🔎教行蚌文類講矩1  (30/12/07)3−4の唯識たで🌅

 â˜†ïŒ»3–4唯識詳説からの続きは「講矩その2」ぞ

 

このたびご䟝頌を受けお「教行蚌文類講矩」を曞いおいくようにいたしたす。

みなさんも「通信教育」のように、思っおください。

テキストずしおは、西本願寺の本願寺出版瀟から出おいる、

【浄土真宗聖兞(蚻釈版)】(私は第2版)を䜿いたす。

(カバヌがグリヌンのものもありたす)

✳グリヌンのものは「初版」ですので、

内容はほが同じですが、ペヌゞのズレがあったり、脚泚などが異なりたす。

 ã€Žæ³šæ„ã€äžƒç¥–線ではありたせん。

 amazonでも買えたす。

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蚻釈版(写真巊)を芋ながら読んでください。

たた、

【珟代語蚳】(写真右)を䞊行しお、甚いるこずにしおいたしたが、ほが甚いおいたせん‌

あえお【珟代語蚳】を䜿う堎合は、その旚を衚蚘したす。

 åŸºæœ¬çš„に【蚻釈版】を甚いたす。

ヌヌヌヌヌ

曎新日を同じように぀けたす。

《補足項目》は《補足のタブ》をご芧ください

 

よろしくお願いいたしたす🀲

ずりあえず、「かなめの郚分」をお話ししお参りたす。

 

ヌヌヌヌヌヌヌ(以䞋講矩)⏬

 ðŸ’«è¬›çŸ©ã¯æœ€äž‹ã‹ã‚‰ã‚¹ã‚¿ãƒŒãƒˆã—お順々に䞊に行きたす🔌

ヌヌヌヌヌヌヌ

✎関西颚仏教解説(たずはここの内容を可胜な限り孊んでから本講に入っおください)

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase

ヌヌヌヌヌヌヌ

🔎講矩その補足

https://r.goope.jp/sainenji/free/hodoku

ヌヌヌヌヌヌヌ 

🔵講矩その

https://r.goope.jp/sainenji/free/kyougyou2

ヌヌヌヌヌヌヌ 

⚪唯識論を別枠にしたす❣(30/12/07)

https://r.goope.jp/sainenji/free/yuishiki

 

ヌヌヌヌヌヌヌ 

 

◯30/12/063−4plus

唯識を教行蚌文類で詳説したす⏬🔌の《別枠唯識論》も読んでください🎀

 

唯識論を読んでいただいた䞊で、今たでの教行蚌文類の内容からポむントを敎理したす。

 

たず、真劂(果䜍)から法蔵菩薩の(因䜍)が説かれおいるのは、

華厳経でいう《仏の偎から芋た「果」を含んだ「菩薩」》であるずいうこずです。

 

劂(果)から来生した(因)であるから《法蔵因䜍》は

「劂来の果」そのものであり、本来「因果同時」だずいうこずです。

そういう意味で、法蔵を「垂迹」ずいわれるこずが倚いのです。

 

しかしこれを《凡倫の偎》から芋たずきは、

珟生(珟実䞖界)は「皮子(しゅうじ)から出おきた珟行(げんぎょう)」であるず芋たす。

これを《皮子生珟行》ずいいたすが、「芖芚が映像を映し出す」ずいうようなこずです。

 

ですから「わたしを仏智に導く法蔵の願行をデヌタずしお信知すれば、

その《デヌタ》぀たり皮子が珟実䞖界に浄土の荘厳功埳ずいう《珟行》を映し出すので【芳察】

珟実に重ね合わせるように荘厳功埳が芋えおくる」

ず受け取るようになれたす。

 

だから「信知」するず、《皮子生珟行》においお《皮子から》

「単なる珟実が珟れおいる」のではなく「劂来の荘厳功埳」が

《珟行ずしお珟れおいる》ずいう芋方をするようになりたす。

 

そしおそのように珟実を荘厳功埳ず芋ようずすれば「荘厳功埳」ずいう

《珟行が薫皮子》されたす。

 

するずわたしの阿頌耶識(皮子のいれもの私)の䞭で

《そのように受け取った皮子が凡倫の皮子を育おる》

ずいう《皮子生皮子》ずいう状況を䜜っおいきたす。

 

䟋えば、「わたし」が「名号」に倉換されるず、

わたしに察しお「怒っおいるひず」が目前にいおも、

「わたしずいう生呜䜓が、なんらかの行為をしたこずによっお

《あるひずが怒る》ずいう珟行が珟れおいるけれど、

『わたしも同じようにこういうこずで《怒る》煩悩を䜿っおいるこず』を

この珟行が教えおいるんだなぁ」

 

ずいう芋方ができるようになるず、「この人は仏の化身だなぁ」っお思えおくるので、

「浄土の荘厳功埳を珟実に重ねお《重々無尜》に芋られる」ようになりたす。

 

これを「倚次元」ず衚珟しおきたした。

 

心理孊的には「怒られおいるずきに解離しおいるのか」ずいう

むメヌゞになりたす。

 

しかし智慧に基づいおそのように芋えおくるずいうこずなので、

「空想」に逃げる「解離」ではありたせん。

 

そのように䞖の䞭に浄土荘厳功埳を〈重ねお芋られる〉ずいう「さずり」ぞの皮子が

薫習されるず、煩悩のデヌタで動いおいる「タネ(皮子)」を育おおいく《もうひず぀》の

仏ずいうタネ(皮子)」がわたしに内圚する状態になるずいうこずです。

 

「誰かが怒っおいる」ずいう珟行の解釈が、

「わたしもこういう颚に怒るずいうこずを仏の化身が教えおいる」ず倉化したす。

 

怒っおいるずいう珟実が「仏の化身がわたしに教えおいる」ずいう《珟行薫皮子》になり、

「あらゆる出来事が仏の荘厳功埳」だなぁず「わたしのタネを育お」おくれお、《皮子生皮子》になり、

「この䞖は仏の荘厳功埳だらけだ」ず芋えおくる《皮子生珟行》ずいう因果同時になっおいくずいうこずです。

 

【珟行薫皮子→皮子生皮子→皮子生珟行】

 

この《䞉法転展因果同時》の唯識の動きが、「私」を「無垞、空」ぞず育おおいきたす。

 

たたそれず同時に《劂来の名字》が「わたしの珟生の仮名を砎り」、荘厳功埳を通しお珟実の䞭でさずりを【芳察】しようずする

「砎我名字」になりたす。

 

このように仏から芋れば《わたしたち衆生》は「倚即䞀」の劂来に包含されおいるのですが、

わたしの偎から芋れば「唯識」ずいう「煩悩のタネ」で珟実を芋る状況を生きおいるので、

さずりの「法薬」を飲む必芁があるのです。(228ペヌゞの埌ろから3行目)

 

ですから「法薬」を飲むさずりぞの皮子が薫じられるこずになりたす。

 

具䜓的には「劂来の名字、名号」をいただくこずです。

この無為法の名字をいただくこずで、

わたしずいう有為法は消滅→無為法に向かいたす。

 

このような論理によっお

 

わたしが「劂来の名字、名号」の「法薬」を飲むずいうこずから、

このようなプロセスがスタヌトしお、わたしが法蔵の願いを聞き《五念門》を行じるようになるために、わたしにさずりの皮子が入りたす。《珟行薫皮子》

【この「さずりの皮子が入る段階」を芪鞞は《信心》ずいっおいたす。】

こうなるず、わたしの阿頌耶識にある煩悩の皮子がさずりぞず育おられおいくのです。

 

もう少し具䜓的に「五念門行」でいうず、

私が《教えを眺めおいた瞁》から「自我」を劂来に投じる《因信心になる》こずで

【瀌拝】をするものになりたす。

 

そしお「劂来の名字」を私の名字に倉換しお【称名讃嘆】するものになり、

【因果包含】の《法蔵の願い》を生きる【䜜願】のものになりたす。

 

そこで「珟実」をさずりの荘厳功埳だず【芳察】しながら生きるようになっおいきたす。

するずこの状況が自然ず【回向発願】の(薗林遊戯地門)「利他を行じる」こずになっおいる。

 

ずいう論の流れです。

 

教行蚌文類の信文類には、

このように《仏道の歩み》が、「䞀心」からスタヌトするけれど、

論理䞊「因果同時」だから、スタヌトにゎヌルが包摂されるこずになるずいうこずを

いっおいるのです。

 

このように、倩芪の「唯識論」が「浄土論」の根拠ずしおあり、

「尜十方無碍光劂来」でも「南无阿匥陀仏」でも、

「名字名号」が「わたしずいう生呜䜓の䞻䜓に転じるこず」が「信心」のポむントです。

 

ずにかく「称名讃嘆」をし぀぀「仏願(本願)」に生きるようになるず、

自然にわたしの皮子が倉わり「倧円鏡智」を埗るようになるのです。

 

そこで完党にわたし自身が「空化」すれば、

《さずりに確実に至る薬を飲むので》

わたしが「劂去、劂来」する《法》そのものになりたす。

 

䟋えるなら、「絶察に治る薬を飲んだずきに、治ったずいう結果がすでにある」

ずいうこずです。

 

もうひず぀いえば、

良き囜王がいお、囜民に《良き皮子(さずりの智慧)》を䞎え煩悩のコントロヌルをしおくれおいたので、貧しくおも「幞せ」を感じる囜だった「ブヌタン」に、

むンタヌネットなどから「資本䞻矩の皮子」が持ち蟌たれお、囜民は煩悩のコントロヌルを倱っお、

「䞍幞」になったずいう実䟋がありたす。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ30/12/06⬆3–5(講矩その2ぞ)

 

 

 

30/12/063–4

 

ここで少し「唯識論」に觊れたす。

っお曞いたんですけど、ややこいので。。

唯識論に぀いおは別枠にしずきたした❣

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ30/12/06⬆3ヌ5は「講矩その2ぞどうぞ」

 

 

 

 

30/12/053–3

 

信文類(本)においお、

浄土論の「䞖尊我䞀心、垰呜尜十方、無碍光劂来、願生安楜囜」の

「尜十方無碍光劂来」に「我䞀心」ず蚘述される《䞀心》をポむントに、論が進められお、

 

曇鞞の論蚻により、「淳心、䞀心、盞続心」の《䞀心》、

善導の「芳経矩(疏)」からの匕甚によっお、たずは「芳経の䞉心」である「至誠心、深心、回向発願心」から「阿匥陀仏の仏意に順ずる」ずいう《深心の䞀心》ずいう定矩を進めおきた䞭で、

 

次に「問答」が出おきたす。

 

その内容は、「自力のいろいろな行を行じおいる人」から、(それこそ)

「難しいこずはわからない状態で《䞀心》に念仏を行じおいる人」に、

 

たるで念仏行者を「惑乱させるかのように」しお、「いろいろな難しいこず」を蚀い、

 

「今たで倚くの眪を䜜っおきた人間が、䞀生の間に念仏したからずいっお、そんな簡単に《埀生》できるわけがない、どうしお念仏で無挏無生の囜に《入っお》䞍退転の䜍を《蚌悟》するずいえるのか」

「そんなこずはあり埗ない」ずいうように蚀っおくるかもしれたせん。

ずいう問いです。

 

☆この䞭に「無挏無生の囜」ずいうさずりをあらわす文蚀があっお、

「無挏無生=囜ずいう前提」すらあり埗ないずいう意味を含んでいるず考えるべきでしょう。

ですから、「埀生」ずいう文蚀に぀いおは「埗じ」(埗られない)ず蚘述されおいたす。

぀たり「無挏無生なのに、そんな囜に埀生するなんおいうこずは、仏教の「空論」に反しおいるのだから、《囜に生たれる》ずいうこずすらがあり埗ない」ず䞻匵し、無挏無生の囜に「生たれる」ではなく「入り」「䞍退転の䜍を蚌悟」するなんおいうこずも、念仏ごずきで成り立぀わけはない。

ず方䟿の意味を知らない者たちが、

「難しい議論」を「玔粋に念仏行をしおいるひず」にふっかけおくる可胜性に぀いお蚘述しおいたす。

 

ここで回答ずしお、「仏教にはいろいろな悟りぞの道があるけれど、その人の資質によっお、(機瞁)はさたざたであっお、その有(情)の「情(こころ)」にしたがっお、方法は䞀぀ではない。

 

―――(珟代語蚳181ペヌゞ)

 

䞖の䞭で目に芋えおわかりやすいたずえでいえば、「光は闇を照らし、虚空はものをおさめ、倧地はものを茉せ、育お、氎はものをうるおし成長させ、火はものを成熟させたり砎壊したりするようなものである。このように、それぞれのものには、みなそれぞれ察応するこずがらがある。これらの目に芋えるこずでさえ、千差䞇別である。

たしお、仏法の䞍思議な力に、どうしお、さたざたな利益のないはずがあろうか。それぞれの瞁にしたがい、䞀぀の法門によっお出るずいうのは、䞀぀の迷いの門を出るずいうこずであり、䞀぀の法門によっお入るずいうのは、䞀぀のさずりの智慧の門に入るずいうこずである。だから「阿匥陀仏の本願力」により、瞁に応じお念仏の行を修め、みなさずりを求めるべきである。

念仏の行がわたしにふさわしい行であるのに、なぜあなたはそうでない行を持ち出しお、わたしをさたたげ惑わそうずするのか云々。。

ず、「あなたの求めるものはあなたにずっお有瞁であるずしおも、わたしにずっおそうではない」。

 

だからおのおのの願いによっおその行を修するのは、必ず即解脱を埗る云々。

 

もし、行を孊ばんず思うなら必ず有瞁の法によれ。

 

ヌヌヌヌヌ

 

ずいった内容の回答が瀺されおいたす。

 

☆【重芁ポむント】☆

しかし、この回答は回答になっおいたせん。

 

なぜ念仏でさずるのか

無挏無生ずいう悟りに぀いおなぜ埀生ずいうこずが成り立぀のか

なぜ念仏で䞍退転に入るのか

 

ずいう問いですから、珟代颚に䟋えれば、

 

なぜ、「倧孊の工孊郚」に行くこずで、〈刀事〉になれるのか

なぜ、「法埋の勉匷」もせずに「最高裁刀所」の〈刀事〉になれるずいうのか

なぜ、「工孊郚に行ったから」ずいっお、〈刀事〉ぞの道から退転しないずいえるのか

 

ずいう問いに、

䞖の䞭はいろいろだから、あなたは「法孊郚」で法埋を孊び、「刀事になればいいじゃないですか、

わたしは「工孊郚に行っお」〈刀事になる〉ずいう生き方を遞んでるんですから。

 

ずいった回答になっおいたす。

 

これでは、「むダむダそうじゃなくお」

「あなたも〈刀事〉を目指しおいるなら、どうしお《工孊郚》が〈刀事〉になるにあたっお《䞍退転》だず蚀えるのですか」ず問い返されおしたいたす。

 

真宗や浄土宗の念仏者や「お坊さん」に教矩に぀いお質問しおも玍埗できない回答が倚いのは、この善導パタヌンが倚いからだず感じたす。

 

だから芪鞞は「浄土論、論蚻」に根拠を求めお「仏教ず盞応する」こずを明確に論じおいるのです。

 

そしおここで、「工孊郚から〈刀事〉になる」ずいうこずに぀いお、

超有名な「二河癜道の譬え」が出されたす。

 

ここで、わたしがこういう蚘述をしたのは、二河癜道の譬えも仏教の「方䟿䞭の方䟿」であり、「抜象抂念のわからない〈読み曞きできない人〉が倚い時代には通じたであろう「ストヌリヌ」だからなのです。

 

ですから、ここではこういう理由ず超有名ですのであえお、内容には觊れたせん。

 

珟代人にずっお、信文類のうえでこの譬えが「意味」をも぀のは、

224ペヌゞの埌ろから2行目の「䞀心正念」、225ペヌゞの6行目の「䞀心に」、227ペヌゞの8行目の「䞉心すでに具すれば」の郚分でしょう。

 

もちろん党䜓が方䟿ずしおの意味を持぀こずは蚀うたでもありたせんが、なぜ信文類にここが匕甚されおいるのかずいうこずは、

 

【14】に明確に「䞀切埀生の知識等にもうさく」ずあっお、

この匕甚が「埀生を解く《善知識》」に向けられおいるからです。

ここに「倧きにすべからく慚愧すべし。。。ずあり、釈迊劂来。。。皮々の方䟿をしお、無䞊の信心を発起せしめたたぞり」ずあり、

 

【15】には、善導は「懺儀(さんぎ)」を造るこずを目的ずしお、芁文を鈔しお、「二぀には深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ。。。火宅を出でずず信知す。いた匥陀の本誓は。。。ず信知しお《䞀念》に及ぶたで疑心あるこずなし云々。

ず匕甚されお【14】の善導の「般舟讃」から【15】の「貞元の目録」ぞ匕甚を展開しお、「䞀念」を「深心」に定矩しお、〈それかの匥陀仏の名号を聞く〜「歓喜しお䞀心を至せば」〜かしこに生するこずを埗べし。

ず論を通されおいお、これだけ長い匕甚で結論を「懺儀(砎我)聞名䞀心」ずされおいるこずに、この二河癜道の匕甚も含たれおいるだけで、芪鞞は、二河癜道そのものを論じおいないのです。

 

ですから、この二河癜道のたえの問答の回答ずしお、

【16】228ペヌゞの埌ろから3行目には、明確に「菩提心䞍可壊の法薬を埗れば云々」ず「菩提心䞍可壊の《法薬》を埗れば、無量劫における生死の䞭でもろもろの煩悩の行為(業)があったずしおも断滅しお損枛はないのです。」ず明確に回答をしおいお、

この法薬で「懺儀の砎我ず瞁起他力(本願)に生きる䞀心」が埗られお悟るのです。

ず鮮明な回答をしおいたす。

 

ですから【17】においおも、「煩悩でこのこずが芋えずずも、摂取の光明は《垞照》しおいる」ず萜ち着いた回答をしおいたす。

 

 

  

 

―――――――30/12/05⬆3–4

 

 

 

30/12/043–2

 

曇鞞から善導ぞの倉化ず、䜕が䞀貫しお論じられおいるかを確認するために少しだけ戻りたす。

 

215ぺヌゞたでは、「浄土論(è«–èš»)」の、「䞖尊我䞀心」の䞀心は、

「倧経」の第十八願ず「劂来䌚」によっお、「至心信楜」「浄信」であるずいう定矩づけをふたえ、そこには、劂来の「願行」の智慧がそなわるず明確にされたした。

「劂来䌚」の「信慧」ずいう文蚀でそれを定矩しおいたす。

 

そしお、論蚻を匕甚しお、

「無碍光劂来の名を称する」こずは「劂来の光明は《智慧の盞》」ずしお、「この光明は無明を砎る」ずしお、

 

この「無碍光劂来の名矩は衆生の䞀切の無明を砎り」「衆生䞀切の志願を満たす」のであるが、《衆生が称名や憶念》しおも、「無明も消えず、志願を満たすこず

もないなら、「劂実修行でもなく、名矩ず䞍盞応」なのである。

ず定矩づけたした。

 

その理由を、劂来は、「劂実盞(実盞)」であり「為物身」ず知らないからであるず䞀぀目の定矩をし、「䞍淳、䞍䞀、䞍盞続」ず二぀目の定矩をしたす。

 

そしお、これらず反察の状態を「劂実修行盞応」ずし、

これが倩芪の「我䞀心」の意味であるず定矩したす。

 

その次の【10】の曇鞞和尚を䞻語にした匕甚も、

「阿匥陀仏の《埳号》を聞きお」に無明を砎り、志願を満たすずいう内容を蟌めお、「信心歓喜しお聞くずころを慶ばんこず、いたし䞀念におよぶたで」ずしお、《浄信》の内容を蟌めお、「至心のひず回向したたぞり、生ぜんず願ずれば、みな埀くこずを埗しむ」ず

「無明ず志願が満る」ずいう意味を傍蚌させおいたす。

 

そしお【11】からは、善導を匕甚しお、《劂意》ずいう文蚀で、

䞀぀には「衆生の心念に埓っお、これをみなさずりぞ床する」ずし、

二぀には、「匥陀の心は五県(肉限、倩県、法県、慧県、仏県)によっお、六通自圚にしお、《䞉茪開悟》「身、口、意の䞉業を開いお」衆生を悟りぞ導くために、《衆生の資質を芳》そなわしお《䞀念》に同じように利益する」ずしお、

 

倩芪の《䞀心》を《䞀念》に眮き換えおいくロゞックを䜿っおいたす。

 

☆ただ、ここからしばらく「善導」の匕甚ですから、

「善巧方䟿」が䞭心ですので、《いきなり》「阿匥陀仏」や「仏」ずいう文蚀が頻発し、「劂来」ずいう文蚀は善導匕甚から激枛したす。

なお、「劂来は衆生の資質を芋る(善巧方䟿)」に぀いお、真仏土文類に詳説されたす。

 

【12】では、この「五濁の時代に五苊を受けない人はいないし、もし苊のない人がいたら《それは凡倫じゃあない》」ずいっおいたす。

(「五苊」を珟代語蚳の169ペヌゞでは、生老病死に愛別離苊を足しお五苊ずしおいたすが、「五蘊盛苊」をプラスするパタヌンもありたす。)

 

これは「劂来」の「五県、六通」から芋れば「みんな苊にさいなたされおいるでしょ」ずいう《逆説的衚珟》で、

(仏から芋お)《すべおの衆生が「苊の存圚」で”さずり“ぞの誘導察象》であるずいうこずを確認しおいたす。

 

【13】には、芳経のうえで、〈䜕等為䞉(なに等を䞉ずなす)〉より〈必生圌囜〉ずいうたでの文面があらわすのは、《䞉心》ずいう「因信心」の正しい状態を明らかにするずいうこずです。

 

ず蚘述しお、

ひず぀には「釈尊がさずりぞ誘導する察象の資質に応じお《䞉心》が説かれおいるけれど、その意図が〔たるで秘密のこず〕のようにわからないから、《仏が自分から》その意図をあきらかにしおいたす」

 

ずここからは「仏からの実蚀」が前提だずいっおいたす。

 

二぀に、「ここから明らかにする《䞉心》も、仏が自身から明らかにしたものです」ず蚘述しお、

「ここからの内容も仏の盎説(じきせ぀)だずいうこず」にしおいたす。

 

ですから、「芳経」にのたたはくずはじたっお、

《䞉心》のひず぀目を「䞀者《至誠心》(しじょうしん)」ずしお、これは「真実心」であるずしお、「䞀切衆生が行を理解しお行じるうえには、必ず真実心のうちにあるものを行じよ」ずいうロゞックで、「称名念仏」を勧めおいたす。

 

ここで有名な「倖に賢善粟進の盞を珟ずるこずを埗ざれ、内面は虚停に満ちおいるんだから」ずいう文蚀が蚘述され、

 

このような「悪性」のわたしは、どんなにいいこずをしおも「芋せかけの善(雑毒の善)、や芋せかけの行しかできないのだから、頭に火が぀いたような状態で、その火を远い払うように䞀日を過ごすようなこずにしかならないでしょう」ずいいきっお、

仏の本意を理解せずに適圓な行や善を行なっおも「浄土」には到達しない。

ずもいいきっおいたす。

 

ここに「安心・起行」ずありたすが、これは埓来、「信心ず正行」をあらわす文蚀に定矩されおいたすが、ここのケヌスでは、「雑毒の行ず善」に぀いお䜿っおいるので、「安心を求めお行を起こす」ずいう「凡倫の自我による行ず善は《安心》が前提であるから、行も雑毒なのである」ずいっおいるず理解するずスムヌズです。

 

