2019/06/13《初心者向け》 「法事」 「名前」 「葬儀について」 🅾️仏教初心者のみなさまへあきおちゃんのお話💌

📕スクーリングのお知らせ🖌

お知らせにも書いていますが、スクーリングをうけつけます。

詳しくはお知らせをご覧ください❣️

http://r.goope.jp/sainenji/info/2262914

 

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こちらも読みやすいです💁‍♂️

🔴関西風仏教解説

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase

🔵教行証文類講義その2

https://r.goope.jp/sainenji/free/kyougyou2 

 

【仏教やお寺とのお付き合い初心者さま向け(新しい投稿順です)】

 

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38、人間は「無明」(むみょう)のこころで生きている。

 

「無明」というのは「正しく見えていない」ということ。

「暗闇の中をさまようようなもの」(迷い)

 

だから「お釈迦さま」は「真理」を悟って、それを「言語化」した。

 

例えば「万有引力」っていう法則も「言語化」されたから「引力」があると認識できる。

言語化することは、「認識をする上」でじつは「重要」なことである。

 

「お釈迦さま」が「言語化」したことは、「すべては無常」つまり「変化する」ということと、そして変化するものに「固定した我」はありえないという「無我」ということである。

 

だから「自我に執着する《我執》などの《とらわれ》は自然の摂理に背くこと」であるから「トラブルや不安、怖れ」という「苦」を生む元になるという事実。

 

つまり「悟る」ということは「こういうあたりまえ」なのに「言語化」されていなかったことを「智慧」として「言語化」し、「認識」することで、「真の安定」を得るということ。

 

「覚悟」というように「いつどうなってもあたりまえ」が事実、真理だから、

「それを腹に据えて生きることが最も安定した心理状態である」「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)と説いているのが「お釈迦さまの根本仏教」である。

 

だから「阿弥陀仏」はもともと「インドのサンスクリット語」で、

「amita bha→アミターバ」といい「一般の人間では思いもよらない智慧」つまりそれを《シンボル化》すれば「光明」ということになる。

「暗闇をさまようような無明の人間に光りをもたらす智慧」という意味を「言語化」したものである。

 

だから「光明」というのは「見えていなかったことが見える」という

「智慧(ちえ)」を具体的な内容としている。

 

そこで、「南無」というのは「namo」で「屈服する」という意味であるが、

これは「真理に屈服する」ということで「礼拝」を意味する。

 

つまり「無明で見えていなかった、あたりまえの自然に屈服して《無常無我》を生きる」ことを「ベースにして」生きるというのが、仏教の原点である。

 

そして、「亡くなった人」を「阿弥陀仏と同じ光明」だと定義して、

「自然の摂理に還った(かえった)人」の「人生」が「生前にはわからなかったけれど《思い出やその人との出来事》を思い出すことで」その人のいのちが、「光明」になって「いろいろな智慧」を教えてくれると「解釈」して「法要」を行なうのである。(だから死者は阿弥陀仏なのだ。)

 

そういう前提で「法要や法事」を「お勤めすること」が「仏事」「法事」である。

 

だから「法事、法要」は、「死んだひとがいいところに行くため」の

「追善供養(ついぜんくよう)」ではない。

 

こういった前提から「法要法事」は「亡くなった人を《阿弥陀仏》と定義して、《智慧の光》になって、智慧に基づく生き方を教えてくれる」最上の存在であると「讃える」「讃嘆(さんだん)供養」であると定義するのである。

 

だから、「迷っているのは間違いなく死者ではなく生きている人間」だから「亡くなった方が阿弥陀仏になって導いて」くれるという「定義」である。

 

亡くなった人が「私たちの迷い(無明)」を教え「悟り」に導いてくれていると定義することで

「亡くなったひと」の人生の尊さを「再認識」できるようになるのが「法事、法要」である。

 

そういう前提であるから「お経をあげ、お経を聞くこと」はこちらから「死者」に向けることではなく、「死者つまり仏」からこちらに「悟りの教え」を聞かせてもらっている状況だと「根本的に仏教では定義」する。

 

もちろん「ただ音読している《お経》を聞く」だけでは「意味不明」だから、

本来はその内容を「学習するもの」であるけれど、「お経の音読」を「声明(しょうみょう)」といい、

「音読を聞くなかで、亡くなって仏になったひと」の「人生」を思いつつ、

「無明を脱出する智慧を得る」ことが「法事のポイント」になる。

 

 

 

 

 

 

37、十二縁起から

親鸞さんは、阿弥陀如来は本来は法性なので「色もなく形もましまさず、ことばも絶えたり」

といわれています。

 

これは小難しいはなしver2の4plusにも書いていますが、人間は存在を色という2次元で認識していると分析しています。

 

わたしたちは、存在は3次元の「かたち」だと思っていますが、じつは基本的にはそれは脳がつくった錯覚で、実際は「色」で認識しているという分析をブッダは結論としています。

 

そういうポイントで、親鸞さんは、阿弥陀如来はそういう「色」としての存在でもないし、ことば(名)でもいいあらわせない存在であるといわれています。

 

しかし、わたしの無明を破って「破我する」ためにさとりの智慧が光明として現れたのだものだといわれます。

 

阿弥陀は梵語の「アミターバ」です。

これを意訳すれば”無明を破るムーブ(動き)をもった“「不思議な光明」という意味になります。

 

親鸞さんは真仏土文類に「光明は智慧のかたちなり」と論じています。

 

ここで「かたち」とあるのがポイントです。

 

ブッダは、人間の存在認識は「色」だと解析していると書きました。

(これも詳細は4plusを参照してみてください)

 

ここで親鸞さんは智慧の「かたち」と書いています。

ですから、この光明は存在しない存在なのです。

つまり、阿弥陀如来は「智慧そのもの」だということです。

 

ですからわたしたちは「智慧によって無明が破られる」システムにのることでさとれる。

それは「名」を代えることだというのです。

 

中神章生なんて「無明」がつくった「名」であり「色」です。

 

これを存在しない存在である「南无阿弥陀仏」に代えるのです。

 

わたしとおぼしきものは「南无阿弥陀仏」ですとなのる。

少なくとも自分自身にはそうよびかける。

 

このようなおよそ世俗では「意味不明」な状態に代えるのです。

こういう真実のポイントが「難信」なのです。

 

しかし、この意味不明な状態にムーブメントされる。

そして「いのち」と「名」づけられた状態を生きるのです。

 

「生きる」というのも南无阿弥陀仏にムーブメントされるのですから「動かされる」というあり方です。

 

難信ですから「難しそう」に思えますが、かんたんです。

 

このシステムを受け入れて「南无阿弥陀仏」と称えて五念門の讃嘆に生きていれば、自然とさとりが見えてきます。

これが「観察」です。

 

親鸞さんが和讃の最後に「名号」の「名」は因のときのもので、「号」は結果であるといっています。

 

さとりへの原因事項は「名を代える」その結果「号(喚ぶ)という慈悲(利他)」のものになるといっています。

 

この原因事項から結果へのプロセスが「念仏システム」を生きること、つまり讃嘆を中心に五念門を行じて生きることです。

 

 

 

 

 

わたしたち人間は「無明」というありかたに縁起した状態の「あるもの」です。

 

この「無明のあるもの」(ややこしいので以下「人間、わたし」と表記します。

 

人間は意思をもちます。

これを「行」といいます。

 

その意思の中で「認識」が生まれます。

 

ここでおもしろいのは、認識がうまれると「名」をつけます。

 

「パソコン、ボールペン、時計」など(わたしがいま見ているものを列記しました)

 

そして、わたしたち人間はなにによって「存在認識」しているか。

ここがおもしろいのですが、わたしたちは「かたち」で認識するのか「いろ」で認識するのかというポイントです。

 

じつは、「いろ」なんです。

それは2次元じゃないか。

そうです。じつは人間は2次元認識が原則なんです。

 

ふつうにテレビの映像を見ていますが、2次元なのに、3次元だと無意識に認識して見ています。

奥行きを感じる「絵画も写真」も同じです。

 

人間は左右の目で見て、奥行きや距離を認識するんですが、基本的に2次元認識なのです。

 

そしてそれは、「いろ」で認識しているんです。

 

だから「識」の次に「名色」とあります。

 

その認識を「眼耳鼻舌身意」の「六処」で「触」れる。

 

その「触」れたものからなにかを感「受」する。

そこに「愛」というとらわれが生まれるのです。

 

このとらわれが「わたし」に「取」をうむのですが、この概念は日本語では難しくて”have”のほうがより近い概念です。

 

日本語だと、とりつくというような表現になってしまい、微妙にちがうんです。

 

この”have”したものを「有」ととらえ、なにかが「生」まれ、「老死」という”ほろびのプロセス“を経ることに苦悩します。

 

この縁起は、そもそも無明を滅すれば、すべて滅せられる縁起なのです。

 

だから、無明あるがゆえに行あり。行あるがゆえに識あり。。。

という連鎖をするのですが、無明を滅するゆえに行滅し。。。

 

となっていくことを明確にした「人間のプロファイル」ですが、かなり正確に解析されているので、このプロファイルによるプログラムにしたがえば「真理」を生きるようになれて「苦」がなくなるのです。

 

ここで真宗のひとは、このプログラムが念仏システムに組み込まれていることを知るべきです。

 

なぜ「阿弥陀如来」の「名」なのか。

この「名」がなぜわたしをさとりに向かわせるのか。

 

親鸞は、このプログラム解析からも、念仏システムの中にあるさとりへのムーブメントの解析を完成させたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

36、仏教の本義は「葬儀」ではないのです。

 

◯これは「真宗の学者」さんが書いたものです。

 

「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」と聞いたら、驚く人が多いのではないでしょうか。実は、親鸞聖人は、常に仰っていたお言葉として、親鸞聖人の曽孫の覚如上人の『改邪鈔(がいじゃしょう)』に記されています。

【親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。】

近年、自分の死後の心配をする人が増え、人生の終末に向けての活動を「終活」といわれています。自分が入る棺を自ら選び、墓をどうするか、葬儀の規模や誰を呼ぶかの段取りまでする人が、増えているようです。

逝く人も遺族も、葬式・法事・墓などで、死後、迷惑をかけないように、みなの幸せを願うのが一般的ですから、この親鸞聖人のお言葉に驚き、どういう心で仰ったのか、その真意は、なかなか、想像できないものです。

覚如上人は、『改邪鈔』に、その真意を書かれています。

これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ葬喪(そうそう)を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし。

 

(意訳)

皆、肉体の葬式ばかり考え、それを教えているのが仏教だと思っているが、そうではない。仏法の智慧を最も重く見るのが仏教である。

葬儀を一大事のように思ってはならない。

「この肉身を軽んじて」は、「肉身を軽んじたほうが良い」という意味です。

 

こんなのもあります!

