のほうが「量子物理学」などと同じ原則なので、よほど理解しておられることも多いのです。

 

また「この原則から不確定性原理」と同じ原則を見出せるなら「多次元世界」も理解できて、「浄土」と言った論が、「浄土という場所」を意味しているのではなく、

 

「浄土が多次元、出世間の高次元」を意味していることがわかるはずなのですが、未だに「死んだら浄土に行きます」なんて「世間から見ても仏陀以上に身勝手な教えに貶めている」と「論理的」に見るひとには思えるのでしょう。(親鸞の時点ですでにそのように書かれているのに読み込めていないのでしょう)

 

「仏教離れ」はこういう根源的な部分にもあります。

 

「身勝手なヤツ」に見える「仏陀の根底的な大前提は真理性」に根拠があるからです。

 

ここを「先の回答者さま」が言っているのではないかと思います。

 

また、この不確定性や多次元が理解できれば、キリスト教との合理性も理解できるのです。

 

先の回答者さまは「明確な指摘をされて」います!

 

閲覧数: 5件 · 高評価した人を見る · はらだ よしひろ (Harada Yoshihiro)さんがリクエストした回答

 

【ポイント】

 

「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」という、

 

枕経「臨終勤行」の時などに唱える文言は、

 

「迷いの境界の中で、恩愛を断つことは難しい」

「けれど、恩を棄てて、無為に入ることこそ、真実の報恩者である」という意味であり、

 

先の「回答」そのものです‼️

 

 

ーーーーー📖

 

 

2019/09/13日時点❣️

 

「迷信の次元」から「さとり(破我の和合)や友愛の次元へ」

 

悩んでいることを「霊のせい」「運気のせい」として、「拝み屋さんに拝んでもらう」「運気が上がるようなことをする」というのも「知恵」であると言えます。

 

しかしこのような知恵は「次元(ものの観点)が低いという事実があるため」根本解決にもならず、人間としての「生命の発展」にもなりません。

 

そこで「世界人類的に、より意味があり、人間的に成長できる智慧という次元から」わたしを「その次元に引き上げる教え」が「仏教やキリスト教」のような「高次元な教え」だということです。

 

これまでの「過去」の次元から、さらに「高次元」を観察できるようになって、「さらに高次元な未来を描くようになり」その「未だ来していない《未来》」が「現に在する《現在》」になる。

 

これが「過去、未来、現在」の「二法更迭」という「仏教の時間論」と「次元論」から「さとり」や「友愛」の次元に導かれるという「高次元の宗教」が教えていることであり、

 

わたしにおいて「すべてが如来」と「功徳荘厳」を「観察」できる「法(システムとその教え)」であるということです。

 

こういう世の中や人間を「多くのorさまざまな観点から」観ていくことを教えている「宗教」同士は「理解し合える」ということになるのでしょう❣️

 

親鸞が「教行証文類」のラストに「すべてを摂取する」という引用で「結ばれている理由」がこのようなことを意味している。

と、さらに学びを深くさせていただきました。

あくまでも「今日までの学びの区切り」ですから、まだ書き続けます❣️

ーーー(さらに)

仏教経典は「どうにでも理解できる」と思われる「記述」が多いため、親鸞は「読み換え」ができたのです。

 

「至心回向」を「至心に回向して」を「至心に回向したまへり」と「至心を回向する」から「至心が回向されている」という主語を「わたし」から「如来」に180度換えられたのです。

 

そこで、より次元の高い解釈が生まれたのです。

 

阿弥陀経に「西方世界有《無量寿仏》。。」とあるこの「無量寿仏は阿弥陀如来かどうか?」という議論がありますが、これも「別とも同じ」ともいえます。

 

キリスト教でも、「聖書」は「神のことば」とするか「あくまでも神のことばを預かった者(預言者)のことば」とするかによって、扱いが変わります。

 

いずれにせよ、どう読むほうが「次元が上がるのか」という観点で解釈すべきであると言えるため、解釈が「正しいかどうか」という読み方よりも「より高次元かどうか」という方が適切な読み方といえます。