ずにかく、217ペヌゞの7行目の䞋から「たさしくかの阿匥陀仏、因䞭に〜みなこれ真実心のうちになしたたひしに由っおなり」ずあり、

法蔵菩薩の願行が真実心によっお行われたずいう意味を説いお、

それに由るずありたすが、ここで、

「由」に぀いお(経であり、行であり、埓うこずであり、甚いるこず)であるず蚘述しお、

「真実心」のうちに仏(法蔵菩薩)がなしたこずだから、「この経、行に埓っお、そのベクトルに生きるべき(甚いる)である」ず蚀っおいお、

 

おほよそ、このように(仏)が「斜したたふずころ」に、六趣ではなく、「さずりを求めおさずりに趣く(趣求)」ずいう心が生たれおくる。

ずいい、このプロセスず内容は「すべお真実」であるずいっおいたす。

 

しかし、ずはいえ真実にも「自分さえ悟ればいい」ずいう真実『これを自力(自我)の真実』ずいい、そしおたた、自分を差し眮いおも、すべおが悟るようにずいう利他真実『他力(絶察瞁起力)』がある。

ず定矩しお、

(自利真実である)「䞍善(雑毒)の䞉業」は、

仏が捚おたものであるように、わたし達も仏のように、そのような雑毒の行や善を捚おお「捚おたたぞるを甚いよ」ず蚀っおいたす。

ここはわかりにくい衚珟ですが「捚おたずいうこずを甚いおください」ずいう意味です。

 

続いお、「善の䞉業」を起さばずあり、(利他真実の法蔵菩薩=仏)が「真実心」によっおなされたこずを甚いお「内倖明闇をえらばず(脚泚参照)みな真実を甚いるがゆえに《至誠心》ず名づく」ずありたす。

 

☆この郚分を、芪鞞の䞀貫した論の流れで読むず、「劂来が真実心によっおなされたこずを甚いる」ずいうのは「自我を投じお行なう

【五念門】行」を意味しおいるず読むべきでしょう。

 

これが「浄土論」でいう「法蔵菩薩の行」なのですから、圓然の流れです。

 

次に、〈深心〉に぀いお「深信の心」であるず、前提定矩しおいたす。

ここに二぀あるずいうのは、有名な「二皮深信」です。

これはあたりにも有名な郚分ですので、重芁ですが簡朔に蚘述したす。

 

぀たり「①わたしが阿匥陀の法に出䌚うこずで、どれだけ迷っおるのかずいう《自我》の愚かさを知り、②阿匥陀劂来の四十八願に生きおいこうずいう心に誘導される」ずいう①ず②をいいたす。

 

あえお重芁ポむントを蚘述するなら、218ペヌゞの埌ろから7行目の「仏の捚おたたふを捚お、仏の行じたたふを行じる」「仏の去らしめたたふずころをばすなわち去぀」「このように仏教、仏意、仏願に随順するものを《真の仏匟子》ず名づく。」

 

ずあるように、「五念門により四十八願を生きるこず」が「真の仏匟子」だず暗瀺しおいたす。

 

これは、この次の行に「行を深信するは。。。仏を陀きお以還は、《智行》いただ満たず。。。果願いただ円かならず。」

ずあっお、219ペヌゞ3行目に「もし仏意に称えばすなはち印可しお〈劂是劂是〉ずのたたふ。。」ずあるように「智慧仏意」で「行の深信」の意味を定矩しおいたす。

これ以埌も同じ定矩で解釈されたす。

 

☆「印可」ずいう「犅宗でよく䜿う甚語」が出おいるのは意味深いポむントです。

 

7行目に、「正教、正矩〜《正智》」なり。〜「もし仏の所説は、すなはちこれ《了教》なり。」〜「ただ《仏語》を深信しお、専泚奉行すべし。」などず、「仏語に埓うこず」が、219ペヌゞ終わりに「同じく蚌したたふ。」ずいう果に至るこず。ずあり、

「智慧」が「蚌明される」ず蚘述しおいたす。

 

その理由を「同䜓の倧悲」なるがゆえに、ずあっお、「䞀仏の所化は、䞀切仏の化なり」云々。ずあっお、䞀即䞀切(䞀即倚)の《法界瞁起》であるから、すべお「同䜓」であり「倧悲」だず蚀っおいたす。

 

このあずに、阿匥陀経の匕甚をし、なかでも《䞀心》をポむントにしお、220ペヌゞ埌ろから8行目に「すなはちその蚌なり」ず名号の専念の䞀心によっお「埀生する」こずの《蚌明》をしおいたす。

 

《䞀心》《埀生》を蚌明しおいるずいうこずです。

 

たた同ペヌゞ埌ろから2行目に「䞀仏の説くずころを、䞀切仏が蚌明しおいる」ず重ねお蚘述し、これが「人に就いお信を立぀ず名づくる」ずしおいたす。

 

これは、「䞀仏䞀切仏の蚌明が、信の人によっお立぀蚌明である」ずいう意味です。

 

そのうえで、この「名号を専念する」を「正(行)」ずし、

この「正」に二皮あるず蚘述しお、法然が専修念仏するキッカケになった有名な「䞀心専念匥陀名号〜これを正定の業ず名づく」ずいう文蚀によっお、「念仏」は仏願に順ずる《正定業》であるずし、その他の「瀌誊等」を《助業》ずしお、これら以倖を「こずごずく雑行」ず名づく。

 

ず善導の匕甚をたるたる匕甚しおいたすが、

この蟺は、「法然に䟝存」する「念仏行」に぀いお、

方䟿の䞊で「行」を論じるずいうより、「方䟿行」に぀いお限定しお、

 

これ以倖は、「阿匥陀仏」ず「疎遠になる(疎雑の)行」ず名づくるなり。

ず蚘述しおその盎埌に「ゆえに深心ず名づく」ず文脈そのたた読むず意味䞍明になる「疎遠になる行ず名づく」→「ゆえに深(心)ず名づく」ずいう蚘述があり、

しかも、「深心」は「深信」であるず定矩した文蚀を、もずに戻した「深心」で匕甚しおいたす。

 

これは、「疎遠になる行」がいろいろあるから「深信の心によりなさい」ずいうこずです。

 

぀たりこの「深心」はここたでの二぀目の信心をトヌタルしお、

「深(心)」ずいっおいるのですが、この二぀目をたずめるず、

 

【二皮深信】をメむンずしお、その内容は、「利他」の「仏願に順ずる」《至誠心》に信順した信心であり、それは《䞀仏の所説を䞀切仏が蚌明する》「念仏」の《正定業》を行じるこずであるずしおいたす。

 

☆ここはのちに「第十八願の䞉心」に぀いお「至心を信楜の䞀心で受け入れる」ず蚘述される内容に笊合させおいたす。

 

221ペヌゞの6行目から、

〈䞉者回向発願心〉ず芳経の信心の䞉぀目を説明しおいたす。

ここには、「心の方向転換(回向発願)しお生たれるものは、必ず決定しお真実心のうちに回向したたえる願をもずにしお、《埗生の想い》をなせ」ずここでも「埀生を信心の時」ず定矩しおいたす。

 

そしおこの心「《深信》せるこず」金剛のようであるから、ほかの䞀切の異なった芋解等に「動乱砎壊されるこずはない」だから「くだらない意芋を聞かず、決定しお《䞀心》に真っ盎ぐに進め」

ず蚘述されお、「ここでの䞀心は〈䞀生懞呜に〉ではなく、《䞖尊我䞀心》の《ひずすじにふたごころなく》ずいう意味であり」、぀いおは「埀生の倧益を倱うこずが無いように。。」ず念を抌しおいたす。

 

☆先取りしたすが、

ここも第十八願の䞉心ず同じように「䞭心」の「深信」に萜ずし蟌んでいたす。

倧経至心、信楜、欲生我囜

芳経至誠心、深信、回向発願心

論蚻淳心、䞀心、盞続心

 

いずれも、それぞれの内容は同じで、

 

至心を真実心ずし、

信楜を「仏願に順ずる」〈無疑〉ずし、

欲生我囜を「埀生」(詳现は埌日)ずしお

 

䞭心の「信楜ず深信」を「倩芪の《䞖尊我䞀心》

の《䞀心》だず定矩されたす。

 

 

 

―――――――30/12/04⬆3–3

 

 

 

30/12/013–1

 

205ペヌゞに、信文類の「序」がありたす。

この「序」のはじめにいきなり「信楜」ずでおきたすが、この第十八願に出おくる信楜ず、浄土論の「䞖尊我䞀心」の「䞀心」を同じであるず論じられたす。

 

ここでも「阿匥陀劂来」ずいう固有名詞か぀動詞である「具䜓的な名字」は蚘述されおおらず、どの劂来なのか䞍明なたた、「《劂来》遞択の願心より発起す」ずあっお、「阿匥陀劂来ずも無碍光劂来」ずもいえるように蚘述されおいたす。

 

もちろん「劂来党般」たたは「わたしを真劂に導くすべおを劂来ずする」ずいう颚にも理解できたす。

 

そしお、倧聖(釈尊)矜哀の「善巧」より顕地せり。

ず「善巧方䟿」であるこずが明確にされおいたす。

぀たり、「色もない圢もないこずばも絶えた真劂法性」に導く方䟿が「劂来」だずいうこずです。

 

ですから、「蚀説の念仏そのものが方䟿」なのです。

 

化身土文類に、「19、20願を方䟿」ずいうのは、「方䟿䞭の方䟿」ずいうこずです。

 

この重芁ポむントで、「月を指す指」が「念仏」であり、指の圢だの爪の色だのにこだわっおいるずいうのが「19、20願」なのです。

 

ここで、教行蚌文類の難しさは「真劂ず方䟿が入り混じっおいる」ので、その芋分けが぀かない人が読むず、「仏の䞖界(真劂法性)などはわからなくおもいい」ず方䟿に埋没しお、結果「自性唯心」に沈んでしたうのです。

実際そういう垃教がほずんどだず感じたす。

 

あくたでも「信文類」でいいたいのは、「䞖尊我《䞀心》」ずいう「尜十方無碍光劂来に垰呜」する《䞀心》によっお、「埀還の二回向に生きるこずになる」ずいうポむントです。

 

芪鞞はなぜそうなるのかずいうポむントに぀いお、

この《䞀心》を【䞉経】にあおはめお解釈しおいたす。

 

䟋えば、倧経の「本願(第十八願)」の《至心(真実心)》を「無疑」の《䞀心》《信楜》で受け入れお《欲生我囜》になっおいくずいうように、芳経や阿匥陀経などからも䞉心ず䞀心に぀いお解説されたす。

 

この信文類の内容は、この《䞀心》が倩芪オリゞナルではないこずを兞拠によっお蚌明し、この《䞀心》においおわたしが真劂化(劂去・劂来)する身になるこずを論蚌しおいるのです。

 

そこで、本文3行目の「自性唯心」に぀いおは、「補足47」に曞いた通りです。

 

ひずこずで蚀えば「自分にずっお郜合のいい浄土の理解をしおいる人がふえおいる」ずいうこずです。

このように、仏教ず盞応しない浄土のあり方を信じおいる人がいるこずぞの譊告です。

 

「阿匥陀さたのお名号にお任せしおいれば、䜕もしなくおも思わなくおも自然ずお浄土に生たれさせおいただけお、たた䌚える䞖界があるんだよ」(䌚えるず遇えるずこだわる必芁もないほど根本からミスっおいたす。)などず、おずぎ話かスピリチュアルかよくわからないものに貶めおいるのです。

 

「定散(じょうさん)の自心」ずいうのも、定(芳想)や散(善行)も「わたしが救われたい」ずいう「自我」からの行ないだから、「迷ひお」ず曞かれおいたす。

 

「金剛の真信」が「金剛」なのは「自我」がだんだんず「滅せられる」こずをいい、そもそも「迷う䞻䜓がなくなるこず」になるからです。

 

ここに「論家、釈家」を脚泚では、䞃高僧だず蚘述されおいたすが、

ここでは「倩芪、曇鞞(論家)」がいっおいるこずを、「道綜や善導などの解釈(釈家)」で宗矩を開きあらわすず理解する方が、内容に笊合し、より鮮明になりたす。

 

そしお䞉経の光明のなかで、「尜十方無碍光劂来ぞの垰呜の䞀心」の「華厳の文を開く」ず読めば、「行文類」から論が䞀貫したす。

 

そしおこの信文類の内容は、それこそ「劂来の善巧方䟿がわからないひず」からすれば「なにをいっおるんだ」「人倫ず違うじゃないか」ずいったこずをいわれるであろうけれど、恥じる必芁もなければ、「蚀い方をかえたりしお理解を求めるにしおも、決しお謗るようなこずにならないように泚意しおください」ず蚘述しおいたす。

 

実際、仏教は「䞀般的な道埳に合わない」内容も倚いのです。

本来の「垃斜行」でも、あげた人は「あげたず思うべからず」、もらった人は「もらったず思うべからず」、そのAからBに移動したものの「良し悪しをいうべからず」ずいう「䞉茪枅浄」が基本ですから、「いただいたら感謝したしょう」なんおいう䞖界ではありたせん。

 

ですから、釈尊は「チュンダの斜し」を受けお「私に斜されたのだから私が食べたら、土に埋めなさい」ずいっお、「毒キノコだずわかっおいながら食べたのです」

ご存知のようにこれで釈尊は亡くなりたした。

ずにかく仏教は「時ずしお非道埳的」な郚分がありたす。

「無垞なものごずにずらわれお、懞呜に守るこずすらナンセンス」だずいうのが基本の教えであり、「無我だから名字を入れ換えよ」ずいっおみたり、「䞖間の垞識や道埳ではわからない内容」が倚いのです。

 

たずえば「無碍光劂来に垰䟝する䞀心」で「浄土を芳察しお生きる」なんおいうこずも、《やりもしないで》に「難しいなぁ」なんおいう人も倚いものです。

 

ずにかくいろいろいう人があるけれど、「浄邊を欣ふ埒衆〜」は謗りを生たないように泚意しお、この道を進みたしょうず蚀われおいるのです。

 

さお、信文類の暙挙(ひょうこ)には、「至心信楜の願」ずあっお、その内容は「正定聚の機」をあらわすずありたす。

 

本文は211ペヌゞの【1】にはじたりたす。

ここに「埀盞回向」には「倧信心がある」ず蚘述し、この信心の「䜓」ではなく「讃」を挙げお「長生䞍死の神方」云々ず数々の「讃」を列蚘されたす。

 

このしょっぱなの「長生䞍死」は「脚泚」にあるように《さずりの空性》のこずですが、間違うず「お浄土で氞遠に生きられる」ず受け取っおしたいかねない《方䟿名》からはじめおいたす。

しかし最終的に「真劂䞀実の信海なり」ず《さずり》に萜ずし蟌たれるのです。

これはほが芪鞞の「方䟿ず真実」をたぜ぀぀真実に誘導する論調(ロゞック)です。

 

このように教行蚌文類は「真実ず方䟿」が入り混じるので、読むずきには念入りな仕分けができないず間違いたす。

 

わたしでも垃教をするずきに「色んな幎代のひずが混圚するケヌスでは、同じように混ぜるずいうこずをしたす」から「倚分そういうこずなんだろう」ず思うのです。

 

たずえば、《Aパタヌン》で「釈尊は修行者であるず同時に研究者だずいえたす。珟代的にいえば釈尊の第1法則は《無垞》の法則で、これは党おが垞に倉化する状態を蚀語化したものです」ずいうようなこずを、

ずきには、《Bパタヌン》で砕いお、

「すべおのものは垞に倉化する《無垞》(真実)なものです。」

老病死ずいうように(方䟿)移り倉わっおいきたすよね。

お釈迊さんはこういうこずを、「すべおは倉化し続ける」ずいわれおいるのですが、これを蚀葉にしないず人は意識しない(方䟿)ので、「無垞」ずいうこずばにされた(真実)のです。」

ずいうように察象によっおAずBの蚀い方を䜿い分けたす。

 

教行蚌文類も同じようなパタヌンを螏んでいるず感じたす。

 

さお戻っお、「真劂䞀実の信海なり。」ず「真劂」に萜ずし蟌むたで「讃」じられおいたす。

そしお、この埀盞回向の倧信は、「念仏埀生の願」から来るものだず、「法然」の《遞択本願念仏集にある願名》をだし、あくたでも「念仏埀生の願より出おいるのである」ず蚘述しお、そのうえで、

「埀生」のずころで「埀盞回向を案ずるに」ず曞き出されおいる「埀盞埀生」ず、たずは第䞀段階を笊合定矩させおいたす。

 

そしお「この倧願は。。」ず進め぀぀、そこで「遞択本願ず名づく」「本願䞉心の願ず名づく」「至心信楜ず名づく」ずいう流れで、

願の内容を「至心信楜」の「信心」に现分化しおいき぀぀、最初の「埀盞の回向を案ずるに。。」から進めお「埀盞ず信心」を再結合させお「念仏埀生の願は至心信楜の願だ」ず第二段階の定矩をしたす。

 

そしおこの第十八願を「埀盞信心の願」ず名づけるべきであるずしお、第十八願は「信心の願だ」ず最終的な定矩をしおいたす。

 

この蟺は「法然」のいう「念仏埀生の願」では、第十八願を「乃至十念」で定矩しなければいけなくなり、「信心の根拠」にならないからだずいえたす。

 

続いお、しかるに「垞没の凡愚〜が無䞊劙果を埗られないわけじゃない」のだけれど「ただ真実の信楜を獲るのが難しいだけなんです」ずいっおいたす。

 

なぜ難しいかずいうず「劂来の増䞊瞁のチカラによるものだから、わかりにくいでしょう」ずいった「たぁ普通に䞖間の垞識を生きおいるず信じがたいですよ」ず先手を打぀ロゞックになっおいたす。

 

ずはいえ「たたたたにしろ瞁あっお《浄信》を埗るこずができれば、心が転倒するこずもなく、虚停に生きるこずもなくなるのです」ずいっお、信心を埗れば「浄」になれるこずを明瀺し、

「だから極重悪人が倧慶喜心を埗お、諞々の聖尊の重愛を獲るんです」ず《九条兌実や匁円などで実蚌された事実》に基づいお「聖尊」ずいう「わかる人はわかっおいる」から、「重愛を獲られる」ず蚘述しお、「浄信」の兞拠に移られたす。

 

兞拠の重芁な郚分が圓然ずいえば圓然の第十八願です。

ですから【2】に「至心信楜の願」ずしお、《信心》を論じる䞊で重芁な「本願の䞉心」をあらわす願名をあげお、第十八願を䞞々蚘述されたす。

次の【3】には「劂来䌚」をひかれたすが、これも四十八願経ですから同じ内容になるずころがポむントです。

 

行文類の143ペヌゞの【9】【10】の二十四願経を匕甚するず、「蜎飛蠕動」たで入っおくるほか、「聞名」がポむントになり、信心に関する文蚀がないために、信心を論じるのには䞍適切だからだず掚察できたす。

 

そしお【4】【5】に成就文を出されお、【4】でいえば「名号を聞く信心歓喜乃至䞀念至心回向」ず適切な文蚀が䞊び、「聞名至心が回向されおいるこず」ずいう「信心の䞀念(信楜)は至心の回向による」ずしきりに「至心信楜」ず蚀っおいる根拠を明確にするのです。

 

これが「劂来䌚」の成就文も同じ構造になっおいたす。

「聞名䞀念浄信歓喜所有の善根回向したたぞる」

ずいうロゞックです。

ここで「劂来䌚」では「浄信」ずなっおいるのが、サンスクリット原兞の「プラサヌダ」に笊合したす。

 

劂来の至心(真実心)が蟌められた信心なので「浄信」になるのですから「浄信」は「至心信楜」を包含した単語であり、ひずこずで「至心信楜」をあらわすのです。

 

そしお【6】においお、「聞法䞍忘」「芋敬埗倧慶」「即我善芪友」になるから「発意せよ」ず「聞く芋る倧慶、即我善芪友」ずいう結論を出しお「信」を勧めおいたす。

 

【7】においおも、「この浄信に生きる人は倧嚁埳の人で、たくさんある仏教の䞭から、よくこの浄土に生たれる䞖界に来たね」ず「至心信楜」の「信心の人を讃じお」、信心の人になっおくださいず勧めおいたす。

 

【8】においおは、「劂来の功埳」「䞖尊の開瀺」「二乗を含めお他の及ばないずころ」「諞有の有情、䜜仏する」「行は普賢を超える」「圌岞に登っお䞀仏の功埳をひろめる【讃嘆】」「その時間はほが氞遠である」ず

今たでの内容をたずめお讃じおいたすが、ここでポむントが出おきたす。

「この䞭間においお身は滅床すずも」ずありたすが、ここにも埀生は「珟生」ずする根拠がありたす。

「有情䜜仏」しお「圌岞に登っお䞀仏の功埳を敷挔せん」「時、倚劫の䞍思議を超えん」ずある時点で、すでに埀生しおいるからです。

 

そしお、「仏の勝慧はよく量るこずなけん」ずいう、《埀生讃嘆》はすべお仏のすぐれた智慧によるからであるずいう理由を明蚘しおいたす。

続いお、「信・聞によっおもろもろの善芪友の摂受を具足しお」ず「信ず聞によっお劂来の願行が身に぀くこず」を述べお、聖尊の重愛を獲るのであるずいっおいたす。

そしおこのこずは、「すべお劂来の《勝智》が遍く虚空にあっお、この劂来の智慧の蚀葉《矩蚀》はただ仏のみが悟るこずだから、有情(凡倫)は《諞智土》を聞いお、劂来䌚に説かれる教え、真劂のこずば(劂実の蚀)を信ずべし」ず蚘述されおいたす。

ここに遍虚空の矩蚀は「仏のみが悟る」ずある郚分をずらえお、「わたし達のような凡倫に仏の䞖界はわからない」ずしおは間違いたす。

 

諞智土を聞いお、その蚀を聞信せよ。

ずいう方䟿諞智土の意味をあらわす郚分ですから、わからないのではなく、次の行にあるように「信慧倚き時たさにいたし獲ん」ずあるように、盎接「遍虚空の矩蚀はわからなくおも」「諞智土を通しお獲るこずができる」ずあるのです。

そしおこれを「信慧」ずしおいたす。

次の行に「こういう劙法をすでに聎聞すれば諞仏も喜ぶ」ず劂来䌚の匕甚を結ばれおいたすから、芪鞞は「䞀心→至心信楜→浄信→信慧」ず「信に仏の智慧がそなわる」ず定矩づけおいるのです。

 

ですから【9】の「浄土論蚻」の匕甚で「劂来のみ名を称し→光明智盞の劂く→名矩の劂く→劂実修行盞応」ず論を進められお、「称名に光明智盞がそなわり、劂実修行ず盞応する」ず明蚀されおいたす。

 

続いお、この流れを「無碍光劂来の名を称する」→仏の光明は智慧の盞→光明十方に障瀙なし→光明は十方衆生の無明を砎る。

ゆえに無碍光劂来の名号は「よく衆生の䞀切の無明を砎り、䞀切の志願を満たす」のであるず前提定矩をしおいたす。

 

この前提定矩に基づいお、このようにならない人は、劂実修行盞応しおいないひずであるずされおいたす。

そこで、劂来は「真劂から来生した《劂実盞(実盞)》であるこず、この実盞は物の為(衆生の為)の身であるずわかっおない」ず蚘述しお、その理由を䞉䞍信にあらわしたす。

 

䞀぀には「信心が淳くなく、信心があるような無いような状態だからである」ずいわれたす。(ここで「淳」の文字の深い意味が出されおいたすので、味わっおみおください。)

二぀には「信心が䞀぀に決定しおいないからである」ずいわれたす。

䞉぀には「信心が続かない(盞続しない)からである」ずされたす。

 

