📕講矩補足その2📖2019/01/12(86)たで

 ã€æ•™è¡ŒèšŒæ–‡é¡žè¬›çŸ©è£œè¶³ã€‘も分割したす。

 

『泚意』

本線で「本願寺出版瀟」の《珟代語蚳》を「教行蚌文類」の解釈ずしおの䜿甚には䞍適切ず刀断しお、ほずんど䜿甚しおいないこずを泚蚘しおおきたす。

おおかたの理解䞀助にはなるでしょうが、郚分的に恣意的たたは蚳者の解釈が含たれおいるずいう理由です。

 

🔎教行蚌文類講矩その2

https://r.goope.jp/sainenji/free/kyougyou2

🙆‍♀関西颚仏教解説

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase

🔵補足その

https://r.goope.jp/sainenji/free/hodoku

💮補足その

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku3

 

✎💫最䞋からスタヌトしお順々に䞊に行きたす❣

 

ヌヌヌヌヌヌ

 

86、仏教は進化する

 

仏教は「絶察神」を説いおいるわけじゃありたせん

「法」ずいう真理に基づく「苊悩を陀く法」を説いおいるのです。

 

ですから、「時代や察象(時機)」に応じお、衚珟は倉化しお圓然です。。

 

教行蚌文類すら、「珟代にずっおは」衚珟が理解しづらいずいうのは仕方がないこずです。

ですから芪鞞さん自身も「方䟿」だずしお、「阿匥陀劂来の教え」を曞いおいるのでしょう。

 

教行蚌文類を絶察的なものずずらえるず、仏教ではなくなるず思うのです。

繰り返したすが「絶察神」や「絶察劂来」はないのです。

 

あるのは「絶察の法」だけなのです

 

 

 

 

 

85、「さずっおどないなんねん」

 

珟代ではこんな颚に蚀われるこずが「たたありたすねん」けど、

「さずりを生きるこずで《マゞ楜になるし、仏の智慧》で、《䞖の䞭や人間の本質》が芋えお、いろいろなこずに”どう察凊したらいいか"っおいうようなこずもわかる」ようになりたすし、

ホンマもんの「仲間たち」ができるず、「䞍安にたみれお生きるこず」も消えおいきたすねん。

 

真宗ばっか芋おるずそんなこずが芋えぞんかもしれたぞんけど、

Aの知人(仏教の仲間)に「日蓮宗」の「䞭玙賢孝日梵」っお人がいお、おんなじ「ナカガミ」ですねんけど、「ペヌパヌナカガミ」さんっおいうおたす

 

この人の掻動ずか芋おるず「愉快な仲間たち」っおいう「檀家さん」含めおすばらしい掻動をしおはりたす。

これを「日蓮宗」なんかでは「倧乗菩薩道」っおキッチリ定矩しおはるから、行動にではりたすにゃろ

 

真宗に「菩薩道」っおいう定矩がないんじゃなくっお、「菩提心」「五念門五果門行」を捚おお、

「名号のひずりばたらき」っお、「江戞幕府に骚抜きにされたんです」

「蓮劂さんが䜕もしないで」こんなに広がったのではないのですから。。

 

 

 

 

84、自力ず他力

 

よく「阿匥陀さたにおたかせしおお浄土に行く《名号のひずりばたらき》を他力」ずかっお蚀いたすが、教行蚌文類を真仏土文類たで読めば、

《「私」が救われたい》っおいう「私」が残るものは、すべお「自力」に定矩されお、

《救われたい「私」》が消滅する方向に生かされるのを「他力」っお定矩されおたす❣

☆「無垞無我空原則」に向かわぞんもんは「䞖俗の持ち越し」やし「仏教やない」んです❣

 

そういう意味で歎異抄第条を読むなら、「地獄は䞀定すみか」っおいうのも玍埗行くんですけど。。

 

そのあずの「そのゆえは。。」からはいただけない文章で、「唯円向け」なら「そのレベルなんや」っおわかりたすけどね〜

「念仏しお地獄におちたら埌悔もするやろうけど」っお

「埌悔するんかい」っお突っ蟌んでたいたすわ。。

832ペヌゞ(二)の行目に「たた法文をもしりたるらん。。」っお、

「知っずるやないかい」っおここもツッコミどころですねん

同、埌ろ行目には、「念仏は、たこずに浄土に生るるたねにおや。。。総じおもっお存知せざるなり」っお、「教行蚌文類」はどうしたんや

「総じおもっおよう知っずるやんけ」っお、もう歎異抄は「唯円向け」以倖のなにものでもない。

 

ツッコミどころ満茉ですねん❣

 

 

 

 

 

83、確かお東の「金子倧栄氏」(昭和の先生)は。。

 

元華厳孊者だったず思いたす。

せやし、意倖ずわかりやすいっお珟代人にも蚀われおたしおん。。

Amazonずかであれば読たれるずいいでしょう

 

 

82、西方っお

 

なんで西なのか

「倪陜が沈むからっおいう」話しが通垞ですが、

そもそも東西っおいう、「方向」をあの時代に「どう確定したのか

 

たぁ興味があれば探っおください。。

 

圓時「むンドから芋お東はオリ゚ンタル(ä¿—äž–é–“)、西は静かな(出䞖間)」っお蚀われおいたっおいう説もありたす

 

 

叀代オリ゚ンタル

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/叀代オリ゚ント

オリ゚ンタル

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/オリ゚ンタル

 

 

 

 

81、十界互具ず阿闍䞖(アゞャセ)

 

阿闍䞖さんは「芳経」では、極悪人扱いのようですけど、キッチリ回心(えしん)しおはりたす

ただここでこの極悪人にも、功埳荘厳を芳るっおいうのんが、

 

十界互具の「地獄」の䞭にも、「仏を芳る」っおいうこずに同じやんなぁっお思いたす

 

「功埳荘厳」は、「いいこずばかり」に向けられおはいないっおこずです

 

 

 

 

80、般舟䞉昧の「家」っお。。

 

このたずえは、家が「仏の䞖界」っお、誀解しそうですねん

そうやなくお、般舟䞉昧そのものが家なんです。

 

だから般舟䞉昧が父っおこずになるんですが、

これは「般舟䞉昧っおいう悟る方法」を「ブッダの倧慈悲心が教えた」ず読たなきゃ間違うんです

 

ここにある「男女」の理解には問題がないずは蚀えたせんけど。。

 

 

 

 

 

79、号がなんで利他か

 

単玔ですねんけど、重芁なポむントでっせ

 

名字は、真実の「自我名字」の転換名。。

諞仏称名による回向発願

 

名号の「号」は、方䟿の「喚ぶ」っおこずで、

号は方䟿ストヌリヌで、阿匥陀仏が招ぶ(招き喚ぶ)。

 

真実に眮き換えるず五果門の薗林遊戯地門になりたすねん

 

方䟿ストヌリヌでは、二河癜道にあるように、「発遣ず招喚」に寄っおお、

諞仏称名がほがないのんです

 

 

 

 

 

78、名字の入れ換えず五念門行

 

本線の「行文類」には、真実行の「称無碍光劂来名」による「五念門行」は、「俗諊」による行ですねんけど、

「方䟿による」称名っおいう「名字の入れ換え」による「砎我」によっお行じる内容は、

結果同じになりたすねんけど。。

ダむレクトに「無碍光」っおいう「法界瞁起」を芋お生きるっおいう、「五念門行」はより内容が「具䜓的」やっおいうこずなんです

 

たぁ「浄土教的」には、「讃嘆門」を䞭心に、五念門行をしたらいいねんから、

あえお「なんたんだぶ」っおいうお生きやんでも、称讃するっおいう「仏道を語っおいけばいい」っお蚀えたんねん。。

 

せやし、枅沢満之さんなんかはあんたり「称名」しはらぞんかったっお聞いおたす

 

 

 

 

77、自我ず自己そしお自分

 

この講矩で、よく「自我」っお曞いおたすけど、

これは、ほが䜜られたあなたのこずです。

 

あなたはなぜそんなに「自我をはる」んでっしゃろ。。

コンプレックス、反発、情報操䜜に乗っおる、だれかの圱響、教育、䟡倀芳、掗脳、DNA。。

いろいろありたすにゃろけんど。。

 

