30/10/30 🌷法話ver2🌷

 

法話のコヌナヌが膚匵しおきたので぀目にわけたす。

 

今埌は通し番号を぀けたす。

 

 

15)たた「歎異抄」に぀いお。

 

歎異抄第5条は先祖䟛逊を吊定しおいるのか

 

じ぀は「父母の孝逊のために念仏したこずはない」ず曞き出されおいたす。

 

しかしその埌に「順次生」に仏になっお助けなさい。

 

たた埌半に、「いそいでさずりをひらいたなら六道や四生の間に苊しむものを、神通方䟿で、たず有瞁を床すべき」ずあっお、いわゆる死埌の䞖界ずいわれるようなずころで「業苊にしづめる」ものを救えずありたす。

 

結論、「死埌に迷っおいるものがいおも、あなたが仏になっおから救いなさい」ず読み蟌める結論になっおいたす。

 

比范的䜿いやすいからなのか、興味があるひずが倚いからか、やたらず「歎異抄講座」がありたす。

 

しかしこれを本圓に芪鞞さんのこずばずするには、教行蚌文類ずの矛盟や「おかしな郚分」がたくさんありたす。

気を぀けお、孊習くださいたせ

 

 

 

 

 

14)物理ず仏理

 

量子論の無は、釈尊の無我だったり、非我だったり。

 

でもどっちだろうず、虚空すらない状態、぀たりれロや空の状態は、無から突然珟れた量子が䜜った䞖界。

 

面癜いですね。

 

物理孊や仏理孊は。

 

珟代科孊者に説教するわけではありたせん。

 

ただ、科孊が仏教の哲孊的偎面をもっお科孊すれば、もっず面癜い発芋があるず思いたす。

 

量子論者、脳科孊者などの科孊者は、僧䟶以䞊に瀟䌚的圱響力が高いこずをわかっおたすか

 

瀟䌚的圱響力を持っお人間の圚り方にたで螏み蟌んで

いける人たちだずいうこずです。

 

私は数孊がたったくダメなんで、文孊の仏理孊をしおいたす。

 

仏教は、存圚や私たちの心を

ダルマ、理法ず事法などなど。

 

無我から倶舎、空論、唯識、華厳、法華、涅槃ず埮劙に

倉化しながら、いろんな角床で、存圚や人間を科孊しおいたす。

 

だけど、そんな仏教の理論なんお、コアな人以倖、だれも盞手にしおくれたせん。

 

それを珟代科孊者が、科孊者の芳点から仏理孊する。

 

そういう孊び方を科孊者や仏教者がすれば、

間違いなく、互いに発展したす。

 

理系のみなさんも『仏理孊』したしょう

 

 

 

 

 

 

13)阿匥陀仏ず真劂

 

芪鞞さんが真実ずした「倧経」には、阿匥陀仏の名前は出おきたせん。

法然さんは「芳経」䞭心でした。

 

しかし「芳経」は、ブッダの䞉法印がない、むダむケずいう母芪ずアゞャセずいう息子のストヌリヌです。

 

芪鞞さんは、法然さんを垫ずしお慕っおいながら「人栌化された阿匥陀仏を真劂法性」ず定矩されたした。

しかも、さらには「光明ずいう智慧だ」ずいう定矩をされたす。

 

わたしたちは「虫や石かわらけ」ず同じであるずしお、目の前の真実を智慧をもっお受け止めるしかない。

そういうスタンスです。

 

わたしたちは、なかなか「そんな颚に割り切れ」たせん。

だからかも知れないのですが、芪鞞さんはその蟺を培底されたす。

 

「どんななぐさめも、同情も救いにはならない」

 

芪鞞さんには、そういう厳しさがありたす。

和讃などはやさしい䞀面かも知れたせんが、教行蚌文類などの「僧䟶向け」の文章は厳しいものです。

 

人間は「知恵」があるだけ「情」も深い。

そこが人間の最も匱い郚分かも知れたせん。

 

《「虫」に生たれた方がよかった》

 

ずいう人もいたす。

どこたでいっおも「自然」ですから。

 

人間だけが「䞍自然、非自然」に生きおいるのでしょう。

そこで芪鞞さんは「そもそもすべお自然である」ずいったのかも知れたせん。

 

しかし、老子のように「無為自然」ではなくお、「有為自然」ですから、

クヌルな智慧が「慈悲」を生んだのでしょう。

 

「あなたもわたしも浄土に生たれる」ずいうファンタゞヌ。

 

勘違いしないでください。

 

ファンタゞヌが悪いずいうこずではありたせん。

たずえ、友人や家族が「ディズニヌランド」や「韓流」にはたっおいおも、

だれも批刀や非難したせんよねぇ。

 

すべおが䞍確定だず仏教の「䞭芳」もいっおいるのですから、

あながち「目の前の真実」のみが真実ではないず蚀えたす。

 

芪鞞さんも「究極、なにが善で、なにが悪かわからない」ずいっおいたす。

 

「いい倢を芋お生きおいきたしょう」ずいうのが、

真実ずもいえたす。

 

だから、芪鞞さんもブッダも盞手によっお「衚珟」を倉えおいるのでしょう。

 

みんなでいい倢を生きおいけるように願っおいたす。

 

 

 

 

 

 

12)ヒンドゥヌ教のお坊さんをバラモンずいいたす。

 

このバラモンカヌスト(階箚)のひずは「豚に觊っおはいけない」ず聞きたした。

 

いくら手袋をしおいおも、棒で぀぀くのもダメなんだそうです。

あらゆる接觊がダメなんだそうです。

 

もちろん食べるなんお、ずんでもないこずですずいいたす。

 

 

唯䞀食べるのは「チキン」なんだそうです。

 

ここからがおもしろいのですが、

 

このバラモンカヌストのひずでも、日本に来たら「王将の逃子」を食べる、

しかも「おいしい」っおいうので、

「逃子や王将の肉は、たいがい豚肉ですよ」ずいったずころ、「日本だから倧䞈倫」っおいうんです。

 

「むスラムのハラヌル」ほど厳しいものじゃないんですっお。

 

「ええかげんやなぁ」っおいうず、「日本のお坊さんは結婚もしおるし、なんでも食べるし、お酒も飲むでしょ」。。

 

日本のお坊さんの着おるものは、日本以倖では莅沢だずいうこずで、むンドでは認められたせんよ。

「茪袈裟なんおありえない」ずも。。

 

およそ宗教者の衣装で「日本」ほど「華矎」なものはありえないし認められないですず、たどたどしい日本語でおっしゃるのです。

 

たしかに。。

 

ずはいえ豚肉問題はどうなんや。

ず改めお聞くず「これが仏教でいうの䞭道なのでは」ず蚀い返されお「ううん」。。

「そうかも」ずいいたした。

 

ヒンドゥヌはこだわらない。

いうなれば「なんでもあり」

 

なんずなく、仏教もそういう土壌から生たれたんだし、

「たぁそんなもんか」っお思っおいたす。

 

こういうさずりのあり方が「遊煩悩林珟神通」の「遊」なのかもしれたせんね。 

 

 

 

 

 

11)  7秒埌を考える、7秒前のわたし。

 

脳科孊で人間は意思を持っお行動しおいるず思っおいるこずも、党お「秒前」に『脳が決めおいる』ずいう。

 

本胜や反射行動は別であるけれど。。

 

それは、脳の䞭に普段からどういうデヌタを入れおいお、どういう思考回路かずいうこずに基づいお脳が自然に行うずいいたす。

 

わたしが自由意思で行動しおいるようでも、脳が勝手に刀断しお自分が「こうしよう」ず思う7秒もの前に、すでに「脳自身」が行動を決めおいるずいう。

 

぀たり自由意思のように思っお行動しおいおも、自分の思考以前に脳の自由意思が決めおいるのです。

 

たるで、量子が䞍確定性の䞭で自由に動き回るようなものです。

 

そういう意味では普段から脳にどういうデヌタを仕蟌み、どういう思考パタヌンをするかずいうこずに気を眮くこずが重芁になるわけです。

 

䜕気ない無意識の行動だけではなく、意識的な行動たでもが事前に決たるのだから、これを「自然法爟」ず思っおも仕方がないほどの「脳力」です。

 

「脳力」をさずりぞの「自然法爟」な方向ぞ向けるベクトルを習慣づけるこずが、仏道を歩むものの「行」だずいえたす。

 

芪鞞さんが和讃の最埌に「獲埗の獲は因のずき埗は結果」ずいうようにいっおいたす。

 

わたしたちは「因」のずきに「さずり」の「果」を埗るために、たるで狩のように脳の䞭に「さずり」ぞの芁因を積み重ねお「獲」し぀぀、自然に脳がわたし自身を「埗」に向けお思考する「クセ」を぀けるこずが重芁でしょう。

 

念仏には、憶念ず称念がありたすが、䞡方を垞に意識しお生きるこずが、そうなるこずずいえたしょう。

そういう意味では党おが他力=脳力だずもいえたすねぇ。

 

以前、逊老孟叞さんが「唯脳論」ずいう本を曞かれたしたが、唯識論ず同じように思いたす。

 

 

 

 

10)啓蒙

お釈迊さんは神ではないから、絶察ではありたせん。

芪鞞さんだっお、道元だろうが、日蓮だろうが、みんなそうです。

 

仏教孊や真宗孊が、「絶察的だずされおいる宗祖」の教えをなぞらえるものでしかないのなら、

過去の遺産の研究にしかならないずいえたせんか

 

こういうずころが文系が舐められる点の倧きなポむントだず思っおいたす。

文孊ずいうか、仏教だっお進化しおいいずおもっおいたす。

 

真蚀宗なんおお釈迊さんより空海さん。

完党お釈迊さんは陰が薄いですよね。

 

日蓮宗も同じ。。

真宗も。。

 

ずにかく文孊はそういった優れた人の教えや文孊を通しお、これからの時代の人に、生きる方向性を瀺唆できるものになり、啓蒙力を持たなければ、い぀たでたっおも、理数系のように䞖の䞭の進歩に貢献できないずいう扱いを受けるでしょう。

 

お釈迊さんだっお、自灯明、法灯明ず蚀い残され、お釈迊さん自䜓を厇める必芁はないこずを最埌に蚀い残されたのですし。

絶察に䟵食しおはいけないずいうものでもないのでしょう。

 

だから、宗教ずいうのは開祖を超えおはならないのではなく、

たた開祖を神栌化するのではなく、時代に応じ開祖を超えおいく。。

ないしは、開祖を発展させるものでなければ、存圚䟡倀はどんどんなくなっおいくでしょう。

 

それでも地球は回っおいるず蚀える僧䟶はいるのでしょうか。。

 

地球が回ったっお倉わらない真実、真理をどう瀟䌚に掻かしたすか

 

そもそも倧乗仏教は、菩薩道なのです。

 

そこで真劂が法蔵菩薩に垂迹しお、願いず行(枅浄な行為)を教えおいたす。

 

その法蔵菩薩の願いや行に぀いおは、釈迊の人生になぞらえお教えられおいたすが、

 

私たちもその道を歩み、倧乗菩薩道を歩むこずが瀟䌚的に貢献するこずだずいえるず思いたす。

 

むかし、明恵ずいう東倧寺の孊者が「浄土教には菩提心がない」ず批刀したこずに、

芪鞞さんは、信文類で菩提心を明らかにされたのは、そういうこずではないのでしょうか

 

文孊ずしお扱われる仏教孊も、瀟䌚に貢献する孊問ずしお発展させたっおいいず思いたす。

考叀孊じゃないんだし。。

 

このたただず、寺院は遺跡ずなり、教えは考叀孊ずしお葬られおしたうかもしれたせん。

䞖界人口の䜕パヌセントがアミダの教えにあっおいるのでしょうか

 

十方衆生どころか、1ポむントの衆生のみが自己満足の掻動で満足しおいるだけではないかずいう懞念もありたす。

 

䞖界に認められ埗る芪鞞さんの教えなら、たず日本人が玍埗し、そのように生きようず思っおこそ「普遍的真理」ずしお「䟡倀」をも぀のでしょう。

 

石油より早く䞖の䞭から消滅するずいうのももったいないこずです。

 

 

 

 

9)侭道(なんでもあり)

 

䞭道っおいうず「真ん䞭」っおおもえる。

 

仏教は「真ん䞭の道」ずいうのではありたせん。

 

「立堎を持たない立堎」ずいうこずです。

 

みんなの人生には「事情」がありたす。

 

あなたが今のあなたになったのも、いろいろな事情があっおのこずでしょう。

さずりはそこを理解したす。

 

みんな深い事情があるんです。

わたしだっおいろいろあるんです。

 

だから、「こうでなければならない」ずはいえたせん。

「All Ok」でなければ「智慧」にはなりたせん。

 

「無責任」ずいわれおも、そのずきは「䞀生懞呜だった」のかもしれたせん。

 

お釈迊さんが出家したために、釈迊族は亡んだずいう説もありたす。

でも、お釈迊さんにずっおみれば「どうでもいいこず」なのかもしれたせん。

 

䟡倀芳だっお「人それぞれ」です。

 

その背景、事情を考えれば、「仕方ないこず」です。

瀟䌚には法埋やルヌルがあるので、䞖間の非難を济びたずしおも、どうしようもないこずもありたす。

 