そしお、この䞉぀を転がっおいる(䞉句展転する)から劂実修行盞応しないずいっおいたす。

これを、「信心淳からざる→決定なし→念盞続しない→決定の信を埗ない→心淳からざるべし」ず論を通しお、こうじゃないものを「劂実修行盞応」ずしお「倩芪が《我䞀心》ずいった」のであるず定矩しおいたす。

 

【10】には曇鞞の「讃阿匥陀仏偈」から、「阿匥陀仏の埳号を聞き、信心歓喜しお聞くずころを喜ばんこず、いたし䞀念におよぶたでせん。至心のひず回向したたぞり。

《ここでいう「至心のひず」は劂来の埳号(至心)を受け入れお(信心歓喜しお)利他を行じおいるひず(聞くずころを慶こぶ)》

生ぜんず願ずればみな埀くこずを埗しむ。。。ゆえにわれ頂瀌しお埀生を願ず」ず匕甚しおいたす。

 

この讃阿匥陀仏偈の匕甚が興味深いのは、これたでず違い、

「讃阿匥陀仏偈」にいはく、ず蚘述しおからあえお、「曇鞞和尚の造なり」ず蚘述されおいるこずです。

 

これは、文類ずしお「このようにある」ではなく「曇鞞和尚も蚀っおいる」ずいう䞻語を曇鞞和尚に定矩しお、

 

芪鞞のいはく。。。

【9】の匕甚は、浄土論の解釈である論蚻によっお「倩芪菩薩」のいう「無碍光劂来のみ名を称する」から《䞉䞍信》を論じたのですが、

なにも倩芪菩薩だけがいっおいるのではないのです。

これは、曇鞞和尚ご自身の芋解も同じですから、念のために「曇鞞和尚独自の䜜」である「讃阿匥陀仏偈」を芋おみたしょう。

この通り、曇鞞和尚も「阿匥陀の埳号を聞く信心」が自利利他を行ずるかなめであるずいっおいたすね

ですから「信心」ずいうこずが、「すべおの衆生が悟りを埗るための重芁なポむントだ」ずわたし「芪鞞」は定矩するのです。

ずいった論調です。

 

次からは善導によっお論を展開しおいたす。

 

 

 

 

 

―――――――30/12/01⬆3–2

 

 

 

 

 

30/11/302–24

 

「善導独明仏正意〜即蚌法性之垞楜」

これは、「善導」の郚分です。

 

「善導ただ䞀人仏の正意をあらわす」

ず蚘述しおあるず、䞃高僧でも、「埮劙に」ほかの高僧よりすぐれおいる。

 

お勀めでも「節がかわるし」なんお単玔発想をしおはいけたせん。

 

お勀めのこずはおいずいお、

善導がその時代にあっお、䞭囜に浄土教を広め、

か぀それが、

「明確に倚くを救う(さずらせる)方䟿だずいうこずを明らかにした」ずいう、

「どんなものでもさずりぞ至る方䟿」をあきらかにした。

ずいうこずです。

 

この時代の僧䟶も「ほずんどが孊者・修行者」で、「仏教を倧衆化」したのが、善導だったからです。

 

圓時の䞭囜で「䞭芳だの唯識だの華厳だの法華だの涅槃経だの」ず《八宗》を䞭心に孊んでいた僧䟶からすれば、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/八宗

 

「西方極楜䞖界」など、

なにをファンタゞックなこずをいっおるんだ。

ず䞭傷されおもあたりたえなのですが、

 

そんななかで「倧衆仏教」ずしお、

「阿匥陀仏ず極楜浄土」の教えを、方䟿ず知り぀぀説いたのですから、この点で「善導独明」ずなるわけです。

 

そしお、「芳経」にあるように、䞉昧ができるずいう

「定善」のひずも、良いこずができるずいう「散善」のひずも、

むちゃくちゃ悪い「逆悪」のひずも、

 

䞊から䞋たで「あわれみたたいお」、阿匥陀仏の光明ず名号が因瞁ずなっお成仏する教えであるこずを明らかにしたのです。

 

そしお倧衆仏教ずしお、「本願の智慧の海」を開いお、

倚くの人を導き入れ、念仏行者を育成されたした。

 

そこでこれらの行者は「芳経」にある「教我思惟、教我正受」の文蚀の通り、「正受」しお「金剛心を埗た」のです。

 

そしおこのように、「正受」しお、慶喜䞀念しお

「阿匥陀仏ず盞応したひず」は、「韋提垌さん」ず同じようにさずりを衚す「䞉忍(喜、悟、信)」を獲たずいえるのです。

 

http://labo.wikidharma.org/index.php/䞉忍

 

 

 

そしお、即「法性の垞楜」を蚌明できたずいうこずを説明しおいたす。

 

教行蚌文類では、

善導の「芳経四垖疏」などから信心に぀いお、倚く匕甚されおいたす。

 

真宗孊では「叀今楷定」ずいっお、阿匥陀仏の教えを改めお意矩のあるものずした。

ず蚀われおいたす。

 

぀ぎの、源信から「日本」になりたす。

「源信広開䞀代教〜倧悲無倊垞照我」ずありたす。

 

そもそも源信は「日本に念仏を広める基瀎を䜜ったず蚀いたすが、

地獄極楜を察象させお、絵図をもっお、「地獄は怖いぞ」ずいう

 

垃教の仕方で、

たた「この䞖は穢土」だから、「浄土を欣求すべき」ずいう

垃教の仕方をしたした。

 

 

方䟿もすぎるぐらいの方䟿で、「動物を畜生」ず定矩した垃教をしたした。

 

珟代は「動物愛護やペットは家族」ずいう人も増えお、そもそも人間の方がひどいずいう芳点が増えたのですから、畜生は「愚痎(愚かさ)」に定矩する方がよいず思われたす。

 

「人間に生たれお良かった」ずいう「人間自己満」の時代ではありたせん。

「人間に生たれたからこそ、煩悩に向き合っお《煩悩即菩提》ずいうさずりぞの功埳を生きるこずが重芁であるず考える時代でしょう。」

 

ゞェンダヌの問題から「倉成男子」を甚いなくなったようなこずです。

 

たた、「畜生」本来の「畜されお生きる」人間のあり方も問われるべきでしょう。

お東の暁烏先生は、この芳点から講矩をされおいたす。

 

ヌヌヌ(畜生)

 

https://true-buddhism.com/teachings/chikusho/

(このペヌゞは芪鞞䌚のペヌゞだず思われたすが、この郚分は内容的にわかりやすいので䜿いたす)

(どうぞ怒らないで、かえっお方法論の孊習ず、知らない方ぞの啓蒙のためにご芧くださいたせ❣)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/畜生

(これは情報量が少ないですね)

http://www.wikidharma.org/index.php/ちくしょう

 (りィキダルマ、これも同じでしょう)

ヌヌヌ 

 

そしお、念仏に培するなら「報土」にいけお、あれやこれやの行を

やっおいるず「化土」ずいう「真の浄土にいけないぞ」ず

 

受け取り方をたちがうず、さも脅かしおいるような「アメずムチの垃教法」に思えたす。

 

そしおどんな極悪人もただ念仏を唱えればいい。

 

そういうものを阿匥陀さんが哀れんでくださっおいるのだからずいう教えが意倖ずわかりやすいず評刀になったのです。

 

そしお、「そんなこずをいわれおもわからない」

 

ずいうひずは

「煩悩に県がさえぎられお、芋えないだけで、阿匥陀仏の倧悲はあきらめるこずなく、垞に私たちを照らしおいたす。」ず、

 

結果的に「倧悲心を説かれた」のです。

 

真宗孊では、源信は「報化二土」を明らかにしたずされたす。

 

さお、

いよいよ芪鞞の先生である「法然(源空)」です。

 

「本垫源空明仏教〜必以信心為胜入」

特にこの郚分に぀いお倚くを語る必芁はないでしょう。

 

「この日本ずいう片州の《悪䞖》に遞択本願をひろめ」

「決以疑情為所止」や「必以信心為胜入」ずいうように、

 

この悪䞖の日本では「信心を以っお本願に入らないず、たた生死茪転の家にかえっおしたうよ」ず

源空の教えを「信心掚し」で勧めおいたす。

 

ここで「家」ず「楜(みやこ)」ず察象されおいるのは、「みやこ」は本来「宮拠」で、倩皇のいるずころを意味しおいたす。

 

そういう意味で「みやこ」ず読たせおいるなら、「阿匥陀法王」のいるずころ、ずいうこずでしょうか。

 

たた生死茪転の「家」に「還来」ずいうのは、「かえっおくる」ずいうこずですから、「元に戻りたすよ」ずいうこずでしょう。

 

しかし、そんな蚳の分からない「みやこ」よりも「家」の方がいいずいう珟代人は倚いでしょう。

 

結果「苊しみをくりかえすよ」ずいう衚珟の方が、珟代人には蚎えやすいずは思いたす。

 

たぁこれが、珟代人にファンタゞックに聞こえなければ、「みやこ」の方が郜䌚らしくおいいずいうかも知れたせんね。

 

たた、ここで「生死茪転の家」は浄土論の「宅門、屋門」に察象しおいるようにも感じるのですが。

 

ここはあくたでもかなりな「私芋」です。

 

☆「垰る」ず「還る」に぀いお。

「垰る」は「本来そうあるべきずころに到り着く」ずいう「ず぀ぐ」ずいう意味がありたす。

「還る」は「元いたずころに戻る」ずいう意味です。

 

このこずは、仏教においおは、キチンず䜿い分けるこずが必芁です。

 

このように、源空に぀いおは、「念仏であるけれど信心がポむントである」こずを重ねおいっおいたす。

 

真宗孊では「源空」は「遞択本願」を明らかにしたずされたす。

 

正信偈、最埌の「匘経倧士〜唯可信斯高僧説」

も有名ですから、倚くを語るこずはないず思いたす。

 

ただこの䞭に「道俗時衆共同心」ずあっお、「皆が同じ心で和合したしょう」ず、勧められおいるこずは重芁だず思いたす。

 

なお、芪鞞は教行蚌文類を自分の䜓隓を含めお、方䟿念仏が実際に効果があるずいう、実蚌前提の論ずしお展開されおいるこずを

忘れおはなりたせん。

 

☆䞭囜で「摩蚶止芳」を曞いた、倩台倧垫智顗は、これを曞いたものの「実行しなかった」ずいわれおいたす。

 

芪鞞は実行実践の䞊で論じられおいるこずが重芁なのです。

 

ですから読んでいるわたし達も「実践」がなければ意味がありたせん。

 

぀ぎにいよいよ「信文類」に入りたす。

 

 

 

 

――――――――30/11/30⬆3–1

 

 

 

30/11/292–23

 

曞き萜ずしたしたが、「倩芪菩薩」に぀いお、

真宗孊では「䞀心」を明らかにしたずされたす。

 

さお、

 

「遊煩悩林珟神通、入生死園瀺応化」

 

これが、五果門の【薗林遊戯地門】をあらわしおおり、

還盞回向をあらわす兞拠になる郚分です。

 

このあず「本垫曇鞞〜垰楜邊」たでは、

曇鞞のすごさを修食した郚分です。

 

このなかに、「仙経を焌き捚おお楜邊に垰す」ずありたすが、

 

これを「この䞖で䞍老䞍死を願っおも無理だから、

お浄土に行けば氞遠のいのちを埗られるから極楜を願った」

ずいうふうに理解しおは、ファンタゞヌになりたす。

 

仙人になっお、䞍老䞍死になろうずしおいたけれど、

いのちの本来のあり方に目芚めお、

 

仙人になろうずしおいたこずが「アホらしくなっお」

「浄土論」の真実ず方䟿(利他の方法)に「垰䟝した」ずいうこずです。

 

そもそも補泚42にも曞きたしたが、「䞃地沈空の難」にあるように、

「空」ずいう抂念は、圓時でも知識局にはわかる抂念でした。

 

ですから、曇鞞も芪鞞もダむレクトに「真劂・空」ずいう

抜象抂念を論理で理解できる人だったず思うのです。

 

しかし、その《真劂》ずいった真理の抂念や論理ずいうような

「むずかしいこずはわからない人」ずでも、

 

これを共有し、和合しあえる「利他の法」がある、

 

ずいうこずが「浄土教であるポむント」だったのでしょう。

 

ですからこの法であれば「䞃地沈空」はないのです。

 

「倩芪菩薩論蚻解、報土因果顕誓願、

埀還回向由他力、正定之因唯信心」

 

ここに、方䟿のすべおがおさたっおいたす。

 

曇鞞は、倩芪菩薩の浄土論を蚻釈しお、

無碍光劂来ずいう方䟿の䞭のさらなる方䟿を

あきらかにしたした。

 

 

それが、「法蔵菩薩のストヌリヌ」によっお

《さずり》を孊ぶずいう方䟿です。

 

 

その内容は、「法蔵菩薩の誓願ず荘厳功埳を聞くこずで、

自然にさずりを孊習する」ずいうシステムです。

 

このこずを「報土の因果をあきらかにしお、埀盞回向、

還盞回向ずもに他力である」ず、

 

芪鞞はいっおいたす。

 

このこずは、この「浄土ずいうさずりぞの道」を

歩もうず方向転換した信心の人は、

 

人生そのものが

さずりに定たった《正定䞍退転》の「因」に決定しお、

 

この人生が自然ず「埀盞ず還盞の他力のなかに生きるようになる」

 

ず誘導しおいくずいう「浄土の教えの方䟿のシステム」を

解釈されたずいう内容です。

 

぀たり、「浄土埀生」ず「プラむベヌトな生掻(ä¿—äž–)」を

分けお、「埀生が他力」ずいうのではなく、

 

この教えに生きるようになれば、

 

「すべおが埀生の道であっお、

人生たるたる他力(瞁起)だったず知る」

 

ずいうこずです。

 

 

真宗孊では、「曇鞞」は、この郚分にある「他力」を明らかにしたずされたす。

 

 

そしお、「惑染凡倫信心発〜諞有衆生皆普化」は、

 

もずもずさずり《真劂》そのものであった、

私たちのいのちが

 

「惑」に染たっお、

「惑染凡倫」になったのですが、

 

その私が「信心をおこす」こずで、

「生死即涅槃」ず生死を分断しお「虚劄分別」に

迷っおいたず蚌明されるこずを知り、

 

必ずのちに《真仏土文類》で定矩される

「無量光明土」に至る。

 

ず、「仏の智慧の状態」に至っお、

諞々の衆生を「すべお教化するもの」になる。

 

ず浄土論の真実ず方䟿をあきらかにしたのが「曇鞞」です。

 

ある孊掟では、人間は「無仏性」であり、

名号が時空遍満しお「信の䞀念」に、

私の仏性になっおくださる。

 

ずいう解釈をしたすが、

 

「真劂法性」からいえば、「無仏性」はあり埗たせん。

 

 

ずにかく、芪鞞はこの「浄土論ず論蚻」を重芖されたので、

倩(芪)ず曇(龞)から「芪鞞」ず

名乗ったず考えられたす。

 

 

぀ぎに、

「道綜決聖道難蚌〜至安逊界蚌劙果」

は道綜の郚分です。

 

道綜は曇鞞ず同じ「玄䞭寺」に䜏した僧䟶ですが、

「涅槃経ず芳経」特に芳経に匷く圱響を受けお、

「安楜集」を曞き、

 

 

次の「善導」に芳経を教えたひずです。

 

 

そもそも「芳経」は䞭囜撰述説の匷い、

いわゆる《停経》ずいわれおいたす。

 

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/芳無量寿経

https://kotobank.jp/word/芳無量寿経-49688

 

 

「芪鞞」はそれを知ったか知らなかったかは䞍明ですが、

 

なぜか法然ずは違っお「倧経」を真実経兞ずしお、

 

《阿闍䞖問題》以倖に、

論ずしお、

「芳経を重芖されおいる様子がない」のです。

 

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/無量寿経

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/無量寿経

 

 

たしかに、芳経は《明確な方䟿経》で、

 

《韋提垌ず阿闍䞖》のストヌリヌが䞭心になっおおり、

 

仏教ず蚀える郚分は、瞑想以倖になく、

 

仏教で肝心な法印ずされる「無垞、無我、寂静」

に觊れる郚分が重芁芖されず、

結果「瞑想(䞉昧)」で実珟䞍可胜な「芳想」ずされおいたす。

 

だからなのでしょうか、

 

「浄土論」の「仏教ず盞応する」ずいう郚分が、

教行蚌文類では匷調されお、

「浄土教は間違いなく仏教です」

ずいっおいたす。

 

 

ずにかく

この芳経のストヌリヌは「涅槃経」から続く内容だず

蚀われおいたすので、

 

そもそも「涅槃経」孊者だった

「道綜」の創䜜ずもいわれたす。

 

しかし、芳経は曇鞞の論蚻にも匕甚がありたすから、

これは時代的に合わないのです。

 

ずいっおいおも「うが぀孊者」は、

道綜が論蚻に「曞き足した」ずいう人もいるようですが、

 

原兞の文字の分析などのなかった時代、

時代考蚌のできない時代の孊者のいうこず

ですし、なにが「ホント」なのかはよくわかりたせん。

 

このこずには諞説ありたすが、

曇鞞以前の䞭囜の誰かが「創䜜」したのでしょう。

 

ただ蚀えるこずは、

 

そもそも法然が「道綜、善導」の「芳経」を

よりどころにしおいお、ここを倖す蚳にはいかないのですが、

「芳経」はたるたる「方䟿経」ですので、

 

「方䟿の阿匥陀仏」を受け入れる「信心」に぀いおは、《詳现》です。

 

裏を返せば、もしこれが「道綜」の創䜜だずするず

「道綜」は「信心掚し」ですから、「信行䞡座」ずいう、

 

ほが「芚劂」創䜜の「埡䌝鈔」の䞭で、

 

法然が「信の座」に぀いたずいうこずは、

これが芚劂の創䜜ずしおも、

法然さん的には「正解」なのかもしれたせん。

 

ずにかく「道綜」は、芳経をよりどころにしお、

「聖道門ず浄土門」を明確に分類しお

「䞉信䞉䞍信」を明確にしたずいうこずがポむントです。

 

ですから真宗孊では「道綜」は、「聖道門、浄土門」を明確にしたずされたす。

 

 

 

――――――――30/11/29⬆2–24(未)

 

 

 

30/11/282―22

 

「印床西倩の論家(韍暹、倩芪)、䞭倏(曇鞞、道綜、善導)

日域(源信、源空)の高僧」

 

これらの高僧は、「倧聖(äž–å°Š)が䞖に珟れた正しい意図をあらわしお、

劂来の本誓が機に応じおいるこずを明きらかにされたした。」ずいった、

 

倧経をもずに、䞃高僧それぞれに「無量寿劂来の教え」が

「私たち凡倫にふさわしいこず」をあきらかにされたずいっおいたす。

 

そこでたずは、「韍暹菩薩」です。

本文のポむントを蚘述しおいきたす。

 

「悉胜摧砎有無芋」

これは、韍暹の䞭芳を衚しおいるずみおよいでしょう。

぀たり「空」です。

 

䞀切はあるのでもないのでもない「因瞁生」であるずいうこずです。

 

「有芋、無芋を砎る」ずいいたすが、

 

これは、「有る」ずいう偎面に執着しおいおも、

「無垞ず瞁起による存圚」ずいう事実からすれば「無である」ずいえたす。

 

単玔に「念珠」も《珠ずヒモ》によっお結合しおいるから「念珠」ですが、

ヒモが切れれば《珠ずヒモ》でしかありたせん。

 

さらにこれを分解しおいけば、《原子》でしかないのです。

しかし《原子》が「有る」のかず蚀うず《芳枬者》がいなければ「無い」ずいえたす。

 

存圚ずいうのは、このように「䞍確定」なものでしか無いのです。

 

「無い」ずいっおみおも、「因瞁」がそろえば「有る」

ずいう状態は珟実化したすが、

 

これも《刹那》に倉化しおいたすから、同じ状態のものがある

ず蚀うこずもあり埗たせん。

 

こういった、「有無の芋」を砎った。

ずいうのが、䞭芳の「空論」であり、韍暹が祖ずされおいる孊掟です。

 

これは、「曇鞞」も「論蚻」の各所に甚いおいる論で、

「埀生」に関する「無生の生」もこの内容をもずにしおいたす。

 

ですから、死埌に「お浄土」があり、死埌に「埀生」する

ずいう教矩は《仏教では無い》ずいう以前に、

韍暹自䜓が「砎った芋方」なのです。

 

行文類に論じらおきたように、

あくたでも珟生に「私ず名づけられおいる存圚は《仮名》でしか無い」のですから、

 

「私の名字を倉換しお、珟生で《浄土の仮名人》ずなっお

《無碍光劂来や南无阿匥陀仏》ず称名し぀぀、

 

《自分の名前を入れ替えおいくプロセス》の䞭で、

「珟生に浄土(さずり)を【芳察】しお生きるこず」が、

「仏教ず盞応した浄土教の歩み」なのです。

 

根本仏教の「無垞、無我」を生きる方䟿ずいうこずなのです。

 

通垞「真宗孊」では、

韍暹は「易行」をあきらかにしたずいわれたすが、

「信楜易行氎道楜」ずいうずころから蚀われおいたす。

 

しかし、行文類からの論理でいえば、

それ以䞊に「有無の芋を砎る」ずいうポむントの方が

重芁であるずいえたす。

 

その点で、「垞に称名する」を「憶念匥陀仏本願」ず蚀い換えおも、

同じ内容であり

《法蔵菩薩の願行(匥陀仏本願)を生きるずいうこずがより具䜓的》

に衚されおいたす。

 

本願を憶念しながら生きるこずが【䜜願】になるからです。

 

ですから「自然即時入必定」になり、

「唯胜垞称劂来号」【讃嘆】になるのです。

 

そしお、倩芪菩薩ですが、

行文類のポむントずしお「垰呜無碍光劂来」「䟝修倚矅顕真実」

「暪超倧誓願」ず重芁な郚分をあげ、

 

「本願力回向によっお䞀心をあらわす」ずいう

【回向発願】から

「䞀心ずいう信心」ぞの意味に「五念門」を

《行から信》ぞず論を進めおいたす。

 

そしお、無碍光劂来の「功埳倧宝海」に「入れば」、

五果門の《倧䌚衆門》に入るずいわれたす。

 

ここで五果門に入るのは《無碍光劂来に垰入した》

【讃嘆門】の時ず《因果同時》ずなりたす。

 

「獲」を因䜍ずしおも、(和讃の終わりの文による)

因果が因に包摂されなければ「必獲」ずは蚀えたせん。

 

この点で【重芁なこず】は、

そもそも時間論に぀いお、「倧経」は

 

「過去、未来、珟圚」の《法性生起の次第》ですから、

凡倫の時間論ではありたせん。

 

そしお、この「時間論」は倩芪が曞いた「倶舎論」

にも解釈されおいたす。

 

倩芪は、「倶舎論」を曞き、やがお《唯識掟》を倧成したのですから、

倩芪に぀いおは、「認識論」で解釈する必芁がありたすが、

 

曇鞞が「浄土論蚻」で「䞭芳、唯識」に基づいお解釈し、

たた、「倧乗諞経」によっおも解釈をしおいるので、

より深く「倧乗仏教ずしおの浄土論」ずいう䜍眮付けで解明できるため、

 

芪鞞は、「浄土論蚻を浄土論」ずしお取り扱っおいるず掚論できたす。

行文類で「浄土論論蚻」になっおいるのは明確な事実です。

 

ですから、入の第䞉門【䜜願門】は「蓮華蔵䞖界」に入る

ずされおいる、この「蓮華蔵䞖界」に぀いお、

 

芪鞞は、196ペヌゞの【89】の「無碍人」を「華厳経」の

「法界瞁起」で解釈しおいお、これが「無碍光」

を暗瀺しおいるず掚察できるのです。

 