「倚分それは玔粋なあなたじゃない」

「赀ちゃんは0才から1才たでに、脳の䞭でおおくの情報を取り入れお、どのデヌタを削陀するか決める」っお蚀いたすねんけど、

それは人生党般においおほが無意識にしおいるこずですねん

 

そこで以前も曞きたしたけど、「防衛機制」がはたらきたすから、「玔粋ないのちのすがた」やないんです。

https://cocoronokokuban.jimdo.com/防衛機制/

https://cocoronokokuban.jimdo.com/自我状態/

 

 

こういう「圢成された自我」が問題を起こしたすねん

 

ここで、「実盞」ずしお「自我を芋た」ずきには、「自然のなかの瞁起生」だっおわかるず。。

「自利利他の自」これを「自己」っお蚀いたすねやろ。。

しかしこの時点で、「自我を砎我」されおいたすねん

 

そしお「法界瞁起」で倚くの存圚のなかで、私が「自利利他する堎」はここなんだろうっお、

「自己の分限」を生きる「自己」を「自分」っお蚀いたすねん

 

しかし、自己も自分も「真劂」の流れだっお、「無垞無我空」の真実を生きお、自他共に「真楜」になるこずが䞭心になるんです。。

 

「仏ず凡倫」が「自己」に共存しお、「仏が䞻䜓で凡倫は客䜓」っおいう状態でおたすねん

 

☆こういう操䜜もある⁉

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75、76に぀いおは「関西颚仏教解説」に簡朔にしおいたす。

そもそもWiki由来ですから「完党に正確であるずは蚀いにくいので、関西颚の方がいいかもです」

 

76、華厳経の教え

 

䞭囜倩台宗の智顗の芋解では、この経兞は釈迊の悟りの内容を瀺しおいるずいい、「ノァむロヌチャナ・ブッダ」ずいう仏が本尊ずしお瀺されおいる。「ノァむロヌチャナ・ブッダ」を、「倪陜の茝きの仏」ず蚳し、「毘盧舎那仏」ず音写される。毘盧舎那仏は、真蚀宗の本尊たる倧日劂来ず同䞀の仏である。

華厳経にも、劂来蔵思想に぀ながる発想が展開されおいる[6]。

陜光である毘盧舎那仏の智圗の光は、すべおの衆生を照らしお衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされおいる。これを「䞀即䞀切・䞀切即䞀」ずあらわし、「あらゆるものは無瞁の関係性瞁によっお成り立っおいる」こずで、これを法界瞁起ず呌ぶ。

「六十華厳」の䞭で特に重芁なのは、最も叀局に属する「十地品」[7]ず「入法界品」の章ずされおいる。

  • 「十地品」には、菩薩が螏み行なうべき十段階の修行が瀺されおいお、そのうち六番目たでは自利の修行が説かれ、䞃番目から十番目たでが利他行が説かれおいる。
  • 「入法界品」には、善財童子ぜんざいどうじずいう少幎が、人生を知り尜くした53人の人々を蚪ねお、悟りぞの道を远究する物語[8]が述べられおいる。

隋の智顗は五時八教の教盞刀釈で、華厳経を釈迊が成道埌たもなく悟りの内容を分かり易くせずにそのたた説いた経兞で粗削りの教えであるずした。 唐の法蔵は『華厳五教章』においお、五教十宗刀の教盞刀釈を行い、華厳の教えを最高ずしおいる。

(Wiki由来)

 

 

 

 

 

75、涅槃経の教え

 

倧乗涅槃経の基本的教理は、

  1. 劂来垞䜏にょらいじょうじゅう
  2. 䞀切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうし぀うぶっしょう
  3. 垞楜我浄じょうらくがじょう
  4. 䞀闡提成仏いっせんだいじょうぶ぀

以䞊の4぀を柱ずしお芁玄される。『涅槃経』は、釈迊の入滅ずいう初期仏教の涅槃経兞ず同じ堎面を舞台にずり、たた諞行無垞ずいう仏教の基本的理念を螏たえながら、劂来の般涅槃は぀ねはんは方䟿であり、実は劂来は垞䜏で䞍倉だずしお、劂来の法身ほっしんの䞍滅性を䞻匵する。たた劂来仏は涅槃の教法法を説く教団僧ず共に䞀䜓で垞䜏し䞍倉である䞉宝䞀䜓垞䜏䞍倉ず説き、その埳性を垞楜我浄の四波矅蜜涅槃の四埳ずもいうに芋いだし、「䞀切衆生はこずごずく仏性を有する」䞀切衆生悉有仏性ず宣蚀する。この経は、『法華経』の䞀乗思想を継承し぀぀、仏性思想によっおそれを発展させた。この仏性は、別の経兞では劂来蔵ずもいう。

なお「䞀切衆生悉有仏性」は、近代の倧乗仏教においお衆生぀たり人間以倖の山川草朚や動物などすべおにおいお仏性があるずいう解釈から「䞀切悉有仏性」ずも蚀われるようになった。

たた、『法華経』よりも、倧乗の仏法を誹謗するものに察しお厳しい姿勢をずり、これを䞀闡堀欲望よりなる者、の意ず呌び、仏の教えでも救い難く仏ずなる可胜性をもたないずする。しかし、埌の増広郚分法顕蚳にない北本の第11巻以䞋ではその䞻匵を緩和し、方䟿説ずしお、闡提にも仏性はあり成仏できる可胜性はあるずする。

なお、この劂来垞䜏や垞楜我浄は、釈迊仏が衆生の機根にあわせお教えを説いた仏教の段階的説法の最終圢ずいえる。

すなわち釈迊仏がむンドにおいお出䞖した時、人間はみなこの䞖が続くものず思っおいお、快楜にふけり、我の匷い自分勝手な人が倚く、穢れた䞖界であるずしお、人間の䞖界を吊定し無垞・苊・無我・䞍浄ず説いおきた。

たたそれが諞行無垞ずいう仏教の基本的理念ずなっおいる。

しかし人間の䞖界は無垞・苊・無我・䞍浄であるが、劂来ずその法や䞖界こそ氞遠である劂来垞䜏や垞楜我浄ず『涅槃経』では説いた。

たた同じく闡提成仏も、それたで仏教では、仏教を吊定する闡提は成仏しがたい者であるずしおいたが、『涅槃経』にいたっおは闡提であっおも仏性は有しおいるから成仏する可胜性はある北本の第11巻以䞋ずする。

したがっお『涅槃経』は、段階的に教えを説くずいう仏教の埓来のスタむルに則り぀぀、その最終的な教理を展開したものである。

(Wiki由来)

 

 

 

 

74、高尚な阿匥陀様

 

そもそも教え方が間違っおる。

 

仏教は「さずりずいう高尚な䞖界」ぞ行くためのハヌドルを教えおいるっお思っおたせんか

 

さずりっおのは「完党に苊から解攟された状態」です。

むちゃくちゃ「ラッキヌな状態になれる矎味しい話」です。

 

阿匥陀様のお慈悲がずか、菩薩道ずか「行」だずかいうず、なんだか難しい高尚な䞖界だねぇっお思っおたうでしょ。

 

ちゃいたんねん

 

勇気出しお䞀歩螏み出しおみやんせ

「ほ〜ら、広くっお爜快な䞖界が芋えるでしょ」っおこずなんです

 

ビンに入っおるアメ玉぀かんで握っお「ビンから手が出せぞん」っおいっおる人に、

「ずりあえずアメ玉離しお手を広げおごらん」っおいっおるのず同じですねん

 

握っおたら安心なんじゃなくっお、離しおごらんもっず楜になるからっおいう誘いなんです。

このスタヌトラむンから間違うからわからなくなるんです。

スタヌトを少し間違うず100メヌトル行ったら倧間違いになるんです。

 

たずはここをしっかり抑えたしょ❣

 

 

 

 

 

73、ただただ難しいっおいう方ぞ

 

ここたでに教行蚌文類の読み方に぀いお曞いおきたした。

けど、今日「ただただ難しいです」っおいうご意芋がありたした。

じゃあむちゃくちゃひらべったく曞いおみたす。

 

マゞちょっず颚邪ひいたんか「熱」があるんで、文章がおかしくなるかもですけど。。

 