 

仏遺教経(仏垂般涅槃略説教誡経) ――姚泰三蔵法師 鳩摩羅什訳

原文訓読

 釈迦牟尼仏、初めに法輪を転じて、阿若 陳如を度し、最後の説法に須跋陀羅を度した もう、応に度すべき所の者は皆すでに度し訖って、沙羅双樹の間に於て、将に涅槃に入 りたまわんとす、是の時中夜寂然として 声無し、諸の弟子の為に略して法要を説きたもう。

 

 釈迦牟尼仏は、初転法輪において、阿若 陳如を悟りに導き、最後の説法では須跋陀羅 を悟りに導きました。悟りに導くものたちを全て導き終えて、沙羅双樹の間に横たわ り、まさにご入滅なさろうとしています。時は真夜中で、誰も話しをかわすこともなく静 まりかえっていました。(そこで、お釈迦様は)多くの弟子たちのために、最後に教え の大事なところのあらましをお説きくださったのです。

 

原文訓読

 汝等比丘、我が滅後に於て、当に波羅提木叉を尊重し珍敬すべし、闇に明に遇い、貧

人の宝を得るが如し、当に知るべし、此れは即ち是れ汝が大師なり。若し我れ世に住す

るとも、此れに異なること無けん。

 

訳  

汝ら弟子たちよ、私が入滅した後は、波羅提木叉(戒律)を、尊いものとして大切にし、この上ないものとして敬いなさい。暗闇で光明に出会い、また貧しいものが宝を得るようなものである。ぜひとも知るべきである、波羅提木叉(戒律)こそ、汝らの大師であると。

もし、私が生きていたとしても、同じことを説くだけである。

(この「戒律」を「さとりの智慧」としても同じである。)

 

原文訓読

 浄戒を持たん者は、販売貿易し、田宅を安置し、人民・奴婢・畜生を畜養することを

得ざれ。一切の種植及び諸の財宝、皆な当に遠離すること火坑を避るが如くすべし。草

木を斬伐し、土を墾し、地を掘り、湯薬を合和し、吉凶を占相し、星宿を仰観し、盈虚

を推歩し、暦数算計することを得ざれ。皆応ぜざる所なり。

 

 (私の説いた)浄い戒を守る者は、物を売ったり、貿易(物々交換)をしたり、田畑や家を所有したり、使用人や奴隷を使ったり、家畜を養ったりしてはならない。

種を蒔いたり植林したり、あらゆる財宝からは遠く離れるようにすること、火が燃える穴を避けるのと同じようにしなさい。

草木を切り倒したり、土を耕したり、地面を掘り返したり、薬を調合したり、吉凶を占ったり、星占いや太陽や月の満ち欠けで占ったり、暦についての占いもしてはならない。これらはみな出家者には相応しくない事である。

(これは教行証文類の「化身土文類」にも同じようなことが書かれています。)

 

原文訓読

 身を節し時に食して、清浄に自活せよ。世事に参預し、使命を通知し、呪術し仙薬 し、好みを貴人に結び、親厚 慢することを得ざれ。皆作に応ぜず、当に自ら端心正念に して度を求むべし。瑕疵を包蔵し、異を顕し衆を惑わすことを得ざれ、四供養に於て量 を知り足ることを知って、趣かに供事を得て畜積すべからず、此れ則ち略して持戒の相を説く。

 

 身を慎み、午前中に食事をとり、清らかに生きなさい。世の中のことに関わったり、 上からの使いの役目などをしたり、おまじないをしたり、よく効く薬だと言ったり、高官や貴族と知り合いになって交際したり、馴れ馴れしいことを自慢してはならない。

みな行うべきことではない。修行者は心をまっすぐ保ち悟りを求める念をしっかりと持ちなさい。

過ちを隠したり、奇跡を顕して人々を惑わすことをしてはならない。四供養 (四事供に同じ、飲食・衣服・臥具・医薬)において量を知り足ることを知り、少しだけ頂戴し、余分に蓄えてはならない。これらが戒を保つということなのである。

 

☆こういった内容は「親鸞」にも通じていて、「戒律」とあることが、「仏の願い」という「智慧」に置き換えれば、「真宗」の教えは、こういう内容を「踏襲」しています。

この中に「経済活動など、私たちが日常的にやっていること」にも触れられていますが、

これは、「世俗の価値観」よりも大切なことが「仏の智慧と慈悲(仏願)」に生きることだと解釈していいでしょう。

 

◯自灯明、法灯明

お釈迦様の晩年のことです。各地に遊行の旅の最中、お釈迦様はたいへんひどい病気にかかられました。この時、お弟子さんたちはお釈迦様がもしお亡くなりになったら、あと誰をあてに頼りにしたらよいだろうかと心配になりました。このことを察知されたお釈迦様は、お弟子さんたちに次のようなお話しをされました。

 「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとし、他のものをよりどころとせずにあれ。」

 『大般涅槃経』というお経にでてくる「自灯明、法灯明」という大変有名なお言葉です。

 ここでお釈迦様がおっしゃる「法」とはものの本当のあり方のことです。例えば、すべてのものは、刻々と変化し、永遠に続くものは一つとしてありません。この疑いようのない事実が「法」です。

お釈迦様は、このことを「一切は無常」と言われました。

また、全てのものは、よりあ って、ささえあって成り立っています。この事実が「縁起」という「法」です。これらのことは「誰もが認める普遍的真理」にほかなりません。

しかし、私たち人間は、この明白な事実でも、自分自身の事となると、これを認めようとしません。人は死んでも、自分は何時までもこのままだと思っています。これが迷いの原因です。

お釈迦様は、自分だけは例外とする、自己中心的な誤りに気づき、迷いから脱出するには、「法」の真理に考え方の根拠をおくことが大切だと言うことを「法を灯明とせよ」 という言葉で教えられたのです。

 

◯こういうのもあります。

ブッダの最後のことば

 

尊い方よ

修行完成者のご遺体に対して

われわれはどのようにしたら

よいのでしょうか?

 

アーナンダよ

お前たちは

修行完成者の遺骨の供養(崇拝)に

かかずらうな

どうかお前たちは

正しい目的のために努力せよ

正しい目的を実行せよ

正しい目的に向かって怠らず

勤め 専念しておれ

(以上)

ここの129も読んでみてください👇

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku4

 

そもそも「先祖供養」は👇

中国の道教ではと魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀阴(陰)、容贼(吝賊)、非毒、除秽(陰穢)、臭肺」とされる事もある。)

 

儒学(すなわち公式な学問)の解釈では、張載(11世紀)の鬼神論を読んだ朱子の考察として、世界の物事の材料は気であり、この気が集まることで、「生」の状態が形成され、気が散じると「死」に至るとした上で、人間は気の内でも、精(すぐ)れた気、すなわち「精気」の集まった存在であり、気が散じて死ぬことで生じる、「魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」といった現象は、気が散じてゆく姿であるとした[1]。この時、魂は「神」に、魄は「鬼」と名を変える(三浦国雄『朱子集』朝日新聞社)。この「魂・魄」から「神・鬼」への名称変更は、気の離合集散の原理の解釈によるもので、気がやって来るのは「伸」の状態であり、気が去っていくのは「屈」の状態であるとして、気の集散=気の伸屈・往来と定義したことから、「神」は「伸」(シン)に通じ、「鬼」は「帰」(キ)に通じ、元へ戻る=「住」(向こうへ行く)となる。ここに、鬼神=気の集散の状態=魂魄と至る。

「気は必ず散るものであり、二度と集まることはない」と儒学では定義しているが、これは仏教における輪廻転生という再生産を否定するためのものである。

ただし、子孫が真心を尽くして祀る時、子孫(生者)の気と通じ感応することで、この世に「招魂」されるとする。

一度、散じた気=魂魄は集まらないとしつつも、招魂の時は特別とする、この一見して矛盾した解釈こそ重要であり、この説明がなければ、祭祀の一事を説明できなくなるためである。この現象に関して、後藤俊瑞は「散じた気が大気中に残存し、再び集まり来ることを許容するものである」としたが、この矛盾した解釈をめぐっては、日本の朱子学者を悩ませる種となり、林羅山に至っては、「聖人が祭祀を設けたために、鬼神(=魂魄)の有無を半信半疑(中立的な立場)にならざるをえない」としている(『林羅山文集』巻三十五・祭祀鬼神)。これが因となって、日本近世では、無鬼論者[2]伊藤仁斎)と有鬼論者(荻生徂徠)に分かれた。

 

