ヒトは宇宙と共にあり、いのちは死なない❣️(なぜヒトが生まれ、なんのためにあるか?)
私たちは、「現象」を「五感」という感覚器官で受け取り、「脳」によって「各人」の「世界観」に置き換えられます。
ここで「脳による」ということについて、「各人の経験やDNA」によって「世界観」はじつは全く違うといえます。
「視覚」の一点を取ってみても、凹凸のある「網膜」に取り込まれた光の映像は「上下逆に写り」それを「脳の経験値やDNA」による反応によって「反転させて」、「これはスマホ」というように理解をします。
けれど「認知症」のような極端な例に関わらず、じつは「各人」が違う世界観に置き換えているといえます。
これは他の感覚器官でも同じであり、その「脳内」で起こることは「宇宙的な全体世界」と密接に関連しており、「個人と宇宙(自然法爾)」において成立することです。
つまり「すべてが電磁波」であったり「振動」であるなら、存在物のすべてに「原子レベルの振動」があって、常に「わたしたちの脳内の世界観」に影響を与えているということがわかります。
そしてそれらは「人同士や人と物」の間でも起こっているといえるのでしょう。
そういう意味において「すべての存在は常にあり続ける」ということが導き出されます。
壊れた「物質」でも「わたしの脳内においてあり続ける限り」脳内において「振動として」あり続け、それが「宇宙的振動に影響する」ということになります。
これが「他者との関係」においても同じであるといえるので、「死」という壊れたように思える肉体においても「誰かの脳内における振動」としてあり続ける限り、「死んだ人は宇宙レベルで生き続ける」ということが成り立ちます。
こういったことが「華厳経の一即一切」に明かされているのかもしれませんが、
わたしの「生命体が持つ世界観のなか」において、「死んだら何も残らない」「死んだら終わり」と考えるのは「不適格」といえるのかもしれません。
上記のように考えていくと、「わたしの世界観」は宇宙レベルと永遠の時間軸のなかにあり続け、「生命の本質」はわたしの認識を超えて存在するといえるでしょう。
つまり「生命」は死んだりするのではなく「永遠の時間軸と次元」のなかで存在し続けているといえるのかもしれません。
そういう観点から思考すると「誰かの生命体」が日々「怒り」の中にいるとすると、その生命体の振動は「怒りの永遠性」に住することになり、「愚痴の生命体」は「愚痴の永遠性」に住するといったことになるかも知れません。
そういう意味で「さとり」を求めて日常に「仏の智慧と慈悲心」で生きることが「その生命体が悟りの永遠性に住する」ことになるといえるでしょう。
これが「キリスト教の愛の神の世界観」でも同じであるといえます。
そういう意味で私たちは日常的に「高次元の永遠性を求めることでそういう振動の世界観をもった次元に、いまから住することになる」といえるので、「高次元の精神世界に生きること」が重要なのだと「覚者」が、、
その時代に応じた表現で伝え残してきているのだと目覚めさせてくれているように感じ、世界観の広がりを体感しています。
※科学において「振動=揺らぎ」とも表現されます。
以下 加筆
人間と宇宙やいのちとの関係性は、
「すべて電磁波によること」をキーワードにしてみてください。
心臓から「電気」が生まれ、血中にはイオンが走り、神経は電導性を基本にしており、脳はその電気で成り立つ。
そこに「心臓や脳」には、電磁波が生まれて、各個人特有の波形を持つことをコンピュータで拾うことができる。
そしてその電磁波が「人体の細胞に影響を与えて」人体の状態が決まる。
もちろん「脳」の電磁波により、「心臓の電磁波」も変化して、最も強く体外の電磁波と干渉し合う。
この部分をポイントにして「こころ」という状態が成立する。
こころは心臓から生まれ、脳を変化させて、また「脳」が心臓を変化させる。
そして体外の電磁波と関わって、その影響により定着していく。
この繰り返しで「個体の電磁波状態」が作られていく。
これが、「性格や個性」として定着することで、そのいのちがどういう電磁波に関わろうとするか決まってくる。
いのちが終わったように見えても、その「性格や個性の電磁波」は同じような電磁波状態の元へチューニングされていく。
それがその人の「肉体」が作り出した「電磁場」である。
生きているひとは、その肉体に於いて「その電磁場」を知っていれば、
肉体の有無に関わらず、「その電磁場」を共有するのである。
「その電磁場が持つ性質を知れば知るほど、共有磁場にいることができる」
つまり「好きな家族であれば、磁場を共有する」のであり、
「イヤな家族であれば、磁場は離れていく」
これが「量子場」の次元に於いて影響するという。
それが、むさぼりの電磁場なのか、怒りの電磁場なのか、愚かさの電磁場なのか。。
あなたの個性の電磁波は、肉体があるときも、肉体からどこかへチューニングするときも同じ周波数のところへチューニングされてしまうのである。
誰かが「怒っている」電磁波状態(磁場)がある場合、感受性が高いひとは、10メートル離れていても感じるという研究がある。
宇宙から個体に至るまで、「安穏」としようとするならば、自らがそうならなければならない。
そのために「宗教」があって、神や仏があるとかないとかということからスタートするのではなく、、
「宇宙から個体へのすべての電磁波(磁場)を安定させるための智慧としてある」というところからスタートするものなのである。
そしてまた、「その電磁場という記憶や働きが、宇宙のダークマター」と言われる部分を構成していくのであるから、
(宇宙の星と星の間は空間ではなく、見えない物質で埋められているといわれ、この物質をダークマターといいます。)
「人間などの電磁場を持つものが、地球や宇宙をよくも悪くも作っている」という認識と、
「あなたがどういうダークマターの電磁場と関わるか」ということは重要である。
しかしこのような表現は「難解」に思える。
じつは単純であり、「生きているとされるいのちであれ、死んでいるとされるいのちであれ」だれと親しくしていくのか?