ずりあえず、仏教っおいうのは、「苊しみからの解攟」はどないしたらええか、

っおいうテクニックのなかでも「究極のテクニック」を教えおいたす。

 

けど、なんせ「文章が叀い」から、叀兞文孊や叀い時代の本を読んだこずのない人にしおみれば、

サッパリわからぞんのは「圓たり前」です。

 

そのうえ「専門曞」ですから、「専門甚語ず専門的な蚀い回し」がわからないず、たったくチンプンカンプンです。

 

そのおん「埡文章ずか歎異抄」はひらがながあるし、読むひずは専門家じゃないっおいう前提で曞かれおいるから、ずっ぀きやすいけど、「基本」がわからないたた読んでも結局「ミス」りたす。

 

䟋えば「自分はガンじゃないか」っお思い぀぀、医孊の知識がないのに「家庭の医孊曞」ずか読んでるず「そうそう、曞いおあるこずが圓おはたる」っお思っおしたい、

「マゞガンだ」ず思い蟌みはじめお、医者に行っお怜査受けお医者から「倧䞈倫です」っおいわれるず、ずたんに症状が消え去る。

 

こんな感じになりたす。

 

ずいうか、「症状が消え去るような教え」を教えおくれる「教行蚌文類」ずいう医者のいっおるこずがわからないずいう状況だから、めんどうなんです。

 

家庭の医孊曞を読んで、「そうやねんこの症状の通りやねん」っおおもい、どこの医者に行っおも「わかりたせんねぇ」っおいわれおいるような状態なんです。

「そもそも医孊曞の重芁な曞物がわからない」

「重芁な医孊曞を読み間違えおいる」医者ばかりだからなのです。

 

これが「《倖科手術に関する本》なら生死に関わるおおごず」です。

 

坊さんが「ホントにご門埒さんが地獄に行く」ず思うなら、「倖科手術以䞊に責任重倧」です

 

ずりあえず医孊曞を読むなら、きっちりず「基本」から孊ばなきゃいけない。

でも「真宗」を孊がうずするず、けっきょく「埡文章や歎異抄」になっおしたう。

 

医者になるのに「家庭の医孊曞」じゃあ医者にはなれない。。

じゃあ的確な専門曞はっおいうず「教行蚌文類」になる。

 

けどいきなり「小孊校1幎生」が教科曞ずしお、倧孊の医孊郚のテキストを枡されるようなもの。

「うわぁ」「難しい」っおなる。

けど、これしかない。

 

じゃあ「小孊生」だけど「倧孊の専門曞」を読んだろやないか

マゞマゞの小孊生じゃない。

ええ倧人やねんし。。

 

ずいうこずで、みなさんずどこたで咀嚌(そしゃく)できるか「チョヌセンしたろ」っおいう詊みが、この講矩なんで、こうやっおみなさんのお声にお応えしお、

どんどん結び目をほどいおいるんです。

 

◎ずにかく「苊しみからの究極的解攟に぀いおのテクニック」を知る

「ラッキヌな曞物」が「教行蚌文類」なんです。

 

けっしお「うやうやしく、足を向けおはいけない的」な本じゃあない

「気軜に読んだらいい」けど、昔の人は「うやうやしいもんだ」ず教えられおきた。

それは、䞖の䞭が偉い人䞭心の䞖の䞭だったから、

「平等」なんおずんでもない‌

 

そんな時代が昭和20幎たで続き、今でもそんなこずをいう人がいる。

「いい意味でセンパむを敬う」ならわかるけど「ずにかくセンパむを敬え」なんおいわれおもねぇ。。

 

「仏様を敬いなさい」っおいわれおも「なんで」っおなる。

「なんでもいいからずにかく敬いなさい」なんお戊埌70幎すぎおお、「わからぞん」っおなるのは圓然のこずでしょ。。

 

こんだけ時代が進んでお、「仏教の本質」じゃあなくっお「枝葉末端(えだは)」ばっかり聞かされお、

「ずにかく敬え」っお、「知らんやんそんなん」っおなる。

 

「どんだけの䟡倀があるねん」っおいっおも「極楜に行けるねん」っお。。

「死んだらしたいやんか」「茪廻(りんね)っおあらぞんし。。」っお思う人がほずんど。。

 

「怪奇珟象」はあるかもしれんけど、「ほがほが極楜なんかないやろ」っお、「お坊さんもホンネはそう思っおるやろ」っお虚食は芋抜かれおいる。

 

「極楜があるっお思っお、死んでもたた䌚えるっお思う方がいいでしょ」なんおいっおも、

「たぁ倩囜で䌚えるっお感じで思うか、生たれ倉わっおも䌚おうねっお感じで思っおるし。。」

っおいうず、坊さんは「いやいや、倩囜や来䞖ではなくお、お浄土です。」っお、

「別にどこでもええやんか。」

死んでから先どうなるかなんおわからぞんねんし、「奜きにさせお」っお誰かの蚀葉みたいだけど。。

 

「なんでお浄土じゃないずあかんの」

「おさずりの䞖界だから」。。。「ぞぇ《おさずりの䞖界》っお」

「それは、人間界を超えお迷いを離れお云々カンヌン」。。。「意味わからぞん」

 

ずにかく「阿匥陀様のおはたらきで。。。」

「阿匥陀様おはたらき」なにそれ。

 

「阿匥陀様は私たちが地獄に行かないように働いおくださっおいたす。。。」

「だれそれ」「地獄っお今が地獄やん」「働くっお《どんな仕事》しおはるん」

 

「もうわけわからんし、どうでもいい。」

 

たぁおよそ珟代の人ならそんな感じでしょう

 

話をしおいる「お坊さん」が「わかっおない」のだから。。

「わたしは阿匥陀様のおいわれはよく孊びたした。」

「ありがたいこずです」。。。

 

「だから、そういっおる時点でわかっおないねん」

「悊に入っおるだけ」「自己満」「勘違い」「時代錯誀」「マむンドコントロヌル」

「だれのおかげでメシ食べおるの」

 

お垃斜もらう䟡倀を提䟛しおるの

「法斜しおたす」っお、「そもそも䌝わっおない」「そもそも蚀っおるこずがぞん」だず思えおいない。

たずは、そこを「認めたしょう」よ

 

いやいや「聎聞、聎聞」「聞けばわかる」「わからないのが仏の䞖界」

「もう。。坊さんなにいうずんねん」

 

そう思われおいる䞭で、「究極の苊しみからの解攟」テキストを孊びたしょう。

そういう原点からの孊びです。

 

今日はこのぞんで。。(熱あるんで倱瀌したす)

 

しばらくむちゃくちゃ砕いお「さらっず倧たかに」

教行蚌文類に曞かれおいる「苊からの解攟テクニック」をこのたた曞いおいきたすね。

幎内は。。。

 

 

 

 

 

 

72、「信行䞡座」っおそもそも蚭定をミスっおたした。

 

念仏の重芁ポむントは「称える行なのか」、「本願を聞くこずでいただく信」なのかずいう問答が「埡䌝抄」などにありたす。

これはそもそも蚭定がおかしいのです。

「行」ず「信」は察立抂念ではないのです。

「行」に内圚するこずを分析したのです。

芪鞞は、悟りぞのポむントが「信」にあったこずを、「発芋」したずいうこずです。

 

それたで、悟りぞのプロセスは、教行蚌だず思い蟌んでいた仏教者の䞭で、

「法然門䞋」に事実、《菩薩道》があり、「なぜ念仏でそうなるのか」ず

考えたずころに「浮かんできた」のが「心の転換」ずいう「信」であったのでしょう。

であれば、《これは無意識の意識化》ですから、

 

「行」がポむントか「信」がポむントかずいう議論そのものに぀いお、

ほが「芪鞞が䜕を蚀っおいるのか」わからない人も倚かったでしょう。

《珟代でも》

 

「発芋」や「無意識の意識化」ずいう蚀語や抂念がない時代ですから衚珟に限界があったのです。

 

ここにある問題点は、「行」の内容を《分析しお蚀語化する》ずいう抂念がない時代、

《無意識》や《脳内デヌタ》を「無衚色(業)」ずいうような〈曖昧な蚀語〉で理解しおいる時代に、

 

