教行証文類(全)中

30/12/013–1

 

205ページに、信文類の「序」があります。

この「序」のはじめにいきなり「信楽」とでてきますが、この第十八願に出てくる信楽と、浄土論の「世尊我一心」の「一心」を同じであると論じられます。

 

ここでも「阿弥陀如来」という固有名詞かつ動詞である「具体的な名字」は記述されておらず、どの如来なのか不明なまま、「《如来》選択の願心より発起す」とあって、「阿弥陀如来とも無碍光如来」ともいえるように記述されています。

 

もちろん「如来全般」または「わたしを真如に導くすべてを如来とする」という風にも理解できます。

 

そして、大聖(釈尊)矜哀の「善巧」より顕彰せり。

と「善巧方便」であることが明確にされています。

つまり、「色もない形もないことばも絶えた真如法性」に導く方便が「如来」だということです。

 

ですから、「言説の念仏そのものが方便」なのです。

 

化身土文類に、「1920願を方便」というのは、「方便中の方便」ということです。

 

この重要ポイントで、「月を指す指」が「念仏」であり、指の形だの爪の色だのにこだわっているというのが「1920願」なのです。

 

ここで、教行証文類の難しさは「真如と方便が入り混じっている」ので、その見分けがつかない人が読むと、「仏の世界(真如法性)などはわからなくてもいい」と方便に埋没して、結果「自性唯心」に沈んでしまうのです。

実際そういう布教がほとんどだと感じます。

 

あくまでも「信文類」でいいたいのは、「世尊我《一心》」という「尽十方無碍光如来に帰命」する《一心》によって、「往還の二回向に生きることになる」というポイントです。

 

親鸞はなぜそうなるのかというポイントについて、

この《一心》を【三経】にあてはめて解釈しています。

 

例えば、大経の「本願(第十八願)」の《至心(真実心)》を「無疑」の《一心》=《信楽》で受け入れて《欲生我国》になっていくというように、観経や阿弥陀経などからも三心と一心について解説されます。

 

この信文類の内容は、この《一心》が天親オリジナルではないことを典拠によって証明し、この《一心》においてわたしが真如化(如去・如来)する身になることを論証しているのです。

 

そこで、本文3行目の「自性唯心」については、「補足47」に書いた通りです。

 

ひとことで言えば「自分にとって都合のいい浄土の理解をしている人がふえている」ということです。

このように、仏教と相応しない浄土のあり方を信じている人がいることへの警告です。

 

「阿弥陀さまのお名号にお任せしていれば、何もしなくても思わなくても自然とお浄土に生まれさせていただけて、また会える世界があるんだよ」(会えると遇えるとこだわる必要もないほど根本からミスっています。)などと、おとぎ話かスピリチュアルかよくわからないものに貶めているのです。

 

「定散(じょうさん)の自心」というのも、定(観想)や散(善行)も「わたしが救われたい」という「自我」からの行ないだから、「迷ひて」と書かれています。

 

「金剛の真信」が「金剛」なのは「自我」がだんだんと「滅せられる」ことをいい、そもそも「迷う主体がなくなること」になるからです。

 

ここに「論家、釈家」を脚注では、七高僧だと記述されていますが、

ここでは「天親、曇鸞(論家)」がいっていることを、「道綽や善導などの解釈(釈家)」で宗義を開きあらわすと理解する方が、内容に符合し、より鮮明になります。

 

そして三経の光明のなかで、「尽十方無碍光如来への帰命の一心」の「華厳の文を開く」と読めば、「行文類」から論が一貫します。

 

そしてこの信文類の内容は、それこそ「如来の善巧方便がわからないひと」からすれば「なにをいってるんだ」「人倫と違うじゃないか」といったことをいわれるであろうけれど、恥じる必要もなければ、「言い方をかえたりして理解を求めるにしても、決して謗るようなことにならないように注意してください」と記述しています。

 

実際、仏教は「一般的な道徳に合わない」内容も多いのです。

本来の「布施行」でも、あげた人は「あげたと思うべからず」、もらった人は「もらったと思うべからず」、そのAからBに移動したものの「良し悪しをいうべからず」という「三輪清浄」が基本ですから、「いただいたら感謝しましょう」なんていう世界ではありません。

 

ですから、釈尊は「チュンダの施し」を受けて「私に施されたのだから私が食べたら、土に埋めなさい」といって、「毒キノコだとわかっていながら食べたのです」

ご存知のようにこれで釈尊は亡くなりました。

とにかく仏教は「時として非道徳的」な部分があります。

「無常なものごとにとらわれて、懸命に守ることすらナンセンス」だというのが基本の教えであり、「無我だから名字を入れ換えよ」といってみたり、「世間の常識や道徳ではわからない内容」が多いのです。

 

たとえば「無碍光如来に帰依する一心」で「浄土を観察して生きる」なんていうことも、《やりもしないで》に「難しいなぁ」なんていう人も多いものです。

 

とにかくいろいろいう人があるけれど、「浄邦を欣ふ徒衆〜」は謗りを生まないように注意して、この道を進みましょうと言われているのです。

 

さて、信文類の標挙(ひょうこ)には、「至心信楽の願」とあって、その内容は「正定聚の機」をあらわすとあります。

 

本文は211ページの【1】にはじまります。

ここに「往相回向」には「大信心がある」と記述し、この信心の「体」ではなく「讃」を挙げて「長生不死の神方」云々と数々の「讃」を列記されます。

 

このしょっぱなの「長生不死」は「脚注」にあるように《さとりの空性》のことですが、間違うと「お浄土で永遠に生きられる」と受け取ってしまいかねない《方便名》からはじめています。

しかし最終的に「真如一実の信海なり」と《さとり》に落とし込まれるのです。

これはほぼ親鸞の「方便と真実」をまぜつつ真実に誘導する論調(ロジック)です。

 

このように教行証文類は「真実と方便」が入り混じるので、読むときには念入りな仕分けができないと間違います。

 

わたしでも布教をするときに「色んな年代のひとが混在するケースでは、同じように混ぜるということをします」から「多分そういうことなんだろう」と思うのです。

 

たとえば、《Aパターン》で「釈尊は修行者であると同時に研究者だといえます。現代的にいえば釈尊の第1法則は《無常》の法則で、これは全てが常に変化する状態を言語化したものです」というようなことを、

ときには、《Bパターン》で砕いて、

「すべてのものは常に変化する《無常》(真実)なものです。」

老病死というように(方便)移り変わっていきますよね。

お釈迦さんはこういうことを、「すべては変化し続ける」といわれているのですが、これを言葉にしないと人は意識しない(方便)ので、「無常」ということばにされた(真実)のです。」

というように対象によってABの言い方を使い分けます。

 

教行証文類も同じようなパターンを踏んでいると感じます。

 

さて戻って、「真如一実の信海なり。」と「真如」に落とし込むまで「讃」じられています。

そして、この往相回向の大信は、「念仏往生の願」から来るものだと、「法然」の《選択本願念仏集にある願名》をだし、あくまでも「念仏往生の願より出ているのである」と記述して、そのうえで、

「往生」のところで「往相回向を案ずるに」と書き出されている「往相=往生」と、まずは第一段階を符合定義させています。

 

そして「この大願は。。」と進めつつ、そこで「選択本願と名づく」「本願三心の願と名づく」「至心信楽と名づく」という流れで、

願の内容を「至心信楽」の「信心」に細分化していきつつ、最初の「往相の回向を案ずるに。。」から進めて「往相と信心」を再結合させて「念仏往生の願は至心信楽の願だ」と第二段階の定義をします。

 

そしてこの第十八願を「往相信心の願」と名づけるべきであるとして、第十八願は「信心の願だ」と最終的な定義をしています。

 

この辺は「法然」のいう「念仏往生の願」では、第十八願を「乃至十念」で定義しなければいけなくなり、「信心の根拠」にならないからだといえます。

 

続いて、しかるに「常没の凡愚〜が無上妙果を得られないわけじゃない」のだけれど「ただ真実の信楽を獲るのが難しいだけなんです」といっています。

 

なぜ難しいかというと「如来の増上縁のチカラによるものだから、わかりにくいでしょう」といった「まぁ普通に世間の常識を生きていると信じがたいですよ」と先手を打つロジックになっています。

 

とはいえ「たまたまにしろ縁あって《浄信》を得ることができれば、心が転倒することもなく、虚偽に生きることもなくなるのです」といって、信心を得れば「浄」になれることを明示し、

「だから極重悪人が大慶喜心を得て、諸々の聖尊の重愛を獲るんです」と《九条兼実や弁円などで実証された事実》に基づいて「聖尊」という「わかる人はわかっている」から、「重愛を獲られる」と記述して、「浄信」の典拠に移られます。

 

典拠の重要な部分が当然といえば当然の第十八願です。

ですから【2】に「至心信楽の願」として、《信心》を論じる上で重要な「本願の三心」をあらわす願名をあげて、第十八願を丸々記述されます。

次の【3】には「如来会」をひかれますが、これも四十八願経ですから同じ内容になるところがポイントです。

 

行文類の143ページの【9】【10】の二十四願経を引用すると、「蜎飛蠕動」まで入ってくるほか、「聞名」がポイントになり、信心に関する文言がないために、信心を論じるのには不適切だからだと推察できます。

 

そして【4】【5】に成就文を出されて、【4】でいえば「名号を聞く=信心歓喜=乃至一念=至心回向」と適切な文言が並び、「聞名=至心が回向されていること」という「信心の一念(信楽)は至心の回向による」としきりに「至心信楽」と言っている根拠を明確にするのです。

 

これが「如来会」の成就文も同じ構造になっています。

「聞名=一念=浄信=歓喜=所有の善根回向したまへる」

というロジックです。

ここで「如来会」では「浄信」となっているのが、サンスクリット原典の「プラサーダ」に符合します。

 

如来の至心(真実心)が込められた信心なので「浄信」になるのですから「浄信」は「至心信楽」を包含した単語であり、ひとことで「至心信楽」をあらわすのです。

 

そして【6】において、「聞法不忘」「見敬得大慶」「即我善親友」になるから「発意せよ」と「聞く見る大慶、即我善親友」という結論を出して「信」を勧めています。

 

7】においても、「この浄信に生きる人は大威徳の人で、たくさんある仏教の中から、よくこの浄土に生まれる世界に来たね」と「至心信楽」の「信心の人を讃じて」、信心の人になってくださいと勧めています。

 

8】においては、「如来の功徳」「世尊の開示」「二乗を含めて他の及ばないところ」「諸有の有情、作仏する」「行は普賢を超える」「彼岸に登って一仏の功徳をひろめる【讃嘆】」「その時間はほぼ永遠である」と

今までの内容をまとめて讃じていますが、ここでポイントが出てきます。

「この中間において身は滅度すとも」とありますが、ここにも往生は「現生」とする根拠があります。

「有情作仏」して「彼岸に登って一仏の功徳を敷演せん」「時、多劫の不思議を超えん」とある時点で、すでに往生しているからです。

 

そして、「仏の勝慧はよく量ることなけん」という、《往生讃嘆》はすべて仏のすぐれた智慧によるからであるという理由を明記しています。

続いて、「信・聞によってもろもろの善親友の摂受を具足して」と「信と聞によって如来の願行が身につくこと」を述べて、聖尊の重愛を獲るのであるといっています。

そしてこのことは、「すべて如来の《勝智》が遍く虚空にあって、この如来の智慧の言葉《義言》はただ仏のみが悟ることだから、有情(凡夫)は《諸智土》を聞いて、如来会に説かれる教え、真如のことば(如実の言)を信ずべし」と記述されています。

ここに遍虚空の義言は「仏のみが悟る」とある部分をとらえて、「わたし達のような凡夫に仏の世界はわからない」としては間違います。

 

諸智土を聞いて、その言を聞信せよ。

という方便諸智土の意味をあらわす部分ですから、わからないのではなく、次の行にあるように「信慧多き時まさにいまし獲ん」とあるように、直接「遍虚空の義言はわからなくても」「諸智土を通して獲ることができる」とあるのです。

そしてこれを「信慧」としています。

次の行に「こういう妙法をすでに聴聞すれば諸仏も喜ぶ」と如来会の引用を結ばれていますから、親鸞は「一心至心信楽浄信信慧」と「信に仏の智慧がそなわる」と定義づけているのです。

 

ですから【9】の「浄土論註」の引用で「如来のみ名を称し光明智相の如く名義の如く如実修行相応」と論を進められて、「称名に光明智相がそなわり、如実修行と相応する」と明言されています。

 

続いて、この流れを「無碍光如来の名を称する」仏の光明は智慧の相光明十方に障礙なし光明は十方衆生の無明を破る。

ゆえに無碍光如来の名号は「よく衆生の一切の無明を破り、一切の志願を満たす」のであると前提定義をしています。

 

この前提定義に基づいて、このようにならない人は、如実修行相応していないひとであるとされています。

そこで、如来は「真如から来生した《如実相(実相)》であること、この実相は物の為(衆生の為)の身であるとわかってない」と記述して、その理由を三不信にあらわします。

 

一つには「信心が淳くなく、信心があるような無いような状態だからである」といわれます。(ここで「淳」の文字の深い意味が出されていますので、味わってみてください。)

二つには「信心が一つに決定していないからである」といわれます。

三つには「信心が続かない(相続しない)からである」とされます。

 

そして、この三つを転がっている(三句展転する)から如実修行相応しないといっています。

これを、「信心淳からざる決定なし念相続しない決定の信を得ない心淳からざるべし」と論を通して、こうじゃないものを「如実修行相応」として「天親が《我一心》といった」のであると定義しています。

 

10】には曇鸞の「讃阿弥陀仏偈」から、「阿弥陀仏の徳号を聞き、信心歓喜して聞くところを喜ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心のひと回向したまへり。

《ここでいう「至心のひと」は如来の徳号(至心)を受け入れて(信心歓喜して)利他を行じているひと(聞くところを慶こぶ)

生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。。。ゆえにわれ頂礼して往生を願ず」と引用しています。

 

この讃阿弥陀仏偈の引用が興味深いのは、これまでと違い、

「讃阿弥陀仏偈」にいはく、と記述してからあえて、「曇鸞和尚の造なり」と記述されていることです。

 

これは、文類として「このようにある」ではなく「曇鸞和尚も言っている」という主語を曇鸞和尚に定義して、

 

親鸞のいはく。。。

9】の引用は、浄土論の解釈である論註によって「天親菩薩」のいう「無碍光如来のみ名を称する」から《三不信》を論じたのですが、

なにも天親菩薩だけがいっているのではないのです。

これは、曇鸞和尚ご自身の見解も同じですから、念のために「曇鸞和尚独自の作」である「讃阿弥陀仏偈」を見てみましょう。

この通り、曇鸞和尚も「阿弥陀の徳号を聞く信心」が自利利他を行ずるかなめであるといっていますね!

ですから「信心」ということが、「すべての衆生が悟りを得るための重要なポイントだ」とわたし「親鸞」は定義するのです。

といった論調です。

 

次からは善導によって論を展開しています。

 

 

 

30/12/043–2

 

曇鸞から善導への変化と、何が一貫して論じられているかを確認するために少しだけ戻ります。

 

215ぺージまでは、「浄土論(論註)」の、「世尊我一心」の一心は、

「大経」の第十八願と「如来会」によって、「至心信楽」=「浄信」であるという定義づけをふまえ、そこには、如来の「願行」の智慧がそなわると明確にされました。

「如来会」の「信慧」という文言でそれを定義しています。

 

そして、論註を引用して、

「無碍光如来の名を称する」ことは「如来の光明は《智慧の相》」として、「この光明は無明を破る」として、

 

この「無碍光如来の名義は衆生の一切の無明を破り」「衆生一切の志願を満たす」のであるが、《衆生が称名や憶念》しても、「無明も消えず、志願を満たすこと

もないなら、「如実修行でもなく、名義と不相応」なのである。

と定義づけました。

 

その理由を、如来は、「如実相(実相)」であり「為物身」と知らないからであると一つ目の定義をし、「不淳、不一、不相続」と二つ目の定義をします。

 

そして、これらと反対の状態を「如実修行相応」とし、

これが天親の「我一心」の意味であると定義します。

 

その次の【10】の曇鸞和尚を主語にした引用も、

「阿弥陀仏の《徳号》を聞きて」に無明を破り、志願を満たすという内容を込めて、「信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまで」として、《浄信》の内容を込めて、「至心のひと回向したまへり、生ぜんと願ずれば、みな往くことを得しむ」と

「無明と志願が満る」という意味を傍証させています。

 

そして【11】からは、善導を引用して、《如意》という文言で、

一つには「衆生の心念に従って、これをみなさとりへ度する」とし、

二つには、「弥陀の心は五眼(肉限、天眼、法眼、慧眼、仏眼)によって、六通自在にして、《三輪開悟》「身、口、意の三業を開いて」衆生を悟りへ導くために、《衆生の資質を観》そなわして《一念》に同じように利益する」として、

 

天親の《一心》を《一念》に置き換えていくロジックを使っています。

 

ただ、ここからしばらく「善導」の引用ですから、

「善巧方便」が中心ですので、《いきなり》「阿弥陀仏」や「仏」という文言が頻発し、「如来」という文言は善導引用から激減します。

なお、「如来は衆生の資質を見る(善巧方便)」について、真仏土文類に詳説されます。

 

12】では、この「五濁の時代に五苦を受けない人はいないし、もし苦のない人がいたら《それは凡夫じゃあない》」といっています。

(「五苦」を現代語訳の169ページでは、生老病死に愛別離苦を足して五苦としていますが、「五蘊盛苦」をプラスするパターンもあります。)

 

これは「如来」の「五眼、六通」から見れば「みんな苦にさいなまされているでしょ!」という《逆説的表現》で、

(仏から見て)《すべての衆生が「苦の存在」でさとりへの誘導対象》であるということを確認しています。

 

13】には、観経のうえで、〈何等為三(なに等を三となす)〉より〈必生彼国〉というまでの文面があらわすのは、《三心》という「因信心」の正しい状態を明らかにするということです。

 

と記述して、

ひとつには「釈尊がさとりへ誘導する対象の資質に応じて《三心》が説かれているけれど、その意図が〔まるで秘密のこと〕のようにわからないから、《仏が自分から》その意図をあきらかにしています」

 

とここからは「仏からの実言」が前提だといっています。

 

二つに、「ここから明らかにする《三心》も、仏が自身から明らかにしたものです」と記述して、

「ここからの内容も仏の直説(じきせつ)だということ」にしています。

 

ですから、「観経」にのたまはくとはじまって、

《三心》のひとつ目を「一者《至誠心》(しじょうしん)」として、これは「真実心」であるとして、「一切衆生が行を理解して行じるうえには、必ず真実心のうちにあるものを行じよ」というロジックで、「称名念仏」を勧めています。

 

ここで有名な「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内面は虚偽に満ちているんだから」という文言が記述され、

 

このような「悪性」のわたしは、どんなにいいことをしても「見せかけの善(雑毒の善)、や見せかけの行しかできないのだから、頭に火がついたような状態で、その火を追い払うように一日を過ごすようなことにしかならないでしょう」といいきって、

仏の本意を理解せずに適当な行や善を行なっても「浄土」には到達しない。

ともいいきっています。

 

ここに「安心・起行」とありますが、これは従来、「信心と正行」をあらわす文言に定義されていますが、ここのケースでは、「雑毒の行と善」について使っているので、「安心を求めて行を起こす」という「凡夫の自我による行と善は《安心》が前提であるから、行も雑毒なのである」といっていると理解するとスムーズです。

 

とにかく、217ページの7行目の下から「まさしくかの阿弥陀仏、因中に〜みなこれ真実心のうちになしたまひしに由ってなり」とあり、

法蔵菩薩の願行が真実心によって行われたという意味を説いて、

それに由るとありますが、ここで、

「由」について(経であり、行であり、従うことであり、用いること)であると記述して、

「真実心」のうちに仏(法蔵菩薩)がなしたことだから、「この経、行に従って、そのベクトルに生きるべき(用いる)である」と言っていて、

 

おほよそ、このように()が「施したまふところ」に、六趣ではなく、「さとりを求めてさとりに趣く(趣求)」という心が生まれてくる。

といい、このプロセスと内容は「すべて真実」であるといっています。

 

しかし、とはいえ真実にも「自分さえ悟ればいい」という真実『これを自力(自我)の真実』といい、そしてまた、自分を差し置いても、すべてが悟るようにという利他真実『他力(絶対縁起力)』がある。

と定義して、

(自利真実である)「不善(雑毒)の三業」は、

仏が捨てたものであるように、わたし達も仏のように、そのような雑毒の行や善を捨てて「捨てたまへるを用いよ」と言っています。

ここはわかりにくい表現ですが「捨てたということを用いてください」という意味です。

 

続いて、「善の三業」を起さばとあり、(利他真実の法蔵菩薩=)が「真実心」によってなされたことを用いて「内外明闇をえらばず(脚注参照)みな真実を用いるがゆえに《至誠心》と名づく」とあります。

 

この部分を、親鸞の一貫した論の流れで読むと、「如来が真実心によってなされたことを用いる」というのは「自我を投じて行なう

【五念門】行」を意味していると読むべきでしょう。

 

これが「浄土論」でいう「法蔵菩薩の行」なのですから、当然の流れです。

 

次に、〈深心〉について「深信の心」であると、前提定義しています。

ここに二つあるというのは、有名な「二種深信」です。

これはあまりにも有名な部分ですので、重要ですが簡潔に記述します。

 

つまり「わたしが阿弥陀の法に出会うことで、どれだけ迷ってるのかという《自我》の愚かさを知り、阿弥陀如来の四十八願に生きていこうという心に誘導される」というをいいます。

 

あえて重要ポイントを記述するなら、218ページの後ろから7行目の「仏の捨てたまふを捨て、仏の行じたまふを行じる」「仏の去らしめたまふところをばすなわち去つ」「このように仏教、仏意、仏願に随順するものを《真の仏弟子》と名づく。」

 

とあるように、「五念門により四十八願を生きること」が「真の仏弟子」だと暗示しています。

 

これは、この次の行に「行を深信するは。。。仏を除きて以還は、《智行》いまだ満たず。。。果願いまだ円かならず。」

とあって、219ページ3行目に「もし仏意に称えばすなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。。」とあるように「智慧=仏意」で「行の深信」の意味を定義しています。

これ以後も同じ定義で解釈されます。

 

「印可」という「禅宗でよく使う用語」が出ているのは意味深いポイントです。

 

7行目に、「正教、正義〜《正智》」なり。〜「もし仏の所説は、すなはちこれ《了教》なり。」〜「ただ《仏語》を深信して、専注奉行すべし。」などと、「仏語に従うこと」が、219ページ終わりに「同じく証したまふ。」という果に至ること。とあり、

「智慧」が「証明される」と記述しています。

 

その理由を「同体の大悲」なるがゆえに、とあって、「一仏の所化は、一切仏の化なり」云々。とあって、一即一切(一即多)の《法界縁起》であるから、すべて「同体」であり「大悲」だと言っています。

 

このあとに、阿弥陀経の引用をし、なかでも《一心》をポイントにして、220ページ後ろから8行目に「すなはちその証なり」と名号の専念の一心によって「往生する」ことの《証明》をしています。

 

《一心》=《往生》を証明しているということです。

 

また同ページ後ろから2行目に「一仏の説くところを、一切仏が証明している」と重ねて記述し、これが「人に就いて信を立つと名づくる」としています。

 

これは、「一仏一切仏の証明が、信の人によって立つ証明である」という意味です。

 

そのうえで、この「名号を専念する」を「正()」とし、

この「正」に二種あると記述して、法然が専修念仏するキッカケになった有名な「一心専念弥陀名号〜これを正定の業と名づく」という文言によって、「念仏」は仏願に順ずる《正定業》であるとし、その他の「礼誦等」を《助業》として、これら以外を「ことごとく雑行」と名づく。

 

と善導の引用をまるまる引用していますが、

この辺は、「法然に依存」する「念仏行」について、

方便の上で「行」を論じるというより、「方便行」について限定して、

 

これ以外は、「阿弥陀仏」と「疎遠になる(疎雑の)行」と名づくるなり。

と記述してその直後に「ゆえに深心と名づく」と文脈そのまま読むと意味不明になる「疎遠になる行と名づく」「ゆえに深()と名づく」という記述があり、

しかも、「深心」は「深信」であると定義した文言を、もとに戻した「深心」で引用しています。

 

これは、「疎遠になる行」がいろいろあるから「深信の心によりなさい」ということです。

 

つまりこの「深心」はここまでの二つ目の信心をトータルして、

「深()」といっているのですが、この二つ目をまとめると、

 

【二種深信】をメインとして、その内容は、「利他」の「仏願に順ずる」《至誠心》に信順した信心であり、それは《一仏の所説を一切仏が証明する》「念仏」の《正定業》を行じることであるとしています。

 

ここはのちに「第十八願の三心」について「至心を信楽の一心で受け入れる」と記述される内容に符合させています。

 

221ページの6行目から、

〈三者回向発願心〉と観経の信心の三つ目を説明しています。

ここには、「心の方向転換(回向発願)して生まれるものは、必ず決定して真実心のうちに回向したまえる願をもとにして、《得生の想い》をなせ!」とここでも「往生を信心の時」と定義しています。

 

そしてこの心「《深信》せること」金剛のようであるから、ほかの一切の異なった見解等に「動乱破壊されることはない」だから「くだらない意見を聞かず、決定して《一心》に真っ直ぐに進め!」

と記述されて、「ここでの一心は〈一生懸命に〉ではなく、《世尊我一心》の《ひとすじにふたごころなく》という意味であり」、ついては「往生の大益を失うことが無いように。。」と念を押しています。

 

先取りしますが、

ここも第十八願の三心と同じように「中心」の「深信」に落とし込んでいます。

大経=至心、信楽、欲生我国

観経=至誠心、深信、回向発願心

論註=淳心、一心、相続心

 

いずれも、それぞれの内容は同じで、

 

至心を真実心とし、

信楽を「仏願に順ずる」〈無疑〉とし、

欲生我国を「往生」(詳細は後日)として

 

中心の「信楽と深信」を「天親の《世尊我一心》

の《一心》だと定義されます。

 

30/12/053–3

 

信文類()において、

浄土論の「世尊我一心、帰命尽十方、無碍光如来、願生安楽国」の

「尽十方無碍光如来」に「我一心」と記述される《一心》をポイントに、論が進められて、

 

曇鸞の論註により、「淳心、一心、相続心」の《一心》、

善導の「観経義()」からの引用によって、まずは「観経の三心」である「至誠心、深心、回向発願心」から「阿弥陀仏の仏意に順ずる」という《深心の一心》という定義を進めてきた中で、

 

次に「問答」が出てきます。

 

その内容は、「自力のいろいろな行を行じている人」から、(それこそ)

「難しいことはわからない状態で《一心》に念仏を行じている人」に、

 

まるで念仏行者を「惑乱させるかのように」して、「いろいろな難しいこと」を言い、

 

「今まで多くの罪を作ってきた人間が、一生の間に念仏したからといって、そんな簡単に《往生》できるわけがない、どうして念仏で無漏無生の国に《入って》不退転の位を《証悟》するといえるのか?」

「そんなことはあり得ない」というように言ってくるかもしれません。

という問いです。

 

この中に「無漏無生の国」というさとりをあらわす文言があって、

「無漏無生=国という前提」すらあり得ないという意味を含んでいると考えるべきでしょう。

ですから、「往生」という文言については「得じ」(得られない)と記述されています。

つまり「無漏無生なのに、そんな国に往生するなんていうことは、仏教の「空論」に反しているのだから、《国に生まれる》ということすらがあり得ない」と主張し、無漏無生の国に「生まれる」ではなく「入り」「不退転の位を証悟」するなんていうことも、念仏ごときで成り立つわけはない。

と方便の意味を知らない者たちが、

「難しい議論」を「純粋に念仏行をしているひと」にふっかけてくる可能性について記述しています。

 

ここで回答として、「仏教にはいろいろな悟りへの道があるけれど、その人の資質によって、(機縁)はさまざまであって、その有()の「情(こころ)」にしたがって、方法は一つではない。

 

―――(現代語訳181ページ)

 

世の中で目に見えてわかりやすいたとえでいえば、「光は闇を照らし、虚空はものをおさめ、大地はものを載せ、育て、水はものをうるおし成長させ、火はものを成熟させたり破壊したりするようなものである。このように、それぞれのものには、みなそれぞれ対応することがらがある。これらの目に見えることでさえ、千差万別である。

まして、仏法の不思議な力に、どうして、さまざまな利益のないはずがあろうか。それぞれの縁にしたがい、一つの法門によって出るというのは、一つの迷いの門を出るということであり、一つの法門によって入るというのは、一つのさとりの智慧の門に入るということである。だから「阿弥陀仏の本願力」により、縁に応じて念仏の行を修め、みなさとりを求めるべきである。

念仏の行がわたしにふさわしい行であるのに、なぜあなたはそうでない行を持ち出して、わたしをさまたげ惑わそうとするのか云々。。

と、「あなたの求めるものはあなたにとって有縁であるとしても、わたしにとってそうではない」。

 

だからおのおのの願いによってその行を修するのは、必ず即解脱を得る云々。

 

もし、行を学ばんと思うなら必ず有縁の法によれ。

 

ーーーーー

 

といった内容の回答が示されています。

 

【重要ポイント】

しかし、この回答は回答になっていません。

 

なぜ念仏でさとるのか?

