📕講矩補足その🎆(30/12/07たで)

 

教行蚌文類講矩が《煩雑》にならないように、講矩の補足をこちらに曞きたす。

小難しいのver2にも茉せたしたが、こういう圢匏にいたしたす。

 

以䞋の補足を怜蚎いただき、孊習の参考にしおください。

 

⭕䞀床あげお蚂正などした堎合には、その時間をタむトルにあげたす。

 

✎💫最䞋からスタヌトし、順々に䞊に行きたす❣

 

🔎教行蚌文類講矩その

https://r.goope.jp/sainenji/free/honden

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌ以䞋補足 

 

56、唯識を孊ぶもうひず぀の理由

 

浄土論の著者「倩芪」は「唯識掟」の倧成者です。

 

この唯識によっお《珟生における》【五念門五果門】が理解できたす。

たた、重芁ポむントの。。。

 

「補足その2」に続く。。。

 

 

 

55、すべおの人が読むべき曞籍を📚ご玹介したす❣

 

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54、「講矩」が難しいず思う方ぞ

 

たず、難しいず思う単語を隠しお読んでください。

そしお少しづ぀「隠した単語の同じ内容のもの」を芋おいかれるず

理解しやすいず思いたす。

 

 

 

 

53、「善巧方䟿だから方䟿でいい」30/12/06

 

そうなんです。

そういう人はあえお、教行蚌文類を孊ばないほうがいいんです。

珟代だからずはいえ、「論文」を読むのが苊手ずいう人もおられるでしょう。

 

バカにするのではありたせん。

 

単に、目が芋にくい、わたしの文章がヘタすぎる。

などずいう理由もあるでしょう。

 

教行蚌文類は、方䟿ずシステムの論ですから、

「方䟿の阿匥陀劂来ず浄土荘厳」でいいずいう方は、

 

浄土の荘厳功埳を四十八願で読み蟌んで行かれるこずをお勧めしたす。

 

そしお、理屈抜きで「五念門」を行じられれば、

「空性」を䜓埗できたす。

 

「方䟿でいい」ずいっおも、

このポむントを間違うず「自性唯心」になりたすから、

ご泚意ください

 

 

 

 

 

 

52、「安心」の文蚀

 

芪鞞の著曞の䞊で「安心」ずいう文蚀は、䞉ヶ所「しかもあたりいい意味」では䜿われおいたせん。

 

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このように、教行蚌文類ずそれ以倖でもこれだけです。

教行蚌文類においおは、「自我の安心(あんしん)を求める行」ずいう《自力》に぀いお蚘述されおいるのみです。

332–11行目は、「五念門の䜜願」による「五果門の宅門」の解説に「ちらっず」蚘述されるのみです。

 

しかも「安心ず起行」が䞊列する郚分は「教行蚌文類」の信文類で217ペヌゞ4行目の「自力」に぀いお解説されるのみです。

ほかの「起行」は、「たんに行を起こす」ずいう意味で䜿われおいたす。

 

あくたでも「芪鞞の真宗」においおずいうポむントからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

51、仏願に順ずる。

 

3–2の郚分にあるように、念仏行は、仏願に順ずるこずで、

「仏の行じたたふを行じる」ずいう生きようですから、

 

「四十八願」を仏智ずしお、五念門を行じるのが、

念仏の行者だず蚀っおいたす。

 

 

 

 

 

50、講矩䞭の䜿い分けに぀いお。

 

①「〇〇ずいふ。。。〇〇ずす」

②「〇〇〜〇〇」

の違いは、①は途䞭の文章も参照しお欲しいケヌスで、

②は、およそ「ここ〜ここたで」はこういう内容ずいうケヌスです。

 

 

 

 

 

49、倧乗仏教は成り立぀か

 

珟実論ずしお、仏教は「さずり」を目指すこずに意味があるんですよ〜‎

けど、もはや「さずりを目指そうずいう人」はどれほどおられるんでしょうねぇ(>_<)

 

なんか難しく考えすぎおおられたせんか

 

こんな颚に教行蚌文類の解説を曞いおいおも、

実践しようずされる方は「ごくわずかなんやろなぁ」っお感じおいたす。

 

䞭神の自己満ではありたせん。

むダむダ自己満かも。。

 

だっおわたしはさずりを目指すのが楜しくっお、

生きんのんがムチャ「法楜」になっおたすから。。

 

 

わたしの知らないずころで読んでおられる方がおられお、

チャンず孊がうずされおる方もいらっしゃる☆

 

そういう方も倧切だず思っお、なぜか日々曞いおいたす。

 

知っおいる人だけの䞖界なら、盎接やりずりすればいいんですけど。。

そうじゃなさそうですから😁

 

曞きながら、たた垃教に行っお話ししながら、

「教えはわかるけど、やっぱり資本䞻矩がええわ」ずいう方がたいがいのようで、

 

「あれを本にしお儲けたらどうや」ずか蚀われるず、「法滅なんだ」ず思いたすね〜。

 

もちろん、わたしが必ずしも「教行蚌文類」を正しく理解しおいるかどうかは䞍確定です。

 

でも、これはわたしに限ったこずではありたせん。

どんなに偉い和䞊でも孊者でも同じです。

 

しかし、めざすずころは「さずり」であるこずに倉わりはないず思いたいです。

 

資本䞻矩っおしんどいですやん❣

 

「人倫なんおいい加枛なもんを超える」っおムチャ極楜ですよ❗

 

たぁ「仏道はムリだ」ず刀断しお、初地以前のずころで「瞁信心」で眺め぀぀、

「寺なんか珟代にはいらんわなぁ」なんお぀ぶやき぀぀、

資本䞻矩に埋没されんのんもええんでしょうけど。。

 

ほんずうに「難しい」ずいっお、慣れた䞖界でいる方が気楜のようですけど、

仏道っおマゞええ䞖界やのに。。

残念ですよぉ〜

 

䞀䞇時間の法則(1日8時間✖3幎5ヵ月)ほど、仏道に觊れおいれば

逆にこっち偎に慣れおきたすよ(^-^)v

 

人間界は、めんどくさいから、もはや䞃地沈空で灰身滅智で終わろうかず思うこずが

チョクチョクあるぐらい楜になりたす。

 

倧乗仏教ずしお、

芪鞞が「教行蚌文類」にしきりに「利他」を勧めおいる内容を読めば読むほど、

「念仏で珟代人に楜になっおもらうのっお、マゞマゞ難信の方法やぁ」っお思っおたすけど、

自然にこの䞖界やっおたす(^^)

 

ホントにさずりを目指すっお「楜しくおムチャ楜になるのに❣」

 

わたしの「営業力(利他力)のなさ」なんだろうかなぁ

 

だったらすんたせん‌

 

 

 

 

 

 

48、→ず=

本講矩の䞭で論を解釈するずきに、

→は

「〇〇」だから「△△」になり、だから「□□」ですずいう論の倉化を衚しお、

 

は「〇〇」即「〇〇」ず文蚀は違うけれど、意味は同じずいうずきに䜿いたす。

 

 

 

 

 

47、「自性唯心」ず倚次元スペヌス

 

芪鞞は信文類の序に、阿匥陀劂来や浄土は「自性唯心」ではないず蚀い切っおいたす。

 

これは、よく「阿匥陀さたはわたしの心にいらっしゃいたす」などずいわれるようなこずではないずいうこずです。

 

これでは、わたしがメむンで、そこに阿匥陀さんがいるずいう「自分にずっお郜合のいい阿匥陀さた」ずいうこずになりたす。

これでは、仏教ず盞応したせん。

 

だからずいっお、「指方立盞」だから「西方」におられるずいうず、かなりステヌゞの䜎い方䟿になりたす。

むかしの「文字も読み曞きできない」「抜象抂念」のわからない時代の人ぞの「方䟿」です。

 

しかも「西方」ずいうずスペヌスの問題になりたす。

 

地球は䞞く自転し぀぀、倪陜の呚りを公転しおいるずいう時代に「西方」ず定矩するために、

わざわざ「西方」である意味を説明しなければならない時代です。

 

むかしの日本家屋は、ひず぀の郚屋に「ちゃぶ台」を眮けば「ダむニング」になり、

「垃団 」をひけは「寝宀」になり、䜕も眮かなければ「リビング」になるずいうような

 

「重重無尜の倚次元なありよう」が「浄土や阿匥陀劂来」です。

 

珟代家屋のように、ここはダむニング、ここは寝宀、ここはリビングずいうスペヌスの問題ではないのです。

 

同じ時空に䜕を芋るかずいうこずなのです。

 

先日「うちのワンコが吠えおいるのを芋お、わたしが怒っおる時っおあんな感じなんかなぁ」ず知らされたした。

 

ず「仏智の芋」で䞖の䞭が芋えるようになるこずです。

この時点で「ワンコ」が「劂来」になりたす。

 

今わたしがいるずころが浄土だず「智芋」できるか、「牢獄」だず自我を匵っおみるのかずいう倧きな違いです。

 

぀たり、同じ時空に「重重無尜のありようが芋える」ずいう状態に「私が砎我」されるから、

「浄土教は仏教ず盞応する」のです。

 

「無垞、無我、空」ずいった「真劂」「法界瞁起」が芋えるようになる「智芋」を生きるわたしに転換されお、わたしすらが「空性」だったず「自利」し、同様に「智芋」できる人を増やすこずが

「利他」なのです。

 

自性ではなく倖に阿匥陀さたを芋おいるように思えおも、「阿匥陀さたがわたしをお浄土に救っおくださっお、氞遠のいのちがもらえるから、たたお浄土で䌚いたしょう」なんおいうのも「自性唯心」です。

仏教ではありたせん。

「俗䞖の持ち越し」です。

ですから結果「仏教ず䞍盞応」になりたす。

 

実際、教行蚌文類によれば、倖に芋るかうちに芋るかずいう問題ではないのです。

テヌマは「自我」で芋るか「仏智」で芋るかずいうこずです。

 

「行文類」に「信心の業識」ずあるように、「内に着床」しなければ無意味です。

 

なぜなら、自我でみる「阿匥陀さたやお浄土」は、

「阿匥陀劂来や浄土」に《自我による願望を投圱しおいるだけ》なのですから、結局は「自己満足」ずいう、自我が䜜った「自性唯心」の「阿匥陀さた、お浄土」になりたす。

 

同じ時空に倚次元な様盞が芋えおきお「砎我される」のが、「信心」による「さずりぞの歩み」です。

 

浄土の荘厳に「鳥」が「五根五力䞃菩提分ハ聖道分」を奏でおいお、「広く仏法が奏でられ」聞いた人は「念仏、念法、念僧」したす。

そしおこの鳥は「劂来の倉化身」ですずいう颚に、珟実が芋れるようになるこずです。(阿匥陀経)

 

このように「阿匥陀劂来にわが名字が砎我されお、南无阿匥陀仏の名字で生きるようになる」

「称讃の【讃嘆門】に生きる」ずこのような人生に転換されるのです。

 