「心に䜕かが起こっお、凡倫が菩薩道を歩むようになった。」

「そのキッカケが〈念仏行〉だった」ずいうこずを分析しお、《心の転換ずいうプロセスを発芋した》芪鞞が、それを「信」に定矩しお、䞀生懞呜に「真実や方䟿」を論じお理解をうながしおいる。

 

しかし理解されない。

 

結果、珟代のように「蚀語化する」「無意識の意識化」などずいった「抂念がない」こずが、

「わかりにくい状態を䜜っおしたった」のだず掚察できたす。

 

《時代による衚珟の限界》ずいうこずです。

 

芪鞞は「行」ず「信」を察立させたのではなく、《「行」に内圚するできごず(心理状態)を分析しお論じた》のです。

 

だから「行文類」の䞭に「信」を論じ、教行蚌の間に「信」を入れたのでしょう。

「賜わりたる信心だからなにもしなくおいい」のではなく、

「賜わりたる信心(行)だからこそ、わたしが倉化する」のです。

 

信心に「出䜓釈」がない以䞊、「行信」を分離しお論じるこずは䞍可胜なこずになるのです。

教行蚌の「行信」だず理解しなければ、理解䞍胜になりたす。

 

 

 

71、【改蚂】死んだら諞仏になる

 

今日たたたた友人の家族のお通倜に参拝したのですが、

お導垫が同じ真宗でありながら、法話のなかで、

「亡くなったこの〇〇さんも今は諞仏になられお阿匥陀さたず䞀緒に云々」ずお話を結ばれたした。

 

じ぀はこのこずは意倖によく「問われる」疑問です

 

普通に「浄土教」を解釈するず、基本「経兞通り」なら、

「浄土ずいう環境の良いずころで修行しお、もう䞀回生たれ倉わっお成仏するずいうプロセスが確定するこずを埀生」ず定矩されたす。

 

だから芪鞞以前は、「浄土埀生しおから正定聚䞍退転」になる。

ずなりたす。

 

だから四十八願の第二願に「囜䞭の人倩が呜終わっおのち。。。」ずか、経兞に「浄土で䞀生補凊しお成仏する」などずいう蚘述があるわけですが、

これを芪鞞が珟生にもっおきた❣

 

ここが重芁なんです。

 

ここにも《埀生を珟生》ずしなければならない理由がありたす。

 

぀たりは芪鞞の《真実論》でいけば、【蚌文類】の「䞀劂なり、真劂なり」の意味が明確になりたす。

 

阿匥陀劂来の(芪)が「般舟䞉昧を父ずしお、倧悲を母ず」である前提で、

子どもである「阿匥陀劂来」の根源ず「私たちのいのちが同じになる」こずが《蚌文類》で明確になるのです。

 

そしおその《䞀劂》のいのちが「阿匥陀劂来になろうず、諞仏になろうず、還盞回向の菩薩になろうず、倉化身になろうず自圚」であるずいう流れが明確です。

 

だからこの「埀生」のポむントを珟生に移動させるロゞック(論理)が「信心」になりたす。

 

このいたたでの《教行蚌》にはなかった《信》をプロセスに加えるこずで、それが成立するこずを発芋した芪鞞にずっお、

「信文類」が必芁になったのだず掚論できたす。

 

しかしこれは「䜓」がない、「行」に内圚する〈プロセス〉でしかありたせん。

 

信心によっお「思考」が「わたし」の思考ではなく、「仏の思考」に転じられるず蚀っおいるのです。

結果、「自我」を「砎我」される《方向転換》が行われるのです。

これを《埀生即成仏》ずしお、「珟生」に起こる「䞍退転の菩薩道」(法蔵菩薩ず同じ)に定矩したのでしょう。

 

「仏願」を生きる指針にしお「仏の行じたもうこずを行じるのだ」ずいわれるのも、このこずです。

 

「方䟿(月を指す指)」ばかり芋おいるず「蚌文類」は阿匥陀さたの䞖界のこずが曞かれおいるずいう解釈になっお、ほが「情の人の話」になりたす。(論は無関係になりたす)

 

぀たりは単なるファンタゞヌになっおしたい、「還盞回向」が説かれおいるずいう皋床の理解になっおしたいたす。

 

 

しかし「真劂」ずいう「根源」

 

これが教行蚌文類に䞀貫した根拠になりたす。

「真実功埳」などの文蚀であらわされおいる、䞀切の根源になる「真劂」こそが、

教行蚌文類に䞀貫する「さずり」になるのです。

 

このポむントがすべおです。

 

教行蚌文類は、このポむントを基本にしお、

 

①難しい文蚀は「蟞曞」を匕くか「ネット」で調べお考える。

②「真実ず方䟿ずがマルチタスクしおいる」ずいうポむントを仕分けお読む。

 

このようによめばスムヌズにすべおが䞀貫するず、

③このたび「既成抂念」なしで読んでいお、わかった重芁なこずです

 

たたもうひず぀「読み方」に぀いお、

 

④「経兞を䞉郚経(異蚳含む)ず、「それ以倖の経兞」に分ける。

⑀「韍暹、倩芪、曇鞞」の匕甚ず「それ以倖の論」ず「道綜、善導、源信、源空」のおおたかに3皮類に分ける。

⑥「曇鞞ず道綜」は真実に誘導する方䟿だずいう「前提」でよむ。

☆④ず⑀の「それ以倖」ず⑥は真実(真劂)ず善巧方䟿(阿匥陀劂来)》の接着剀であるず読み蟌むずよくわかりたす。

善導からは「ほが方䟿」だずしお読む。

 

そしお「無碍光劂来」は真実をあらわす「方䟿以前の《蚀語化》」いわゆる、「真俗二諊(しんぞくにたい)」の「俗諊」だず蚀えたす。

 

぀たり仕分けに段階があっお、

 

第1段階→「無生」や「空」などであらわされる「いろもかたちもないこずばも絶えた」ず芪鞞がいっおいる「真劂そのものをあらわすポむント」(真諊)

たずえば、匕力や重力などは芋えないけれど、そういう「法」があるずいう状態。

 

第2段階→「無碍光劂来」「五念門」などの真劂そのものを蚀語化しおいるポむント。(ä¿—è«Š)

たずえば、第1段階を「匕力ずいい重力の法則」ず数匏化した専門的な衚珟をした状態。

 

第3段階→「浄土の荘厳や阿匥陀劂来」ずいう、真劂の〈善巧方䟿〉ずいうポむント。

たずえば、匕力に぀いお法則をたずえ話などを䜿っお䞀般化した状態。

 

第4段階→「招喚の勅呜」のように、完党な〈善巧方䟿によるストヌリヌ〉。

たずえば、䞀般化した論が難しいずいう人に「物が萜ちたすよねぇ」ずいう珟実に合わせお理解しおもらおうずする状態。

 

第5段階→「第19願、20願」のように「自我の混じる行」ずいう〈方䟿䞭の方䟿〉。

これはたずもっお、なんか「匕力ずいう霊がいお匕っ匵っおる。そういう魑魅魍魎が居るらしい。」

などずいう誀解をしおいる人に、「そうじゃないよ」ずいうために、「たず物理ずいうこずがありたしお。。。」ず方向修正する状態。

 

このように、教行蚌文類はあらゆる段階で読んでも「第1段階に到達できる」ように蚘述されおいるこずがよくわかりたす。

 

 

このプロセスのなかの、どの段階のどのポむントを読んでいるか。

これらが明確になれば、教行蚌文類は明晰になりたす。

 

たた、法話を聞くずきでも、「この垃教者はどの段階を話しおいるか」ずいうこずが明確になりたす。

 

 

 

 

70、そもそも倧経ず芳経

 

そもそもなぜ、法然たで倧経の四十八願が(誓願)が重芖されなかったか

なかでも、第十八願が重芖されなかったか、

 

やはり「芳経䞭囜撰述」だからでしょう。

芳経がなければ、倧経の「乃至十念」が「南無阿匥陀仏」だず定矩できたせん。

 

それこそ䞭囜仏教界では、法華経の「南無仏」か「南無無量寿仏」たんに、

「無量寿仏」ず南無は䞍芁であったかもしれたせん。

 

「仏の名を称する」に「南無」が必芁であるず「倧経では読み蟌めない」。

そのうえ、至心信楜の意味が明確ではなく「わたし」が

「至心(真実心)で教えを信じ(信楜)、浄土を願う(欲生)ために、乃至十念(無量寿仏名)する」ず

なるのが倧経単独の解釈になりたす。

 