無漏無生という悟りについてなぜ往生ということが成り立つのか?

なぜ念仏で不退転に入るのか?

 

という問いですから、現代風に例えれば、

 

なぜ、「大学の工学部」に行くことで、〈判事〉になれるのか?

なぜ、「法律の勉強」もせずに「最高裁判所」の〈判事〉になれるというのか?

なぜ、「工学部に行ったから」といって、〈判事〉への道から退転しないといえるのか?

 

という問いに、

世の中はいろいろだから、あなたは「法学部」で法律を学び、「判事になればいいじゃないですか、

わたしは「工学部に行って」〈判事になる〉という生き方を選んでるんですから。

 

といった回答になっています。

 

これでは、「イヤイヤそうじゃなくて」

「あなたも〈判事〉を目指しているなら、どうして《工学部》が〈判事〉になるにあたって《不退転》だと言えるのですか?」と問い返されてしまいます。

 

真宗や浄土宗の念仏者や「お坊さん」に教義について質問しても納得できない回答が多いのは、この善導パターンが多いからだと感じます。

 

だから親鸞は「浄土論、論註」に根拠を求めて「仏教と相応する」ことを明確に論じているのです。

 

そしてここで、「工学部から〈判事〉になる」ということについて、

超有名な「二河白道の譬え」が出されます。

 

ここで、わたしがこういう記述をしたのは、二河白道の譬えも仏教の「方便中の方便」であり、「抽象概念のわからない〈読み書きできない人〉が多い時代には通じたであろう「ストーリー」だからなのです。

 

ですから、ここではこういう理由と超有名ですのであえて、内容には触れません。

 

現代人にとって、信文類のうえでこの譬えが「意味」をもつのは、

224ページの後ろから2行目の「一心正念」、225ページの6行目の「一心に」、227ページの8行目の「三心すでに具すれば」の部分でしょう。

 

もちろん全体が方便としての意味を持つことは言うまでもありませんが、なぜ信文類にここが引用されているのかということは、

 

14】に明確に「一切往生の知識等にもうさく」とあって、

この引用が「往生を解く《善知識》」に向けられているからです。

ここに「大きにすべからく慚愧すべし。。。とあり、釈迦如来。。。種々の方便をして、無上の信心を発起せしめたまへり」とあり、

 

15】には、善導は「懺儀(さんぎ)」を造ることを目的として、要文を鈔して、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ。。。火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本誓は。。。と信知して《一念》に及ぶまで疑心あることなし云々。

と引用されて【14】の善導の「般舟讃」から【15】の「貞元の目録」へ引用を展開して、「一念」を「深心」に定義して、〈それかの弥陀仏の名号を聞く〜「歓喜して一心を至せば」〜かしこに生することを得べし。

と論を通されていて、これだけ長い引用で結論を「懺儀(破我)=聞名=一心」とされていることに、この二河白道の引用も含まれているだけで、親鸞は、二河白道そのものを論じていないのです。

 

ですから、この二河白道のまえの問答の回答として、

16228ページの後ろから3行目には、明確に「菩提心不可壊の法薬を得れば云々」と「菩提心不可壊の《法薬》を得れば、無量劫における生死の中でもろもろの煩悩の行為()があったとしても断滅して損減はないのです。」と明確に回答をしていて、

この法薬で「懺儀の破我と縁起他力(本願)に生きる一心」が得られて悟るのです。

と鮮明な回答をしています。

 

ですから【17】においても、「煩悩でこのことが見えずとも、摂取の光明は《常照》している」と落ち着いた回答をしています。

 

 

 

30/12/063–4

 

ここで少し「唯識論」に触れます。

これを記述しないでおこうか、「補足」に載せようか考えましたが、

やはり、「方便」を知るためには、あえて知っている方がいいと判断し、また、現代人ならこれを知っていただく方が「教行証文類」の理解には重要だと考えました。

 

また、この「唯識」は、天親が大成した論であり、「浄土論や論註」を中心とした「行信論」において、

これを知ると知らないでは、「真宗理解」に大きな差が出るからです。

 

「世尊我一心」の「一心」理解にも影響し、

「真如、如来論」や「仏の智慧」「荘厳功徳」「五念門五果門」

「法蔵《因位に果位名号が含まれる》という因果の同時」などなどの

意味が明確になります。

 

 

(wikipedia「唯識」から、重要なポイントを訂正しつつ掲載します。)

 

唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である[1]

いわゆる、心といっている外に「もの」はない。

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起、

つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。

 

唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。

これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という。

また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。

他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子《倶有の種子(くゆうのしゅうじ)、後述》が存在するからであると唯識では考える。

 

阿頼耶識と種子のはたらき

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、

その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。

これを薫習(くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる《現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ》という。

 

このため阿頼耶識を別名「蔵識」、「一切種子識」とも呼ぶ。

阿頼耶識の「阿頼耶」(ālaya)は「蔵」という意味のサンスクリット語である。

 

さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ《種子生種子》。

 

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識(自我を私と認識する識)や意識(通常の認識)に作用することがある。

 

さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。

 

この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。

 

これが思考であり、外界認識であるとされる《種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう》といい、

このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。

 

この、

【現行薫種子種子生種子種子生現行】

これら「三法転展の因果は同時」であるとされる。

「三法転展因果同時(読み、さんぽうちんでんいんがどうじ)

 

最終的には心にも実体はない。

 

このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す《刹那滅》なものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。

 

このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、

すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、

「空」であり、実体のないものである。

しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。

 

これは「唯心論」とは異なる。

なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその実在性も否定されるからである《境識倶泯》(きょうしきくみん)という。

 

単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗)・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。

 

唯識思想の特色

 

仏教の中心教義である無常・無我を体得するために、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である。

 

『般若経』の空を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする。

 

成立と発展

 

唯識はインドで成立、体系化され、中央アジアを経て、中国・日本と伝えられ、さらにはチベットにも伝播して、広く大乗仏教の根幹をなす体系である。倶舎論とともに仏教の基礎学として学ばれており、現代も依然研究は続けられている。

 

識の転変

 

唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心のもつイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。

 

これを『華厳経』などでは次のように説いている。

 

又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。

十二縁分も是れ皆な心に依る。

(又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心)

 

大方廣佛華嚴經十地品第二十二之三

 

識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、

経に唯心という。

分別了達の根本であるから論に唯識という。

あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。

論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。

識は了別の義であり、

【因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定している】のである。

意味的には二つのものではない。『二十論』には、心・意・識・了の名はこれ差別なり、と説く。 

(識者心也。由心集起。綵畫為主之根本故經曰唯心。分別了達之根本故。論稱唯識或經義通因果總言唯心。論唯在因但稱唯識。識了別義。在因位中識用強故。識為唯。其義無二。二十論云。心意識了。名之差別。)

 

慈恩大師 大乘法苑義林章卷第一[3]

その心の動きを「識 (vijñāna) の転変 (pariāma)」と言う。その転変には三種類あり、それは

 

異熟(いじゅく) - 行為の成熟

思量(しりょう) - 思考と呼ばれるもの

了別(りょうべつ) - 対象の識別

3である。識の転変は構想である。

それによって構想されるところのものは実在ではない。

したがってこの世界全体はただ識別のみにすぎない。

 

第一能変

異熟というのは、阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、あらゆる種子 (bīja) を内蔵している。

感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。

感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。

感触その他もまた、同様である。

そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」

 

第二能変

末那識 (mano nāma vijñāna) は、阿頼耶識にもとづいて活動し、

阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。

末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。

我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。

 

なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。さらにその他に感触などを随伴する。

 

この末那識は自我意識と呼んでもよい。つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。

 

この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓(ざんさ)

やはり種子として阿頼耶識に薫習される。

 

第三能変

了別とは、第三の転変であり、六種の対象を知覚することである。

 

六識は、それぞれ眼識が色(しき、rūpa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。

そしてこの六識もまた阿頼耶識から生じたものである。

そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、

我々が意識の分野としているもので、

阿頼耶識は「無意識」としているものである。

 

これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、同時に後二者の活動の余習(余勢)が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。

 

識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。

その際に、阿頼耶識に余習(余勢)を残す。

それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、

「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。

 

三性

このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。

 

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita

 構想された存在 凡夫の日常の認識。

依他起性(えたきしょう, paratantra

 相対的存在、他に依存する存在

円成実性(えんじょうじっしょう, parinipanna) 

 絶対的存在、完成された存在

 

このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。

 

遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当し、存在せず、空である。

 

舎利弗、仏に言(ことば)を白(もう)せり。

「世尊。諸法の実相、云何(いかん)が有なるや」

仏言わく。

「諸法は有る所無し。是の如く有り、是の如く有る所無し。是の事を知らざるを名づけて無明と為す」

 

摩訶般若波羅蜜経相行品第十

 

依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである。

 

このように物事は、阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば、識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である。

 

【名字は是れ因縁和合の作れる法なり。】

《但だ分別憶想》、【仮名を説く】。

是の故に菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず。

見ざるが故に著せず。

摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二

 

名字ということは「無量寿経」専売ではありません。

十二縁起の「名色」の名でもあります。

 

円成実性は、【仏の構想】であり、絶対的存在とも呼べるものである。

これは依他起性と別なものでもなく、別なものでもないのでもない。《依他起性から、その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である。》

 

復た次に舎利弗。菩薩摩訶薩、諸法の如・法性・実際を知らんと欲さば、当に般若波羅蜜を学すべし。

摩訶般若波羅蜜経序品第一

 

以上の如く、般若経の段階では三性としてまとめて整理記述しているわけではない。

時代を下って『解深密経』(玄奘訳)を待って初めて、諸法に三種の相があると説く。

 

これは法が三種類あるということではなく、法は見る人の境地によって三通りの姿かたちが顕れているということである。

 

謂く、諸法の相に略して三種有り。

何等か三と為すや。

一者は遍計所執相、二者は依他起相、三者は円成実相なり。

 

云何が諸法の遍計所執相なるや。

謂く、一切法の名、仮安立の自性差別なり、乃至言説を随起せ令むるが為なり。

 

云何が諸法の依他起相なるや。

謂く、一切法の縁の生ずる自性なり。則ち此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずる故に彼れ生ず。

謂く、無明は行に縁たり、乃至純大の苦蘊を招集す。

 

【云何が諸法の円成実相なるや】

謂く、【一切法平等の真如なり】

此の真如に於て諸の菩薩衆、勇猛・精進を因縁と為すが故に、如理の作意・無倒の思惟を因縁と為すが故に、乃ち能く通達す。此の通達に於て漸漸に修集し、乃至無上正等菩提を方(ま)さに証すること円満なり

解深密経一切法相品第四

 

相は性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されるようになる。

 

三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。

つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。

また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、

第三の円成実性である。

そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。

その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。

これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。

 

しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。

認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。

なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。

 

それは心が無となり、感知が無となったのである。

それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。

 

これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。

 

修行の階梯

唯識では成仏に三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれるとてつもなく長い時間の修行が必要だとされる。

その階梯は、資糧位(しりょうい)、加行位(けぎょうい)、通達位(つうだつい)、修習位(しゅうじゅうい)、究竟位(くきょうい)の五段階である。

 

【転識得智】

修行の結果悟りを開き仏になると、8つの《「識」は「智」》に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。

 

前五識は成所作智(じょうしょさち)に

意識は妙観察智(みょうかんざつち)に

末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に

阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。

転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。

 

唯心と唯識

 

「華厳経」では「唯心」という。また「唯識論」では「唯識」という言い方をする。その違いは何であろうか。

 

『華厳経』では、「集起の義」について唯心という。

『華厳経』は、《覚った仏の側》から述べているので、すべての存在現象が、そのままみずからの心のうちに取り込まれて、全世界・全宇宙が心の中にあると言うのである。そこで、すべての縁起を集めているから「集起の義」について唯心と言うのである。

 

唯識論では、「了別の義」について唯識という。

 

「教行証文類の219ページの7行目の《了教》という表現もこの義であると考えられるのです。」

 

唯識では《凡夫(われわれ普通の人間)の側》から述べているので、人間のものの考え方について見ていこうとしている。

すべての存在現象は人間が認識することによって、みずからが認識推論することのできる存在現象となりえているのであるから、みずからが了承し分別しているのである。

そこで「了別の義」について唯識というのである。

心ではなく、識としているのは、それぞれの了別する働きの体について「識」としているのであって、器官ではない。

器官は存在現象(縁起)しているものであるからである。

 

しかし、唯心といっても、唯識と言っても、その本質は一つである。

 

詳しく分けて論ずれば、「唯心」の語は、修行する段階(因位)にも悟って仏になった段階(果位)にも通じる「因果不二」

 

しかし、「唯識」と称するときには、人間がどのように認識推論するかによるので、悟りを開く前の修行中の段階(因位)のみに通用する。「唯」とは簡別の意味で、識以外に法(存在)がないことを簡別して「唯」という。

「識」とは了別の意味である。

了別の心に略して3種(初能変、第二能変、第三能変)、

広義には8種(八識)ある。これをまとめて「識」といっている。

 

識と存在

 

唯識といって、以上のように唯八識のみであるというのは、一切の物事がこの八識を離れないということである。

八識のほかに存在(諸法)がないということではない。

おおよそ区分して五法(五種類の存在)としている。

(1)心、(2)心所、(3)色、(4)不相応、(5)無為である。この前の四つを「事」として、最後を「理」として、《五法事理》という。

 

心(心王, citta - 識それ自体。心の中心体で「八識心王」ともいわれる。

心所 (caitasika) - 識のはたらき。心王に付随して働く細かい心の作用で、さらに6種類に分類し、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定(ふじょう)とし、さらに細かく51の心所に分ける。心所有法、心数法とも訳される。

(rūpa) - 肉体や事物などのいわゆる物質的なものとして認識される、心と心所の現じたもの。

不相応行 (viprayukta-saskāra) - 心と心所と色の分位の差別。心でも物質でもなく、しかも現象を現象たらしめる原理となるもの。

無為 (asaskta) - 前四法の実性。現象の本質ともいうべき真如。

 

さらに心を8、心所を51、色を11、不相応行を24、無為を6に分けて別々に想定し、全部で百種に分けることから、五位百法と呼ばれる。なお倶舎論では「五位七十五法」を説いており、それを発展させたものと考えられる。

 

 

 

30/12/06

[唯識を教行証文類で詳説します]

 

唯識論を読んでいただいた上で、今までの教行証文類の内容からポイントを整理します。

 

まず、真如(果位)から法蔵菩薩の(因位)が説かれているのは、

華厳経でいう《仏の側から見た「果」を含んだ「菩薩」》であるということです。

 

()から来生した()であるから《法蔵因位》は

「如来の果」そのものであり、本来「因果同時」だということです。

そういう意味で、法蔵を「垂迹」といわれることが多いのです。

 

しかしこれを《凡夫の側》から見たときは、

現生(現実世界)は「種子(しゅうじ)から出てきた現行(げんぎょう)」であると見ます。

これを《種子生現行》といいますが、「視覚が映像を映し出す」というようなことです。

 

ですから「わたしを仏智に導く法蔵の願行をデータとして信知すれば、

その《データ》つまり種子が現実世界に浄土の荘厳功徳という《現行》を映し出すので【観察】

現実に重ね合わせるように荘厳功徳が見えてくる」

と受け取るようになれます。

 

だから「信知」すると、《種子生現行》において《種子から》

「単なる現実が現れている」のではなく「如来の荘厳功徳」が

《現行として現れている》という見方をするようになります。

 

そしてそのように現実を荘厳功徳と見ようとすれば「荘厳功徳」という

《現行が薫種子》されます。

 

するとわたしの阿頼耶識(種子のいれもの=私)の中で

《そのように受け取った種子が凡夫の種子を育てる》

という《種子生種子》という状況を作っていきます。

 

例えば、「わたし」が「名号」に変換されると、

わたしに対して「怒っているひと」が目前にいても、

「わたしという生命体が、なんらかの行為をしたことによって

《あるひとが怒る》という現行が現れているけれど、

『わたしも同じようにこういうことで《怒る》煩悩を使っていること』を

この現行が教えているんだなぁ」

 

という見方ができるようになると、「この人は仏の化身だなぁ」って思えてくるので、

「浄土の荘厳功徳を現実に重ねて《重々無尽》に見られる」ようになります。

 

これを「多次元」と表現してきました。

 

心理学的には「怒られているときに解離しているのか」という

イメージになります。

 

しかし智慧に基づいてそのように見えてくるということなので、

「空想」に逃げる「解離」ではありません。

 

そのように世の中に浄土荘厳功徳を〈重ねて見られる〉という「さとり」への種子が

薫習されると、煩悩のデータで動いている「タネ(種子)」を育てていく《もうひとつ》の

仏というタネ(種子)」がわたしに内在する状態になるということです。

 

「誰かが怒っている」という現行の解釈が、

「わたしもこういう風に怒るということを仏の化身が教えている」と変化します。

 

怒っているという現実が「仏の化身がわたしに教えている」という《現行薫種子》になり、

「あらゆる出来事が仏の荘厳功徳」だなぁと「わたしのタネを育て」てくれて、《種子生種子》になり、

「この世は仏の荘厳功徳だらけだ」と見えてくる《種子生現行》という因果同時になっていくということです。

 

【現行薫種子種子生種子種子生現行】

 

この《三法転展因果同時》の唯識の動きが、「私」を「無常、空」へと育てていきます。

 

またそれと同時に《如来の名字》が「わたしの現生の仮名を破り」、荘厳功徳を通して現実の中でさとりを【観察】しようとする

「破我名字」になります。

 

このように仏から見れば《わたしたち衆生》は「多即一」の如来に包含されているのですが、

わたしの側から見れば「唯識」という「煩悩のタネ」で現実を見る状況を生きているので、

さとりの「法薬」を飲む必要があるのです。(228ページの後ろから3行目)

 

ですから「法薬」を飲む=さとりへの種子が薫じられることになります。

 

具体的には「如来の名字、名号」をいただくことです。

この無為法の名字をいただくことで、

わたしという有為法は消滅無為法に向かいます。

 

このような論理によって

 

わたしが「如来の名字、名号」の「法薬」を飲むということから、

このようなプロセスがスタートして、わたしが法蔵の願いを聞き《五念門》を行じるようになるために、わたしにさとりの種子が入ります。《現行薫種子》

【この「さとりの種子が入る段階」を親鸞は《信心》といっています。】

こうなると、わたしの阿頼耶識にある煩悩の種子がさとりへと育てられていくのです。

 

もう少し具体的に「五念門行」でいうと、

私が《教えを眺めていた縁》から「自我」を如来に投じる《因信心になる》ことで

【礼拝】をするものになります。

 

そして「如来の名字」を私の名字に変換して【称名讃嘆】するものになり、

【因果包含】の《法蔵の願い》を生きる【作願】のものになります。

 

そこで「現実」をさとりの荘厳功徳だと【観察】しながら生きるようになっていきます。

するとこの状況が自然と【回向発願】の(薗林遊戯地門)「利他を行じる」ことになっている。

 

という論の流れです。

 

教行証文類の信文類には、

このように《仏道の歩み》が、「一心」からスタートするけれど、

論理上「因果同時」だから、スタートにゴールが包摂されることになるということを

いっているのです。

 

このように、天親の「唯識論」が「浄土論」の根拠としてあり、

「尽十方無碍光如来」でも「南无阿弥陀仏」でも、

「名字名号」が「わたしという生命体の主体に転じること」が「信心」のポイントです。

 

とにかく「称名讃嘆」をしつつ「仏願(本願)」に生きるようになると、

自然にわたしの種子が変わり「大円鏡智」を得るようになるのです。

 

そこで完全にわたし自身が「空化」すれば、

《さとりに確実に至る薬を飲むので》

わたしが「如去、如来」する《法》そのものになります。

 

例えるなら、「絶対に治る薬を飲んだときに、治ったという結果がすでにある」

ということです。

 

もうひとついえば、

良き国王がいて、国民に《良き種子(さとりの智慧)》を与え煩悩のコントロールをしてくれていたので、貧しくても「幸せ」を感じる国だった「ブータン」に、

インターネットなどから「資本主義の種子」が持ち込まれて、国民は煩悩のコントロールを失って、

「不幸」になったという実例があります。

30/12/083–5

 

229ページの【18】に「行信ともに阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし」とあり、

「因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」とあります。

 

これをサラッと読めば「行信ともに阿弥陀如来が成就してあたえられたもの」であり、そういう「清浄願心」の因が「行信として他力回向されているから往生する」のであり、「他の因では不可能」である。

 

というような意味だと「脚注」のようにも読めます。

 

しかしこの講義において「なぜこのタイミングで《唯識》なのか」という理由があります。

 

ここをもし親鸞が、「大経に従って」「正信偈」のように記述するのなら、

「行信ともに法蔵菩薩の清浄願心によって成就された名号を信因として回向したまふ」と記述しなければ、

そもそも大経のストーリーに符合しません。

 

なぜ「因」を「果」で論じているのか?

という疑問が普通なら出てきます。

 

真宗学で教えられた「先入観」で読めば、見落としてしまう「かなりな【重要】ポイント」です。

 

結果「唯識」の「因果同時」または「華厳経」の「果」から「因」を論じる。

のいずれであったとしても、そもそも《仏教と相応した浄土教》を前提とするなら、

わざわざ「行信」を「果位」(阿弥陀如来)で語る《明確な理由》がなければ「論が成立しない」のに、あえてそう記述するならば、そこには【重要な意味がある】と考えられるからです。

 

この文章を、「華厳経」や「唯識」を知っていて読めば、

「五念門」を「行」じようとする《因位》の「信心」にすでに「果」が包摂されている。

ということを、親鸞があらわそうとしていると理解できるからです。

 

この【18】の一文が重要なので「わざわざ《唯識》を解説」しました。

 

「この行信に《因果同時・因果包摂》されている」から「阿弥陀如来の清浄願心の回向成就」という一文が成立するのです。

 

単純に「阿弥陀如来といっても法蔵菩薩といっても、そもそも同じだから、どっちでもいい」という(テキトーな)ことではないはずです。

親鸞ほど緻密なひとの「論」だからこそ、かなりな確率で「深意」があると推定できます。

 

しかも、ここで「脚注」に「如来回向の行信が往生の因となるので」と記述してありますが、「恣意的または安易な記述」です。

 

ここには「往生」とも「成仏」とも記述はされていません。

 

ただ、この「大経の因果」について、あえて「果位」を「因位」に変換して記述している「理由」から読み解けるのは、

 

親鸞が「浄土論」によってあかそうとしていることは、

「世尊我一心」と「如来の名号・名字」に「自我名」が転じられる「五念門行を受け入れる一心(因信心)」において、《現生》を多次元的に観られるという形態で《浄土往生する》ことを明かすためだといえます。(補足その256を参照下さい)

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 

つまり《現生》に《荘厳功徳を生きる》ことになり、そこにはすでに「五果門」という果を含めて生きることになる「入出二門」を生きるものになることを明確化する意図があると読み込めるのです。

 

あえていうなら「長々」と信文類に「善導」を引用しているのは、

「大経」の「至心信楽欲生我国」の意味が、「観経疏(善導)」の「至誠心、深心、回向発願心」の解釈で詳しく説明できるからといえます。

 

「大経と浄土論」では「至心信楽欲生我国」の「三心」の意味を明確に説明できないのです。

 

「二河白道」は善巧方便のなかの方便として、三心が具体的に譬えられているから引用されているのです。

 

信文類に占める「善導」の割合が多いから、善導がメインキャストだと理解すると、この後にまたまたわざわざ出てくる「一心」の解釈に、

「論主」という主語は必要ありません。

 

「大経」の三心と「論主」の一心を結合させるために、善導を引用したと理解することで、信文類は一貫します。

 

「論主」こそがメインキャストです。

 

 

 

 

/12/083–5追説]

 

教行証文類における《論主》と《善導》の「メインキャストとサブキャスト」について

親鸞は、教行証文類において「本心と配慮」があり、これは「真実と方便」に別れます。

 

ここで法然の選択本願念仏集を見てみます。

 

法然は「選択集」冒頭に、いきなり

《南無阿弥陀仏(往生之業、念仏為本)》と標挙されます。

 

そのうえで、「善導」が直接師事した「道綽」を出して、「聖道門」を捨てて「浄土門」を選び取るという「浄土に帰すの文」を標挙としているとして、「安楽集」を引用します。

そのなかに、「浄土の一門は十念相続」の「称名」と定義しています。

 

その後に「法然の御自釈」があり、「大経」「観経」「阿弥陀経」の三部経と「浄土論」の

《三経一論》を「声聞、縁覚、菩薩」の三乗に対して「仏乗」として「往生浄土の門」としています。

 

そして、「正依の経」(この中にある『摂大乗論』は唯識の書)と「傍明の諸経」を分類して、

「往生浄土の諸論」を述べて「論註」から「十住毘婆沙論(龍樹)」を出し「易行」について述べています。

 

このあとは、ほぼ最後に至るまで、「善導と観経」の引用が大半を占めて進み、観経疏(善導)で終わります。

 

ここで「選択集」について論じるつもりはないので、簡略に記述しましたが、

法然のこの内容は「南無阿弥陀仏の十念往生」を一門としたもので、仏教の観点からは「まるまる善巧方便」になります。

 

ここで【重要なこと】は、

「浄土往生すれば、いつになるかは不明確としてもいずれ成仏する」ので、

親鸞のように「正定聚」について述べたり、成仏にこだわって「さとり()」に言及するということがないというポイントです。

 

しかし、親鸞の教行証文類で最もいいたいことは「(真実の)さとり」が「因信心の時点からスタートすること」だと考えられますが、

この時点でポイントが法然とは大きく異なります。

 

この大きなポイントのズレを、「法然も《一論》と認めているメインキャスト(天親=論主)」に変えることで埋めています。

 

教行証文類全体で「論主」がメインキャストになっていて、このメインキャストが「大経」における「本願」の重要なポイントを「十念往生」から「一心成仏」に変えてくれています。

 

ですから、「浄土論と論註」の引用が多く、なかでも「行、証文類や真仏土文類」では、ほぼこの引用が中心になっていて「一心成仏」へのプロセスを論じています。

 

「真仏土文類」の引用において、「経典の引用」以後のしょっぱなから「浄土論」に始まり、「真仏土文類」の終わりは「経家、論家」で終わっています。

 

これは「証文類」も同じように始まり、「論主(天親)、宗師(曇鸞)」で終わっており、

同じパターンです。

 

親鸞は、

「師匠への配慮」と「本心」、言いかえると「方便」と「真実」を

このようにメインキャストを変えることで合わせながら論じていると推定できます。

 

 

 

30/12/093–6

 

229ページの【19】に問答形式で論じられます。

 

ここでは、

《果位=如来》の本願に前もって、「至心信楽欲生」と「三心」の誓いが発されているのに、

《論主》はなぜあえてまた「一心」といっているのか?