いずれにせよ、芪鞞は「浄土教」に぀いお、

「仏教ず盞応する」ずいうこずを、

「浄土論、論蚻」によっお明確にしおいたす。

 

ですから、「蓮華蔵䞖界に至る」ず噚䞖間に぀いお明らかにし、

「真劂法性の身を蚌す」などず有情䞖間に぀いお明らかにしお、

倧乗仏教の根拠を、倩芪菩薩によっお明確にしおいるのです。

 

 

 

――――――――30/11/28⬆2−23

 

 

 

30/11/272–21

 

「摂取心光垞照護〜即暪超截五悪趣」

 

これは「摂取の心光」たたは「摂取心の光」ず読むず、

埮劙に違っお、「心光」ずいうず光明に「意思がある」ようになり、

「摂取心の光」ず読むず「摂取心から出た光明」ずなりたすが、

 

これを曞いた芪鞞は、「摂取の心光」ず読たせおいたす。

 

これは、光明に「智慧ず慈悲の意思がある」ずいうこずだず掚察したす。

 

いずれにせよ、私をさずりに向かわす光明は、

 

「垞にさずりぞの道を倖れないように護り」

私の”無明“の闇を砎っおいお、

 

もしたずえば「貪愛瞋憎の〈煩悩〉の雲や霧が」芆ったずしおも

 

「阿匥陀の智慧に生きおいるものの䞊には、

真実信心の「無碍光・智慧光の倩」がすでに「芆っおいる」から

問題にならないずいうこずを譬えおいたす。

 

たずえば日光が雲や霧に芆われおも、雲や霧の䞋は明るくお

闇がないようなものであるずいうこずです。

 

だから信を獲お、芋お(芳察)敬い(瀌拝)倧きに慶喜すれば、

すなわち暪に五悪趣を超截するず、

 

倧経の文蚀によっお、

五念門行の内容をこめお、地獄、逓鬌、畜生、修矅、人

の五悪趣を截ち切るずいっおいたす。

 

ここで五悪趣が出されたすが、そもそも五悪趣の根源は

「人」の「思慮分別」にありたす。

 

これは倶舎論頌にある解釈で、「人」の定矩を

「思慮分別するを人ずす」ずされおいたすが、

 

人はたいがいの堎合、思慮分別の末、

「いかり、愚かな思い、むさがり、自分の思いに拘束される」

ずいう「修矅、畜生、逓鬌、地獄」をさたよいたす。

 

これが「趣く(趣)」ずいうこずです。

 

぀たり、人の「虚劄分別」が自分を苊しめるのです。

自分で自分の銖を絞めるずいうこずです。

 

そしおそもそも、この《分別の基準》が「無明」によるから、

この無明を砎る「無碍智慧光」が「摂取心光」なのです。

 

私たちは、この光明に「護られる」のですが、

これも「さずりから退転しない」ずいう「護り」です。

 

心光ずされる「無碍智慧光」に照らされお、「無明の闇が砎られお」

《虚劄分別》から逃れ、「真実の智慧」である《法蔵菩薩の願行》に

生きればこそ、五悪趣を截぀こずができるずいう《具䜓論》です。

 

ですから䞀般的に「善人ず蚀われようず悪人ず蚀われようず」

この「虚劄分別」は同じですから、「䞀切善悪の凡倫人」ずくくり、

 

この凡倫人が「劂来の匘誓願を聞いお受け入れる《信》ならば、

「仏」はこのひずを「広倧勝解者(すぐれおよく理解したもの)」ず称えられお、

「分陀利華(癜蓮華のようだ)」ず名づけられたす。

 

ず虚劄分別を離れお「無碍智慧光」に垰するようにいわれおいるのでしょう。

 

ずはいえ、このような「虚劄分別」を、

 

人はなかなか「虚劄」だず認めないので、

 

匥陀仏の本願念仏を「間違っお解釈」したり、

「難しい」ずひずごずのようにかわし、

「おごり」によっお「必芁ない」ず認識したす。

 

こういういわば「悪衆生」、

さらにいうなら「愚衆生」、

「せっかく、広倧な䞖界に解き攟たれる

無碍智慧光があるのに、狭い自分の牢獄に

自ら繋がれる愚かなもの」

 

は「信楜(疑いなく受け入れる)」を

埗るこずは難しく、

 

この䞊なく「難しい」こずでもあるずいうのです。

 

ずにかくこのように「”残念な人”が倚いものです」ずいった雰囲気で、

芪鞞はなかば「嘆かれお」いたす。

 

さお、ここたではおよそ「倧経」によっお解釈されおきたした。

続きは「䞃高僧」による「解釈」を蚘述されたす。

 

 

 

 

――――――30/11/27⬆2−22

 

 

 

  

30/11/262–20

 

「劂来、䞖に興出したたふ〜劂来劂実の蚀を信ずべし」

の郚分は、「釈尊」をはじめずしおすべおの劂来が䞖に出た理由は、

ただ匥陀の本願海を説くためであるず、諞仏出䞖本懐を明らかにしたす。

 

興味深いのは「ここで《矀生海》」ずある郚分で、ちょくちょくありたすが、迷いの衆生を矀生ずいい「ムレ」ず衚されおいるこずです。

 

仏法に生きる人たちは「ムレ」るのではなく、「和合」するのです。

 

いわゆる「ムレ」おいる人たちは、それぞれの「胜力を掻かす」のではなく、倱敗に぀いおも「かばい合う」ものです。

そしお、そこには「ボス」のような人がいお、そういう人に「気を䜿いながら」その「ムレ」から萜ちるこずに気を䜿うものです。

ずはいえ、その「ムレ」に意味があるかずいうず、なんの「意味もない」ずいうのがほずんどです。

 

誰がボスでもなく、互いに持おる胜力を掻かし䌚えお、トラブルにも適切な凊理ができる関係を「和合」ずいい、仏教のめざす人間関係です。

 

芪鞞は「正定聚ずいう《なかた》」ずいう芳点を重芖しおいるように思えたす。

 

いずれにせよ、これが、䞉宝の「南无垰䟝僧(サンガ)」です。

 

さお、ここに「五濁悪時」ずありたすが、

阿匥陀経などでご存知のように「劫濁、芋濁、煩悩濁、衆生濁、呜濁」ずいう「五濁」。

この文蚀の解釈はいろいろありたすが、

 

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%94%E6%BF%81

http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge18.html

 

を参考にしおください。

 

ただ、この五濁悪時ですが、芋えにくいずころに、五濁や悪時の姿があるにせよ、けっこう時代の良し悪しからすれば、「民䞻化」「教育」ずいう面では、そんなにめちゃくちゃ悪い時代ずも思えたせん。

 

ずにかく、い぀の時代も良し悪しはあっお、意倖ず珟代もさたざたな課題はあるけれど、「さらし銖」にされるような時代でもなく、法治囜家ずいう名の人治囜家ではありたすが、基本は法治囜家ですし、「民䞻化されお蚀論の自由もある」時代ですから、ネットもいい方向で䜿えれば、このように簡単に情報共有できたすし、必ずしも「五濁」が進んだ時代ずも蚀いにくいずは思うのです。

 

そういう意味で、五濁は進むかどうか以䞊に、「ある」こずが問題です。

悪時であるこずは垞なのでしょう。

 

どの時代にも、それぞれの時代の問題があるのです。

 

぀ぎに特蚘すべきは「䞍断煩悩埗涅槃」でしょう。

芪鞞は、和讃のあずに「獲は因䜍」「埗は果䜍」ずしおいたすが、この教行蚌文類の時点でどうだったかは䞍明ずしおも、

 

「煩悩䞍断の状態で涅槃を埗る」ずいう意味であるず理解できたす。

これは、仏教䞀般で「煩悩即菩提」などずいわれるように、

 

煩悩も仏智でみればさずりの《タネ》になる。

 

ずいう意味をあらわしおいるようです。

そもそも「劂来」ずいう蚀説による存圚は、煩悩をもった私がいるからで、私がいなければ、劂来も必芁ないのです。

 

劂来の教え、法蔵菩薩の願行によっお、私がさずりに向かい、そのために「劂来が煩悩の解釈を倉えおくれる」のです。

 

「むさがり、怒り、愚痎に生きる私」が、

《いずれも自分のいのちの防衛のための心の動きだった》

ずおしえられるのです。

 

だから、こんな「防衛の仕方はかえっおおいい結果をもたらさない」ず知っお、そもそも「わたし」を守ろうずせず、

 

「無垞の䞭で、摂理に埓っお生きる方が埗策である」

 

ず「無我、空性、真劂」に生きるように方向づけられるネタになるのです。

 

このように、煩悩を「断぀こず」を考えずずも、「涅槃に至れる」こずを教えおくださるのが、阿匥陀劂来を受け入れる「䞀念喜愛心」にこういう実益を埗られるずいういこずです。

 

だから「凡人も聖人も逆謗斉しく方向転換しお、阿匥陀の海に入れば同じさずりの味になる」ずいうこずです。

 

 

 

 

 ãƒŒãƒŒãƒŒãƒŒãƒŒãƒŒ30/11/26⬆2–21

 

 

 

 

30/11/222–19

 

203ペヌゞの「成等芚蚌倧涅槃」「必至滅床願成就」は、

「至心信楜願を因ず為す」による第十八願の因による果を

「等芚を成り倧涅槃を蚌するこずは」ずいう

第十䞀願の「必至滅床の願成就なり」だずしおいたす。

 

 

☆よく、四十八願の順番に぀いお、なぜ「倧事な本願が18番目ずいう䞭途半端な

順番にあるのか、なぜ因になる願が十八番目で果になる願が十䞀番目に戻るのか」

ずいったこずを尋ねられたすが、

 

それこそ四十八願をひず぀ひず぀読んで「願の流れ」をみればわかるのですが、

真宗では「11、12、13、17、18」ず「19、20、22」を取り出しお

語られるこずがほずんどなので、党䜓の流れがわからないのです。

 

今はそこを蚘述するず膚倧になるので、

四十八願に぀いお「順番の意味や内容」に぀いお、以䞋を参照しおください。

 

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/四十八願

 

さお、四十八願の第十䞀願には

「囜䞭人倩、定聚に䜏し、必ず滅床に至らずは、正芚を取らじ。」

ずありたす。

 

これを脚泚から補泚21556ペヌゞを芋るず「滅床」を

「煩悩の滅した無為涅槃界」ず蚘述され、

「臚終䞀念の倕べ」を匕甚しお

「珟生のいのちが終わるず(死埌)倧般涅槃を超蚌す」

ず蚘述されおいたす。

 

ここに真宗孊䞊の矛盟があるのです。

 

そもそも第十䞀願の文蚀では「囜䞭人倩」が

「定聚に䜏し、滅床に至る」ずあるものを、

 

教行蚌文類では「定聚」を「因信心」の時点に芏定しおいたすから、

すでにここで「囜䞭人倩」でなければ、第十䞀願を厩すこずになりたす。

 

ひず぀には「囜䞭に《人倩》」が存圚したすが、この《人倩》は、

仏の倉化身ではなく「普通の人倩」でなければ、

「定聚に䜏し、滅床に至る」の文蚀が意味を持ちたせん。

 

そしお、【重芁】なポむントは、

 

「臚終䞀念の倕べ」に「䞀念」ずあるのを「信の䞀念」ずし、

「俗䞖間のいのちが終わる《臚終》」ず定矩しなければ、

 

「経文そのものを厩すこずになり」それこそ、

芪鞞は「そんな無茶なこずをしたのか」ずいうこずになりたす。

 

ですから、「臚終䞀念は信の䞀念」の時点ず定矩しお、

「倕べ」ずいう意味は「正定聚から滅床に至るプロセス」

 

぀たり「滅床ぞのりパヌダ(近づく)プロセス」ず定矩し、

 

「滅床」は、

「煩悩が滅するこず最終的にわたしが消滅するこず」

぀たり「真劂無為に合䞀するこず」ず理解するず問題はないのです。

 

 

この「最終的にわたしが消滅する」ず蚘述したのは「死」を意味したせん。

生死に関わらず、「わたしの名字が完党に入れ替わるこず」であり、

 

 

芪鞞のように「正定聚の初地が、南无阿匥陀仏が信心の業識ずしお、

芪鞞に着床し《等芚》に至っお、

わずかに残っおいる《わたし》が消滅しかかっおいる状況」で、

 

ほが「滅床ギリギリ」ずいう状態ずいえるでしょう。

 

ここで「倕べ」ずいう「埐々に倜になる」ずいう喩えのように、

デゞタルではなくアナログ的《フェヌドアりト》だずいえたす。

 

ですから、「信文類264ペヌゞ【103】」の「倕べ」の前に、

「竜華䞉䌚の《暁》」ず蚘述されおいお、「匥勒菩薩ず同じであり、

「等芚の倕べから暁に至れば無䞊芚䜍を極むべし」ずあっお、

 

匥勒菩薩が死んだ時に涅槃に至るのではなく、

匥勒菩薩ず同じ等芚から、プロセスを進んで、匥勒菩薩より速く、

《暁》に至るずいう論であるず解釈する方が、

 

仏教の根本原則に背かないのです。

 

぀たり、「さずり、真劂、空」は「俗䞖間の根底」にありたす。

 

それは、「俗ず悟」は《同時に存圚する》ずいうこずです。

 

「さずり」は、時間軞にあるのではなく、

空間ず存圚の解釈(倚次元時空)にあるのです。

 

問題は、《同時に存圚する》どちらを芋るのか

【芳察】するかずいうこずですから、

「非僧非俗」の《非俗》の郚分です。

 

結果、埀生すら「無生の生」ですから、

同時に存圚する《非俗》を芋ながら生きるず決めた

「信の䞀念」に「わたしが終わりゆく倕べを生きる正定聚」になり、

 

死埌で有る無しに関わらず、珟生にさずりを【芳察】しながら

埐々に涅槃に至るずいう論になりたす。

 

戻っお、「等芚になる」は「正定聚になる」ずいう意味で、

 

「本願名号が正定聚ぞ至る業」でそれは「至心」ずいう

《真実心(真劂に導く劂来の教え)》、

具䜓的には「法蔵菩薩の教え(䞭心は四十八願)」を

疑いなく受け入れる「信楜」によっお決定するので、

 

「等芚の身になっお(正定聚)」を生きる「念仏行者になる」こずで、

「涅槃が蚌明される」を「滅床に至る」ずいうこずだず

明確にされおいたす。

 

ここで【回向発願門】が定矩できたす。

 

そういう点で「この根拠」を「第十䞀願」に定矩しおも

「ムチャでもなく、問題なく、かえっお方䟿蚀説のなかに真劂をみるこず」

になるのです。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌ30/11/23⬆2–20

 

 

 

30/11/222–18

 

203ペヌゞの【102】に《正信念仏偈》ずいう十二郚経

(仏教教説の十二圢態)の「偈(ガヌタヌ)」ずいう圢匏で

【讃嘆門】の《願行功埳=法性》を正信した念仏に぀いお

あきらかにした偈を蚘述されたす。

 

これは「行文類」ず「信文類」の間にありたすが、

行から信ぞのプロセスずいうよりも、《行信を結合》しおいる内容だず蚀えたす。

 

さお、冒頭の「垰呜無量寿劂来、南无䞍可思議光」に぀いお、

 

䞀般的には「垰敬序」ず定矩されたすが、単玔に「南无阿匥陀仏」のも぀

「寿呜ず光明」を分解しお、「垰敬」をあらわすだけの内容であるず

”流しお”したっおは、重芁な意味を芋逃したす。

 

ここは【瀌拝門】【讃嘆門】ず定矩できたす。

 

ここには次に続く、法蔵菩薩のストヌリヌの【根拠】が明確にされおいたす。

 

「無量寿劂来」は倧経にあらわされる法蔵菩薩の結論ですが、

 

法蔵菩薩を真劂からの垂迹ずするなら、

「法蔵菩薩の根拠」を真劂から来生した《蚀語䞊(ä¿—è«Š)の存圚》ずいう

【念仏の教えすべおの根拠】を無量寿劂来ずあらわしお、

「垰呜」するずいわれおいるずいうこずが「重芁ポむント」です。

 

ここを指しお、わたしが「無量寿」いわゆる「氞遠の呜をいただく」ず解釈しおはいけたせん。

 

あくたでも「わたしがわたしで無くなる」こずが、仏教の「さずり」ですから、俗䞖間の䟡倀芳で読んでは間違うのです。

 

あくたでも「倧経」の無量寿劂来であっお、「さずりそのもの」です。

 

そしお、この無量寿劂来が「光明」ずしお珟れるのですから、

 

「垰呜尜十方無碍光劂来」ず同じ意味で、

 

「南无䞍可思議光」ず出されおいたす。

 

これは、

 

「垰呜無碍光劂来」「南無無量寿劂来」でも良さそうですが、

 

「無量寿劂来」は「倧経」の本源ですから、これを先に出しお、

浄土論の「無碍光」を「䞍可思議光」ずしお、埌の十二光に配慮したずも

掚察できたす。

 

《本源から光明が出お、法蔵菩薩の教えに具䜓化する》

 

ずいう流れに読み蟌めたす。

 

぀たりこの二句は、《法蔵菩薩の蚀説の【根拠】をあらわす》ず同時に、垰敬を衚されおいたす。

 

しかし、文類聚鈔の念仏正信偈の冒頭は、「垰呜も南無も」ありたせん。

 

この点で、垰敬よりも、論の流れに意味があるずいえたす。

 

「法蔵菩薩因䜍時」からは、「倧経」の法蔵菩薩のストヌリヌがたずめられおいたす。

 

ここに、《願行》が敎うこずを明確にされたす。

 

ここで【䜜願門】が定矩できたす。

 

ただここで「建立無䞊殊勝願〜倧匘誓」ず《誓願》は敎うのですが、

《行》がどこで定矩されるのかずいうこずが䞍明瞭です。

 

このこずは「倧経」15ペヌゞによれば、

「五劫を具足し〜枅浄の行を摂取す」ずあるので

「五劫思惟之摂受」の郚分が、15ペヌゞの2行目の内容をあらわしおいお、

この「五劫思惟。。。」が《願行具足》をたずめた郚分だずいえたす。

 

しかし、「願」は、四十八願ずいう詳现なものが蚘述されおいるのに、

「行」は《枅浄の行》ずあるだけです。

 

ですから、行文類に論じたように、この「行」を【五念門行】ず

「浄土論」は定矩したのです。

 

そしお、「重誓名声聞十方」に至っお、

「名字ず声が十方に聞こえるこずを重ねお誓っおいる」

ずいう郚分の解釈もポむントです。

 

「名声」を即「名号」ず解釈するず「南无阿匥陀仏」の喚び声ずいう

早蚈な解釈になりたす。

 

この「名声聞十方」は《名字ず諞仏称名の声を十方衆生が聞く》ず解釈するず、

行文類ず笊合しお、諞仏称名を聞く(信心)ずなりたす。

 

「聞えんず」を「聞こえるように」ず読んでも、「聞こえる」ず断定しおも

文脈ずしおは問題ありたせん。

 

ただ、この時点では《名》を南无阿匥陀仏に定矩できたせん。

 

それは、この郚分が「倧経」によっおいる以䞊、「倧経」には

「南无阿匥陀仏」ずいう文蚀は出おこないからです。

 

ずにかく「我が名字」ずいう「䞍確定な名」です。

あえお「倧経」のうえで確定するなら、「法蔵菩薩か無量寿仏」です。

 

いずれにせよ、ここで「䞍確定な名字」をこのあずの「普攟無量無蟺光」

から十二の讃嘆名であらわされる「光明」に定矩されたす。

 

これも【讃嘆門】ず定矩しおもいいでしょう。

行文類では、仏の名字を確定しおいないのですから、

讃嘆名すべおが「名字、名号」であり、讃嘆名です。

 

名号に぀いおは、155ペヌゞの論蚻の匕甚【18】の終わりに、

 

教文類にも蚘述した、「仏の名号をもっお経の䜓ずす」ずありたすが、

論蚻のうえで名号は、次のように曞かれおいたす。

 

論蚻(卷䞋)自䜓を〈曞き䞋しで〉みお芋たす

圌の名矩の劂く 実の劂く 修行し盞応せんず欲うずは かの無瀙光劂来の名号は よく衆生のすべおの無明を砎っお よく衆生のすべおの願いを満たしおくださるのである

ずころが口に名号を称え 心に念じながら 無明がなおあっお その願いの満たされないものがあるのはどういうわけかずいえば それは無瀙光のいわれにかなうように修行せず 名号のいわれに盞応しないからである 

どういうのが無瀙光のいわれにかなうように修行せず 名号のいわれに盞応しないのであろうか

 ãã‚Œã¯ïœ€ 劂来が「実盞(じっそう)」「真劂(しんにょ)」をさずられた自利成就の仏であるず共に そのたたが われらを救いたもう利他成就の仏であるこずを知らないのである 

 

―――以䞊「論蚻」

 

ずあるように、「無碍光劂来の名号は」ずあっお、この「の」を無碍光劂来ずいう劂来の名号が別にあっお「その名号は」ず読めなくもないのですが、倧経ず浄土論の時点では「南无阿匥陀仏」ずいう文蚀自䜓がなかったのです。

 

ですから、この時点ではあくたでも「無碍光」の

讃嘆名に垰結定矩されたす。

 

そもそも、南无阿匥陀仏ず出おくる「芳経」に぀いお、

䞭囜撰述説があるように、「サンスクリット原兞」がなく、

「異蚳本」もないので、倩芪は「芳経」自䜓を知らなかった

可胜性があるのです。

 

曇鞞は知っおいお、論蚻にも匕甚がありたす。

 

ずはいえ、念仏の根拠を「真劂、法性、空性」ずいう仏教の根源からの方䟿である

ず解釈しお、

さずりぞの構造をもったシステムであるず【蚌明】する䞊で、

もっずも欠かせないのが「論蚻」ですから、名号の定矩が難しいのです。

 

しかし、146ペヌゞ【12】の埡自釈に、

「名を称するに〜念仏はすなわちこれ南无阿匥陀仏なり」ずありたすが、

なぜか、名号は「南无阿匥陀仏」なり。

 

ず教行蚌文類で明確に定矩されないのです。

 

称えられおいる名が「南无阿匥陀仏」です。

ずいう衚珟ですから、ここで名号を「南无阿匥陀仏」に定矩しおいる

ずいっおもいいように思えたす。

 

しかし、明確に定矩しない。

 

぀たりそれは「倧経の無量寿仏」の名号は「耇数ある」からだずいわざるを埗たせん。

 

これは、「浄土論蚻」には、無碍光ずあり、

そもそも「倧経」には「無量寿劂来(仏)」ずあったりするので

確定できないずいうこずだずいえるでしょう。

 

ですから「称名」をあえお「念仏」ずいう文蚀に眮き換えお

「南无阿匥陀仏」に定矩するずいう、

ややこしい論を展開する必芁があったのでしょう。

 

 

そしおたた、この次に「本願名号正定業」「至心信楜願為因」

ずある郚分に《本願名号》ずありたすが、本願に名号はありたせん。

 

では、この本願名号をどこで抑えるかず掚察するず、

「至心信楜」の《至心》を名号ず定矩するほかないのですが、

ここにも芪鞞の䞻匵したいポむントず法然のズレがありたす。

 

これは、「正定業」ず186ペヌゞの4行目5行目にも蚘述されおいたすが、

ここでは、185ペヌゞの【67】から、南无阿匥陀仏は念仏であるず定矩し、

念仏は正定業であるず定矩し、それをたた称名に定矩しお、

 

これは「仏の本願による」ず法然が定矩しおいる内容を兞拠にしおいたす。

 

ここでズレがあるずいうのは、法然は本願の「乃至十念」で

定矩しおいるのですから「本願名号正定業、念仏埀生願為因」

ずすれば䞀臎するのです。

 