倧経だけで成り立たない前提ではないはずです。

 

それを、あれやこれやず持ち出しお、他力念仏だず蚀っおみたずころで、

結論は「善導教」「法然教」「芪鞞教」になるだけです。

 

そういう意味で、法然が倩台宗においお、

「善導の芳経疏」を芋るたで、だれも芋向きもしなかったポむントに着目しお、

日本で芪鞞を経お確立したのが、䞖界仏教界の浄土教なのでしょう。

 

もちろん空也さん、䞀遍さんや良忍さんなどもおられたすが、

圱響力は、ほが埮匱です。

根拠も華厳寄りです。

 

䞭囜で浄土教が確立されお、法然がそれを芋出した。

 

それが戊埌の

文化倧革呜でぶっ぀ぶれお、日本の浄土教が䞭囜に逆茞入されお、

今では「䞭囜、台湟」でも「南無阿匥陀仏」は䞻流です。

 

しかし、日本でも「蓮劂」が広めなければ、「南無阿匥陀仏」より、

「南無劙法蓮華経」の方が䞻流になったかもしれたせん。

 

蓮劂の築いた山科本願寺は本願寺10代目のずきに、日蓮宗の䞍受䞍斜掟に砎壊されたすが、

 

蓮劂の䜜った「システム」が生きおいたので、「本願寺」が倧坂に移転する原動力や、その埌たで

続いた本願寺の力は「䞀般寺院」にあったのです。

 

日蓮宗にもこのシステムは砎壊できなかったのです。

 

もちろん今や「南無阿匥陀仏ず南無劙法蓮華経」の比率は、

党囜レベルでは、新宗教のおかげで五分五分でしょうが、

 

極論すれば、さずりぞの道を歩む「仏教者」が増えればどっちでもいいのです。

 

しかし、どうも「芪鞞」は、それ以前の「仏教の真劂論」に寄っおいるので、

カンタンに「南無阿匥陀仏」を称名に定矩せず、仏教の本矩を説いおいお、倧経に寄っおいる

「浄土論蚻」に向いおいたす。(ここで「芪鞞教」ではないずいうこずになりたす。)

 

぀たり、ナダダや「掗脳的な新宗教」のように、

支配局(支配的僧䟶)を増やすこずになるのは「本矩ではない」ず思っおおられたのでしょう。

だから、「阿匥陀劂来」すら「方䟿」ず定矩しおいるようです。

 

情ではなく知に寄っおいたす。

だから「真劂は空、唯識だけど」方䟿ずしおの称名になっおいたす。

 

たんに「善巧(ぜんぎょう)」ず぀くだけです。

 

結果、南無阿匥陀仏を真仏土文類に、「光明」ず定矩づけお、

仏の智慧に぀いお論じおいたす。

 

ですから 、南無阿匥陀仏ず無碍光劂来のマルチタスクになっおいるのでしょう。

 

 

 

 

69、浄土の眷属。

 

なぜ浄土には、諞倩人民ずいう、悟らない人もいるのか

 

ご参考に、

 

ナダダは各囜の䌁業や芁人を動かす「資本䞻矩」ずいうシステムを䜜っお、

お金によっお支配する仕組みが目論芋通り䞖界を垭捲したした。

 

『お金の奎隷を䜜るのです。』

 

珟䞖に浄土を芋ないものがいおも「すべおが真劂」だからなのでしょう。

 

「お金のために僧䟶や垃教䜿を仕事(ビゞネスにしおいる)人も倚いものです。

 

ナダダの曞には「キッチリ」蚘述されおいたす。

 

そしお「民」は「高尚な論理で動くのではない」

「䞍安ず暩力で動かす」ずいう意味が明確に蚘述しおありたす。

「情的な動物脳で動く」ずいう蚘述もありたす。

 

たた適床に「アメをやっお、よろこばせよう」

「そしお厩萜させるのだ」ずも。。

これが「バブルずその厩壊」にも圓おはたりたす。

 

そしお䞖界は「ドル」が通貚ずしお確定的に動くようになりたした。

耇雑な論理があるので、蚘述できたせんが、

 

圓時の日本は「独立させおおく必芁があり、いたはその必芁がなくなった」のです。

 

䞭囜は䞖界各囜に「華僑(措門ホンメン)チヌム」がいたすが、所詮、数だけでシステムがないのが匱味です。

 

日本の倧阪の䞀郚゚リアなどは、䞭囜人が土地建物を所有し、店も経営しお、

たるたる䞭囜になっおいお、東京などの歓楜街はほが同じです。

 

しかしいくら䞭囜が所有しようが「日本の法埋」を倉えおしたえば厩壊したす。

「䞭囜たたはそれに準ずる者が所有する土地は日本囜のものずする」ずいう法埋を぀くればいいのです。

 

戊埌の蟲地開攟ず同じです。

 

「west」の論は「ルヌルはルヌルを䜿うもののためにある」ですから。。

法埋を倉えられるのは「west」です。

 

〇〇オリンピックはほが《たずもに》成立しないず識者は蚀っおいるように、

報道もされたせん。

 

「仏教」を法滅させないためには、時代を芋お、䞖俗はwestであっおも、

「菩薩道を歩む珟代人」を増やすこず。

 

そのためには「珟代人に玍埗できるあり方が重芁」になりたす。

 

䞖の䞭で䜕が起こっおも「悟りの智慧」があれば、パニックにならない。

お金に䟝存しなくおも、人のなかに「法が生きお法が残るあり方で生きられる」。

 

「本圓の和合衆」(浄土の眷属)

 

われわれは「そういう人」を増やすこずが責務であるず思いたす。

 

ですから、こういうこずをあえおお䌝えしおいたす。

HPでは、珟代人に䌝える教行蚌文類の読み方を提唱しおいたす。

 

なぜ私ずいう生呜䜓が「west」をみおいるか、

仏法のためだずご理解ください。

 

 

 

 

67、読めたすか粗いので

 

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反察になりたしたが、

読んで芋おください(≧∀≩) 

 

 

 

 

 

 

66、法華経には「南無仏」でも悟れるずか、「起立塔像」でもいいずかなんずか。

 

このように、仏教は「さずり」に向かうなら「なんでもあり」的な内容がありたす。

 

しかし䞀般的な仏道においお、

「称名→正業(しょうごう)→念仏→南無阿匥陀仏→正念(しょうねん)」ずいう流れは、

《挔繹的掚論》によれば、《蚌拠の共通項》がないのに「称名がなぜ正念」ず同じなのか

掚論できたせん。

 

たず「称名」が「なぜ正しい行い(正業)ず蚀えるのか」「なぜ正業が念仏なのか」

じ぀はこういったながれに、共通項がない。。

 

それを芪鞞は「枅浄功埳を諞仏が讃嘆しお、わたしにそれが移行する。」ず、

「枅浄功埳」を共通項ずしお説明しおいるようです。

 

だから結局、仏教の垞識においお、称名だけでさずりに向かうこずが成立するなら、

法華経の「南無仏」の方がより簡単ではあるけれど、

 

そこには「功埳のストヌリヌがない」ずいうこずなのかも知れたせん。

 

このように、南無阿匥陀仏ず「正念」するこずに、「称名」ずのさずりに向かう共通項目がなければ、

論が立たないずいうこずになりたす。

 

だから

 

「諞仏が功埳を称讃する→それを聞芋(信力転増)し、→その讃嘆を信受し、→(私の称名)→正業(しょうごう)→念仏→南無阿匥陀仏→正念(しょうねん)」ずなるのか

 

このプロセスではただ「《私の称名》の䜍眮づけが䞍明確だけど」およそこういう流れなんだろうなぁ。

 

たぁなんずなく「諞仏の称讃(枅浄功埳)を聞くこずが《信力》ずいう【増䞊瞁】になっお、菩薩道を歩めば、《信力転増》しお、諞仏の功埳を《信受》する」

ここで蚀いたいこずはほがわかる。

 

ず芪鞞が぀なげた「功埳」が共通項で、「称名は正念になる」のでしょう。

 

だからあえお「名を称する」をそもそも「出䜓」にしたのは、

「枅浄功埳」で぀ながるのかずいうこずだろうず掚察ができるのです。

 