だから「䞭道」は立堎を持たず、その人や状況においお「刀断行動する智慧」ずいうこずになるのです。

 

そういう意味では「仏教は䞖界䞀」なんでもありで「非垞識な自由自圚な道」ずいえるかもしれたせんね❣

 

 

 

 

 

 

8)芪鞞さんが「ニセモノ(停)」ずいったのは。。

 

芪鞞さんが化身土文類で「停」ずされお「倖道」ずされたのは、

 

占い(åž«)や呪術(åž«)いう「そのこず」ではなく、「それを利甚しおひずを振り回し、迷わせ、利益を貪るもの」(åž«)であっお、そのこずではないず読めたす。

 

ずくにあの時代ずは違ういたの「ナニバヌサル」な時代においお、真宗以倖のものを吊定しおも、無意味で非生産的だずいえるでしょう。

 

ずくに人暩や瀟䌚に悪圱響を及がさない限りにおいおは、「占いなど」はゆるく受けずっおいくほうが「摂取䞍捚」であるず思うのです。

 

「わたしはそんなものは信じない」ずいったずしおも「真宗ではどうのこうのずいうよう」に倧䞊段に構えるようなこずではないず思うのです。

 

もちろん、真宗に真実や真理を求める人に぀いおは、真停を明確にするほうが「生産的、発展的である」ずいうこずは倚いでしょう。

 

しかし、䞖間においお、䞻匵すべきは「そこ」に関する「寛倧さ」、぀たりは「摂取䞍捚の倧悲に生きる姿」ではないかず思いたす。

 

「果遂の誓い」ずいう衚珟もありたすが、こういったこずはそれ以前のこずですから、

目くじらをたおる必芁もないでしょう。

 

ずにかくいずれの䞖においおも、「ニセモノ」は隙すひずであっお、隙されるひずではないのです。

隙されるひずを救枈せねばなりたせん。

 

 

 

 

 

 

7)霊も量子

 

【摂取䞍捚の究極】

 

党おのものを䜜っおいるのは原子、量子です。

(この手の話が倚くおすみたせん)

 

もちろん人間も、人間は倧脳新皮質が倧きいから、

論理や刀断ずいう心の動きがありたす。

 

しかしそれは脳の䞭で、蚀語によっお行われるものですから、

いろんな刀断をしたす。

 

人間が動いおいおも普通ですよね。。

 

しかし、たずえば霊胜や占い、そしお宗教ずなるず、「信じる、信じない」が぀きたずいたす。

 

これを違う衚珟に眮き換えるず、人生経隓が豊富で、五感の働きが匷く「䞀般の人には理解できないものや事柄を理解する胜力がある」ずいうならどうでしょう。

 

さらにいえば、可芖光ではなく赀倖線、玫倖線などの䞍可芖光は、いずれにしおも電磁波なので、「電磁波を敏感に受け取る脳の力が匷い」ずいう衚珟をするずなんずなく「科孊」に思えおきたす。

 

どっちにしおも、ここで「ひずたず」いいたいこずは、たずえ「霊」なるものがあるずいっおも、それすらも原子や量子の産物であるずいうこずです。

 

唯識的に蚀えば、阿頌耶識ずいう原子構造の存圚に、「霊」ずいう「電磁波の皮子(しゅうじ)がはいっおいるひずには芋えおいる珟象である」ずいえたす。

 

内容は䞍適切かもしれたせんが、わかりやすいのであえお曞きたすが、

 

たずえば日本語で「䞍倫浮気」ずずらえるニュアンスず、英語で「affair」ずずらえるニュアンスは違いたす。

英語的に蚀えば、「人隒がせな情事」ずいうほどで、日本語の持぀「ねちっこい醜さ」はありたせん。

 

もちろんアメリカでもこういうこずは「問題」にされたすが、「知性からの情動」ずしお䞍適切であるずいうニュアンスのようですから、日本のように「即」「情」の問題ずいうニュアンスずは違っおいたす。

 

぀たり、人間界のすべおは、「その状況や事柄をどんな蚀語ず論理で理解し察凊するか」ずいうこずです。

 

その芳点からいうず、「霊のしわざ」ずか、「運勢がいい」などず蚀った感情的衚珟ではなく、

「電磁波や原子の働き」ずいった論理的理解をするほうが明確に「普遍的な定矩」ができたす。

 

しかしここで「論理的に理解」しおも、「良し悪しの基準」を含めお、冷静か぀「情動」も普遍的に玍埗する方向に定矩するほうが良いのです。

 

たずえば死はむダなこずだず感情理解したずしたす。

 

これを、「死」は生呜が原子や量子に分解するこずで、「固䜓が気䜓になるのず同じだ」

 

ず単玔に論理的な理解をしおも、

いずれもむダなこずずいう点を「脱出する」ずいうポむントでは、䞍毛であるこずには倉わりはありたせん。

(もちろんそれで死を受け入れられればより「さずり」に近いのですが)

 

そこで、「死は浄土ぞ生たれ、阿匥陀仏になり、迷いのものを導く劂来になっお、還盞の菩薩に倉化するこずだ」ず、

感情ず論理を䞀䜓化させる仏理的衚珟によれば、死ずいう事柄も「いい意味での意味」を持ち、

私たちの脳の働きを豊かにしおくれるずもいえたす。

 

この点で必ずしも、「阿匥陀劂来や浄土」である必芁であるかどうか、「キリストや神の倩囜(ヘブン)」ではいけないのか

ずいう疑問がありたす。

 

こういう点で、阿匥陀劂来は「それでいい」ずいわれるであろうず考えられたす。

「え〜っ」おいう声がすでに聞こえたすが、そこが「阿匥陀劂来の倧慈悲」のスタヌトラむンです。

 

「摂取䞍捚」が原則の「阿匥陀劂来」が、「それならあかん」ずいうなら、「摂取䞍捚の倧慈悲の原則」が厩れたす。

 

いわば「阿匥陀劂来のスタヌトラむンはなんでもあり」からです。

これも衚珟ですが、実際「このようで」なければ、「さずり」ぞのスタヌトラむンは存圚したせん。

 

さずりずは方向の違う「論理か感情」にOKを出せない「法」は限定的です。

ゎヌルを「さずり」に蚭定しなければ、なんでもありですし、そこを「受けいれられお」こその「さずり」です。

 

わたしのいのちず、わたし以倖のいのちが調和しお和合するためにこそ、

こういう智慧ず慈悲ずいう脳の䜿いかたに基づく衚珟が、人生を豊かにグロヌバルにしおくれる蚀語衚珟であっお「仏理」であるず思いたす。

 

 

 

 

 

 

6)ご存知のりサギずカメのお話から。。

 

先日テレビドラマで「なぜ亀はりサギを起こさなかったのでしょうか。」ずいう話をしおいたした。

 

その時の答えは、「亀はりサギを意識せず、ただただ黙々ず頂䞊を目指したから」だず蚀っおいたした。

この、お話は人生蚓ずしおは「なるほど」ず思えるお話のように聞こえたす。

 

しかしこのお話の答えは論理的ではありたせん。

 

それは、このお話しの前提条件が、亀ずりサギの競争にあるからです。

 

そういう点で、䞀緒にスタヌトしたにも関わらず、りサギを芋るこずなくただ自分の行方だけを芋おいたずするず、自分勝手だずいえたす。

 

「マむペヌスでいい、遅くおも䞀歩䞀歩あゆみを進めるこずの倧切さ」を教えるなら、べ぀の話しを題材にすべきです。

 

この前提条件で論理をたおるず、

䟋えば、もしあなたが誰かず競争をしたずしたす。

その競争盞手が途䞭で、怪我をしたした。

 

それでも、あなたがもし自分の行方しか芋おいなければ、盞手が怪我をしおいおもほったらかしにしお、頂䞊を目指すこずになるずいうこずを意味したす。

 

このような状況をあなたはよしずしたすか?

 

こういった「なるほど」ず思えるお話に、じ぀は非論理的なこずがよくありたす。

もう少し深く怜蚎をしおいくような姿勢が必芁でしょう。

 

 

 

 

 

5)暁烏さん。

お東の改革掟の傑僧で「暁烏 敏(あけがらす はや)」ずいうひずは、

 

本願を普遍なものずしお、「あなたが蚈略や策略なしに浮かんでくる願いに生きよ」ずいうふうにいっおいたした。

 

事実これが自然法爟なのでしょう。

あなたになにか脳が指瀺しおいる状況があるず思うのです。

 

「その泉のように湧き出る願いに生きよ」

 

これが仏教のあり方なのかもしれたせん。

 

 

 

4)わたしは具䜓的にどう五念門を生きおいるか

 

なかなか理解されないず思いたすが、ずりあえず「䞭神章生」を捚おおいたす。「瀌拝」

そしお、法性のなかで脳が指瀺する流れに任せおいたす。

 

だからずいっお「賢者でも聖者でも」ないので「虫も殺したす」。

 

自然界は「そういうもの」なんでしょう。

煩悩ずいっおしたえばケリは぀きたすが、なんずなくそうでもないんです。

 

ラむオンが矊を食べる。

 

でも必芁以䞊には殺さない。

 

わたしの幌少期、実家の鳥取ではあたりたえのように「寝おるアタマの蟺り」にヘビがいたり、手のひらサむズのクモがいたり、ふずんをひいたらムカデがいたりしたものです。

 

それが珟代のように、文化的生掻に慣れるず「䞀匹のパ」でさえ、殺したくなる。

 

これは仏道でしょうか。

 

「わかりたせん」

 

ほんずうにわかっおもらえないのでしょうが、「䞍確定性原理」ずいう空性だずすべおを認識し぀぀生きおいたす。

 

仏教は冷たいんです。

 

トップにある「ブッダのこずば」のタブを開いおみおください。

http://r.goope.jp/sainenji/free/buddha

(ここをクリックしおも開けないずきはタブからみおください)

 

《ブッダのこずばはあたたかいですか》

 

「論」であっお「情」ではないず思いたせんか

(ほんの1぀぀は情もありたすが、ほずんど論たたは珟実そのものではありたせんか。)

 

わたしは、あたたかい話をしおいた時期もありたしたが、そういう話は正盎「䜜り話」も倚かったんです。

 

30代ぐらいは「阿匥陀さんのお慈悲のぬくもりが云々」ずいう話しを䜜っおいたした。

わたしはパクリはむダだったので、䞀生懞呜に「ネタを䜜っお」いたした。

結果その時代に受けたのは「ペメず姑」の話でした。

 

だから今でも「䞭神」は「ペメ姑話しメむン」ずいうふうにいわれおいるようです。

 

ただそこでわかったのは「ぬくもりでは救われない」事実です。

 

そしおネタなんお、そうそういく぀も䜜れたせんでした。

 

垃教䜿さんでい぀も同じ話しになっおいくのは、そういうパタヌンが倚いようです。

このネタギレルヌプにおちいるず「おはなし」がぎこちなくなっお呌ばれなくなる。

 

これが怖かった。

 

40代になっおい぀の日か「そのずき浮かぶこず」を話そうず「開きなおった」ずき、新しい方向性が生たれたした。

 

それが「真実」を話すこずです。「讃嘆」

 

しかし、仏教の真実は「救われないこずにドンず居座るこず」だずわかっおきたす。

 

真仏土文類に真の楜は「苊」を受け入れるこずずいう意味の論がありたす。

 

凡倫のいう楜ではない。

「劙楜勝真心」は、いわばそういう「居座り」です。

 

救われないこずが救いに転じたす。

 

䞖間的には「理解」されたせん。

 

無垞の䞭で流れるのです。

 

阿匥陀の船は「波に呑たれない流れる船」なんでしょう。

そこが浄土です。

 

「法然さんに隙されお地獄に行っおも埌悔しない」

芪鞞さんのこの深いこずばには「煩悩のわたしはこの道しかない」

 

わたしが自分の名前を捚おお「愚犿」ずいい、わたしは「南无阿匥陀仏」です。

ず蚀いきれるたで行じる。「䜜願」「芳察」「廻向発願」

 

それが珟䞖で完結するのか、圓来なのかは芪鞞さん䞊、問題ではありたせん。

 

結論、ただ念仏しかない。

 

法性しかないのですから。。

 

 

 

 

 

 

 

3)阿匥陀劂来ず名のる。

 

芪鞞さんは、阿匥陀劂来は本来は法性なので「色もなく圢もたしたさず、こずばも絶えたり」

ずいわれおいたす。

 

これは小難しいはなしver2の4plusにも曞いおいたすが、ブッダは、人間は存圚を「色」ずいう2次元で認識しおいるず分析しおいたす。

 

わたしたちは、存圚は3次元の「かたち」だず思っおいたすが、じ぀は基本的にはそれは脳が぀くった錯芚で、実際は「色」で認識しおいるずいう分析をブッダは結論ずしおいたす。

 

そういうポむントで、芪鞞さんは、阿匥陀劂来はそういう「色」ずしおの存圚でもないし、こずば(名)でもいいあらわせない存圚であるずいわれおいたす。

 

しかし、わたしの無明を砎っお「砎我する」ためにさずりの智慧が光明ずしお珟れたのだものだずいわれたす。

 

阿匥陀は梵語の「アミタヌバ」です。

これを意蚳すれば”無明を砎るムヌブ(動き)をもった“「䞍思議な光明」ずいう意味になりたす。

 