事実、芪鞞は信文類の冒頭に「念仏埀生の願より出でたり」ず蚘述しおおり、

「遞択本願ず名づく」ずも蚘述しおいるのですから、

 

「遞択本願願為因」でもいいわけです。

 

しかし芪鞞は、「至心信楜の願」ずいう願名をここに出しおいるのは、

「無碍光」や「阿匥陀劂来」の功埳、぀たりは「真劂法性」を名号に定矩しお、

それを「至心」に定矩されるので、《正定業・本願名号》を

「乃至十念」に定矩されないず掚論できたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌ30/11/22⬆2–19

 

 

 

 

30/11/212–17

 

202ペヌゞの最埌に「正信念仏偈」を぀くる前提に、

 

「倧聖の真蚀に垰し」ずありたす。

これは、総序に「摂取䞍捚の真蚀」ずもありたすが、

 

脚泚には「真実の教え」ずだけ曞かれおいたす。

 

もし、「真実の教え」を意味するならば、ほかの蚀い方は

いくらでもありたす。

 

「劂実蚀」でも「実蚀」でもなんでもいいのに、

 

あえお誀解を招きそうな「真蚀」ず曞かれおいるのか、

掚定する孊習思考が重芁です。

 

この時代に「真蚀」はメゞャヌなこずばですが、

「密教」を意味したす。

 

倧日劂来ず結合する䞉密の重芁な芁玠である「真蚀」ずいうこずばを

 

そのたた「無碍光劂来ずの連結」ずいう意味をもたせお、

 

「名字」は「無碍光劂来」ずの《結合芁因》ずしお重芁であるこずを

蚀っおいるず掚定できたす。

 

぀たり「倧聖の教えに垰する」ず読むのではなく、

 

「倧聖の説く《真蚀》に垰する」ず読むず論理が

スムヌズなロゞックになりたす。

 

もうひず぀蚀えるのは、「真劂の蚀説」ずいう真諊ず俗諊ずも読めたす。

 

いずれでも「真蚀」ずいう蚀い方で論じおいる内容結果は同じです。

 

たた「深遠なる」のこずば通り「深い内容」にもなるので、論ずしお䞀貫したす。

 

そういう意味では、「倧祖の解釈に閲しお」の「倧祖」を、

脚泚に蚘述されおいる《曇鞞の論蚻》説をずり、

 

「仏恩の〜信知しお。。。」ずよむず、

 

ほが「浄土論ず蚀い぀぀曇鞞の論蚻によっお」あきらかにしおきた「行」である

 

「無碍光劂来のみ名を称する」の意味をひらく

(倧祖の解釈を閲芧する)こずになりたす。

 

぀たり「普通名詞」たたは「わたしの名ずいう固有名詞」の名字(名)が、

 

「倧聖の真蚀に垰し。。。」ず「真蚀に垰す」こずで、

 

「南无阿匥陀仏」ずいう《固有名詞か぀さずりぞの動詞》になるわけです。

 

たずめるず、

《真蚀》に垰する【瀌拝門】は、法蔵菩薩の願行に

「わたし」を投じ(五䜓投地ず同じように劂来に蚗す)るこずで、

 

《無碍光の功埳・智慧》がこずばずしおあらわれた「法蔵菩薩のストヌリヌ」を聞き、

「わたし」が、自然に《法蔵菩薩の「願行の意味」を孊習する》こずになっお、

 

「称名讃嘆」しおいるプロセスのなかで、わたしの名が「南无阿匥陀仏」に倉換しおいく

【讃嘆門】の《称名行》を生きるるものになるずいうこずです。

 

それは具䜓的には《法蔵菩薩の四十八願をわたしの願い》ずしお生きる【䜜願門】の身になるずいうこずです。

 

そしおそのプロセスによっお「わたし」が「砎我」されおいき【芳察門】が

誘発されお、浄土が珟映しおいくずいう《䞇埳》ずされる「仏智」に生きるずいう、

 

「いのちのベクトル」が方向転換【回向発願】するのです。

 

このように、「仏恩を信知しお」぀たり「劂来を受け入れお」

“方向転換したいのち”になったず、

 

芪鞞は実䜓隓ずその論のプロセスを、

この「行文類」にあきらかにしたのです。

 

ですからここに十二郚経のうちの「偈」を䜜っお、「無碍光劂来」ずいう

「法界瞁起を明かす真理の光明」によっお導き出された「阿匥陀仏の䞇埳」に

「南无(垰呜、発願回向、即是其行)」しお、

 

「南无阿匥陀仏」の真蚀によっお「真劂ず䞀䜓化」するプロセスを

 

「正信念仏」を《劂来からの瞁信心ず因信心による念仏》だずあきらかにした「偈」ずいう

スタむルで改めお「讃嘆」する。

 

ずいう意味に読み蟌めたす。

 

これはあくたでも行文類が「論蚻を䞭心」にしお論じられおいるずいう

かなりな【重芁ポむント】を倖しおは読み蟌めない内容です。

 

このように、膚倧な論のようでありながら、内容は䞀貫しおいるのです。

 

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ30/11/21⬆2–18

 

 

 

 

30/11/192–16

 

 

今日友人の勧めで《あるセミナヌ》に参加したした。

 

ほが昭和の新宗教の珟代型ですが、

 

内容は、「倩芪の唯識」を珟代的にアレンゞしたものでした。

 

このセミナヌの「指導者」は、「今このセミナヌは党囜䌚堎に同時に流されおいお、

党囜で1䞇人の皆さたがお聞きになっおいたす」ず蚀ったのですが、

 

これが事実なら、「8,000䞇円」です。

 

わたしの行っおいた䌚堎が、倧䌚堎2000人収容で、満垭以䞊で倧䌚堎から小䌚堎(生䞭継映像゚リア)たで聎衆がいたした。

 

これが、ひずり8,000円の参加費でしたから、

1䞇人なら8,000䞇円です。

あながちり゜ではないのでしょう。

(わたしの参加費は友人が出しおくれたので、わたしは払っおいたせん)

 

そしおこの2000人〜1䞇人芏暡のセミナヌが”月䞀”で行われおいお、

か぀䞭小䌁業の瀟長などが、個別に毎月「顧問料名目」で「数癟䞇円」のお瀌を”喜んで”しおいる

ずいう事実もあるようなので、スゎむ収入です。

 

その団䜓に所属するこずで売り䞊げが䞊がっおいるずいうこずでもなく、

「単に内容がすばらしい」「超人的な胜力者が育っおいる」ずいうこずで、喜んで支払っおいるようです。

倱瀌ながら、たいした内容ではありたせん。

 

 

超人的な胜力も、トリックや挔出ずコヌルドリヌディングの手法です。

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/コヌルド・リヌディング)

 

 

これが、倧阪でいえば、”ビッグサむト玚”のセミナヌですが、

運営しおいるメンバヌは、信者さんの「ボランティア」ですし、

セミナヌにかかる「䌚堎費などの経費」の倚くは”参加費甚以倖”に、

信者さんの寄付によるものだず聞きたした。

 

コストは、ほが限りなくれロです。

 

実際「ビッグサむト」でもされおいるようです。

 

たぁ経営的なこずは眮いずいお、

 

 

セミナヌ埌にわたしは「これは仏教の唯識ですね」ず友人にいったずころ、

  

「そうなんだけれど、それを具䜓的珟実的に実践できる方法が、珟代の仏教にないでしょう」

 

ず友人はいいたした。

 

 

《ないわけじゃない》のですが、真宗でも、芪鞞が行文類に曞いたこずを、

間違っお読んでいれば、珟実的に「実珟」したせんから、

 

 

《ない》のず同じです。

 

 

そういう点で「友人の指摘」は適切です。

 

 

実際は、《真宗の教え》は、倩芪の「唯識の芁玠」が、構造的に入っおいたすから、

同じなのです。

 

そのセミナヌより正確です。

 

しかし、「法話」になるず《おはなし》の衚珟が

「ファンタゞックな䞖間知らずなお坊さんの説教」

ずしか蚀えないようなものだから、

 

あるのに「方法論がない」

 

ず蚀われおしたうのです。

 

 

芪鞞は、「行文類」に具䜓的に「方法論」を明かしおきたのです。

 

 

ただ、202ペヌゞの【101】のような「真実の行信ず方䟿の行信がある〜」ずいった

 

鎌倉時代の衚珟を、珟代に眮き換えなければ、珟代人には蚎えたせん。

 

 

この202ペヌゞあたりは、あえお解釈の必芁はないでしょうから、

《この講矩流》に、この蟺を珟代的衚珟に盎しおみたす。

 

 

ヌヌ(以䞋)

 

 

わたしたちは《最高の人生を䜜る》ために、「諞仏が勧めおいるアミダシステム」を生きるこずが最前です。

 

☆この《最高の人生を䜜る》ずいうのが、そのセミナヌのテヌマでしたから、

あえおこの衚珟にしたす。

 

あなたをはじめ、すべおの存圚には、その存圚が存圚する《なんらかの理由》があるのだから、

それを芋぀けるず「あなたの呚囲の混沌(カオス)」が幞せの「糧(カオス)」になりたす。

(この蟺りの論の流れや衚珟の「混沌(カオス)」なども、そのセミナヌの衚珟をあえお䜿いたす)

 

そのような、存圚を含めた䞍倉の混沌ずした゚ネルギヌには「存圚する意味」があり、ものすごい゚ネルギヌ量ですから、混沌のなかに「それらの存圚の理由」を芋いだすこずで、その゚ネルギヌすべおが「あなたの味方」だずいう事実が芋えおきたす。

 

ナングずいう粟神心理孊者がいう”コンステレヌション”です。

 

「無数の存圚が瀺す意味」ずいうこずをあらわしおいる甚語です。

 

この《コンステレヌション》ずいう甚語は、もずもず「星座」ずいうこずで、無数の星を぀なげお”スコヌピオン(さそり座)”ず意味づけるのず同じように、

「珟実に存圚するものごず(点)を(線)で぀ないで、状況に察しお意味づけをしたり、意味づけを倉えるこず」です。

 

 

そのように”䞖の䞭が芋えるようになれば”「䞍芁な存圚はない」ずわかりたす。

 

これは「俗䞖間の意味ではなく、さずりに向かっお䞍芁な存圚はない」ずいうポむントが、「新宗教の意味づけ」ず倧きく違う【重芁ポむント】です。

 

これが、「報仏報土」ずいう方䟿で教えられおいる「仏智」です。

 

この「仏智」を、《法蔵菩薩》の「願い(四十八願)ず行(五念門行)」のストヌリヌを通しお受け取るずいうシステムです。

 

「倧経」が教えおいるこのストヌリヌずシステムが「わたし」は《瞁起他力》(パラタントラ)の䞀郚であるこずを教え、わたしを【空・無我】のさずりに誘導しおいたす。

 

結果、このシステムを通しお「わたしの存圚意味が、わたしを超えお利他の和合を䜜るこず」だず明確になりたす。

そしおさらに「真劂法性の党䜓」が「わたし」に包摂されおいるずいうこずに気づけるのです。

 

これがすなわち「砎我から無我ぞ」「無我から䞀劂ぞ」ずいうベクトルです。

 

そしお「他力の正意」ず曞かれおいる《さずり》です。

これを「宗臎」ずも蚘述されおいたす。

 

 

珟実的な行ずしおは、《真宗の称名念仏(五念門)》です。

 

これこそが、「わたしが浄土に向かうようになる具䜓的方法」です。

 

浄土ずいうのは、「浄穢すべおが浄」だず展開する意味づけです。

すべおが「さずりぞの等䟡である」ずいう【真実】です。

繰り返したすが、この点が「新宗教」ず倧きく違う【䟡倀】であり《意味づけ》です。

 

このように、このこずは「わたしに浄土を珟実化させる or わたしに浄土がみえおくる道を生かすムヌブメントである《難思矩埀生》だ」ずいっおいたす。

 

これは、人間の知恵では芋えない「難しいけれど、確実にそうなれる道」ずいうこずです。

 

これを「誓願䞍可思議䞀実真劂海」ずいっおいお、

 

「人間には考えも぀かない、倚を包摂する、唯䞀にしお《䞀即倚》の方法」だず、芪鞞はいっおいたす。

  

そしお、ここでも、改めお「論蚻」を匕甚しお、

 

「恩を知りお、埳を報じる」

「理よろしくたず啓すべし」などず曞かれおいお、

「所願軜からず、〜神力を乞加する、このゆえに仰いで告ぐ」などず

蚘述されおいたすが、

 

これは、「アミダシステムの理法がすばらしいシステムだ」ず讃嘆するこずが

【讃嘆行】ずしお重芁なポむントだずいうこずを教えおいたす。

 

 

このように、誓願を生きるこず、

そしおこの誓願を「仰ぐ」ずいう《讃嘆をしおいる時点》で、

 

わたしが《砎我されるプロセス》のなかにいるこずをあらわしおいたす。

 

たた、この状態で「今たで芋えなかった《混沌》がも぀《さずり》ぞの意味」

が芋えおきたす。

 

぀たり「芳察門」が珟実のなかに起こっおくるのです。

 

アミダシステムに入るず《自然に》このような【劂来の䞖界芳】で

生きるようになれたす。

 

 

このように真宗は、《誓願を生きる》ずいう具䜓な方法です。

そしお珟実にさずりを「芳る」こずができるようになるしくみです。

 

 

実際に、このように「人生の混沌の意味」が

「さずりに至る人生を䜜るためのものだった」ずわかっお、

”最高の人生が生きられる方法”なのに、

 

このすばらしい生き方を《しない》人が倚いから、

 

けっきょく具䜓的方法ずしお「この道を生きたから珟実が倉わっお、人生が玠晎らしくなった」

 

ず「蚀えない」人が倚いために、「珟実的な方法論がない」ずいわれおしたうのです。

 

 

そしお、ここから「正信偈」に入りたす。

 

ヌヌ(珟代的衚珟以䞊) 

 

芪鞞は、

 

このように「具䜓的、珟実的」方法を述べおいるのに、

 

実際に ã€Œè¡Œã˜ãªã„人が倚い」うえ、

「真宗には《行》はない」ず蚀っおみたり、

「他力だから”このたた”でいい」ずいったりしおしたうこずが、

 

ビゞネス颚にいえば「顧客を逃しおしたい」

 

かえっお「昭和から最近の新宗教を掻性化させおいるなぁ」ず思いたす。

 

友人に付き合っお、セミナヌに行くずいう「ご瞁がたたたた」あっお、

真宗はその良さを「郚分的にうたく《パクられお》終わっおいるなぁ」ず思いながら聞いおいたした。

 

結果「昭和の新宗教のセミナヌに行く」ずいう珟実が、こういったこずを教えおくれたのです。

 

 

「行文類」はこのようにさずりぞの具䜓的方法を、珟実に即しお論じおいたす。

 

 

混沌(カオス)ぞの意味づけ以䞊の「無䞊のさずり」に誘導される《具䜓的方法論》を論じおいるのです。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ30/11/19⬆2–17

 

 

  

 

30/11/162–15

 

198ペヌゞの【96】【97】は、仏教でいわれる「頓教ず挞教」に぀いお、「速攻さずれるか、ゆっくりずさずるか」ずいう教えの違いに぀いお、

 

法蔵菩薩の願行は、「頓教」の《速攻さずれる》教えであるこずを蚘述されたす。

 

そしお【98】は「教」に぀いお、【99】は「機」に぀いお、察比されたす。

 

【98】の「念仏諞善比校察論」はひず぀ひず぀に意味がありたすが、ここでは、結論にのみ觊れたす。

 

199ペヌゞの埌ろから5行目に「本願䞀乗海を案ずるに〜極速無碍絶察䞍二の教なり。」ずある郚分の「極速無碍絶察䞍二」は、

 

「極速無碍で絶察䞍二の教」ずいう読み方ず「極速に無碍絶察䞍二を埗る教」、

぀たり「速攻に事事無碍法界を埗る教え」ずいう二通りの読み方ができたす。

 

 

たた「絶察䞍二の教」が、「他にはない教え」を意味するず同時に「絶察䞍二を説く教」であるずも読めるのです。

 

 

これらを掚察するず、「極速ず無碍」を結合させるず、「無碍」が修食語になり、これたで論じおきた意味内容を倱いたす。

 

ですから、「極速に無碍絶察䞍二を埗る教」ず読む方が、これたでの論の流れからはスムヌズで意味を倱うこずのない読み方です。

 

たた、「絶察䞍二の教」に぀いおも同じで、「絶察䞍二」は法界をあらわす文蚀ですから、「絶察䞍二を説く教」ず読む方が、「法の意味」を倱うこずのない読み方です。

 

このこずは【89】に「本願䞀乗海」を、華厳経の「無碍人」ず定矩された埌ですから、そういう意味を蟌めおいるずいえるからです。

 

 

【99】に「機」に぀いお、ずありたすが、そもそもなぜ「人間を機ずいうのか」ずいうポむントで、「しくみがあるから」ずいう理解が適切です。

 

぀たり、珟代でいえば「なんらかの情報を入力すれば、動くコンピュヌタのようなしくみがある」、だから「仏の智慧」が入力されるか「䞖俗の情報」が入力されるかによっお、違う答えをはじき出すしくみをも぀「機械」のようなものであるずいう理解が適切です。

 

ここではこの「機」に぀いおも「察論」しお、「金剛の信心」を「絶察䞍二の機」ず定矩されおいたす。

 

ここで、䞻語が「わたしが絶察䞍二の機」ではなく、「信心が」ずいう䞻語になっおいるこずが重芁な意味を持ちたす。

 

「信心」は「業識」ずしお、わたしに内圚した「真劂䞀劂」ですから、䞻語が「䞍二」を生きる䞻䜓であるず定矩しおいるのです。

 

 

【100】はこれたでをトヌタルしお、「䞀切埀生人等にたうさく」ずいう前提で「匘誓䞀乗海」を讃嘆しおいたす。

 

このなかの、200ペヌゞの5行目に「劙蓮華のごずし」ず法華経を意識しおいる郚分、201ペヌゞの2行目に「磁石」が出おくる郚分は興味深い内容です。

 

そしお、「䞀乗海」を「方䟿蔵を開顕せしむ」ず結ばれお、「本願力」の方䟿を「真劂法性」による「方䟿の蔵」であるずあきらかにしおいたす。

 

この郚分を、脚泚には《その前にある》「犏智蔵」ず結合させお、「十九、二十願」を「方䟿蔵」ず解説しおいたすが、これは《論の流れ》ずしお䞍自然であり、

 

201ペヌゞ党䜓の流れから、「すべおの方䟿を蔵した法」を冒頭の「䞀切埀生人等」に開き顕されるず読む方が党䜓の流れが䞀貫したす。

 

そしお、【101】から、「仏恩の深遠なるを《信知》しお」正信偈を䜜るずたずめられたす。

 

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ30/11/16⬆2–16

 

 

 

 

 

 

30/11/152–14

 

197ペヌゞの【91】は、「䞀乗海」の《海》に蟌めた内容を説明しおいたす。

 

「凡聖所修の〜川氎を転じ」ず凡倫が悟ろう、救われようずしお自力を行じるこずを川にたずえおいたす。

 

たた「逆謗〜無明の海氎を転じお」ず煩悩にたみれた凡倫を「荒れ狂う海」にたずえおいるず考えられたす。

 

しかしその荒れ狂う海も、「本願倧悲智慧〜倧宝海氎ずなる」ず《本願倧悲智慧》に出䌚っお、同じものが、転換しお「䞇埳倧宝海氎」になるこずを譬えおいたす。

 

雑行をやがお流れ着く「川」にたずえ、煩悩をさずりず同じ海にたずえおいるこずは、比喩ずしお論理にかなっおいる「たくみな譬喩」であるずいえたす。

 

芪鞞が海に喩えるこずが倚いのは、流眪の時に、海路で越埌に぀いたずいわれお、その実䜓隓のむンパクトが匷かったためによるずもいわれおいたす。

 

しかしそうであったにせよ、「海」を通しお、深さや広さ、荒波、穏やかな海など、倚くの状態をあらわすのには、適しおいるこずはたちがいありたせん、

 

たた、仏教で「真劂瞁起」をあらわす喩えずしお、「海ず颚」がよく぀かわれたす。

 

真劂が海そのもので、「颚」ずいう「瞁」によっおおこる「波」が、個䜓や珟象である。

ずいう譬喩による説明です。

 

芪鞞は、実䜓隓ず仏教でよく䜿われおいる喩えを甚いたず考えられたす。

 

この次に、「煩悩の氷が解けお功埳の氎ずなる」ずある郚分は「個䜓ずしお固たっおいる状態(自我)が、本願䞇埳によっお氎(無我䞀劂真劂)ずなる」ずいうのも、真劂の”波ず氎”の喩えに䌌おいたす。

 

぀たりは、同じものが《固く個䜓ずいう状態から氎ずいう状態に倉化する》ずいう喩えを䜿っお、さずりに至るプロセスを明らかにしおいたす。

 

【92】に、劂来の智慧を海ずあらわしお、「深広にしお涯底なし」ず深く広いこずをあらわしおいたす。

 

【93】は浄土論蚻により「荘厳䞍虚䜜䜏持功埳成就」ず《方䟿の荘厳は、無意味な方䟿ではなく、功埳を成就しお「功埳の倧宝海」ずしおの意味があるず蚘述されお、

 

「䞍虚䜜䜏持功埳」を《阿匥陀劂来の本願力》《法蔵菩薩の四十八願》に぀いお、「力願あいかなっおたがわない」ず浄土論の「䞍虚䜜䜏持功埳」ずいう文蚀をもっお、

 

本願力は無意味ではなく「功埳によっお成就されたものであるず「兞拠」によっお、方䟿の功埳を説明しおいたす。

 

぀たり、本願力は「わたしの人生の意味を、《煩悩の凡倫》から《さずりぞの䞇埳を生きる行者》に倉える」功埳を持぀こずが実蚌できるずいう意味です。

 

【94】は、「海」には「死骞」が残らないずいう喩えで、「枅浄智海生」ず「浄らかな智慧の海に生きる」ずいうこずを喩えであらわしお、「かの倩、人〜傟動すべからざるなり」ず、《揺るぎない》こずをあきらかにしたす。

 

あえお「生きる」ずここで解説したのは、「かの倩、人」が䞻語になっおいるからです。

いただ倩たたは人などが「揺るぎない」ずいうこずは、「倩、人がそうなっおいく」ずいう珟圚進行圢であるず考えられるからです。

 

【95】から善導によっお「䞀乗海」の解説から、本願力が「頓教」であるずいうこずをあきらかにしたす。

 

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌ30/11/15⬆2–15

 

 

 

 

  

30/11/142–13

 

195ペヌゞ【84】には「䞀乗海」ずいう論です。

 

芪鞞の時代には、「末法時代」であるずいうこずがテヌマになった時代です。

 

぀たり、さずりに至るために「ふさわしいシステム」を限定するこずです。

 

ですから、行文類には、「浄土論」から「劂実修行盞応」の論も展開されおきたした。

(158ペヌゞ)

 

これが珟代にあおはたるかどうかは眮いずくずしたす。

 

☆

珟代を「五濁」が進んでいるずいう向きもありたすが、逆に《情報ず知的教育の氎準が䞊がっおいる》ずもいえたすし、ナニバヌサルに「仏教以倖に科孊やほかの宗教や哲孊で悟る人」がいおもおかしくありたせん。

 

実はこれがこの埌の【88】に出おくる内容ず笊合したす。

 

この点で、必ずしも「念仏」である必芁があるのか

ずいう議論もありたす。

 

じ぀はこの「限定ず思われる䞀乗」が「限定しない䞀乗」であるず論じられおいたす。

 

ずりあえず、本論に戻りたす。

☆

 

 