これが、「無碍光劂来でも、南無阿匥陀仏でもいい」ずいうマルチタスクになるずいえるでしょう。

 

 

 

 

 

66、思い蟌み、既成抂念。

 

人間は、思い蟌みの䞭に過ごすこずがほずんどですから、

珟状に「疑問」をもたないものです。

 

「あたりたえ」のように「物が萜ちる」

 

珟代人なら「匕力、重力」っお思えたすが、

ニュヌトンがこれを蚀語化するたでは、

 

「なんの疑問もない普通のこず」だったでしょう。

 

こんなこずに疑問をも぀のか

 

こずに西掋の人はそういう知性の人が倚い。

だからナダダは

「私たちの仕掛けに気づかず、䞖界が動いおいる」ずいい。

 

事実そうなっおいる。

 

念仏だっお、封建瀟䌚に構築されたものを、いただに埌生倧事にしおいるけれど、

教行蚌文類をキッチリ読んでいくず、どうも「様子が違う」❣

 

既成抂念で読んで行けば「なんずなく読めなくもないけれど、筋が通らなく」なる。

 

今回「孊掟もなにも関係なく、仏教を知っおいるが、真宗は知らない」ずいう蚭定で

読んでいるず、「ずいぶん様子が違う」こずがより明確になっおきたした。

 

みなさんがむダむダ「倩動説」でいい、「封建瀟䌚」でいいずいうなら、

無芖しおいただけばいいのですが、

 

コペルニクスのように「それでも地球は回っおいる」ずいう、

真実をみようずされるなら、この時代に「䞍芁」なものにならないよう。

 

ご䞀緒に「ほんずうのこず」を読み蟌んでいきたしょう。

 

 

 

 

 

 

65、䞻語に぀いお(30/12/17)

 

教行蚌文類には、䞻語が䞍明確な郚分がよくありたす。

特に行文類においおは、それが際だっおいたす。

 

そもそも倧無量寿経には「阿匥陀」の文蚀はありたせん。

教行蚌文類の総序にもありたせん。

 

なのに、教文類に「匥陀、誓いを超発しお」ず「法蔵菩薩」を䞻語ずすべきずころを「匥陀」にしおいたすが、「匥陀誓いを超発しお」の埌に「広く法蔵を開きお」ず法蔵菩薩を思わせる蚘述がありたす。

 

ただ、ここにおいお「匥陀」が「仏名」だず定矩されおもいないし、

教文類のその埌にも、党く「匥陀」も「阿匥陀」も出おきたせんから、ここは「因䜍を果䜍で語っおいる」ず、専門的には蚀えたすが、

 

この段階で仏名、仏号ず定矩はできたせん。

たしお、「阿匥陀仏か阿匥陀劂来」ず蚘述すべき仏名を「匥陀」ず略しおいるのですから、

重芁だずも蚀えないのです。

 

 

 

64、さずりずいう高尚な䞖界

 

そもそも仏教はなぜさずりを目指すのか

この倧前提を忘れおいたせんか

 

悟るず「苊しみのサむクルから脱出できるから」ずいうこずです。

実際「行じお」いるず、ショヌもないトラブルやハプニングなどなど。

ふ぀うに生きおいるず「パニック」になりそうなこずでも、

 

智慧で芋るこずができるから、楜になり、かえっおいい勉匷をした。

ずいう颚に芋られるようになりたす。

 

そしお同じようなこずがあっおも適切に察凊できるようになりたす。

 

だからこんな颚になれるのに、死埌の話では勿䜓なすぎたす。

真劂から来生した劂来の教えは「私」が道埳者になるずいうこずではなくお、

真劂に同化すれば、「自分自身がなくなっお、楜になるずいうこず」

事実、「無垞、無我、空のなかを生きおいる」のですから、

 

そこに培底できるようになれば、どんどん楜になり「究極楜」になれるずいう、

「真実ず解攟」があるのです。

 

だから「楜になる法」であり、それが「自己満」では終わらない、

「利他満」の方向にも進むずいうこずです。

 

「仏教の智慧でなぁ、ムチャ楜になれんねんで❣」

「それも、死埌や茪廻ずいうこずじゃなくっお今やねん」

っお蚀う感じになりたす。

 

 

 

 

62、に远加あり。

 

 

63、阿匥陀ストヌリヌ、アゞャセストヌリヌ。

 

Aは、これたでに、五念門行のなかで、「倚次元に珟実を芋お生きる」ず論じお来おいたす。

そのなかで、阿匥陀ストヌリヌもそうですが、「芳経(芳無量寿経)」のアゞャセのストヌリヌに぀いお、「歎史的事実か、物語りか」で倧きく取り扱いが倉わるず本線3–10に蚘述したしたが、

もしこれが、「方䟿」ではなく、「究極の真実」ずしお取り扱われた堎合、話がたた倧転換したす。

 

《誀解をしないように、慎重に読んでください。》

さずりは「空」である以䞊、「倫理を超えるので善悪を問えない」ずいうこずです。

䞀般的にいうず「党おが自然珟象ならそこに善悪はない」ずいう意味です。

 

これを芪鞞は「方䟿」の偎で語ったために、「造悪無碍(ぞうあくむげ)・本願がこり」ずいう人たちが出おきた。

ずいう歎史がありたす。

 

「䜕をやっおも阿匥陀さたが救っおくれるなら、悪いこずをしよう」ずいうひずたちです。

 

しかし「方䟿の偎面」でいうなら、「至心(さずりに実を結ぶ心)を受け入れる䞀心(信心)」ずいう通過点を通る必芁があるず論じられおいたすが、「こういう人たち」は通過しないたた「悪をしおしたう」ずいう自然珟象です。

 

歎異抄では、「ひずを殺せ」ず呜じられおも、その瞁がなければ「殺せない」ずいう論がありたすが、いいたいこずはわかりたす。

しかし、これも歎異抄の矛盟に入りたすが、正確に蚀うず「殺せ」ず蚀われおどうするかは、「背景やその人の気持ち次第である。」ずいう方がより正確です。

 

぀たり、「呜什された人がサむコパスや催眠状態、掗脳状態だったらやっおしたう」ずいう珟象が発生したす。

 

ですから「アゞャセストヌリヌ」を「物語り」ず前提理解しなければ、「䜕をやっおもいい」ず理解する人が出おくる可胜性は充分にあっお、事実珟代で「掗脳しおこれを䜿っお儲けた団䜓」がありたす。

「人を隙しおも救われるからどんどん隙せ」「芪鞞聖人ずいうすごい人がそう蚀っおいる」ず《儲けの材料》にされたのです。

 

このアゞャセストヌリヌを事実ずするなら、それも自然珟象だず「悟れる人」にしか通じない「倚次元芳察」になりたす。

 

「仏教は倫理を超えるんだし」ずわかりやすくいうず「ひらきなおれる人」「殺されおもそれが仏の教えだずほんずうに思える人」「私も家族も殺されおも䜕にも問題はない」ず蚀い切れる人にしか通じないずいうこずです。

 

実際《第二次䞖界倧戊䞭》「死埌は阿匥陀劂来に任せお、戊争に行け」ず西本願寺は蚀ったのです。

これは「倫理を超えるさずりなのでしょうか」

「慈悲」はどこぞ行ったのでしょうか

 

【ここが重芁ポむント】

真劂だから、自然珟象だからずいうポむントだけで語れないのが「さずり」です。

「慈悲心」に転じお「私を捚おお他を悟らす」こずがなければ「仏教」ではないのです。

 

こういうずころを「慎重」に論じなければ、単玔に「ありがたい教え」では枈たなくなりたす。

芪鞞は「暗黙に悪を勧める陰謀論者」ず受け取る珟代人も結構いたす。

 

そこが「たるで、ナダダのシオンの議定曞」だず蚀われるのです。

著名な識者のなかには「そもそも䞭囜では《真宗》は《景教(キリスト教)》を意味しおいたし、芪鞞はキリスト教の「䞖尊垃斜論(この䞖尊はキリストのこず)」を読んでいたず蚀われるから、「ナダダ思想が入っおいるのだろう」ずいう人も耇数いたす。

 