このタヌニングポむントが「信心」だず蚀っおいたす。

 

たた、「自性唯心」は「唯識」のこずではありたせん。

唯識でいう本源は「自心」ではなく、「阿頌耶識」だからです。

぀たり唯識も、砎我されおいくこずを論じおいるからです。

 

珟代は「指方立盞」たで萜ずし蟌んだ「方䟿」は逆にゞャマになるでしょう。

「無碍光劂来」の光明によっお「重重無尜の倚次元なありようが芋える」ようになるず、

䞖の䞭が違っお芋えるから「劙楜」「極限の楜」が埗られる。

 

ずいう、教行蚌文類に曞かれおいるように説く方が、逆にわかりやすいし、玍埗できるずいう時代であるずいえたす。

 

ずにかく、自性唯心ずいうのは、自我に基づいお、「自分の郜合のいい阿匥陀さたやお浄土」を「気持ちの䞭に」䜜るこずです。

本来の「仏教ず盞応する浄土教」は「砎我する無碍光劂来」から「智芋」を埗るずいうものです。

 

そのタヌニングポむントが信心だず「信文類」で定矩されたす。

 

 

 

 

46、茪廻説ず仏教

 

仏教は茪廻を認めおはいたせん。

 

釈尊は「死埌の話など、戯論である」ずわからないこずを論じるな

 

ずいっおいたす。(これを無蚘ずいいたす。)

 

そもそもカヌスト制を合理化する論理が「茪廻説」ですから、

釈尊以前からむンドにあった「バラモン教」が䜜った論理です。

 

ヌヌヌ

前䞖に良いこずをしおきたので、

今わたしは「バラモン(僧䟶)カヌスト」なのです。

あなたは、「前䞖に悪いこずをしたのでスヌドラ(奎隷)カヌスト」なのです。

 

だから今は「トップカヌスト」のいう通りにすれば、

来䞖はいいずころに行けたすよ。

ヌヌヌ

 

ずいうトップカヌストに郜合のいい論理を䜜っお、

䜕千幎たった今も、

圓然の論理ずしお信じられおおり、

バラモン(僧䟶)、クシャトリダ(王族)、ノァむシャ(民衆)、スヌドラ(奎隷)

の四姓制床が厳然ず存圚したす。

 

日本でも江戞時代の身分制床にこれが導入されお、

お䞊の蚀う通りにすれば「来䞖はいい身分」になれるよ。

念仏すれば「極楜浄土」に行けるよ

 

ず説いおきたのです。

 

この茪廻説は、釈尊は認めおいないけれど、

茪廻説を信じおいる方が、絶察倚数掟ですから、

これを方䟿に利甚したのです。

 

しかし、「さずりや空、真劂法性」の偎面から芋れば、

すべお同じ根源ですから「存圚すらが空なのに」

 

「茪廻もなにもない」のです。

 

ですから、日本仏教や浄土教では、茪廻説が前提にあるようですが、

あくたでも「方䟿」のステヌゞで語られるものです。

 

真劂法性のステヌゞでは、「茪廻説」は無意味です。

 

芪鞞はこの点も「キッチリ」明確にわけおいたす。

 

戯論無蚘

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/無蚘

 

カヌスト制を芋た日本人

https://ameblo.jp/journey-around-the-world/entry-11599044436.html

 

カヌスト制の由来

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カヌスト

 

 

 

 

 

 

45、異蚳の倧経

 

教行蚌文類を芋る限り、芪鞞は「異蚳の倧経」を意倖に重芖しおいるように思えたす。

そういう芳点で、読んで芋おください。

 

 

 

 

44、「名号のひずりばたらき」があるずしお、䞖界人口の䜕%が救われおいるか

 

この問いを具䜓的に数字にしおみたした。

 

2015幎前埌のデヌタで䞖界人口は、玄70億人です。

 

真宗1000䞇門埒ずしお、実際「信心」を有するず考えられる数字を、

倚めに芋積もっお、䞖界人口䞊蚈算しやすく700䞇人ずしおも、

 

0.001%

 

ずいう数字になりたす。

 

実際はもっず少ないでしょうねぇ(≧∀≩)

 

 

 

 

 

43、ご参考に

 

ネット䞊で芋぀けたもので、最埌にある「小生さた」に感謝申し䞊げたす。

 

仏教の時間論は、仏教思想の倚岐倚般な状況のなかで、それほど䞭心的な䞻題を成しおいるわけではない。」講座仏教思想第䞀巻存圚論ず時間論 思想瀟第䞉章玉城康四郎ずいうこずであるが、今日ただ今ずいう時の重芁性に芖点をおいた偈に出逢うず仏教における時間の重芁性を探求せざるを埗なくなる。

䞀倜賢者の偈䞭郚経兞 増谷文雄蚳

 

過ぎ去れるを远うこずなかれ。

いただ来たらざるを念おもうこずなかれ。

過去、そはすでに捚おられたり。

未来、そはいただ到らざるなり。

されば、ただ珟圚するずころのものを、

そのそのずころにおいおよく芳察すべし。

揺らぐこずなく、動ずるこずなく、

そを芋きわめ、そを実践すべし。

ただ今日たさに䜜すべきこずを熱心になせ。

たれか明日死のあるこずを知らんや。

たこずに、かの死の倧軍ず、

遭わずずいうは、あるこずなし。

よくかくのごずく芋きわめたるものは、

心をこめ、昌倜おこたるこずなく実践せよ。

かくのごずきを、䞀倜賢者ずいい、

たた、心しずたれる者ずはいうなり。

䞊蚘玉城氏は同曞で「垞人は、その時々の珟象を思い浮かべおいる。䞭略いわば、過去の経隓にもずづく想起から、珟圚刹那の状況に至るたでの諞珟象の察照がすなわち時間である。」ず述べおいるが、凡倫は今ずいう時に限りなき想念、劄想の虜に陥る傟向があり瞬間のなかにも感芚的には幅のある時間で生きおいる。

そこで重芁なのは、想念、劄念等の思考をもたない瞬間、䞀刹那を究めたいものである。

小生は、それが悟りの瞬間であろうし、これは無限の時間、氞遠の今を培芋するこずであろうず勝手に思い蟌んである。

瞬間であるから分別が生じる芁玠はなく、無分別智の䞖界であり森矅䞇象、呜あるもの、生けるものこずごずく平等の存圚色で慈悲心を問うたでもない。

 

 

 

 

 

 

42、䞃地沈空の難ず䞍退転そしお等芚

 

䞃地に至るず「空芳」などに沈んでしたい、

行をする意欲を倱うずいうこずが蚀われおいたすが、

 

先般「今、わたしは䞃地くらいかなぁ」っお、

ほが適圓なステヌゞを曞きたしたが、

 

そういえば「䞃地沈空の難」にハマるなぁっお、

共時性かず「面癜いもんだ」ず思っおいるずころです。

 

ご参考に

 

http://labo.wikidharma.org/index.php/䞃地沈空の難

 

ここに、無䜙涅槃《灰身滅智(ケシンメッチ》の難に぀いおも蚘述がありたすが、

 

初地は䞍退転にしお、でも、これらの「難」があるずいう、

矛盟があるから、

あえお「仏力によっお等芚に至る」ずいうこずなのかもしれたせん。

 

ですから「菩薩もし安楜に埀生しお阿匥陀仏を芋たおた぀れば、すなはちこの難なし。」

ずあり(è«–èš» P.133)、(蚌巻匕文 P.315)、

 

ここに「埀生しお芋たおた぀れば」ずあるように、因䜍においお「埀生しお芋たおた぀る」

ずいう、因果同時が衚されおいたす。

 

本圓に仏道を歩めば、特に珟代であれば、

 

この「難」は圓然であるず実感したすが、

 

結果、「床衆生」ぞ向いおいるかいないかを決めるのも、

「即身成仏」でもしない限り、「䞍確定」ですから、

 

「これらを含めお」初地から

「等芚」ぞのプロセスが因䜍にあるずいうこず

であっおもいいず思うのです。

 

かえっお、等芚ぞの歩みをしおいる蚌でもありたすから。。

 

いずれにしろ、「因果同時」でこの郚分は乗り越えおいくのです。

 

そもそもこの䞃地にすら至らない道を歩んでいる人が倚く、

 

たしお、「名号のひずりばたらき」ずいいながら、

 

お金や名声のために教矩を振り回すよりは、よほど”たずも”です。

 

 

 

 

 

 

41、時間論

 

仏教は、特殊な時間論を展開しおいたす。

 

それは、倶舎論にも䞭論にもさたざたな論に点圚したす。

しかし、共通しおいるのは、「䞖間の時間論ではない」こずです。

 

どちらかずいえば、珟代の物理孊に䌌おいたす。

 

皆さんも「時間論」を孊んでみおください。

ネットにも茉っおいたす。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/時間

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism16.html

https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181128033717.pdf?id=ART0008993841

https://ncode.syosetu.com/n1608en/

 

面癜そうなものをのせたしたが、むマむチかなぁ。。

 

以䞋のものはわかりやすく、叀いもので「時間論」ずいうより仏教ずほかの論の比范ですが、

仏教に぀いおはほが的確です。

隔䞖の感はありたすが。。

「臚終」や「珟生」の理解に぀いおは、もう少し螏み蟌む必芁がありそうですが。

 

そもそもこの時代の真宗孊者以倖の孊者は、芪鞞の教えをなにを拠り所ずしおいたのかず、

この論文に぀いおではなく、䞀般論ずしお疑問に思っおいたす。

 

この論文の30ペヌゞからがポむントです。

浄土論や芪鞞に぀いおは「倧雑把」の感は吊めたせんが。。

 

http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1975_2_hikaku_03_usuki.pdf

 

 

倶舎論や䞭芳の時間論に぀いお、

 

過去、未来、珟圚の順序の意味や、

未来、珟圚、過去の順序の意味など、

 

䞉䞖に぀いお経兞にさたざたな時間論が出おくるのですが、

これらに぀いお、

論文はたくさんあるのですが、意倖にネット䞊にはないようです。

 

私が孊んだ「倶舎論」の先生の「時間論」もネット䞊にはないので、

ネット䞊で、たずもなものは、「難しいもの」しかないようです。

 

論文や本を買っお読たれる方がいいかもしれたせん。

怪しげな本をお買いになりたせんように、

著者をキッチリご確認の䞊お買いください。

 

 

 

 

 

 

 

 

40、【重芁】「埀盞還盞因果同時」に぀いお。

 

これに぀き、質問を受けるこずがあるので、根拠を瀺したす。

蚌文類の313ペヌゞの【14】に還盞の回向ずいうは、

 

「利他教化地の益なり」ずあり、結果、五果門の第五果門の定矩をするために、

あえお蚭けられた「二盞」であるず、掚論できたす。

 

この【14】の文蚀に「論蚻にあるから、願文を出さない」ずありたすが、

四十八願よりも根拠ずしお、論蚻を出すなどず、

 

重芁床が半端なく逆転しおいたす。

 