という問いを起こされます。

 

そして「愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといえども」と回答が始まります。

 

ここの「愚鈍」、「愚かで鈍い」という表現や「解了易からしめんがため」という表現にも意味がありそうです。

 

「愚か」は煩悩の凡夫、「鈍い」はさとりを見ようとしない。

のちの「難化の機」を意味して「All the 凡夫」を表現しているといえます。

 

「了」は《さとり》を「解」は《解き明かす》。

つまりは「凡夫や難化のものに悟りを解き明かすため」とここでも、

親鸞がテーマにしていることが「さとる」ことだとわかります。

 

ここで「阿弥陀如来」を「弥陀如来」と記述していますが、親鸞がおおよそこのような《略称》を用いる部分は「深い意味」がないと、パターン的に推定できます。

 

親鸞はこの問答で、「果位の弥陀の因位の誓願に三心」とあるけれど、それは愚鈍のものをさとらすために、

論主が「三を一つにして」、「涅槃(さとり)」の真因は「信心」が唯一だということを教えるために「世尊我《一心》」という文言で「一」という表現をされていると明らかにします。

 

しかしこれを読んでいて、なぜ親鸞はこういった《めんどくさそうなこと》をまたまた論じるのかと

つい思ってしまいますが、これを先入観と言います。

 

実は、信文類のはじめに「至心信楽の願、本願三心の願」と標挙しているのに、まだこの段階で「本願三心」について説明していません。

 

私たちは、なんとなく「信心」ということばに「慣らされている」のですが、よく読めば、ここまでで【「信心」と定義しているのは、観経疏の「深心」のみで、あとは「信」でしかない】のです。

 

15】の引用のなかで228ページ4行目に「深心を真実の《信心》なり」と定義して【15】のおわり【16】の直前に「歓喜して《一心》を至せば云々」と《一心》と結びました。

 

そもそも浄土論註【9215ページには「淳心、一心、相続心」のすべてを「信心」と記述してあるのですが、

のちの252ページで、この三心すべてを「一心」の裏返しである「決定信」に定義して、この「決定信」を《一心》と【66】であえて定義されます。

このようにのちに論主の三心が「深心」「深信」「決定信」の一心であると定義されるものの、

 

229ページまででは、この論主の一心についても「本願」との関係がまだ明確になっていません。

 

そのような論の状況で「信心」は、まず先に《「本願」の「至心信楽欲生」のことである》とあきらかにする必要があるのです。

 

この問答ではじめて「本願の三心と論主の一心」を引用して、いったん「観経」の三心のなかの「深心」が《信心》であると定義したものを、

 

この問答をスタートにして【20】の230ページから「三心の字訓をうかがふに」とはじめて、「至心」の解説からはじめて、

「至は真、実、誠なり」と詳説し、

「心は種なり、実なり」と詳説します。

 

ここで「至心は真実心」と定義されますが、「至心」を最も重要な「真実誠満」であるとここで定義するために、はじめに「観経疏」で「至誠心」を解説されたと推定できます。

また「種なり」が「唯識の種子」を意味していることは想像に難くありません。

 

このように、これらの説明の前提として216ページの【13】からの善導の引用を用いていることは、ほぼ確実に推定できます。

 

 

つぎの「信楽」には、多くの文字によって定義をしていますが、

「信楽」の

「信」を真、実、誠、満、極、成、用、重、審、験、宣、忠なりとし、

ここで「至心」の要素をまとめて、「真実誠が満ちた、成仏の極みに用いる重要な心で、審らかにさとりが験じ、利他に宣べる忠実な心」といった風に「信」に込められている意味内容を出して、

「楽」を欲、願、愛、悦、歓、喜、賀、慶なりとし、

文字通りの意味をもって「欲生」の要素を込めつつ、

 

つぎの「欲生」を

「欲」を願、楽、覚、知なりとし、

「生」を成、作、為、興なりとし、

「願楽、覚知」のための「成作為興」の心であると明らかにして、

「欲生」に「信楽」の欲、願、楽がダブって入っています。

 

ことに「信楽」に「至心」の「真実誠」と「欲生」の「欲願」をダブらせることで、

「至心」「信」「楽」「欲生」と展開しています。

 

そして「欲生」の「願楽覚知、成作為興」が

「欲生」から「信楽」に含まれる《「覚知(さとり)」を「願楽」する)から、

「成仏を作す為に興す」と「無生の生であるが、方便として往生という言説が興された」と解明しています。

 

親鸞はこのような「文字で三心の意味をおさえて、ダブらせつつ前進する」という論理展開のテクニックで、三心の字訓をしています。

 

このように、「三心=一心」の論を進めるなか、「至心信楽欲生」を詳しく字訓という方法で論じ、230ページ後ろから6行目からこれらをまとめていますが、

字訓はあくまでもそれぞれ単体で理解した方が審らかになるのです。

 

ここで「字訓」を「単語にしている」のは各々「疑蓋無雑」であることがいいたいと読めます。

 

ですから230ページ後ろ6行目から、三心それぞれに「疑蓋雑はることなきなり」とひとつひとつ定義し、この「疑蓋無雑」という共通項で三心をくくって、

 

21】の手前で、

「疑蓋間雑なきゆえに信楽と名づく」と定義します。

 

こういう論の展開を使って、

20】前半の字訓で「信楽」に「至心と欲生」が込められていること。

 

20】後半の「疑蓋間雑なきゆえに信楽と名づく」の共通項という、

二つの観点から《信楽を一心》とし、「一心は『真実《信心》』であり《論主の一心》がこれである」と定義しています。

 

このように、ここで「信楽の一心」が「論主の一心」であると解明していますが、

問答の「なぜ信心《一心》が涅槃に直結するのか?」「涅槃の真因」なのかという理由をさらに解明する必要があります。

 

それが、231ページの【21】からの内容です。

 

 

 

30/12/113–7

 

なぜ涅槃の真因が「一心」なのか?

この問いを含めて、231ページ【21】からの問答に進みます。

 

なぜ、字訓のように論主は三心は一心で表現できるし、その方が衆生に受け入れられやすい。といっていても、そもそも論主がそんなめんどくさいことをしなくても、「如来はすでに衆生のために三心で願いをおこしているではないか?」と改めて問います。

 

回答に、まず「仏の意図は測り難い」と前置きします。

そして、

いくら「測り難い」といってもと表現しつつ、

ひかえめにその意図を推論すると一切の群生海は、いつとは知れない過去から今日この時に至るまで、虚偽のありようを転げ回って、真実の心はありません。

だからこのポイントを「如来は憐れみて兆載永劫という永遠に近い間、むちゃくちゃ清浄な気持ちで菩薩の行をして、どんな刹那な間も清らかで清らかな状態を保ちながら行をして、その清浄な真心によって、どんな言語で語り尽くしても語れないほど至上の功徳を成就されたんです。」

 

「そして、その如来の至心をもって、諸有の一切煩悩の「ムレ」にその功徳を回向して施されたんです。」

「これがいろいろ論じてきた利他の真心ということで、だからこそ疑蓋無雑の一心が三心に共通してダブっている部分です。」

「そしてこの至心の本質は、功徳の最上を表現した尊号です。」

 

このように問答がされます。

ここで重要なことは231ページ後ろから3行目の「円融無碍。。。」という部分とここにかかる「不可思議、不可称、不可説の至徳」です。

これは今まで何度も出てきている《法界縁起》を意味していて、こういう法界は、「ことばも絶えた真理」であるということを意味しています。

31】からの涅槃経引用、【34】からの華厳経の引用で、「凡夫への善巧方便によるさとりへの誘導」が明確になります。

 

そしてこの「法界」を、煩悩の凡夫が受け入れやすいように「至心」という「真実心」を「尊号」に言語表現して与えられているということです。

―――

親鸞は、このように《わかる人にはわかる》という論理パターンが多いからややこしいのです。

――

だからこの言論で定義することが難しい法界という功徳を「尊い名字」として凡夫に与えれば、「難しい理屈抜き」で「疑わずに尊敬して受け入れるようになるでしょう」。

 

だから「実は単なる文字」である名字を、『尊い名字《真実心》』と表現して、《この上のない功徳》だと表現すれば、疑いのない状態になって素直に受け入れるのです。

 

これは文字も知らない人の多い時代の「話し」で、そういう時代の人に「この南無阿弥陀仏という名字(文字)が尊い」で受け入れられるということです。

 

文字で動かされるということです。

 

こんな風に論じると、「平成生まれの方」などの現代人には、まるで「陰謀か」というような表現になりますが、これが《真実心の真実》なのだと推定しても不自然ではありません。

 

現代人なら数字という文字列で動かされている。

といえばご理解いただけると思います。

 

マジメこの上ない方々からはかなりの批判を浴びそうな表現をしましたが、このように解釈する方が現実的で本質論になるから、あえてこのような表現をしています。

 

そしてこれは「実証的」で「具体的」で「本質的」で「現実的」です。(親鸞の論調はこういった具合です)

 

親鸞にも私にも「まったく悪意はありません」。

どうすれば、幅ひろく理解してもらえるか。

というテーマが「大乗仏教」の本質であり、恭しくすることが本質ではないのです。

 

ただ、「ムレ」は「論」で動かない。

「恐ろしそう」「楽しそう」「儲かりそう」という《情的チカラ関係で動く》《動物脳で人は動く》という人間心理を巧みに動かして「さとらせる」「さとりを表現する」ことが《肝要》であるという「それこそ真実《論》」を展開しています。

 

また親鸞が「勅命」という「本来天皇につかう表現」をつかっているように、第2次大戦後までは「マジマジ天皇は神」だったのですから、このように「尊い」や「52位の41位まで至り、等覚(51)に至る」といった「格式」を表現することで人が動いていた時代には、「尊く位の高い如来が憐れんで。。。」という「表現に意味がある」という認識だったと推定する方が自然です。

 

親鸞は、そういう時代にこの教行証文類の最後には「上皇を批難する」という「掟破り」を記述していますし、「権力(チカラ)におもねらない生きよう」をしています。

 

実際、歴史的にも「第2次大戦中」は各寺院にあった「教行証文類のこの部分」は国家から「黒く墨で塗り潰すように司令」が出ており、塗りつぶされています。

 

親鸞は、この「阿弥陀如来」という《情的な言語表現》による「浄土教」によって「不退転初地」の位を得て「等覚」から「妙覚」へと進んだひとですから、群れを脱出したひとでもあったのです。

 

ムレは「鶴」の「ひと声」で動くので、「尊」「号」と表現されています。

 

ですから、【22】から「荘厳功徳」について引用をして、「あなたを苦から解放したいから、一生懸命いろいろな方向からあなたをさとりに導いています」という「如来の思い」を語っています。

 

そして【26】に「真実は如来であり、虚空であり、仏性である」と

記述して《わかるひとにはわかる》「本質論」に戻しています。

 

もし、現代日本人でこの解釈が理解できないという方は、よほど既成概念に染まっているか、過剰にマジメに世の中を見ているか、融通がきかないか、という方々かも知れません。スミマセンm(_ _)m

 

無礼なことを承知で申し上げています。

 

補足61をご覧ください。

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku2

 

 

しかし、この無礼をいわなければ、「知性化した時代」にも「尊い」という感情論がいいひとと、知性化された「論理の人」との間が埋まらないのです。

 

このような意味でも浄土教は「All the 凡夫」をカバーしていると理解できるのです。

 

 

 

30/12/133–8

 

232ページの【22】【23】の「大経」と異訳の「如来会」の引用で功徳荘厳成就をあらわし、【24】にて、「雑毒の行は不可なり」とあります。

 

雑毒

親鸞は217ページに善導を引き、有名な「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、うちに虚仮を懐いて。。。」と記述していますが、

親鸞はもともと「外に賢善精進の相を現じ、うちに虚仮を懐くことなかれ。。。」と読むべき文言を、上記のように読み替えて逆転させています。

 

人間界は「見た目や態度のいい人」を好みます。

しかし、その見た目と「腹のなかは違う」ので、「騙された」と騒ぎます。

つまり、「うちに虚仮を懐くことなかれ。。。」といわれても、うちに虚仮を懐いていない人を探す方が難しいものです。

 

だから私という生命体は、みなさんに嫌われるようなことを平気で言いますが、これが「仏教だから」です。

「嫌われるかどうか」が基準ではありません。

 

「さとりを自行化他、自信教人信できるかどうか」です。

もちろん「嫌われれば」さとりを伝える前に「周りから誰も居なくなるんじゃないか」というご意見もあるでしょうが、居なくなるようなケースでは、結局「群れるところ」を探している人や「ホンモノを求めていない人」がいなくなることだと思います。

 

私という生命体が「フラット」に、差別や上下という「パワーバランス」を取らない生命体なので、このことを理解して、真実を言っていると思う人はいなくなりません。

どちらかというと「真実」を求めている人が残られます。

 

1100万円あげよう」といわれても、不真実なことに利用されることは好まない生命体です。

親鸞があえてここの読み替えをしたのも、事実人間界は「雑毒」だらけだからなのでしょう。

 

「毒」は「自己の生命体を守るためのもの」で、人間において基本的には、「煩悩が自己防衛手段」なので、煩悩を毒といわれます。

「自分が悟ればいい、自分の苦がなくなればいい」という前提で、修行している人も多いものです。

しかし、ここに自我が前提にあると「雑毒」になります。

 

あくまでも、補足58に記述したように、「必ず実を結ぶ」を意味する「真実」には、「一如」という事実に基づいて、「利他真実」が重要です。

涅槃経の「衆生病むがゆえに仏も病む」という「あなたの悩みが私の悩みである」ということが大前提です。

 

私という生命体は、今までから多くの「カウンセリングやコンサルテーション」をしてきて、今も若い《起業家(ベンチャー)》を育てていますが、これは私という生命体にとっては「ビジネス」ではありません。

 

関わる人がどうしたら、資本主義の中で真実を生きて、今回は最後に触れようと思っている「教行証文類の総序」にある「悪を転じて徳を成す正智」をもって「資本主義に振り回されない仕事ができるように育成する」かということを行じているだけです。

 

いま育てているひとは非常に素直に伸びていて、来年ぐらいには世の中で「大きなこと」がなければ、世界市場に出て、3年後には「世界ブランド」に育つでしょう。

 

このかたは「守るべきことと、変化すべきこと」をわかり、「利益を追求せず、公益を追求しており」「仏教も学んで」います。

おもしろいもので、ユングの共時性(シンクロニシティ)のように、こういう気持ちで進めていると支援者や「真実心」をもった方々が集まってきて、いまやこの上のない素晴らしい人材(人々)がそろって、良きチームができて、進歩のスピードがあがっています。

しかしみんなが「雑毒」ではなく、「公益」という気持ちでやっているので、冷静でそれぞれの能力を活かして「楽しく」仕事をしています。

 

まさに「正定聚(なかま)」であり、「薗林遊戯」しています。

 

まったく「現実に仏教が生きている姿」です。

仏教は別世界のものではありません。

今、あなたの現実にも「生きてくる真実心」であり、そこで「自己主張やエゴイズム」があると崩れるのです。

 

お金は血液のようなものですから、100万円が1,000万円1億と流れていくパイプができます。

そこから必要なだけ蛇口をひねるだけで、【22】の「少欲知足」でいいのです。

 

群れていても「足を引っ張り合うだけ」で「なんの進歩もなく」

こういう世界はできないでしょう。

自分だけ儲ければいいというひとも、次世代で潰れる可能性は大きいものです。

 

このように「真実心」ということが、一如のなかで無碍に広がっていきます。

宗派という狭いセクトにこだわって、居場所を見つけようと「自我」にとらわれていても、こういう世界は生まれません。

私という生命体は、このページあたりを読んでいて、今私という生命体の周囲で起こっている事実に「真実」を見ています。

 

仏教や「真宗」が現実論であることが「実証」されるということをみなさんにお伝えしています。

 

こういう話を、自慢話だと受け取られる方は

「私という生命体をこけおろしていただくようにお願いを申し上げます」

「人倫の嘲りを恥じません」

(人倫=世俗の価値で作られた道徳、世俗の常識・世俗の評価)

 

とりあえず【24】まではみなさんもご理解いただける部分だと思いますから、この「無碍光如来」と生きる中で実感していることを「現実論」として記述しておきます。

 

なお、振り返ってみると「総序」のはじめに「難思の弘誓」「無碍の光明」「恵日」という文言がならび、

ここから浄邦の縁が熟して「観経のストーリー」が記述されていて、これは「権化の仁」とあり、円融至徳の嘉号は「正智」難信金剛の信楽は「真理」と教行証文類にあらわそうとしている、

《光明権化智慧真理》の流れが説明されています。

 

ここにあるように、「阿闍世や韋提」を仏の化身という観点が「そもそもすべての存在や状況」に「さとり」を見ていけるようになることを明らかにしています。

 

 

 

30/12/143–9

 

およそ今日(こんにち)まで、いろいろな先生が「教行信証」の解説として書物や論文を出されてきましたが、

行文類で終わってしまうケースも多く、内容的に「信文類」で読み手もだんだん混乱してくるようです。

 

また信文類は、意外と同じことを繰り返していて、あえて無礼なことを記述しなければならないほど、「慎重なのか、緻密なのか、意図的なのか」とにかく「くどいぐらい」しつこく「真実心」を記述していますから、

 

昨日のように「荘厳功徳について、本文を読んでいただけばわかるでしょうから飛ばします」と、講義を記述していても、「いい加減ここは同じことの繰り返し」だからと書き手も「つい飛ばして」しまいます。

 

だからといって、細かくしすぎると、統一感が失われて「以前の内容を忘れてしまうから、理解のスピードが追いつけない」とのご意見になります。

 

また、私という生命体(以後Aとします)は、親鸞自身ではありませんし、「教行証文類講義」といっても、あくまでもいろいろな観点から検証して導き出した「推定」でしかありません。

 

そしてAがこの講義に取り組むにあたって、「真実」の側面に立って講義を書いていますから、

「私」と記述することに違和感があるため、以後は「A」とします。

 

とにかく、この教行証文類は「深いけれど明確」なのですが

ここで一旦整理した方がよいと判断しました。

 

当初から、現代人の理解を促進する目的で、ご依頼があって「通信教育」のようなパターンで書いていますが、こうして書くにあたり、読み手の基本を「現代一般社会人」においています。

 

ですから現代人には、「真実」の側面から記述する方が理解をいただきやすいと判断して、あえて「親鸞」を「聖人」という立ち位置で記述をせず、「等覚」の親鸞として、

「愚禿」と自称し「自己の仮名」を否定しているという観点から、その親鸞の立ち位置を崩さないように記述しているため、僧侶の皆さんには「無礼な」感は否めないと思いますが、

 

あえて「宗教チック」にせず「さとりへの論」の解説という内容で記述をしていることをご理解ください。

 

僧侶の皆さんにも、「こういう観点」が「対現代人には必要」と考えて、いろいろな無礼と思える「文言」を記述してきました。

 

事実、どこかで記述しましたが、「仏教はわかるけど、浄土教はわからない」という現代人が多く、

 

「彼の」書籍をいくつか出して一般社会でメジャーになった、山口の離脱寺院のように、寺院そのものが浄土教を離れて「禅」の実践に移行したという事実もあり、

同様に真宗僧侶の中から「大乗仏教は仏教ではない」という書籍までメジャーな出版社から出していたりという事実があります。

 

一般社会でそこそこ「コンビニに置いてある本」ぐらいになれば、社会に影響力を持ちますが、

 

いくら宗派の中で有名だという先生がいろいろと論じても、一般社会では「無名」ですから「ご門徒」に対して説得力を持ちません。

 

こういう状況のなかで「役員や当番があたっているからお参りしている」という人が大半であるケースがほとんどです。

 ですから「役員をやめたらお参りに来ない」というパターンが多く見られる現象です。

 そして逆に「求めている人に納得いただける布教ができない」というパターンもあります。

 

Aが教行証文類をメインに記述している中で、さりげなく別のことのようにHPの中で「シオンの議定書」や「イルミナティ」「フリーメイソン」などに触れていますが、

こういった人間界のウラ事情も知らないという点を含めて、都会あたりでは「僧侶は世間知らずだから不要」という人々も多いのです。

 

事実、報恩講などに「お医者さん」や「著名人」「大学教授」「経営者」などを呼んで、「布教使は呼ばない」という寺院が増えて、東日本あたりでは、「北陸」を除き、そういう寺院が増えています。「北陸」は「親鸞会」さんのベースになっています。

 

このような時代に、真宗寺院が、《時代に取り残されていく》という現象が内外から起こっています。

 

また、寺院子弟が後を継がない、Aの寺院のように「子どもがいない上、お寺だけでは基本的文化的生活ができない」といった事情など、

数々の事情による「寺院の後継者問題」も増えている中、「寺院」がどんどんと淘汰されていくという現実があります。

 

「空、無我」の真理と世の中で起こっている「事実」をより深く知ることで、都会の人などには「僧侶も意外とわかっているんだ」と思ってもらうことで状況は変化します。

このポイントは、Aが東京で体験している事実ですから、「都市伝説ではない人間界の事実」も忍ばせて記述しています。

 

一応そういった「ウラ事情」の情報のとおりに世俗は進んでいますから、先日のソフトバンクの電波障害の真相なども、米国が日本にある中国の「ファーウエイ」という企業の製品について排除勧告しているのにダラダラ先延ばしになっている状況に業を煮やしたことに輪をかけて、米国が対中国対策を早めている状況で仕掛けたことである。(5Gの脅威の主導権争いでもある)

なんかこのことが報道されているようですが、いよいよ告知が始まっているのかも知れませんね!

といった事実があることを、ほとんどの日本人は知りません。

 

事実、ユダヤは賢い!

昨日のお金のパイプ論はユダヤの論理です。

 

けれど、親鸞はそれを上回る。

俗的にいえば、親鸞が教えてくれている「仏の智慧」ほど強いものはないといえます。

なぜそうなのか、暗示して昨日は記述しましたが、今後は明確に記述します。

 

一昨日の内容には「陰謀か」といった表現をしましたが、このことを表現しました。

 

僧侶がこういった「なにが現実か!」というポイントを「仏智」としてわかることで、世俗に振り回されることがなくなります。

僧侶までもが世俗のそういった群れにまみれて、お金に振り回されて「烏合の衆」のようになると、堕落し「なんのための僧侶か?」と問われてしまったり「お寺不要論」が生まれ加速します。

 

実際に、Aも「親鸞が仏教を堕落させた」というひとに何度も出くわしました。

 

死後の救いに意味はない時代、いま「正定聚」になるとどうなるのか、というポイントが明確に救いにならなければ、社会的に無意味になり「利他真実」が現実に「不可能」になります。

 

万が一近い将来「米中戦争」が起こったとして、日本も「集団的自衛権」で参加しなければならないという状況が起こるかも知れません。

そして実はその可能性が高い。だから「東京オリンピック不成立」と識者もウラでは言っている。

こういう観点を僧侶が持つだけで「門徒さん」がお寺に向ける「眼」も変わるでしょう。

 

こういう資本主義の「渦」に巻き込まれて「パニクる」ご門徒さんや有縁のかたを「まずは落ち着いていただく《さとり》のスタンス」が親鸞のような真実を生きることで「現実的な救いになる」ことを僧侶は実証せねばならないと思うのです。

 

往生は死後だとかなんだとかいっている状況ではないようです。

 

Aは、単に教行証文類を解説するだけではなく、「これは親鸞という生命体を通して実証された真理である」という「真実を生きる現実論」という観点で記述しています。

 

こういうポイントがわかるように、もっと明確に総論は「さとること」でそれが現生でなければ意味がない。

「さとる目的は苦悩のサイクルや不要なストレスからの脱出」ですから、「わからないこと」ではない。

「さとりそのもの」は「無常、無我、空」を基本とした展開ですから、「唯識、真如縁起、法界縁起」といえど、「色も形もない自然のよう」であり、すべてにわたる「真実事実」ですし、これも「わからないこと」ではありません。

 

この「自然のようを知らせん料(手段)」として浄土教があると、親鸞は「真実の側面」から、このスタンスをしっかりと生きて「心を弘誓の仏地に樹てる」という「不動の安定感」が必要だと記述しているといえます。

 

そこで、信文類のこの辺りで強調される「利他真実」が空論ではないと理解することがさらに【重要】になるわけです。

 

今後、サクッと飛ばしたり、「インパクト狙いの表現」をやめ、「明確」を基本において記述していきます。

 

この点をご理解いただきながら、お読みくださいますようにお願い申し上げます。

 

 

 

30/12/153–10

 

ここまで教行証文類を記述してきて、

何人かの方から「信文類は難しい」とのお声をいただき、

Aも改めて「教行証文類」全体をイメージしていると、だんだんと浮き彫りになってきた

「謎(ナゾ)」が見えてきました。

 

Aは、この論書の「真実論」のみに目を向け、ほぼ「善巧方便(ぜんぎょうほうべん)」は

現代人には論じる必要はない、あくまでも「方便」として流してきましたが、どうもこれが目の前にチラついて「読み手」が「混乱」するようです。

 

善巧方便というのは、「本来、色も形もないさとり」に向かわすための「教え(言説)」という意味です。

 

しかし、この両方に目をやると「わかってきたこと」があります。

 

そもそも「教行証」というのは、仏教全般にわたる「悟りに至るプロセス」をあらわす記述方式です。

 

それは、釈尊が亡くなって500年は

「教行証」(教えと修行と悟り)のすべてが成り立つ「正法の時代」

 

次の500年は

「教行」は成り立つけれど「悟り()」が得られない「像法の時代(像は似せたものという意味)

 

そのあと500年は

「教」のみでまともに「行も証」も成り立たない「末法の時代」

 

と言われていて、平安時代は「末法の時代」だといわれていました。

「末法」の後は「法滅」です。

 

500年については諸説あるようですが、平安時代はそう信じられていたようです。

真言密教はそんな事お構いなしだったようですが。。。

 

この流れで親鸞は《浄土教》こそ「末法の時代」に成仏可能な「教行証」だと論じたのですが、

この《プロセス》の中に「信」が入ります。

 

だから「信」のみは、「これが信の本質です」という「体(読み)=たい、(内容)body」がなく《プロセス》(動き)の中のポイントだと定義したのです。

 

「信」以外には、「これが教です」といった、それぞれの「体(たい)」が各冒頭に記述されていますが、

ここであえて「体」を《body》と記述したのは、「教の体=大無量寿経」も「行の体=称無碍光如来名」も「証の体=利他円満の妙位、無上涅槃の極果」も

 

人間の”body”のように、

本来は「無常」の中にあるたまたまの「縁起」による《仮の存在》いわゆる「空(くう)」であって、

別の表現では「真如(しんにょ)」と頻発する表現であらわされる「実体のないさとり」をことばで理解できるようにした《言語化》であり、

つまりは「人間の体と同じ《仮(かり)》のありよう」だからです。

 

これは、物理的現象を説明するために、物理を数学で表現することと同じです。

物理の数学は「本当にわかるのか」と思うような数学ですが、わかる人はわかるのでしょう。

 

「さとり」も「真如」とか「空」とかいいますが、これらは「わかる人にはわかる」けれど、一般の人にはわからないから、「阿弥陀ストーリー」という「物語」で表現されているということです。

 

このストーリーには、「アジャセ」という「王子」が「父親」を殺したり、「母親」を投獄したりという内容が出てきます。

これをもし親鸞が歴史的事実ととらえたなら、「教行証文類の総序」に「浄土教が《意味を持つ時機》が円熟したから、アジャセは親を殺しました。」

「でもこれは、如来が私たちをさとりに導く方便なのです」というような表記はできないでしょう。

 

親鸞がこれを歴史的事実ととらえたなら、「事実かどうかの検証をして」結果どうなのか、というところから論じているはずです。

 

「ストーリー」だととらえているから、「アジャセは親を殺しましたが、これは方便です」と気軽に言えるのだと考えなければ、

現代では親鸞は「サイコパス(異常人格者)」かと「その人格」から「問題」にしなければなりません。

無礼な表現ですが、Aは大真面目です。

 

 

ですから、このことを前提として「阿弥陀仏や浄土」すら「真如の言語化」ですから「さとりそのもの」ではないので、《善巧方便》と言われるのです。

 

このことを踏まえてもう一度全体像を眺めていて「明確になった」ひとつの重要なポイントがありました。

 

それは、何気なく流し見ていた「標挙」です。

教文類、《大無量寿経》「真実の教」

                                      「浄土真宗」

 

行文類、《諸仏称名の願》「浄土真実の行」

                                         「選択本願の行」

 

信文類、《至心信楽の願》「正定聚の機」

 

証文類、「必至滅度の願」

              「難思義往生」

 

真仏土文類、「光明無量の願」

                     「寿命無量の願」

 

化身土文類、「至心発願の願」。。。

                     「至心回向の願」。。。

 

という並びです。

(並びを揃えて記述していますが、ご覧になるスマホなどでは表記がズレるようです)

 

信文類は、「体」のないプロセスですから、「願名」とその対象者である「機」が記述されているだけなのです。

このことは置いておきます。

 

ほかの部分を見ると、すべて二つ並べてありますが、よく見ると前が「真実」をあらわす文言で後ろは「善巧方便」をあらわす文言になっています。

 

証文類はイレギュラーな表記で「願名」が真実をあらわしていて、

これは「さとり」には実体がない「ことば上の体」だからと判断できます。

その後に「難思義往生」と《無生の生》と親鸞も述べている「本来は生まれるということではないけれど生まれると表記する」という《方便》になっています。

 

真仏土文類も「光明」は真実で、

「寿命」というのは、本来「空」からいえば「時間という実体のない部分」つまり方便です。

 

化身土文類は「発願回向」と「善巧方便の中のさらなる方便」について、「十九願、二十願」の順序にあわせてあります。

 

とにかく「教行証」と「真仏土」については、前者が真実、後者が善巧方便になっていて、信文類は「真実」よりも「善巧方便」の者が対象であるといわんばかりに、「願名と対象者」のみの記述です。

 

この信文類について、229ページに戻りますが、【19】になぜ三心という「誓い」があるのに「一心」というのか?