また

中陰法要(忌明け)後、命日から100日目に「百ヶ日」の法要が行われるが、この「百ヶ日」と「一周忌」、「三回忌」の3つの法要は、中国儒教の祭祀の影響によって付加されたものである。これは、亡者が「初七日」 - 「七七日(四十九日)」と「百ヶ日」を含めた8つの忌日と、「一周忌」、「三回忌」の2つの年忌の、合計10度の時点で、冥界の十人の王に審判を受けるという「十王信仰」に基づいている。その審判の時に、遺族による追善供養による功徳で、亡者の審判に資することを期すのが、忌日と年忌の法要の目的である。三と七の数字は儒家の三魂七魄に基づいているように、この十王信仰は本来は仏教のものでなく、中国で生まれた信仰だったが、宗教混淆の中で中国仏教が採り入れたため、道教と中国仏教とが十王信仰を共有することとなった。

「七回忌」以降の法要は、日本で独自に付加されたものである。十二支が1巡する事に基づく「十三回忌」と2巡した「二十五回忌」や、三と七を重視した七回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌・三十七回忌・四十三回忌・四十七回忌や、五十回忌(以後50年ごとに百回忌、百五十回忌…と続く)を行うことも始まった。五十回忌からは遠忌(おんき)というが、特に、宗祖や中興の祖、その寺の開山などの僧などの五十回忌以降の年忌を遠忌と呼ぶことが多い。また民間信仰では、三十三回忌を弔い上げ、あるいは、問切りと称し、死者がホトケ(仏陀の意味でなく死者への敬称)から「神様」となる、または「ご先祖様」に仲間入りする等と考えられていることが多い。

また日本では11世紀以降に上述の十王信仰が広まったが、鎌倉時代になると十王の各王を垂迹と見てそれぞれの王に本地となる仏菩薩を擬定するようになった(従って中国仏教の十王信仰には本地仏はない)。その後、江戸時代になると旧来の十王信仰に「七回忌」「十三回忌」「三十三回忌」の分として新たに三王とその本地三仏が加えられ「十三仏信仰」が生まれた(十三仏信仰とは、十三回のそれぞれの法要の時にその仏菩薩を本尊として法要を行うというものである)。

 

☆「浄土真宗」は、このような形式を「踏襲して」いますが、まったくこのような意味を持たず、

「釈迦仏教」に寄っていますから、あくまでも「法要」は、「仏の智慧慈悲を学ぶ」「法縁」(仏法に会い深める縁)という意味で行われます。

 

また、このような「中国の思想」が元になって、「日本仏教の三回忌、七回忌」という「三、七」の由来になっているという説があるようです。

 

☆これらを読んでいただくと「釈迦」の仏教が、中国で「儒教」などを取り入れて「先祖供養」のようになってきたけれど、「親鸞(浄土真宗)」は、「釈迦」の仏教に、「仏教を戻している」ということが明確です。

このことは、「親鸞さん」が書いた「教行証文類」の内容を学べばさらに「明確」です。

 

☆年回早見表をリンクさせていただいています‼️

http://www.saikouji.com/CalNenki.html

 

 

 

 

 

35、お経をわかりやすく日本語にしたらどうですか?

 

なんてよく言われますが「ムリ」なんです。

「親鸞さんがこう言った」とか、「お釈迦さんがこういった」とか、

「確定できない」からです。

そもそも「学派」があるように、解釈によってどうにでもなるからです。

Aは、「より正確に」と気をつけて、解釈や講義を書いていますが、

これとて「正しい」と「確定」できません❣️

何が正しいのか「確定できない」ということが「正しい」といえます。

 

 

 

 

34、店舗を増やす会社は儲かってないケースが意外に多い。

 

なぜか?

33のような状況で「借りられる会社」は、資金繰りが「銀行依存」になっている可能性が高く、

つぎの店舗展開をする理由で借り入れして、「借りた金額の何%かを残して」展開し、

「残した数字」を「経費」に使う。

っていうケースが意外に多いんです。

「困っていない」体裁で「借金する理由」を作る。

こういうケースはよくあって、銀行もわかってて貸してるケースがあるようです。

 

 

 

 

33、世俗の苦(資本主義のしくみと日本の苦)

 

日本人はものと数字を分けるという概念が理解できない人が多いので、結果、陰謀を待つまでもなく、どこも長続きしな仕組みになってることに気づきません‼️

 

兌換紙幣から不換紙幣に変わっていくプロセスにRCが深く関わったので「資本主義システム」が戦争の道具になりました。

 

実際に今でも世界中に各種通貨ががどれだけ流れているか、把握している機関や機構はありません。

アメリカにせよ、中国にせよ、公表されている経済状況は「すべて作り事」って言えるようなものですから、事実は誰にもわかりません。

市町村のお金でも「何にどう使われてるか?」ほぼ気にしないですよね。

自分の働いてる会社でも「決算書」を見てる従業員はほぼ居ない!

 

アラブの石油があと何年続いて出てくるのかなんてことも、誰にもわかりません。

 

そういう点でも、石油のある「もともと生命(有機物)が住んでいた大陸」は、

規模としてユーラシア大陸ですから、中国やロシア

(ここはすでにかなり掘ってます)が重要なエリアになります。

 

また、話しは変わるようですが、「ファンド」←これがややこしいんです。

 

まじめに仕事をしても「ファンドがないと赤字になる」ように、税制と融資システムがあります。

例えば、100万売って、30万粗利があっても「経費」や「消費税額」を引いて

「残った利益から」←ポイント

「金利というめんどくさいものが乗っかって返済をして」←ポイント

いよいよ残った中から「《返済額を含めた》利益金額のほぼ半分は税金でとられる」←ポイント

 

「経費」から「返済して」そこから残った数字が「利益」なら「税額」は減りますが、

「返済は利益から」という原則が「経営を苦しめる」

だから、「税金を払うための借り入れ」っていうシステムがある!

「なんで借金してまで税金を払うのか?」

そういうシステムなんです。

 

結局は自転車にならざるを得ない。

日本の中小がどんどんシンドくなって潰れるのは「そもそも潰れるシステム」だからなんです。

「返済」が「経費扱いにならない」というのが、まずもって「おかしい部分です」

しかも、苦しいところほど「金利が高い」

みなさんが銀行にお金を預ければ預けるほど「銀行には運用キャッシュは増える」けど

銀行の決算書上には「負債」が増えるだけになるんです。

みなさんの預金は「銀行からすると借金になる」んです。

 

「金利」で稼ぐのが「もともと銀行の利益」だから「貸したい」けど、

「優良先」は「借りない」から「金利安くしてでも借りてほしい」

「要注意」のケースは、「倒れても数字でごまかせるほど金利を高くして貸す」

これが、銀行のジレンマです。

最近は「投資信託」なんかを売って「手数料」で利益を上げるようにしてても、

「銀行員」が「投資」なんかうまく売れないし。。。「売る金融商品も。。。」

 

って銀行も苦しい‼️

 

また、国家は「賃上げしろ」といい、「給与」という「固定経費」がかさむ。

だから「派遣」で「流動経費」にする。

 

「税率が高すぎる」

 

また、流行に変化をつけて「昨日まで売れてたものが売れなくなる」システム。

これも「中小潰し」のシステムです。

消費者の嗜好が変わっているのではないんです。

消費者の嗜好を変化させるシステムがあるだけです。

 

「仕入れにお金がいる」

これは「ものを売る」以上どこも同じです。

 

「製造のための機械を導入しなければ、仕事を請け負えない」

これは「製造業」が陥るポイントです。

「下請け業者」に「明日から違うものを作るから」って「大企業」にいわれて、

そのための「機械を買う」けど。。

「やっぱり変更になりました」って大企業からいわれたら、

「機械を買ったのに。。」ってなる。

 

カシコイひとは「システムやノウハウを売る」これは利益率が上がります。

 

しかしそれ以前にある「ファンド」って?

ファンドがしていることは、「現物のやりとり以外のお金(数字)のルートを作る」こと。

いるときに蛇口をひねれば「出てくる数字のパイプ」そして現実の売り上げで、パイプに戻せる時に戻す。

この主導権をとって「数字のやりとりをして、企業の主導権をとる」のが「ファンド」という、

一般的に意味不明な存在でありシステムです。

大企業が大規模店舗を作って「普段のお客は少ないのにこんなんでやれるのか?」って思うでしょ。

「やれなくていい」んです。

「お金を使わせて、ファンドの出資比率があがる」からです。

 

「将来的にポイントになる地べたを整地させて、いざという時には別のものにできるからとりあえずその地べたを抑えるための出店」なんていうのもあリます。

 

では、なぜ「外資ファンド」はそんなに「マネーを動かせる」か。。これはここにはかけません。

 

とにかくいくら株式上場しても、ファンドがないと難しいんです。

しかし中小企業にファンドはつきません。

 

だから、カシコイひとは「自分たちでファンドを作る」んです。

そして、ファンドの数字で「商売とはべつに《資産形成》する」んです。

 

「マンションの一室を買って、部屋貸しする」(これは運営がまま難しいですけど)

「本当に本物の金やダイヤを買う」(決してニセモノをつかまされないように)

「外貨」に変える。(どの通貨がいいのかが重要)

「マジ資産といえるレベルの地面を買う」(10年スパンで都市計画などを検討して選ぶ必要がある)

などですが、

「株式投資やFXや仮想通貨」などの現物のないものは危険です。

「資産はあくまでも現物原則」です。

そして重要なのは、

「人材を育成して、このようなことを受け継ぐ人をつくる」ことです。

こういう「数字と物の動きはべつで考える」ということの意味を知らない日本人は、

「ホワイトカラーもブルーカラーも」苦しみます。

 

論理的な思考で世の中のシステム分析ができないと、こういう論理がわからない。

 

なぜ「自転車」になっていくのかわからないまま沈んでいるのが日本の中小です。

 

じつはこういうことは「聞く耳を持つ人にしか教えない話し」ですが、

あえて書いておきます。

 