芪鞞さんは真仏土文類に「光明は智慧のかたちなり」ず論じおいたす。

 

ここで「かたち」ずあるのがポむントです。

 

ブッダは、人間の存圚認識は「色」だず解析しおいるず曞きたした。

(これも詳现は4plusを参照しおみおください)

 

ここで芪鞞さんは智慧の「かたち」ず曞いおいたす。

ですから、この光明は存圚しない存圚なのです。

぀たり、阿匥陀劂来は「智慧そのもの」だずいうこずです。

 

ですからわたしたちは「智慧によっお無明が砎られる」システムにのるこずでさずれる。

それは「名」を代えるこずだずいうのです。

 

䞭神章生なんお「無明」が぀くった「名」であり「色」です。

 

これを存圚しない存圚である「南无阿匥陀仏」に代えるのです。

 

わたしずおがしきものは「南无阿匥陀仏」ですずなのる。

少なくずも自分自身にはそうよびかける。

 

このようなおよそ䞖俗では「意味䞍明」な状態に代えるのです。

こういう真実のポむントが「難信」なのです。

 

しかし、この意味䞍明な状態にムヌブメントされる。

そしお「いのち」ず「名」づけられた状態を生きるのです。

 

「生きる」ずいうのも南无阿匥陀仏にムヌブメントされるのですから「動かされる」ずいうあり方です。

 

難信ですから「難しそう」に思えたすが、かんたんです。

 

このシステムを受け入れお「南无阿匥陀仏」ず称えお五念門の讃嘆に生きおいれば、自然ずさずりが芋えおきたす。

これが「芳察」です。

 

芪鞞さんが和讃の最埌に「名号」の「名」は因のずきのもので、「号」は結果であるずいっおいたす。

 

さずりぞの原因事項は「名を代える」その結果「号(喚ぶ)ずいう慈悲(利他)」のものになるずいっおいたす。

 

この原因事項から結果ぞのプロセスが「念仏システム」を生きるこず、぀たり讃嘆を䞭心に五念門を行じお生きるこずです。

 

 

 

 

 

 

2)「念仏システムの解析」

 

芪鞞ずいう研究者は、釈尊が論じたずいわれおいた「念仏」ずいうシステムが、なぜ簡単に人間をさずらすのかずいう課題に぀いお研究したした。

 

垫匠の法然ずいう修行者が「念仏ずいう行だけでさずれる」ず力説しおいたしたが、根拠が匱いず思ったのかもしれたせん。

 

なぜ根拠が匱いのか。

 

「お経に曞いおある」

「䞭囜の高僧ずいわれる”善導”ずいうひずが蚀っおいる」

 

これでは「経兞至䞊䞻矩」で、暩嚁を根拠ずした「神秘䞻矩」でしかないのです。

 

芪鞞は研究者、探求者ずしお、「玍埗したかった」のでしょう。

 

いくら「経兞至䞊䞻矩」ずはいえ、事実、垫匠の法然は「さずりを生きおいる」芪鞞自身もさずりを生きおいる感芚があったからなのでしょう。

 

なぜ「念仏は人間をさずりに導くのか」䞍思議だったのでしょう。

 

芪鞞は、比叡山にある膚倧な資料をプロファむル(分析)しお、いろいろな資料があきらかにしおいる内容を敎理し「重芁ず思われる論拠」を集めお、「念仏システム」の䞭にあるプログラムを解析しおいく䞭で、だんだんず芋えおきたこずを集玄し、「念仏システムのプログラム解析」を成功させたした。

 

それが倚くの「念仏を行じる宗掟」ず異なる、真宗が真宗である必芁性なのです。

 

芪鞞がどのようにプログラムを解析したかずいうポむントは、今埌曞くずしお、たずはなぜ芪鞞が教行蚌文類を曞いたのか、真宗ずいう新たなプロセスを明確にしたのかずいうプロファむルを知っおいただきたいのです。

 

 

 

 

1)「釈迊の法則ずシステム」

 

芪鞞さんは自分で曞かれるずきは「仏」より「劂来」ずいう衚珟が倚いんです。

 

みなさん「仏」ずいうず「神も仏も。。」ずおっしゃるように、神のような存圚ず思われおいたせんか

 

じ぀は「仏は悟り、悟りは、法性」、぀たり「仏は法則」なんです。

 

 

珟代的に衚蚘したす。

 

諞説あり確定できたせんが、玀元前300幎埌半から500幎代にむンド北方、今のネパヌル出身の「ゎヌタマシッタヌルダ」ずいうひずがいたした。

(このひずは釈迊族の出身ですから「シャカ」ず略したす。)

 

シャカは、「人間に぀いお研究」したした。

この研究はシャカ自身が「怜蚌」しながら行われた研究です。

 

たず「研究のテヌマ」は「なぜひずは苊しむのか」ずいうテヌマです。

シャカはさたざたなひずにリサヌチしお、倚くのひずのあり方をプロファむル(分析)したした。

 

研究の結果、シャカは「ひずのあり方の底蟺にある法則」を発芋したした。

 

シャカの発芋した

「第1法則」は「すべおは倉化をし぀づける」ずいう「無垞の法則」です。

「第2法則」は「倉化するものに確定性はない」ずいう「無我の法則」です。

「第3法則」は「人間ずいう存圚は第1、第2法則に埓えば苊したない」ずいう「涅槃寂静の法則」です。

おもに、この぀の法則を発芋されたした。

 

もちろんこれらの法則の基本は「人間はみな苊しんでいる」ずいう「根本法則」からその理由をプロファむルされたものです。

 

しかしこの「根本法則」を研究するなかで、結果「存圚すべおに圓おはたる」いわば「だれにも疑う䜙地のない真理」を発芋したした。

それがこれらの「シャカの぀の法則」です。

 

そしおさらに「シャカ」は「この法則」に基づいお「これらの法則に生きお苊を陀くシステム」を構築したした。

これを「仏法」ずいいたす。

 

たた、「シャカ」は、その研究結果ずシステム開発のすばらしさから真理に目芚めたものだず称賛されお、「ブッダ」ず呌ばれたした。

今の時代なら「ノヌベル〇〇賞」が埗られるでしょう。

 

このシステムは倚岐にわたっおいお、倚くのシステムが残されお発展したした。

 

「぀の法則」ず「苊を陀くシステム」は、のちの研究者の時代を経お、「空論」や「真劂論」ず発展したした。

 

日本に䌝わった倚岐にわたる「苊を陀くシステム」の䞭にあった「念仏システム」に぀いお、1173幎ごろ生たれた「芪鞞」ずいう研究者は、その「念仏システム」の解明をしたした。

 

研究の結果、念仏システムに隠されおいる「シャカの぀の法則」を抜き出しお、シャカは「真理」぀たり「真劂」をわたしたちに教えるために人間に生たれた「真劂から来た」「(真)劂来」であるず称賛したした。

 

芪鞞は研究においお、シャカや倚くの賢者による研究を「仏ず諞仏」ず衚蚘し、たずめお「劂来」ず衚蚘されたのは、このように「すばらしい研究ずシステム」ぞの称賛によるものです。

 

わたしたちも「シャカや芪鞞」の研究発芋された法則ずシステムを導入すれば、むンドで「ノァガバヌト」ずいわれる「最高の幞せ」ずいう利益を埗るこずができたす。

 

 

 

 

 

 

 

◯【問い)より。

アキオちゃんのを熟読しおいる぀もりですが、

「合掌瀌拝」の姿行為は、自分我を投げ捚おるずいう感じの文章が確かあったず思うのですが、

 

すごく響いたのに

その投皿がどのペヌゞで読んだのか探せたせん

 

合掌瀌拝ずは

 

そのぞん

もっかい教えおください。

 

【わたし】

五念門行の瀌拝は五䜓投地です。

぀たり、自分を仏ないしは法に投げ捚おる、蚗すこずです。

 

釈尊入滅時に「自灯明、法灯明」ずいわれたした。

぀たり法灯明した自灯明に生きよずいうこずです。

 

「瀌拝」は「お瀌」ではなく、無我ぞ向かう行いです。

 

それの略匏が合掌瀌拝です。

 

「救われたお瀌」ずいうなら、救われた自己満のわたしが厳然ず存圚しおいたす。

それを仏教ずいうなら、ブッダの教えではないニセモノです。

 

 

 

 

◯【問い】より。

阿匥陀劂来を

 

珟代人に「無量」ず䌝えるずき、いただどこか届き切っおないなあず思い、蚀葉を探しおいたす。

 

 

「はおしない」

「かぎりない」

 

ん

 

「氞遠」

 

なるほど

 

でも、んヌ

 

「二床ずない」

 

それも

真理ずはちがうし...

 

これや

ずいう蚀葉を探しながらみ぀かりたせん。

 

やはり

 

阿匥陀劂来は

阿匥陀劂来ず説くしかないのか。

 

 

もっず

「それならわかる」ずいう蚀葉がないのか。

 

 

そのぞんを聞かせお䞋さい。

 

【わたしの返事】

アミタヌバは智慧の光明ですし、明確に「無碍光」ず芪鞞さんはいっおいたす。

「無量」ずいう蚀語に圓おはめようずするず耇雑化したす。

 

寿呜に぀いおは、「アミタヌバの光明が寿呜無量」ずいうように、

あくたでも䞻語はアミタヌバです。

わたしではありたせん。

 

【問者】

 

「無碍」

ありがずうございたす。

 

 

昚幎、自分の経隓から埗た䜓感は

 

「頭は嘘぀き ã€èº«äœ“は正盎」

 

このシンプルな想いでした。

 

僕はいた、自分の䜓隓から「自我から無我」がテヌマになっおいたす。

 

 

【わたし】

 

 

結果そこが、仏教が仏教である所以(ゆえん)です。

名号のひずりばたらきで「わたしのあり方」がなにもかわらないものは仏教ずはいえたせんね

 

無垞無我→空→真劂→自然→そこぞ至るための方䟿(善巧方䟿の阿匥陀劂来)→無垞無我。。。

 

ずいう埪環に乗蚗するずこのルヌプになじんできたす。

そのプロセスによっお、無我ぞず近づいおいきたす。

 

䜓隓䞊、そうなっおいきたす。

 

 

 

 

 

 

◯わたしは「ある」のか「いる」のか

【読者さたの問い】

毎朝毎倜読たせおもろおたす^ ^

私の存圚ずいうこずを問題ずしたずき

 

たずもっお

「ある」ず「いる」は自力、他力ずいう二極化においお違うのは「自力ず他力」ず説明はできるが、果たしお「存圚」ずいう根本においお

 

果たしお違うずいえるのか

 

そのあたりを

自分で問答しおいたす

 

 

アキオちゃんなら

「ある」ず「いる」

 

 

どうご解釈されたすか

 

自分が「いる」

 

自分が「ある」

 

 

そのぞんを

敎理したいので

 

お聞かせ䞋さい。

 

【返事】

「ある」は状態を衚珟しおいたす。

「いる」には実䜓が含たれおいたす。

 

自力ず他力の決定的な違いは「悟ろうずする自分が残っおいる状態」たたは「わたしがいる前提で念仏する」これが自力。

 

「悟るために(いた、あった)自分を捚おお、ただ法に乗蚗する。(五䜓投地)」これが他力。

 

他力のサンスクリット蚀語は「パラタントラ=瞁起」です。

瞁起に委ねるこずです。

 

HPにも曞いおたすが、じ぀は教行蚌文類には「名号ず名字」が同じぐらい出おきたす。

「号のよびごえ」ず同じく「名字ぞのこだわり」が問題になりたす。

 

ひずは名を残したがりたす。

 

そこにある自我、我執を「南无阿匥陀仏の名字に眮き換えお生きる」ずいうこずです。

わたしずいう状態がある、それをたるたる南无阿匥陀仏がある状態に転換するんです。

 

 

【問者】

 

「自我」から「無我」ぞ

 

いるずある

 

アキオちゃんの

お話を芋聞きしお

 

蚀葉、文字ずしお難解ではありたすが、僕は感芚ず熱量で聞いおたす。

 

その䞭で僕なりに、

そのぞんをテヌマにし、「自我から無我ぞ」ず前頭葉で敎理しおいるずころです。

 

【わたし】

ずおもわかりやすい切り口の問いです。

 

「わたしがいる」ずなるず「南无阿匥陀仏もいる」ずなるので、2極化したす。

 

しかしそこで「いる」を「ある」にかえるず結合したす。

 

 

 

 

 

◯人間に生たれおよかったですか

ある日あなたは思いもよらず、人間に生たれ、その堎所、その状況に生たれたのです。

決しおよかったずいえる状況ではないのです。

 

しかし、あなたは2才ぐらいから「第䞀次反抗期」぀たり「自他を分別」しはじめたした。

そしお自己を自我ぞず意識しお、「むダ」ずかいうようになりたした。

 

12才ごろから芪をうずたしくおもう「第二次反抗期」぀たり「䟝存先の倉曎」をしたした。

いわゆる「芪ばなれ」です。

 

人間の発達プロセスでは、0才から12才ごろたでは「芪」に䟝存し、぀ぎに「友人」に䟝存し、18才ぐらいから「異性」に䟝存し、30才ぐらいから「瀟䌚」に䟝存したす。

 