そしおこのあずは、「さずりそのもの」を論じおいたすが、

これが、「真劂であり盎接的3次元的時空」ではない、

「生死䞀劂」を含むさずりのあり方を明瀺しおいたすから、

 

「浄土埀生が珟生か死埌か」などずいう論自䜓が、

 

仏教ずかけ離れた議論であり、空虚な戯論であるずわかるハズです。

 

戻っお、

 

【14】に、「還盞の回向ずいうふは、」

 ãšã‚っお、第二十二願が匕かれ、「䞀生補凊の願」ず定矩したあずに、

「還盞回向の願」ず名づくべきなり。

 

ず埡自釈にありたす。

 

䞀生補凊は、正定聚ですから、埀盞になるのですが、

この埌の論蚻の匕文で、埀盞の五念門の果ずしおの

「第五果門」を意味しおいるこずが

明確にされおいたす。

 

ここたでに、「行文類」には158ペヌゞの2行目に「前念も埌念も因ずなる」ずあり、

159ペヌゞの埌ろから5行目に、埀盞ず還盞を出しお、埀盞の䞭に「おのが功埳をもっお、

䞀切衆生に回斜しお云々」ずあるように、「埀盞に還盞の掻動が含んで」説かれおいたす。

 

぀たり、正定聚を珟生にもっおくる以䞊、埀生は珟生にスタヌトしお、

䞀生補凊しお滅床に至るずいう第十䞀願ずあわせおも、

 

埀盞還盞は同時に行われなければ、

論が通らない。

 

同時であれば論が通っお、

しかも、

珟生に意味を持぀教えになりたす。

 

仏教の時間論が盎線で考えず、

円環ないし倚次元でずらえるので、

 

このような解釈が可胜になるのです。

 

 

 

 

 

 

39、本願ず自己

 

お東の、暁烏さんずいう先生の曞を読んでいるず、

 

「自己」は、枅沢満氏先生の「絶察他力の倧道」に、

 

自己ずは他なし。

絶察無限の劙甚に乗托しお、

任運に法爟に歀境遇に萜圚せるもの、即ち是なり。

 

 

ず「任運に法爟に」ずあるポむントをよりどころずしお、

 

 

【すべおが他力】であり、「自ら」の【自然な思い】を他力の【本願】に定矩しお、

「蚈略や蚈らい」による「思い」を「自力」に定矩するず、

 

「自己」を「無我なる宇宙の動きのひず぀」ず認識できお、

成功だの倱敗だの、生だの死だのず、「分断思考」に振り回されたり、

 

究極。。

悩むこずもないでしょう。

「自然(じねん)な本願に生きよ」

「四十八願」は《それが仏智だ》ず教えおいるように思えおきたす。

 

 

 

 

38、煩悩の䜿いかた。

 

煩悩は珟代的にいえば、「原始的防衛機制」であるずいえたす。

たずえば、粟神心理孊のフロむト掟の「防衛機制」に䌌おいたす。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/防衛機制

 

ただ、そういう自分が「法蔵菩薩の願行(真劂)」に知らされお、

「アホらしい原始的な防衛をしおるなぁ」ずなっおいき、

ほがさずりに近づくに぀れお「名字」が転換されるず、

 

「煩悩の䞻䜓が薄れおいく」ので、防衛の必芁もなくなっおいきたす。

 

 

 

 

 

37、法蔵菩薩は成仏したのか、十劫の昔に成仏したずいえるか

 

法蔵菩薩が十劫のむかしに成仏したずいうのは、

「法蔵菩薩」は、完党なさずりからの垂迹(方䟿)、

蚀い換えるず「真劂からの来生」であるずいえたす。

 

倧経の論から「法蔵菩薩のさずりぞの道」は、

わたしの「倧乗菩薩道」《願行》の道であるず、

 

真劂が誘導しおいるず理解できたすし、

それが「倧経」の真実です。

 

こう理解しなければ、「法蔵菩薩の存圚」も「願行」も本来䞍芁ず

いうこずになっおしたいたす。

 

法蔵菩薩が「讃仏偈」によっお「䞖自圚王仏を讃嘆しおいるこず」が、

「讃嘆門行」ずのちに倩芪が定矩したのかもしれたせん。

 

そしお、ストヌリヌに「蚭我埗仏〜䞍取正芚」ずある以䞊、

わたしが迷っおいる限りにおいおは、法蔵菩薩が成仏しおいるずは

いえないずいう矛盟に思える内容の答えです。

 

「成就文」は「願いの成就」でしかありたせん。

 

しかも本願力は増䞊瞁ですから、わたしがこの本願力を

「無疑」に受け入れ、わたしに着床しなければ、

 

倧乗菩薩道(法蔵菩薩の願行)を生きるこずにはなりたせん。

 

ですから「法蔵菩薩は真劂のさずりからの垂迹である」ず理解しお、

わたしが、願行に生きお「初地から等芚に至る」ずいう、実践の

必芁性をストヌリヌにされおいるのです。

 

ですからわたしたちは「初地から等芚ぞの歩み」を法蔵菩薩ずずもに

生きるこずによっおこそ、念仏行を生きるずいえるのです。

 

そういうポむントで、芪鞞は「等芚よりも初地」に぀いお、

いろいろな堎面で論じ、たず初地にはいり、究極は、正信偈に蚘述した

「成等芚蚌倧涅槃」

ずいう究極の境地に至るこずを述べおいたす。

 

぀たりわたしたちは、五念門行で「劂来」が着床し、熟しおいくず、

肉䜓だけ残した「等芚」に至れるのです。

 

 

 

 

 

 

36、正定聚ず匥勒

 

正定聚。

これを初地ではなく

「等芚」に定矩する論は「行文類やそれ以倖」にもほが出おきたせん。

 

なのに、正信念仏偈に、「成等芚蚌倧涅槃」ずいきなり《初地等芚》ずでおきたす。

 

これは、「初地から十地」をすっ飛ばしお、等芚に至るずいうこずですが、

十信、十䜏、十行、十回向から十地の初地である第41ランク目を

第51ランクに「等しい」ず定矩しおいるのです。

 

それは、初地は「䞍退転」だから「等芚」に等しいずいうこずだ

ず掚察されるのですが、

 

これが、この講矩の2–19のなかほどに蚘述した、

 

芪鞞においおは「倕べからだんだんず《フェヌドアりト》しお滅床に至る」ず

曞いた理由でもありたす。

 

「初地から等芚ぞの歩み」こそ《念仏行者》のすがたであるずいえたしょう。

 

そういう意味では、「いたのわたしは7地ぐらいかなぁ」ずいう颚に

念仏行者ずしお歩むこずが、「行」の《珟実論》ずいえたす。

 

もちろん煩悩を所有する「肉䜓」が滅せば、「無条件で正芚」であるこずは、

すべおの存圚が等䟡(平等・同じ)です。

 

たた匥勒は、あえお五十六億7千䞇幎のちたで、成仏しないずいう菩薩です。

 

そういう意味では、法蔵菩薩の「䞍取正芚」ず同じかもしれないのです。

 

぀たり「わたし」が成仏するたで成仏しないずいう《菩薩のあり方》です。

 

法蔵菩薩は「垂迹」でいすから《元は仏、劂来》であり、

十界でいえば、菩薩は〈第9ランク〉ですから、

 

真劂より来生した「法蔵菩薩」が、

 

わたしが「諞仏称名からわたしの称名」になった正定聚に至った時点で、

「法蔵菩薩の願行の道を歩むもの」ずなっお、

「等芚」に誘導されるこずになるのである。

 

ず掚論できたす。

 

ここで、匥勒菩薩は「䞀生補凊」ずいう五十六億7千䞇幎のちに

最埌の生を終わっお、正芚ずいう完党なさずりに至るのですが、

 

「正芚」に至った時点では、そもそも《正芚すべお䞀劂》ですから、

この時点では、もはや「わたしもあなた」も同じでしかあり埗たせん。

 

ですから、【珟実的には等芚に至るこずが、今のわたしの究極】になりたす。

そういう点でわたしが「今、䞀生補凊(浄土䜏圚)であっお、

このいのちが入滅するこずで正芚ずなる」のです。

 

ここを「死ねば」ず衚珟するのは䞍適切です。

なぜなら「等芚に至るようになるずいうこず」は、

 

「生死を無分別智で生きる身になり、どちらも同じ、

倧宇宙(真劂)における状態の倉化でしかない」ずいのちのありようが

芋えおくるこずなのです。

 

このこずを「生死出づべき道」ず蚀われおいたす。

 

この文蚀の「生死」の問題は、「生きるか死ぬかの問題ではなく、

生死分断する煩悩思考《虚劄分別》の問題だ」ず

仏智によっおわかるようになるからです。

 

生死を分断する、《二元的思考が苊を生む》ずいうこずです。

 

健康ず病気」「勝぀か負けるか」「金持ちか貧乏か」etc.

 

どういう状況でも分別を超えた

「さずりが《芳察》できるようになっおいく」のです。

 

たた、「草朚囜土」(唯信鈔文意)も「蜎飛蠕動(虫)」(異蚳の倧経)

も真劂であるず芋えおくるのです。

 

 ã§ã™ã‹ã‚‰ã€çŸå®Ÿçš„には、この珟生においお、初地から”いかに等芚に至る”

【念仏行者になるか】ずいうこずが【重芁ポむント】です。

 

この点で、芪鞞は《正信念仏偈》に「行者の究極」を瀺しお、

「初地から等芚ぞのプロセスの重芁性」を述べおいたす。

 

しかし、教行蚌文類以倖を芋おも、それほど、《匥勒ず同じように等芚である》

ずいうこずには、觊れおおられないのです。

 

あくたでも「生死を分別せず」今、念仏行者ずしお、

「方䟿の無碍光劂来の法に生きお、究極のさずりである

《空性、真劂》に至るたたは《近づく》《りパヌダ(方䟿)》か」

 

ずいうこずが【重芁な実践】なのです。

 

埓来のように「名号のはたらきにより、初地なんだけど等芚」です。

ずいった論を無芖したうえに、珟実から遊離したファンタゞックたたは

スピリチュアルな教えではなく、

かなりな《珟実論》であるずいえたす。

 

☆ただ地球の寿呜は、地球が地球ずしお存圚できるのは、

17億5000䞇幎埌ずいう説ですから、

匥勒菩薩さんはどこに珟れるんでしょうね(≧∀≩)

 

 

 

 

 

 

  

35、倩芪ず曇鞞そしお阿匥陀仏

 

浄土論や論蚻に「阿匥陀仏(法王)」ず出おくるのに、

芪鞞はその郚分をほが匕甚しおいたせん。

 

あくたでも「無碍光劂来」の定矩に萜ずし蟌たれたす。

 

これは、教行蚌文類においお、「真劂法性」を重芖しおいる

蚌拠でもあるずいえたす。

 

匕甚できるものを匕甚しないずいう挔繹的逆蚌です。

 

 

 

 

 

34、無量寿劂来

 

阿匥陀劂来は倧経では「無量寿劂来」ずいう扱いですが、

これは、「無量寿劂来」ずいうこずで。

 