フィクションって思っていただいてもけっこうですけど❣️

 

 

 

32、世俗の事実‼️

 

よく「煩悩」について、「思うようにならない私のエゴイズム」みたいに解釈しますが、

実際には、「思わされているようにならない」ってことです。

「思わされてる」ってこと。。

じつは「煩悩」を動かしているのは「本人以上に、DNAだったり、環境だったり、教えられたことや情報だったり」というのが事実ですから、「ムレ」が生み出すのです。

 

今日たまたま会話してたんですが、「商店街の衰退問題」について、

ほぼ、ほとんどの人は「大規模店舗が増えたから、潰れても仕方ない」っていう状況が、「自然な社会現象」って思っていますが、平成に入って、「大規模店舗法」が変わったからなんです。

 

それまでは「商店のあるエリアには大規模店舗は作ってはならない」っていう法律で商店を守ってきたのに「外国の指示」で、この法律を変えられて、「どこに作ってもいい」ってなったから、商店が潰れるのは当たり前で、国は潰れる法律にしながら「商店街問題」なんていうてる。

 

「自然な社会現象」ではなく「作られた社会現象」だって知らない。

 

だから本来「報道すべき」は「どんな法律が決まったか」であって、「カケイ問題」なんかじゃない。

けど、報道が操作されて、そんなことばかりに踊らされてる。

 

「フリーター」も「雇用に関する法律」や「労働者保護」と「中小企業の人件費問題」を変えて「税金と借り入れ返済のマジック」によって「売り上げや利益をあげられない中小企業経営のワナ」を利用し「終身雇用」をあいまいにさせ、同時にそれまでかなりの規制があった「派遣業」をゆるくした。

 

国は外国のいいなりになって「法律を変えて社会現象を起こしている」のに、

「雇用問題対策」なんていうて、「国民のことを考えてるフリ」の方を報道する。

 

こういう世俗の状況が「煩悩を動かしている」のに、法話で煩悩を「個人の問題に帰結させて」も「坊主は世間知らず」ってなる。

 

こういうことを知ってる人は結構いるから、「法話集」を眺めてても「アホらしくって仕方がない」って思う人も多い‼️

 

坊さんは世俗の現実も知る必要がある❣️

って思いますけど。。。

 

 

 

 

31、浄土真宗系の枕経(臨終勤行)の際に唱えられる。。

(難しいとこは飛ばし読み下さいませ)

 

『流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者』という短い偈文の意味は。。

 

三界の中に流転して

恩愛断つことあたわずとも

恩を棄て無為に入るならば

真実に恩に報いる者なり 

(「清信士度人経」四分律行事鈔・巻下四)

 

迷いの世界を輪廻している間は、恩愛を断ち切ることは難しいけれど、思い切ってそれらを棄て、仏道を歩む決意をすれば、真実に恩に応えることになるということですが。。。

それは、この娑婆世界を生きていくには、親の恩や肉親の愛情など、どうしても絶つことのできない絆やしがらみがありますが、

その絶ちがたい恩愛を棄てて、「無為」に入るのが真実の「報恩者」だという意味です。

 

こういう点からしても、世俗と仏道は、報恩の意味が違い、

《基本非常識》なもので、それは《真実の深み》を表します。

 

 

って、投稿してて、今日は一日どんだけヒマやねんって感じです。もう寝よ!

 

 

ーーーーー一1年前にFBに投稿してました。。

 

 

30、成功って。。

世の中で「成功者」っていうのんを「儲けた人」っていうてるけど、そもそもどうやら「功徳荘厳成就」から来ていて、「願いが実現すること」っていう意味らしいんです。

 

俗世間でいえば、お金儲けではなく「思いを形にして現実の公益に資することを成功という」というらしいんです。

京都あたりでは、「成功」はそういう意味で今でも定義されているようです!

 

だから、世俗でいう「失敗」もそこから学んで「功徳荘厳成就」の「菩薩道を生きる」ことで「利他行」が現実化する「糧(かて)」になれば、それも「仏縁」で「成功」へのプロセスってことになります。

つまり「失敗」と言われるような状況も「利他行」に転換すれば「成功」なんです!

「失敗」と「成功」は対立概念ではなく「功徳荘厳成就」のうちにあるんです。

 

そうやって「俗」にありながら、「仏道」を生きていけます❣️

 

ようは、「お金がどうこうってのは《資本主義の仕掛け》」なので、「あなたが失敗であれなんであれ」「菩薩道を歩み、菩薩の願いを生きて、利他を行じれば。。」

《あなたはすでに成功者》なんです❣️

 

 

 

 

29、畜生って。。

仏教で「獣のこと」を意味する場合がありますけど、たしかに人間の多くは。。

「大脳の前頭葉(智慧)を使う」ことなく、「扁桃体(情)」優位で動く人が多いようです。

「人間の多くは”情”と”権力"で動く」のは、ほとんどの場合「そうですね」って感じですわ!

そういう人間が「智慧」で動き「慈悲」を行じるっていうのが「仏教」ですねん‼️

 

 

 

 

28、お寺は。。

宗派で探すパターンと、住職などの人がらで選ぶパターンと、金額で選ぶパターンがあるようですけど。。

お寺の世代交代で変わらへんのんは、ほぼ《宗派》ですわなぁ。

だからって「真宗がよろしいでっせ」ともいいまへん❣️

総合的に選ばはったらいいんちゃいますかねぇ。。

 

 

 

 

27、除夜って夜(迷いの闇)を除く。

修正会(しゅしょうえ)って、闇を除いて仏教にリセットし直すこと❣️

 

 

 

 

26、論を深める【真の楽】

 

①「差別」ってありますよね。

②そもそも平等でしょ。

③平等って競争社会で成り立つでしょうか?

④競争社会でいう平等は平等ですか?

⑤じゃあ真の平等って?

 

というふうに論を深める会話をしていますか?

単純に②ぐらいで終わっていませんか?

 

気をつけてください。。

「情」だけで考えると論は深まらないのです。

あくまでも「探求」するという「知」がメインにならなければ深まりません。

 

論を深めることで、多元的に物が見られるようになり、「真の楽(法楽)」が得られます。

これを「仏の智慧」「慧眼」といいます❣️

「慧眼」を持ち、「法楽」なひとを増やすことが「慈悲」というあり方です。

 

 

 

 

 

25、人間も電気仕掛け

 

人間の脳は電気信号で動いています。

神経伝達は基本が電気です。

心臓だって身体だって全て電気信号が基本です。

 

ただシナプスとシナプスの間は、神経伝達ホルモンによりますが、

 

基本は電気信号です。

世の中は、いのちといえども電気や電子、電磁波で成り立っています。

そしてそれら全てが「量子」で成り立っています。

 

だからこういう側面から見ても、

人間は自然界から生まれた「無我」な存在だとするのが、真理であり、

「量子の場」にある「不確定な存在」だと言えるのです。

 

 

 

 

24、キリスト・ユダヤ教と仏教

 

ユダヤ教で死後はどうなるか?

 

ユダヤ教にもいくつか派閥があって、ユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代誌」によると、霊魂不滅の教義を持っていたのはエッセネ派とパリサイ派だそうです。特にパリサイ派に関しては、悪しき魂が永久に入れられる牢獄つまり地獄の存在を信じていたそうです。
ですが、本来ユダヤ教には(天上パラダイスとしての)天国も地獄もありませんし、死と同時に霊魂が消滅するとしていました。死後どうなるかについては以下の聖句のとおりです。

伝道の書9:5-6
『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。』

 

Yahoo知恵袋から

 

霊魂の問題は置いといて。。

 

ユダヤもキリストも「無」になることを怖れますが

仏教は「無」を本来としているという面白い違いがあります。

 

みなさんはどっちでしょうか?

 

 

 

 

 

23、輪廻転生その2

 

地獄は苦しみの世界だから怖い?

人間界も苦の世界だから生まれ変わった時には人間界はイヤ?

 

なんでもいいけど、現実目の前に武器を持った人がいて、

何が怖いのでしょう。

 

刺されたら痛い?

死ぬかも?

 

でも輪廻を信じるなら生まれ変わるんだから、

結果死ぬわけじゃない。

 

いわば永遠のいのちをめぐるだけ。

地獄に行ってもまた生まれ変わる。

 

無になることが怖いのでしょう⁇

 

でも、ブッダは無になることをよしとしたんです。

滅を求めたんです。

滅を「滅ぶ」と読むとマイナスイメージですが、

「入滅(さとり)」と読むとプラスイメージになります。

 

 

 

 

 

22、お金に好かれる財布のCM

 

「お金が儲かる財布」

「お金に愛される財布」を買う人は、永遠に儲かりませんし、お金に愛されもしません。

 

なぜか日本人は、このロジックにハマります。

たいがいのケースでは、占い師などが関わって「広告」していることも、

理由のひとつでしょう。

 

しかし、

 

お金が儲かる方法というセミナー自体が「主催者」を儲けさせているのに、

あれこれと「同じようなセミナー」に参加して「お金を失って」いきます。

 

ビジネスでお金を手にする方法は単純です。

 

「買ってください」といえるか、

いえないから「ロジックにはめ込む」かということです。

 

これを「クロージング」といわれますが、

クロージングの一歩前まではできるのに、肝心なクロージングが出来ないひとが多いんです。

 

次の2つのポイントを心がければ、クロージングは簡単です。

 

1、この「顧客」に売ると「この顧客は生きられなくなる」と思われるひとには「クロージング」以前に営業しない。

 

2、ここで、適正価格と定義した金額を「この顧客が支払ってもこの顧客の生死に影響はない」と思うひとには、クロージングまでもっていき、「買ったほうがいい」とハッキリいう。

 

この2つのポイントだけで売れます。

 

☆もちろん悪徳商法だと思うようなことはしないことが「大前提」です。

 

 

 

 

21、みなさんお考えください。

 

なぜ身分証(ID)として使える、保険証に写真がないのか?