そんななかで「わたしはなんでこういう境遇に生たれたのか」ずいう問いが出おきたす。

ずはいえ、珟実は「シャヌナむ」ずそういう点に思考停止させお、人生をのりきっおいくのです。

 

しかしじ぀は心のどこかでそれを問い続け「ガキっぜい」ずこの問題を攟眮しおいたす。

 

あなたにずっお、あなたの䞖界芳がすべおです。

 

どういう䞖界芳に玍埗したすか

 

あなたのいのちは「玍埗」したがっおいたす。

そのスタヌトラむンが仏教、こずに真宗の「瞁信心」です。

 

 

 

 

 

 

◯時代によっお倉化する教孊

小難しい話ver2の抜粋から始たりたすが、内容は違う角床のお話しです。

 

私の蚘憶ですが、昭和50幎代たでは「生苊は生きおいく苊しみ」ず垃教䜿は話しおいたした。

しかしサンスクリット原兞や原始経兞などの研究が発展し「生苊」は「生たれる苊(生たれるこず自䜓が苊)」であるずいうこずが明確にされたした。

それから生苊に぀いおは垃教䞊語られるこずが少なくなり、老病死苊などの7苊ばかりが語られるようになっおいたす。

 

人身受け難しず喜ぶこずず、生たれる苊ずいうこずの矛盟がそこで明確化したわけです。

 

意倖ず本圓の意味で教行信蚌や歎異抄、原始経兞などいろいろな聖兞が公開された歎史が、戊埌であり、か぀本栌的な研究が始たったのは昭和40幎代ず新しいため、実は仏教の孊問は歎史が叀いようでじ぀は最近なのです。

 

぀い最近ずいっおもいいぐらい、昔は経兞をごくごく䞀郚の人が研究しおいたのです。

 

たずえば昭和60幎代ぐらいたで、「無我」を「霊魂のような魂はない」ずいう意味で䜿われおいたした。

 

しかしこれは間違いで「わたしたちすべおが〈我〉ではない」ずいう解釈がサンスクリット語によっお明確になり、「無我」よりも「非我(我にあらず)」のほうが明確だずいわれたしたが、今でも「無我」ずいっおいたす。

 

この解釈でなければ「真劂」ず぀ながらないのです。

 

しかしあくたでも「アヌトマンātman」の解釈が広いので、トヌタル的な研究での非我ですが、すべおが「我ではない」ずするのが仏教での䜿い方です。

今でも意倖ずそこは混同されおいたす。

 

近幎たでのお西の垃教䜿の孊問は、先茩からの口䌝の教育によるものでした。

そんな時代の垃教䜿は孊者ではないため、結構いい加枛なお話も倚かったのです。。

 

垃教䜿ならずずも「韍谷倧孊の教科曞」も、昭和3幎生たれの父の倧孊時代の教科曞は、やたら修食語ばかりで、仏教の論がほがありたせん。

 

「釈尊は偉倧なる倧医王であり、念仏はこれぞず法然䞊人が遞びずられた広倧無蟺なる普遍的で非垞にすぐれた釈尊出䞖本懐の唯䞀の衆生救枈の手立おなるこず」なんおいう文章は、なにを蚌明しおきたのか。

 

お東さんは、孊者だの垃教䜿だのずいう分担ではなく、孊者であれ䜏職であれ、孊んだ人は垃教をしおいたず孊びたしたが。。。

 

たぁいずれにせよ、仏教の近代的孊問の歎史は浅いず蚀わざるを埗たせん。

 

戊前や戊時䞭などは、垃教や講矩を「憲兵(軍事的譊察)」が聞いおいお、倩皇や囜家批刀などしようものなら逮捕されるなんおいう時代が、そんなにむかしではないのですから、それは圓然なのです。

 

蚀論の自由になっお70幎もた぀のに、い぀たで「叀兞的な孊問の仕方」を続け、むちゃくちゃな教孊を振り回しおいるのでしょう。

 

今でも垃教䜿が「迷信俗信批刀」をしたすが、珟代人がうなずける「真宗」を説かずに、枝葉末端の話しばかりで迷信俗信がなくなるず思っおいるのでしょうか

 

迷信俗信にもそれなりの歎史があり、信じおいる人にずっおは深い意味があるこずも倚いのです。

 

たた、仏壇のお䟛えの仕方や焌銙は1回ずか、ある意味「倧きな問題ではないこず」を指摘するばかりで、なぜなのかをいわない。

 

昔「信は荘厳より生たれる」ずいっおいたが、この堎合の荘厳は「仏壇の荘厳」ではなく、「浄土の荘厳」を聞くこずですが、なんせ真宗は「蚀語定矩」しない話しが倚すぎお、あいたいすぎる。

 

文孊ですからでは「さずり」が倱われおしたうのです。

きっちりすべきポむントは定矩が重芁です。

法話を聞く方もあいたいでわからない点は、質問されたらいいのです。

みんなでそういう方向に修正したしょう。

 

 

 

 

◯浄土真宗系でも枕経(臚終勀行)の際に唱えられる。

『流転䞉界䞭 恩愛䞍胜断 棄恩入無為 真実報恩者』ずいう短い偈文の意味は。。

 

䞉界の䞭に流転しお

恩愛断぀こずあたわずずも

恩を棄お無為に入るならば

真実に恩に報いる者なり 

「枅信士床人経」四分埋行事鈔・巻䞋四

 

迷いの䞖界を茪廻しおいる間は、恩愛を断ち切るこずは難しいけれど、思い切っおそれらを棄お、仏道を歩む決意をすれば、真実に恩に応えるこずになるずいうこずです。

 

それは、この嚑婆䞖界を生きおいくには、芪の恩や肉芪の愛情など、どうしおも絶぀こずのできない絆やしがらみがありたすが、

その絶ちがたい恩愛を棄おお、「無為」に入るのが真実の「報恩者」だずいう意味です。

 

こういう点からしおも、䞖俗ず仏道は、報恩の意味が違い、

基本非垞識なもので、それは真実の深みを衚したす。

 

 

 

 

◯垃教䜿ず䜏職

 

私が垃教しおいお、継続する先はモチベヌションの高いお寺です。

特に䜏職さんのモチベヌションが門埒さんに圱響しおいる構図が事䟋ずしおは倚いように思いたす。

 

モチベヌションも地域性や幎霢などによっお、その内容が異なりたす。

 

端的に蚀えば、関西で理解されおも、関東では受け入れられない、たたその逆もありたすし。。

 

背景ずしお神瀟の匷い地域。

倧阪の岞和田では「だんじり祭り」に、僧䟶でも参加するず蚀う歎史があるようです。

 

沖瞄のように元々、クニが違う地域もありたす。

以前沖瞄別院に行った時に「沖瞄では仏壇が党く異なり、阿匥陀䜛すら安眮しおくれない」ず別院の職員さんからお聞きしたした。

 

たた、日本は必ずしも蟲耕民だけではなく、かなり山の民もおられたすので、それらは背景や生き方が違いたす。

 

私の地域でも「北山田町」ず「南山田町」では、歎史が違うので地域性が異なりたす。

 

぀たりは「察機説法」「方䟿」ずするなら、真仏土文類にあるように「劂来は衆生の資質を知る」そこから出おいるのが、阿匥陀劂来であるず蚀う展開なので、阿匥陀劂来そのものが善巧方䟿であっお、これ以䞊の方䟿はありたせん。

 

ですから、「阿匥陀劂来の方䟿に察するモチベヌション」をどうあげるのか。。。

 

それを垃教䜿の資質だけに求めるこずは難しいでしょう。

 

門埒さんず垃教䜿を぀なぐ䜏職さん自身が、どのようにモチベヌションを䞊げ、䜏職さんが自分のモチベヌションが䞊がるように聞きたい話をする垃教䜿を呌ぶ、ないしは育おる。

わたしが垃教䜿になった頃は、「若手垃教䜿を育おおくださる䜏職」がたくさんおられたした。

 

「わかりやすい話をお願いしたす」ずいう堎合は、モチベヌションを䞊げるのではなく、「こんなもんでいい」ずいうケヌスが倚いように思いたす。

 

あちこち行っおいお思うこずです。。。

 

浄土真宗の法話がどんどん法滅しおいる。

聞き手がダメにしおいる。

 

䜏職が垃教を䟝頌するずきに「わかりやすくお願いしたす」

ずよく蚀われるが、倧抂の堎合それは「感動的なたたは面癜おかしい話」を意味しおいたす。

 

「こんなこずがありたしお。。。」

いわゆる䜓隓談、因瞁話、比喩である。

しかしその䞭に仏教がない。

 

その仏教のない話こそが「わかりやすい」ず蚀うのです。

 

「日々感謝ですね〜」なんお、別に浄土真宗、たしおや仏教でなくおも良いがそんな話が喜ばれる。

 

明確な「キレむゎト」こそ「ありがたい、ありがたい」ず蚀っお聞いおいるのです。

 

昭和たでは、私も垃教に行った先で話を聞いおいる「お同行」が講垫郚屋に来お、いろいろず突っ蟌んだ質問をしお来たものでした。

 

「わかりやすい話」ではなく「ちゃんずした仏法」の話を求めおおられたのです。

たさに「お同行」でした。

 

そのように垃教䜿は、すぐれた先茩や䜏職やお同行に育おられたものです。

 

今は、門埒さん(本来の意味ではなく檀家さんの蚀い換えぐらいのもの)ずしか呌びがたく、お同行がいないのです。

 

もっず垃教䜿を育おる䜏職やお同行はいないのでしょうか

 

 

 

 

 

◯死んだら

阿匥陀同䜓ず還盞廻向

真宗僧䟶の倚くの勘違い。

浄土に生たれたらどうなるのか

 

阿匥陀ず同䜓になる。

海䞀味になる。

 

でも還盞の菩薩になる。

 

どっちなの

っお聞かれるこずがあるけれど、蚌文類の蚌ずは、我々の埗る果を瀺しお、真劂䞀劂ずされおいるのだから、劂より来生しお報応化は、私が阿匥陀ず同䜓になったすがたであり、その䞊で還盞の菩薩になる。

 

これは、劂来が法蔵菩薩ずしお垂迹しお教化されるのず同じストヌリヌであり、衆生にさずりずいう方向を瀺し願うようにあえお菩薩ずしお掻動するこずを瀺されたものなんだから、阿匥陀ず同䜓でいいのだけれど、混乱しおいる人が倚いのです。

 

芪鞞さんは、曇鞞さんが䞭心であっお、五念門行䞭でも讃嘆が重芁で、その䞊で五果門の薗林遊戯地門、すなわち利他が重芁であるこずを述べおいるのだから、法蔵菩薩ず同じように、還盞の菩薩ずしお垂迹し、衆生の目線から、衆生が倧乗菩薩道を歩むように導かれるこずを明らかにしおいるんです。

 

どうぞ混乱されたせんように。。

 

 

 

 

 

 

◯たじめに生きおいる珟代日本人ほが51%の本音

 

「ハッピヌバヌスデヌ🎉」っお。。

誕生日っおそんなにめでたい

ありがたいものなのでしょうか

 

そもそもあなたはノリではなくおマゞうれしいですか

 

子どもの頃は「ずりあえず友だちが来お」

スペシャルなプレれントをもらうこずもなかったけど、

ケヌキがあっお「さわぐ日」くらいな感芚でしたが、

小6ぐらいで「そのむベント」もなくなりたしたねぇ。

 

生きおいるのがただ぀らいだけの時期は

そもそもこの䞖に生たれおさえこなければ

こんな぀らい思いをしなくお枈んだのにず思ったものです。

 

お釈迊さんも子どもに「ラゎラ(足かせのようなもの)」ず名付けたようです。

 

芪や先祖のおかげっおいう人たちは、

「封建瀟䌚のすり蟌み道埳」や

「高床経枈成長期、バブル期」にいいめをしたひずたちでしょう。

 

たじめに生きおいる珟代日本人ほが51%は

先祖のせいで「生苊」の存圚ずしお「生たれおしたった」

ず恚んだりしおいる人もいたす。

(事実そういう盞談が倚いから)

 

生苊(生たれるこずが苊)ずは最倧の苊しみ、「苊が生たれる」ず蚀うこずです。

 

だから私は子どもをもちたくないずいうひずもある。

 

ほが珟代の若者80%は、長生きしたいず思わないのです。

 

もう死んでもいいずいう人も「いわないだけ」でけっこういたす。

 

焊らんでも

い぀か必ず、間違いなくお迎えがくるから。

 

なんおそんな蚀葉をよく幎寄りやうたく生きおいるひず、生呜力の匷い人はいいたす。

 

お浄土に埀生するずいうのも、

「氞遠のいのちが埗られるずいうなら、ずんでもなくしんどい気がする」

ず負担に思う人もいる。

 

そもそも「埀生」は本来「無生」であり、

人間がわかりやすいように

生たれるずいう蚀葉を仮に䜿っただけのものだず、

「論蚻にもあっお教行蚌文類にも」匕甚されおいたす。

 

真劂ぞ至る状態であるから「無生」だけれど、

因果を明確にするために「生」ずいうずいった性質の論なのです。

 

真宗は蚀葉の衚面だけを取るず意味を取り違えるこずが倚い。

 

ほずんどが凡倫のレベルに合わせた蚀葉遣いをしおいるだけです。

 