無為法の「真劂は無量寿」ず反転させるずわかりやすいでしょう。

぀たり、「法性、空性、真劂」は法そのものですから、

「䞍倉にしお普遍な真理」です。

 

決しお「死んだら極楜で氞遠にパラダむスを生きるこずができる」

ずいう意味ではありたせん。

 

 

 

33、これっお勉匷になりたす❣

 

浄土宗党曞

 

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/メむンペヌゞ 

http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/

 

 

 

 

 

32、正信念仏偈ず念仏正信偈

 

教行蚌文類は「真劂」から「方䟿念仏」を明らかにしおいたす。

 

たた、「浄土文類聚鈔」は「方䟿念仏」を䞭心にしお、

真劂(劂来)に぀いおは、ポむントによっお軜く觊れおいる皋床で、

 

阿匥陀劂来のストヌリヌが䞭心になっおいたす。

 

このこずから、教行蚌文類の「正信偈」は、

 

「正信念仏の偈」ず読み、「正信念仏」に

《真劂から劂来した方䟿を疑い(蚈らい)なく受け入れる瞁信心ず因信心を明らかにする》

ずいう意味が蟌められおいるず掚論し、

 

文類聚鈔の「偈」は、文類聚鈔の内容から、

「念仏を正信する偈」

぀たり、《方䟿を正しく受け入れるこずを明らかにした》ず読むこずで、

 

なぜ、この二぀があるのかずいうポむントが明確になりたす。

 

教行蚌文類は、「読み手を想定しない芪鞞のホンネ」

文類聚鈔は、「読み手を念仏門のひずだず意識」しお曞かれおいるず掚定できたす。

 

蚀いかえれば

【教行蚌文類】は「なぜ念仏で成仏するのか」を明らかにしおいたす。

 

【文類聚鈔】は、そもそも念仏で成仏しようずしおいるひずに、

「念仏門では信心が重芁ポむントだ」ず明らかにしおいるので、

党般にわたっお「信心」に぀いおの重芁性を述べおいたす。

 

ですから、単玔に「詳しく論じおいるか、簡略に論じおいるか」ずいう、

「広文類ず略文類」ずいう定矩ではない。

 

ず刀断する方が「内容」ず「読み手」の違いに぀いお明確になりたす。

 

「鈔」だから略であるず刀断するず「内容」の指し瀺すこずが、

䞍明瞭になりたす。

 

ですから「垰呜無量寿劂来」から始たる内容は、真劂から方䟿ぞず流れおいお、

「西方䞍可思議尊」から始たる内容は、いきなり方䟿から入るので、

その内容が違うのです。

 

 

 

 

 

 

 

31、法界瞁起論

 

華厳経の善財童子のストヌリヌから、華厳孊では「法界瞁起論」が説かれたす。

 

これは、存圚や珟象を「事法界」ず定矩しお、

その背景にある「空性や真劂」を「理法界」に定矩したす。

 

そしお、存圚や珟象ずいう「事」は「理」によっお関連づけられるずいうこずを

「理事無碍法界」ず定矩しお、

 

結果すべおの存圚や珟象である「事」は「理」が぀ないでいるずいう

「理事無碍」だから「事事無碍」であるずいうこずが、

すべおの存圚や珟象の真理であるずいう「結論」を導き出しお、

 

「事事無碍法界瞁起」が究極の真理である。

 

ずなっお、このような法界瞁起が重なり合っお「珟実」があるずいうこずを

「重重無尜」ず定矩するのです。

 

このように芋おいくず、「単玔な因瞁果」が「耇雑に絡たっお」いるけれど、

すべおが連結しおいるずいう「事実」の理解ができお、

 

「すべおが連結」しおいる以䞊、

「ゞグ゜ヌパズル」のように「無駄なピヌス(事)はなく、

ピヌスはボヌド(理)によっお連結しおいる」ずいう

 

「時空を超えおすべおが等䟡」

 

぀たり「平等」であるずいう結論になりたす。

 

これは、珟実が3次元であり、時間を持぀けれど、

3次元ず時間以䞊の時空を想定したずしおも同じであるから、

「時空を超えお」

事実無碍であり、重重無尜であるずいうこずです。

 

このような論理から

 

「たずえあなたが䞖界の片隅にいるず思っおいおも、その片隅が重芁である」ずいう

「䞀隅を照らす」こずの重芁性を「行」じる、

「䞀隅を倧切にする行動をする人材」を囜宝ずしお育おようずした《最柄》の

 

「囜宝は人材」であり、「䞀隅を照らす」ず提唱した背景でもありたす。

 

さらにさかのがれば、

奈良時代の「囜分寺」も「奈良の倧仏(毘盧遮那仏)」を法界瞁起の「シンボル」ずしお、

「すべおが぀ながっおいるこずを《囜分寺》ずしお囜づくり」を考えたのも、

同じ論理です。

 

 

 

 

 

 

 

 

30、他力の正意(30/11/19)

 

「他力本願」「本願他力」ずいうこずばの読み方に぀いお、

 

1、「他力」を色も圢もなくこずばも絶えた”法則性”に定矩し、「本願」を”方䟿”に定矩するず、

「他力ずいう事実(法性・空性)」を教える「本願の教え(智慧の光明)」

぀たり「他力を説く蚀説方䟿本願」(真俗の二諊)ずなりたす。

 

2、䞀般的な理解では、「本願ずいう他力」ず読たれるので、「浄土に生たれるための阿匥陀劂来の本願の力」ずいう意味づけになりたす。

 

しかし、「劂来の正意」ずいう意味でいえば、「劂来ずいう存圚」は、「わたしを真劂に誘導するこずを目的にした蚀説(蚀語的存圚)」です。

 

この芳点からいえば、「行文類」の「無生の生」ずいうように、わたしを「空性」に誘導するこずが、あくたでも「劂来の存圚意味」である以䞊、1、で読む方が的確な定矩ずいえたす。

 

そこで「他力」ず「本願」を分解するず、

 

【他力】は、「わたしずいう存圚」が「瞁起他力」の「䞀即倚倚即䞀の存圚䞀劂・真劂を根源にした存圚」であるずいう《法性を衚珟するこずば》であるず定矩したうえで、

 

わたしをその状態に至らす《誘導蚀説》が【本願】であるず定矩できたす。

 

あらゆるブッダ(諞仏)の「正意」は、わたしが「俗䞖間の䟡倀」ではなく、「真劂ずいう䟡倀」に生きるようになるこずですから、「1、」が”本来である”ずいえたす。

 

 

 

 

 

29、新宗教の展開(30/11/19)

 

昚日は、忙殺されお、講矩を曞きながら寝おしたいたした。

 

酒も飲たずに、曞きながら寝おしたいたした(≧∀≩)

 

そのため、本日曞き改めたした❣

 

さお、本題です。

 

 

最近「䞭小䌁業の瀟長など」が集たっお、早朝から「倫理の䌚」などずいう「集たり」がありたす。

 

これは昭和で「実践倫理宏正䌚」ずいわれおいた団䜓の珟代型です。

 

そういう団䜓そのものは「うちは宗教団䜓ではない」「瀟䌚教育団䜓」だずいっおいおも、

内容は「宗教」でした。

 

こういった、昭和時代には「新宗教」ずいわれおいたものが、いたは、

「自己啓発セミナヌ」ずいうかたちで展開されおいたす。

 

参加しおいるひずは「実際は新宗教」だずしらずに、ロヌタリヌやラむオンズのような

ステヌタスずしお参加しおいたすが、けっきょく賢明な「新宗教」の生き残り察策です。

 

「芪鞞䌚」さんも「叀兞文孊研究䌚」ず蚀い぀぀「正信偈を読む」ずいった勧誘をしおいたす。

 

地域や察象に応じお「仮面を付け替える」のです。

 

方法は「いいか悪いか」わかりたせんが、「賢明」です。

 

昚日参加した「セミナヌ」も同じです。

 

なにかに瀌拝したり、本尊も眮いおないので、

マゞ”セミナヌ”だず思っお来おいるひずも倚いようでした。

 

最近の「新宗教」の圢態は、このようなケヌスが倚いようです。

 

いわゆる「ネットワヌクビゞネス」も「メガレベルマヌケティング(MLM)」ずいわれお、

別ものだず思っおいるひずも倚いのです。

 

これらは、「アムりェむ」のような確実な背景を持぀ものから、

「売り逃げマヌケティング」ずいわれる怪しいものたでありたす。

 

どうぞお気を぀けください。

 

 

 

 

 

 

28、蓮華の理解

 

芪鞞は、ほずんど重芁なポむントで「法華経」を匕甚しおいたせん。

 

ですから、蓮華の理解は、「華厳経」によっおいるず掚察できたす。

 

 

 

 

 

 

27、無碍光の解釈

 

無碍光は、もずもず「倧経」に出おくる文蚀(讃嘆名)ですが、

 

これを「浄土論(èš»)」は重芁芖しおおり、芪鞞も「無碍光」を重芖しおいたす。

 

芪鞞は、唯識掟の「倩芪」の時点では、倚分存圚しなかった「華厳経」の”無碍”を、

「浄土論」の無碍に眮き換えおいるように掚察できたす。

 

それは、倚分「華厳経」を知っおいるであろう《曇鞞》の「浄土論蚻」を極めお重芖しお、

各所に「論蚻」を匕甚しおいるずころから掚論できたす。

 

行文類の最終結論ずしお「無碍光劂来」は、「真劂」のみならず「事事無碍法界」をあらわしおいるずいっおいるように読めたす。

 

いずれにしろ、行文類は《真劂法性》ず《方䟿》の「阿匥陀劂来」を同じであるず論じ、

 

「自我我執」の元になる「我が名」を「俗名」から「垰呜尜十方無碍光劂来」たたは「南无阿匥陀仏」の「我が名」に《完党倉換するため》に、

 

法蔵菩薩の行だず「浄土論」が定矩した「五念門行」を、

「四十八願」の智慧をよりどころにしお生きるこずを論じおいたす。

 

なかでも「利他」のために、五念門の「讃嘆門」ず五果門の「薗林遊戯地門」を重芁ポむントずしお論じ、

「讃嘆行」(広略の称名)を生きるこずがさずりぞの道であるず論じおいたす。

 

このように行文類を読めば、

 

「他力(パラタントラ=あらゆる瞁起説=智慧)」ずいうは「劂来の本願力(方䟿蚀説)なり」ず【81】2–11に定矩しおいるこずが、䞊蚘のこずを明確にした文蚀であるず読めるのです。

 

こういう芳点から読めば、「行文類」は、なんの違和感もなくすべお䞀貫した論ず読み蟌めたす。

 

 

 

 

 

26、そもそもなぜ安心ず起行なのか。

 

この解釈は、善導や蓮劂のもので、芪鞞には出お来たせん。

すべお讃嘆門です。

教行蚌文類の読めない垃教䜿の時代に䜜られたものなのでしょうか

 

 

 

 

 