戻っお、《䞀乗=倧乗=仏乗=阿耚倚矅䞉藐䞉菩提=涅槃界=究竟法身》ず称名念仏の行があらわす法身が究極の法身であり、ほかの法身や劂来ではないこずを定矩したす。

 

そしお、この《䞀乗究竟》の法身は無蟺で䞍断(無量寿)であるず《時空を超えおいるこず》を匷調しおいたす。

 

ずにかく二乗も䞉乗もなく、ほかの仏道は結局この【誓願䞀仏乗】ぞ導くものであっお、この誓願の䞭に「究極のさずり」ぞのシステムがあるこずを限定定矩したす。

 

ここたでの論であきらかになったように、諞仏諞菩薩があっおも《さずりぞの誓願ず五念門行》ずいうふうに「願行」が明確なシステムは他にないのも事実でしょう。

 

芪鞞は、阿匥陀劂来のストヌリヌこそ、諞仏などにはない「重芁なさずりぞのシステム」であるず明確に論蚌したのです。

 

【85】の涅槃経によっお、「実諊は䞀道枅浄で二぀ずない」ず、この阿匥陀劂来のストヌリヌが「スピリチュアルな魔説」ではないこずをあきらかにしたず掚論できたす。

 

この涅槃経に説かれる《枅浄》に぀いおは「真仏土文類」に改めお論じられたす。

 

 

【86】で仏道を歩む菩薩が、結局この阿匥陀劂来の教えを信じ順うのは「仏、菩薩、衆生」のすべおをさずらす法がこの䞀道だず了知するからであるず、

 

倧乗の察象を《すべおのいのち》に定矩しお、菩薩道の究極であるこずを明確にしたす。

 

 

【87】では、察象を《善男子》にランクを䞋げお、「方䟿」の《荘厳畢竟》に぀いお《䞀切衆生》こずごずく䞀乗あり。

 

ず方䟿ず察象を定矩しお、䞀乗の察象をさらに広く明確にしたす。

 

 

【88】では、さらにランクを䞋げお、《䞀切衆生》に絞っお「声聞、瞁芚、菩薩」の䞉乗ず䞀乗に぀いお、仏教の「空性論」から、

 

「䞀ではあるが非䞀であり、非䞀は非非䞀であり、䞍確定であっお、無数の法を包摂しおいるから、《䞀切衆生がさずる乗りもの》である」ずややこしげな論を展開したす。

 

もずもず「䞭芳」の空性論は、

「空は、非空であり、非非空である」ずいった、「空は空ではないから空であるが、空ではないず定矩しおは空にならないから非空でもない」ずいうように、限りなく「無垞無我」を論じおいるので、若干めんどくさいのです。

 

珟代の「䞍確定性原理」に眮き換えるず理解しやすくなりたす。

 

 

ずにかくここで「涅槃経」に展開される「空論」を根拠に、あらゆる法がこの「䞀乗究竟」そのものの《本質》であるずいっおいたす。

 

この「䞍確定な確定」ずいう法の本質は、《すべおこの䞀乗》が蚌明しおいる「さずり」であるず☆の郚分に解説した内容ず笊合するず想定できる内容を論じおいたす。

 

それは、たずえば「心理孊」で悟ったずしおも、その「心理孊」すら「法」であるずいうこずです。

 

この蟺も重芁なポむントで、「じ぀は念仏は、念仏に限定されない限定である」ず「すべおを包摂」しおいたす。

 

 

このこずは次の【89】の「華厳経」によっお明確になりたす。

 

華厳の「法界瞁起説」は、「䞀即倚、倚即䞀」の「事事無碍法界」「重々無尜」を説くものですが、これは「すべおが䞀におさたり、䞀はすべおに展開する」ずいう理論です。

 

珟実的にいえば、「すべおの珟象は䞀郚分の集合であっお、䞀郚分はすべおに圱響する」ずいう事実をあきらかにしおいる論です。

 

単玔な事䟋ですが、䞀芋(いっけん)するず぀ながりがないように思える「ブラゞル」の人がいるから「コヌヒヌが飲める」ずいうこずであり、「あなたがしたこず」が芋えおはいなくおも、じ぀は党䞖界になんらかの圱響を䞎えおいるずいう事実です。

 

このこずを華厳経の「法界瞁起説」では「事事無碍法界」ずいいたす。

 

 

ここではこの華厳経を根拠にしお、

 

「文殊菩薩」ずいう「智慧をあらわす菩薩」を匕甚し、「䞀法なり」ずし぀぀「無碍人」ず華厳経でいう「無碍」の解釈で「事事無碍法界」であるず論じおいたす。

 

この華厳経の「無碍」が「無碍光劂来」ず笊合するこずになるずいう「すべおが無碍光劂来」の「智慧法」であるずいう掚論も充分可胜です。

 

異蚳の倧経に「蜎飛蠕動(ケンピネンドり)=(虫)」も成仏するずいう意図が蚘述されおいたり、唯信抄文意に「草朚囜土こずごずく成仏す」ず蚘述されおいる「真劂瞁起説」の発展型が「法界瞁起説」です。

 

たたこのこずは、「真仏土文類」に「光明」が「智慧」の展開ず論じられるずころからも定矩できたす。

 

 

そしおこれは、そもそもなぜあえおこの段階で「華厳経」を匕甚する必芁性があるのかずいうポむントでもありたす。

 

このこずを芪鞞が、「法界瞁起説」の《䞀倚包摂》に劂来の根源を芋おいるからだず掚論できたす。

 

ずはいえこの重芁ポむントをさらっず流しおいるのは、「称名念仏」の䞀乗におさえるのが、そもそもの目的であるはずであるずころに「なんでもあり」ずいうこずは明蚀しにくいからでしょう。

 

もちろんここでいう「なんでもあり」ずいうのは、「すべおが真諊の法性぀たりは真劂法性から劂来した無碍光劂来、阿匥陀劂来である」ずいう理解を前提ずしおいたす。

 

虫も草朚囜土も”心理孊などのすべお”が法性であるから「無碍光劂来」だずいっおいるのです。

 

このこずは、華厳経を知っおいるひずが読めば、明確なポむントです。

 

この蟺にも、「法然ず真実の間」で揺らぎ぀぀論じおいる「ホンネ」が芋え隠れしたす。

 

 

ずはいえ、”心理孊など”でさずるより、「無碍光劂来、阿匥陀劂来」のシステムでさずるほうが、合理的であるずいう結論の【䞀乗】です。

 

 

 

このように、芪鞞には華厳経の圱響をじ぀は匷く受けおいるず思える郚分が各所にありたす。

 

埌の正信偈などに出おくる「蓮華蔵䞖界」もそうであるず掚論できたす。

 

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ30/11/14⬆2–14

 

 

 

 

 

 

 

30/11/132–12

 

190ペヌゞの【82】にたたたた「浄土論を論蚻」から匕甚しお、

 

ここで、《本願力》が方䟿ずしおどのような結果をもたらすのかずいうこずを定矩されたす。

 

内容は、「本願力」ずいう方䟿によっお、《【83】の3行目》に

「たずぞば、〜本願力より起るをもっおなり。〜阿修矅の〜音曲自然なるがごずし。」ず、

第五果門の解釈を根拠に「本願力」の定矩がされおいたす。

 

この定矩は、「本願力」は「わたしを仏智で動かし、䞖の䞭がそのように芋える(芳察門の)ように動かすムヌブメントになる」こずを蚘述しおいたす。

 

これは「浄土が珟映する状態を生かすずいう方䟿の構造」です。

 

このようにわたしを誘導する「ベクトルずムヌブメントを䞎えるシステム」であるずいうこずです。

 

わたしにさずりぞの「方向ず動きが起こり、実際に移動しおいく」ずいう珟実論です。

 

そしお、〈菩薩は四皮の門に入りお〜191ペヌゞ3行目〉に至っお、念入りに《本願力のストヌリヌを生きる》入門は五念門の瀌拝などからであり、《劂来に等しい身ずしお改めお䞖俗にデビュヌする「出門」》を第五果門の「薗林遊戯地門」に定矩しおいたす。

 

そのうえで、191ペヌゞの4行目から、この状態が単なるストヌリヌではなく「速攻に無䞊のさずりに至る」《智慧》であるず蚘述しおいたす。

 

この郚分の最埌には、この〈道〉は〈無碍〉で「生死すなわちこれ涅槃なりず知る」ず《䞀劂》を前提ずしお、珟実にわたしが「䞖俗に振り回されない」無碍のありかたを《入䞍二》の法門ずいたわたしが歩む「行者」ずしおの状態を説明されおいたす。

 

このあず問答を蚘述しお、諞仏諞菩薩が説かれる䞭、なぜ阿匥陀劂来がその状態を䜜るのかずいう珟実的な論理構造を明確にしおいたす。

 

ここには、阿匥陀劂来の「仏力」を「増䞊瞁」にしお、「四十八願が無意味」に説かれおいるわけではないこず。

 

それが無意味ではない蚌明ずしお、ポむントになる䞉願をあげるず蚘述しお、

 

第十八願によっお「茪廻を勉る(たのがれる)」ず䞀぀の蚌明をだし、

(これが「勉」の文字であるこずにも理由がありそうです)

 

第十䞀願によっお、「正定聚」ずいう「䞍退転に䜏み」、進んでいく結論ずしお、

「滅床」に至るず蚌明し、

 

第22願によっお、「垞倫を超えた生きかたになり、菩薩の行が珟前しお、普賢菩薩の埳を孊んでいく」ずいう䞉぀目の蚌明をしたす。

 

この蚌明による生きかたは、垞倫を超える「぀たり垞識を超えた状態」であるこずが、194ペヌゞにわたっお念を抌されおいるように、「䞖間の垞識以䞊の生きかたになる」ずいわれおいたす。

 

ですから、「今日聞いたからすぐ実行できる」ずいう性質のものでもないために、行文類に「瞁信心」が蚘述されおいるのです。

 

ビゞネスでも「䞀䞇時間の法則」ずいう分析があり、「ノりハりがあっおも、その人が䞀䞇時間以䞊経隓しおいないこずはできない」ずいうものです。

(1日8時間仕事したずしお3幎5カ月です)

 

 

今日たで事務職だった人に「明日から営業をしろ」ずいっおも難しいずいうこずです。

 

そういう点で、「聎聞」も䞀䞇時間以䞊継続しないず、䜓埗できないずもいえたす。

 

だから蓮劂のいうように「ザルを氎に぀けおいる状態で、仏教に慣れるこず」を増やし、

「わかろうずわかるたいず聖兞をめくる」「お勀めをする」「本を読む」など、《できるこず》を、増やせば、1䞇時間は瞮んで行きたす

 

ずにかく、真宗の教えもそれだけ浞らないず難しく、「感謝したしょう」などずいうありきたりな「䞖俗の理想」をいっおいるのではないのです。

 

埌のはなしになりたすが、芪鞞においお《「報謝」は法に応じるこずず、慚愧するこず(二皮深信)》であり、「感謝」ずいう性質の内容ではありたせん。

 

戻りたすが、194ペヌゞの五行目からの「自力」に぀いおのポむントは「人、䞉塗を畏れる」ずいう自我が前提での行。

 

「他力」に぀いおは「虚空に乗じる」ずいう「無我」を前提に「わたしが」倉換される「行」が結論ずされおいるポむントは重芁です。

 

そしお、この他力に《乗る》因信心を生きるこずを重芁な生きかただず述べお、

 

「局分」ずいう限られた䞖界芳で蚈らうこずをしおはいけないず芏定したす。

 

 

【83】に「この珟実の䞭で、惑を砎っお真実が蚌明されお」いけば

「自ずず自力(自我)から他力(無我)ぞの転換が起こる」ずいわおいお

、

「圌歀ずいう分断は方䟿である」ず明確に念抌ししお、「自心を悟らす」ずいうシステムであるこずを明確にしお、《行の定矩》を締めくくられたす。

 

ここにあえお「悟」ずいう仏教党般に通じる「文字」で

「悟る」ず蚘述されおいるこずには、意味があるず掚察する方がいいず思われたす。

 

芪鞞がこの文字を䜿うのは比范的「珍しい」のです。

 

この意味は結果《仏教党般に通じるさずり》であるず理解しおいくず論が通り、萜ち着きたす。

 

 

 

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌ30/11/13⬆2–13

 

 

 

 

 

 

 

30/11/102–11

 

187ペヌゞ【73】に、《行の䞀念、信の䞀念》ず埡自釈されお、

行の䞀念に぀いお、「称える数は問題ではない」ず定矩され、その《兞拠》を【74】に「乃至」ずあるポむント、【75】【76】に「䞋至」ずあるポむントを出されたす。

 

【76】には「深心」「信知」を含めお、「行を信」で受け取る「疑心あるこずなし」ずいう「䞀念」にたで展開しおいたす。

 

【77】の埡自釈には、この行信の䞀念をあわせお「専心」「専念」ずいう文蚀に蟌めお、「䞀念」を「ふたごころのない」「二心、二行なき」念仏の䞀行。

 

これを=南无阿匥陀仏ず定矩したす。

 

【78】にこのこずの《論拠》を「光明が無明を砎り」《すみやかに》「無量光明土」に至っお涅槃があきらかにあらわれ(蚌)、第22願の「普賢の埳にしたがう」ず、「蚌文類」「真仏土文類」の結論を「短い文章」にさらっず蚘述されたす。

 

 

本講矩2にも曞きたしたが「蚌は隓」ずいう意味を内圚させた「さずりが蚌明ずしお珟れた」ずいうこずを意味する文蚀ですから《あらわれる》ず読み蟌みたす。

 

䞀貫しお論じられおいる「称名が孊習を生み、俗にたみれおいた時ず《珟実ぞの解釈》がかわり、さずり(浄土)が「珟映」する」ずいう意味をも぀こずばが「蚌(さずり)」です。

 

 

【79】に、䞀念倚念ずいうこずは特別問題にならないこずを「業道成匁」ずいう文蚀を䞭心に前埌をもっお説明されお、

 

【80】【81】にそれは、他力だから「劂来の本願力」だからず論をたおたす。

 

これは、ここたでに「真劂法性」を真実ずしお、「自力」を「自我(我執)」に定矩した䞊で、

 

「念仏䞀行」によっお生たれおくる「願行の孊習が《真劂の孊習》になる」ずいうプロセスが、

 

「自我」を砎る「砎我」になるずいう《念仏䞀行の構造》をひずこずにされおいたす。

 

そしおこの郚分の「他力」はサンスクリット原語のパラタントラ(瞁起)に定矩されおいるず掚論できたす。

瞁起はひるがえっお「無我」「真劂法性」になるからです。

 

圓時芪鞞がサンスクリット原語を知っおいたかどうかに関わらず、

それこそが「仏教の本矩」ですから圓然ずいえば圓然です。

 

ですから「劂来《真諊》の本願力《俗諊》」ずいうようこずばを、《真諊》ず《俗諊(蚀説)》の明瀺ず読むず論が通りたす。

 

この「本願力」もパワヌではなく《ムヌブメント》です。

劂来がわたしに願行を通しお「仏智の孊習」にさしむける「こずばのチカラ」です。

 

ここで「みなさん右を向いお芋おください」ずいうず、

 

《芋おしたう》でしょう。

 

もちろんこれを読んでお芋る方は少ないかも知れたせんけれど。。

そういうこずばのチカラが「本願力」です。

 

 

戻っお、芪鞞はたたたた「五念門の第五門」から「五果門」に぀いお解釈されお、《自利利他》円満の「入出二門」を明らかにしお、完党なるさずりぞの阿耚倚矅䞉藐䞉菩提ぞ至る兞拠をあきらかにされおいきたす。

 

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ30/11/10⬆2–12

 

 

 

 

 

 

30/11/092–10(なぜかフォントが倉わっおたす)

 

芪鞞の六字釈でいったん《総括》されお【35】から、あらためお「さずりから䞀行方䟿化の流れは䞭囜仏教でも同じ流れ」だず明確にされたす。

 

【35】の匕甚に「劂来、教を蚭けたたふに、広略、根に随ふ。぀ひに実盞に垰せしめんずなり。真の無生を埗んものには、たれかよくこれを䞎ぞんや。」ず、

 

真劂(さずり)から「教」が広略ずしおあらわされおいるこずを明確にした匕甚をされお、

 

「阿匥陀法王」171ペヌゞ〈文を離れお解脱を求めんや〉「それ倧いなるかな、至の理の真法、䞀劂にしお物を化し、人を利する」ず続き、「九品に敷いおもっお人を収むるこず、それ仏の名号なりず」ずいう匕甚が党䜓をあらわしおいたす。

 

その埌の172ペヌゞあたりから、《ずにかく》西方、匥陀の匘誓、を勧める匕甚です。

 

173ペヌゞの最埌の行は「有名」な文蚀です。

 

176ペヌゞの【41】は、「このように簡単にさずりに至る方法があるのに耳を傟けない人が倚い」ず逆方向から「これを読むあなたは耳を傟けおいるかたですよね」ず勧める衚珟です。

 

ですから、このあずの匕甚は「本圓に倧䞈倫だから」ずいわんばかりの内容です。

 

ず、きりがないのでたずめおおきたす。

もし、䞍明な点があれば、ご質問ください

 

だいたい今たで論じおきた前提で、みなさんがご自身で読んでいただいおもわかるず思いたす。

 

そしお、185ペヌゞの【67】から、ほが《行》の結論ずしお、「法然」の「遞択本願念仏集」を匕甚されたす。

 

そしお、186ペヌゞの【69】に、この遞択本願念仏集に「南无阿匥陀仏」の《助業》があるけれど、〈混乱〉させないために、「これらを自我の埀生のために回向する「行」だず勘違いしないように、「䞍回向の行」ず定矩しおいたす。

 

仏教の本源から芋れば、「無生の生」ず同じように、「回向も䞍回向」もない、「ただ念仏成仏」のみであるずも読めたす。

 

芪鞞が「浄土論蚻」を重芖しおいるずいうポむントを匷調するのは、いったんここで「行」に぀いお、「南无阿匥陀仏」に萜ずし蟌んでいるにも関わらず、【70】に「し぀こいようですが、論蚻にも「同䞀念仏」ずありたす」ずいう雰囲気で《論蚻》をわざわざ匕甚しおいたす。

 

そしお【71】から埡自釈にこれたでの匕甚を「解説」されたす。

 

特蚘すべきは、「お説教」ぜい芳点では、「矀生」ずいう《ムレ》から「正定聚」ずいう《なかた》に衚珟が代わっおいくこずの味わいず、

 

かなめは、「韍暹」「曇鞞」の匕甚を解説の根源ず䜍眮づけおいるこずです。

 

たた【72】に、光明名号を「瞁」(増䞊瞁)に定矩し、信心を「因」に定矩されおいるこずです。

 

この信心を「業識」ず衚珟しおいるのは、188ペヌゞの脚泚もありたすが、そもそも倶舎論や郚掟による解釈、そしお「原始仏兞(阿含郚)」によれば、十二瞁起を茪廻になぞらえお、次のように解釈しおいたす。

 

無明 は、根本煩悩のこずで、人間が過去の䞖界で起こした䞀切の煩悩のこずであり、

行は、人間が過去の䞖界で起こした煩悩の為に様々な業を぀くっおきた身心のこずず解釈され、

 

《識》は、これら過去䞖の煩悩ず業によっお、この䞖の母芪の胎内で生を受ける最初の心ずいう、

 

《生呜の最初の䞀念(認識䞻䜓)》を意味しおいたす。

 

芪鞞は、この十二瞁起の解釈になぞらえお「信心」が「業識」になっお、「内因」になるず蚀われおいたす。

 

これは、2–8に曞いたように、光明名号を瞁にしおあくたでも「その内容(真劂法性)」を《孊習》する「信心」が〈たるで母䜓に着床する《受粟卵》〉のようなものであるずいう意味です。

 

ですから、《念仏は倖に瀌拝しおいればいい》ずいう性質のものではなく、「法」がわたしに《内圚》しなければ「因」にならないのです。

 

぀たりは「瞁信心」のたたでは無意味なのです。

「受けずっおわたしの䞻䜓に名字が入れ替わる(穢土の仮名人から浄土の仮名人ぞ)」ずいう「因信心」に至らなければ、「埀生も成仏も」ありえたせん。

 

そしお【73】に「行の䞀念ず信の䞀念」に解釈を進めおいきたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌ30/11/09⬆2–11

 

 

  

30/11/072–9

 

165ペヌゞの【25】から【27】は、「瀌讚」を匕いお、

ずにかく阿匥陀仏の称名を勧めおいる内容です。

 

おおよそみなさんも銎染みのある郚分でしょうから、特別な解説も必芁ないでしょう。

 

【28】の問答ですが、ここに「八十億劫の生死の重眪を助滅する」ずいう蚘述は、2–7に曞いたこずです。

 

たたこの問答に「護念」ずある「護」ずいうのは「さずりぞの歩みを護る」ず定矩しなければ、「今日も䞀日、阿匥陀さんや諞仏に守っおもらっお、無事に過ごせたした。」ずいうありがちな受け取りをされお、たったくさずりずは異なる方向に進むあり方に向かうこずになりたす。

 

たた「阿匥陀経」の「呜終らんずする時」ずいう郚分は、「砎我」を意味する方䟿衚珟であるず理解できたす。

 

それは、そのあずの文蚀に「この人終らん時」ず「この人」ずいう、いわゆる「自我」に぀いお「終わる」ずありたす。

 

たた、「心顚倒せず〜埀生するこずを埗ん」ずいう状態は、「正定聚䞍退転地」です。

 

芪鞞はこの「䞍退転地」のポむントを「珟圓䞀劂(生死䞀劂)」の仏教の原則を分割方䟿化しお、あえお「珟生」(因信心の時点)ずいうポむントにおいお「䞀劂」であるず定矩しおいるず掚論しなければ、「ここたでの論」が䞀貫性を倱いたす。

 

ですから168ペヌゞのはじめに《あえお》「発願」を含めお匕甚し、それを「諞仏が護る」ずいう「阿匥陀経」を長々ず匕いおいたす。

 

そしお同ペヌゞの終わりから5行目に「増䞊の誓願を憑むべき」だず「増䞊瞁」ずしお「瞁信心から因信心」ぞ進むように「諞仏の励たし(諞仏称名)」の意矩を蚘述されたす。

 

【29】にも「増䞊瞁」を明確にしおいたす。

 

【30】は善導が「単玔方䟿」の䞀行で「埀生を埗る」ず蚘述しおいる根拠を《善導の六字釈》をそのたた茉せるこずで明確にしたす。

 

【31】に「増䞊瞁」によっお「埀生できる」ず《摂取》を説明しおいたす。

 

増䞊瞁ずいう衚珟は意倖に「真宗」では䜿いたせんが、実は重芁な「瞁」であっお、行文類には頻発したす。

 

この「増䞊瞁」は、《「無為法」は因にはならないずいう仏教の原則を前提ずしお》無碍光劂来ずいう無為法が、方䟿ずしお「阿匥陀仏」ずいう《名字》ずいう増䞊瞁の「法」であるこずを明確にしたす。

 

そしおここでは、この《名字》が「埀生を埗しむ」法である《摂取の蚌明》を瞁信心の時点で蚘述しお、「摂取」に乗るように「名字の有意矩」に぀いお説明しおいたす。

 

これは、たず「お芋合い」の䟋でいえば「この人はいい人だよ」「だから是非䞀緒になっおください」ずいわれおいる状況です。

 

【32】に「善悪の凡倫、回心し〜蚌生増䞊瞁なり」ず「回心しお因」に至れば埀生を埗しめんず欲す」ず、

 

名字の方䟿が「回心」によっお「瞁」から「因」になれば、さずりぞの道が確定するこずを「蚌明」しおいたす。

 

そのこずを【33】に、「業因」を滅するために「匥陀の号」が「業因」にずっおかわっお、「因」になっお「真劂の門に入る」ず結論づけされおいたす。

 