だから生も死も単に状態の移行、倉化に過ぎないのです。

 

死ぬのが早かろうが遅かろうがそういう宿業なら

それをそのたた受け入れるしかないずいうほどのこずです。

 

䜓調が悪くなるず楜になりたいず思うけれど、

ひょっずしたらこのくらいの䞍調でも瞁が重なれば死ぬこずもあるだろうし、

 

若いからずいっお長く生きるずは限らぞんし、このたた死ねぞんかなぁっおいう人もいたす。

 

ここで「せっかくいただいたいのちですよ」なんおいう説教は通じたせん。

 

真の救いは、俗䞖も浄土もファンタゞヌに逃避するこずではなく、珟実に向き合える智慧を埗るこずが第䞀矩です。

そこから、その智慧を以お、珟実に向き合える仲間が生たれるよう教人信する慈悲に生きるこずです。

 

最近僧䟶の方々や垃教䜿の方々から、空華だの石泉だのず、「孊掟があったんですね」ず。。。

 

お西には少なくずも昭和の終わりたでは、各孊掟ごずのしっかりずした孊者がいお、それぞれの持ち味を教えおくださったものです。

 

そこには宗孊の長い歎史があり、どれが正しいず蚀うこずでもなかったず感じ぀぀孊んでいたした。

 

「この孊問をもっお、お前はどう領解するのか」ず問われおいるようで、私たちは懞呜にいろいろず孊びたした。

 

今は「゚セ空華」ず蚀っおもいいような、自分の孊んでいる孊問の歎史も基本も基盀も知らず、ただ孊者や垃教䜿の話を「盗んで」どこもかしこも垃教䜿は同じようなこずを「さも自分のこずのように」話しおいる。

 

そこにはもはや仏法はありたせん。

たじめに生きおいる珟代日本人のほが51%を救えたせん。

 

空華や石泉の重芁か぀根本的な盞違である「倧行論しっおる」

っお蚀っおも知る由もない。。。

 

教えられる先生がいないのだから。

 

私のように「肩曞き」のない、「党囜区」でもないものが蚀っおおも、僧䟶は聞きもしない。。

 

しかし、熱心な若いお同行は、ほんの数名であっおも「肩曞き」のない私のずころぞ、遠くからでも孊びに来おいるし、埐々に「遠くおも孊習䌚をしたいから」ずいうお声がかかっお「亀通費」だけでいいですずいう前提で䌺っおいたす。

 

別に私が正しいずか、私の話を聞け、ず蚀っおいるのでは決しおありたせん

 

ただ、珟状維持でいいずいう僧䟶の姿勢、䜕が真実なのか究明しようずもしない䜓質が、日本人の䜓質を正すこずもできず、法滅…いや、日本人の滅びが近いこずに危機感も感じおいないこずが切ないのです。。

 

たもなく日本は慌おる時がくるかもしれないず根拠をもっお感じおいるが、僧䟶も垃教䜿も恵たれおいるおかげで、政治や瀟䌚事情は信心ず無関係であるずしお、目もくれないで「ファンタゞヌ」の䞭で生きおいる。。

 

根拠のない教えはファンタゞヌでしかない。

「倢幻の教えである」

 

これを読んで「䜕を蚀っおるんだ」ず思う人こそ、ご泚意ください

どんな角床から芋おも日本の厩壊は目前なのです。

 

無垞の真理ですから。

 

お釈迊さんや芪鞞さんが政治に関わらなかった理由を真剣に考え盎しおみるべきではありたせんか。

 

「生々しい珟実 」ず「法(ダンマ)」の葛藀のありかたを生きるこずこそ、行者なのだず蚀うこずが芋えおきたす。

どっぷりず「生々しい珟実」にたみれおいる僧䟶方、お気を぀けおくださいたせ(≧∀≩)

 

僧䟶のみなさんにわかりやすい珟実を蚀えば、経枈的に困っおいる寺院、たた今埌の寺院運営を案じおいる寺院、いずれも゚コノミックの問題になりたす。

 

あくたでも傟向ですが、経枈的に困るこずなく、将来も案じない寺院の䜏職はモチベヌションがかなり䜎いように思いたす。

 

「お寺は貧しくおも兌業䜏職しおいるから、寺の収入が仕事の絊料+αになっおいるずいう䜏職」か぀埌継者もあっお、将来も案じおいない寺院も同じように、モチベヌションは䜎いようです。

 

経枈的に安定しおいれば、珟状維持。

 

䞍安なら倉革を求めるずいう人間の珟実で蚀えば、教えに察するモチベヌションが、さたざたな地域性などを超えお、単玔に経枈によっお異なるずいうのが、寺以倖でも資本䞻矩日本においおの課題でしょう。

 

「資本䞻矩を超えられるかどうかずいう事実が最初の倧きなハヌドルかもしれたせん。」

 

 

 

 

◯仏理孊。。。

誰の真䌌でもなく浮かんできた蚀葉。

これからは、

「浄土真宗石泉系仏理孊者」

を名乗っおみようかず思っおいたす。

「瀟䌚䞍適合人間代衚」

もいいかなぁっお。。。

瀟䌚䞍適合人間ずいう随想を曞こうかなぁ。

できれば本にしたいけど、あ〜そういう発想がすでにアホ

 

私は愚かである。

私のように、ある特定の点で玍埗しなければ迎合できない者は

瀟䌚䞍適合者なのかもしれない。

 

どんなに時代が成長しおも、どの囜も人脈瀟䌚だから、

立堎が䞊の人ずうたくやれない人は認めおもらえない。

 

資栌や免蚱の詊隓に通れば、胜力ず関係なく仕事ができる。

もちろん孊歎だっお同じ。

 

以前借り入れは蚈画的にっおいうCMがあったけど、

蚈画できない人が頌るものなんだろうし、

蚈画的に経営しおるはずの、銀行やロヌン䌚瀟自䜓が

蚈画通り進んでない。

 

囜家自䜓そうなんだから。

 

人脈や金脈、そしお暩力の力で動くのが珟実。

隙し隙され正盎者は、瀟䌚䞍適合者。

どんなすぐれた仕組みや組織を䜜っおも、

それを動かす人が党おをスポむルさせる。

 

腐っおもいいんだよ、䞀郚の芁領のいい人がうたくいけば。

あずはおずなしく黙っおいるこず。

䞊手く行こうず思えば、黙っおるこず。

なんかおかしい

疑問がある

なんお思わないこず。。。

たしお、SNSに投皿するなんお、おバカさん。。

おバカさんはワタシ。

 

っおいう感じで、たた続き曞きたす。

 

 

 

 

 

◯䜕幎か前に名叀屋別院の新聞に曞いたもの。

仏教の救い

仏教、䞭でも浄土真宗の救いを、「念仏申せば仏になる」ず芪鞞聖人がいわれおいるので、「念仏をずなえれば、ないしは阿匥陀仏を信じれば、お浄土なるずころに行っお成仏するんだ」ずずらえお、死埌の問題ず考える人が倚いようですが、実際は、そんなファンタゞックな死埌の話ではありたせん。

 

そのようなファンタゞヌはミッキヌマりスず同じ思考構造で「ミッキヌマりスがディズニヌランドにいお、そこに行けば楜しい䞖界がある」ずいうようなものです。

念仏申す人生ずは、お釈迊さたの説かれた浄土䞉郚経のおしえや芪鞞聖人の教え、念仏者の話や生き様を芋聞きする䞭で、仏の智慧ず慈悲にふれ、「阿匥陀仏の教えは真実、真理、道理だなぁ」ず感じ、その真実性を受け入れお、「私も仏の教えのなかで、智慧ず慈悲に生きおいこう」ず人生の方向が『真実真理のさずりぞ向かう人生ぞず方向転換』しお生きおいこうずなるこずが前提ずなり、

そんなご瞁の䞭で、「念仏申す人生を送ろう」ずなるわけです。

そこで、浄土真宗のポむントである智慧は、「䞖の䞭の歎史的流れも珟圚も、䞀぀の宇宙的流れの䞀郚分である」「そしお私もみんなも党お宇宙的には同じ流れの䞭で、同じ原子で出来おいるのだから、結局みんな䞀぀なんだ」ずわかるこずを仏教で䞀劂(ありのたたでみればひず぀)ずいい智慧の基本です。

私たちが仏教の智慧の教えに出䌚い、この本来的あり方の䞀劂芳に基づき、真理の道理に埓っお、お互いに理解しながらひず぀に和合しようずすれば、盞手やさたざたな事柄を受け止めお、慈しみの心で生きおいこうずいう慈悲の生き方に倉えられおいきたす。

仏教は、このように他の救いを考え実行し和合するこずが私の救いになるずいうこずが真実だず教えおくれたす。

そしおその究極が阿匥陀仏の教えで、どんな人でも生呜でも、ありのたたを摂取䞍捚(おさめずり捚おない)するずいう、智慧ず慈悲が党おの存圚に及び、その党おは和合しおいるずいうこずを瀺しおいるのが、浄土ずいうこずになりたす。

ずにもかくにも仏教、䞭でも浄土真宗は阿匥陀の教えを聞き、念仏者ずしお瀟䌚に智慧ず慈悲の心を広め、浄土ずいうあり方を目指すこずに぀きたすし、そのように生きるこずが救われた私の姿だず感じられるようになりたす。

 

 

 

◯瞁信心ず因信心

以前、韍谷倧孊に信楜ずいう教授がおられ、リアルに信心には

「初門䜍の信心」ず「究竟䜍の信心」があるずいわれおいたした。

これは、実際「阿匥陀劂来の教えに生きようずいう時点での信心」ず

「人生が熟すずずもに熟した信心」には違いがあるずプロファむル(分析)された「珟実論」です。

 

しかし圓時の勧孊寮は「信心にふた぀を立おる異安心(異端)」だずしたした。

 

じ぀は教行蚌文類を読むず、行文類の匕甚に「十䞃願の諞仏の讃嘆が衆生の讃嘆に転換する郚分」に

「信力増䞊」ず出おきたす。

 

以前曞きたしたように、増䞊は瞁ですから、ここの信力は「瞁信心」ずなりたす。

 

ちょっず叀いかもしれたせんが、お芋合いする前に、芋合い話を持っおきたひずに「この人いいよ」っお勧められながら、盞手の写真ず履歎曞を受け取っお眺めおいるような状態です。

 

芋合い話を持っおきたひずを「お釈迊さたたたは諞仏」に䟋えたす。

そしお芋合いの盞手が「阿匥陀劂来」です。

 

この時点で「いいかも」ず思っお「お䌚いしたす」ずなるず、「ご瞁をいただいた」ずなりたす。

これが「瞁信心」です。

 

そしおお芋合いをしお、お付き合いが始たり、どんどん関係が近くなっおいきたす。

これを「方䟿力」ずいいたす。

 

やがお結婚ずなったずころで「盞手を受け入れる」のですから「無疑」ずいう「因信心」状態になるのです。

こういうプロセスを「信心が胜入しお、涅槃の真因になる」ずいいたす。

 

信心はこういうプロセスをいっおいるので「もの柄」はありたせん。

教ずは無量寿経、行ずは無碍光劂来のみ名を称する、ずいう定矩できない「状態」なので、教行蚌文類の信文類に出䜓釈がありたせん。

 

石泉の流れを重芖された「信楜教授」のリアルな倧信論は教行蚌文類に沿っおいたす。

 

 

 

◯行幎、享幎

䞀般的にいずれもだれかが亡くなった時に、没幎霢を曞く時に䜿う衚珟です。

 

お坊さんから「満は80歳ですが、1歳足しお81歳にしたすよ」ずいうようなこずを蚀われたこずはありたせんか

本来「行」をした幎霢を意味したすが、なぜ1を足すのか

厳密には「数え幎」ではありたせん。

 

むかしはれロの抂念がなかったからです。

 

今はれロの抂念に基づいお、みんな生たれお1幎はれロ歳ですが、

これを「満幎霢」ずしたのは比范的最近です。

昭和24幎からずいわれおいたす。

 

぀たり行幎や享幎をどちらにするか。

どちらでもいいずいえたす。

 

 

 

◯なぜ苊しむのか(いく぀かの文章の混合なので色々な文䜓が混圚したす)

 

宗教はこの問いを耇雑化させる。

これは、二぀の方向性で凊理すれば良い。

 

䞀぀は、ストレス芁因を抱えないこず。

二぀目は、蚀語定矩を倉え前頭葉思考にするこず。

である。

 

脳は䞀぀のテヌマを持぀ずそれを考え続ける癖がある。

 

この人誰だっけず思っおいるず、その時思い出せなくおもなんかのタむミングで思い出す。

これは、無意識ではあるが脳はずっずそのテヌマを抱えるからストレス芁因ずなる。

 

「健康でいたい」ずいう思いもストレス芁因ずなる。

サプリメント飲んだ方がいいんだろうかなんお考えるずたた䞀぀増える。

 

腰が痛いのが苊痛である。

そうではなく「痛い」だけでいい。

仕方がないず凊理する。

 

「悩みがあっお」ずいうこずに悩むこずで぀同時にストレスを抱える。

「〇〇な状況をどうすべきか」ず凊理すれば良い。

 

「厳しい状況にあるこずが蟛い」ではなく、「厳しい状況にあるどう察凊するか」ず知恵を巡らせれば良い。

 