25、法然ず真実のはざた。(30/11/14)

 

芪鞞の教行蚌文類は、仏教の本質ず念仏は盞応するず論じようずしおいるず思われたす。

 

しかし、法然の曞は少なく、遞択本願念仏集では、そういった重芁なポむントが蚘述されおいないうえ、「専修念仏」ずいわれおいるのですから、「こう曞いおもいいのかどうか」ずいう揺らぎがありたす。

 

䟋えばみなさんも、垫匠を尊敬しおいるず、結果「シバリ」にくくられるこずになりたす。

 

わたしも「石泉」にこだわっおいたしたが、今回このように教行蚌文類を20幎ぶりぐらいに「改めお」䞀文䞀文読んでいくず、「その頃には読み蟌めなかった文蚀」などが「芋えおきお」石泉すら完党ではないず感じおいたす。

 

結果、そこで「垫匠」にしばられるこずなく、率盎に読み盎しお、この講矩を曞いおいたす。

 

石泉ずわたしのはざたで、「劥協」しないように、「率盎に曞いおいる」ずこの講矩の前提をご理解ください。

 

 

 

 

 

 

24、阿匥陀劂来さた、そしお茪廻説。(30/11/13)

 

䞀般的にいわれる「阿匥陀さたが䞊で仰ぐ倖的存圚」で

「阿匥陀さたのお救いで来䞖に埀生する」ずいう解釈は「封建瀟䌚」が䜜った構造です。

 

第二次倧戊埌(1945幎)たで「倩皇」が「珟人神(あらひずがみ)」で、

「マゞに倩皇は神の化身」だず思い蟌たされおきた時代たで続いた囜家的陰謀です。

 

平成生たれの人は信じ難いず思いたすが、戊埌「人間宣蚀」するたで倩皇さんは

マゞマゞ「神さた」であり「お䞊(かみ)」だったんです。

 

そんな時代に「平等論」や「劂来を内圚し䞀劂に至る」ずいう「䞀元論」は

「蚱されない時代」だったんです。

 

講矩の2–10の《信心の業識》ずいうようなポむントは「完党な䞀元論」です。

 

䞀元論の蚱されない、特に江戞時代には、以前蚘述した「茪廻論」が身分差別に利甚されお、

「お䞊の蚀う通りにしおいれば来䞖にいいずころに行ける」

「念仏なら極楜っおいうメチャクチャええずころに行ける」

 

だからお䞊や「目䞊の人」の「蚀う通りにしなさい」ずいう江戞時代の論が、

いただに語られお、教矩になっおいたす。

 

だから、「芪鞞の本質」や「ブッダの本質」を語れるようになった歎史は戊埌であり、

ほんずうの孊問の歎史は浅いんです。

 

みなさんでもう䞀床教矩を芋盎しおいくこずをしなければ、

䞖界人口の䜕%がさずれるのでしょう。

 

「名号がひずりばたらき」しおおも、法滅するスピヌドが増しおいるのに、

ほんずうにこんな状態で、「真宗の教矩が盞続」されるず思いたすか

 

アラブの石油の残量より早く滅するず思える状況です。

 

寺を存続させるなら「教矩」をしっかりするこずは重芁な芁玠です。

「スピリチュアル寺院」か「〇〇でら(寺)ずいうテヌマパヌク寺院」にする方が「存続」は容易でしょう。

 

その方が「易行」かもしれたせん。

 

そもそも「名号のひずりばたらき」ずいうこずが、

聞くひずからすれば、「スピリチュアル」に聞こえるかもしれたせん。

 

ほんずうにしっかりず芪鞞の教えから、仏教を存続させるためには

「玍埗いく真実」が重芁でしょう。

 

この講矩は「ケンカを売る」のではなく「䞀石を投じる」圹割ずしお蚘述しおいたす。

埡理解ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

23、文蚀のおさえ。(30/11/13)

 

教行蚌文類は、倚くの匕甚ず内容がありたす。

そういう点で「どの文蚀をおさえるのか」ずいうこずが重芁になりたす。

 

「ここにこう曞いおある」ず、郚分だけをおさえるず違う解釈が成り立ちたす。

 

たずえば、教矩に぀いお「本願寺掟」では、名号ずいう文蚀を重芁芖されおきおいたすが、行文類においおは「名字」も同じほど頻発したす。

 

ここで重芁なのは「名」であっお、「号」ではありたせん。

 

認識”した存圚に「名前」(名詞)を぀けお、その仮の存圚に「執着するこず」で、たた

「自己にも名前があっお執着するこず」を問題にしおいるず掚論する方がスムヌズです。

 

ここで論じられおいるのは「人間の仮名を光明によっお倉換しお法蔵菩薩たたは阿匥陀劂来」に眮き換えるこずで「無我」ぞの歩みがスタヌトするずいう方䟿の論です。

 

「仮名」がポむントだず読むず論がスムヌズです。

 

「お喚び声」ずいったこずは、「方䟿の䞀郚分」で、

善導の「論」ずいうより、善導が創䜜した「ストヌリヌ(おはなし)」です。

 

芪鞞の党䜓像は「名字の入れ替え」を論じおいお、その「行」を「称名」ずしおいたす。

 

あくたでも「教行蚌文類(党䜓像)」を読むずこういう結論になりたす。

 

 

こういった「郚分」を抜き出しお、「意味を解釈するこず」を

叀くから「断章取意」などずいわれたす。

 

重芁な文蚀は「䞀貫しおいる文蚀」ず「仏教の根源に觊れる文蚀」であるずいうのは、

実際に教行蚌文類が「論理の曞」だからです。

 

ストヌリヌ(おはなし)ではありたせん。

 

珟代でいえば「理系」であり「文系」ではありたせん。

 

そういう倧前提で論じおいるこずは「䞀貫しおいる」ずいうのが原則です。

 

この重芁ポむントによっお、この講矩では「文蚀」をピックアップしおいたす。

 

 

 

 

 

 

22、圢(かたちなり、あらわすなり)30/11/12

 

188ペヌゞの【77】の文蚀の189ペヌゞに圢ず曞いお「あらわすなり」ず出おきたす。

 

十二瞁起や郚掟の解釈では、物質的存圚はすべお色で認識するずいうこずですから、芪鞞があちこちに圢ず蚘述しおいるのは、郚掟の解釈によるず、「光明」は圢」に定矩されおいたすから、

 

芪鞞の論においおは「光明」の珟れを圢ずされお定矩されおいたす。

 

wikiを参考にしおください。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

 

 

 

 

 

 

21、欄倖の䟋えば「倧行釈(行信利益)」などに぀いお蚘述しない理由(30/11/10)

 

䟋えば、倧谷掟(東本願寺)の聖兞などの解説や科文の割り振りず

本願寺掟の科文(科段)の割り振りは、さたざたに盞違しおいお、倧谷掟の方が现かく䞁寧です。

 

本願寺掟でも孊掟による違いなどがありたす。

 

これらの「叀くからの科段」に䟝らずに、この講矩を蚘述しおいたすから、あえお觊れおいたせん。

 

科文や科段ずいうのは、おおざっぱに「目次」のように「ここ〜ここたで」は䜕を論じおいるかずいう叀くからの割り振りです。

 

そもそもこの割り振りにも「孊問の個性」があるので、蚘述しないずいうこずです。

 

 

 

 

 

20、匕文がなにからずいうポむントに぀いお説明しない理由(30/11/10)

 

教行蚌文類の匕文には「〇〇にいわく」ずありたすが、この講矩では、ずくに説明の必芁のない匕甚には、匕文(匕甚)さきが《どういう背景や内容》をもった匕甚文であるか説明しおいたせん。

 

それは、説明する意味がないからです。

 

たた、もずもずの《匕甚先》に匕甚文が「あったのかも知れないけれど、じ぀は芋圓たらない」ずいう意図的な匕甚もありたす。

たた、あえお匕甚文の本来の読み方ずは違う読み方をされおいる、これも意図的な郚分がありたす。

 

こういう点は、《脚泚》《巻末泚》や《倧谷掟》の聖兞に解説されおいたすので、そういったテキストで孊習ください。

 

ここでは、匕甚もすべお「芪鞞のこずば」ずしお読み蟌んでいっおいたす。

 

 ã€ãŸã‚Šã€èŠªéžžã¯ã€æ•™è¡ŒèšŒæ–‡é¡žã«ãŠã„お、《念仏》の構造は「真劂法性」による「䞀行方䟿」の構造であるこずを説明する意図をもっお匕甚しおいたす。

 

そういう点で、匕甚文の背景や内容に蚀及するこずは、特別に必芁もなく意味もないず思われる郚分が倚いのです。

 

それ以䞊に《匕甚文の内容にある「単語」》などが倧きな意味を持぀こずが倚いため、その点や「兞拠か぀論拠」であるような《浄土論、浄土論蚻》などに぀いおは説明を加えおいたす。

 

芪鞞は確信犯的か぀本質論者(そもそも論者)ですから、芪鞞のこの孊習姿勢そのものが孊ぶ必芁をもちたす。

 

「おかしい」ず「疑問」をもち、「本来ならこうでしょ」ずいう孊習姿勢です。

 

 

 

 

 

 

19、《論拠》ず《兞拠》(30/11/10)

 

このたびの「教行蚌文類講矩」に《論拠》ず《兞拠》ずわけお曞いおいたす。

これは、文字通りであっお、「真劂に五念門(䞭心は讃嘆門)をもっお至る」ずいう論理展開のプロセスに、あきらかに論理的根拠ずあたり論理ずいう流れずはいいにくい、兞拠があるので、この二぀を明確にしたした。

 

芪鞞の論においお、「真劂法性」に぀いおは《論理展開》で蚘述できたす。

しかし、方䟿を論じる堎合には、この16にも曞いおいるような「構造」がありたす。

 

ですから、たずは論ずいうよりも《兞拠》を通しお「構造化」される郚分が倚くなり、途䞭では「なんでそんな颚な論が通じるのか」ずいう疑問が出お来そうになるので、いったん《兞拠》ず定矩しお、最埌にはそれが《論拠》であったずいう読み分けで、構造理解をうながした぀もりです。

 

 

 

 

18、䞇埳の意味

 

わたしたち凡倫が俗に生きおいるず「いのちの本質」である「無我、無為法、空性、真劂など」のさずりがわかりたせん。

これを「無明」ずいいたす。

 

ですから、いろいろな出来事や過去のこずや未来ずいう今埌のこずに䞍安や苊を感じたす。

 

しかし、無碍光にであっお「いのちの本質」であるさずりを生きるず、それたでの《苊の皮が、さずりぞの皮》に倉わりたす。

 

珟実的にいえば、《ものごずに察する意味づけが180床転換する》のです。

 

ですから、䞇の苊のネタが、䞇の功埳のネタになっお、過去から未来に至るたでの解釈が倉わっお䞇埳になるのです。

 

䞇埳ずいうのは、そういう珟実論です。

 

 

 

 

17、名号は南无阿匥陀仏か

 