免許証、パスポートには写真があるのに。。

 

 

 

 

20、存在しない子どもさんの増加!

 

子どもが出来ても「届けを出さない」ために、《行政サービスが受けられず、学校にも行けない》というお子さんが増加して、「読み書きできないお子さん」がいる。

 

こういう現実の中で、そういうお子さんを集めて教育しているひとがおられるという状況があります。

 

そのような活動は見えないけれど大事なことです。

 

そして、これを「親の責任、問題」として、そういう「親」が「犯罪者なのか、障害なのか」といったことがいわれています。

 

これは、18にも書きましたように、「社会の問題」であり、「社会現象」です。

 

「親」の責任にするなら「そういう親を誰が育てたのか」という問題にもなります。

 

いわゆる”バブル”を生きて、キッチリ退職金ももらい、年金ももらっている

「勝ち逃げ世代、死に逃げ世代」

(これはわたしの造語ではありません。実際に今の20代のひとたちから教わったコトバです。)

 

という皮肉な「表現」にもあるように、「若い人が社会適応できない状況」が作られています。

 

わたしの周囲の勝ち逃げ世代のひとの中に《ハッキリ》と「次の世代のことなんか知らん!」といいきるひとも意外と呆れるほど存在します。

 

正直「それほど社会の波風を受けずにうまく生きてきた世代」の方がたは、

「社会的にも恵まれた時代」だったという事実を知る必要があります。

 

あえて「無礼ないいかた」をさせていただきます。

それほど【現代は深刻】なのです。

 

「今の若いもんが怠けてる」と解釈してはいけないのです。

 

そういう社会現象が起こっていることを”その世代のひとも含めて”

多くの人がまず知ることが重要と思っています。

 

こういうことでも「困っているかた」はどうぞご相談ください。

 

 

 

 

 

19、智慧と智恵と知恵の定義。

知恵は、善悪含めて世渡りする思考構造。

 

智恵は、世間的な価値観により、”よりいい方向”に向かおうとする思考構造。

 

智慧はさとりに基づき、善悪含めてあらゆる知識(情報=部品)と知恵(構造=しくみ)を使って、無常、無我という「究極の楽」に誘導される思考と構造。

 

現代的にいえば「データとアルゴリズム」のようなものです。

 

善悪含めて情報を取り入れて、無常無我を前提とした「マジな和合」をつくっていく「意思と行動」ということで、これを「万徳」といわれたり「行」といわれたりします。

 

 

 

 

 

18、あなたの煩悩を動かしている犯人。

 

あなたを苦しめ、あなたを動かしているのは、あなたではありません。

 

社会通念や情報です。

もちろん「陰謀」もあります。

これは、市町村でも「有力者のチカラで行政が動く」というレベルでもあることです。

 

それらを選別するためにこそ、有益なものが「仏教」です。

 

さとりの【智慧】です。

 

だからブッダは「自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ」と教えています。

 

 

 

 

 

 

 

17、煩悩の使いかた。

 

煩悩が悪いという定義が「大乗仏教」では「煩悩即菩提」というように、

その扱いかた次第であると「教えて」います。

 

そもそも「煩悩」は人間が生体を「守る」ための「防衛機制」です。

 

その使いかたは「ダイナマイト」と同じで、《ノーベル》がこの発明を[悪]に使われないように願ったのと同じです。

 

煩悩の良さがわかってくるのが「大乗仏教の基本」です。

 

仏教全般にわたっては「煩悩を調伏(ちょうぶく)する」といいます。

「煩悩の自己コントロール」です。

 

 

 

 

 

 

 

16、念仏で本当に”破我”されるのか?

 

されますねぇ〜❣️

こんなことをいっても信じてもらえないかも知れませんが、

 

わたしはもはや《中神章生》である必要もなく、ただ自然に書いています。

 

日常的にも中神章生という仮名人が称賛されてもうれしくもありません。

悪口をいわれてもストレスにもならず、お金がなくっても、媚びてまで布教に行くつもりもないのです。

生活水準は落として行っています。

 

先日も「毎日カップ麺」でいいけどって、ある人にいったら怒られましたが、

マジマジそう思っています。

 

ただ生きているという状態にあるだけです。

 

そういう状態は「面白くない」という方は、そもそも仏教を学ばれない方がいいと思います。

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

15、お釈迦さんの妻

の顔や姿のイメージがつきません。

 

いろいろ学習しても、イメージできません。

 

そもそも結婚して子どもがいて、釈迦族という小部族の存続を担っていたのに、出家してしまったのです。

 

このことを認めた《お釈迦さんの妻》って「スゴイ人」だと思います。

 

結果、その妻も子どもも「弟子になった」っていわれていますが、なんか”つじつま合わせ"のようで、あまり納得できませんが、そうなのかも知れません。

 

とにかくこの「出家」で釈迦族も崩壊します。

 

ある「学生(がくしょう)さん」から、「無常」を説き、部族まで崩壊させた「お釈迦さんの教え」を伝える「寺」が存続を「守る」っておかしくないですか?

 

って言われました。。

みなさんどう思われますか?

 

寺院を守るために”イヤイヤ”住職になったひとも、そうじゃなくて《真面目》に住職してるひとも、「自分の生活や立場」と「寺院を守ること」とどちらのバランスが大きいのでしょう?

 

こんなことを書くから、嫌われるんでしょうけど。。。

 

 

 

 

 

14、念仏と名号

みなさんご存知の「南無阿弥陀仏」と(唱)称えることを「念仏」といいます。

《(唱)の唱えるは、真宗以外で用いられます。》

 

一般的に「浄土宗」や「浄土真宗」などでよく(唱)称えられています。

 

しかし、この「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏」が「あなたを救う!」と喚んでいる喚び声であり、

その喚び声に「南無」するという意味で「南無阿弥陀仏」と(唱)称えるという解釈や、

阿弥陀仏に救って欲しいと懇願するために「唱える」というように、宗派によって解釈が変わります。

 

いずれにしろ、そういう「意味」をもって(唱)称えられています。

 

ただ無意味に「なんまんだぶ」と言っているわけではありません。

 

そして、となえられている「南無阿弥陀仏」を「名をもって号する」(喚び声)あるいは名乗ると意味づけて、「名号」と言われています。

 

 

 

 

 

13、死者は迷うか?

このことについて重要なポイントは、だれが「死者の迷い」を定義できるのか。

逆に「迷っていないと定義できるのか」ということです。

 

しかし、このだれにも確定できないことを「霊能者やある種の能力者」が「定義した」として、それが「正確」であると、あなたが判断できない以上、結果「あなたの迷い」でしかありません。

 

日にちの良し悪しや方角の良し悪しなど、日常的にも「確定できないこと」にこだわることを、ブッダは「お遊び(戯論)」であると言っていて、所詮はその人の「迷い」でしかないといっています。

 

その「わたしの迷い」をなくす教えが、「仏教の智慧」です。

 

 

 

 

12、お坊さんと座禅

お坊さんは、みんな座禅をしていると思っておられる方々がおられるようですが、基本的に禅宗以外は「座禅」はしません。

 

天台宗や真言宗にも「瞑想(三昧)」はありますが、座禅とは意味が違っています。

 

特に「浄土。。」とつく宗派には座禅や瞑想はありません。

 

外国人の方が「浄土真宗」よりも「禅宗」に興味をもたれるのも、「座禅」が”仏教らしい”からです。

 

 

 

 

11、葬式と数珠

数珠とか念珠は「葬式や法事」に持つものって思っているかたも多いでしょう。

もともと念仏を唱えた数を数える「数珠」でしたが、数にこだわらない「真宗」では、

「仏心を念ずる」念珠と呼ばれます。

 

玉が煩悩をあらわして、親玉の仏心がヒモとして貫くとか、

玉は人間をあらわして、親玉の仏心が繋ぐとか、

 

いろいろいわれますが、仏を礼拝するときには「持つもの」とされています。

だからって「忘れた!」っていうときは、そのままでもいいんです。

 

 

 

 

10、いろんな宗派と真宗。

日本の仏教には、いろんな宗派があって「お守りやおみくじ」があり、テーマパークのように楽しいところもあるんですが、「親鸞さん」だけが、真実と仮のものと偽物を明確に分けておられるので、真宗寺院にはお守りもおみくじもなく、閉鎖的で「おもしろくない」ので、本願寺に行ってもおもしろくないんです。

 

でも、純粋仏教を守っているという点では「ほかに類」を見ません。

どうぞ、本願寺で純粋仏教寺院の静寂を感じてください。

 

 

 

9、迷信と俗信

葬儀を「友引」に出さないなんていう「迷信」があります。

「友だちを引っ張るから」なんて、ど真剣に信じてるひとがいるから驚きます。

 

「おまえに引っ張られて死にたくない」なんて、亡くなったひとが聞いたらどう思うのでしょう。

 

六曜の意味も「ともにひっぱる」「引き分け」を意味していますが、

そんな意味を含めて、そういうこだわりってナンセンスもいいところです。

 

日にちが「いいとか悪いとか」そんなことにこだわる必要は全くありません。

 

お塩をまくとか、葬儀にまつわる「迷信と俗信」ってめちゃくちゃ多いのです。

 

どうぞ、住職さんに確認して「よかったね」といえる「葬儀」をしてください。

 

 

 

 

 

 

 

8、真宗の仏壇がキラキラなワケ

真宗の仏壇は「浄土」をあらわしているといわれます。

 

だから金色(こんじき)が基本だったんです。

いわゆる浄土を「観察」し、「浄土」という異次元との接点だったんです。

 

とはいえ、現代では「大きくてジャマ」な「高額なもの」でしかなくなってしまいました。

 

「現代仏壇」もありだと思っています。

 

 

 

 

 

7、数珠か念珠か?