お芋合いの䟋でいう「䞀緒に生きるず決めお結婚する」ずいうこずです。

 

 

【34】から芪鞞の六字釈(二字釈)になりたす。

 

実はよく読めば、ここには「南无」の解釈のみで、「阿匥陀仏」の解釈がありたせん。

 

南无に「垰呜、発願回向、即是其行」のすべおを包摂しおいたす。

 

そしお「阿匥陀仏」に぀いおは、180ペヌゞの【50】の「匥陀経矩」の最埌に「䞇埳すべお四字に地る」ずあっお、その埌の匕文に「䞇埳」に぀いお蚘述されたす。

 

たた180ペヌゞの【53】最埌から3行目に「すなわち無生を埗んず欲はば、たさにこの法等を孊すべし」ずさらっず蚘述されおいたすが、

 

このあたりの匕文は、念仏䞉昧が「さずり」の「空性」を埗るものずしお、空性を「䞇埳」ずしお衚珟されおいたす。

 

【60】に「諞仏はみな埳を名に斜す。。。」などず「名字に䞇埳がある」などず芏定しおいるように、「功埳」があるこずが延々ず述べられおいたす。

 

いずれにせよ、この時点で芪鞞の六字釈は、ここたで論じお来た、無量寿経から浄土論、論蚻による、

 

《真劂が無碍光ずあらわれ、諞仏称名ずなり、わたしが諞仏同様に五念門(讃嘆門)を行じるこずで砎我されるずいう論》

 

が、善導の「念仏䞀行」に《単玔方䟿》化しお垰結されおいる流れをいったん「総括」しお論じられおいたす。

 

そういう意味で「芪鞞の六字釈(二字釈)」においおは、

 

わたしの《無明》を砎る方法は「南无」であるず蚀っおいお、あずの四字に぀いおは蚀及されたせん。

 

繰り返しになるようですが、「阿匥陀仏」ずいう「四字」を「䞇埳」であるず蚘述されおいるのは、

 

《諞仏や珟象のすべおの根源である真劂の蚀語化》ずしお「阿匥陀仏」ずいう名字に《䞇埳があらわれる》ず「阿匥陀仏は法性である」ずいう意味を包含されおいるず読み取れたす。

 

(補足17、18をご参照ください。)

 

このような論の流れで芪鞞は、

 

「南无」で「無碍光」を受け入れ(åž°å‘œ)、人生の方向転換をし(回向発願)、法蔵菩薩の五念門を(行)じるこずが、《称名行》ずいう因になるこずを、ここで定矩されおいたす。

 

ですから、「報土の真因決定する時剋の極促を明らかにする」ず《真劂の方䟿化を受け入れお、行じる発願の時点でさずりが決定する》

 

ずいう展開になっおいるず読んでいくず、《行文類のいったんの総括》ずしお、論理展開がスムヌズに理解できたす。

 

 

 

 

ヌヌヌヌヌ30/11/07⬆2–10

 

 

 

 

30/11/06

2–8

163ペヌゞの【24】から善導の匕文になりたす。

あらためお蚘述するたでもなく、この善導は、法然が絶察的に支持した高僧です。

芪鞞はこの善導の解釈に぀いお、ここたでに論理的根拠を構築しおきたのです。

 

教行蚌文類の匕文の䞊びが、「経、論、釈」の順番になっおいるず蚀うのは、「重芁床順」ずいうだけではなく、「根拠の順番」ずいう意味ももっおいるからであるずいえたす。

 

事実「経兞」の内容を、むンド仏教哲孊では「論理化」されおいるため、「韍暹、倩芪」によっお経兞のなかにある「さずりぞのシステム」が明確になりたす。

 

そしお、䞭囜においお「そのシステム」が民衆化したので、より「方䟿」が【単玔化】したす。

 

そのため、民衆化した「システム」の論拠(論)ず根拠(経兞)を前提ずしお論を進めるためには、「経、論、釈」の順番が適しおいるずいえたす。

 

こういった前提で、ここから匕甚される「法然が絶察化」した善導の内容を理解しおいきたす。

 

たず、この【24】からは、それたで五念門に定矩しおいた䞉昧を「称名」の《䞀行》に絞っおいくなかで、たず《䞀行䞉昧》ずいうポむントを匕甚されたす。

これに぀いおは、脚泚を参照しおください。

 

぀たり、真劂のすべおが「称名」に内圚するずいう論理です。

 

これは、真蚀の「䞉密」に倧日劂来(宇宙のすべお)がおさたるずいう論理によっおいるず掚論できたす。

 

しかし、真蚀の「すべおがおさたる」ずいうのは、ある皮「神秘」です。

 

芪鞞は、䞭囜仏教あたりからこういった前提が説かれおいる「神秘の䞭身を分析」しお、「すべおがおさたる」ずいう《意味》を神秘ではなく、珟実的な論に展開しおいたす。

 

぀たり、「おさたる」ずいわれる「行」を行じるプロセスを生きるうちに、結局のずころ《その䞭身》を《自然ず孊んでいくこずになっお、さずりに向かうずいうシステム》に構築しお、珟実的で具䜓的な《方法》ぞず発展させおいたす。

 

道元の「只管打坐」も「犅」はさずりぞの《方法》ではなく、そのたたが「仏䜜仏行」ずいう《目的》぀たり「着地点(結果)」であるずいうのも、

 

日蓮の「䞀念䞉千」ずいう「唱題」にすべおがおさたるずいう論も、同じ根源であるず掚論できたす。

法華経のすべおがその「題名」におさたっおいお、「唱題」の䞀行でそのたたが成仏状態であるずいう行を行じながら、実際には「法華経の䞭身」を孊習しおいくようになっお、さずりに至るずいう、【䞀行が孊習のキッカケを䜜っお、䞭身を知る】ずいう構造は同じなのです。

 

もちろん時代は芪鞞の方が先ですから、日蓮がこの構造をパクったずいえなくもありたせんが、いずれにしろ、平安仏教からこの基本構造が《䞭囜仏教から日本仏教》に取り入れられおいるのです。

 

ですから、芪鞞は信文類に「仏願の生起本末を聞いお疑いがなくなる」こずが重芁ずされおいたす。

぀たり、単なる「称名」の䞀行ずいい぀぀、「称名しながら孊ぶ」ずいう構造であるこずを《仏願を孊習しお仏願に生きる》こずず構造化されお、そこに「誘導」しおいくのです。

こういう構造やシステムを、ここでは「称名の䞀行䞉昧」ずされおいたす。

 

そこで、164ペヌゞの問答に「芳」から「称」ぞの展開の理由を蚘述しおいたす。

 

これは単玔に「その方が衆生にずっお簡単だから」ずいう説明です。

 

同ペヌゞの䞭ほどの問答に「䞀仏を称せしむるに、なんがゆえぞ境珟するこずすなわち倚き」ずいう問いに「境珟」ずあるように、称名の䞀行に「芳察」が起こっおくるずいう蚘述はポむントになっおいたす。

 

答えに、そもそも諞仏はさたざたな様盞を呈しおいお「圢二の別はない」ず「邪正たじる」「䞀倚雑珟」するこずを案じるこずは無意味であり、案ずるこずなく「西方ぞ向く」こずを「芳経」を根拠に説明しおいたす。

 

たた続きの問答に「いろいろな仏があるのに、なぜ西方なのか」ずいう問いに察しお、

 

あえおその答えを解析しお蚘述しなおせば、「阿匥陀仏(匥陀䞖尊)には、明確な願行があっお、その願行を孊習するこずでさずりに向かうからである。」ずいうこずになりたす。

 

この郚分には「光明名号摂化十方」や「䞊尜十圢、䞋至十声䞀声」「十即十生、癟即癟生」など、よく聞く文蚀が含められおいたす。

 

ずにかく、「諞仏」ずいっおみおも、衆生がさずりに至るための「ストヌリヌ」が明確ではなく、さずりに向かうシステムがないからです。

その䞀点で「阿匥陀仏は願行」ずいうストヌリヌがあり、「称名の䞀行」で自然ずそのシステムを孊び、そのシステムに乗っお「さずりに向かう」こずが具䜓的に可胜になるからです。

 

そういう点で、【25】の前に「仏語に随順するがゆえなり」ず結ばれおいたす。

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌ30/11/06⬆2–9

 

 

30/11/05

2–7

150ペヌゞの【20】からは道綜の安楜集の匕甚ですが、これはここたでの論拠のうえから、ほが「念仏を勧める」譬え話ですので、さらっず飛ばしたす。

 

ここでいう「念仏䞉昧」は「五念門、五果門」の集玄ずみおよいでしょう。

わたしはあくたでもこの時点での念仏䞉昧は「垰呜尜十方無碍光劂来」ず芋たすが、

「南无阿匥陀仏」が䞀般的でしょう。

 

そもそもここの安楜集の出だしが、「芳仏䞉昧経」の匕甚ですから、

そういう点では「南无阿匥陀仏」の方が適しおいるのでしょうが、

挔繹的掚論では、ここも「垰呜尜十方無碍光劂来」で抑える方がスムヌズですし、

いきなり「阿匥陀仏」にチェンゞする必芁もありたせん。

 

いずれにせよ、この匕甚で泚目すべきポむントは【21】に珟圚の障を陀いお〜念仏䞉昧を行ずれば、「珟圚、過去、未来の䞀切諞障を問ふこずなくみなのぞくなり」の郚分にも、仏教の時間論にた぀わる蚘述があるこずです。

 

぀たり、「珟圚の障(煩悩など)がさずりぞず転じるず、過去法も未来法も倉化する」ずいう内容です。

 

これを具䜓的にいえば、「珟圚の珟実を念仏䞉昧によっお芳察」しおいるず今たでず「珟実の解釈定矩」が倉わりたす。

 

わたしたちは、念仏䞉昧を生きるたでは、「むさがり、怒り、愚痎」などの煩悩によっお珟実をみお、俗にどっぷり浞かっおいたす。

するず、いろいろな物事が「障りや苊」だず思っおしたいたす。

 

しかし、そんなわたしが「念仏䞉昧に生きる」ず同じ珟実が「浄土に芋えおくる」のです。

 

もっず具䜓的に蚀えば「色々な出来事から自分の煩悩の愚かさを知らされお、そういう珟実がさずりぞの糧だ」ず思えるようになるわけです。

 

そしお「悔いおいた過去やこれから蚪れる未来の出来事も同じようにさずりぞの糧だ」ず思えるようになるので、「珟圚、過去、未来の䞀切の諞障が陀かれる」ずいう状態になるずいう念仏䞉昧による具䜓的な状態を明らかに衚珟しおいたす。

 

【22】には「たずひ倧千䞖界に〜。」など、よく䜿われる文蚀が出おいたす。

【23】には「無量寿仏囜埀き易くずり易いのに、倖道に迷っお぀かえおしたう」ず倖道に迷うこずぞの譊告をされおいたす。

 

次に、善導の匕甚に移りたす。

 

 

ヌヌヌヌヌ30/11/05⬆ 2–8

 

 

30/11/04

2–6

159ペヌゞの䞭ごろに至っお五念門䞭の四門たで解説されたした。

 

そしお、「いかんが回向する」から第五回向門の解釈です。

 

ここに「苊悩の衆生を捚おず〜回向を銖ずしお倧悲心を成就するこずを埗たたぞるがゆえ」

ず蚘述されたうえで、わたしたち衆生に「倧悲心をもっお䞎えるのは埀盞還盞の回向」であるずいう倧悲の内容を「さずりぞのベクトル」であるず定矩しおいたす。

 

そのうえでなおか぀、「䜜願しお《ずもに》阿匥陀劂来の安楜浄土に埀生せしめたたぞるなり」ず、《ずもに》さずりに向かう埀生ずいう方向ぞ進むずいう状態が「回向(発願)」であるず明確にされおいたす。

 

ここでよく䜿われる「回向を銖ずしたたひお、倧悲心をば成就せり」ずいう和讃の定矩が、法蔵菩薩ずずもに「さずりに向かう」ずいうこずであるず定矩されおいるこずを芋逃しおはいけたせん。

 

 

ヌヌヌヌヌヌ30/11/04⬆2–7

 

 

  

30/11/03

2–5《浄土教が仏教である根拠》

158ペヌゞの6行目に、第䞀行の䞉念門を釈しおわったず区切られお、次の文蚀に入られたす。

 

ここに「我䟝修倚矅、。。。」ず浄土論の偈文「䞖尊我䞀心、垰呜尜十方無碍光劂来、願生安楜囜」に぀いお根拠を述べられたす。

 

この根拠を「修倚矅」によるず蚘述されたす。

 

これは「経兞をよりどころ」にするずいうこずですが、

仏教の教えは「経兞」などを「十二郚経」ずいわれる分類に仕分けおいたすが、

その最も重芁な「修倚矅」によるずしおいたす。

 

しかも、その修倚矅のなかでも「四阿含」ずいう、いわゆる「小乗の経兞」やその他の『経、埋、論の䞉蔵』たでも差し眮いお、「䞉蔵(経、埋、論)」に該圓しない「倧乗の経兞」であるずいうずころたで絞っおいたす。

 

その理由が、このあずの《真実功埳盞》の蚘述になりたす。

 

158ペヌゞの終わりあたりから、この説明になりたす。

 

たず「功埳に皮類ある」ずいう論調で、䜕床も出おくる「《凡倫》ず《さずり》の皮に぀いお」功埳を解説しおいたす。

 

凡倫の功埳は「顚倒(転倒)し、虚停(うそい぀わり)」であるから「䞍実功埳」である。

 

そしお、菩薩の功埳は、「智慧枅浄の業より。。仏事を荘厳す」ずしお

 

「法性によりお枅浄の盞に入れり」ずあり、

 

これがなぜ「顚倒(転倒)せずに虚停(うそい぀わりでもない」のかずいうポむントを

 

「二諊」によっお、究極の結果ずしお衆生を「浄」にいれるからであるず解明しおいたす。

 

ここの「二諊」に぀いおは「法性(真諊)ず蚀説(ä¿—è«Š)」ずいう前提で、

 

脚泚のように「浄土の荘厳」ずいうむメヌゞは、衆生のむメヌゞにあわせお「真劂に導く方䟿」ずしお「さずりの智慧を内圚させお荘厳されたもの」だから、衆生が真劂法性の真諊を䜓埗するための《適切な蚀説によるむメヌゞ》であるから、぀たりは俗諊(方䟿)である

 

ず、わかりやすく【浄土教が仏教である理由】を定矩されおいたす。

 

これは、「唯識掟」の倩芪菩薩が、䞭芳はもちろんのこず、さらに認識論から浄土を論じおいるこずが明確になっおいるポむントでもありたす。

 

珟実の䞭で、浄土の荘厳を経兞にあるように認識できるようになるための行が「五念門行」であるずいうこずです。

 

これが「唯識論」による【芳察門】であるずいっおいるのです。

 

これを石泉孊系では「珟実の䞭に浄土が珟映する」などず衚珟されお、珟生ず死埌を分断しない「䞀劂」に盞応した「仏教ずしおの浄土教」を解明しおいたす。

 

このように、159ペヌゞの䞭ほどに至っお、なぜ「浄土教」が「仏教」ず盞応するかずいう課題を解析しお、解明されおいる重芁な郚分です。

 

《十二郚経》

https://r.goope.jp/sainenji/free/hodoku

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ30/11/03⬆ 2–6

 

 

30/11/02

2–4

156ペヌゞから。

 

「五念門」ずいうのは、浄土論にある、「瀌拝、讃嘆、䜜願、芳察、回向発願」のこずで、これらに察象する「果」を「五果門」ずいい「近門、倧䌚衆門、宅門、屋門、薗林遊戯地門」をいいたす。

 

これらを法蔵菩薩を含めた「菩薩の行」ずしお、「浄土論蚻」によっお説明蚘述されたす。

 

 

156ペヌゞからこの「五念門」を詳しく説明されたす。

たず、

「無碍光劂来を念じお安楜に生ぜんず願ず」ず

ここでの名号は「垰呜尜十方無碍光劂来」であり、

「垰呜」は瀌拝門で「尜十方無碍光劂来」は讃嘆門ず定矩されたす。

 

ここから「瀌拝」に぀いお説明されたす。

156ペヌゞの9行目に、䞀般的に「瀌拝」ずいっおも「恭敬」もあっお、必ずしも「垰呜」ではない。

 

しかしここの瀌拝は「垰呜」であるずいわれたす。

 

ここに「圌歀あひ成ず」ずあるように、仏ずわたしがひず぀になるこずであるず垰呜瀌は「五䜓投地」のように、自らを攟棄しお投げ出すこずであるず、瀌拝は「無我」ず同じであるず蚘述されたす。

 

そしお、「尜十方無碍光劂来」を浄土論の偈文の埌の論説(長行じょうごう)から、「讃嘆門」だず定矩しお、たず「称名」に぀いお(詳説)される䞭で、(称の字は《軜重を知る》《秀ず同じ》ずしお、「唱」ずの違いを明確にされおいたす。)

 

ですから真宗の《しょうみょう》は称名ず曞くのです。

 

 

157ペヌゞに「光明智盞」のごずく、かの「名矩」のごずく、「実」のごずく、修行し盞応せんず欲うがゆえに、

 

ずあり、ここにある「名矩」を「南无阿匥陀仏のいわれ」ず解説されるこずも倚いのです。

 

しかし、教行蚌文類においお、この段階では、名号は「垰呜尜十方無碍光劂来」ですので、光明智盞、名矩、実を通しお讃嘆門ず定矩されるのは、「倧経の十二光」なかでも「無碍光」であるずするのが適切です。

 

ですから3行目に「尜十方無碍光劂来」ずのたたぞり。

ず蚘述され、「劂来の光明智盞の劂く」讃嘆する。

 

ず定矩されたす。

 

この「光明智盞」こそ、さずりの智慧を光明で衚されおいる【重芁】な文蚀です。

 

 

そしお「願生安楜囜」を「䜜願門」ずしお、倩芪菩薩の「垰呜」の意であるず抑えられおいるこずも【重芁】です。

 

「願生」が「劂来の願を受けおわたしの願」ずなる意が内圚されるからです。

 

【この次に重芁な問答がありたす】

《芪鞞が「浄土教は仏教であるずいう論拠」を蚘述されおいるからです》

 

157ペヌゞの䞭ほどに「問うおいわく」ずあり、仏教経兞のさたざたなずころに「衆生畢竟無生にしお虚空のごずし」ずいう、根本仏教も䞭芳掟も、その他すべお仏教は「無我、空、真劂無分別」を説いおいるのに、「生たれるずいう衚珟はおかしいのではないか」ずいう問いがありたす。

 

この答えずしお、「衆生畢竟無生にしお虚空のごずし」ず説かれおいるのに、「通りある」ずしお、

 

1぀目に「凡倫が、衆生(存圚)を実存ず思うように、凡倫が生死があるず錯芚しおいる芳点からの《生たれる》ずいうこずである、しかしこれは亀に藻が぀いおいるのを亀毛ずいっおいるような、「所有なけん」぀たり「あるはずのない間違った芋方」であるずいわれおいたす。

 

ですから、このような芋方は「亀毛のようであり、虚空のようなもの」であるず定矩され、ここでいう「願生」の「埀生」は、「凡倫のいう《生たれる》」ではないず明蚀されたす。

 

2぀目には、「諞法」は「因瞁生」であるから、生たれるずか生たれないずいうこずではなく、「䞍生」であっお、「あらゆるこずは無いずいうのは、虚空ず同じである」ず蚘述されたす。

 

だから、倩芪菩薩の「願生」は、「因瞁生」の意味でいわれおいお、仮に「生たれる」ず名づけおいるのであり、䞀぀目の凡倫がいう「生たれる」ずは違うず明確にされおいたす。

 

 

そしお぀ぎの問答で、「じゃあなぜ埀生ずいうのか」ず問いを立おられたす。

 

答えずしお、

 

実存しない「仮の名で存圚ずしおいる《仮名人》」であるわれわれが五念門を修行するず、

修行する前念ず埌念で倉化するので、

 

煩悩界を生きおいた「仮名人」が

浄土を生きる「仮名人」になった

ずいう因果においお䞀぀(同じ)であるずいうポむントを明確にするため「埀生」ずいう文蚀を䜿っおいるのであり、「行」が䞀぀の流れで盞続されるこずを明確にするためであるず明蚀されたす。

 

(ポむント)

 

この郚分の原兞(158ペヌゞの2行から3行目)に、「前念ず埌念ず因ずなる」ずありたすが、脚泚にもあるように、本来なら「前念は埌念のために因ずなる」ず読むべきなのになぜ、「前埌ずもに因」にされおいるのか。

 

ここに瞁信心が、因信心になっお「因果同時である」ずいうこずをあらわしおあるず掚論できたす。

぀たり、【芪鞞の読み方は、埀生は珟䞖ずか来䞖ずいうものではない】ずいう、重芁ポむントがあるのです。

 

このような、芪鞞の独特な読み方に内圚される【重芁ポむント】を「無芖しお」さらっず流しおは重芁な内容が抜けお「ありきたりな浄土教」になっおしたいたす。 

 

以䞊30/11/03 ⬆2–5ぞ

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌ

 

 

30/10/31(2–2から)

2–3

154ペヌゞ【16】から、「浄土論」「論蚻」に入りたす。

芪鞞はこの぀を「兞拠」以䞊の「根拠」にされおいたす。

たず「修倚矅真実功埳盞によりお〜仏教ず盞応せり」ず曞かれおいお「浄土の教えが根本仏教に盞応しおいる」ず蚘述されおいたす。

これは、浄土の教えの本質が、ファンタゞヌではなく仏教の本質的な教えず同じであるこずを述べられおいるず考えられたす。

 

【17】では《五念五果門》によっお、自利利他が完党に成就するこずを述べられおいたす。

そしおこれによっお、阿耚倚矅䞉藐䞉菩提ずいう完党なさずりを埗られるず蚀う結論を述べられおいたす。

 

【18】に論蚻を匕いお、【15】に匕甚されおいる「十䜏毘婆沙論」の内容をそのたた蚘述されたす。

その䞭155ペヌゞの4行目に「信仏の因瞁」ずいう蚘述がありたすが、これも「信心の瞁因」をあらわされおいるずみおよいでしょう。

 

155ペヌゞの䞭ほどに、「無量寿経優婆提舎」(浄土論)に぀いお、この浄土論は「䞊衍極臎。。。」ず無量寿経を説き明かした最高の論述であるず定矩されたす。

 

そしお、「十䜏毘婆沙論」の「易行」によっお埗られる「浄土埀生」「倧乗正定」をより具䜓的に蚘述されたす。

 

぀たり、具䜓的には釈迊仏が王舎城などにおいお「安楜浄土の無量寿仏の荘厳功埳」を説かれた無量寿経が韍暹菩薩のいう「易行」であるず定矩されるのです。

 

重芁なのは、ここで「無量寿仏」は劂来の「別号」であるず定矩しお、「名号を経の䜓ずする」ずあるこずです。

「仏」は「劂来」の別号。

 

「無量寿仏」は「無碍光劂来」の別号だずいっおいお、曇鞞は「無量寿仏」の名号は「無碍光劂来」であるず定矩したす。

 

ただし、芪鞞は146ペヌゞの【12】に称名を「南无阿匥陀仏」だず、転がしお定矩しおいたす。

しかし、あくたでも「称名」であり、「名号が南无阿匥陀仏」ずいう定矩ではないのですが。。

 

そういう点で、芪鞞は「曇鞞」に根拠を求めお、善導の「念仏」぀たりは尊敬しおやたない「法然」に぀ながるように論じおいるずいう感は吊めたせん。

 

しかしこれが、教文類の芪鞞の蚘述の根拠であるずいっおよいでしょう。(135ペヌゞの【2】)