という問答があり、

231ページの【21】に「三心」を一心であらわしたことは、そうかもしれないけれど、そもそも《阿弥陀如来》は衆生(生けるもの)のために三心の「願い」を発したのだろうに、なんでわざわざ天親は「一心」といいなおしたのか?

という二重の問答があります。

それこそ読み手としては、「なんで親鸞は二度も同じような問答を記述しているのか?」と問いたくなります。

ここをよく眺めてみると、

前者の問答は「真実」を説明し、後者の問答は「善巧方便」を説明していると判断できます。

前者が「誓い」、後者は「願い」で「誓願」になっているところは「親鸞らしいさすがな記述」です。

 

教行証文類は、このような二重構造になっているということが、

まず標挙から見えてきました。

親鸞は「マルチタスク」しているのです。

つまり同時に二つの内容を論じているのです。

 

今日はまずこの「謎」を解明しておきます。

 

 

 

30/12/163–11

 

もう一度「マルチタスク(同時に複数を論じている)」と「客観的立場」「学派のとらえ方も抜いて」《素》を前提に、これまでを分析し直します。

 

数学者が「PNP」という誰も解けない(Aもよく知らない)難問にチャレンジするような姿勢で分析し直します。

 

まず、教文類ですが、ここは「如来の出世本懐の経典は大経」だということを読み込めばいい。

と錯覚をしていましたが、これは「普通に教えられる既成概念」でした。

 

たしかにそれも大事ですが、もっとも重要なことは、

ここが行文類以下全ての「教えの根幹」をあらわしていること。

 

そして、

「既成概念から専門家として読むひとや純粋にこんな時代に救いはないのか」と思っている「読み手」にとっての謎がここからスタートするということです。

 

そして進む謎が「なぜ浄土教なのか」「なぜ大経なのか」というところから、「大経の内容は悟りへの道」だという謎から解明していきます。

 

 

135ページの【1】の冒頭の「往相還相」は、

まず、この時代と対象者にとって「いくすがた、かえるすがた(相はすがたを意味します)」の「回向(回転趣向=えてんしゅこうといい方向転換して進むこと)」があるといっています。

 

ここで専門家や論理家は「?」となります。

 

そこに「末法」でいわれる「教えは残る」が、「行証」は得られないという時代でも「行信証」と進んで行って悟ることができる「教え」があると親鸞は断言します。

 

ここで客観的にみれば、「回向」は《自分で行じて行うもの》ということが、「一般的」ですから、

ここを読むと、

「往くすがた」と「還えるすがた」については、

「まぁ自利と利他を行じるということだろう」と読み、

 

ここで「読み手」は、

その回向のテクニックについて、どういう風に行じたら可能になるのかという「教行信証」があるって親鸞は言ってるんなんだろうなとボンヤリ読み込みます。

 

ここで「読み手」は、

だけど「信」なんて、仏教のさとりのプロセスにはないものが入ってるじゃないか?

なんだこれは?

という風に読むでしょう。

 

「まぁとりあえず読み進んでみようか」といったところで、

「真実の教は大無量寿経?」「なんでこれが真実なんだ」と思いつつ読み進み、

「この経の概要は、阿弥陀如来が誓いをおこして、広く全ての経典を開いて、全てのものを哀れんで、全ての経典からふさわしい法を選んで、功徳の宝として施す?」

 

―――(ここで《以下》が論理で読む人の反応でしょう)

 

「どういうことなんだ」

「阿弥陀如来(弥陀)?」が「誓いをおこした?」

「全てのものを哀れむ?」「一切の経典から選ぶ?」「功徳の宝を施す?」わけがわからない。

 

仏教界で「阿弥陀如来はメジャーだけど、今まで誓いがどうのと聞いたことがない」「しかも哀れんで」って上から目線というか、「哀れむ」って神様じゃないんだし、何をセンチメンタルなことをいってるんだ!

 

―――(以上、論理思考の人のおよその反応)

 

これが、《文字も読めない情的な思考でここまでを聞けば(文字が読めない前提でいくと聞くになります)》その反応は、

「阿弥陀如来という仏が私たちを哀れんでくださり、大無量寿経という、末法の私たちのようなものも悟れる功徳の宝があるのか!」「スゴイことだ!」

という正反対の反応になりそうです。

 

ここで親鸞は、両方向の思いを踏まえつつ、釈迦が世の中に生まれて、進むべき道を《光が暗闇を開くようにあらわした教え》は、「生きるために群れるしかないものを掬い、真実の利を恵む」教えであると定義します。

 

ここで論理的思考者は「掬う」という文言には引っかかりがあるけれど、「光が闇をひらく(光闡)」「群萌に真実の利を恵む」の部分には「そういうことか」と

「まぁまぁとりあえず理由はわかる気がする」という理解をして、

読み進むことになるでしょう。

 

ここをもって「如来の本願がその経典の宗で、仏の名号がその経典の本質()といわれても、《本願?》《名前?》またまたわからない」となります。

 

ここで情的な思考の人は「難しいことはまぁまぁいいじゃないか」となるでしょう。

そこで親鸞は間髪入れず「そもそも釈尊が生まれた意義は《群萌をすくい、真実の利》を与えることでしょ」「違いますか」「とりあえず読み進め!(知ることを得るとならば、)」と論理家を牽制しているようです。

 

ここの「本願を宗として、名号を体とする」は、

結果、「この教えに生きるものは、その人生を本願を中心にして、名字を「自我名」から「如来の名字」に入れ換えて「空、無我」を行じるものになる。」

ということになりますが、

 

この時点では論理家も情的なひとも、両者ともに「?」の状態に置かれたままになるでしょう。

 

究極に絞った「すでに念仏行者」でなければわからない内容です。

 

以下、大経と異訳の大経を引用して、

大経には、「今日の釈尊は。。。」

「奇特(特別)の法」を「仏の位置に住して」「導師の行として」「最も勝れたところで」「如来の功徳を行じている」という《五徳の奇瑞》の中で説かれたと記述されていますよ。

 

これは、「《群萌をすくうことを目的》とした《真実の利》」なのです。

と「大乗仏教の基本である、自利利他の真実が説かれている経典なんです」と専門家、論理家(以下ほぼ論理家という)を「説得」しています。

 

情的思考の人には「釈尊がこんなにすごい状態になって説かれているから間違いないんです」というメッセージになります。

 

続いてさらに論理家を説得するための材料として、

138ページの【6】憬興師の文言で「神通輪、普等三昧、五眼、四智、第一義天仏性不空」と仏教を知るものならわかる文言を連ねて、「すなわちこれは奇特(特別)な法であり、《慧見無碍、無能遏絶》、智慧無限で絶えることないということが如来の功徳なのは当然でしょ」

と言い放って「以上(已上)」と「一刀両断」に結びます。

 

そして、「これがあなた方が疑問に思うことの回答である」といった雰囲気で、「これが真実の教を顕わす明らかな証明です」といい、

「如来が世に出た正説は、この奇特な妙典に説かれる、唯一究極の説で、これは速攻円融する金のような言葉を説くことを目的として、これは十方から称讃される真実の言葉で、時代と対象者が末法になった時にこそ熟す真実の教えなのです。」「ご理解いただけましたか」

という論拠と、仏教を知る人ならわかる文言で論理家、専門家を説得しています。

 

しかし、これは情的な人には「如来はこんなにすごい教えを説かれています」というメッセージになり、「スゴさを修飾する流れ」になります。

 

では、この「末法にふさわしい仏への道を説きましょう」と

いった流れで「時機純熟」という文言で「既成概念で読もうとしている専門家や論理家」を「末法と対象者にとって熟した法」「これまでにない法」という文言で誘導しています。

 

このように、教文類は「出世本懐」もそうですが、

「出世本懐」と「時機純熟」というポイントで「専門家や論理家を誘引」しているという「善しく巧みな方便」を使っています。

 

このように親鸞はマルチタスクしていて、「論理と情」を並行して誘導していると読んでいくと、「真実と方便が内在」する内容がさらに明確になってきました。

 

 

次は「行文類」を同様に見直していきます。

 

 

 

30/12/163–12

 

続いて行文類を見てみます。

標挙は「諸仏が称名」する?「浄土教の真実の行」ふんふん。

浄土教の真実の行ってどんなことかなぁ?

「選択本願(せんちゃくほんがん)の行」よくわからないなぁ。

と論理的専門家(以下論理家)なら読むでしょう。

 

こういう部分を《情的な文字も読めない人》が、真宗僧侶から聞くとなると、

僧侶は教行証文類を読まないか、先生から「教えられた既成概念」を前提に説くため、

 

「諸仏全てがその名前を褒め称えて、諸仏全てがその名前を称える真実の行があります」

「これは、仏教のなかに数々の行がありますが、その中から中国の高僧である善導という人が選び、日本でも有名な高僧である法然という人が選んだ「お念仏の行」です。

この念仏の一行だけで誰でも極楽浄土に生まれられます。

そもそもこの「念仏の一行は《阿弥陀如来が選びとられたと言われる》唯一の簡単な行《専修念仏(せんじゅねんぶつ)》の行なのです」

 

という風に聞かされるでしょう。

 

情的な人は「これだけで極楽浄土に生まれられるなんて、この世は苦しいことばかりだから、ありがたいなぁ」と思うでしょう。

 

「中国のえらいお坊さんや、聞いたことがあるあの《法然》という偉いお坊さんが唯一の簡単な念仏という行なんだ」といってるんだから、よほどの行なんだろうなぁ。。

 

「しかも阿弥陀仏が選んでくれた行なんて、夢のようだ」

 「ありがたいことだ」「でも簡単な念仏行ってどんなことをするんだろう」

というような受け取り方をするでしょう。

 

そして本文に入ります。

 

ここで論理家はエライ混乱に陥っていきます。

 

「往相(おうそう)の回向(えこう)に大行(だいぎょう)と大信(だいしん)?」

これは「さとりにいく回向を行じる大行がある」ということ?

「大行なんて大げさな。。。」「でもなんで大信なんだろう?」

と理解不能になって、

 

論理家は次の部分でさらに引っかかります。

「大行は無碍光如来の名前を称える?」

「教文類に書いている阿弥陀如来(弥陀)はどこへいったんだ」

「無碍光如来ってまたまた誰なんだ」「聞いたことのない名前だ!」となるでしょう。

 

そして、「この行はもろもろの善の法ともろもろの功徳の本(意味=もと)

をそなえていて、極めて速く円満する?」ってありえないでしょ。

と思いつつ、

「うーん、真如一実の功徳の宝海?」

仏教でいう《真如》(しんにょ)はわかるけど《一つの真実》の《功徳の宝海》?

「真如についての唯一の功徳」ということか?

親鸞はそれを「大行」といってるんだろうね!

 

ただこのぐらいでは全く納得できない。

となるでしょう。

 

情的な人には、

「極楽浄土にいくための大いなる行があって、大いなる信心によって、極楽浄土に行けるんです。」

「この大いなる行というのは無碍光如来の名前を《南无阿弥陀仏》と称えることで、この名前にはさとりの功徳がつまっているので、簡単にさとりの世界つまり極楽浄土にいけるいける唯一の方法なのです」

という風に聞かされて、

 

「名前を称えるだけで極楽浄土にいけるなんて、そんな簡単に極楽浄土にいけるのなら、むちゃくちゃいーじゃないか(OvO)、ありがたいなぁ」という反応になるでしょう。

 

しかし情的な人も「ホントにそんな簡単でいいの?」と少し不審に思う人も出てくるでしょう。

 

そこで親鸞は、論理家や不審を抱く人に向けて、

この行は「大悲の願から出ている」と論拠を記述します。

 

論理家は「願って、教文類に大無量寿経を根本にするというんだから、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の四十八願のことか?」

 

「でもここで、なんだか主語になる人が、教文類の《弥陀》、行文類で《無碍光如来》と二つ出てきた上に、大無量寿経には《法蔵菩薩》が願いをおこしたとしか書かれていないし、主語が三つあって、しかもいまは《大悲の願》と四十八願を思い起こさせる《願名》が出てきたけれど、この《願名》も、《諸仏称揚》とか色々出てくるけれどなんか一貫性もなく、よくわからないなぁ。」

 

「そして、落とし込みが《往相回向の願》《選択称名の願》となって、つじつまを合わせた感じだけれど、どういうことなんだろう?」と思わせます。

 

情的な人には、「不審に思わないでくださいね、この大行には根拠があるんです。」

「それが《諸仏も称えている南无阿弥陀仏》でこれは《阿弥陀如来さまの大慈悲の願いからおこされていると大経に説かれています》つまりは、阿弥陀如来さまからの哀れみによるもので間違いのない方法なのですよ」といわれ、

「だから《南无阿弥陀仏》と称えるだけでいい、誰でもできる簡単な方法で阿弥陀如来さまが功徳を詰め込んでくださった《大いなる方法》なのです。」と聞かされるでしょう。

 

文字も読めない情的な人が、このように聞けば「とにかくありがたいなぁ」という風になるでしょう。

 

しかし論理家は混乱したままになります。

 

そこで親鸞は、「この話の根拠はこのことです。」

と言わんばかりに《大無量寿経の第十七願》を引用します。

 

しかしこの引用を読んでも、名前の主語が「大無量寿経」では「願主は法蔵菩薩だし、仏の名は無量寿仏」になっているから、「どうも今ひとつわからないなぁ」と思いつつ読み進みます。

特に142ページの【4】【5】は無量寿仏が主語だし、【6】では、「その仏の本願力」と書かれているから、やはり主語は「無量寿仏」なのか、

 

「まぁこの引用している経典には《無量寿仏の功徳》ということは言われているねぇ」「これが行文類の冒頭の《この行はもろもろの功徳がある、真如一実の功徳宝海》のことかな??」

そして、【4】にある「無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したもう」とか

 

5】にある「諸仏如来が、かれを称嘆せざるはなし」という「かれ」は「無量寿仏」でいいんだろうなぁ。

「み名を称するなり」の「み名」は「無量寿仏」を意味しているように思うけど、

行文類の冒頭の主語というか目的語というか「無碍光如来」って書いてあるし??

 

この辺の引用には、「かの国に至って不退転になるとか【7】には、安楽ならしめん」とかあるけれど、やはり主語は「無量寿仏」だねぇ。

 

9】の経典については、「大阿弥陀経」という、とはあって、この中には「我が名字をもって皆んな」と記述されているけれど、主語は誰なのかここには書いてないから

「我が名字」は「これまでの無量寿仏でいいのかな?」

 

けど、この部分に「諸天人民蜎飛蠕動の類(しょてんにんみんけんぴねんどうのたぐい)」が「わが名字を聞きて」ってあるけど、「蜎飛蠕動って昆虫のことでしょ?」「昆虫が聞くっていうことがあり得るのか?」

 

10】は長い引用だけど、「ここには《無量清浄仏の二十四願を聞いて皆んなが大いに歓喜踊躍(かんぎゆやく)して》って書いてあるけど、これは無量寿仏のことだと解釈してもいいだろうなぁ」

そしてここには「親を殺害した阿闍世(アジャセ)の名前も出てくる」けど、

「阿闍世や五百の長者の子どもが無量寿仏のような仏になろうと思って、菩薩の道を修行して、長い長い時間が過ぎて、後に迦葉仏(かしょうぶつ)になって《わがため》に弟子になった。

これらの人などが《仏の言葉》を聞いて、踊躍歓喜しないものはない。」

 

って書いてあるけれど、「わがためって《自分のため?》《誰のため?》」

「仏の言葉って《どの仏》?」

その後には「仏の名を聞いて快く安穏(あんのん)にして大利(だいり)を得ん」ってあるけど、これは「無量寿仏の名」でいいんだろうなぁ。。。

 

この後にも「わが国、わが願ずるところ」とかあるけど、これも主語は「無量寿仏」なんだろうねぇ。。。

 

でもまたなんで、145ページの6行目には「この経の名」って、

いきなり「経名」になってるし、じゃあ「無量清浄平等覚経」って聞くことなの?

 

この7行目には「この正法を聞く」って書いてあるし、この後ろから4行目には「わが善き親厚なり」ってある、これも「だれの親厚」ということ?

 

146ページには、やっぱり「わが名を聞くもの」とあって、これも誰の名のことなんだ?

 

まぁとにかくここまでには、主語が不明確な「名前を聞くこと」で、「功徳が身について、踊躍歓喜する」といってることは、典拠としては「なるほどねぇ」と思うけど、

誰の名前なのか?

なぜ名前を聞くと功徳が身につくのか?

よくわからないなぁ。。。

と論理家なら疑問をもつでしょう。

 

そこにまた親鸞は、「称名で無明を破り、生けるものの《志し》つまり願いをを満たす」

そして「称名は正業(しょうごう)」で「正業は念仏」だと記述して、

これを「南无阿弥陀仏」として「正念」だと言っています。

 

疑問をもっていた論理家は、

ここで「えっ今まで誰のことと思ってたのが、南无阿弥陀仏?」

「でも、そもそも《無碍光如来の名を称する》って書いてあったけど、途中から《無量寿仏》を思わせる記述をしていて、ここで《南无阿弥陀仏》って、どういうことなんだ

 

いよいよ理解不能になってきた。

となっていきます。

 

さて、親鸞はこの疑問を解明するのか?

 

続いて読んでいきましょう

 

 

 

30/12/193–13

 

ここまでで論理家が

 

 「無碍光如来の名」について誰の名前なのか?

《主語が不明確だ》と混乱し、その《主語が記述されない》まま、

「称名正業(しょうごう)→念仏南無阿弥陀仏正念(しょうねん)

と記述されている流れが不明瞭なまま進みます。

 

結局「八正道(はっしょうどう)」という根本仏教の教えにある「行」のひとつである

「正念」を「正念仏だといいたいのかなぁ」という雰囲気を感じながら進みます。

 

結果いまだ疑問をもっていた論理家にとって、

 

ここで「えっ今まで誰のことと思ってたのが、南无阿弥陀仏?」

「でも、そもそも《無碍光如来の名を称する》って書いてあったけど、途中から《無量寿仏》を思わせる記述をしていて、ここで《南无阿弥陀仏》って、どういうことなんだ

 

いよいよ理解不能になってきた。

となっていきます。

 

みなさんも先入観を捨ててください。

ここまでに教行証文類に「阿弥陀仏」という文言は、引用を含めて出てこないのです。

「弥陀」が一度出ているだけです。

 

こじつけるなら、【9】に「大阿弥陀経」という経題に、「阿弥陀」はありますが、

「阿弥陀仏でも南無阿弥陀仏」でもありません。

 

いきなりここで、「南無阿弥陀仏」とポップアップしています。

 

もし親鸞がこれを「自明」とするなら、教行証文類の読み手がかなり限定され、

広く「浄土真実」を「顕らか」にする「文類」とはいいにくくなります。

「真実を論じるには穴がある」となります。

  

そして

 なぜ名前を《聞く》と「功徳が身につく」のか?

「称する」ではなく《聞く》に変換されているのか?

よくわからないなぁ。。。

となった部分はいまだ不確定なままです。

 

このままの状況で親鸞は、

 

インドの「大乗仏教の祖といわれる龍樹(りゅうじゅ)」の「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」から、

「初地(しょじ)に入る=悟りが確定する」という部分を引いて、

 

「般舟三昧」という《仏を見る&大悲》を「諸仏の家」にたとえて、

「ここから如来が生まれる」と記述して、

「般舟三昧を父、大悲を母」とたとえます。

 

この大悲は「抽象的な意味で、阿弥陀如来の大悲」ではありません。

あくまでも、この段階においては、悟りの「功徳」としての「大悲」です。

 

(ここで、諸仏の「家」という部分が、後に出てくる《五果門》を暗示しているとAは感じますが、個人的推察です。)

 

このように、「父母」にたとえた「母」がまたまたいきなり、

「無生法忍(むしょうぼうにん)」という「さとり」を意味した文言に変わり、またまた「母」を「大悲無生」という《あとで出てくる》「無生(むしょう)」という、

「生まれるという性質のものではない《さとりの本質》」に言い換えています。

 

ここの「父母のたとえ」はさとりの「智慧慈悲」にたとえていると思われます。

そこから「方便が生まれる」という理解になるでしょう。

 

【ポイント】

《ですから、ここではまだ不確定な「阿弥陀如来」または「無碍光如来」が父母()ではなく、「阿弥陀如来」or 「無碍光如来」の父母が「悟り」という定義になります。》

布教で「阿弥陀如来を親」にたとえるのは《ミス》だといえます。

 

ここで親鸞は、これまでに「主語不明」な「我が国に生まれる」という、「我が国の主語は?」

「大経の第十七願を示す」【7】から【10】の引用(実は二十四願経の引用なので、実際には第十八願の〈欲生(よくしょう)〉の部分)を、

 

「無生」とあらわして「悟りの本質」に触れています。

 

しかしこの「我が国」の主語も不明瞭です。

あくまでも、法蔵菩薩か無量寿仏としか確定できません。

 

そしてこの《さとりの本質》を「如来の生まれる根源」だと定義して、

 

この「家」は、「あやまり」がないから「清浄(しょうじょう)」だと記述して、

《大乗仏教の行》と《そこから得られる功徳》である、

「六波羅蜜(ろつはらみつ)、四功徳処」と定義します。

 

論理家は、「これまでの称名だの念仏だの」ということと、

の疑問「名前を聞くと《功徳》が身につく」ということの

根拠は「結局さとりだからということなのか!」と少し疑問がほぐれていきます。

 

この辺の難しいことは「情的なひと」には必要のない「論」になります。

 

しかし、論理家にしてみると、「家」だの「父母」だのという《たとえ》は特別必要ではありませんが、《「十住毘婆沙論」を引用して「初地に入る」こと》を表現していると思われるので、

「書いてあるから仕方がないのかなぁ」という雰囲気でしょう。

 

【重要ポイント】

しかしさらに読むと、「方便、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)は善慧(ぜんえ or ぜんね)なり」と書いてあるので、

 

「《般若波羅蜜》というさとりの智慧って書いてあるし、《善慧》と書いてあるから、この《名を称する》は智慧による方便という意味か!」

と少しほぐれていきます。

 

そして「般舟三昧、大悲、諸忍については、《諸法清浄であやまりがない》《家清浄と名づく》って書いてあるから、この方便の家は《清浄》だといいたいんだなぁ」と読み込んで、

 

また「この菩薩」ってあるけど、この菩薩は「無量寿経の法蔵菩薩」のことでいいのかな?

と推察して、

「この菩薩、この諸法をもって家とするからあやまりがなくて

世間道(俗世間)を転じ変えて、出世間の道に入る」って書いてあって、

「世間道を凡夫(ぼんぶ)の道」と記述して、「出世間に転じて休息(くそく)になる」

「凡夫の道は結局《涅槃(ねはん=悟り)》には到達しなくて、ずっと生死(しょうじ)を往来する」

「出世間は、この道(方便)によって、三界(さんがい=欲無色界)という迷いのプロセスを出るから、出世間という」

 

(三界=三界(さんがい、梵: tri-dhātu)とは、仏教における欲界・色界・無色界の三つの世界のことであり、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界をその三つに分けたもの[1]。三有(さんう)ともいう[1]。仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。)wikiより。

 

「上は妙」(妙=不可思議なほどすぐれている。巧みである)

仏教でいうと、原語はサンスクリットで「法」(dharma) に「正しい・真の・善」(sat) を被せたもので、用語としては原始経典の『法句経(ほっくきょう)』などでもすでに見られる。多くの場合はこれを「正法(しょうぼう)」と訳す。(wiki由来)

 

「入は道を行じる」

「だから、この心を初地に定義して、歓喜地(かんぎじ)という」

 

なるほどねぇ。

つまり、「念仏=正念」と定義した、「名を称する」は、「巧みな方便の道」ということなんだな!

「善巧方便(ぜんぎょうほうべん)」なのか!

とここまでで理解します。

 

しかし、論理家は、

いまだ「称名の主語はま不明瞭のままだなぁ」だって「南無阿弥陀仏」が主語なら、

率直に「【12】のところで、称名はすなわちこれ《南無阿弥陀仏なり》と記述しても良さそうなのに。。。」と疑問に思うのです。

 

「正念=名を称する」ともいえないし。。

 

そこで、そもそも《無碍光如来の名を称する》の「称無碍光如来名」は、

「無碍光如来の名」と読むけれど、「漢文の文字ヅラ」を見ていると、

「称」と「名」の間に「無碍光如来」がはさまれているしねぇ。。

 

「この《無碍光如来の》の《の》がくせ者だなぁ」

 

《無碍光如来=名》じゃなくて、《無碍光如来》という文言を「の」で目的語にした、

《なんか知らないけど》『名前』が他にあるということなんだろうか?

 

例えば、「あなたの名を称する」というときは、「名」が別にある「目的語」と推察できます。

「山田太郎の名を称する」というと「主語」になります。

 

うん、どっちなんだろう。

 

「南無阿弥陀仏」は「正念」だから、これでもなさそうだし、「無碍光如来=名」ということでもなさそうだし、

 

「まぁ名前はおいといて、とにかく南無阿弥陀仏という正念が《方便》ということなんだな!」

と、とりあえず理解するでしょう。

 

ここから「なぜ初地が歓喜なのか」という問いになりますが、意外と長い引用をしています。

 

そして論理家なら、ほぼここまで読んできて、やたらと「名づく」という表現があることに疑問をもつでしょう。

 

この「歓喜地の問答」を読んでいて、

その問答の内容は、ほぼ同じで「悟りに至る道だから歓喜なんだ」といっていることはわかるけど、

 

このやたらと出てくる「名づく=〇〇というor 〇〇とする」という表現から、

 

教行証文類ではこういう「名づく、名づく」と記述される引用で、

「名」というのは、「〇〇というor 〇〇とする」という意味で使われているし、

 

「無碍光如来の名」は「無碍光如来と名づく、これを称する」ということをいっているんだろうか!