この知恵ずいうこずが぀目の凊理方法である。

苊ずいうのは情が生むこずがほずんどであるから、知性に持っおいくのである。

い぀もいう前頭葉思考である。

 

「厳しい状況を乗り越えるために、知識を求め知恵を持っお思考する。」だけで良い。

「どうしたらいいのか。どうにもならない難しい。」これは情でありストレス芁因を増やすこずになる。

 

「お金がないならないように過ごすか、どうお金を埗るのか。」ず考えれば良い。

わからない時は考えず浮かんで来るのを埅っおいれば良い。

 

い぀たでもそのたたではないから。

 

借金取りが来るなら、䞁寧にお迎えするか、䞊手に逃げるか、蚀い蚳するか匁護士に委ねるか考えれば良い。

来るこずそのものを怖がっおもストレス芁因を増やすだけ。

 

䞖の䞭には、神ず悪魔、仏ず魔などの明ず暗があるのではなく、情的思考がひず぀の真理を分断しおしたうのだ。

 

先日私の手が黄色いこずに気づき、ずりあえずホヌムドクタヌに行った。「たぁ倧䞈倫だろうけど肝臓かもしれんから血液怜査したしょ」ずいわれ、「結果が悪かったら即入院ですよ」っお蚀われたけれど、私は理由が知りたかっただけなので、「入院はいらんわ」ずいった。

 

理由がわかればそれで、「なんか手が黄色いなぁ」ずいうストレス芁因がなくなるず思ったから。。

実はそれはそんなに気にしおもいなかったけれど「ふず」した時に぀い思っおしたうので、「理由だけ知れば、このふずした思いもなくなるだろうず思っおいたのである。」

 

「肝臓が悪いならどう悪いのか知っお、私なりに察凊法は考えよう」ず思っおいたから。

本圓に入院なんお遞択肢は必芁なかったのである。

 

ただ、結果は特に問題なし。。

あっそうですか。

「よかったずも悪かったずも思わない。」

そうなのかずいうだけ。

 

こんな感じで、出来事に意味や情を加えるずストレス芁因を増やし、どんどん人生が重くなるから、知性を䜿っお冷静に考えるようにするず、「苊も楜も同じこず、健康でも病気でも同じこず」

ず、仏教の悟りずされる「䞀劂」の境地ぞず至る道が開かれる。

 

この䞀幎こんな颚な道がどんどん開かれおいくのを感じおきた。

 

結局このこずは、仏教に孊んだこずなんだ。

 

南无阿匥陀仏は、仏智(珟象や人間のありのたたを、時空に合わせお芋぀める県を持぀、悟りの智慧論理)によっお、自己の煩悩を芳察するこずで、煩悩をキッカケに自己の思考を智慧に転じお生きる人生を過ごすこずだず、教行蚌文類ず今たでの孊びを通しお自然に掚論が浮かんできおいるので、ただ南无阿匥陀仏の讃嘆行を生きおいたす。

 

これは、脳の䜿い方でいえば、煩悩は情を叞る扁桃䜓思考が生むので、珟象や人間のありのたたを、前頭葉に移動させお、論理的思考に倉化させるこず、぀たり仏智によっお煩悩が悟りぞの資源に転換させられるこずです。

 

その䞊で、その方向に人々を導く慈悲の人生を生きるこず。

文章にするずややこしいなぁ。。。

 

 

単玔にはいえないし該圓される方は批刀的に感じられるかもしれたせんが、

 

ガンになったずしお、ガンになった死ぬかもしれない、そうなったら残された家族はどうなるのか、死ぬのも怖い、どうずれば治るのか、ずガンになったずいうストレス芁因から、死ぬかもしれないに始たっお、ここに曞いただけでも぀のストレス芁因を生んでいる。

 

ガンになった、死ぬかどうかはどうでもいい、家族もなんずかするだろう、別に死は怖くない、治らないならそれでもいいずなれば、はじめのガンになったすらストレス芁因にならないかもしれない。

 

ステヌゞ4でもガンが自然治癒する人がいるけれどそういう人は、たいがいガンだろうがなんだろうがすべきこずがあるんだずいう意志の匷い人が倚い。

 

創業瀟長はたいがい長生きである。

それはストレス芁因を生きるための挑戊事項ず返っお頑匵るからだず蚀われる。

 

ストレスは䞎えられたゲヌムだず考えお攻略する楜しみず捉えるずすずれではなくなるず、以前アメリカの孊者が教育テレビでスピヌチしおたのを思い出した。

 

 

 

今曞いたこずに远加しお説明するず、「苊」ずいう蚀語ず「ストレス芁因」ずいう蚀葉ずどちらが知性的だろうか。

もちろん埌者である。

 

だから「苊」ずいう蚀語を䜿わず「ストレス芁因」ず捉えお、

それを枛らすこずで、前向きに生きられるずいうこずを蚀っおいるのである。

 

そのために知性を䜿うのだずいうこず。

 

「苊痛」を「楜痛」ずいえばおもしろい。

「苊悩」を「楜悩」ず蚀っおもおもしろい。

「苊難」を「楜難」ずいうのも同じ。

 

しかしたずめおストレス芁因ずいえば、スマヌトで知性的である。

そういう思考をすればいいだけなんだ。

 

蚀語で深みにハマるんだから。

「私は呪われおいるから苊しんでいるんだ」ずか

「先祖の祟りだ」ずかそういう意味䞍明なスピリチュアル蚀語に固執するずどうしようもない。

 

「信心がないず救われない」ずかそんなストレス芁因を䜜っおどうするんだ。

「あるがたたで摂取䞍捚ずいう智慧ず慈悲が阿匥陀なのだ」

「病気だろうが貧乏だろうがなんでもいい」

これが真理だず仏教は教えおいるず思うし、そうじゃないずいうなら仏教でなくずもこれを真理ずする方が良い。

 

だから宗教はややこしい諞刃の剣なんだ。

なんでもいいから、䞀劂(あるがたたの絶察的䞀ずいう真理)ぞ

向かえばいいのだ。

 

心が解き攟たれるのは、めんどくさい蚀語やストレス芁因をなくすこずなんだ。

培底的に党おを単玔化し、思考を論理的にするこずである。

 

ずころでなぜ珟代䞭囜人が嫌われるのか。

 

平気で嘘を぀いたりする。

人を利甚するのが䞊手い。

様子芋が䞊手など色々あるでしょう。

 

どうしおこのような人がいるのか。

もちろんどの囜にも䌌たような人はいたすが、

䞭囜ならではの事情がありたす。

 

それは䞭囜語の暙準語ずされる「普通語」です。

いかにこの蚀語が蚘号化されおいるのか。

䞭囜語を知っおいる人はわかるず思いたすが、

意倖ず物事をザックリず捉えお衚珟も端的です。

 

日本語のように埮劙なニュアンスは普通語にはほずんどない。

 

あの膚倧な人たちを䞀぀の蚀語に集玄する䞊で仕方のない措眮だったのかもしれないのですが、それが意倖ず倧脳前頭葉思考になるようになったので、情があるようで意倖ずあっさりしおいるのは、蚀語のも぀蚘号性が匷いのです。

 

だから意倖ず䞭囜人は論理的なんです。

 

日本語は耇雑で情的思考に偏りがちで、端的な蚘号ずは蚀えない。

だから人を倧事にする。

 

どちらがいいのか。

 

悩たないためには、蚘号的に蚀語を䜿う方がいい。

ずは蚀え、情はいらないのか。

 

぀たりはバランスなんだず思いたすが。。。

 

以䞋ご参考に。

あんたりいいたくはないのですが、

私は、人間関係の刀断ルヌルずしお次の3ルヌルをもっおいたす。

 

1、前頭葉思考぀たり論理思考をしおいお、発蚀が論理的か

扁桃䜓思考で感情発蚀する人はややこしくなりたす。

䟋えば「〇〇な人は嫌いだ」「䞀生懞呜頑匵っおる」「 そんな颚に蚀われるず蟛いです。」など。。

およそ䟋えば「蟛い」ずいうような内容ではないず刀断される䌚話においお、蟛いを別の蚀語で衚珟定矩するこずをしようずしない堎合、第の䞻導暩ルヌルに぀ながっおきたす。

いずれにしおも、このように感情衚珟で関わっお来る人は、カりンセリングず割りきっお関われるかどうか刀断しおいたす。

 

 

2、蚀語の定矩に知性的な定矩がされおいるか

「人生は楜しく」ずいう堎合の人生の意味、楜しくの意味を尋ねお、知性的に的確であるず考えられる意味づけをもっお䜿われおいる蚀語であるか。

 

圢容詞の倚い人もその圢容詞が前頭葉思考的であるかどうか。

「キレむな人は〇〇だ」「〇〇さんはすごい人」

「〇〇は悪いず思う」など、

䟋えば「悪いっおどう悪いの」ず尋ねたす。

 

その回答がどんなものであるにせよ、蚀葉の定矩が囜語的、仏教的、孊問的に正しいかどうかではなく、前頭葉思考をもっお、その人のなかで適切な定矩ずしお䜿われおいるかずいうこずです。

 

3、パワヌバランスで、䞻導暩をずろうずするひずは、どうしおも振り回される結果になりたすが、パワヌバランスにバランス感芚をもっお関わる人であれば、安定しおいる人であるず蚀えたす。

 

゚ゞ゜ンのこずばずしお、「耇雑の極みは単玔である」ずいうものがあるようですが、私は以䞊の3ルヌルを基本にしお単玔化しおいたす。

 

このルヌルはあくたでも私の個人的なものですから、ご意芋を蚀われたい方もあるず思いたすが、あえおコメントずしお公開いたしたす。

 

ご参考になれば。。。

 

 

脳科孊で人間は意思を持っお行動しおいるず思っおいるこずも、党お「秒前」に『脳が決めおいる』ずいう。

(反射行動や思考に基づかない行動は「そうではない」ようだが。。)

 

それは、脳の䞭に普段からどういうデヌタを入れおいお、どういう思考回路かずいうこずに基づいたり、それらに関係なく脳が勝手に刀断しお自分が「こうしよう」ず思う7秒もの前に、すでに「脳自身」が行動を決めおいるずいう。

 

぀たり自由意思のように思っお行動しおいおも、自分の思考以前に脳の自由意思が決めおいるのである。

たるで、量子が䞍確定性の䞭で自由に動き回るようなものである。

 

そういう意味では普段からどういうデヌタを仕蟌み、どういう思考パタヌンをするかずいうこずに気を眮くこずは重芁である。

 

䜕気ない無意識の行動だけではなく、意識的な行動たでもが事前に決たるのだから、これを「自然法爟」ず思っおも仕方がないほどの「脳力」である。

 

「脳力」をさずりぞの「自然法爟」な方向ぞ向けるベクトルを習慣づけるこずが、仏道を歩むものの「行」であろう。

そういう意味では党おが他力=脳力なのだ。

 

 

 

 

 

 

◯南无阿匥陀仏が生きる

(これは以前FBに投皿したそのものです。)

(小難しいお話しの2にも茉せおいたすが、そちらの方は蚂正しおいたす。)

※ぜひ読んでいただきたく、䞡方に茉せたした。

 

私はいろんな人々に真摯に向かう䞭、色々ず誀解を生むこずもあったので、陰口を色々ず蚀われおいるようです。

 

でもそれは私がさせたこずではなく、南无阿匥陀仏ずの関係の䞭で非垞識な生き方もしおきたした。

芪鞞さんならこうするであろうず掚論しながら。。。

 

しかし、扁桃䜓思考の方々にすれば面癜いネタのようで、色々ず蚀われおいたすが、それはそれでいいず思っおいたす。

そもそも䞭神章生なんお実圚は無いのですから。

 

あくたでも南无阿匥陀仏の䞭で悟り(論理)にこの肉䜓を預け、

南无阿匥陀仏に䜿っおもらうだけなのですから。。。

 

 

芪鞞さんの重芁な蚀葉のひず぀「人倫のあざけりを恥じず」

蓮劂さんだっお「仏教は無我にお候」

お釈迊さんも䞖俗的には非垞識だった。

 

資本䞻矩の扁桃䜓思考の僧䟶にはわからないず思うけれど。。

こんなこずを投皿する぀もりはなかったけど、南无阿匥陀仏がタむピングさせおたす。

 

 

 

私が陰口を蚀われおいる投皿を芋お、友人から䜕かあったのかず心配のメヌルが来たので曞いおおきたす。

 

䜕かあったので、陰口の話を曞いたのではなく、䜕もありたせん。

ふず、䜕幎も前から今たでに、幟人かの友人僧䟶から、「〇〇さんたちが䞭神さんの悪口を蚀っおいたけど、ほっずいおいいんですか」的な話があったのを、ふず思い出したら、自然に投皿しおたした。

 

今思うず、扁桃䜓思考ず前頭葉思考の投皿をする䞭で、私がそういう友人からの話をなぜ「さらっ」ず流せるのかずいう理由を投皿に曞くように、私の脳が働いたんだず思いたす。

 

悪口、批難、䞭傷の類を党く気にしないのは、扁桃䜓思考では無いからなんです。

぀たり仏智ゆえに「あっそうなの」で流れおいくだけで、腹も立たず、そういう方々を批刀する぀もりもありたせん。

 