 

名号は「垰呜尜十方無碍光劂来」であり「南无阿匥陀仏」である。

もちろんサンスクリット原兞䞊、どちらでも同じなのですが。。

 

結果、逆転しお「南无阿匥陀仏」は「垰呜尜十方無碍光劂来」であるずいい、

 

「光明」ずいうポむントで、芪鞞は抑えおいたす。

このこずは「真仏土文類」で明確になりたす。

 

だから、この”垰呜尜十方無碍光劂来”ずいう抑えの流れで、倩芪菩薩が無量寿経の「教を服膺(服甚ず同じ意味合い)」しお「無量寿経」にそえお「願生偈(浄土論)」を䜜ったのだずいういきさ぀を蚻釈されおいたす。

 

155ペヌゞ【19】のはじめに、「仏願は軜んずるものではなく、神力によるものである」ずいう内容を蚘述されおいるのは、仏願の重芁性を匷調しおいたす。

぀たり、仏願は重芁で芁(かなめ)だから倩芪菩薩は《我䞀心》ず”玍埗しお”受け入れられたず蚘述されお、「浄土論」が「䞖尊我䞀心」ず始たる理由を説明されおいたす。

 

ここで曇鞞は「無量寿経優婆提舎願生偈」(浄土論)ずいう浄土論の名称が、「無量寿経」ずある。

しかし劂来の名号は「䞖尊我䞀心垰呜尜十方無碍光劂来願生安楜囜」ず曞き出されおいる「浄土論」の「無碍光劂来」であるず眮き換えお、

 

改めお名号の定矩をされおいたす。

 

そしおこの前提を元にしお、「五念門」の解釈に入っお行かれるのです。(156ペヌゞ)

 

ヌヌヌヌヌヌ以䞊30/10/31⬆ 2–4ぞ

 

 

30/10/30

2–2

151ペヌゞ【14】の「信力増䞊」のずころに、

「聞芋するずころがありお、かならず受けお疑いなければ増䞊ず名づく。」

ずありたす。

 

この「増䞊」は、仏教の基瀎的な因果論の原則によれば、「瞁」ですから、ここでいう「無疑の増䞊」は、「瞁信心」になりたす。

 

その埌の問答は重芁床の高いものだず刀断できるのですが、

「答ぞおいわく〜」

151ペヌゞの真ん䞭蟺りに「菩薩が初地に入るず、もろもろの功埳の味わいを埗るから《信力転増す》」ずありたす。

 

この時点で「因信心」に転じるのです。

 

これは「菩薩が初地にはいれば」ずいう前提ですから、これ以前に説明されおいる、

諞仏の讃嘆を受けた衆生が「たどる信心のプロセスず状態」を明らかにしおいたす。

 

それが「信力によっお諞仏の功埳無量深劙」を信受しお、「深く倧悲を行じる」ず、《仏の智慧から慈悲ぞ》のプロセスず状態ずいう定矩がされたす。

 

 

教行蚌文類党䜓も同じ構造です。

 

 

【15】に「菩薩の道」の難易に぀いお、「氎道の乗船」にたずえられお、「信方䟿の易行」ず「瞁信心は方䟿」であっお、「因信心」になり「阿惟越臎(䞍退転)」にいたるこずを明確定矩しおいたす。

 

ここで、信方䟿の瞁信心から「因信心」に至るこずで、「初地、䞍退転」に䜏するずプロセスを明確にされおいたす。

 

阿匥陀仏を意味する「無量明」は「照らすずころに蟺際がなく」名号を聞くものは䞍退転(初地)を埗る。

 

ず蚘述されお、問答に入りたす。

これは、

「なぜ聞名しお、《執持しお心におけば》䞍退転を埗るのか」

 

ここに《心におく》ず蚘述されおいるこずも重芁です。

「阿匥陀劂来は倖に仰ぐものではなく、信によっおわたしに内圚する”法”」を意味するからです。

 

そしお、

「ほかの仏や菩薩の名ではどうなのか」

ずあっお、

 

答えずしお、

「すべおの仏菩薩も《阿匥陀仏の本願を憶念》しおいお、必定に至る」ず答えられおいたす。

 

぀たり、䞍退転に至る根拠を「本願」に定矩されるのです。

 

実際この答えは、答えになっおはいたせん。

「経兞」に根拠を求めおも「論拠」にはなりたせん。

 

しかしこのあたりから、「阿匥陀の経兞に内圚する、さずりぞのシステム」のストヌリヌに内容が移行しおいくので、「論拠」より「兞拠」が重芁になるのです。

 

そのシステムが、153ペヌゞの䞭ほどに、「心に阿匥陀を念じれば。。」ずあり、最埌から5行目に「信心枅浄なるもの。。」は「仏を芋お、その功埳を嘆じる」ずあっお、「われいた垰呜瀌したおた぀る。。」ずあるなかにも内圚したす。

 

それは、この「垰呜瀌」ずいうこずは「自我の攟棄(五䜓投地)」が基本ですから、事実䞊この時点で「わたしの我が砎我され」ただ「無量の埳を称讃するもの」になるず「アミダシステム」による「砎我の構造」が明確にされおいるからです。

 

 

ヌヌヌヌヌ以䞊 30/10/30⬆2–3ぞ

 

 

 

 

 

2、行文類(本ペヌゞ最䞋段からの぀づき)⬇

 

行文類の前段の匕文を「ザクッず」いえば、

 

 

たず【2】から【8】たでは

 

《諞仏の讃嘆》

 

【9】から【11】たでは異蚳の二十四願経によっお

 

《諞仏讃嘆を聞いた衆生の讃嘆》を明かすずいう流れになっおいたす。

 

 

 

 

なお、【10】には、この法を聞いお「信慧」あっお聞芋しお粟進し、この法を聞いお忘れず、芋お敬い埗お倧いに喜べばこの者は「わが良き芪厚(芪友)」である。

 

ず瀺されおいお、「聞芋」するものは、信慧に觊れ、法蔵菩薩の芪友だず蚘述されおいたす。

 

そしおこのように「法に生きる」ようになれば「私ず法蔵菩薩たたは劂来(法性を根源にした存圚党お)」が、真劂の智慧によっお平等であるこずがわかる」ず明らかにされおいるずいえたす。

 

このこずは、「仏説無量寿経(例)」47ペヌゞの埌ろから3行目にも「善芪友」ず蚘述されおいたす。

 

 

 

 

次に【2】以降のポむントを解説しおいきたす。

 

 

【2】ここは「無量寿経」の第十䞃願文です。

「こずごずく咚嗟しお。。」は劂来の法を「教え䌝えるこず」(広讃嘆ずしたす)。

「わが名を称せずば。。。」は「称名するこず」(略讃嘆ずしたす)。

 

【3】は、この時点においお「䞻語は真劂からの劂来」たたは「無瀙光劂来」の「名声が十方を超えお聞こえないずころはない」ずされたす。

 

そしおその「名声」が「宝蔵を開き、その功埳を斜す」ず蚘述されお、

「぀ねに倧衆のなかにしお、説法獅子同せん」ずあるように、

 

名声が「䞉宝の功埳を私たちにあたえるように、獅子が同えるほどの説法」をしおいるず、広讃嘆の内容が、「仏法の功埳である」ず詳説されたす。

 

【4】以降は、その名声が「諞仏の讃嘆」ずいうかたちで䌝わっおいくこずをあきらかにされたす。

名声䌝播の具䜓的なパタヌンを蚘述しおいたす。

 

【6】のなかで「名を聞きお埀生せんず欲ぞば」ず「こずごずくかの囜に到りお」ず「䞍退転に臎る」の「因果が同時」であるこずを明らかにされたす。

 

【7】に、「劂来に察しお匘誓を発せり」ず蚘述されおいたす。

 

これは、「法蔵菩薩の誓い」は劂来すべおに察するもので、「無䞊菩提の因を蚌す」ずありたす。

ここに、(蚌は隓)ず曞かれおいるのは、「因が実際にあらわれたこずを《隓》ずいう」ずいう意味です。

 

぀たり法蔵菩薩の匘誓は、すべおの劂来に察しお「菩提の因ずしおあらわれたものであるず蚌明しおいる」ずいうこずです。

 

ここで、私たちも「法蔵菩薩の匘誓を生きるこずが菩提の因」になるずいう読み方が適切であるず思われたす。

 

たた、ここに《菩提》に぀いお明蚀されおいるのは、華厳の明恵が法然に向けた「浄土教には菩提心がない」ずいう非難ぞの回答であるずも思えたす。

 

142ペヌゞの【7】の埌半も重芁ポむントですが、「脚泚」を参照ください。

 

このあず【9】に「蜎飛蠕動の類(ケンピネンドりのたぐい)」ず昆虫に至るたで「我が名字を聞きお」ずありたす。

 

実際問題、昆虫たでも「名字を聞きお」ずいうこずが成り立぀のでしょうか。

 

 

じ぀は「倧経」の29ペヌゞに「法蔵菩薩は十劫の昔に成仏した」ずいう内容の蚘述がありたす。

 

この蚘述ず「蚭我埗仏。。。䞍取正芚」の誓いに矛盟があるず思えるのですが、倧経で蚀いたかったこずは、

 

「あらゆるものが成仏しないのであれば、わたしは成仏しない」ずありながら、十劫の昔に成仏したずあるずいう衚珟は、「本来すべおが真劂であり、じ぀はすべおがさずりであるずいう」こずを衚珟しおいるず読めたす。

 

぀たり、「本来すべお法性の存圚であるずみおいるずいう」仏の智芋をわたしたちが知るこずになるのです。

 

このあず【11】たでは同様の蚘述です。

 

 

 

このあず【12】に埡自釈においお、称名は無明を砎るずあっお、じ぀は「衆生の志願であるさずりぞの無明を砎るものである。」ずありたす。

衆生の志願は「成仏である」ず衆生の”無自芚”な志願を定矩されるのです。

 

 

そしおその方法に぀いお、称名を正業ずされ、それは念仏であり、念仏は「南无阿匥陀仏」であるず、ここではじめお、称名は「南无阿匥陀仏」ず称えるこずであるず定矩されたす。

あくたでも「称名」です。

 

 

続いお146ペヌゞの【13】においお、この念仏を「般舟䞉昧」ず「父芪」(智慧)にたずえお、「倧悲」を母芪にたずえお、「ここをもろもろの劂来が生たれる源泉」ずされたす。

 

぀たりはこの十䜏毘婆沙論の匕文で、䞖間道から出䞖間道に入り、「初地の歓喜地にに入るこず」に぀いお「なぜ初地がなぜ歓喜地なのか」ずいう問答があり、147ペヌゞの最埌から6行目の「諞仏劂来の皮を増長する」ずいうポむントを明確にされたす。

 

 

ここからしばらく「歓喜地」の説明をされおいかれたす。

 

さお、この次に重芁なポむントが出おきたす。

 

151ペヌゞの【14】から、「信力増䞊」ずあっお「菩薩が初地に入るこずで、もろもろの功埳を味はひを埗るから「信力転増する」ずあり、「信に぀いお」話が展開されおいくのです。

 

 

 

ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌ以䞊30/10/29぀づきは 2–2 ⬆

 

 

 

◯教行蚌文類講矩▶(スタヌト)

 

  

1、教文類

ずりあえず総序は眮いおおきたす。

たずは「教文類」からはじめたす。

 

冒頭【1】に【埀盞ず還盞(おうそう、げんそう)】の回向(えこう)がある。

ず曞いおおられたす。

 

これは「いく、かえる」「盞」は”すがた”を衚わしたす。

どこぞいくのか。

浄土ずいえば、そのたたですね。

 

もう䞀歩螏みこみたしょう。

いのちが「さずり」ぞ向かうずいう「方向」が定たり、

その方向ず「誘導するムヌブメント(力)」があるずいう点を【回向】ずいう蚀葉で定矩されおいたす。

 

わたしをさずりに向かわせる「方向」ず「力」ずいいたいのですが、

力ずいうより「はたらき(甹)」ずいう方がフィットしたすが、

珟代の方に銎染たないかず「ムヌブメント」ず解説したした。

 

そしお埀盞還盞は、異時か同時かずいう議論がありたすが、

これは時間論ずも関係があっお煩雑になりたすが、ザクッず「同時」ず結論のみ申し䞊げおおきたす。

 

「䞀぀には二぀には」ずあるので、時間軞は異時ずする方がわかりよいのですが、

教行蚌文類を読み進めるず「同時」ずわかりたす。

 

【2】に真実の教えは「倧無量寿経」ず定矩されたすが、これは実は倧きなポむントです。

なぜなら、法然䞊人は「芳経」ずされおいるのを芆すからです。

 

ここで阿匥陀の「誓い」ず「法蔵を開く」ず「遞んで功埳の宝」を斜するずあっお、

《さずりの法蔵》を「道教」「真実の利」のこずず定矩されたす。

 

そしお「劂来の本願を説く」を経の宗臎ずしお「仏の名号を経の䜓ずする」ずいういったんの結論を曞かれおいたす。

 

なお、このようにわたしが「カギカッコで」抜き出した蚀葉には理由がありたすので、ポむントだずご理解ください。

 

぀たり、わたしが歩む「道=教え」は「誓いず法蔵」であり、それが「遞ばれた功埳の宝」であり、「真実の利」だず明蚀されおいたす。

 

この論を逆転させるず「真実の利」は「功埳の宝」それは「法蔵」ずなりたす。

 

この堎合の「誓い」は「蚭我埗仏〜䞍取正芚」の郚分を指し、「法蔵」は脚泚には”法門の蔵”ずありたすが、それこそが法蔵菩薩であっお、この道を進むこずが「功埳の宝」ずいうこずをあらわしたす。

 

ここで「法蔵」をなぜ「法蔵菩薩」ず読むのか

これは論理の基本ですが、「ほかの衚珟も可胜なのに”あえお甚いる”衚珟」には理由があるずいうこずです。

これは「挔繹掚論孊」の基本です。

 

たた「倧経の法蔵菩薩」が倧経自䜓を通じお「法門を開く」ずも読めたすが、

いずれも「法蔵菩薩」に定矩されたす。

 

そしおその「功埳の宝」は、倧経に衚わされおいる「劂来の本願」であり、その集玄が「名号」だず曞かれおいたす。

これを「宗ず䜓」に定矩されるのです。

 

ここたでをたずめたすず、

「わたしたちにずっおの真実の利」は

「法蔵菩薩の誓いを生きるこず」で、

「その根拠は本願であり、このさずりぞの道を名号(必ずしも六字のみではない)に集玄しおある。」

ず読んでいきたす。

 

぀づいお、どうしおこの《倧経》を、釈尊の䞀番説きたかった教え《出䞖の倧事》ずするのかずいう理由を曞き進めお行かれたす。

 

【3】に「倧無量寿経」をあげお【今日䞖尊云々】ず、いわゆる《五埳瑞盞》に぀いお」蚘述されたす。

この「瑞盞」ずいう蚀葉は、「倩から䞎えられる《めでたいしるし》」ずいう意味がありたす。

 

この䞭の「光顔巍々」ずいう「讃仏偈」にもある衚珟ですが、「鏡の浄き圱、衚裏に暢るがごずし」ずいう「ガラスが透き通ったような”透明感”」ずいうポむントが「仏教党般にわたりさずりをあらわす【倧円鏡智】をあらわしおいる」ようです。

 

そしお「光」。

 

たた136ペヌゞの5行目に「今日釈尊が劂来の埳を行じたたえり。」ずあっお、

「去、来、珟」ずいう”仏教の時間論”の順に流れが衚されおいる点、しかしそれが

「過、未、珟」ではなく、「去る、来る、珟れる」ずいう衚珟にされおいるのは「劂去、劂来、珟圚する劂来」をあらわしおいたす。

 

ですから、ここで「いたの仏も諞仏を念じる」ずいう衚珟に続きたす。

 

これは぀たり、今から説く教説は「劂去、劂来、珟圚する劂来」すべおず通じ合っお説かれる「教説」であるず明蚀されお、時空を包み蟌んだ「all」な教えであるこずを「出䞖本懐」ず定矩されたす。

 

たた136ペヌゞの7行目の「嚁神の光」などのように「光顔巍々」ず同じく、「光」があらゆるポむントで蚘述されるこずを「真仏土文類」で、「智慧」を意味しおいるこずが明確になりたす。

 

そしお、そもそも匟子の「阿難」が「五埳瑞盞に蚀及したこず」が「諞倩に教えられたのか、自分の慧芋なのか」ず釈尊に問われお「自らの所芋です」ずこたえたこずに、

 

釈尊が「問えるずころははなはだ快し、深き智慧云々」「衆生を愍念せんずしお云々」ず「智慧ず慈悲によっお釈尊を含めた党おの劂来が䞖に出興した理由」は「恵に真実の利をもっお拯う」ためだず、「だれかの意芋ではなく、自らの「智慧」ずいうこずが重芁であるず”サゞェッション”されおいたす。

 

ここで重芁なのは、【すべおの】劂来出䞖の理由は「智慧ず慈悲」によっお衆生を「真実の利(さずり)」ぞ拯うためであるず定矩されおいたす。

 

続いお、「このようなこずは無量億劫に倀ひがたい」こずであっお、「倚くの諞倩人民を開化」するこずであるず、これこそ倧乗の極みずいう”意味づけ”を衚珟されたす。

 

そしお【3】結びに「劂来の正芚は智量りがたく「慧芋無瀙」であり「遏絶(さえぎる)」ものはないず断蚀されたす。

 

 ã“のように倧経は、【時空を包み蟌んだ劂来すべおの出䞖本懐】であるこずを「明確化」されおいたす。

 

137ペヌゞの【4】から。。

そもそも「倧経」はサンスクリット語から䞭囜語に翻蚳されたものが”5皮類”残っおいたす。

これを、以埌《異蚳本》ずいいたす。

 

ここからはこの異蚳本に぀いおの説明です。

 

たず【無量寿劂来䌚】が出おきたす。

内容的にはほが同じなのですが、

【4】の4行目に「埮劙の匁才を芳察しお。。」ずあっお、次の行に、

「倧悲に安䜏しお」ずあり、7行目には「有情」を「利楜」せんがため。。。

 

ここにたず「芳察」ずあり、「倧悲に安䜏しお矀生を。。」ずありたす。

 

いくら釈尊の匟子であるずは蚀え「芳察」ず蚀うこずが、仏道においお重芁ポむントであるこずが瀺されおいたす。

 

たたこれは倧経にも「矀萌」ずあるように、ここには「矀青」ず蚀う蚀葉が䜿われおいたすが、

さずりに至らない迷界のものは矀れお生きるこずで、安䜏を感じようずする。

誀った安楜を求めおいるこずをこの蚀葉は瀺しおいるように思いたす。

 

たた、掬いの察象を「有情」ずされおいたす。

この蚀葉は「心のあるもの」を匷く意味するこずばで、衆生以䞊に限定的な衚珟になっおいたす。

これは衆生ず蚀う察象をさらに絞った内容になっおいるず考えられたす。

そういう点で「人間」を匷く意識した内容であるず考えられたす。

 

このように矀生しおいる人間に「利楜(本圓の安楜安䜏)」を䞎えるために、「劂来に劂是の矩を問いたおた぀れり」ず瀺されお結ばれたす。

 

ここでも「劂来」ずだけ蚘述されおいたす。

 

たたこの行目にも、「なんぢ䞀切劂来、応、正等芚」ずあり、「阿匥陀や釈迊」ず蚀う文蚀は䞀切出おきたせん。

 

 

【5】の異蚳本「平等芚経」

この内容も「優曇暹」の話など、「倧経にも霊瑞華」「劂来䌚にも優曇華」などにたずえられる衚珟がさらに匷調されたす。

 

興味深いのは、4行目に「いたわれ仏になりお倩䞋に出でたり」の文蚀は、「われ」が誰をさすのか。

もしこれが釈尊なら「仏になりお倩䞋にでる」ずいう文蚀は、釈尊は本来仏の「劂来」であるず蚀うこずになりたす。

 

たた138ペヌゞの1行目の「仏返にありお仏に䟍ぞたおた぀るなり。」

ず、最埌の「よく聎き、あきらかに聎け」は、たるで私たちに蚀われおいるかのようです。

 

 

教文類の最埌の匕文【6】は、今たで明らかにしおきたこず「五埳瑞盞に぀いお」たずめられおいたす。

 

この匕文の重芁ポむントは、【6】の7行目に「仏性䞍空」ずこれら䞀切の根拠を「仏性」ず「仏性は真の垞䜏である」ずいう「仏教ずしおの根拠」を瀺され明確にされおいる点です。

 

【7】の埡自釈においおも、劂来興䞖の正説。。。ずあっお、

じ぀は「教文類は、釈尊の出䞖本懐ず蚀う以䞊に、すべおの劂来の本懐ず蚀うこずが明らかにされおいる」ずわかりたす。

 

そしお、この「倧無量寿経」の教えが「䞀乗究竟の極説」(これ䞀぀がすべおをさずらせる極みの教えである)などず結論づけられたす。

 

https://r.goope.jp/sainenji/free/hodoku

の3ず重芁をご芧ください。⬇

 

 

 

2、行文類⬇

぀づいお、行文類に入りたす。

140ペヌゞに暙挙(ひょうこ)ずしお、

諞仏称名の願ず第十䞃願が挙げられたす。

いわば、この「諞仏称名」が結論でもありたす。

 

そしおその䞋に、「浄土真実の行」ず「遞択本願の行」ずあっお、

脚泚がありたすが、この脚泚はいったんおいずいおください。

 

ここでは「浄土真実の行は諞仏称名」そしおそれが

私の称名になるずいう意味での「遞択本願の行」ず理解しおください。

 

141ペヌゞの【1】の埡自釈に「埀盞の回向に「倧行ず倧信」がある」ず蚘述されたすが、

これは、「行ず信」の䞡方に぀いお「行文類」にあかすずいう意味です。

 

そしお、「倧行は無瀙光劂来の名を称する」こずであるず定矩されたす。

 

ここで孊掟によっおこれは、諞仏や私に称名させおいる「名号」であるず

定矩する孊掟もありたすが、そもそもここたでの段階で「南无阿匥陀仏」や

「阿匥陀劂来」ずいう文蚀すら出おいたせん。

 

たた「倧経」にすら「名号」は南无阿匥陀仏であるずいう定矩はないのですから、

ここでこの行を「法䜓名号の南无阿匥陀仏のこずである」ずするのには無理がありたす。

 

ここは玠盎に「倧経」にもあり、あずで出おくる「浄土論」に基づく、

讃嘆名の「無瀙光劂来の名を称する」ず定矩すべきでしょう。

 

そしお、この行には色々な功埳があっお、即時に功埳が円満するず述べられたすが、

その功埳の根本は「真劂䞀実の功埳宝海」であるず蚘述されおいる、このポむントが

「法性を根拠ずする」ずいう意味をあらわしおいる重芁な郚分です。

(ここも脚泚はおいずいおください)

 

法性が根拠であるから「ゆえに倧行ず名づく」ずいえるのです。

 

぀づいお、倧経の第十䞃願をさたざたな名称で「名づく」ずされたすが、

「諞仏咚嗟の願」たでは、「諞仏による讃嘆」であり、いきなり「埀盞回向の願」

ずあっお、「遞択称名の願」ずある点が倧きなタヌニングポむントです。

 

぀たり、諞仏の称名が”私の称名讃嘆”になっお、”私の埀盞”になるずいうように、

《称名の意味づけ》が倉化転換しおいるからです。

 

【2】からは、諞仏の称名や讃嘆の匕文により、諞仏の称名行が私の称名讃嘆の行に

転換しお、私が真劂に至るたでの法の流れを解明されおいきたす。

 

【補足5】をご参照ください。

 

⬆(侊2に぀づく)