と推察することが可能になるよなぁ。。

 

と「演繹的(えんえきてき)推論で読み込む」といえます。

これは、数々の「証拠」に基づいて「推論し、結論を導き出す」ということです。

 

そして、このほぼなんとなくボヤッと「名を称する」が「悟りへの方便」なんだろうなぁ。

 

でもまだ「内容は不確定だ」「正念=南無阿弥陀仏」でいいのか、

しかし「名を称する」と「正念」はイコールなのか、違うことなのか。。

 

「無碍光如来」と称するともいえるし、

 

の「功徳が身につく」は、

要するに、「悟りから出た方便を生きることだから功徳が身につく」とほぼ理解できたけれど、

 

については、

 「まだよくわからない」

と思うまま、

「信力」に進んでいきます。

 

 

 

30/12/203–14

 

147ページの十住毘婆沙論の「初地は歓喜地」についての問答ですが、この歓喜はもちろん「扁桃体」や「動物脳」による快楽でいう歓喜ではなく、

「涅槃に至る」という「知的な歓喜」です。

 

だから「うれしい」という性質のものではありません。

 

 ここでこの問答に出てくるポイント言語について見てみます。

(難しい部分は飛ばして読んでもらってもおよその意味はわかります)

 

ーーー

 

「涅槃」

原語は梵: nirvāa(ニルヴァーナ)、巴: nibbāna。ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。

 

「涅槃」はこれらの原語の音写である[1][2]。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある[1]

 

: nirvāaは、滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅[要出典]などと漢訳される[1]

サンスクリットでは「廻って」という意味の接頭辞 pari- を冠してパリニルヴァーナ(parinirvāa) 、更に「偉大な」という意味の mahā- を付してマハーパリニルヴァーナ(mahāparinirvāa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。

「涅槃」は、解脱、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる[1]

 

涅槃の解釈は大乗仏教と部派仏教で異なり[1]、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。

 

部派仏教

部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている[1]

部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と無余涅槃(無余依涅槃)の2つがある[1]

有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す[1]

無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す[1]

無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である[1]

 

説一切有部などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、経量部などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた[1]

 

大乗仏教

大乗仏教では、常・楽・我・浄の四徳を具えない部派仏教の涅槃を有為涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする[1]

大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える[1]

 

唯識宗では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける[1]。地論宗や摂論宗では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける[1]

q天台宗では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける[1]

 

釈迦牟尼仏の肉体の死としての涅槃

 

涅槃、般涅槃、大般涅槃の語は、この世に人として現れた仏(特に釈迦牟尼仏)の肉体の死を指すこともある[1]。『総合仏教大辞典』は、これは無余依涅槃を意味しているようだとしている[1]

Wikiより

 

ーーー 

 

「四功徳処」も見ておきます。 

四徳処(しとくしょ、巴: Cattāri adhiṭṭhānāni, : Catvāri-adhisthānāni)は仏教で説かれる四つの項目[1]。四処、四住処、四功徳処(『十住毘婆沙論』)とも呼ばれる。四徳処という訳語は『成実論』に見られる。

 

長部『等誦経』、中部『界分別経』や『集異門足論』、『成実論』等で説かれ、龍樹作とされる『十住毘婆沙論』、『大智度論』、『菩提資糧論』[2]等にも四住処への注釈が見られる。

 

慧住処(巴: paññā-adhiṭṭhāna, 慧処) - 漏尽通の成就。[3]

諦住処(巴: sacca-adhiṭṭhāna, 諦処) - 不動解脱の成就。[4]

捨住処(巴: cāga-adhiṭṭhāna, 捨処) - 一切の依拠すべき対象を捨て去ること。[5]

寂止住処(巴: upasama-adhiṭṭhāna, 滅処) - 貪・瞋・痴を残らず断ずること。[6]

大乗論師による言及

 

『菩提資糧論』によれば、一切の悟りへの資糧は四住処に包摂される。[7] さらに自在比丘の注釈によると、各項目に以下のように六波羅蜜が相応する。

 

諦処(: satya-adhisthāna) - 真実(satya)は不虚誑を特徴とする故に、戒であり、戒波羅蜜に相応する。[8]

捨処(: tyāga-adhisthāna) - (tyāga)とは捨施である故に、布施波羅蜜に相応する。[9]

滅処(: upaśamā-adhisthāna) - 寂止(upaśamā)とは心が濁らないことであり、好ましいことや好ましくないことにかき乱されないことであるため、忍辱波羅蜜と禅定波羅蜜に相応する。[10]

慧処(: prajñā-adhisthāna) - 智慧(prajñā)は智慧波羅蜜に相応し、また努力なしには四住処は成就しないので、精進波羅蜜も慧処である。[11]

Wikiより

 

ーーー

 

「二十九有」は、

二十九有

にじゅうくう

 

1.二十九回目の生。初果の聖者しょうじゃ(須陀しゅだおんかを得たもの)は、人間界に七生、天上界に七生、またそれぞれ生の終りから次の生を得るまでの中有ちゅううの状態(死と生の間の中間的存在)の十四生、合せて二十八生を経れば、さらに二十九回目の生をうけず、完全な涅槃ねはんに入ることができるとされる。

2.二十五有のうち浄居じょうご天をさらに無煩・無熱・善現・善見・色究竟天しきくきょうてんの五つに分けて二十九としたもの。迷いの生存のすべて。二十五有(にじゅうごう)

Wikiarcより。

 

ーーー

 

このように、「悟りから退転しない初地の菩薩」について、

その功徳を記述してありますが。。。

 

さてさて、ここでまた「既成概念」のワナがあります。

 

この初地について、主語は147ページのはじめに《この菩薩》とあり、けっきょくこれは《だれ》なのか?

 

とことん主語がわからない!

 

既成概念によれば、「南無阿弥陀仏の称名または名号によって初地の正定聚になる。」

と理解してしまいそうです。

 

しかし、ここまででそういう結論にはなりません。

そして、果たしてその既成概念が以後、それでいいのかという課題も浮かび上がってきます。

 

とりあえずいまは「初地と歓喜地」の部分を読んだところで、

 

ほぼこれは、《八正道の「正念」》を生きようとして、

「南無阿弥陀仏」を《念じるもの》(正念のもの)が、

 

「《法蔵菩薩》にならって《菩薩の行を行じる》」ということなのだろう!

 

しかしこの《菩薩の行》の内容は「正念」だけでいいのか?

 

その行によって、「初地=歓喜地」になるということなんだろうけど、

八正道のあと七つはどうなるのか?

 

ーーー

【八正道】

比丘たちよ、八正道にはこれらが含まれる。

すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、《正念》、正定なり。

ーーー

仏教を知っている人はこれが仏教の行の基本だと知っているのでこういう疑問が出てきます。

 

ここで《正念》というなら、あとの七つは?

というのは自然な疑問です。

 

そして相変わらず「無碍光如来の名を称する」はどこにいったんだろう?

 

いい加減はっきりしましょうよ。

 

と思いながらとりあえず読み進めると、

「【14】に〈信力増上〉はいかん。」と記述があり、

 

「聞見するところありて、かならず受けて疑いなければ増上と名づく」

とあって、「あーなるほど」143ページの【9】【10】の二十四願経が引用されているのはこのことか!

 

この二十四願経には「聞かしめん」とか「わが名字を聞きて」という文言があって、

 

「法蔵菩薩が仏になるにあたって、《わが功徳、国土の善を説かしめん》《諸天、人民、蜎飛蠕動の類、『わが名字を聞きて』慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ずは、つひに作仏せじ》」と願った、

 

ここで、このことが一致するんだ!

と明瞭化していきます。

 

「無碍光如来の名を称する」前に「名字を聞く」があるんだ。

これは無量寿仏の名字なんだろう!

 

そこで、「歓喜踊躍」という「初地」を得る。

 

なるほど。。

じゃあまずは【2】から【8】までの「諸仏が無量寿仏の功徳を称讃する」という内容と符合するから、「無量寿仏の功徳を、諸仏の称讃によって聞く」

 

これが、「なんとなくさらっと読んだ【10】の145ページ後ろから6行目の《聞見せば》につながるのかぁ」

 

そして、無量寿仏の功徳を聞くというのは、「無量寿()を聞く」でいいのかな?

もし、そうだとして。。

 

ここを「唯識」で読めば、「聞くこと」で「種子生種子(しゅうじしょうしゅうじ)になって現行(げんぎょう)が変わる」(三法展転因果同時)っていうことなのかなぁ。。

 

無量寿仏の功徳を聞くことで「見えてくる世界が変わる」という《功徳》があるということなのか。。

 

ここまでで「ほぼ明瞭になってきたけど、《無碍光如来の名を称する》のは《諸仏》で、

それを《聞見=信力》することで、わたしたちは《正念》する。」

 

じゃあやはり「行」は「正念」だけでいいということなのか?

 

しかし「称名正業(しょうごう)→念仏南無阿弥陀仏正念(しょうねん)」という流れは、

 

「諸仏の称讃聞見(信力転増)→信受→(私の称名)→正業(しょうごう)→念仏南無阿弥陀仏正念(しょうねん)」となるのか!

 

このプロセスではまだ「私の称名の位置づけが不明確だけど」およそこういう流れなんだろうなぁ。

 

まぁなんとなく「諸仏の称讃を聞くことが《信力》という【増上縁】になって、菩薩道を歩めば、《信力転増》して、諸仏の功徳を《信受》する」

ここで言いたいことはほぼわかる。

 

【増上縁】

四縁

しえん

 縁とは梵語プラトヤヤ(pratyaya)の訳。

狭義では、結果を引き起こすための直接的原因を因(内因)というのに対して、

これを外から助ける間接的原因を縁(外縁)という。 これを四に分類して四縁という。

 因縁(いんねん)。結果を生じさせる直接原因。狭義における因のこと。

 等無間縁(とうむけんねん)。前の心が次の心を生起させる原因として考えられるもの。

 所縁縁(しょえんねん)。所縁すなわち外境が心の生ずる縁となるもの。

 増上縁(ぞうじょうえん)。以上の三縁以外のすべての原因として考えられるもの。

これには結果を生起せしめるのに積極的な有力増上縁と、結果を生ぜせしめることを妨げない無力増上縁の二種があるとする。

親鸞の「増上縁」はこれと異なると論じる向きもあるが、論理家は仏教の基本を崩さずに読みます。

 

ここでいいたいことは、諸仏の称讃が「信力という【増上縁】」になって功徳を聞かせてくれて、力も与えてくれるということか?

 

私がその《功徳》を《信受》することで《大悲を行じる》ようになって、《あらゆる生けるもの(一切衆生)》のために

 

「仏道を行じるようになる」

そういうことか!

 

増上縁だから正念だけでいいのか!

 

なるほど。。

だから教行()証という「信」が入るのか!

 

じゃあ「無量寿仏の光明を大無量寿経で《無量光、無辺光、無碍光。。。》と十二光であらわした《無碍光如来》という記述が、どこで《南無阿弥陀仏》になるのだろう。」??

 

という疑問は、「ここではまだ、解消されないねぇ」となります。

 

続いてこの教えが「時」「対象()」相応の「易行」と論じられるのですが、

論理家には、まだ判然としない部分が残るのです。

 

いい加減《先回りして》ここを解釈すると、

このあとに「浄土論」「論註」が出てくることで、

ここにもマルチタスクがあるとわかります。

 

「世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」と「南無阿弥陀仏」が共存して、

 

仏教の論がわかる「論理家」へのメッセージは「無碍光如来」(光=智慧)の論理で、

文字も読めない情的な人へは、人格表現として「阿弥陀如来=南無阿弥陀仏」が両立することになります。

 

「無我、空、真如」などがわかる論理家には「称無碍光如来名(光明)」について詳説して、

どちらかというと、論理的に理解を求め、行も易行であっても《単純》なものではない、

五念門、五果門が出てきます。

 

情的なひとへは「阿弥陀仏」の「南無」の喚び声を「勅命」として「ただ仰信」という、

「五正行」のうちの「称名念仏の一行」という、

 

ふた通りのマルチタスクで進んでいくのです。

 

 

 

2019/01/013–15

 

行文類に戻って解釈してきました。

要するにどう「真実と方便」を仕分けするか?

という観点から見直してきたわけです。

 

そもそも教行証文類を読みながら、意味不明な部分は「自習」したらいいのですが、

どこをどういう観点で読むべきなのか?

学習のポイントすら分かりにくいのがこの教行証文類です。

 

また「俗諦」と「方便」で仕分けると、「真実」と「善巧方便」っていうことになり、

「阿弥陀ストーリーは善巧方便ですから《なかなか称名の名字に定義しない》」ということがよくよくわかってきました!

 

そういう前提で「行文類」は、大経の第十七願と異訳の大経を引用して、

「諸仏の讃嘆とそれを聞いて信じる衆生との関係」について論じています。

 

そして、147ページの「十住毘婆沙論」の引用には、

「如来の根源を父母のたとえ」で書いて、如来の根拠も明らかにしながら、

「菩薩道を歩む出世道を生きる」ことで、「初地っていう《歓喜地》に入る」んです。

 

って書いてあるところを引用して、「歓喜地」の重要性を論じています。

そこには、「初地」っていうレベルになるという論点もあって、

「もはや世間には戻らない《不退転》」っていう重要な要素があることを見落とさなければ、

比較的長い引用ですが、

ここは「方便」ではなくて、「真如の言語化っていう《俗諦》」について書いてあるってことを見落とさなければいいんです。

 

確認のため。。

「俗諦」には、ほぼストーリー(物語り)はないんです。

「真如や真楽」についていろいろな方向から「それまでの仏教の言語などを使って、論じたり解釈している部分」ですから、「物語り」ではないんです!

 

そしてここの引用の重要性は、如来の根拠について書かれていることがひとつで、

もうひとつは、出世の道を歩むものは「初地と歓喜地」になる。

っていうことです。

 

次に大事なポイントは、

14(p151)に「信力増上」っていう、「俗諦」の次のテーマです!

 

これは、諸仏の讃嘆を受け入れると「私がどうなるのか」っていうことですから、

これは「真楽にとっておいしい重要な部分」です!

 

ここに「聞見して疑いがなかったら、増上縁っていう縁を得られるよ!」っていうことです。

これは、わかりやすく現代的にいうと「救いのパワーというか、エネルギーというか」そういうチカラがはたらいて来るよ!

っていう意味です。(スピリチュアルな意味ではありません!)

 

自然と私が「さとりに向かって真楽を得ようとなる」いわば「意識改革」が起こって「促進力」が得られるってことです!

 

ここの「聞く見る」は、「聞くこと」で「現実の中に真実が見えて法楽真楽になる」ってことです。

そして、出世間の道にはいろいろあるけど「容易な方法」は、「信を方便にした称名です!」って書いてます。(152ページ1行目から)

 

けっきょく「本当に楽になるってことは、《信とか恭敬の心で自我を仏に投げ捨てて称名する》っていう変化」だから、「仏名を称えて、私は仏になる道を歩いている」っていう「自覚が生まれる」ってことなんです!

 

だから「真実の側面」から見れば、「なに仏でもいい」ので、「十仏の名号」って、152ページの後ろから5行目にあります。

とはいえここでの問答は、十仏っていっても「無量寿仏」つまりは「阿弥陀如来です」って、

「憶念」という言葉について、153ページの3行目に「憶念」を「われを念じ名を称すれば」って書いてあって、ここで「念じること+名を称する」に定義して、その主語を「阿弥陀仏」に定義しています。

 

これは「真実的」にはなに仏でもいいのですが、「方便に落とし込むなら、願行などのストーリーが明確な阿弥陀仏」でしょ!

っていう内容です。

そしてここに「念じ称してたら《おのづから》帰する」ってあるように、「阿弥陀仏の本願」を念じて称していたら、「自然な流れの中で帰依するようになりますよ」って書いてます。

 

だから「つねに憶念して、称讃したほうがいいよ」って書いてます。

 

その流れにいれば、「悟りが確定して」「不退転」になるからね!

って書いてあって、現代論理家は「そんだけでいいの?」ってなりそうですが、

 

この辺からは「善巧方便」なんで、「仏の無量力功徳を念じたほうがいいよ」とか、

「十方の菩薩も来て、供養して、法を聴く」とかなんとか、

「私たちに、こうだからああだから」って、

とにかくこの道は船に乗るような「易行」なので、この道で「真の楽」に向かいましょう!

って書いてます。

 

そういう流れだからかなんなんか、次に「浄土論」をもってきてます。

(154ページ【16)

 

この「浄土論」でなにが言いたいのかって、

「なんか阿弥陀仏だのなんだのって書いてる」と「それは仏教じゃない!」って言われそうだから、

ここで立て直しをしている様子です。

 

これは「仏教と相応する」「功徳の大宝海」っていてて、

17】で、「これは自利利他の行を行じる」ってことなんですって書いてます。

ここから先は【18】から論註をもってきて。。

 

「念じて称するだけでいいんですか?」っていう論理家に、

《仏願》っていう「ストーリーの持つ力(チカラ)は、簡単そうに思えるけど、中身は濃いいよ」っていう感じで、【19】で「天親さんが言ってることはね。。」って

 

「帰命尽十方無碍光如来」の原則を「五念門」になぞらえて「真実」を説明していて、

157ページには「往生」の「生まれる」っていう意味も、仏教の原則に外れたことを言ってるんじゃないんです!

って説明してます。

 

☆☆こんな感じで「真実」と「善巧方便」をおりまぜて書いてるってわかったら意外と簡単でしょ!

 

親鸞さんが真実を「華厳経」などを背景にした「無碍光如来」でおさえつつ、「無常無我」をまとめた「空」でおさえているので、

真実的には「無碍光如来」なんだけど、方便的には「阿弥陀ストーリー(願行)」です。

 

って書き進めているのがよくわかります!

だから五念門も「真実側」だから、五念門っていうのは、「わけわからんでも信じて念じて称するひとが《仏願》の自然な流れの中でやってることを分析したものだ」と言えるんですけど。。

 

どうも、ただ「南无阿弥陀仏」を称えるだけってのも、

「無生の方便浄土」に向かうってのも、現実的じゃないなぁっていうひとは、

ダイレクトに「無碍光如来名」の意味を追求して、「四十八願に仏の智慧を学んで」五念門に生きるっていうほうが、現実的ですし、現代的ですねぇ!!

 

☆☆ただどう考えても「名号のひとりばたらきで、死んだら浄土に生まれる」なんて、仏教と相応もしないし、おとぎ話にしかならないから、「資本主義僧侶」が多くて、「群生」してるんだと思いますから、この「ひとりばたらき」を現代で立証するのは「至難のワザ」だと思います!

 

☆☆もうひとついちおう「仏願」の重要性を「阿弥陀ストーリー」で進めていますが。。

なんせ親鸞さんは、「南無」と「阿弥陀仏」をなかなか結合して「これが名号名字です」って確定しないのは、親鸞さんが「真実側」にいるからだって思えて仕方がないんです。。

 

 

 

2019/01/023−16

 

まぁ以前書いてるとこは飛ばしますねんけど。。

 

159ページの【20】安楽集の引用に、「観仏三昧経」から《念仏三昧》って、

 

次のページのどしょっぱなに、「真如実相第一義空」って、《もろ真実》な言葉が出てきて、

 

そもそも「王子」だった釈迦の「お父さん(父王)」が「仏陀になった釈迦」に言うてるっていうシーンですねんけど。。

「現実の真実のすがた(実相)は空」って、おまえは悟ってるのに、なんでこんなことを弟子にさしてんねん!

って聞いとるとこから今日は書いてますねんけど。。

 

「諸仏の果徳。。」とかなんとか。。

「親父(オヤジ)も、念仏三昧したらええねん」っていうてはります。

オヤジさんもキッチリ息子に突っ込んで。。

「そんなことしてなんかええことあんのんか?」「どないな状態になんねん?」って聞いてはります。

 

ここで「状」に「かたち」っていう読みが書いてありますけんど、これっておもしろいポイントですねん。。

「かたち」とはいえ、「状態」やし「変化する《動き》」があるっていう言い方ですねん。

 

ほんで「仏陀」が「オヤジさん」に、

「伊蘭(いらん)の林の匂いが《むちゃくちゃ臭い》ねんけど、そこに徐々に《牛頭栴檀(ごずせんだん)》が生えてきて、ぼちぼち樹木になってきたら《むっちゃえー香り》がして、その林が牛頭栴檀の香りに包まれて、一気にいい香りに状態がかわる」ようなもんやねん。。

 

って「凡夫(ぼんぶ)凡人が煩悩や世俗に振り回されてしんどくても、念仏して中止しいひんかったら、ひとたび往生して、周囲の一切の諸悪を慈悲の状態に変える」ってことやんか、お父さん!

喩えたらこういうことやし、「一切衆生(みんな)がこんな風にして《業道成弁》する」ねんで。。

 

ってここで「往生」って出てきてますねんけど、これの前に「論註」で「無生の生」を教えてくれてはって、「前念と後念と因となる」って「空」や「因果同時」を教えてくれてはりますから、

この「往生」は「今、現生」のことってわかります。

 

ほんで「業道成弁」って、念仏で「悟り(真楽)への行ないが確定する」ねん!っていうて、「念仏三昧の道を進みなはれや」っていうてはります。

161ページの3行目の問答もおんなじパターンで「念仏三昧の功徳」について説明してはります!

☆☆☆ここに「華厳経」が居てる!

 

けっきょくこの喩えは、「俗諦」です。「方便」やおまへん!

 

華厳経の「一即一切」っていう「究極の悟り法界縁起」を喩えで教えてはりますから、

 

伊蘭の「林(一切)」が「一本の牛頭栴檀()」で変化するっていう、一即一切を根拠にして、

ひとりの人の念仏三昧が、周囲を慈悲に変えるって。。

こういう「ひとりの行が全体を変えること(一即一切)」を教えてくれてはります。

 

「念仏三昧」が「一即一切の法界縁起っていう真理の論理」つまりは「智慧」を教えるし、

「個人レベルの変化が周囲すべてを慈悲に変えるようになる」んでっせ。。

っていう「論理」ですねん!

 

今、すっ飛ばした問答も「一つの音声が一切に影響するように」っていうて、「一即一切」をいうてます。

 

個人レベルでも「念仏三昧(イチ)」したら「(一切)の煩悩や世俗に振り回されてる状態が、全部《断滅》しますねん」っていうてはって。。

 

社会レベルでも、「ひとり(イチ)念仏三昧するひとがおったら、周囲(一切)も変わっていきますねん」。。

そういう風になるし、「一切の悪魔諸障」も「難なくすぐに過ぎていきますねん」って、

 

法界縁起の真理の智慧が「煩悩や世俗に振り回される状態から抜け出させてくれて、周囲と共に真楽になれるっていう現実認識を作るんでっせ」っていうてはります。

 

まぁここが「俗諦」で「方便」やないってのは、

 

「念仏三昧で《一即一切の法界縁起の真理》が、個人レベルでも社会レベルでも、いい影響力になりますねん!」「ひとりの念仏三昧が一切を《荘厳功徳》に変化させます」って。。

荘厳(現実)に功徳(悟りへのチカラと徳目)を見る(自利)ってことでっせ。。

 

 

「念仏三昧」っていうのんは、「法界縁起がいうてる一即一切の仏の智慧を学び念じることになるっていうことで」これを人生の真価(自我の無我化っていう価値)にして生きるようになりますねんけど、「他のひとにも伝えよう」ってなって、「個人と社会」が「真楽の和合界」に変化しますねん。

こういうことを《功徳荘厳》っていいまんねん

悟りへの功徳を荘厳する(利他してみんなが荘厳って見えるようにしていく)ってことです。

 

 

たんてきに、現代やったら、こういう「抽象概念」で充分わかる論理ですねんけど、

 

当時は「俗の言語で説明する」っていう「俗諦表現」しか「論理」をわかってもらう「方法」がおまへんし。。

仏教には、こういう「俗諦表現」(当時のひとがわかる言い方で表現)して、論理を会得させるっていう内容が多いんですわ!

 

これをもし、「阿弥陀如来が私に念仏三昧させようと願って、私が念仏三昧しようと思って、実際毎日念仏三昧してると、阿弥陀如来が喜ばれますねん」っていうと、ストーリー(物語り)になるし、「方便」になりますねん!

 

まぁこんなふうに「真理真実の言語化」っていう《俗諦》と、

「実存的に物語り」で語る《方便》を仕分けて読んだらええんです。

 

☆☆☆Aが若い頃に教わった「おつとめ(勤式)」の先生が、

 

「御文章」という《読み物》と「御伝鈔」のような《語りもの》は、おんなじ「和語」やけど、「同じように読んだらアカン」っていうてはりましたけど、

《読み物》と《語りもの》って。。。

《俗諦》と《方便》の違いに似てまんなぁ。。

 

とにもかくにも、教行証文類はこんな感じで「仕分け読み」すると「わかりやすう」になりますねん!

 

 

 

2019/01/033–17

 

162ページの【21】には、ひとくちに「三昧」っていうても、部分的に効果のある三昧とか色々ありますけどね。。

「念仏三昧」は「現在は言うまでもなく、過去から未来に至るまで、一切の障りを問うことなく、除かれ」ますねん!

ってあって。。

 

22】から、いよいよ《方便への誘い》がスタートしまっせ!

まずはドンって感じで、「大経の讃」に書いてますねん。って重みをもたせてまんなぁ。。

とにかく名号徳を聞きましょうって。。

 

 

23】には、「仏経を信じないから生老病死」をまのがれることを得られへん」って。。

「勉(まのがるる)」こういうとこも意味ありげでんなぁ!

せやから「無量寿仏の国は行き易い」し、「こんな容易な方法を選ばないんですか?」

って、一般社会の人が聞いたら「ローリスク、ハイリターン」を勧めてる商売の話みたいになりますけんど、

《大真面目に「悟りに行き易い法則」でんねん!》

っていうことですねんけど、

 

「布教使(一部の)」を見てたら、マジ「その布教使の商売」かのように、

「実証」されへん「実のない(不真実)布教」もたまに見かけまんなぁ。。

「法礼だけはしっかり持って行ってるようですねんけど。。」

これって「ハイリスクローリターン」ですやんか。。

☆☆☆この部分は俗世間の話になりまんにゃろか?

 

とにかく「易行」の無量寿仏を勧めてはります。。

 

24】で善導さんに入りまっせ!

「特別な場所で心を落ち着かせて」なんて改めて「観想(イマジネーション)」しやんでも、

ふつうの状態で「もっぱら名字を称えてれば、思い()の中で「阿弥陀仏」「一切仏」を見ますねん。

って書いてます。

ここも「一即一切」の原則を「一即多」っていう言い方も使いつつ、書き進めていってはります。

 

この164ページの問答はどっちもおんなじです。

特に始めの問答は「なんで観をしやんでも名字を称えてればいいんですか?」

って内容ですけど。。

 

方便らしく、「大聖悲憐して(ブッダがあわれんで)」って、情に訴えてます。。

 

Aも若い頃「恋するひとの名前を想い、口にしてれば、その人のイメージがどんどん浮かんできてたような淡い思い出"がおます」ねぇ。。

「キショイ」って突っ込まんといてくださいませ

 

みなさんも「親鸞さんが」って、まじめに口にしてれば、「それなりの親鸞さんイメージ像」ができますやろ。。

 

これが、56行目に、「由」は「行、経、従、用」って、

「無碍光如来の行を、経典の教えのように、従うと、用(はたらき)が起こる」って書いてます。

せやし、「相続して(続けて)いれば生ず」ってことでっせ。

って書いてますねん!