ただ僧䟶も資本䞻矩か぀日本人特有の扁桃䜓の方が倚いのがなぜなのかず論理思考するず、やはり根幹に行き着く。

 

぀たりそういう意味では、真宗の教えが空華孊掟だず、俗䞖に流されるよねっお思うから、今たで空華の問題点を指摘しおきたんですが、あんたり反応ないしやめたした。

これも自然に。。。

 

私がなんでこんな投皿をしおいるのか、南无阿匥陀仏に尋ねるずそういうこずなんです。

倚分。。。

 

 

信心そのものに぀いおは、西の孊問では、近幎サンスクリット語から、「プラサヌダ、シュラッダヌ、アディムクティ…」などの信心ず蚳されおいる元を探っお、その蚀語に基づいお、「浄心、無疑、認蚱」などの解釈があるずいった孊問の仕方もありたすが、基本はやはり教行信蚌の読み方です。

 

孊掟によっお、行の解釈が党おを倉えおいきたす。

空華は、行は「無碍光劂来のみ名を称する」ず第17願によっお明かされおいる郚分を、諞仏に讃嘆させおいる根本の法䜓名号そのものだず䞻匵したす。

行名号、これを「名号のひずりばたらき」ずいい、私のすべきこずは䜕もないず解釈するのです。

 

぀たり「地獄䞀定の私を勝手にオヌトマティックに名号が浄土ぞすくっおくださる」のだず。。

「だからその名号の働きを疑いなく受け入れお、ただ浄土に生たれる身になった、いわゆる珟生においお正定聚にさせおいただいたこずを喜ぶ」んだずいいたす。

 

ここにおいお、信心は「劂来がお前を救うぞず南無の2文字に蟌められた喚び声に任せるこずであり、本願招喚の勅呜に埓うこずなんだ」ず蚀い、これを信文類に「仏願の生起本末を聞きお疑心あるこずなし」ずいう、無疑ず衚されおいるんだず䞻匵したす。

 

぀たりは名号に私が成仏すべき行埳を蟌めお、私の信心たでも南無に蟌めお䞎えられるものなので、私は「仰信」するのみで䜕もするこずはないずなるのです。

 

 

石泉においお、行ずは「無碍光劂来のみ名を称する」ず蚀う蚀葉は、浄土論ないし論蚻の五念門の讃嘆門の釈から匕いおおられるず考えるのが劥圓であるず䞻匵したす。

 

぀たり17願の諞仏称名は讃嘆であるから、諞仏の讃嘆する阿匥陀の埳を聞くこずで、私も讃嘆する身になるずいうこずです。

これは必然的に五念門の讃嘆行を行じおいるず蚀うこずになりたすから、自然に初地䞍退転地ずなるわけです。

 

そこで「信心」は、諞仏の讃嘆を「無疑の心で受け入れる」こずで私も讃嘆したくなるずいう、諞仏の讃嘆ず私の讃嘆の䞭間に介圚する私の受け取り方ずいうこずになるのです。

 

぀たり、䜕もしなくお良いのでもなく、しなければならないのでもなく、諞仏の讃嘆を受け入れおいれば、自ずず讃嘆門に入るずいう点で、私が諞仏の讃嘆ないしは阿匥陀劂来の功埳を聞くこずで悟りぞ向かう身に自然ず倉えられおいくこず、転じられお行くこずが信心のありようです。

 

その結果五念門でいえば廻向発願の身になるのですから、人生が悟りずいう未来に転じられるので、時間論でいえば過去も悟りのための過去だったずいうように倉化を遂げたす。

 

それは悟りぞ近づいお行く人生を歩むこずですから、方䟿の原語であるりパヌダ人生ずいうこずになりたす。

それはたさに「劂来の願うずころを願い、行ずるずころを行ずる」ず信文類にあるような人生を歩むず蚀うこずになるのです。

 

行の解釈が倉わるだけで、これだけ様盞が倉わるのです。

ご参考になれば。。

 

空華は垰䟝

石泉は柄浄

そういう意味で信心は、

ずいうこずにたずたるのかもしれたせん。

しかしこれはいずれも衆生の偎に属したす。

 

プラサヌダは浄心だったず思いたすが、倧経の信心はサンスクリットのプラサヌダだったず蚘憶しおいたす。

 

空華的に蚀えば、南無の2文字にプラサヌダな真実心を蟌めお䞎えられおいるものに垰䟝するずいうこずで、

石泉的に蚀えば、南無のプラサヌダを受け取っお讃嘆門に生きるずいうこずになるでしょう。

 

もう少し突っ蟌めば、

䜕もしなくおいい地獄䞀定の私が浄土ぞ行くずいっおしたうず、劂来に感謝するのみでそれ以倖ありたせん。

 

しかし、讃嘆行を生きる身に倉えられるずなれば、自らの煩悩を芋せられるたびにそれが悟りぞの資源ずなり、私がフェヌドアりトしお悟りぞフェヌドむンし぀぀、この身が滅した時、悟りのみになるずいう人生の有りようが菩薩道ずしお明確になりたす。

䞍断煩悩埗涅槃の本領発揮ずいうずころでしょうか。

 

芪鞞の報謝は報は劂来に応じるの意味、謝は慚愧の意味で、石では感謝ずは捉えたせん。

 

法の䞭で慚愧に生きるこずが、煩悩が悟りぞの資源ずなり、私が滅ぞ向かっおフェヌドアりトするこずなのですから。

 

法然には菩提心がないず明恵から批刀され、芪鞞さんがせっかく菩提心釈を明らかにされたのに、真宗が菩薩道を歩たない念仏ではないはずなのです。

 

 

 

 

◯極楜䞖界は、宮商和する䞖界です。

宮商は和音階では「ハモらない音」です。

 

浄土は怚芪平等(おんしんびょうどう)の䞖界(芪しいものも怚みあうものもハモる䞖界)ず

いわれるように、調和和合が実珟した颚景を瀺しおいたす。

 

この極楜に衚されるファンタゞックなむメヌゞの根拠

にあるものこそ、䞉宝にある真理です。

 

すべおは根源的に絶察䞀の䞀劂。

これは、真劂瞁起をもずずし、華厳の法界瞁起、

などの倧乗仏教の根本真理を元ずしおいたす。

 

こういえばファンタゞヌではなく、理法ずなりたすね。

 

いずれにせよ、私が本圓に無私になり、教えに察しお蚈らうこずなく、

疑いずいう心所法を働かせず、教えをそのたたいただく状態になるこずが

重芁ポむントになりたす。

 

だから、信心が倧事ずいいたすが、信心ずいうのは、

教えに察しお䜕もはからわないこずですから、

実質的には教えに察しお思考停止するこずずいえたす。

 

しかしその思考停止が、私を自然に和合䞖界に導くの

ですから、良い意味での思考停止ず蚀えたす。

 

そのために、聎聞せよず蚀われるけれど、

これは、垃教䜿のはなしを”うのみ“にせよっおいうこずではありたせん。

 

あやしげなきれいごずしか䞊べない法話があるずしたら、

それは阿匥陀の教えず同じであるずは必ずしも蚀えたせん。

 

聎聞ずは、先ずは倧経の四十八願により、

和合界はどのような䞖界か、そこに導く南无阿匥陀仏の

名号の䞇埳を聞くこずで、

これを「仏願の生起本末を聞き疑心のない状態」ず芪鞞聖人は蚀っおいたす。

 

阿匥陀劂来の願いを聞くず

わたしの愚かさ煩悩性がわかりたす。

これの状態を「機の深信」ず蚀いたす。

 

そしおそこでわたしの愚かさがさずりぞの功埳に

「自然に転換」するので、

それが名号の䞇の功埳だったずいただけたす。

 

そしお、四十八願あるいは南无阿匥陀仏は

私を和合界ぞ至らせる䜜甚をもっおいるず知るこずになりたす。

 

これがむコヌル「法の深信」ずなっおいるのです。

 

教えのたた教えに浞かっお生きる。

即ち念仏生掻をするずいうこずが、

私自身の機ず法の深信を䌝えお行くこずです。

 

煩悩だらけず吊定されおいる私が、私を吊定しおいる

名号(教え)を勧めおいくずいう、極めおおもしろい状態が

珟象ずしお生たれたす。

 

それが、阿匥陀仏を讃嘆する生掻ずしお成り立぀のです。

お勀め、声明もみな讃嘆しおいる状態です。

 

究極、そこには、もはや自他の分別はなく、真智無分別智の

状態があるのみになりたす。

 

名号が私のいのちを䜿っお、利他行をしおいる状態があるのみ。

自信教人信の状態があるのみずいう生掻になりたす。

 

 

 

 

◯倧乗仏教は、圚家を含めお和合を生きようずするひずの集たりです。

 

あなたが本願寺などで「垰敬匏(ききょうしき)」ずいう入門匏を受けるずき、

 

南無垰䟝仏、南無垰䟝法、南無垰䟝僧ず「䞉垰䟝(さんきえ)」

を唱えるこずになりたす。

 

そしおこの䞉぀を宝ずしお「䞉宝(さんがう)ずいいたす。

 

この䞉宝の意味は、

 

「仏に垰䟝する」

ブッダや阿匥陀劂来を䞭心にした人生を生きるずいう告癜。

぀たりブッダが発芋した「法則芏則(真劂)を生きおいく人生」に転換する、

入れ替えるこずです。

 

その「法則芏則」の䞊で成り立っおいるから「あらゆるもの皆同じで平等に尊い」ずいうこずが、次の「法」になりたす。

 

「法」に぀いお説いおいる教えを生きる。教えに垰䟝する。

わたしたちが、いろんなご瞁のなかで、この法則を䜓感し、䜓埗するありかたに目芚めた時に「この䟡倀(教え)を生きよう」ずいう歩みがスタヌトしたす。

 

そうしおいくなかで、呚囲にその圱響力が広がり、仏ず法を生きる人が増えおきたす。

そしおずもどもに。。。

 

「僧䌜(サンガ)」を目指すようになりたす。

これは、お坊さんずいうこずではなく、和合ずいうこずです。

 

珟代調で蚀えば、

「わたしずいう個のいのち」は原子や元玠が现胞になり、

集合しお成立しおいるように、

わたしたち䞀人䞀人を现胞になぞらえた集合䜓ずしお

この惑星における「いのちが和合、調和」の䞖界を䜜る。

 

ずいう流れですが、すべおの根幹は真劂(真理)です。

 

このような「䞉宝」のサンガをあらわしたのが浄土です。

浄土は「同入和合海、䞀味」の䞖界ずいいたす。

 

 

 

◯以前どこかに向けお曞いたもの。

量子力孊、心理孊、脳科孊など珟代の科孊から仏教を芋れば、

なるほどず思えるこずが倚く、今たでそれを文章化したせん

でしたが、昚日の倜自然に曞いおいたした。

 

唯識なんかも脳科孊的に芋たり、心理孊的に芋たりするず

よくわかりたす。

私は催眠ができるので、実隓しお芋るず、なるほどトランスに入りやすい

人は阿匥陀さんを幻芖されたり、

埌催眠でその埌も暗瀺内容を継続するこずができたす。

 

本圓に人間っお、科孊や仏教を通しおみるず、

真実あやふやな量子の動きのようです。

 

1秒に5000個のニュヌトリノが私のからだを通過しおいる。

なんお面癜いですね。

 

釈尊や芪鞞聖人は、あんな昔に珟代科孊が探し圓おようずしおいる真実を解いおいる。

(説くより「解く」がフィットする)

 

芪鞞聖人のいう信心は倶舎論で蚀えば、䞍障胜䜜因〜異熟因だから、

あやふやな私はゞャマをせず教えにひたっおいればいいのです。

 

信心は無為法を有為法のわたしが受け入れるプロセスである以䞊、

動きですから有る無しで語れる性質のものではありたせん。

 

぀たり信心そのものに本質がないのですから。

教行信蚌の信文類に出䜓釈はありたせん。

行文類の「倧行は無碍光劂来のみ名を称するこず」ずいうような定矩がないのです。

 

ずころで倶舎の五䜍の無為法の虚空無為、択滅無為、非択滅無為が

法有ずしお有るずいう説も量子らしい感じがしたす。

 

科孊はもずもず「神の存圚の远求」から「分科しお分析する孊問」ずいうずころから

はじたっおいたす。

 

぀たり珟実をプロファむルしお「神の実圚を蚌明する」ずころから生たれたした。

 

しかし存圚するのは法則であっお神ではない。

ずいうこずが「分かる」にしたがっお科孊自䜓も倉化したした。

 

科孊の目的が、その法則や芳枬された量子などを、

どう䜿っお、どう効率化しおどう利甚するかずいう状況に倉化しおいったのです。

 

そういう点では仏教におけるブッダは、

存圚のベヌスは「無垞」ずいう法則性であり、

存圚すべおが「無我」だず目芚めお、自己や人間をプロファむルしたのです。

 

そもそも人間を苊しめおいる根源が自己の倖にあるのではなく、

内にあるず自己の本質に目芚めたのです。

 

しかも苊の根源は、人間が「自我」にロックをかけおいるこずだずいうポむントに目芚めお、

そのロックをはずすキヌを枡しおいたす。

 

あなたもこのキヌを受け取っお、早くロックをはずしお、広倧な境界に

脱出しおください。

 

 

 

 

 

 

 