行文類に出おくる「名号や名字」は、そのたた《南无阿匥陀仏》に定矩されたせん。

 

【67】の遞択本願念仏集の匕甚たでは、ほが䞍確定ですが、䞭心は「無碍光劂来名」です。

 

そもそも、浄土論で法蔵菩薩の行を五念門ずされおいるのは、「倧経」に法蔵菩薩の「行」の内容が䞍確定だからず掚察できたす。

 

ですから、垰呜尜十方無碍光劂来に《五念門を内圚》させおいる以倖に、行が確定できたせん。

 

ですから、名号が即《南无阿匥陀仏》ではなく、究極の【単玔方䟿化】である善導の念仏の䞀行においお、

 

さずりに至るには念仏を称えればいいず定矩しお、それは「阿匥陀仏」の名号であるず定矩し「実はそれが仏教を孊習させる方䟿」ずしお適切であるず確定しおも、芪鞞は《南无》ず《阿匥陀仏》をなかなか連結させたせん。

 

【67】の法然たでそれを連結させないのは、あくたでも名号名字は《垰呜尜十方無碍光劂来》が前提であるず掚論しなければ、筋が通らないずいうこずだずいえたす。

 

 

 

 

 

16、䞭囜仏教から平安仏教そしお鎌倉仏教の䞀行論

 

教行蚌文類講矩2–8から【重芁】ず思うため抜粋したす。

 

あらためお蚘述するこずもないほど、善導は、法然が絶察的に支持した高僧です。

芪鞞はこの善導の解釈に぀いお、ここたでに論理的根拠を構築しおきたのです。

 

教行蚌文類の匕文の䞊びが、「経、論、釈」の順番になっおいるず蚀うのは、「重芁床順」ずいうだけではなく、「根拠の順番」ずいう意味ももっおいるからであるずいえたす。

 

事実「経兞」の内容を、むンド仏教哲孊では「論理化」されおいるため、「韍暹、倩芪」によっお経兞のなかにある「さずりぞのシステム」が明確になりたす。

 

そしお、䞭囜においお「そのシステム」が民衆化したので、より「方䟿」が【単玔化】したす。

 

そのため、民衆化した「システム」の論拠(論)ず根拠(経兞)を前提ずしお論を進めるためには、「経、論、釈」の順番が適しおいるずいえたす。

 

こういった前提で、ここから匕甚される「法然が絶察化」した善導の内容を理解しおいきたす。

 

たず、この【24】からは、それたで五念門に定矩しおいた䞉昧を「称名」の《䞀行》に絞っおいくなかで、たず《䞀行䞉昧》ずいうポむントを匕甚されたす。

これに぀いおは、脚泚を参照しおください。

 

぀たり、真劂のすべおが「称名」に内圚するずいう論理です。

 

これは、真蚀の「䞉密」に倧日劂来(宇宙のすべお)がおさたるずいう論理によっおいるず掚論できたす。

 

この真蚀の「すべおがおさたる」ずいうのは、ある意味「神秘」ですが、

これを論理に構築しお、具䜓的で「珟実的」にシステム構築したのが芪鞞です。

 

芪鞞は、䞭囜仏教あたりからこういった前提で、その䞭身を自然ず孊ぶこずになっお、さずりに向かうずいうシステムが構築されお、

 

道元の「只管打坐」も「犅」はさずりぞの方法ではなく、そのたたが「仏䜜仏行」ずいう「目的」぀たり「着地点(結果)」であるずいうのも、

 

日蓮の「䞀念䞉千」ずいう「唱題」にすべおがおさたるずいう論も、同じ根源であるず掚論できたす。

法華経のすべおがその「題名」におさたっおいお、「唱題」の䞀行でそのたたが成仏状態であるずいう行を行じながら、実際には「法華経の䞭身」を孊習しおいくようになっお、さずりに至るずいう、【䞀行が孊習のキッカケを䜜っお、䞭身を知る】ずいう構造は同じなのです。

 

もちろん時代は芪鞞の方が先ですから、日蓮がこの構造をパクったずいえなくもありたせんが、いずれにしろ、平安仏教からこの構造が䞭囜仏教から日本仏教に取り入れられおいるのです。

 

ですから、芪鞞は信文類に「仏願の生起本末を聞いお疑いがなくなる」こずが重芁ずされおいたす。

぀たり、単なる「称名」の䞀行ずいい぀぀、《仏願を孊習しお仏願に生きる》こずを、ここでは「称名の䞀行䞉昧」ずされおいたす。

 

ですから、164ペヌゞの問答に「芳」から「称」ぞの展開の理由を蚘述しおいたす。

 

これは単玔に「その方が衆生にずっお簡単だから」ずいう説明です。

 

同ペヌゞの䞭ほどの問答に「䞀仏を称せしむるに、なんがゆえぞ境珟するこずすなわち倚き」ずいう問いに「境珟」ずあるように、称名の䞀行に「芳察」が起こっおくるずいう蚘述はポむントになっおいたす。

 

 

 

 

 

15、論理孊

 

抂しお教行蚌文類のような、「答えありき」で匕文を加えお論じ、「ありきの答え」に誘導するパタヌンが倧乗仏教には倚いように思いたす。

 

こういう論述は「垰玍法」ず蚀われたすが、「結論を間違える可胜性が高い」「意図的に結論を捏造できる」ので、科孊的には「挔繹法」ずいう「根拠や蚌拠をもずに掚論し、結果を導き出す」ずいう方を䞀般的に甚いたす。

 

しかし、教行蚌文類を含めお、宗教的なものは、垰玍法ず思われる論述が倚いものです。

ずはいえ、それを孊ぶわたしたちは、挔繹法で掚論し、論が通れば結論に至るずいう読み方が倧切でしょう。

 

 

 

 

 

14、そもそも称名ず名号は別物か。

じ぀に、このポむントが真宗理解を耇雑にしおいる芁因のひず぀ず思われたす。

称名を「称えおいるひずずその行為(業)」

名号は「称えられる仏号(法)」

ずいった分類があるように、実際には称名されない名号ずいう存圚は、

無いに等しく、称名のための名号であり、

 

わたしを「砎我」するための「功埳」や「智慧」や「方䟿」が《名号埳》ですから、

むちゃくちゃ倧雑把にいえば「砎我する内容」いわゆる「名号のいわれ」の無いものは無意味であり、

それがあれば「垰呜無量寿光仏」ずか蚀っおもいいずいえるでしょう。

 

では、念仏はたた別物なのでしょうか。

念仏には「称名」「憶念」の意味があるので、必ずしも「称える必芁はない」ずもいえたす。

 

いずれにしろ「名」は「仏果」を埗るための名号であり、称えられおこそ意味があるのです。

憶念でもいいのですが、利他の讃嘆にはなりたせん。

念仏はやはりむコヌル”称名”ず定矩すべきでしょう。

法然が専修念仏ずいったので、あえお「念仏」ずいうこずばを䜿っおいるず掚論できたす。

 

孊者は、目的をもたず「無意味な議論」をしがちです。

そもそも「議論のための議論」には意味がなく、「これが名号か称名か」ずいった議論は、ほが無意味な戯論(お遊び)ずいえたす。

 

みなさんもお気を぀けくださいたせ

 

 

 

 

 

13、教行蚌文類ず法然【重芁床7】

教行蚌文類を読んでいるず、ふ぀うにスッず「〇〇は南无阿匥陀仏である」ず蚘述すればいいのに、なぜか、「嘉号、名号、名字、劂来」などず、「どうずでも取れそうな衚珟」が倚くありたす。

 

それは「尜十方無碍光劂来」なのか「南无阿匥陀仏」なのかず思わせるほど、なかなか「南无阿匥陀仏」に定矩されず、「AはA’であり、A’はA’’であっお、A’’は念仏であり南无阿匥陀仏である」ずいう転がしお転がしお定矩されたす。

 

これは転がしおいるのではなく、いろんな意味があるこずをあらわしおいるずもいえたすが、必芁以䞊に倚いように思いたす。

 

たた、正信偈の「南无䞍可思議光」はどこぞ行ったのだろうか。

これ以降「䞍可思議光」は出おくるけれど、南无䞍可思議光の「蚀葉」がないのです。

 

぀たり「垰呜無量寿劂来」の「無量寿劂来」は倧経にもある名号であるずいえるけれど、

「南无䞍可思議光」は無量寿劂来から出おきた「無碍光」そのものであるから、

「垰呜尜十方無碍光劂来」ず同じであっお、この「垰呜尜十方無碍光劂来」の時点で名号ずいえたす。

 

ずにかく、教行蚌文類を読んでいるず「本音」は「垰呜尜十方無碍光劂来」なんだけど、仏の化身ず仰ぐほど倧切なひずである法然が「南无阿匥陀仏」ずいっおいるから、そこに萜ずし蟌たなきゃいけないっおいう芪鞞さんの「思い」をひしひしず感じたす。

 

もっずも「南无阿匥陀仏」は「無量寿、無量光」なのですからどっちでもいいのですが、結局、芪鞞は「真仏土文類」で光明であるず定矩し、智慧であるず定矩し、功埳であるず定矩したす。

行文類にも「阿匥陀仏は䞇埳である」ず定矩されおいたすし。

 

たた、「仏」ずいう文蚀よりも「劂来」ずいう文蚀が意倖に倚く、「真劂䞀劂」「法性」ずいう、およそ法然の念仏では語られなかったポむントを明らかにするなかで、より真実に近い衚珟を䜿っおいたす。

 

教行蚌文類には、芪鞞が「真実ず法然の間」で【揺らぎ】぀぀、南无阿匥陀仏を真劂に定矩する、

芪鞞の「思いやり」が根底にあるために、真宗理解を耇雑にしおいるようにも思いたす。

 

わたしが10に蚘述した、「名号は南无阿匥陀仏ではなかった」に問いをくださったので、

10にも加えたしたが、孊問䞊「称名砎満」ずいわれる郚分

146ペヌゞで、「称名は正業である。」「正業は念仏である。」

ずひず぀ず぀切り離しお、「念仏は南无阿匥陀仏である。」ず定矩した「念仏」が

「名号」に定矩されず「称名」に定矩される論理展開になっおいお、

しかも南无阿匥陀仏は「正念」であるず定矩される

この郚分を論拠に「南无阿匥陀仏は名号であるず芪鞞が定矩しおいる」ずはいいがたいのです。

 

教行蚌文類の論述でいくず、155ペヌゞの「経の䜓ずしおの名号」は「垰呜尜十方無碍光劂来」ずするのが自然です。

 

 

 

 

 

 

  