 

ほんでその根拠に「一即多」の原則が使ってありますねんけど、

ここまでに、「無常無我空、唯識、華厳」っていう

「仏教の原則」が、俗諦で書いてますし、このあとの《方便》は論理的に《方便やねんなぁって》読めますねん。

 

ほんで、またまた出ました「観経」で、「西方」に確定しはります!!

「この辺からもう《もろ方便》」やて思って読まはったらスキッと読めますねん。。

 

170ページ【34】の手前までは、ほぼそう思って、「ストーリー」にのめって行ったらええと思います。

 

 

 

2019/01/043–18

 

昨日、170ページの【34】の前までは「方便」やし、「のめったらいい」って書きましてんけど、

誤解なきように念のために書いときますねんけど。。

 

この「方便」のなかには、「あなたの自我名字」を「阿弥陀仏」の名字に入れ換えて、

「浄土へ」って願いなはれ!

っていう内容ですねんし、「名号を聞き、名字を入れかえて称名する」っていうポイントがあって、

 

「聞け」っていうときは《主語》が「名号」になってて、「称すべし」ってとこの《主語》は「名字」になってますねんけど。。(主語っていうか、目的語)

 

たまたまっていうようには思えへんので、「号」は聞く対象(客体)で、「字」は信受して称える《主体の側》に使われているようですし、

 

「自我名字」を「阿弥陀仏の名字」に入れ換えるってことが、この「方便ストーリー」の内容からもいえますし、

こうやって「破我」されへんかったら、「他力(パラタントラ縁起)」に生きることにはなりまへん!

「自我名字が如来の名字に入れ換われば、称える主体の名字が《利他の名号》になる」んでっしゃろけど。。

 

この「破我ポイント」は、169ページの最後の行に「真如の門に転入する」って、もろ「真楽、さとり」が書いてあって、

170ページには「色んな善巧方便があるけど、選んで弥陀弘誓の門を会得しなはれ」って、

「阿弥陀ストーリーの由来と結論」を書いてはることからも推測できますし、次の「二字釈」からも推測できますねん!

 

34】に親鸞さんは、「六字釈」ではなく「南无」の「二字釈」を書いてはります。

これはこういう風に「阿弥陀仏」の方便ストーリーに「南无」するってどういうことか!

っていうことを書いてはるようですし、「帰命」「発願回向」「即是其行」「必得往生」全部が「南无」にありますねんっていうことで。。

 

《自我》が《南无して》「帰命、発願回向、即是其行」って《破我》されて、「必得往生」の《いのちを生きる》って書いてはるっていえますねん!

ほんで、この状態は「即時」でっせって「即得」の「即」と「必定」の「必」をポイントにして落とし込んではりますねん!

 

「南无」したら「速攻」に「必ず」そうなりますねん。ってことでっしゃろ!!

「即」ですさかいに「死んだら」やないんです!

あくまでも「即」《今》「必得往生」ですねん!!

 

☆☆☆ちなみに621ページに「得は果位」って書いてますし、この時点で「往生を果位として得る」ってことがいえますねん!

 

「真楽」「さとり」への「初地」から「等覚」への《現生の歩み》がスタートしますねん!!

まぁ肉体が滅すれば、「妙覚」っていう位置づけになるんでっしゃろ!

 

ほんで、こっからあとは「信受して破我された主体(元自我)が称する名字は名号になって、利他になりますねん」ってことでおまっしゃろ。

 

以前にこの辺は書きましてんけど、「内容をまとめる」とこないになりますねん。。

この辺は「方便ストーリー」が、「具体的にもつ意味内容の解明」をさせてもろたんです!!

 

ほんで、【35】の引用からは、「法事儀讃」では、浄土の「方便の根拠」をあらわす部分を引用していますから、結果、171ページあたりには、

〈王が坐禅して即念仏してるのんは、「無念、無生、法身、解脱」を求めて〉ってことやねん。。

「至理の真法、一如にして物を化し人を利す」って、「物と人」同格ですねん。

「物は衆生のこと」っていいますけど、「一切の有」でもいいって思いますねん!

 

行文類始めの"真実側面では、「華厳経の一即一切」が書かれてて、「無碍光が真実側面」で、ここまで真理に言及してきてはるんやし。。

 

そういう点でいうたら、6行目に「文を離れて解脱を求める」って、最終的には「言葉も絶えた真楽真如」を求めるって書いてます。。

 

この後は、こういう真理真楽に導く方便としては、阿弥陀ストーリーは「時と凡夫」っていう対象に相応しい教えでしょ。。

って感じで、「称讃浄土経」にいわくって、また「方便ストーリー」に戻って、

 

173ページの文中に「般舟三昧経」には、「方便ストーリーとそれを聞いた者がどうなるか」ってことが書いてありますねん。

「念仏の法門が開かれる状況にあう!」っていう風に、道場の風景が描かれてます!

 

173ページの6行目に、「大衆の信心があって回するにあう」ってあって、教えを聞いた人が信心を得たっていう方向転換状態が起こることが書いてます!

 

ほして、後ろから6行目に「四十八願が必ず携わる〜道場の同行のひとを勧め〜家郷(ふるさと)は極楽の池の七宝の蓮台ですねん」って、かなりな情的表現で、書いてますけど。。

 

俗世間の目線だと「私は、瓦礫(かわらけ)のような者だって思ってても、回心して念仏したら、金だったって」ふうに、見え方が変わりまっせって書いてあって、

 

この場面で、四十八願を含めて、「浄土の荘厳功徳が見かたを変える(観察門)」ってニュアンスが書いてますねん!

このあたりは「まるまる方便」ですねんけど、「如来と浄土の功徳」について書かれていて、この後もしばらくは「称名」と「功徳」について、お腹いっぱいになるほど書いてありますねん!

 

178ページの後ろから4行目からは、「三昧でも《魔事》があるし、気ぃつけやなあきません」っていうことが書いてます。。

179ページの6行目から、「念仏三昧」は「仏力によるから」。。「けだし阿弥陀仏、大慈悲力〜」ってあって、後ろから4行目に「智慧力、三昧力〜」っていうこの辺は、

智慧慈悲の功徳について書かれていて、180ページの【50】に「万徳が(阿弥陀仏の)四字にあらわれていまっせ」って、「万行」や「六波羅蜜の行の慈悲」などなどが「阿弥陀仏」の四文字にあらわれているんです。。

って方便ストーリーによって「功徳」が得られるっていうことが書いてあるんですけど、

ここで重要やって思うんは、「功徳、功徳」って書いてあるように、「方便を通して功徳をみる智慧を得てください」ってことやないかって思いますねん!!

 

 

 

2019/01/053−19

 

お腹いっぱいになる「方便」の部分から「ポイント」を拾ってみますね!

 

174ページの中ほどに、「新無量寿観経」にって、結局いろいろ「方便ストーリー」を書いてるけど、

「還りて法性身に同ず」って「空、真如」に戻るって書いてます!

 

175ページ4行目に「かの仏世界の所有の功徳、清浄荘厳なり」ってあるんで、そういうところを見てくださいってことなんやろね!

〈ここに女人ってありますけど、”LGBT”のこともあるねんし、時代によって変わる状況だから「ごめんなさい🙏」ってしたらええんです。こじつけて理由を考えやんでもすみません、そういう時代やったんでって。。〉

《ミスをミスと見る智慧ってのも大事やと思いますねん》

 

176ページの【40】には、「貴賎を簡ばず」ってあるし。。

 

このへんは、これら「方便」のままで、「本願力」によってこうなってまんねんって書いてますねん!

 

ほんで【44】に〈この土にして菩薩の行を修す〉ってあるのんは、

《浄土》という次元を「現生」に観る「この土」って読むと《現実論としての方便》になりますなぁ!

「無諍王」(阿弥陀因位の名)「宝海」(ブッダ因位の名)もそうやっていうねんから「現生」確定ですわ!

 

46】にも「人身を失ったら、後戻りできまへんで、せやし今さとりまひょ」て書いてますしねぇ。。

「深く無常を念じて」たら「浄楽の居士」を勧めまっせって。。

この「浄楽」を「浄土の」って読みたくなりまっしゃろけど、ほぼ「涅槃の四徳(浄楽)」って読んで、「現生の浄土」って読みましょう!

 

47】台教の祖師。。のとこも、「仏名は真応の身より。。慈悲海より。。誓願海より。。智慧海より。。法門海より。。」って、

「方便根拠」と「称名するあなたもそういう風に認識して一仏名号を称する」ことが「一即一切仏」、

「一仏即諸仏」っていう「法門、智慧、慈悲海」ですねんってのんを逆からいうてます!

 

48】からは、「信」について書いてまんなぁ!!

49】のとこは、「ちゃんと正しい法門を信じやんと、魔事にハマったらあかんで」って書いてて、

179ページの中ほどに「阿弥陀仏、大慈悲力〜摂取衆生力」っていう「不可思議な力」が、

念仏の人を臨終(現生終わって妙覚になる)まで護持しまっせ!

せやし。これを正信しなはれや!って、【50】の手前に書いてますわ。。

 

まぁここら辺には「方便」を「正信」しなはれってあるのんがポイントでっしゃろから、

そこんとこを書いときます。

 

ほんでもって、【50】の「万徳が四字にあらわれる」ってとこで。。

 

☆☆☆51】に、「弥陀の名」が「識心に攪入」(しきしんにらんにゅう)する

(凡夫の心に入り込む)☆☆☆

ってある。。ここにも【自我名字が《仏名字》に入れかわる】ことが確定的に書いてあります

 

52】にも「前に仏を誦して罪滅し。。」ってとこに《浄業内に薫じ》(じょうごううちにくんじ)って、同様の意味が書かれてますねん!!

 

ここらへんは「罪が滅する」ってありますねんけど、「罪」って「煩悩に苦しんできた歴史が」ってことで、なんか悪いことばっかやってるようにいうてるって考えると、「そもそも真楽」を教えようっていう仏教が、「裁判所」みたくなったら間違いますねん!

 

せやのうて、「苦の歴史に終止符がうたれまっせ!」って「ええなぁ」っていうことですねん!

 

53】には「無生を得ようと思ったら」って、「真実の悟り(真楽)」を得るなら「これっきゃない」って書いてますねん!

ここに無意味に「以上の五門」って「五念門を錯覚させる」書き方をしてはりますけど、「ほぼこれはミスディレクション」(そうと思わす)をねらってますわ!

 

54】【55】は、「仏教の究極や」ってことですねん。。

56】にも「仏名が薫じられる」「万徳四字にあらわれる」って、

52】にもあるし、もう「仏名の薫製状態」ですねん。。

 

けど、そうなるし「称名で利益」を得ますねん!ってことですねん。。

57】は一即一切で「一仏名即無量功徳」。。

 

って、この辺は一仏名があらゆる功徳や「煩悩の終結」をもたらすっていうことを仏教の原則に従って「俗諦」と「方便」を交えて書いてる部分です!

 

63】から「往生要集」によって、徐々に「法然さんに誘導」してます。

 

64】の「二つには」ってとこに、「一子のごとし」ってありますねんけど、これも「一即一切」原則ですから、

☆☆☆「一人っ子を大事にする親」なんていう「センチメンタル」な話ではおまへん!!☆☆☆

65】でまた「薫製状態」にされてまいます。。

 

66】は、「とにかく果実が実る」っていう「サンスクリット語の《真実(サイトゥヤ)》」をあらわして。。

67】【68】で、法然さんによって、「南無阿弥陀仏は正定業(しょうじょうごう)」っていう、

「正しく成仏(真楽)が定まる行ない」ですって、【66】からの流れで「方便ストーリー」を「真実や」って確定しはります!!

 

69】に、せやから「方便」やっても「念仏成仏すべきでっせ」っていうて、方便ストーリーにいったんの結論をつけはります!

 

70】からは、「論註」の「真実寄りな曇鸞さん」も「方便」を書いてはりますっていう、「論理家」に対して、「方便の根拠が真実にありますねん」っていう引用と、親鸞さんの解釈が続きます。。

 

以前も少し書きましたけど、【72】に徳号を「慈父」()、光明を「悲母」()ってありますねんけど、

これらが「因縁和合して生まれる」のが、「至心(真実心)」っていう「種子(タネ)」になるから、

 

「真実信が母胎に着床する」ように「業識(ごっしき)」っていうタネである「南無阿弥陀仏」が、信心によって「わたしっていう母胎に着床」して、

 

「わたしっていう瓦(かわらけ)が金になって」「自我名字が破我されて」「名字が名号になって」「名号に破我されて《さとりを観て》生きる」ことになるっていうことを言うてはります。

 

☆☆☆ポイント☆☆☆

「徳号は名号ではおへん」あえて621ページの部分を引用すると

「名」は「因位」、「号」は「果位」ってありますねん。

ーーーーー

これは、「名」は、「自我名字」から「無我名字」への転換表現「自利(往相)(回向発願)

「名号」の「号」は「利他(還相)(薗林遊戯地門)をいうてますねん。

 

せやし、「徳号」ってのは「果位」ですねんから、《利他の真実心》ってことになりますねん。

こうやないと「徳号が能生の因」になりまへんねん!

ーーーーー

 めんどくさいかもですけど、「能」ってのは「仏教用語」では「主体」をあらわしますねん。

「所」は「客体」ですねん。

いうたら、《利他の真実心》っていうのんは、

ーーーーー

 そもそもの「真如が主体()」で「無碍光如来()」になって、諸仏が《称無碍光如来名》()して「因と縁」っていう形態で「わたしをさとりに誘導する」ってことですねん!

 

裏返したら、諸仏の《称無碍光如来名》っていう「縁()」によって、「五念門行」っていう「真如()」への転換っていう「因」を得る。

ってことですねん。。

ここで無碍光如来と五念門は同位体と読みまんねん!

諸仏称名が、わたしの讃嘆門に変わった時点ですねんけど。。

 

これが、《真実寄り》の内容ですねん!

 

「慈父」「悲母」っていう「慈悲」からもろた「利他」の「真実心」の《タネ》を

「私」っていう「母胎に宿しましょう」っていう「俗諦」ですねん!

ーーーーー

 これを「方便ストーリー」でいうと、「南無阿弥陀仏」を宿す。。ってなりますねんねぇ。。

 

申し訳ないですけど、脚注に書いてあることは、「仏教学」を微妙に無視した「真宗お西」の「既成概念」で書かれてるので、全くの方便ストーリーのままで、「現実性」がおまへん!

「論ではなくお話」になりますねん!

ーーーーー 

極論。。こうやって私に「タネ」が宿ると「法性が法性のままに自然に流れる法楽」っていう感じになるって感じでしょうか。。

ちょっと風流な言い方でんなぁ。。

 

論理的にいうたら「無碍光如来(智慧)」によって「無常無我空」状態を「五念門行」で生きるってことですねんけど、

方便を真実に合流させると「自我」を「無常無我空」に転じるために、

「方便名字」の《南無阿弥陀仏》を「《私の》自我名字」に入れ換えると「真実に合流しまっせ」ってことですねん!

ーーーーー

「真実側面」でいうたら、

「帰命尽十方無碍光如来」でいいんです!

ーーーーー

 また【ポイント】

私達は「十二縁起の中で《名》によって《色存在》を認識してますから《名》の入れ換えが、存在の意味を変えるので「無明の滅のポイント」になりますねん!

 

念珠をネックレスって言い換えると「存在の意味が変わる」のんと同じですねん!

 

ほんでまたこの【72】は、唯識論の「阿頼耶識(あらやしき)→(くらの意味)」に「至心の種子が薫じられる(蔵に入る)」っていうことですねんから、

 

「十住毘婆沙論」の「般舟三昧を父として大悲を母として如来が生まれる」っていう部分とおんなじですねんけど、「唯識」でいうてはるから、

これの前に「どんだけ薫製状態にすんねん」っていうぐらい「薫じる」「薫じる」って出てきてて、

倶舎と唯識用語の「業識」っていうことばが使われてますねん!

 

せやし、「信心の業識」が《内因》で、「光明、名()」の父母が《外縁》っていうてはって、

ここの「名」は「諸仏称名の《名字》」段階で、

この「諸仏称名」は「無碍光如来」から出てるから、「光明、名」っていう順番になってんねんってわかりますねん

ーーーーー

 以上のようにひとつひとつ細かく読まな、光明や名号の順番や父母のたとえの一貫性などを無視して、

「こういうことですねん」って、ほんまの意味で大ざっぱに解釈するし、現実味のない空論になりますねん。

特に親鸞さんが書いてはる部分は要注意でおます!

 

戻って、この部分の「名」はまだ「薗林遊戯地門の利他」段階ではおまへんねん。

せやから「名」のまま。。

 

このあとで「光明、名号」で「十方を摂化」するって段階で、

「無碍光如来」を「諸仏が称名」する「諸仏称名が利他に確定」されますねん

 

 

 

2019/01/07 3−20

 

3−19]の父母の解釈は、書いてて。。

これは、口頭説明した方がわかりやすいやろなぁって思ってましてんけど、

ご理解いただけましたか?

 

整理しときますと。。

【真実側面】

父として「生まれさせる主体になる因()」は真如」で《言葉にすれば》「無碍光如来」という「俗諦」

母は「生まれさすために育てる(摂取調育の)光明の縁()」で「無碍光如来を諸仏が称名する状態」と書かれている「俗諦」

 

これを【13】の「十住毘婆沙論」に合わせれば、

「般舟三昧っていう家があって、そこに般舟三昧っていう父親がいて、大悲っていう母親がいます」

ここに「母親」を「無生法忍」っていい直してるんは、「根拠が悟りだからこの大悲は利他です」ていうことでっしゃろ!

そんで「如来はこの両親から生まれますねん」って書いてます。

 

これって「諸仏を三昧で観察して自己もそうなろうとする、父っていう行が()」で、

それをさせてる「根拠の(悟り、真如)からの大悲っていう《如来》が、母っていう()っていう意味」ですねん!

 

仏教解説の1213を参照くださいませ!

 

だから、「真如の俗諦」になる「無碍光如来」は「真如そのものからの大悲から来た(能因)」ってことで、それを称名してる「諸仏称名」を「所縁」って言い換えられます。

 

「真如(無為法)」そのものは「因」にならないっていう「倶舎論、唯識原則」でいうたらこうなるんです。

 

そして《真実側面》でいう「五念門行」を「因にして行じてればいいんです。」

ここでは「帰命尽十方無碍光如来」っていう名字でいいんです!

 

147ページの「この菩薩」ってあって、その後「菩薩」が頻繁に出てきますけど、

これを法蔵菩薩やって、言えへんまま進んでますし。。

(175ページ【37】に宝蔵如来って、ほぼ初出演してます。)

 

ほんで、「名字は自利《五念門行》」で「号」は「利他」の「薗林遊戯地門」になるってことで、

「自己がそうなるんだなぁ」って理解できます。

 

「論理的な人には、無生だの無常だのと書かれている部分から、これでわかります」けど。。

 

「文字も読み書きできない時代の人」には、「方便ストーリー」の方がわかりやすいやろなぁってことで、

「阿弥陀仏からの招喚《号》」と「釈迦の発遣の《称名》」って微妙に変化して、

「信文類」で、ほぼ確定的になっていきますから。。

ここの仕分けができひんとややこしくなるんです。

 

ですから、「行文類」は、「諸仏称名」からスタートして、【12】に「称名正業念仏南無阿弥陀仏正念」ってあり、

ほぼここで《論理のひと》は、【11】の前にも「信慧」ってあるし、「ふむふむ」ってなります。

 

そして続いて「十住毘婆沙論」に「初地歓喜地」って書いてあって、

14】に「信力増上」について書いてあって、「信」ってことが「増上(ぞうじょう)の力」って、

「意識改革」と「促進力」になるんかぁ。。「ふむふむ」。。

 

17】には、「菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他して。。。」

「なるほどやはり五念門行を行じるんやなぁ」

 

そのうえちゃんと「浄土論と論註」で「仏教と相応する真理真実」を論じてあるし、

 

158ページ2行目に「仮名人が五念門を修すると、前念と後念が因になって《因果同時》に浄土の仮名人」になるねんね

 

って端的に理解できて「な〜るほど、そういうわけか!!」ってなります。

 

そして「安楽集」は「華厳の一即一切」をいうてるねんなぁってなります。

(冒頭が「真如実相第一義空」って始まって、161ページに「華厳経」が出てきますし)

 

☆☆☆いよいよ。。。

【方便側面】

 

24】の善導さんから。。

「うん?」ってなってきます。。

164ページに「観経」が出てきて。。

後ろ4行目に「面を西方に向ける。。」って「なんで西?」。。

 

25】には「衆生を観そなはして摂取して捨てざれば?。。」

 

「今まで《法》の《言語化(俗諦)》やったのに、《法》が《固有名人格化》してる。。なんで?」ってなりますねん!

 

これを「善巧方便(方便)」に定義してます。

 

「無碍光如来の《功徳荘厳》を観るように生きる」っていうのんが、

「阿弥陀仏っていう《固有名に人格してて》阿弥陀仏が救うっていうニュアンスになってる」。。なんで?。。

ってなります。

 

『そういえば💡

 

152ページの「十住毘婆沙論」の、「宝月童子所問経」のとこに、

「説くがごとし。。」「西方に。。無量明と号す」。。ってあったなぁ。

そこに「十仏とか他の仏菩薩でいい!」ってなんでしやへんの?

 

って問いがあって、答えのとこに

 

「阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し。。。つぶさに無量寿仏を説くべし」ってあって、

「阿弥陀仏の本願を憶念すること。。」「このゆえにかの仏の本願力を帰命する」って書いてたなぁ。。

 

けどここを読んでた時は、「阿弥陀仏の本願を通して、さとりを観ることを行じる」っていう風に読んでたけど。。

 

「やっぱり善導さんになると《情的な人格表現》になるねんなぁ〜!」っていう感じになるんです。。

 

この阿弥陀仏がこういう「方便ストーリー」ってないとわからん「情のひと」も多いもんね!

っていうことで。。

 

この辺から「方便ストーリー」になりますねん!!

167ページの「()弥陀経」の引用にも、「阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じて。。」って。。

「これも人格化。。」

 

「阿弥陀経」に「臨終の時」ってありますけど、これは「現生でこの《自我名》を捨てた時」って理解しますねん。また「聖衆と現前」を「来迎」ではなく「功徳荘厳」を観るって読みますねん!

 

34】の親鸞さんの「二字釈」にも、「本願招喚の勅命」って、「命令されてしもた!」

って、微妙に人格化してるけど。。

 

ままこの【34】が、「二字釈」なのは、「南无」で「固有名の阿弥陀仏一仏から一切仏」の功徳に「南无」することで、「現生の今《必得往生》の道を行じるってことがいいたんだろうなぁ」って、

 

理解できて、落ち着きます

 

ーーーーー

 

73】に戻りますねんけど。。

ここには「行に一念、信に一念」って、

ようは、「乃至」とか「下至」という言葉、「一声一念」=「専心専念」ってところで、

「称えた回数は問題やない!!」っていうてて、

 

でもやっぱ「称える前提なんや」ってとこで、つい見落としますが、

77】の手前の【76】に

「名号を称える回数は置いといて、とにかく往生すんねんって、疑う心がないことを《深心》っていいますねん。」って書いてて、ここにさらっと「信の一念」に触れて。。

 

77】の大経の引用で、「一多包容のことば」とか「大利無上は一乗真実の利益(りやく)」って、やっぱ「法界縁起か!」って思う書き方をしてはって、

「専心」は「一心」で「二心ないこと」をあらわすってあって、

「専念」は「一行」で「二行ないこと」をあらわすって書いてます。

 

また「あらわす」を「形」って字が書いてあるんですけど、

「仏教の原則は《形》は存在を意味しないので、そういう状態です」ってことなんかなぁって思います。

 

とにかく「称える(身、口業)も心の状態(意業)」も一つ状態でいいんですねんって、

 

☆☆☆

「一即一切」原則やし「一」でいいんですってことをいうてはるんで。。

むちゃくちゃ「ほかの行やなんかを否定してる感じやない!!」って思えまっせ。。

☆☆☆

 

仏教で基本の「人間の行ない」を「身業(カラダの行ない)」「口業(語業ってもいうけど発する言葉)」「意業(心で思うこと)」の三つを「三業」っていうてて、人間の行ないを総合的にあらわしています。

 

そして「意業」についていうてるって思えるのんが、

「一行正行正業正念念仏南無阿弥陀仏」っていう定義の流れに、「正念」って落とし込んでます。

 

けっきょく、称名の一行「身業、口業」は「正念念仏」っていう「意業」がポイントやねんっていうてはります。

 

そこで【78】に「きわめて《情的》で《味のある》書きかたで《真楽・法楽》」について書いてはりますが、

 

「大悲の願船に乗ったら、智慧の光明の広〜い海に浮かんで、功徳の風が静かに落ち着いていて、世俗の慌ただしさや煩悩に振り回される〈荒波〉がおさまって、無明の闇が破られてムチャクチャ明るくなって、そのままスムーズにすぐ無量の光明土へと至って涅槃寂静になりますねん。」

「そして《利他の功徳》いわゆる《普賢菩薩の徳》に従う(遵ふ)んです!」

「いいでしょ

って、「京都から《海路》で越後に流罪にされた《逆境》の思い出を《功徳荘厳》」って思えてないと書けない表現ですやんねぇ。。

 

ほんで、あくまでも「仏教やねん」から「こんなふうに真楽になれるんですよ」っていうてるんですから。。

「知るべしと。」ってのは「わかってね」っていうニュアンスで読まないと「知りなさい」ってなことじゃないんです。

ここには「いいでしょ」って書きましたけど!

 

 

この先もこういう原則で読んだら、仕分けられるって思いますが、ポイントを書き進めます!

 

 

 

2019/01/083−21]【教行証文類の真実についての重要定義】

 

189ページ【79】の「安楽集」には、「十念相続」を「聖者のーの数の名ていうこと」だから、

数を数えるってことは「始めた頃にはすることもあるだろうけど」べつに「一即一切原則」だし、どっちでもいいんです!

って「けっきょくどっちでもええんかい!」って突っ込みたくなる内容があって。。

「まぁ華厳経原則ならそうなるわねぇ」って納得できる《結論》になっています。。

 

80】に、「これが《真実行》やっていう《明らかな証明》ですねん。」

ってあって、「選択摂取の本願」「超世希有の勝行」『円融真妙の正法』『至極無碍の大行』なり。。

って並べてある中の始めの2つは「方便側面」後ろ2つは『真実側面』で《定義して》あります。

 

「真実側面」はみれば「円融、真妙、正法」「至極無碍」っていう「真実の俗諦語」が並んでいるのでわかります!

 

ここで【81】の「他力というは如来の本願力なり」

これは、この後の【82】の「論註」の部分で「真実側面」については、はっきりするんですが、

逆に【82】以降は「方便側面」のひとには難解"になるでしょう。。

 

この【81】の「布教などでよく使われる言葉」は「現代でいう《ダブルバインド(二重拘束)》っていうテクニック」が使われています!

 

つまり「どちらからも理解できる」ってことです。

 

「真実側面」のひとは、「他力(縁起=パラタントラ)」っていうてるのは、

「真如の言語化(俗諦)の如来(一即一切仏で阿弥陀仏中心)」の「四十八願なかでも《本願》を聞く(信知する)ことで自己のベクトル(力と方向性)が決まる」ってことなんやなぁって、理解できます。

 

一方で「方便側面」のひとは、「私は煩悩にまみれてるから、如来様の本願に《まかせれば》悟りに向かえるんや!」って単純理解できます。

 

結果どっちからいっても《破我》されるんですねど、「およそほぼ現代日本人は《真実側面》の方が理解できるって思います!