むかしは、念仏する回数を数えるために「珠」をつかっていたので、「数珠」といいました。

まだ真宗などのない時代です。

 

真宗は念仏の数を問わないので、仏心を念じる「念珠」といいます。

 

いずれにしてもこれもなぜか「宗派」で形状が違います。

いっぱん向けっていうのもありますが、やはり宗派色の違うものに敏感に反応するのはお坊さんです。

 

また数珠を「ジャラジャラ」こする宗派もありますが、神秘を演出しているだけです。

 

真宗は長い念珠をもっても、こすって「ジャラジャラ」しません。

 

真宗は神秘を嫌うのです。

 

 

 

 

 

 

6、お寺で結婚式

 

昭和のなかごろまで、結婚式はおうちの仏壇の前でやっていたってご存知ですか?

もちろん地域による違いもあるのでしょうが、およそほぼ全国的なことです。

 

理由はよくわかりませんが、いつしか神前になり、キリスト教会式になり、人前式になって、

最近では、写真だけっていうのもあります。

 

これってオシャレ感から安くめんどくさくないようにっていう変化なんだろうと思います。

2人のこと”に親族だのなんだのってめんどくさいっていうひとも増えてるようです。

 

そもそも、式場に仏式の設備がないのも困ったもんですが、お寺で結婚式して、披露宴会場に移動してっていうのもいいですよ。

 

お寺はビジネスじゃあないんで、費用は交渉次第ですし、以外と安くつくかもです。

そしてなにより「おごそかでいい雰囲気」です。

 

写真どりもお寺でってこれもいい感じです。

 

意外とお寺の風景はけっこういけてます。

 

お寺での儀式は、葬式だけじゃないんですよ。

おススメです❣️

 

 

 

 

 

 

5、お葬式の導師はだれですか?

 

大事なことはこういう点です。

お葬式の導師は「亡くなったかた」です。

 

これも同じお西でもエリアや習慣で解釈がかわりますが、経典などに明確な根拠がないからです。

 

以前わたしは空華の先生に教わりましたが、「お葬式の導師」は亡くなったかたです。

お坊さんは「代導師」です。

 

教義上「亡くなると同時に成仏し「阿弥陀如来と同じ」になるので、こういう結論になります。

 

だから、お棺には本来は七条袈裟をかけて修多羅をのせるんですが、わたしのエリアでは修多羅のみのせます。

 

また、お棺に南无阿弥陀仏と書いた紙をいれますが、これは「このかたは南无阿弥陀仏です」という意味であり、阿弥陀如来に抱かれているさまをあらわしたものではありません。

 

とはいえ、状態は人間の形ですが、「法性」に至られているので、わたしはそのままで「南无阿弥陀仏」をいれません。

 

一般のかたには難しい話ですが。

 

大事なポイントです。

 

みなさんの親しき「亡くなったかた」こそ「お導師」です。

 

 

 

 

4、お焼香の回数と意味。

お焼香の回数。。

これがまためんどくさいぐらい宗派で違うんです。

お西は1回、お東2回。

なんでって「どうでもいいわ」っていうぐらい「どうでもいいこと」です。

 

はなしが長くなるので理由は置いといて、浄土真宗でも派によって違うんです。

しかも、一般常識と浄土真宗は違ってて「お香をひたいに持っていかず、そのままサラッと香炉にいれる」んです。

 

もうこれもどうでもいい理由です。

 

こんなことにめくじら立てる必要もないのですが、お坊さんはむちゃくちゃこだわります。

まぁ宗派がどうであれ「1回」ならスムーズです。

節約にもなりますし。。

 

香をたくのは、香水つけてフォーマルに礼拝するっていうのが、もともとですが、「浄土の香りをあらわす」とかなんとか、経典などに明確な根拠がないので、どうにでもいえます。

 

とにかく、儀礼ですから「厳かに礼拝していればいい」ことです。

 

こだわるべきはそこじゃないのですから。

 

まぁご自由に。。

 

 

 

 

 

 

3、お線香を立てない。

浄土真宗はお線香を立てません。

わざわざ長い線香を香炉に入るぐらいに折って、灰の上に寝かせます。

 

これが意外と難しくて、寝かせても消えてしまったり、短いと時間がもたない。

時間を持たす方法はあるのですが、図にしないとわかりにくいので、お寺さんに聞いてください。

 

なんで、立てないのか。

 

結論は「古来から香炉の香は粉でできていて、灰に溝を作ってそこに粉のお香を入れじんわり燃えていく」というもので、本山の「本願寺」は今でもこの形式だから、それに合わせているんです。

 

もうひとつ「迷信」につながらないようにというポイントがあります。

 

おもしろいもので、線香を立てると「何本立てるのか?」という、どうでもいい問題が出てきます。

 

寝かせるときは「2本ぐらいでいいですか」という感じで、特別大きなこだわりはもたれないのですが、

立てるとなると、「2本だの3本だの。。」、中陰の間は「1本じゃないと死者が迷う」とかなんとか。

 

寝かせるとこだわらないことがいろいろ出てきます。

ひとっておもしろいですね。

また、立てると万一倒れて「火事」のおそれもあるので、とにかく寝かせてください。

 

 

 

 

2、過去帳と位牌。

浄土真宗では位牌を使いません。

葬儀から四十九日は葬儀社が準備した白い位牌を便宜上使うこともありますが、本来不要です。

亡くなられたと同時に「阿弥陀如来=真理」と同じになるというのが真実です。

 

だから、位牌という別物は不要です。

 

一応「法則に従ったもの」ということで、「法名」はつきますが、本質は真理(真如)ですから「如来」になっています。

 

端的にいえば亡くなられたかたの名前は「阿弥陀如来」です。

 

法名は仮の名前です。

本来「生きている間のブディストネーム」です。

この本来的にいえば、わたしのいのちの状態が変わって「阿弥陀如来」になるので、死後とされる状態においては不要なのですが、慣習上つけています。

 

以上のような理由で位牌はないのですが、記録としてのノート(過去帳)を使います。

これは位牌の代わりではなく、あくまでも記録ノートです。

 

 

 

1、浄土真宗も真宗も同じです。

明治時代までは、浄土真宗は「一向宗、門徒宗」などといわれていました。

明治になって、政治がごろっとかわり「真宗」という名称が許されました。

 

第2次世界大戦後、法律が変わった時に「西本願寺」だけが、改めて「浄土真宗」で国に登録し直したので、現在も西本願寺は「浄土真宗」で、東本願寺などは「真宗」です。

 

ただ、東本願寺から分裂した「浅草の本願寺」は、「浄土真宗東本願寺派」となのっておられるので、京都の東本願寺は「真宗大谷派」ですが、寺院そのものは通称「東本願寺」とし正式名を「真宗本廟」とされました。

 

これら真宗は、宗祖「親鸞聖人」もお経も同じです。

ただ読み方や曲調が違います。

また、お焼香の回数とかいろいろと微妙に違いますが、本質は同じです。

 

 

 

 

以下は以前の投稿です。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー30/10/07

◯円の価値がなくなる日。。

円の価値は必ず近い将来暴落します。

と言って脅かすわけではなく、そのように思って人生を考えていく方がいい

ということですが、

本当にそうなるかも知れません。。

 

いずれにしろ、じゃあどの通貨がいいのか。。

たとえわかっていてもここにはかけません。。

 

ただ、どんな状況になっても言えることは、

確かな人間関係を作っておくことです。。

 

自分自身がお金第一とか人を利用するなどといった、

くだらない考え方をしていると、自然と類は友を呼びます。

 

また、ホンモノがわからなくなります。

あなたの周囲にいて、お金にはならないけれど、

気を使うこともないけど、

あなたを思っていてくれる人がいます。

 

そういう人間関係を大切にしておいてください。

「その時」助け合うことができますから。。

 

 

 

〇お盆。。

8月に入るとお盆シーズンで、坊さんは忙しいでしょってよく言われるんですが、

もともと浄土真宗には「お盆参り」の習慣がないので、

そういう意味の忙しさは、ほとんどありません。

 

しかし、先祖さんが帰ってくるっていうのは面白いですね。

何代前の先祖さんが帰って来はるんでしょうね。

メチャクチャにぎやかいことになりますよね❣️

 

迎え火って「自宅はここですよ」っていうことという説もあるけれど、

焚いてる家がいっぱいあったら、どこなのか迷うんじゃないかなぁとか。。

 

宗派によっては、お膳を3度3度毎日供えるということですが、

一人分で足りるんかなぁとか。。

 

馬をあらわすキュウリに乗って帰ってこられて、

牛をあらわす茄子に乗ってまた向こうへいかはるとか。。

ご先祖で乗馬経験のない人も多いだろうに。。

いっそクルマで帰って来はるといいかも。。

そういう意味で、キュウリや茄子より、ミニカーを供えるとか。。

 

まぁ結果、よそに出て住んでいるこの世の子や孫が実家に帰ってくるっていうのが、

理想なんでしょうが。。

最近は旅行などに行くから、田舎には誰も帰ってこない。。

 

先祖さんも旅行に行ってるかも。。

日本の習俗の裏側にある意味を大事にすれば、子や孫が実家というか故郷に帰ってくるっていうことも大事にされるんでしょうけど。。

 

 

 

 

〇相談。。

みんななんか悩みがあったり、コンプレックスがあったり、

うまく行ってないことがあるのに。。

 

いい格好をしてというか、「えーかっこし」というか、

特に男性は弱みを口にしない傾向にある。。

 

相談をしない。

 

別に性差別というより、脳の作りも違うので「性差」というのはあると思うけれど、もう少し相談するなりすれば、食い止められることも沢山ある。

 