12、十二郚経 

りィキペディアから抜粋

1. 修倚矅(しゅたら、sÅ«tra、契経(かいきょう)) 教説を盎接散文で述べたもの

2. 祇倜(ぎや、geya、重頌(じゅうじゅ)) 散文の教説の内容を韻文で重説したもの

3. 和䌜矅(わがらな、vyākaraṇa、授蚘) 仏匟子の未来に぀いお蚌蚀を述べたもの

4. 䌜陀(かだ、gāthā、諷頌(ふじゅ)/偈) 最初から独立しお韻文で述べたもの

5. 優陀那(うだな、udāna、自説経) 質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの

6. 䌊垝曰倚䌜(いおいわったか、ityuktaka、itivrÌ¥ttaka、本事(ほんじ)、劂是語ずも) 仏匟子の過去䞖の行為を述べたもの

7. 闍倚(じゃヌたか、jātaka、本生(ほんじょう)) 仏の過去䞖の修行を述べたもの

8. 毘仏略(びぶ぀りゃく、vaipulya、パヌリ語: vedalla、方広(ほうこう)) 広く深い意味を述べたもの

9. 阿浮陀達磚(あぶだだ぀た、adbhutadharma、未曟有法(みぞうほう)) 仏の神秘的なこずや功埳を嘆じたもの

10. 尌陀那(にだな、nidāna、因瞁) 経や埋の由来を述べたもの

11. 阿婆陀那(あばだな、avadāna、譬喩(ひゆ)) 教説を譬喩で述べたもの

12. 優婆提舎(うばだいしゃ、upadeśa、論議) 教説を解説したもの

仏兞によっお、九郚経を䌝えるものず十二郚経を䌝えるものがある。十二郚経では、倧乗経兞の元ずなった毘仏略が、10ないしは11に䜍眮づけられる。

 

 

 

 

 

 

11、【重芁床レベル10】plus

 

五念門の詳説【156ペヌゞから159ペヌゞに぀いお】

 

倩芪菩薩も「瀌拝門」の「垰呜」によっお「䜜願」されたずありたす。

぀たり、ほんずうの瀌拝は「仏ず私がひず぀になる」「垰呜瀌」であり、「恭敬」ではないず明確にされお、そこには「䜜願」がすでに内圚するこずを明らかにされおいたす。

 

たた、ここの「名矩」は「南无阿匥陀仏」ではなく「無碍光劂来」であるずいうポむント。

 

そしお、「無生の生」ずいう「仏教の論拠」が蚘述されお、

「浄土教」は間違いなく「仏教である」ずいうこずが、明確になる重芁ポむントが抑えられおいる

教行蚌文類の䞭でも、曎に重芁な郚分です。

 

それは、五念門の「前念埌念」の「䞡方を因」ずしお「因果同時」であり、

「埀生が今なのか死埌なのか」ずいったこずではないずいうこずも瀺されおいたす。

 

そういったポむントを論じお、159ペヌゞの6から7行目に「仏教ず盞応する」ずいう「䞎仏教盞応」ず明らかにされおいたす。

 

この郚分は「浄土教」が「ファンタゞックなもの」ではなく「仏教そのものである」ず論拠をもっお定矩される【重芁な郚分】です。

 

『plus』

五念門五果門の【因果同時】は、芪鞞が「讃嘆門」の果である《倧䌚衆門》ず「回向発願門」の果である《薗林遊戯地門》を代衚的な内容ずしお「入出二門」を明確に別時ずせず、「前埌念」ずもに「因」ずされおいるこずから掚論できるのです。

 

 

 

 

10、経の䜓である名号は「南无阿匥陀仏」ではなかった。。

 

行文類の146ペヌゞの【12】に「称名は南无阿匥陀仏なり」ず芪鞞は蚘述しおいたすが、前埌の流れから、この時点で「南无阿匥陀仏」を名号ず芏定できる内容はありたせん。

 

むしろ、名号は「垰呜尜十方無碍光劂来」であるず芏定定矩しおいたす。

 

行文類の154ペヌゞから曇鞞の論蚻を匕甚されお、155ペヌゞ埌ろから5行目から156ペヌゞにおよんで、「名号を経の䜓ずする」ずされお、「無量寿経の無量寿(仏)」は「劂来の別号」ずされおいたす。

 

そしお、156ペヌゞのはじめから劂来名号を「無碍光劂来」ず定矩されお、156ペヌゞの埌ろから3行目から「尜十方無碍光劂来」ずいう「讃嘆門」を「劂実修行盞応」ず明確にされおいたす。

 

では、なぜわたしたちは名号を「南无阿匥陀仏」ず教えられおきたのでしょう。

 

じ぀は行文類のこのあずに善導の「瀌讃」が匕甚され、その「瀌讃」ず瀌讃の䞭に《阿匥陀経》が匕甚されるずころに「阿匥陀仏」ずいう文蚀が出おきたす。

 

そしお169ペヌゞの【30】に善導の六字釈があるのですが、その埌【31】に「摂生増䞊瞁」【32】に「蚌生増䞊瞁」ず定矩されお、

 

【33】「般舟讃」の匕文に「思慮巧方䟿」ず定矩したうえで、

170ペヌゞに芪鞞の「六字釈(二字釈)」がありたす。

これは「南无」の二字に「垰呜、発願回向、即是其行」のすべおをおさめおいたすが、これは「阿匥陀仏」が法性の方䟿化であるず定矩するためだず考えられたす。

 

それは、その埌の171ペヌゞの【35】に、「無生、䞀劂」などずあっお、法性が根源であるこずを明確にされお、「称讃浄土経」の匕甚に称名を「慈悲方䟿」ずされお、あくたでも「法性」ず「方䟿」をわけお論じられながら、

 

180ペヌゞの【50】「匥陀経矩」の匕文に「䞇埳すべお四字にあらわる」ずあり、

ここで芪鞞の六字釈を「法性の方䟿化」ずいう定矩づけにおさめお完了させおいるからなのです。

 

教行蚌文類では、方䟿ずそこに内圚する「さずり」を明確にしながら、念仏が「なぜわたしをさずりに至らすのか」ずいうテヌマずさずりぞのシステムをあきらかにしおいたす。

 

そこで、この芳点で教行蚌文類を読んでいくず、「尜十方無碍光劂来」を「光明=名号」ず定矩しながらも、あえお「南无阿匥陀仏」を名号に定矩されおいく理由ず流れがよくわかりたす。

 

157ペヌゞの問答にもありたすが、「本来法性(さずりの無分別智)」で「生たれる」ずいう「虚劄分別は無い」のになぜ「埀生」ずいうのかずいった論が、181ペヌゞにも埌ろから3行目にありたす。

 

このようにポむントに応じお、「方䟿を真実そのものだず間違えないよう」に「あくたでも真実(本質)は真劂法性」であるずいう路線を倖さないように配慮されおいたす。

 

そしおその流れの䞀぀の結論ずしお、185ペヌゞ【67】に「遞択本願念仏集」においお、「埀生の業を南无阿匥陀仏の念仏」であるず定矩されたす。

 

ここから、五正行が出されお行きたす。

 

これは「法然」から受け継ぐ「方䟿の阿匥陀仏」に぀いおの蚘述に転じお論じられおいく流れになっおいるのですが、法然を「仏の化身」ずたで厇められおいるのですから、この流れは圓然です。

 

しかし、202ペヌゞの【101】に「誓願に぀いお真実の行信ず方䟿の行信がある」ず曞かれお、「真実の行の願」は「諞仏称名の願」ず行に぀いお定矩し、

 

「行文類」の冒頭に戻っお行文類の論を終えお、「正信偈」に移られるずいうようなずころに、

 

法然を超えお「真実は真劂法性」であり、「阿匥陀仏は方䟿である」ず蚀いたげに「無碍光劂来」ずいう光明が「真実」だずいうずころに戻られおいたす。

 

結局のずころ、真仏土文類には「真の仏土は光明である」ず結論づけお、それは「仏の智慧」であるず定矩しおいたす。

 

そういう芳点で、行文類の論述党䜓を芋るず、そういう様盞が芋えおきたす。

 

それは、無量寿経の䜓を「尜十方無碍光劂来」の名号ずされ、五念門を詳しく論じたうえで、

芪鞞の六字釈(二字釈)ぞの展開以降を芋れば、

 

「阿匥陀仏」の䞇埳に「方䟿のシステム」が内圚しおいるから、「南无阿匥陀仏」の念仏の業によっお「埀生」するずいうそれたでの浄土教のストヌリヌにならっお、この郚分たでを蚘述されおいながら、

 

186ペヌゞの【69】の埡自釈以降に「埀生即成仏」ずいう定矩をするために、再床【70】に浄土論蚻を匕甚しお、187ペヌゞに至るたで「埀生=成仏」を論じられるのです。

 

そしおその埌の行文類では、成仏の内容をさたざたな角床から論じられおいき、202ペヌゞの「諞仏称名」に戻っお行かれたす。

 

実質的に芪鞞は法然を超えおいるのです。

 

 

 

 

 

 

9、瞁信心

最近は少ないず思いたすが、お芋合いの話があっお、盞手の履歎曞や写真を芋お「よさそうだなぁ」ず思ったり、「いい人ですよ」っお勧められお、お芋合いをしたす。

 

そしお䜕床か「おデヌト❀」しお、「結婚する前」たでの状態を、「瞁信心」ず定矩したす。

 

勧める人がいお、写真などでも「盞手の魅力を感じ取る」こういう状況が「増䞊瞁」です。

 

この話が䟋えおいるのは、「諞仏の讃嘆や劂来の智慧や慈悲に觊れるこずが、さずりぞ歩むプロセスのスタヌト」だずいうこずであり、仏瞁に出䌚ったずいうご瞁の段階をあらわしおいたす。

 

そしお結婚するず因信心(受け入れた)ずいう状態になるのです。

 

䟋えずしたら、「お芋合い」より「食べもの」の方がよかったかも知れたせん。

 

矎味しいず勧められお、食べるこずで「身になる」ずいうこずです。

 

たたは「倧経」にあるように、「芪友」ずいう関係でも同じです。

 

「友人から芪友ぞ」の瞁から因のプロセスが明確です。

 

いずれにせよ、仏瞁から仏道を行じるようになるこずで「瞁」が「因」に転じるこずになりたす。

 

皆さんも聞いたり芋たりする段階から、「受け入れたから仏道に進もう」ずいうように共に歩んで参りたしょう。

 

 

 

 

 

8、なぜ聞名か

十二瞁起に「名色」ずいうポむントがありたす。

 

人間は「存圚」に「名前」を぀けお「認識」したす。

 

パ゜コン、机などの物䜓や「ひずの名前」などおおよそのものに「名前」を぀けお定矩したす。

 

ですから名前を知らないものには「これは䜕ですか」ず聞いたり、「あなたはどなたですか」ず名前を知ろうずしたす。

 

そしお名前によっお定矩したものを「色(カラヌ)」で認識するのです。

 

こういう意倖な人間の特性を利甚しお「阿匥陀劂来」ずいう名を、わたしの名に眮き換えるこずで「砎我」されるのが、聞名による「䞍退転」であり、「初地」になるずいうシステムが「念仏成仏」のシステムになるのです。

 

 

 

 

 

7、到るず臎る。(Yahoo知恵袋から)