 

そして「方便側面」のひとには「難解」な【82】の「論註」からは、

《本願力》の根拠を「真実側面(俗諦)」で書いています。

 

ここには「五果門」で「第五功徳相」「回向利他の行」って「薗林遊戯地門」について書いてあって、

「五念門」の「入第五念」の「回向発願門」を「行じた果」について書いてあるんです。

 

「入五念門」を行じるってことが、「自利の行が成就するってこと」になって、「出」の「第五門」になるのは当然なんです!

 

そして、「阿耨多羅三藐三菩提」について〈無上正遍道〉やって「定義」して、

そのまま続いて「無上正遍道」を解釈してます。

 

ここで、191ページ後ろ4行目下に「法相のごとくして。。」って書いていますが、「脚注の《ありのまま》」っていうことです。

ここで次の行に、この「ありのまま」の「法相は無相で聖智無知」って書いてて「法相は智慧」です。

って書いてます。

 

ここの「無知」ってのんは、「仏は学ぶことがない《無学》ってのとおなじ」とも言えますし、

「無相」っていう「実相論」でいう

「ありのままは無常無我空で変化して固定したものはないから《無相》で、知ることもない(認知することもない)《無知》ですねん」っていうことやっていう風にも言えます!

 

また、〈遍〉について、「一つには聖心」って「真実の智慧心」があれば、そういう風に

「一切の法の《実相が無相》ってわかりますねん」ってことで、

「二つには法身」ってあって、つぎの「無碍道」とあわせれば、「法界縁起の事事無碍法界」だから、

「法身が遍く満ちる」「無相の法界を仏界という視点で観る」っていうことが、

 

192ページの1行目に「華厳経にいわく」ってありますけんど、〈十方の無碍人〉って〈一即一切の無碍法界のひと〉になれば、

「この無碍道」から「生とか死とか名づけて実在に執着している虚妄思慮分別の《人界》を出ますねんで」って書いてます。

 

ここで結果「トータル《華厳経原則》が《教行証文類の論拠》になってること」が明らかにわかりますねん。

 

ここで「生死すなわち涅槃」って書いてますのんは、「智慧」を得て「生とか死とかいうて《無明》やったなぁ」ってなることをいうてて、

「入の五念門」は「不二」の「無碍」に至る「法の門(入り口)」ですねんで、って書いてます。

 

ややこいかもですねんけど、「一と一切をイコールだって観る《虚妄分別》《分断思考》を、

【一即一切原則】で否定される」ので、「《二》という実在はない」ってことです!

「十や当時の七などの満数」は使われますけど。。

 

「生死は一如やねんねぇ」「法が無常原則で変化してるだけやねんなぁ」って「生死を通じて涅槃」を観ることですねん!

 

これが「一か一切しか言語定義できない」っていう「法の実相」ていう大原則です

 

☆☆☆布教のなかで、「浄土があるから《死んでいける世界がある》」「だから死は怖くない」「これを生死を出るといいます」っていう話しがありますけど、親鸞さんからしたら「方便」とも言えへん「世俗の持ち越し」っていう「魔教」やってことになりそうですし、ご注意くださいませ。☆☆☆

 

☆☆☆例えば「倶会一処」でも「また会える世界」って【世俗の持ち越し】です☆☆☆

 

戻って、このつぎの「問答」は、「真実側面と方便側面」が成り立つ理由を書いてるって推察できます。

 

脚注にも「古くから《覈求其本釈》(かくぐごほんしゃく)」って言われてて、「まことにその本を求めると」っていう意味で、

「この真実と方便が並行して成り立つ根本の理由を説明している」内容が書かれているんです。

 

ここの192ページの後ろから5行目の「衆生から観たら《仏力》っていう《仏力》って言葉は《単独で広まって》ますねん」けど、

ここは、「阿弥陀如来の本願力」っていうストーリーが「三願を根拠」にしてて、

悟りへの「増上縁」ですねんって書いてて、194ページに、「常倫」を「超え出て」るし、

 

「一般的な解釈では《理解不能》になる」かもしれへんけど、「行じたらきっちり初地が観える」ことが「証明」(三つの証)されてるし、

「実際、《私親鸞も》初地現前を経験した」っていうニュアンスで「現前するをもってのゆえに」って書いてはる感じがします。

 

だから、「他力を増上縁」っていう「思考改革、推進力」を意味する「縁力」って書いてます。

 

ここに「例を引いて」ってあって、「人が《貪欲、瞋恚、愚痴》っていう《三塗》を畏れる(おそれる)」から、色々と「行じようとする」って書いてあって。。

 

いわゆる「三毒」(三大煩悩)っていわれる「煩悩」を「三塗(さんず)」っていいますねん。

ここに「塗る」ってありますのんは「薫じる」って出てきた意味より弱いニュアンスで、

「三つの煩悩に塗られてる無相の生命体」ていうことですねん。

 

これを「畏れる」って書いてますけど、これって意外と大きい内容ですねん!

よく人間の苦を「生老病死などの八苦」で語られますねんけど、

その根本は「怖れ」「畏怖(いふ)」っていろんなところ「経論」に書いてます。

 

現代で一般的にいう「不安」ってことやし、「精神安定剤」は「抗不安薬」なんでっしゃろ!

そういう意味で「仏教は究極の抗不安薬」ですねん。

 

だから、「煩悩による怖れ、不安」をまのがれたいっていう「モチベーション」から、

「戒律を守るとか。。自力に依らなくっても」、「虚空に乗じて。。」って感じで、「他力、縁力」に依って「信心」に生きて「自己判断で真楽への道を限定しなくていいんやで」って書いてるんです。

 

83】で「観経義疏」からあえて「他力を憑む」ために「往生浄土」っていうことを説いてますねん。

ほんでここに「彼此れを分断したように書いてるのんは《方便》」です!

ってややこい言い回しできっちり書いてます。

 

【一即一切原則】で否定されてる、「分断思考」や「二(ふたつ)」っていうのんは、

《世俗原則》で生きてる「方便側面」しか理解できないひとに「《方便》で言ってるだけなんです」ってことです!

 

☆☆☆繰り返しますけど「【方便】です。」って書いてます☆☆☆

 

ここに「覈求其本釈(この教えの本(もと)はここに書いてます)」で定義が確定します

 

)「憑む」っていう文字は、「依頼や託す」ではなくて、「取り憑かれる」っていうニュアンスですし、「破我状態」っていえます!

参考https://ja.m.wikipedia.org/wiki/憑依

 

☆☆☆「現代語訳」には、ここの部分はかなりはしょって、「方便」て書いてるのんを「如来の巧みな手だてである」(現代語訳124ページ)って書いてて、「巧みな現代語訳」をしてはりますけど、本文には明確に「方便」って書いてます!(せやし、恣意的な訳文だと思ってしまいまっせ)☆☆☆

 

【どうも】現代語訳の「教行証文類」には、恣意的な部分が多いようですわ。。

【脚注】とも、ご尽力は「貴重ですねん」けど、「管理者」が「そういう派の人でしたんでしゃろかねぇ??

2019/01/103−22

 

195ページの【84】「一乗海」(いちじょうかい)っていう解釈です。

この時代は、「一乗」っていうことをいわれた時代です。

「声聞や縁覚」(しょうもんやえんがく)っていう、いわゆる「小乗」やないってことですけど、

「大乗仏教の究極は一乗」ってこと、「一」でいいってことです。

 

これも一貫した「一即一切原則」です。

 

けど、この時代の浄土教だけじゃなくて「法華経」にしろ、根本は「一乗即仏乗」っていうことは変わりません!

 

この部分の内容は、すべて「真実側面」で書かれていて、

一乗大乗仏乗阿耨多羅三藐三菩提涅槃界究竟法身(くきょうほっしん)(真如)

って書いてあって、「究竟法身を得るのは一乗を究竟すること」って、微妙にわかりにくい言い回しですねんけど、

 

あなたが、最終的に「《称名五念門五果門》」っていう《一(イチ)》の方法()で「証りに変化するってこと」を、「結構な究極表現」してますねん!

 

それが、「証明としての究極の悟り(阿耨多羅三藐三菩提=無上の法楽・真楽)」を得て、「法身」になるってことなんですけど。。

 

もうちょっと《修飾》して「究竟法身」を得るっていう、「究竟」ってのは「とどのつまり《畢竟とイコール》」ってことですから、これ以上行きようがない「《最高》の法楽(悟り)ですねん」っていうてはるんです。

 

せやから、「異の如来も、異の法身もないし」、

「そもそも全ての如来は、《阿弥陀如来だろうが無碍光如来だろうがなんだろうが》実はみんな《法身》です。」って、「一即一切」をいうてはりますねん!

 

ほんで、「一乗のとどのつまり」は「無辺不断」ですって、空間も時間も「超えてる」んです!

っていうてて、「実は現生の今もホンマはそうですねんで」って、「生命体や存在のあり方はホンマはぜ〜んぶ法身ですねん」っていうて、

「一の法身は一切が法身ってことですねん」ってことをいうてますねん!

 

せやから「称名一行五念門五果門」を生きるってことは、

「そういう風に、自己と存在の全部が《無辺不断》の《法身》がホンマやねん」って、

「自己や存在のあり方を認識して生きること」が「スムーズ」に「真楽・法楽」になる「方法」でっせ!

っていうてて、

「声聞、縁覚」っていう「二乗」と「plus菩薩の三乗」は、この「一乗」に誘導する教えですねん。。

 

だから、「一乗」は、「第一義乗(だいいちぎじょう)」やっていうてます。

「第一義」ってのは、「何よりも優先順位のファーストにすべきこと」「本意にすべきこと」「根本」ってことですねん。

 

って、ここまでは「真実側面」でいうてて、

せやけどこういうことが難しい内容やし「阿弥陀如来の誓願」を「本義にした《誓願一仏乗》」を説いてはるんです。」って「方便側面があるんです」っていうてはるんです。

 

85】で「真実側面」に戻って。。

「涅槃経」で、「仏道を生きる()男子さん」に向かって、「実諦(じったい)」つまり「実相無相の真実のあり方」を「大乗っていいます」「大乗じゃなかったら実諦やないです」「実諦は仏説で、魔説じゃないですねん」って、

 

「すべての存在は《無常無我空》で《一即一切》っていう存在やから。。」

「涅槃の徳の《一道清浄》」ってことで、「二つということはないんでっせ」っていうてて、

 

なんで「一即一切」が清浄かっていうたら、「そこには煩悩も虚妄分別もないから」ですねん!

 

☆☆☆「無辺不断」って結構【重要】で。。

「時空ともに一道清浄原則」ですねんから。。

 

これを「念仏一つでお浄土にいける」ってな言い方をして、「念仏の一つをいうてる」っていうて、

「念仏はひとつ」やけど「あり方は彼此れの二つ」っていうのんやったら、これは「方便側面ですねん」(86)って言い切らへんかったら。。

 「現生と当来(とうらい=来世)」っていう「二つ」という状態を認めることになるので、「魔説」になりますねん。

 

☆☆☆「状態や場や時間」すべてが「一(イチ)即全部」ですねん。

これを「無辺不断」っていうて、涅槃経からも「一道清浄」っていうてはるんでっせ。。

 

教行証文類に一貫してる「一と一切」以外を「存在をあらわす数字として認めない」っていう、

「大原則」に背きますねん。

そういう意味でも「二乗、三乗」はない!っていうてはるんです。

 

そういうことを前提にしてるから、【86】に「一実に信順する」ってあって、

(法蔵)菩薩なり五念門(称名の一行)を行ずる菩薩」は、

「一切(衆生)を一道に誘導するのに、《諸仏、菩薩、衆生》の三つをあえて分けて、一実っていう《不逆》(真理にそむかない)に信順させますねん」って、

「方便側面で三つにして、一に誘導しますねん」って書いてます。

 

おんなじように、【87】には、「世間と出世間のとどのつまり」に向けて、「荘厳っていうとどのつまり」と「究竟っていうとどのつまり」があって、

「荘厳畢竟(しょうごんひっきょう)」は《大乗仏教の行=六波羅蜜》っていう未完成で雑多な内容を行にしてるけど「究竟畢竟」はこの「一乗」ですねん。

 

ほんでこの「一乗」は「仏性」やし「一切衆生悉有仏性」って「一即一切」ですねん。

裏返したら「一切衆生には一乗がある」ってことですねん。。

っていうてて、「一多包容」をいうてはります。

 

ただ、私らは「無明」やし、それが見えへんから「煩悩で自他虚妄分別(じたこもうふんべつ)」して苦しんでますねんでっていうことをいうてはるんです!

これが、【88】【89】でいうてはることで、【89】の「一切の無碍人、一道より生死(煩悩虚妄分別)を出る」ってことですねん

 

こういった「一乗真実側面」を【90】からは、

「海」の解釈で「方便側面」から書いてはりますねん。。

 

91】の「煩悩の氷が解けて、功徳の水になる」ってとこが「重要」ですわ。。

 

どっちもほぼ”H2O”ですねん!(ほぼってのは厳密にいうと混ざりもんがあるし「純」やないのが、実際の現実の「水」ですし。。)

同じだけど状態が変化してるってことです!

 

そして「氷」やと「個別感」がありますねんけど、「水」やったら混じり合って「一」になりますやろ!

 

そんでまたここに「願海は屍骸を宿さへん」ってのは「実存はない実相は無相」ってことを言うてます。

 けど、「人天の善の行為は《良く見られたいとか人生が良くなるように》とかいう《自我行為》なので、《雑毒、雑心の屍骸》(自我)を宿しまんねん」

って書いてますねん!

 

92】からは引用で「海」の方便について解釈してはります。

 

95】【96】でいうてはるのんは、

「こういうことですし私は《菩薩頓教》と《一乗海》がすべてやっていうてますねん」

阿弥陀如来の「誓願一仏乗」は「三乗を速攻で悟りに向かわす《頓教(とんぎょう)》」ですさかいに、

「観経や阿弥陀経」が「方便ストーリー経」であっても、速攻に悟って《法楽・真楽》になれる《頓教》で、

「菩薩蔵(法蔵)」ってのはこれでっせ!

っていうて、まとめてはります

 

 

 

2019/01/123−23]【改訂】

 

199ページの【98】【99】。。

ここで、「教え」と「その対象者()」について、対論してます。

ここまで書かなあかんか?ってほど徹底してはります。。

 

「教え」は、「円融満足、極速無碍、絶対不二」って、《真実側面)で終わっていて、

「機」も「信疑対」に始まって、なんやかんや書いてて、「金剛の信心は絶対不二の機」

って、「絶対不二の機」って《真実側面》で書いてます。

 

100】に「敬って一切の往生人等にいいますけど。。」っていう感じで、《方便》で書いてて、

100】の5行目に「妙蓮華」ってありますのは「妙好人」ってことやなく、文字通り「法華経」のことやとしたら、「法華経」やと(以下)

 

ーーー

 

「法華経に説かれていることは、自分《一(イチ)》の身体や心理も含めた、この宇宙の現在過去未来の全て《一切》」っていいますねんけど

この経は、「ただ単に、人が成仏するための方法」を説いた方便の経やなくて、、

一切衆生()は「初めから全て仏(一切)やしそもそも凡夫は無い」、っていう「一仏乗の真理が説かれた経」ってことで、親鸞さんのいうてることと同じですねん!

ほんで、、「この真理を法華経で知る」ことが即ち成仏法だってことですねんから、

 法華経に書かれていることを「実践」すれば、誰でも真楽になれるって。。

同じ仏教のお経でも、経を唱えるだけで御利益があるとするものは数多あるが、法華経は違うっていわれてて、

「唱題しながら法華経を学んで、教えを行じること」が求められる。(微妙にWiki由来)

 

ーーー

 

って、「称名とおんなじ構造ですねん!!」

これを【100】の「妙蓮華」解釈したらおんなじことですねん!

 

つまり、「称名も《行じるは学ぶこと》になる」んですねん。

「称名して大経の《真実を学ぶ》ってことで、《四十八願》を中心に真実を学ぶ」ってことです。。

 

だから《仏願荘厳功徳を学ばへんかったら》意味がないんです

 

「法華経する人はけっこう《修行》が重要」やってされてて、

「法華経をいきる人は、信者とは言わず行者と呼ばれてますねんけど、真宗も同じですやんか!」

 

「念仏の行者」ですねん。。けど《行者》がいかに少ないか。。」

「名号の《信者》は多くて、なにもしーひんけど。。」

 

さて、戻って。。

 

ここには色々書いてますけど、まぁ「往生っていう方便にある《真実と方便》を交えながら往生に向かいまひょ」ってことが、

101】の手前に、

☆☆「福智蔵を円満し、【方便蔵】を開顕せしむ」ってあって、

☆☆「《方便の蔵》から方便を出してきますね」っていう感じで。。

 

 101】の「正信念仏偈」に入っていきますねん

 

【正信念仏偈】については、以前に書いてますし、今回は省きます。。

 

  

ーーーーーさてさて、いよいよ「信文類」に戻ります。。

 

 

30/12/013–1]に書いたものをもう少し読み込んでやさしくします!

《ここがエライことになってました

 

209ページに、信文類の「序」があります。

この「序」のはじめにいきなり「信楽(しんぎょう)」ってでてきます!

 

これがけっきょく《三心の一心》の「疑いがなくなる一心」になるんですけど

 やっぱ「一(イチ)」に持っていきますねんねぇ。。《華厳原則》

 

結論は、、この第十八願に出てくる「信楽」と、浄土論の「世尊我一心」の「一心」を同じであるっていうてはります。

 

☆☆☆  けど。。けど。。「この《序文》に大問題が書かれていることがわかりました

 

この「信楽」を獲得するのは、「如来選択の願心より発起する」って。。

 

ここでも「阿弥陀如来」っていう「具体的な名字」は書かずに、

如来すべて前提で、「《如来》選択の願心より発起す」とあって、「阿弥陀如来とも無碍光如来」ともいえるように記述されてるけど、

 

「選択の願心?」ってことは、

 

とりあえず「阿弥陀如来?」

そのうえ「なんにせよ。。」

 

☆☆☆

 「信文類すべて【方便確定】ってこと?」

☆☆☆

 

「如来全般」または「わたしたちを真如に導く《すべてを功徳荘厳の如来》」っていうてはる。

 

そのうえ、「大聖(釈尊)矜哀の「善巧」より顕彰せり」って、もしや。。

 

行文類の終わりの【100】には「方便蔵から引っ張り出してきた」ってあったし。。

 

ここに「明確に」《善巧方便(ぜんぎょうほうべん)》っていうてはる((((;゚Д)))))))

 

ほんでもって、その「善巧方便」が「釈尊の矜哀(こうあい)」って、「あわれみから出てる」って「かなりな感情表現で」いうてるぐらいですねんから、もうもう【確定方便】ですわ

 

つまり、「色もない形もないことばも絶えた実相真如法性」っていう《真実心(真心)を開闡(ひろくひらく)》ってことが意味してるんは。。

 

いうたら真実心に導く《方便》が「如来」やってことで、

それが、「あわれみの善巧方便」から「顕彰される」って。。

 

「まるっぽ方便確定ですやん」∑(Д)(ビックリ)

 

ほんで「なんでやねん!!」って突っ込むと。。

 

☆☆☆

「末代の道俗。。自性唯心に沈んで浄土の真証を貶めてる」って。。

「定散の自心に迷って《金剛の真信》に昏い(夜になってくらい)

☆☆☆

 

からですねん。。って書いてある(*_*)

 

ここも重要ポイントですやんか。。

 

「月(マジの楽)を指す指(ことば)」の「指」を見てるばっかやなくて、

《指にこだわってるうちに、指を間違って受け取ってる》ってことですやん。。

 

「指の形だの爪の色がええとかあかんとか、いう以前にこれは《わしの指や》って《自我》にこだわって《名号を受け取るときに自我心になってまっせ》」ってことですやん!!

 

教行証文類には、「真実と方便が入り混じってる」って書いてきたけど、

「信文類」は、ほぼ【確定方便】なんやぁ(Д`)

 

そやし、その見分けがつかへん人が「教行証文類」を語ると。。

「仏の世界(真如法性)などはわからなくてもいい」とかって、「真のさとりを貶めて」(おとしめて)

テキトーなことをいうて、結果「自性唯心」に沈んでまいますから、「方便で書きます」的なことをいうてはります!

 

そういう《テキトーな受け取りかたや自我で受け取ったらアカン》ってことを「トータル」いうてはるぅぅぅ。。Σ(')

 

まぁ「実際そういう布教が多い」んちゃいまっかぁぁ。。

 

【自性唯心】っていうんは。。

 

親鸞はここの信文類の序に、阿弥陀如来や浄土は「自性唯心やない」って言い切ってますねん。

 

これは、よく「阿弥陀さまはわたしの心にいらっしゃいます」などといいますねんけど、

「そういうことやないねんけどなぁ」ってことです!

こうなると、《自我がメイン》で、そこに阿弥陀さんがいるって「自分にとって都合のいい阿弥陀さま」ってことになります。

 

これでは、「仏教と相応」しいひんのんです。。

 

また、「指方立相(しほうりっそう)」だから「西方」にいはんねんっていうと、かなりステージの低い方便になりますねんけど、

 

むかしの「文字も読み書きできない」「抽象概念」のわからない時代の人への「方便」てことでは、ベストですねんけど。。

 

現代で「西方」というとスペース(空間)の問題になってしもて、「西方」が示す《意味》がポイントなのに、「勘違い議論」をされてまいます!

  

地球は丸く自転しつつ、太陽の周りを公転しているっていう時代に「西方」っていうたら、

わざわざ「方便の解説」しなあかん時代ですねん。

 

それも「太陽が沈む方向やとか、東方のオリエンタル(俗世)やないんです」とか、

「須弥山説を持ち出すか」まぁいずれにせよ。。

けっこうテキトーな「ふ〜ん」っていうぐらいの「理解しかしてもらえへんような説明」じゃなくて。。

 

そもそも「西方」も「他方即一」の「西方」っていう「一即多次元」解釈しやな、

「法界縁起原則」が崩れますねん!

 

むかしの日本家屋は、ひとつの部屋に「ちゃぶ台」を置けば「ダイニング」になり、

「布団 」をひけは「寝室」になり、何も置かなければ「リビング」になるというような「次元のことですねんし、西方は「空間(スペース)」のことやないんですって。。

 

「重重無尽の多次元なありよう(華厳)」が「浄土や阿弥陀如来」ですねんから、

 

現代家屋のように、ここはダイニング、ここは寝室、ここはリビングという「スペースの問題ではなくって《次元のことですねん》って、言わなあきません!

 

同じ時空に何を見るかということですねん!

 

せやから、「なんで西か?」ってなことは「帰着点(本来ある滅度に至る)」っていう意味でっしゃろ。。

ややこいけど、「そういう意味では太陽の動きが《真っ暗な()→無常無我空》へ誘うってこと」かもしれまへん。。(夜の解釈が変わりますし、Aオリジナル解釈ですねんけど)

とにかく「他方即一」の「西」でおます!

 

けど「そもそも方便」ですねんし、この「西方」って部分は、現代人にとっては「ふ〜ん」って感じでええって思いますねん。

 

そんなことより、「如来の方便によって《現実の中に》多次元に【功徳荘厳】が観えてくる」って方が重要ですわ!

例えば。。

先日「うちのワンチャンが吠えているのを見て、わたしが怒ってる時ってあんな感じなんかなぁ」って知らされましてん!

 

っていうふうに「仏智の見」で世の中が観えるようになるってことですねん。

この時点で「ワンチャン」が「如来」になりますねん!

 

今わたしがいるところが「浄土やって《智見》する」 or 「牢獄(地獄)ですわって《自我》を張ってみる」のんかっていうのんは、生きているうえで「法楽や真楽を得るか得ないか」っていう大きな違いになりますねん!

 

つまり、同じ時空に「重重無尽のありようが見える」って状態に「私が破我」されるから、

【浄土教は仏教と相応する】んですねん!

 

「無常、無我、空」といった「真如」「法界縁起」が見えるようになる「智見」を生きるわたしに《転換されて》、わたしそのものが「空性」だったと「自利」しまんねん。

ほんで、おんなじように「智見」できる人を増やすってことが「利他」ってことになりまんねん!

 

たとえばよくこんなんいわはりますけど。。

《方便に埋没して》「(外に) 阿弥陀(さま)を見て」。。

「阿弥陀さまがわたしをお浄土に救ってくださって、永遠のいのちがもらえるから、またお浄土で会いましょう」なんていいますけど、これも「自性唯心」ですわ。。

仏教やおへん。。

 

なんでって、こういう《自己都合》を【俗世の持ち越し】っていいまんねん!

こんなんは、「仏教と相応しまへんねん」。。

実際、教行証文類でいうてんのんは、外に見るかうちに見るかという問題やおへん。。

 

☆☆☆テーマは「自我」で見るか「仏智」で見るかということですねん☆☆☆

 

「行文類」に「信心の業識」とあるように、「内(うち)に着床」しなければ無意味ですねん。

「仏智で現実に真実を見られまへん」。。。

 

なぜなら、自我でみる「阿弥陀さまやお浄土」ってのは、

「阿弥陀如来や浄土」に《自我による願望を投影しているだけ》になってますねん。。

 

結局「自己満足」っていう、自我が作った「自性唯心」の「阿弥陀さま、お浄土」になってまいます。

 

同じ時空に多次元な様相が見えてきて「破我される」のが、「信心」による「さとりへの歩み」ですねんから。。

 

浄土の荘厳に「鳥」が「五根五力七菩提分ハ聖道分(仏教の基本)」を奏でてて、「広く仏法が奏でられていて、それを聞いた人」は「念仏、念法、念僧」しますって書いてて、

この鳥は「如来の変化身」ですっていう風に書いてあるように《現実が見れるよう》になることですねんわ!

「阿弥陀経」にもこんな風に《功徳荘厳》が書いてありますねんから。。

 

こうやって「阿弥陀如来にわが名字が破我されて、南无阿弥陀仏の名字で生きるようになる」

「称讃の【讃嘆門】(五念門五果門)に生きる」ようになると「仏智の多次元人生」に転換されますねんってことが「真実」で、

 

このターニングポイントが「信心」やってことです

 

また、「自性唯心」は「唯識」のことやないんです!

唯識でいう本源は「自心」ではなく、「阿頼耶識」だからなんです。

つまり唯識も、破我されていくことを論じているからなんです。

 

現代は「指方立相」まで落とし込んだ「方便」は逆にジャマになりますねんわ

 

☆☆☆

「無碍光如来」の光明によって「重重無尽の多次元なありようが見える」ようになると世の中が違って見えるから「妙楽」「極限の楽」が得られる。

☆☆☆

  

っていう、教行証文類に書かれている《真実の内容》のほうが、逆にわかりやすいし、納得できる時代ちゃいまっか?

 

とにかく、《自性唯心》ってのは、自我によって「自分に都合のいい阿弥陀さまやお浄土」を「気持ちの中(自我)に」作ることです。

 

☆☆☆

本来の「仏教と相応する浄土教」は「破我する無碍光如来」から「智見」を得るというものですねん。

☆☆☆

 

そのターニングポイントが信心やってことを「信文類」はいうてますねん。

 

☆☆☆

 あくまでも「信文類」でいいたいのは、「世尊我《一心》」という「尽十方無碍光如来に帰命」する《一心》によって、「往還の二回向(五念門五果門の自利利他)に生きることになる」っていうポイントですねん。

☆☆☆

 

親鸞はなぜそうなるのかというポイントについて、

この《一心》を【三経】にあてはめて解釈してはるんです。

 

例えば、大経の「本願(第十八願)」の「至心信楽欲生我国」について、

《至心(真実心)》を《無疑》の《一心》=《信楽》で受け入れて《欲生我国》になっていくっていう流れで、

 

観経の三心や阿弥陀経の一心方面からも《三心と一心》の関係について解説されてます!

この「至心」があらわしてるんが「無常無我空、法界縁起」ってことですねん!