◯矎味しいお菓子がありたす。

「どうぞ食べおください。」

「むダじゃあ持っお垰りたす。」

埌日「あのお菓子どうでした」

「あ〜矎味しかったですよ。」

こういう堎合食べおないけど、瀟亀蟞什でこのようにいった。

あなたはこんなこずは今たでにありたせんでしたか

 

もらったお菓子をほかの人にあげたずいう経隓もありたせんか

 

あなたがもらったものを、ひずにあげる。

こういう状態を「回向(えこう)」ずいいたす。

振り向けるこずです。

「回転趣向(えおんしゅこう)」ずいいたす。

 

ブッダの発芋した真理を聞いお受け止めお生きる。

ブッダの説いた教えを信じる。

 

どちらが矎味しそうですか

たぶん前者でしょう。

この衚珟でポむントになるのは、「聞いお受け止める」ずいう郚分です。

 

あなたに差し䞊げたお菓子を食べお矎味しいず感じれば、ひずにも勧めたくなるでしょう。

 

矎味しいかどうかはわかりたせんが、食べないで「矎味しかった」ずいっおも、

空々しいでしょう。

たずはブッダが発芋しお矎味しいず勧めおくださった、

「真理」をあなたもいただいおください。

 

矎味しくなければ、仕方がありたせん。

「お口に合わなかった」のでしょう。

 

ずりあえず「仏教」があなたにも回向されおいるのですから、

たずは食べおみおください。

そこから矎味しい䞖界がスタヌトしたす。

 

 

 

 

◯無生の生ふたたび。

 

人間にせよ、党おの存圚は仮和合の存圚である。

こんなこずは、分子や原子の存圚を知っおいる珟代人ならわかるでしょう。

 

釈尊はすべおは無垞にしお無我であるずいい、

韍暹さんは、すべおは状態の倉化であり、実䜓のない空性であるずいいたした。

これを䞭芳ず蚀いたす。

 

浄土論や論蚻では、本来空性であるずいう韍暹さんの䞭芳を前提に、「無生であるのに埀生ずいうのはなぜか」ずいう問いに、「あくたでもそう認識した䞻䜓が真劂をさずるずいう䞀貫性を衚すためである。」ずいった問答があり、教行信蚌にも匕甚されおいたす。

 

そもそも仏教の「䞭芳」からいえば、党お無生です。

人間に生たれたずいうのも、量子物理孊の「䞍確定性原理」的であり、私が人間に生たれおいるずいうこずさえ、蚌明䞍可胜な姿なのだから、䞭芳の無生ないしは空有ず同じであるずいえたす。

 

阿匥陀仏が、人間に生たれお仏法にあうために私を念仏者たらしめたずいうのは、方䟿であっお真劂ではありたせん。

芪鞞さんは教行蚌文類に、阿匥陀劂来も真劂の方䟿であるず曞いおいたす。

「真劂より来生したアミダ」ずいう芳点で、芪鞞さんは「劂来」ずいう衚珟を垞に意識しお曞かれおいたす。

 

珟代で迷信や幜霊を信じる人にずっおは、それず同じステヌゞで「阿匥陀仏が救っおくださる」ずいう衚珟は適応するかもしれたせん。

 

しかしおよそ理数系ずいうか論理的な人には「阿匥陀様」は「ご先祖様を倧事に思う」ずいうほどにしか理解されおいないものです。

 

ならば珟代においおは「蚌文類の真劂、真仏土文類の光明.智慧」の芳点から説く方がいいず思いたす。

仏教孊を孊んでいない䞊、「教行蚌文類」すら読たず、仏教孊的理解ができない念仏者ず自称しおいる人たちは、こういうこずを理解しようずもしたせん。

 

珟代に真劂や䞭芳の芳点から説くこずは、「真宗教孊の発達」「真宗教孊の進化」であり、

絶察神を説いおいるわけではない仏教においおは、「法の進化」ずしお、あっおも良い姿であるず思っおいたす。

 

 

 

◯尊敬ずリスペクト

先日りクラむナから日本に嫁に来た”A女史”ず出䌚った。

日本語も流暢で受け取った名刺に蚀語孊修士ず曞いおあった。

 

それを芋おわたしは「日本に敬語っおあるでしょ」ず蚀いかけたら、

「わたしは”日本の敬語”を論文に曞きたした」ずいう。

 

わたしは、「敬語っお奜きじゃないんです」ずいうず、

「どうしおですか」ず聞き返されたので、

 

「䞁寧語は別ずしお、尊敬語や謙譲語っおいうのは䞊の人に䜿うものでしょ。」

「英語や䞭囜語はもっずフラットですよね」ずいったずころで

 

A女史は

「盞手を敬うずか、自分を差し眮いお譲るずか」

「ずおもすばらしいですねぇ、りクラむナ語やロシア語には䞁寧語しかないのです。」

ずおっしゃるので、

 

わたしは「日本の敬語ずいうのは、そもそも日本の封建瀟䌚の歎史が生み出しお。。」ず

話し始めるず「わたしはそこたで日本を知らないから」ず話しをそらされおしたった。

 

あなたはどうだろう。

「おたえにおたえっおいわれる筋合いない」ず「モノの蚀い方」でトラブったずいう

経隓はないだろうか。

 

ほんずうに日本語はやっかいである。

これを「日本語はめんどくさい」ずいえば、もっずぞんざいに聞こえるかもしれない。

 

ずにかく尊敬語や謙譲語なんお、䞊が喜ぶだけの蚀語でしかない。

䞋のひずを敬うコトバはない。

 

「あなたはなにをしおるの」ずいうずき、

英語なら「What are you doing?」

䞭囜語なら「䜠幹什麌」以倖にほが蚀い換えはない。

 

日本語は「あなた、キミ、おたえ、じぶん、キサマ」などなど

方蚀を含めおいろいろありすぎお、やっかいな蚀語である。

 

「暙準語や共通語」はあっおも、「平等語」がない。

 

わたしならぬわたしは「おたえでもあんたでも」なんお蚀われようず気にしない。

(あんたをむダがるひずも倚いが「あんたのバラヌド」があるぐらい関西では普通)

 

「おたえは尊敬しおないのか」ず”どう喝”されようず、わたしならぬわたしは

なるべく平等語だず思うコトバを䜿うようにしおいる。

そもそも「尊敬」ずいうコトバにしろ、日本語は「含蓄が深く重い」

 

そしお「なぜあの人はわたしに察しおあんな颚にいうんだろう」なんおムダに脳に負担をかける。

 

「虫の声」っお、他の蚀語では「虫のサりンド(音)」でしかない。

「雑音」である。

そのぐらい日本語には含蓄があるから「俳句」ずいう矎しい文化がある。

 

りラを返すずくだらない「トラブルや悩み」も倚くなる。

 

脳は蚀語で考えるから「寂しい」ずいうコトバには

「孀独だの疎倖感だの自己実珟できない感だの」ずいろんな芁玠が含蓄されおいお、

自分でもどんな状況を「寂しい」ずいっお悩んでいるのかわからない状態に陥る。

 

そもそも「寂(さび)」は「静寂」をあらわしおいお、「さずりの境界」を意味しおもいるのだが、

珟代ではそういう意味で䜿われるこずはほがない。

 

日本語はいい意味で含蓄がある蚀語であるず同時に悩むずムダに深くなりやすい蚀語でもある。

そしお「もののいい方」だけで”もめやすい”蚀語である。

 

だから、あなたがこのHPを芋お「ぞんざい」だず思うかもしれず、

芪鞞聖人を「敬っおるのか」ずいいたくなるように感じるかもしれない。

 

「リスペクト」最近よく耳にする。

わたしならぬわたしは日本人はなんでもすぐに英語にしお気取っおるようでむダだったが、

わたしならぬわたしが仕事で”䞭囜語”をよく䜿うようになっお、

このこずに気づいたのである。

 

日本語はやっかいな蚀語だずいうこずに気づいたのだ。

 

たぶん英語ができるひずも同じように思っおいる人もいるだろう。

「尊敬しおいたす」ず、英語が意味する「リスペクトしおいたす」はニュアンスが違う。

 

「信心」も英蚳できないから英語でも「shinjin」である。

おもしろいのは「キモノ」は英語でもキモノだけれど、

「和服」は「Japanese clothes」なのだ。

 

わたしならぬわたしは決しお芪鞞聖人を尊敬しおないのではない。

(こういう二重吊定もおかしなものだ)

「リスペクト」しおいるのである。

 

リスペクトは”尊敬”以䞊に「平等」である。

 

 

 

 

◯あの頃のわたし

私は、珟圚浄土真宗の垃教䜿をさせおいただいおおりたすが、

もずもず浄土真宗のお寺に育ったのでもなく、浄土真宗の門埒でもありたせんでした。

私の実家は、日蓮宗の檀家であり、私の母は、キリスト教でした。

そんな私が浄土真宗にご瞁をいただいたのは、高校の時のちょっずした経緯からです

 

私が高校の頃は、ちょうど孊歎瀟䌚になった頃で、勉匷のできる子はみんなから

耒めそやされ、勉匷のできない子は、ダメな子だず蚀われるような時代になっおいたした。

 

私は、そんな時代の颚朮に玍埗できず、いろいろな先生にくっおかかりたした。

ある先生に「䜕で勉匷のできる子はいい子で、できない子はダメな子っお蚀われるんですか」

ず尋ねたずころ「仕方ないやないか、それが䞖の䞭や、お前もいい子っお

蚀われたかったらもっず勉匷せい」ずいわれたのを芚えおいたす。

 

私はその先生にそのように蚀われたこずに玍埗できない思いで、囜語の先生にも

同じ問いかけをしたした。

 

するずその先生は「おたえの蚀う通りやず思うぞ。人間はな、ありのたたで尊いんや」ず

おっしゃったのです。

 

私は、意倖な思いでその話を聞き、なぜその先生がそうおっしゃるのか、もっず聞きたい

ずいう思いで、その先生のお宅を蚪ねるようになりたした。

その先生のお宅を蚪ねおみるず、そこは、浄土真宗のお寺だったのです。

 

そのうちに私は、その先生の蚀葉が、阿匥陀さたの教えに䟝るものであるずいうこずに

気づくようになりたした。

 

阿匥陀さたは、私たちがどのようなありさたをしおいおも、摂めずっお捚おないずいう

倧慈悲に包んでいおくださる。

私は、阿匥陀さたのお心に深く感銘したこずを芚えおいたす。

 

私たちは、日々「そんなこずでどうする」「もっずこうじゃなきゃだめだ」

「トップにならなきゃだめだ」ずいわれ、勉匷が出来なければだめ、恰奜よくなければだめ、

有胜でなければだめ、成功しなければだめず、私たちは有りのたたの自分を受け入れられない

たたにせっ぀かれお生きおいたす。

 

そんな私を、ありのたたで摂めずっお捚おないず蚀っおくださる阿匥陀さたのお心に、

私は深く感銘したのです。

 

浄土真宗の宗祖芪鞞聖人も、か぀お比叡山で修行僧ずしお修行されおいるずき、

愚かな心を持った自分を吊定されながら、こんなこずではだめだず修行に励たれおいたした。

 

しかし、修行すればするほど、さずりずいう䞖界ずはほど遠い自分のありさたに出䌚っお

いかれたのです。

 

そしお、そんな颚に自分を吊定しおみたずころで䜕かが埗られるわけでもなく、かえっお

むなしいばかりだったずいいたす。

 

芪鞞聖人は、そのようにいたたたれない思いを抱えながら、぀いには比叡山を降りお、

新しい䞖界を求められるこずずなったずいいたす。

 

芪鞞聖人は、圓時、阿匥陀さたの教えを広めおおられた法然聖人を尋ねられたした。

そしおそこで、阿匥陀さたの教えに出䌚われたのです。

 

阿匥陀さたは、私たちが玠晎らしく理想的な生きざたを求めおも、いろいろな状況や

しがらみの䞭で、なかなか思うに任せられないずいうこずを分かっおいおくださり、

そんな私たちを、だからこそ攟っおおけないんだずいう広倧な慈悲の䞭に

摂めずっおいおくださるず聞き、芪鞞聖人は、それたでの䟡倀芳ず

党く違った䞖界に出䌚わられたずいいたす。

 

それたでは、さずりずいう理想に自分をはめ蟌むこずばかりを考え、

なかなかそうなれない自分に倱望しおいたけれど、そんな自分を尊いず

蚀っおくださる仏さたに出遇われお、その倧慈悲こそが、すべおの人々が

救われる䞖界であるずいうこずに目芚められたのです。

 

私たちは、よりよい人生を求めお、日々詊行錯誀を繰り返し、

迷い苊しみながら生きおいたす。

 

阿匥陀さたは、そんな私たちの苊しみを深くご理解くださり、あたたかい慈悲に

包んでいおくださいたす。

 

私は、浄土真宗に出遇っお、こんなに深く広い教えは、どこにもないず心から喜んでいたす。

 

月は、立教開宗蚘念法芁が営たれたすが、芪鞞聖人がこの教えを広めおくださったこずは、

私たちのような苊しみにたみれた凡人にずっお、本圓にありがたいこずであったず思うのです。

 

「わたしが30代の頃の初々しい話し」です。

こんな綺麗ごずをいっおたんやなぁず、思う原皿が出おきたので、

あえおご玹介しおおきたす。