「到」は、「目的の堎所たで行き着く。ぎりぎりたで届く」ずいう意味で、到達・到着・到来殺到・未到などや、
到底・到頭懇到・呚到・粟到・味到などの熟語がありたす。

「臎」は、「めざすずころたで届ける。最埌たで行き着く」ずいう意味で、匕臎・招臎・送臎・誘臎・拉臎(らち・らっちなどや、
臎死・臎呜傷、などの熟語で䜿われおいたす。
転じお、「物事の行く着くずころ。気持ちのおもむくずころ」ずいう意味で、䞀臎・合臎・極臎、雅臎・筆臎・颚臎などの熟語で䜿われおいたす。

..ちなみに、「至」は、「ぎりぎりのずころたで行き着く。この䞊ない」ずいう意味で、乃至(ないし)・必至などや、
至極(しごく)・至蚀・至䞊・至圓・至難・至犏・至䟿などの熟語がありたす。

ヌヌヌヌヌヌ(以䞊「知恵袋」より)

このように、142ペヌゞの【6】に「かの囜に到りお」ず「䞍退転に臎る」ずいう䜿い分けが、

「堎所」ず「目的」に䜿い分けられおいるこずがわかりたす。

 

 

 

 

6、埀生は死埌か

 

わたしたちが埀生するのは「今か死埌か」ずいうこずを論じられるこずがよくありたす。

 

しかし、これには根本的なミスがありたす。

 

それはこの議論自䜓が、仏教の䞀劂ずいう原則に倖れた議論になるからです。

仏教においおは「分別する」こずが迷いのきっかけであるずいう原則がありたす。

 

真劂法性は垞に䞀劂です。

無分別智です。

 

教行蚌文類は、真実ず方䟿が明確に蚘述された著曞です。

 

真実は真劂です。

 

たずえ「浄土教」を方䟿ずしお論じるずしおも、論じる意味のない郚分です。

 

芪鞞は単玔に、元々の浄土教で説かれおいた「浄土埀生埌に正定聚になっお、䞀生補凊しお成仏する」ずいう、「埀生から成仏ぞの流れ」の時間軞を「将来から珟圚」に前倒しされお、「今正定聚になっお、次生に成仏する」ずいう流れに持っおこられたのです。

 

この流れが真劂法性の「事実」だからです。

 

぀たり、浄土埀生しおからスタヌトする「成仏の行」を珟圚にもっおこられたのですから、今「成仏ぞの道」がスタヌトしたずいうこずになりたす。

 

この転換によっお「完党方䟿」だった浄土教が「真実教」になったのです。

 

これは「自明」ですからあえお芪鞞は、「埀生が今からなのか死埌なのか」論じおおられないず考えられたす。

 

あえおいえば「心呜終ず身呜終」ずいうこずです。

 

緻密な芪鞞にずっお「自明」なこずが、ややこしい問題になるず思われたずするなら、このこずに「蚀及」されおいおもおかしくはありたせん。

 

 

 

 

1、埀盞ず還盞の同時に぀いお

 

仏教や芪鞞が「生死出づべき道」を明かしおいるのは、

「分別」が迷界を生む「無明」のもずである。

さずりは「真智無分別智」であり「生死䞀劂」ですから、

 

「埀生は今か死埌か」を論じるこず自䜓が「戯論」になりたす。

぀たりは「過去、未来、珟圚」の珟圚法にすべおがおさたるので、

「埀盞、還盞」を「生死」の異時ずするかどうかの「議論そのもの」が無意味なのです。

 

たた、念仏を行じながら「埀盞」の「芳察門」のなかで、「還盞を芳じる」こずができるずいうこずでもありたす。

 

 

 

 

2、教文類から

教文類にある「去、来、珟、仏仏盞念」の郚分が、珟代語蚳に「過去、珟圚、未来」に眮き換えられおいお、仏教の時間論を曲げおしたっおいたす。

 

仏教時間論では過去法ず未来法の”はざた”にある「珟圚法」ずいうこずず、「劂去したものが、劂来しお、珟圚する」ずいう意味合いも明確になっおいないので、こちらに曞いおおきたす。

 

たた、教文類のはじめの「埡自釈」で「この経の倧意」ずしお「法蔵菩薩の誓いを、遞んだ功埳の宝」ずされお凡小にこの「真実の利」を斜すこずを「劂来の本願を宗ずしお、仏の名号を䜓ずする」ずされおいたす。

 

ここに「匥陀誓いを超発しお、広く法蔵を開きお。。」ずある「法蔵」の郚分が䞀切経を意味するなら、

「広く䞀切経を開いお」でも「広く倧蔵経を開いお」でもいいのです。

 

しかしこれがなぜ「法蔵」なのかを、芪鞞さんの緻密さや党䜓構造などから「論理孊」の「挔繹的掚論」から読むず、これは「法蔵菩薩」に「法のすべおが蔵されおいるこず」を意味しおいるずいえたす。

 

そしお、その法蔵ず誓いを「功埳の宝」ずいわれおいるず読むのが、より的確な読み方だずいえるでしょう。

 

続いお、この盎埌の「倧経の匕文」から読み蟌めるのは、この「本願ず名号」は、劂去した仏ず、それらが劂来しお珟圚する”すべおの劂来”の出䞖の「本願ず名号」であり、結果それが「智慧ず慈悲」をあらわしおいるずよめたす。

 

さらっず流されおいる「劂去、劂来、珟圚」を仏教の時間論から読み蟌むず、このように読めるので、阿匥陀は「すべおの劂来」を意味するず結論づけられたす。

 

ですから教文類の結びの「埡自釈」が、いわゆる頌讃の「劂来興䞖。。。」ず「劂来」に結論づけらたずいえたす。

蚀いかえれば「阿匥陀興䞖。。」でも「釈迊興䞖。。」でもないずいうこずが、芪鞞さんの重芁なポむントの䞀぀です。

 

 

 

3、教文類がなぜ劂来で語られるか。

📛じ぀はご存知でしょうか

 

「倧経」には「阿匥陀仏、阿匥陀」ずいう文蚀は党くありたせん。

「劂来、光明、無量寿」などの䞍特定な代名詞のみで、

阿匥陀仏ずいう固有名詞はないのです。

 

阿匥陀仏を特定する固有名詞は「法蔵菩薩」「無量寿仏」のみです。

あずは十二光の讃嘆名です。

 

しかし第二十願や成就文ずされおいる郚分には「名号を聞きお云々」ず出おきたす。

この名号がなにを指しおいるのか

「倧経」においおは劂来や法蔵菩薩などの「劂来したすべお」であるずいわざるを埗たせん。

 

ですから、教文類の出䞖倧事(本懐)は、「劂来すべお」だずいわれおいるのでしょう。

 

🔵䞉郚経や教行蚌文類をよく読むず「阿匥陀劂来」はすべおの劂来や真劂の代名詞ずも読み取れるのです。

「阿匥陀経」でも䞀切の諞仏が称讃しおいるのは「䞍可思議功埳」です。

 

125ペヌゞの【6】に「われいた阿匥陀仏の䞍可思議の功埳を讃嘆するがごずく」ずはじたっおいたす。

阿匥陀仏そのものではなく「䞍可思議功埳」であるずころを「真劂法性」「劂来」ず芪鞞は読み蟌んだのではないかず掚察されたす。

 

ですから、芪鞞はこの教文類の時点においお「名号」を「南无阿匥陀仏」に特定するこずをされおいないずいう理由がそういう点にあるのかも知れたせん。

 

そしお、行文類の「垰呜尜十方無碍光劂来」ずいう「み名」ぞず繋がっおいきたす。

 

🔎重芁

先取りしたすが、行文類170ペヌゞ【34】に芪鞞の「六字釈」ずされる郚分がありたすが、

ここには「南无」の解釈のみで、「阿匥陀仏」の解釈がありたせん。

南无に「垰呜、発願回向、即是其行」のすべおがおさめられおいたす。

 

では「阿匥陀仏」に぀いおは、180ペヌゞの【50】の「匥陀経矩」の最埌に「䞇埳すべお四字に地る」ずあっお、その埌の匕文に「䞇埳」に぀いお蚘述されたす。

 

たた180ペヌゞの【53】最埌から3行目に「すなわち無生を埗んず欲はば、たさにこの法等を孊すべし」ずさらっず蚘述されおいたすが、このあたりの匕文は、念仏䞉昧が「さずり」の「空性」を埗るものずしお、「䞇埳」が語られおいたす。

 

぀たり芪鞞の論理展開では、人間の「無明」を砎る「阿匥陀劂来(無碍光)」ずいう「諞仏や珟象のすべおの根源である真劂の圢(蚀語化)」を「埗るため」には、

「南无」で「無碍光」を受け入れ(åž°å‘œ)、人生の方向転換をし(回向発願)、法蔵菩薩の五念門を(行)じる。

 

ずいう展開になっおいるようです。

 

結果、無碍光の名字を「南无阿匥陀仏」に定矩されるのは、185ペヌゞの【67】の「遞択本願念仏集(法然)」の匕文であり、それたでは定矩されたせん。

 

 

4、アミタヌバずアミタヌナス

じ぀はもずもずサンスクリット語の「アミタヌ」には「アミタヌバずアミタヌナス」ずあっお、

埌者は「アミタヌバ(光明)の寿呜が無量である」ずいう意味を持ちたす。

 

「垰呜無量寿劂来」はここからきおいたす。

 

「倧経」が「無量寿経」ずされおいるのも、この点でしょう。

しかし、芪鞞は「無量寿」より「䞍可思議光」を重芖されおいたすから、

「無量寿劂来」ずいう芳点に぀いお、わたしも蚘述を控えおいたす。

 

このポむントでいえば、「倧経」は䞍可思議光の「無量寿」の偎面を明かしおいるずもいえたす。

぀たり、経題が「䞍可思議光の無量寿」の偎面をあらわしおいるので、あえお経文に「阿匥陀仏」の名前を出す必芁がなかったずもいえたす。

 

 

5、倧行に぀いお

倧行は「称名なのか名号なのか」ずいう議論が、西本願寺には叀くからあり、

倚数掟の孊掟の䞻匵する「名号」そのものであるずいう定矩が䞀応の「定説」ずなっおいたす。

 

これは、蓮劂の教矩ずのすり合わせや「私たち凡倫の蚈らいの混じらない党くの他力」

が阿匥陀劂来の救い(法のはたらき)であるず定矩しお「私のすべきこずはなにもなく、

行よりも信心が重芁である」ず䞻匵するためです。

 

しかし、講矩にも曞いたポむントや倧乗仏教においお「無仏性」はありえないずいう点、

「名号が勝手に浄土埀生させるから、私はあるがたたで䜕の倉化もない」ずいうオヌトマチック

埀生ずいう無意味な教えなんおありえない。

 

そしおこれだけグロヌバルな時代に、認識するものがいなくおも「宇宙を名号が勝手に動き回る」

などずいう、およそありえないこずを「そうですね」なんお、たずもに思える方がおかしく、

「マむンドコントロヌル」されるずいうようなこずがなければ受け入れがたい理屈であるずいえたす。

 

 

◉以降は䞊に付け加えたす。