今日もあるお店の店主が悩んでいるようだと、別の会社の社長さんからなんとなく依頼を受けて伺ったけれど、店主は「自分のやっていることの主張ばかり」で悩んでいる風を見せない。

 

しかしどうみても、うまく行っていない。。

 

私は「近いうちに別院に来てくださいね」とうながしたものの。。

たぶんお越しにはならないだろう。。

 

紹介してくれた社長は長年のお付き合いだし、このまま放っておけない。

 

様子を見てまた伺ってみようっと❣️

 

 

〇パラレルワールド

量子物理学に、パラレルワールドっていう考え方があり、

同時に存在する並行世界があると推論できるということで、

電子を使った実験やシュレディンガーの猫という話で説明されるけど、

 

つまりは今の宇宙と同じ宇宙がいくつも生まれて、そこには同じわたしがいる可能性がある。

また、今日の私は昨日の私と同じであると証明できない。

さらに言えば、私が地球人で人間であるとも証明できない。

 

という風な理論だから、そういう意味では、

あなたが「神」を信じようと、

「人格的仏」を信じようと、

全てが証明できないということでもある、

 

だから、逆にあなたが少なくとも生きていると思われる世界の中で、

あなたや周囲がそういった量子レベルにおいても和合できるベクトルに

生きることが、もっとも安定できるレベルであると言える。

 

原子を破壊すると爆発が起こるように、ひとりひとりが原子だとすると、

同じことになる。

 

ある意味結合できる元素とできない元素があるように、

合わない人もいるだろう。

そういう人とは関わらないようにする方がいいのかもしれない。

 

何がいいたいのか。。

あなたや周りが幸せになるためには、何を信じようと核爆発を起こさないものであるなら、それはそれで認め合うこと。

そしてあなたもあなた以上の何かを信じること。。

 

あなたが見ている世界は全てが証明不可能なものなのだから。。

自己を絶対視することこそ、もっとも危険なことなのだと言える。

 

無宗教者である日本人を海外の人は信じない理由のひとつがそれである。

イヤ、日本人は世界中でもっとも信頼されている。。

それは少しずれていて、「日本人は信用を問題にしなくてもいいぐらい使い勝手が良く、毒にはならないお人好しだから」ということなのだと早く目覚めるべきだろう。

 

 

 

〇苦しい。。

人生は苦なり。

ブッダはそう説いた。

 

ただ、この苦ということを「ストレス要因」と捉えてみると、

少し様相が変わる。

そして「対応法」が結構具体的になる。

 

脳はひとつのテーマを与えるとずっとそのことを考え続けるらしい。。

たとえば、「人の名前が思い出せない」とき、「まっいいか」って

その場をやり過ごしても、なにかのタイミングで「あっ思い出した」ってなるのは、

まぁいいかとやり過ごしても、脳は考え続けているからだそうだ。

 

つまり脳にテーマを与えると「ストレス要因」になる。

 

仕事で失敗したとする。

「失敗した」「上司からどう言われるだろう」「この失敗をどう埋めあわせよう」

「もしかして失業するかも」「失業したら仕事がさがせるだろうか」「生活水準を保てるか」などなど、これだけでも6つの「ストレス要因」を抱えることになる。

 

苦しんでいる時、漠然と苦しむんじゃなくて、

「どんなストレス要因」を抱えているか「脳」に聞いて、

そのひとつひとつ、「考えても仕方ない」と脳に「思考のストップ」を命じる。

 

「そんなことはどうにでもなる」

「最悪死んだってしゃーない」

「もう済んだことだし、次はどうするか」と真剣に考える。

 

なんていう風に、「思考停止」させる。。

 

とにかく終わらせるんです。

 

他の何かに夢中になっても、脳は忘れないから。

とにかく終わらせる。。

 

「これは失敗じゃなくて前進のステップだ」

「こんなことでどうこういう上司が情けない」

 

そんなことでもいい。

自分なりに「脳」の中でケリをつけるんです。。

 

終わらないなら、脳が考えたいんだなぁって、自分を脳から切り離す作戦もあります。

 

長くなるのでこの辺で。。

 

 

〇ウソ。。

テレビショッピングなんかを見ていて、

 

「こんなに痩せました」ってビフォーアフターの写真を映しているけど、

どう見ても画像加工やし、「痩せました〜」っていってる一般人のような人も、

実際には、タレントさんで、他の広告にも出てはるし。。

 

よくまぁ「平気でウソつけるなぁ」と感心しています。

 

日常私たちの周りにも、いろんなウソが蔓延してて、何がホントなのやら。。

 

仏教は仏のみが真実というけどこれは、「無常無我」という法のことだから、

そこに腹を据えて生きることしかないんだろうな。。

 

いつどうなるか、そして自分にしがみつかない。

 

そういう生き方をするしかないんや。。

 

そう思って生きています。

 

 

〇人生の脚本家はあなた自身なのです。。

心理学に人生脚本という考え方があります。

 

「私の人生はしょせん〇〇でしかない」

この〇〇に「人間関係はうまくいかない」なんて思っている人がいるとします。

 

するとこの人の人生に「うまくいく人間関係がうまれてくる」とき、

この人は「こんなことはあり得ない、いつかは崩れるはずだ」と思い、

知らず知らずに「自分から」その人間関係を破壊する行動に走ります。

 

「私は仕事ができない人間だ」

とか、色々と脚本を描いています。

 

そこに「いいプロデューサーや監督」になる人が現れると

脚本を書きなおせるのですが、なかなかそういう人に出会えるものでもありません。

 

皆さん、自分の描いている人生脚本を見直していただき、「どうも書き直したほうがいいなぁ」と思われるような場合、私どものようなところが

プロデューサーや監督になって、望ましい方向に転換するお手伝いをさせいただきます。

 

宣伝というより、そういうことで悩んでいる方への情報と思ってください❣️

 

 

〇今の20代から下の若い方々。。

今の20代から下の若い方々は、

特にゼイタクは望まないように思います。

 

月10万ぐらいの収入で生きるぐらいの生活でもいいっていう方々も。。

 

そして特に人生の意味や目的を持たず。。

いわゆる「サトリスト」っていう感じで。。

 

もうサトっておられる感じ。。

 

そういうのは本当のサトリじゃないっていう感じ人も多いけど。。

そうなんだろうか?

 

実はサトっているんじゃないか。。

その世代の方々と話しているとそんな気がする時があるんだけれど。。

 

人生に意味や目的は必要なんだろうか?

社会性が必要なんだろうか?

 

わたしも「社会不適合者」と言われることがよくある。。

自分でも「社会不適合者代表」と名乗ることがある。

 

生きることや子どもを産むことが重要事項なんだろうか?

皆さんそれぞれに「お釈迦さんの生きよう」を

学んで見ていただきたいと思うのです。。

 

 

 

 

〇寂しい人とわたし

なんか孤独だなぁって感じる日々。

みんなは忙しそうにしているなぁ。。

世の中をながめながら、置いていかれている感まんさいの日々。。

 

私って世の中にいなくてもいいんじゃないかなぁ。。

私の代わりなんていくらでもいるだろうし。。

 

親は「お前が大事や」なんていうけど、

いて欲しいときにはいない。

話しかけても忙しそうだし。。

 

パートナー欲しいからって、なんにんかのひととおつきあいしたけど。。

めんどくさい人ばっか。。

いっしょにゴハンしてても、一方的に聞いてばっか。。

聞いてるふりして、あたまん中は別のこと考えて、

とりあえず何度もうなづく。。

 

SNSやってても、みんなあっちこっちいって、

インスタ映えしそうなゴハンして。。

そんなん見ながらアホらしく思ってても「いいね」を押してる私のほうが「アホ」。。

 

だれも私に気づいてない感じ。。

こんな人生があとなん十年も続くなんて、考えただけでもゾッとする。。

 

みんななんでそんなに元気なんですか?

わたしにはわからない。。

教えてください。。

 

ーーーーー

 

そうやね。

わたしもそう思うよ。。

神さまはなんでこんな人間なんて作ったんだろう。。

「アダムとイブ」なんて、ホントなんだろうか。

 

神さまが全知全能なら、悪魔なんてほっとかなかったらよかったのに。。

悪魔をほっとかなかったら、アダムイブも「木の実」を食べなかっただろうに。。

 

仏さまって、救うってなにをどうしてくれんの?

死んでから極楽とかにいって「永遠のいのち」なんかとんでもない。

消滅するほうがよっぽどいい。。

 

ーーーーーー

 

お釈迦様が求めたさとりって「滅度」っていうんです。

「滅」こそ最高の世界だってこと。

 

それは、自分を自分だと思っている根本の「我」を滅することなので、

「わたし」なんてもともとなかったんだって思えるようになることですから、

「悩んでるわたし」自体がもともと、宇宙的な存在の流れのなかに起こっている現象ひとつだ、

と思えるようになると、むちゃくちゃ楽というか解放されるというか、

いい感じになります。

 

でも、「そう思えない」とするとやっぱり生きている実感が欲しいだけで、

生きることを放棄する気持ちはないということなんだと思います。

じゃあ「めんどくさくても、人生なんてめんどくさいことの積み重ねですから。。

めんどくさいことをどんどん探して、「めんどくさ!」ってひらき直って思って生きてれば、

そのうち終わりますよ、自然にね❣️

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〇あんたのせい❣️

「アンタ」ってイヤがられる言葉のひとつだと思うんです。

というものの、関西ではけっこう普通に使われていて、「あんたのバラード」っていう歌もあるぐらい。。

 

このアンタは、罵倒するときにも使われるけれど、関西では親しみのニュアンスで使われることが多いと思う。

 

「〇〇さんのせいで。。」とか

この「せい」ということば。。

 

これは〇〇さんの「責任」という意味なんだろうか?