珟代では「これはストヌリヌだから」ず明確に論じる必芁があるず匷く思いたす。

そこをいわないから、䞀般的な「識者」ずいわれるひずから、こういう芳点で論じられおしたうのですから。

 

 

 

 

62、こんなこずを問われたした。

 

いろいろな悩みを抱えお「真宗」で聎聞をしおおられる方のようです。

ヌヌヌ(以䞋)

 

人間の平等を説くなら、なぜ阿匥陀劂来は囜王ではなく、最䞋局民にたで身を降ろさなかったのか

ずいうこずを考えおいたした。

たぁそこたで萜ちるず民衆が受け容れないし、阿匥陀ストヌリヌを考えた人にも受け容れ難い時代だったのだろうず思いたす。

阿匥陀仏は他の仏ず違っお、私達の䞋たで降りおきお救いずっおくださるずいうのは、詭匁ですね。

ず思ったりしたした。

 

こういうのを、「誹謗正法の眪を犯しおいる私を知れ」ず蚀われたす。

 

ヌヌヌ(以䞊)

です。

 

「阿匥陀ストヌリヌ」ずいう蚘述から、

この講矩をズッず読んでおられる方のようだず掚察いたしたす。

 

 

みなさんこのかたに、どう回答されたすか

 

この方をすくなくずも「謗法のひず」ず蚀えたすか

こういう人ほど「求道の人」なのではないのでしょうか

 

もし、この問いを送っおくださった「あなた」がこれをよたれたら、

Aは「教えられた」ず「称賛」させおいただきたす。

 

 

 

 

61、蜎飛蠕動は信心を埗るのか。(教行蚌文類の究極な理解)

 

たぁ倚分無理でしょう。なのに救うべき察象になっおいたす。

 

教行蚌文類で蚀っおいるこずは、これがすべおです。

至心も信楜も蜎飛蠕動にはわからないでしょうし、欲生も「乃至十念」すらあり埗たせん。

 

぀たり、䞀切衆生悉有仏性であり、草朚囜土悉皆成仏です。

236ペヌゞの【31】涅槃経匕甚にある通りです。

 

皆䞀切が真劂であるこずを知り、真劂に行きる。

その具䜓的方法が「五念門五果門」だずいっおいたす。

 

しかしこの「専門曞、孊術曞」は難しい。

浄土論も難しいから、

圓時「論」のわからないひずの倚い時代、

 

専門家に向けお、「䞀切衆生(All the 凡倫)」には、

 

「南无阿匥陀仏」の「尊」号を受け入れさえすれば、「自我名」が

「南无阿匥陀仏」に自動転換するので、「オヌトマティックに悟る」

 

そういうシステムが適しおいるが

「本質は、《無碍光(劂来)》であり、仏教ず盞応の智慧慈悲の五念門五果門だ」ず論じおいる。

 

ずこの孊術曞を珟代人が理解すれば、

【重芁】

その時代の人のように「ずにかく南无阿匥陀仏」で、「空、無我」に至るか、

論理に基づいお「五念門五果門」を行じお「空、無我」を生きるか。

 

【ここで至るず生きるはあえお䜿い分けたすが、

これは「空、無我」を認識しおいる状態であるかないかの違いを衚すためで、

「空、無我」を意識しお「瀌拝、讃嘆し぀぀、珟生に荘厳功埳を芳察し、䜜願し、回向発願せしむ」のかずいうこずです。五果門は自然に぀いおきたす】

 

自分は「ただ念仏」になれる人か、「理論」がないず取り組めないか。

「脳の扁桃䜓優䜍(情的思考)タむプか、前頭葉優䜍(論理思考)タむプか」で

どちらにでも行けるずいう内容が「教行蚌文類」です。

 

しかしどちらから行っおも「智慧ず慈悲」ずいう「知ず情」のバランスがずれる

「智慧を基底にしお慈悲に生きる人」になるこずがさずりぞの「倧乗菩薩道」です。

 

「因果同時」の䞖界で「浄土」「浄(真理なり、真劂なり、䞀劂なり、空なり)土(の噚なり、堎なり、次元なり、識なり)」を生きるずいう内容は同じになるず論じおいるのです。

 

だから「珟生」においお「埀還因果同時」でなければ無意味なのです。

 

このこずは比范的明確に論じられおいるのに、

「封建制床」からなかなか「粟神的解攟」されない「心理構造」のたたでは、

「封建制床」が「資本䞻矩」に転換しお「お䞊(おかみ)がお金」に自動転換しおいるこずに

気づかないたた「振り回される人生」で終わるずいうこずです。

「虚しく過ぎるいのち」を生きるずいうこずです。

 

結局「自分が自分を生きおいるず錯芚しおいお、封建瀟䌚では【お䞊】だったあなたの䞻人公が、

資本䞻矩になっお【お金】に代わったずいうこずです。

 

本圓にマゞメに生きおおられるず「瀟䌚に隙されお」も気づかれないので、

昚日は衚珟を匷くしたした。

 

ずにかく教行蚌文類で芪鞞は、「あなたの䞻人公を【さずりorその衚珟の劂来】に入れ替える手段が、

「ただ念仏(善導の二河癜道タむプ)」か「浄土論の無碍光(五念門五果門)タむプ」かずいうこずですが、

芪鞞自身は「ただ念仏のタむプに぀いお、その論理的背景を探る䞭で、浄土論にたどり着いお、五念門五果門に移行された」ずいえたす。

 

このように「情的ではない圢匏で情を含めお論じおいるこの論」は意倖ず難関のような内容で、

理解䞍胜に陥るため、昚日の内容は、「むンパクト」を匷くしたした。

m(_ _)m

 

倱瀌を臎したした。30/12/12

 

 

 

 

 

60、文字列で動かされる。

 

30分以内にお電話いただければ、19,800円ずいうず電話しおしたう。

30%匕きずいうず買う。

30,000円(皎蟌)では動かないのに29,800円(皎抜)で動いおしたう。

(29,800円に皎を足すず5,364円乗るので35,164円になりたす)

(ここに送料だの手数料だの乗るずドンずカサが増したす)

 

①100䞇円のクルマをロヌンで買うずしお、幎利20%で5幎ロヌンなら890,000円

②100䞇円のクルマをロヌンで、幎利10%で5幎ロヌンなら990,000円

で89䞇円を遞ぶ。

トヌタル単玔蚈算で、①だず利息が89䞇になり、②だず49侇5千円。

元本が10䞇円の違いが、実は倧損

395,000円もの差がありたす

(法的に幎利20%は難しい時代ですが、わかりやすくしたした)

 

数字ずコトバの文字列に螊らされおいるのに。。

文字も知らない時代のひずが「尊い文字」ず聞けば動く。。

 

これは珟代でも同じなんです。

 

 

 

 

59、たずすべきこず。

 

さずりを埗ようずいう意思ず行動。

ブッダは「死んだらどうなるのか」「霊はあるか」ずいうような

蚌明できないこずや蚀っおも理解されないずいうこずに぀いお、

「語らない、論じない」ずいう関わりかたをされおいたす。

 

このスタンスを「無蚘」ずいいたす。

これを毒矢の譬えで衚されおいたす。

 

マヌルンクダプトラずいう匟子が釈尊に察しお、「䞖界は未来氞劫に存圚するのでしょうか」「䞖界には果おがあるのでしょうか」「劂来は死埌も存圚するのでしょうか」などの疑問をなげかけたした。
そしお、これらの問いに答えおくれないならば、自分は還俗したすずいいたした。
これに察しお、釈尊は次のようにお答えになりたす。

 

「あなたの疑問に察する答えを求めるのであれば、あなたはその答えを埗る前に呜が尜きおしたうでしょう。たずえば、ある人が毒矢で射られたので、みんなが心配しお急いで医者を呌んできお、医者がたず矢を抜こうずしたら、その男が叫んだ。『この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、背の高い人か䜎い人か、町の人か村の人か、これらのこずがわかるたではこの矢を抜いおはならない。私はたずそれを知りたい』ずいうのならば、その男の呜はなくなっおしたうでしょう。あなたの問いはそれず同じなのです。もし䞖界は氞遠に存圚するずかしないずか答えるこずができる人がいたずしおも、その人にも生老病死の苊しみがあり、さたざたな憂いや悩みがあるのです。あなたの問いは、人間の本圓の苊しみや悩みずは関係のないこずです。
わたしは説くべきこずのみを説きたす」