というだけのことである。
これを仏教では「親縁」という。
こういったことを「宗教」が教えていることを現代なら理解できるひとは多いだろう。
数学の祖である「ピタゴラス」も「ピタゴラス教」という宗教として「神は数字をもって人や物を作った」という秘教にしていた。
こういった思考による「宗教理解」はじつは古くからあって、理解できる人にのみ教えられていた。
現代でも「秘教」にしている世界的組織がある。
また、「こういう論をエセ科学」というひともいる。
しかしこういう「秘教の叡智」が、ニュートンやアインシュタインなどの「マジ科学」を生んできているのである。
じつは、ここに書いていることは「マジ科学者」が論文に書いていることでもある。
こういうことが「宇宙レベルで宇宙の意思」となって、宇宙の意思が「コロナウイルス」のような幻影から、
宇宙を壊す人を、ノアの方舟のように除いているのかもしれない。
「宇宙をどういう宇宙にするのか?」
これこそが「ヒト」の存在理由ともいえるだろう。
たとえば「宇宙人」が居ても同じである。
「争って破壊の憂き目を見るか」「和合して成長の証を見るか」ということだろう。
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仏教的ではないかも知れないが、
「あなたやわたし」という主体的な認識に於いては、
生まれ出るまで、宇宙も他人もなかった。
けれど「あなたやわたし」が生まれて、
宇宙だの他人だの、そして「いのち」が「一気に誕生」したのである。
もちろん「あらゆる存在」も。。
あなたが「そのひと」に会うまで、そのひとは居なかった。
また「親も子も」なかった。
しかし、あなたが生まれて「一切」が生まれ、
いろんなものごとがスタートを始めた。。
見つけるまでは、あなたにとってはいなかった「そのひと」と生きることになった。
そして互いにいろんなことを乗り越えてきた。。
そして、互いに年齢分、少しずつあるいは大きく変化をしてきているけれど、
関係は「永遠」である。
このように「いのちはいったん生まれると永遠の存在」になる。
あなたにとっての、そのひとのいのちも永遠のものになった。
これを「無量寿」というのだろう。
あらゆるいのちと、そして「ともに生きてきたいのち」。。
時空を超えて、これらは「量も長さも無量寿」だということなのだろう。
なぜ「अमिताभ、Amitābha(無量光如来)」ではなく、
「अमितायुस् Amitāyus(無量寿如来)」なのか。
なぜ「無量寿経」なのか。。
わたしは長くこのことを尋ねてきた。。
それがいまわかったように思う。
「いのちは生まれてはじめてスタートなのだと。。」
それは人間は「死ぬ」と言っているひとにはわからない、
終わりのない「真如」そのものなのだと。。
真如のいのちは「増減はない」。。
人間の五感は、たかだか「レインボーの可視光線」しか見えないし、
耳も「2キロから2万ヘルツ」しかとらえられない。
いのちは変化をするけれど、同じ歩みをしてきたもの同士は、
永遠に無量寿として実在している。
わたしにも「彼のひとはまぶたに浮かぶ」
「彼のひとの声も聞こえる」
そしてなにより「優しさ」を感じている。
いのちは永遠で無数であることを「無量寿経」は教えているのだろう‼️