「〇〇さんが〇〇したためにこうなった」という、状況判断している言葉なのか。。

まぁたぶん前者で使われていることがほとんどだろう。

 

こういう風に、ことばって人や地域によって定義が違うから、問題をややこしくするんだろう。。

有名どころでいえば、関西では「アホ」って普通にいうけど関東は違うらしい。

 

あなたは「アンタのせい」といわれてどう感じるだろうか?

私の定義で聞くと、「あんたというぐらい親しい中で、好ましくない〇〇なことが起こった事情の原因はあなたにあるんだから、この状況をなんとかしてください。」っていうニュアンスに聞こえるんですが、さてこれをお読みくださっているあんたさんはどう定義されますか?

 

アミダストーリーって。。

阿弥陀仏のストーリーっていうのは、

むかしむかしのあるところに一人の国王がいました。

と始まり、、

 

この国王は文武両道の達人で、国を豊かに統治していました。

しかしそれでも、国民の人間としての不安がぬぐい去れないことを

案じていました。

 

ある時この国王は、お城を出て街を散策しておられた時、

光輝き、何ものにも動じない世自在王という素晴らしい出家の

ブッダに出会いました。

 

国王は「あなたのようになりたい、そして多くのいのちをあなたのように導きたい」と願いを起こして、王の座を捨てて出家行者になり「法蔵菩薩」と名のられ、四十八の願いを立てて、長い間修行をして成仏し、阿弥陀仏となられて、

今もなお私たちを救いの中におさめとってくださるのです。

 

というものです。

現代人はそれっていつのこと?

あるところってどこ?

実在したの?

とか思ってしまいます。

 

これについて以下のように考えればわかっていただけると思うのです。

 

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結婚式を目前にして

恋人を交通事故で亡くした人が

「あの人はなぜ死んでしまったのか」と

悲痛な問いを医者に投げかけます。

すると医者はこう答えます。

「頭部外傷による出血多量で亡くなりました」

確かに科学的には正しい答えです。

しかしこれでは悲嘆に暮れる女性を

満足させる事はできません。

医者は「いかに」「How」という事を語ったにすぎません。

心理療法家とは「なぜ」「Why」の前に立つ事を

余儀なくされるものだと河合は言います。

 

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心理療法家は、WHYに直接答えるのではないが、

視野を拡大することによって、

つまり、背後にある情動的なものに

目を向けることによって、それを結局

異なった次元でのHOWの問題として

みることができるといえる。

人間の心の情動に関する知見を基にしながら、

患者のくりだすWHYの鎖を共にたどりつつ、

一つの高次の平衡状態に至るものである。

 

『ユング心理学入門』河合隼雄さんより

 

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「Why」は連鎖を呼ぶというかね

だけどそれになかなか最後に行き着けないと。

でWhyに答えるのはやっぱり最初に河合隼雄が言ってた

物語という事が言えるんじゃないかと。

 

まあ別の例なんですけど

ある日女の子が

「私が死んだらどうなるの?」って泣きだして

しばらくすごくそういう不安定な状態で

お母さんもどうしようみたいな感じだったんだけど

その子がある日お母さんに

「分かった」。

「私は死んだら

またお母さんのお腹の中に入って生まれてくるんだ」

・・・というふうにね

答えが出てくるわけですよ。

それは物語ですよね。

Whyにずっとこう付き合っているうちに

なんらかのこう物語みたいなのが生まれてくるのを

つきあっていくというかそれがこう

心理療法のある種エッセンスじゃないかなという事は

河合隼雄は思ってたんじゃないかなと思いますね。

 

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この話を聞いていて

阿弥陀仏(法蔵菩薩)の物語はまさにこれではないかと・・・。

厳しい真実をそのまま告げても受け取れない人々に

やさしく語りかけ、真実へと気づかせる物語。

 

阿弥陀仏は実在の仏ではなく、

善巧方便(私たちをさとりに近づけるためのすぐれた方法)であると言われます。

お名号(南無阿弥陀仏)も、もちろんそうです。

この物語自体が大慈悲の心から生まれたものなのかも

知れません。

 

※お東で有名な金子大栄氏も「阿弥陀仏の教えは物語だからこそ良いのだ」と仰っていましたね!

 

 

 

 

〇スピリチュアルな人たち

スピリチュアル流行ってますねぇ!

 

いろんなんがいっぱいあって、多くの女性方がさまよっておられます。

しかし、そんなもんと言ってはおられません。

 

スピリチュアルの先生と言われている人は、

その人たちの人生に責任を持つ覚悟があるのか。。

 

スピリチュアルに行く人の多くは、マインドコントロール受けやすいタイプの人。

そういう人に与える言葉がいかに影響を与えるか。。

 

スピリチュアルに行く人は、生涯その先生に依存して生きて行くのか。。

小さな宗教団体化していますねぇ(≧∀≦)

 

とはいえそこにはお付き合い含めていろんな費用がかかってくるし。。

 

そういう意味では私たちは、そもそも檀家さん(門徒さん)の人生に伴ってあり、

互いに人生を共有してきているんですが、寺という存在が、檀家さんの負担になる時代でもあり、寺の自立化も必要だと考えての別院活動なのだけれど。。

 

とにかくパワーストーンを売ってる人たちなどなど、高額なものをカードで買わせ、

買う人は何度も同じように高いものを買うので、カード限界まで使わせるように店員さんに指導している。

 

本当に大事なのは、精神的にまず自立させる精神世界であり、教祖的な人に依存させるものは偽物である。

 

本当に自立して行くようなアプローチこそ、本当に悩める人には必要なんだ❣️

 

 

 

 

〇悩みを作るのは扁桃体

みなさん人間ってのはなんでこんなに悩み多き存在なんでしょ❣️

仏教で「煩悩」という心の動き。。

 

これを作るのが、脳でいうと扁桃体という部分やセロトニン、ドーパミンという脳内ホルモン。

単純にいうと「情動」

「情」があるから人間らしくもあり、悩みも作る。

しかし、あんまり情に振り回されるのも困りもの。。

 

脳で言えば前頭葉をうまく使うといいんですが、どうするのか。

極力「論理的に考えること」って簡単には言えますが、なかなか難しい。

 

とはいえ、先ほどブログのおすそ分けで書いたように、出来事や状況を論理的に定義づけるクセをつけると

けっこう「情動」に振り回されなくなるんですが、それも難しいっていう場合、

自分の情動を話して「理解して聞いてくれる人」を探して、あらいざらい話をする。

 

「腹に持たない」ことですねぇ!

抑え込まず、解放してあげて下さい。

本当の自分を。。

 

 

私もそういう人の前で「泣きじゃくった」こともあるんです。。

そうするとなにか、一つことが自分の中で終わる。。

この「終わらせる」ことがポイントなのかもしれません。

 

 

 

 

ブログのおすそ分けその1

私はお坊さん以外に仕事をしています。

 

そこで、私をへんに利用しようとしたり、騙したりということが、

過去多くありました。

 

そのため人と関わる時、特にビジネスパートナーになる人などにおいては、

三つのルールを基本にして関わっています。

これがシンプルで結構適切なのでご紹介いたします。

 

1、前頭葉思考が優先の人と関わる。

昔は右脳だの左脳だのと言われましたが、これは間違いだというのが今は定説で、前頭葉思考か扁桃体思考かという方が適切なのですが、要するに「知性」で考えるか「感情」で考えるかということです。

感情優先の方は、とにかくシンプルではありません。

「面白くない、しんどい」「優しくない、腹が立つ」など、非論理的な思考が優先すると、もはや説明しても、論理的な思考をしてくれないので、いろいろなことがただただ絡み合って大変なことになります。

「感情」は「知性」にコントロールされてあるべきで、自分と周囲を含めて俯瞰できるところから適切に「情動」するようにコントロールするものです。

仏教では「調伏」(ちょうぶく)と言います。

 

2、言語定義や文脈が明確な方と関わる。

世界言語の中で日本語はかなりあいまいな表現が普通に使われています。

例えば「救われた」というのは、どういう状態がどういう状態になったことを言っているのか。

仏教の法話でもあいまいですから、聞いている人の都合のいいように救いを捉えてしまいます。

 

「優しいね」と言われても、どこがどういう風であるから優しいと言ったのか、こういうこともあいまいに使われます。

 

政治は最たるもので「善処します」、これは「何もしませんがそう言うと怒るだろうから、善処と言っておきます。」と翻訳するといいのでしょう。

 

適当なあいまいな言葉に乗ると知らず知らずに誘導されることが多いようです。

例えば、「磁気を帯びた製品を身につけていれば筋肉がやわらぎます。」と聞いて「なるほど」となってしまいますが、なぜ磁気を帯びていると筋肉がやわらぐのか?

と疑問を持つ人は少ないものです。

 

「ロックフェラーが石油を発掘して富豪になりました。」

これもあいまいです。

なぜロックフェラーが石油王になれたのか?

つまるところ、資金はどうしたのか?

サクセスストーリーをきいても、この点の記述のないものが多いのですが、多くの日本人はそこのあいまいさに疑問を持ちません。

 

3、パワーバランスを取ろうとしない人と関わる。

人間関係が成立する時、そこには自然と主導権が発生します。

私は意図的に自分が主導権を持たないように、ないしは適切に主導権を受け渡ししながら人と関わっています。

 

しかし、主導権取りたがる人は多いもので、パターンは様々ですが、そのような場合その人に呑み込まれてしまいます。

教祖などもその最たるものでしょう。

親鸞という人は「私のいうことを信じようと信じまいとあなたの好きにすれば良い」という姿勢の方です。

私は、親鸞聖人のこういうところも真実性があるなぁと認識して、浄土真宗を行じています。

 

以上なにかの参考にしてくださったらよろしいかと思います。