(本願寺HP「教えお」から)

 

これは、たずえば「さずればわかるこず」でも、さずらないものや悟ろうずしないものに、

そういうこずを語っおも仕方がない。

 

ずいうこずでもありたす。

 

孊ぶこずがなくなった「ブッダ」でも、孊ぶ姿勢のないものに察しお䞀生懞呜に説く意味がない、

ずいうこずでもありたす。

 

たずはなにを論じるにしおも「さずり」がゎヌルでありスタヌトです。

だから因に果を含む「劂来」ずいうあり方を生きるのです。

 

 

 

 

 

58、事実ず真実

 

事実は「出来事や珟象そのもの」ですが、

çœŸå®Ÿã®ã‚µãƒ³ã‚¹ã‚¯ãƒªãƒƒãƒˆèªžã¯ã€à€‹à€€à€®à¥ [rÌ¥tam] = à€žà€€à¥à€¯à€®à¥ [satyam] サッティダ

 

「必ず実を結ぶ」

 

ずいう意味で、カルマの結果を指しおいたす。

ïŒˆã‚·ãƒ£ãƒ³ã‚«ãƒ©ãƒ»ãƒãƒŒã‚·ãƒ£ïŒšà€‹à€€à€‚ à€žà€€à¥à€¯à€®à¥ à€…à€µà€¶à¥à€¯à€‚à€­à€Ÿà€µà€¿à€€à¥à€µà€Ÿà€€à¥ à€•à€°à¥à€®à€«à€²à€‚ à€ªà€¿à€¬à€šà¥à€€à¥Œà¥€ïŒ‰

 

カルマの結果ずは、぀たるずころ、

 

 

自分の身䜓や心理も含めた、この宇宙の珟圚過去未来の党お、

「仏教」でいう「真劂」です。

 

しかもこの「無碍光劂来(阿匥陀劂来)システムプログラム」は、

芪鞞が怜蚌した「事実」を論じおいるのですから、トヌタルずしお「真実による事実」です。

 

 

以䞋のペヌゞをご参照ください。

 

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2014/02/rtam.html

 

 

 

 

 

57、信心はシステムの内容

 

信心は念仏でなぜ埀生するか、ずいうポむントを分解しお論じおいるので、ここで「根拠」を求めおはいけたせん。

 

なんで「信楜」が「極成甚重」なのか

なんお思うず理解䞍胜に陥りたす。

 

そこに特別な根拠があるずいうよりも、

 

「劂来たたは法蔵菩薩の願心荘厳功埳」を「至心」ずいう「蚀葉」に定矩しお、

「至心」ず衚珟されおいる荘厳功埳を「信楜」の「信」で《功埳の話しを聞く、功埳の話しを文字で読む、勀行や法芁で觊れる》ずいうスタむルを通じお受け入れるこずで、

 

「楜」のさずりを願うずいう心理状態になり、《五念門五果門》を行じるものになる。

ずいうプログラムになっおいるプロセスを論じおいるのです。

ヌヌヌ

☆芪鞞の時代には「本を読む」ずいうこずは、䞀般の人に向けおはなかったずいう倧きな時代背景を勘違いしおは間違いたす。

このような教行蚌文類を読める人はほがない時代に曞いおいるのですから、かなりな確率で「専門曞」であるずいう前提が「珟代の読者」に必芁です。

ヌヌヌ

 

そういう意味で、「文蚀ひず぀ひず぀に誰でも玍埗できる根拠」はありたせん。

ブッダの「無垞」や韍暹の「空」だずか倩芪の「唯識」だずかいうような、「事実」を論じおいるのではないのです。

 

これだけ信の重芁性を論じるのは「システムプログラム」のなかで、この「信心」ずいう《ドアをオヌプンする》ずいう「プロセス」がなければ「蚌」に至れないずいうこずです。

この「ドアオヌプン」をなかなかしおくれないから、こんなめんどくさい論が「必芁条件」であり「十分条件」になるからです。

 

ここで「条件」ず衚珟したのは、「さずりぞの条件」ではなく、「本来さずり(真劂)にいるのだから、そのこずに目芚めお生きるこずが「五念門五果門」です」ずいう内容を論じる䞊で「必芁条件」だずいうこずです。

劂来目線でいえば「あなたも本来劂来です」ずいうこずを、凡倫目線ではわからないから、あなたの目線を「劂来目線」に倉えるための論なんですよ。ず芪鞞は蚀いたいずほが99%の確率でいえたす。

 

なぜなら「仏教ず盞応する」ず論じる以䞊「劂来目線」であるこずに倉化を䞎える「倉数」はほが「れロ」だずいえるからです。

 

 

 

 

 

56、唯識を孊ぶもうひず぀の理由

 

浄土論の著者「倩芪」は「唯識掟」の倧成者です。

 

この唯識によっお《珟生における》【五念門、五果門】

なかでも【芳察門】の理解ができたす。

たた、教行蚌文類で重芁ポむントになる

「聞芋」ずいう「聞芋」の理由も明確になりたす。

 

すべおが「皮子生珟行」なのです。

そしお、その入れものの「阿頌耶識」も「空」であるず、

「真劂」理解ができるのです。

 

 

 

ヌヌヌ

 

 

【参考】

〇四十八願にある荘厳囜土

(浄土宗党曞からですのでNO.を぀けないこずにしたす)

 

補蚻その1の33に茉せた浄土宗党曞から、

 

☆「摂」は〇〇をおさめる(〇〇に぀いお)ず読むずいいです。

 

四十八願を分類するこずは、

浄圱寺慧遠『無量寿経矩疏』䞊に「䞭においお合しお四十八願有り。矩芁には䞉、文別に䞃有り。矩芁には䞉ずは、䞀には摂法身願しょうほっしんがん、二には摂浄土願しょうじょうどがん、䞉には摂衆生願せ぀しゅじょうがんなり」浄党五・二䞃䞊ずするのが最初である。

 

慧遠は第十二・第十䞉・第十䞃の䞉願を摂法身願、第䞉十䞀・第䞉十二の二願を摂浄土願、他の四䞉願を摂衆生願ずする䞉皮に分類した。

 

吉蔵・憬興も同じく䞉皮に分類するが、吉蔵は願浄土ずしお䞉願、願埗眷属ずしお四二願、願埗法身ずしお䞉願ず分類しおいる。

 

憬興は慧遠の説を受けおいるが、それぞれ求仏身願・求仏土願・利衆生願ずしおいる。

 

慧遠はさらに、四十八願が説かれる順序ず、この䞉分類を組み合わせお、以䞋のように䞃段に分類しおいる『無量寿経矩疏』䞊、浄党五・二䞃。䞞数字は願数を瀺す。以䞋同

 

 ①⑪ 摂衆生

 ⑫⑬ 摂法身

 ⑭⑯ 摂衆生

 ⑰ 摂法身

 ⑱㉚ 摂衆生

 ㉛㉜ 摂浄土

 ㉝㊜ 摂衆生

憬興も同様の分類を行っおいる。

聖冏は『釈浄土二蔵矩』二二においお、これを「察文次第の䞃重」ずしおいる。

聖冏はさらに「矩類䞍次第の䞃重」をあげ、ずくに摂衆生願の四䞉願を摂凡倫願ず摂聖人願に倧別し、摂凡倫願をさらに摂自囜願ず摂他囜願の二぀に分ける。

たた摂聖人願を摂声聞願ず摂菩薩願に分け、摂菩薩願をさらに摂自囜願ず摂他囜願に分類しおいる図。

 

四十八願の分類

䞀摂法身願 ─⑫、⑬、⑰

二摂浄土願 ─㉛、㉜

䞉摂衆生願 ┬摂凡倫願 ┬摂自囜願 ─①⑪、⑮、⑯、㉑、㉗、㊳、㊎

│ └摂他囜願 ─⑱⑳、㉝㉟、㊲

└摂聖人願 ┬摂声聞願 ─⑭

└摂菩薩願 ┬摂自囜願─㉓㉖、㉘㉚、㊵、㊻

└摂他囜願─㉒、㊱、㊶㊺、㊌、㊜

 

 

ず、四十八願を叀来から分類されおいるのですが、あくたでも参考でいいず思いたす。