 

この信文類の内容は、この《一心》ってのは、天親さんがテキトーにいうてるんやのうて、

この《一心》っていうのんは、わたしが「無碍光如来に名字を変えることで《真如化(如去・如来)→往相還相(自利利他)する身になる》ってことをいうてはりますねん。

 

裏返していうたら。。

 

こういう本来「無常無我空」やのに「私」っていうてる《自我存在》は、本来「法界縁起」ですし、「無碍光如来に《一心に帰命する》ことで、《無常無我空》を生きる「法楽、真楽」になれますねんって論証してますねん。

 

こういうことを「教行証文類」でいうてはるっていうことは、

「親鸞さんの時代にも自分にとって都合のいい浄土の理解をしている人がふえていた」ってことですやろ。。

 

このように、「仏教と相応しない浄土のあり方を信じている人がいることへの警告」っていうてもいいかもです。

 

「阿弥陀さまのお名号にお任せしていれば、何もしなくても、考えなくても自然とお浄土に生まれさせていただけて、また会える世界があるんだよ」

(会えると遇えるとこだわる必要もないほど根本からミスっています。)なんて、

 

おとぎ話かスピリチュアルかよくわからないものに貶め(おとしめ)ているんです。

 

「定散(じょうさん)の自心」というのも、《定(観想)や散(善行)》も、

「わたしが救われたい」っていう「自我」からの行ないだから、「迷ひて」(まよいて)って書いてます。

 

「金剛の真信」が「金剛」なのは「自我」がだんだんと「滅せられる」ことをいうてて、そもそも「迷う主体がなくなること」になるってことです。

 

そこで、「親鸞は諸仏如来の真説」って定義したら《無常無我空》《華厳原則》しかおへんし、

これに「信順して」って書いてあって。。

 

ここに「論家、釈家」を脚注では、「ひっくるめて七高僧や」って書いてますねん

けど、「龍樹、天親、曇鸞(論家)」がいっていることを、「道綽や善導などの解釈(釈家)」で「宗義を開きますねん」って理解する方が、内容に符合して、より鮮明になりますねん。

 

ほんで、「三経の光沢」をこうむって。。

って、「一心にあらわされている《華厳原則》がわかるように、三部経があって、その光明を蒙って、一心の華文を開きますねん」って書いてはるんやっていえますねん。。

 

こうやって、「尽十方無碍光如来への帰命の一心」に内在する「難しい《華厳》の文を開く」と読んだら、「行文類」から論が一貫します。

せやし(かもん)って読まずに(けもん)って読む方があってますねんねぇ。。

 

ほんで、「難しい疑問を明らかにします(明証を出す)」っていうことになりますねん。。

 

そしてこの信文類の内容は、

それこそ「如来の善巧方便がわからないひと」からすれば「なにをいってるんだ」「人倫と違うじゃないか」といったことをいわれるやろうけど。。

 

恥じる必要もなければ、「言い方をかえたりして理解を求めるにしても、決して謗るようなことにならないように注意してください」って書いてますけど、

 

まぁ「方便」らしく、「仏恩の深重なる」とか「浄侯をねがう徒衆」とか「穢域を厭う庶類」って、《感情表現》の豊富なことには「さすが」って思いますわ!

 

まぁ実際、仏教には「一般的な道徳に合わない」内容も多いんで。。

例えば。。

本来の「布施行」でも、あげた人は「あげたと思うべからず」、もらった人は「もらったと思うべからず」、そのAからBに移動したものの「良し悪しをいうべからず」っていう「三輪清浄(さんりんしょうじょう)→空、無我」が基本ですから。。

 

「いただいたら感謝しましょう」なんていう世界ではありません。

 

だから、釈尊は「チュンダからの施し」を受けて「私に施されたのだから私が食べたら、土に埋めなさい」っていうて、「ほぼ《毒キノコ》だとわかっていながら食べたんです」

ご存知のようにこれで釈尊は亡くなったんですねん。

いうたら、「自殺行為」ですやん。。

 

とにかく仏教は「時として非道徳的」な部分がありますねん。。

 

「無常なものごとにとらわれて、懸命に守ることすらナンセンス」だっていうのが「法楽、真楽です」っていうのんが、基本の教えですねんから、「無我だから名字を入れ換えよ」といってみたり、「世間の常識や道徳ではわからない内容」が多いんですねん。。

 

この「無碍光如来に帰依する一心」で「浄土荘厳功徳を観察して生きる」なんていうことも、《やりもしないで》に「難しいなぁ」なんていう人も多いんですけど、

 

「現実の中に、《真実を智慧で観て》楽になる方法」ですねんから、「実践して」みてくださいませ

 

とにかくいろいろいう人があるけれど、「浄邦を欣ふ徒衆〜」は「謗りを生まないように注意して、この道を進みましょう」っていうてはるんです。

 

こんなふうに「信文類」が《確定方便》やから。。

信文類の標挙(ひょうこ)には、「至心信楽の願」って「《至心(真実心)》を疑わず受け入れて功徳荘厳を願う《信楽》(の願)」って書いてあって、その内容は「正定聚の機」をあらわすって書いてはるんでっしゃろ。。

 

これを「真実側面」で書くなら「無碍光如来」「一心の機」って書くといい感じなんですけど。。

これやと「まるまる真実」になってしもて、そもそもの「本願」が消えてまいますから、あかんのんでしょう。

 

本願で「真実側面」を書くんなら「諸仏称名の願」「至心信楽の機」って感じでしょうかねぇ。。

 

こんな「掟破りな解説」みなさんからしたら「えーかげんにせー」って感じでしょうけど。。

そもそも親鸞さんがいうてる「真実の解明」をしてますねんし、親鸞さんからしたら「問題ない」っていうてもらえるかも。。

って思って「結構ど真剣」に「言いにくいことをはっきり」書いてますねん

 

 

 

再確認💫

 

真宗は難しくない。

真宗の教えを極論単純化すると、「阿弥陀如来」を完全に受け入れると、

私の煩悩がどんどん見えます。だから見えたら見えただけ、

その反対方向へのベクトルに進めばいい。

 

そのように煩悩があってこそさとりの方向がわかる。

煩悩がさとりへのナビゲーションをしてくれます。

如来の願いを私の願いに置き換えれば、その願いがナビになります。

「名字を阿弥陀仏の名字に入れ換えて、《名()→(利他)に進む。」

 

「願い」は方向と着地点です。《法楽・真楽です》

 

「如来の行ずることを行ずる」ことは、「願いっていう方向への意識改革と推進力」です。

「願行」でベクトル(力と方向)になるんです。具体的には五念門行を生きるってこと!

「五念門行」

礼拝(如来を受け入れ自分の煩悩に慚愧して自我をさとりに投げる)

讃嘆(如来の教えに生きる素晴らしさを伝える又は称名する)

作願(如来の願いを自己の願いに置き換える)

観察(さとりを見るかのように現実の捉え方を多次元に変える)

回向発願(そしてそのように方向転換して進む)

 

このなかでも、《讃嘆》(称名)が「利他」を促すのでポイントになるんです。

そういう生きかたで「讃嘆っていう(自利利他の)インフォメーション(案内誘導)」をするんですねん。

 

ーーー

 

月を指す指

教行証文類を読んでいると、各所に「阿弥陀如来」の根拠になっている「真如」「法性」「無為涅槃」などのさとりを指す言葉がいっぱい出てきます。

「六字釈」っていう、実際親鸞では「南無」の二字釈の前にも、「真如の門に転入する」ための方法(方便)は阿弥陀の号(号は利他側面)ですねんって書かれてます。

 

ここでの引用では、阿弥陀の号を「利剣(りけん)」って書いてますけど、

これは、仏語。煩悩(ぼんのう)や邪悪なものを打ち破る仏法智慧のことってことで「手段」を意味しています。

つまり「方便」ってことですねん。

ほんで、その引用の最後の部分に「種々の《思量巧方便》をもって、選びて阿弥陀の弘誓の門を得しめ」って書いてて、「善巧方便(ぜんぎょうほうべん)」やっていうてます。。

 

つまり「阿弥陀仏」は方便(梵語で「近づく」の意味)の一つやって書いてるんです。

「阿弥陀仏の教え」はわたしたちに最も適した教えで、このアイディア(発明)は「釈迦の恩」ですって書いてます。

414ページの912行目に、「月を指す指ばかり見ていては根本がわからなくなる」って書いてます。

あくまでも「阿弥陀如来」は「指」でしかないってことですねん!

教行証文類は、どこを見ても、こんな風に誘導しています。

 

「信文類」はこの阿弥陀ストーリーを「方便側面」で多用しているし、ややこしいになりますねん!

そして、これを「真実側面」の「俗諦」であらわしてる部分が「証文類と真仏土文類」なんです。

 

この「さとりの智慧」で生きていくことが「真楽」になるキーですねん。

 

ーーー

 

阿弥陀如来

阿弥陀如来ってのは、「言葉の上だけで」《存在》してるんです。。

これを、真俗二諦っていうて(しんぞくにたい)、「色もなく形もなく言葉も絶えた(親鸞さんがつこうてる表現)」法則性の世界を「真諦(しんたい)」っていうて、

それを教える「コトバによる智慧の教え」を「俗諦」っていうてます。

 

この「教え」(俗諦と方便)に書かれてることが「真理あるいは真如」を伝えてくれますねん。

つまり阿弥陀如来は、本来法則性(無常無我空っていう法性)なので、実体はないんです!

コトバ上の存在ですねん!

そしてその「俗諦」を「ストーリー(物語り)」にして、そのストーリーに乗っかれば、「法楽・真楽」っていう「さとり」に向かえる「方便」が「阿弥陀如来」っていうコトバ上の存在ですねん!

 

せやから、現代のように「ほとんどの人が現代教育」を受けている時代やと、

例えば「阿弥陀如来」の「仏像」は「趣味か、美術か、偶像崇拝者」って思ってる以外のひとにしたら「ただの木の像」でしかないし、

「阿弥陀さま」。。「なにそれ」って感じで、「以上終わり」って思われてしまいますねん!

 

けど、「阿弥陀如来の教え(ストーリー)」には、わたしを《真理真如》に誘導してくれる「チカラ」がありますねん。。

「阿弥陀如来っていう言葉」に込められてる「真理・真如」《真》が結果「証明」されて《実(みのる)》ことを「如来の真実心」によって「証る(さとる)」っていう「文字」で表現されてますねん!

 

阿弥陀如来の教えに従えたら、煩悩のわたしが突き崩されて、阿弥陀如来っていう世界観(荘厳功徳)が生まれて、「真楽、法楽」への道を歩いて行くことになれますねん!

 

つまり阿弥陀如来に「自我」が破られて、「無常無我ないしは空性」に目覚めていって、さとりに至る道の中で「マジ楽」になっていきますねん。

 

こんな感じの「阿弥陀如来」の「方便側面」を信文類は書いてるんです。

 

天親の浄土論、そしてその内容を註釈された曇鸞の浄土論註には、菩薩の5つの行があって、(五念門)「親鸞さん」はこれを重視されてます!

けど、天親さんの「浄土論」や曇鸞さんの「論註」は、どちらかというと「方便」じゃなくて「俗諦」寄りですねん!

 

繰り返しますねんけど、その「浄土論、論註」のなかの「五念門五果門」は、「俗諦」ですねんけど、

 

☆☆☆【重要】🔻☆☆☆

親鸞さんはこれを「方便」にも持ってきて、《法蔵菩薩が行じた》重要な「行」に定義されてます!

特に「利他」につながる「讃嘆門の称名讃嘆」を「往相回向の名字の入れ換え」として重要視して、「五果門」の「薗林遊戯地門」も「還相回向の利他」として重視してはります!

もともと「俗諦論」だった「浄土論や論註」は、「願行が明確になっている法蔵菩薩と四十八願や荘厳功徳」を「無常無我空、唯識など」を根拠にして論じて、「無常無我空などのさとりを生きる行」として「五念門行」を論じている「浄土論や論註」を、親鸞さんは「阿弥陀ストーリー」(方便)の根拠として転用してるっていえます。

だから、現代人が教行証文類を読むとややこいんですねん

☆☆☆(重要)🔺☆☆☆

 

 とりま、繰り返しますけど「五念門行」をさらに現代的に書いときます。

 

礼拝というのは、わたしをわたしから投げ出すことです。

讃嘆というのは、わたしがさとりに生きていることを「告知、広告、宣伝」することです。

(極端に現代的な表現ですが、事実わたしを通して教えが広まることです。)

作願というのは、わたしが阿弥陀如来の四十八願を受け取って、わたしの願いに置き換えることです。

観察というのは、わたしがさとりに生きる中で、私と周囲は法性やって見えてくることです。

廻向発願というのは、わたしがさとりに向かっていのちの方向転換をして進んで行くことです。

 

これを五念門行(ごねんもんぎょう)っていいます。

 

この歩みの中で、わたしのいのちのもともとが「法性」やったって気づいて、

「わたしの脳の処理の仕方が変化して」わたしが「わたしならぬわたし」を生きていくようになれますねん。

 

よく「真宗のお西」で、「人間は無仏性」やし「阿弥陀如来っていう《仏性が遍満》してる」っていうんですけど、「仏教原則でいうたら」わたしという存在以外を離れて、別ものとして仏性ってのはありえまへん。

全てが仏性やってことを、

大経(大阿弥陀経や如来会)に「虫も成仏する」って書いてて、

唯信鈔文類(本願寺の出版による註釈版には異本が載っていますので、脚注をみてください)には、「草木国土ことごとく成仏すといえり」って書いてます。

(わたしたちが学んだ時代の聖典には、草木国土も。。という方が載っているもので学びましたけど、註釈版には異本が使われているというところに、とある学派の意図を感じますねんけど、これは私見でしかありまへん。)

 

いずれにせよ、コトバとしての存在である阿弥陀如来がこのようにしてくれるってことです。

だから、親鸞さんは「南无阿弥陀仏か帰命尽十方無碍光如来」っていう「コトバ(文字)」を本尊にしてて、蓮如さんも「木造より絵像、絵像より名号」を本尊とすべきやって教えてます。

わたしが僧侶になったころは、このことを先生たちは、常におはなしされていましたが、

「親鸞会」っていう新宗教団体がこのことを強く主張するようになってから、本願寺ではほとんど誰も言わなくなりましてん。。

 ほな、「なんで本願寺は木像なのか」と思われる方もいはりますわなぁ。。

それは「受け継がれた伝統」やってこと以外に適切な表現が見つかりまへん。

 ーーーーーーー

ここに改めて書いたのんは、教行証文類では「真実と方便」「月と指」が明確になってて、「混在する理由」を再確認していただくためですねん。。

そこで、この根拠をまず理解していただくために、いったん「証文類」に飛びます!

ーーーーーーー

 

 

 

2019/01/134−1(3−24)

 

信文類は、とりあえず【確定方便】として、順序を逆にすることで「内容がいっそう明確化」するんで、

 

ここからまず先に「証文類」に移ります!

 

証文類の標挙(ひょうこ)には、

「必至滅度の願」ってあって、「さとりそのものをあらわす願名(第十一願名)」を挙げてて、

「難思議往生」ってあるんですが、この「難思議」はまずは置いといて。。

 

んん?「往生」って。。

そもそも「無生」やって書いてたのに、なんでまたこの「証」(さとり)を明らかにする「証文類」に「わざわざ(往生》を引っ張りだしてくるねん」って疑問になります!

 「そもそも仏教のさとりは《無生》なのに《往生》って表現する理由」

は《行文類》にあって、そこでいうてはるんが、「行じるひとに因果が成立することを方便で書いたのんが《往生》ってことですねん」ってあるのに。。

ーーーーー

「行文類」30/11/032−4157ページの中ほどに、

 「問うていわく」ってあって、

仏教経典のさまざまなところに「衆生畢竟無生(しゅじょうひっきょうむしょう)にして虚空のごとし」っていう、

根本仏教も中観派も、その他すべて仏教は「無常、無我、空、真如無分別」を説いているって書いてんのに、

「生まれるという表現はおかしんやないですか?」っていう問いがありますねん。

 

この答えに、「衆生畢竟無生にして虚空(こくう)のごとし」って、(とどのつまりは無常無我空で生まれるとか死ぬということはないって)書いてて、理由は「2通りある」って書いてますねん。

 

1つ目に凡夫(この場合は人間すべて)が、「衆生(人間)をマジ存在」って思ってて《生とか死がある》って錯覚しているっていうポイントからの《生まれる》ということですねんって書いてて。。

これは「亀に藻がついているのを亀毛(亀に毛が生まれてきた)」って言うてるような、ミス思考(誤認識)だってこと。。

 人間は、「所有(しょう)(あらゆること)は、なきこと」つまり「全てはないことを有るっていう間違った見方」してますねんって書いてて、

そやし、このような「有る」っていう見方は「亀毛のようであり、虚空のようなもの」ですねんし。。

ここでいう「願生」の「往生」は、「凡夫のいう《生まれる》といったことやおまへん」って明言して、

2つ目には、「諸法」は「因縁生」やねんから、「生まれるとか生まれない」ということではなくって、本来は「無生」で、

「あらゆることは《本来は無い》というのは、《虚空と同じ》ですねんけど、

とりあえず《因縁生ですねん》」って、天親さんは「凡夫(人間)のものの見方に合わせて」「往生」って書いてますねんわ。。

そやから、天親菩薩の「願生」っていうんは、「因縁生」の意味でいわれてて、仮(かり)に「生まれる」っていうてるだけですねん。

せやし、一つ目の凡夫(人間)がいう「生まれる」とは違うから「そこは間違えんといてね」って書いてますねん。

☆☆☆

ここで「天親さんは《真実側面》の人」ですし、天親さんの「願生や往生」ってのんは、

《人間に対して言語》をつかって表現してるんで、《真如、空、唯識》の言語化(俗諦)ですねん!!

☆☆☆

って書いてますねんけど。。

 そこでつぎの問答で、

「まだよ〜わからへん。」「ほななんで《無生》なことを、わざわざ《因縁生の往生》ってめんどくさいことをいうてるのんか?」

ってツッコミ問答があって、

答えて、

実は「ないねんけど」。。

「仮の《名字》で、《自他は存在してるって誤認識》してる《仮名人(けみょうにん)》」の凡夫(自我人)が、五念門を修行すると、行の「前念と後念で変化するし、そこをいうてまんねん」って理由をいうてはります。

 

つまり煩悩界で「自我があるって誤認識」して生きていた「仮名人」が、「五念門行」で、

即時に浄土を生きる「仮名人」になるっていう因果が一つ(同じ)であるっていうことを明確にするために「往生」っていうてて、

「これって難しい理論のわからへんひとにいうてるんです」って、

論理でいうたら「自我が破我されていく、その生命体(本来空の阿頼耶識)は因果においては同じ流れにある状態変化って」ことって書いてても。。

「現代人は」。。「《往生》っていう方が、余計わからへんわ!!」ってツッコミたくなる「問答」ですねん。

 

まぁ「行」が「一つの流れで相続される(果に向かって移りゆく)こと」をはっきりさせるために、「往生」っていいますねん。ってことなんですけんど。。

こういう「俗諦」に「方便側面表現」が混じると、現代では余計ややこしいことになりますねん。

 

【さてと、ここに「往生現生」のポイントがおます】

ここの「158ページの2行から3行目」に、

「前念と後念と因となる」とあるのんは、脚注にもおますけど、

本来なら「前念は後念のために因となる」と読むべきなのに、どうして親鸞さんは

「前後ともに因」って書いてるんかってことも「大問題」ですねん。

 

ここで、「諸仏の称名を聞く段階の《縁信心》」の「縁」から、

「諸仏の称名を受け入れて、《自我名字》を如来名字に入れ替える《因信心》」になって「自我が破我されていく」「さとりへ向かう心の転換”(信心)(往生)は」。。

「因果同時や!」ってことをいうるって、ほぼ確定推論できますねん。

つまり、

【ここの引用の親鸞の読み方は、《往生》は現世とか来世というものではない「即時」やねん】っていうことをいうてはる、重要ポイントになりますねん。

 

こんな感じの「親鸞の独特な読み方」に込められてる【重要ポイント】を「無視して」さらっと流してたら、重要な内容が抜けて「ありきたりな自性唯心の浄土教」になってしまいますねん。。

そもそも仏教で「往生」っていう言葉は、本来は成り立たへんのんです。

ーーーーー

けど、「往生」って書くのに、「この往生っていう言葉の意味は、《難思》な内容()ですけど。。」って理由を説明してはる「難思議往生?」ってどういうこと?

って、ここで「難思議」に戻りまひょ!

 

手っ取り早く《三省堂国語辞典》には、

ふか しぎ 2 【不可思議】

 常識では理解できない思議なこと。また,そのさま。 宇宙の-(イチ)解明する」 -な話」 (イチ)現象 

 〘仏〙 言葉で表したり,心でおしはかったりできないこと。仏の智慧神通力についていう。不思議。の。。って書いてて。。

 

☆☆☆これなら「華厳経」の「一即一切」で一貫します。☆☆☆

 

《またネット》に。。(サクッと流してくださっていいです)

親鸞が「難思義往生」と言われる言葉自体は、元々中国の善導大師による「法事讃」の引用なのですが、善導と同義で解釈したものではありません。

善導の「難思議往生」は、法会を勤修するにあたって弥陀・釈迦・諸仏・聖衆の来迎を請い、穢土を厭い浄土を願って願生の心を表明したものです。


では、親鸞が「三往生」の言葉をどのように転用していったのか。


「三往生」とは
難思議往生
難思往生
双樹林下往生(そうじゅりんげおうじょう)
であり、

の難思議往生は18願「大無量寿経」 の難思往生は20願「阿弥陀経」 の双樹林下往生は19願「観無量寿経」にあてはめて解釈します。

の双樹林下往生は念仏以外の自力諸行を指し、迷妄の諸行往生の果は方便化土にしか往生出来ない事を表し、

の難思往生はのような諸行ではなく念仏であるが、

自力(自我)のままなのでに近いが真実ではないことを知らせるために、あえて「議」の字を省いているのです。

 

 

「議」は《口から言葉を発する》という意味ですが、難思往生に「議」を入れたのではなく、難思議往生から「議」を省いたのです。

 

って言う風に書いてて、ほかの資料では、「けっきょくなぜか?」がわからないので、

とりあえずここでは、以上の2つを引用しましてんけど、

結果《あとのネット情報》の方は、《真宗学》の「既成概念」が入っているので、

ラストの「ポイント」と「三往生ありまっせ」ってことを念頭においてもらおうって思って引用しましてん。。

 

☆☆☆《三省堂国語辞典》の方が「華厳経」で一貫するので適切な解説だといえます☆☆☆

 

つまり、「無常無我空(無生)」や「華厳経原則」を「五念門五果門」でダイレクトに書くと「難思議」な内容になりますし、「往生」っていう方が、「さとり」への「往相、還相」の「阿弥陀ストーリー」でわかりやすいでしょ!!

 

って、「五念門、五果門」の「往相還相(自利利他)」によって「往生の結論」として「真如(妙覚)」になって「一如に合流して」「如来」になりますねん

ってことを『難思議往生』って、標挙してはりますねん!!

 

かえって現代人には「わかりにくいわ!」ってな内容ですねんけど、

 標挙だけでこんだけ書いといたら、あとはスムーズに読めますねん。。

 

 

 

2019/01/164−2]【証文類内容】

 

307ページから証文類の本文です。

さとりを「証」で書くときは、「因が果に現れる」っていう意味を含めているケースです!

1】の《真実側面》で「真実の証」は。。

 

「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」のことですねんって書いてて、それが、

「阿弥陀ストーリーの第十一願」から出て来てますって。。

「論拠」を第十一願の「必至滅度の願」っていうとこにおいて、さらにこの願を。。

 

「大涅槃が証明される願(証大涅槃の願)」って名づけるって書いてて、ここから、

《方便側面》で「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌が往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」って。。

 

煩悩が成就してるって。。「成就」ってのは。。

 

「身に備えている」っていう意味で、「《成就》っていう言葉は本来、智慧と功徳をパーフェクトに備えた状態(have)」をいいますねん。。

I have 智慧&功徳」I am 智慧&功徳」って感じですねん!

 『倶舎論』に、なにかを「獲得(かくとく俗世用語での読み)」するのに、

仏教でいう「獲得(ぎゃくとく)」を使うと「獲は因位、得は果位」で、621ページにも親鸞さんはそう書いてます。

「獲っていう因位」が進んで、維持継続して「得っていう果位」になった状態を「成就」っていうのんで。。「煩悩があなたの中で維持されて進んできたけどそれがボチボチ成就」っていう「煩悩の果位(終わり)」になりますねんで。。

 

「煩悩」が転じられて「往相回向のこころ()と行を獲たら」って「さとりの因位」ってとこに《移動してますねん》でって。。

 

「獲(さとり)の因位」になって「往相回向のスタートに移る」と

速攻で「大乗正定聚」に入りますねんっていうて「正定聚になるから、即の時に必至滅度になるよ!」っていうてはります!!

ここも「現生」でいうてはります!

 

 「即の時」ってのも「即時」って書いたらいいようですねんけど。。

この方が強調されますわなぁ!!

 

ほんでそのうえに「往相回向の《心行》」になってて、「往相回向の《信行》」じゃないんです!!

「心の状態が《行状態》にかわる」ってことです。。

 

「証文類」以降「ほぼ信心は出てこない」んです!

「行はうるさいぐらい出てきますし、やはり「五念門・五果門原則」で語られてます!

 

これは、《行状態》になったら、「滅度」に至りますねんでことで。。

滅度ってのんは「常楽」でっせ

っていうてはります。

この「常楽」っていうのんは、「無常に落ち着けば《無常の常》」っていう「心」になるってことで、

本来的にいうたら「滅度」ってのんは「無常に流れる《楽》ですねん」っていうことになりますねん!

これって、教行証文類の「後序」っていわれるとこ(473ページ)に、「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に《流す》」ってとこでいうてはることとおんなじなんです!

 

けど、こういう「真実側面」は「受け入れがたい人」も多いので、

「涅槃経原則」で「常楽」ですねんって、逆から表現してはるんです。。

 

戻って、「生死罪濁の群萌」ってのは「個人的表現」を「社会的表現」にしてはって、

「煩悩成就の凡夫」の「一(イチ)」と「生死罪濁の群萌」っていう「一切」に「分断」されている状態が、

2】の手前の「真如=一如(いちにょ)」の「果位」状態になるってことを書いてはりますねん!!

 

「煩悩成就の(イチ)」と「群萌(一切)」の《分断(虚妄分別)》で認識していたけど。。

本来「真如一如」だったってことですねん!!

「煩悩成就も生死罪濁」も「分断虚妄分別」だとわかって「真如一如」だったって。。

そやから、「往相回向の心行を得たら」「常楽畢竟寂滅寂滅無上涅槃無為法身実相法性真如一如」って。。

「これでもか」っていうぐらい「真実側面」で「さとり」について書いてはります。

 

これは、結局「私が最終的に真如一如になって」「弥陀如来もこんな風に《如》から《来生》」した「方便」で、「報、応、化」身っていう

「いろんな身を示して、現じて観せてくれてます」ねんでってことをいうてはって、

「私もそうなるんですよ」「如来になって自在に利他をしますねん」でっていうてはるんです!!

 

そやから「名字を入れ替えて、正定聚になった《私っていう生命体》が、《悟り=真如一如》に入って」。。

「阿弥陀如来と同じ」ように「いろんな身になって利他しますねん」ってことです。

だから、「証文類」の後半は「還相回向の利他の菩薩」を論じはるんですねん!

 

結果「私」は「真如」(あるがままの無常の実相無相)になるっていう「結論」です!

これは、「今」から「無相だけど利他のベクトル」を「行じましょう」って、

「讃嘆門」を【7309ページに「国土の名字、仏事をなす」って「浄土論」を引用して書いてはりますし、310ページの冒頭に「衆生を教化せんと願じて」って書いてます。

「往相還相一如(因果同時)」のいのちになるんです!!

っていう、「行じてる今に因果同時に起こること」が書かれてるんです

 

 

 

2019/01/174−3

 

この307ページの「報、応、化」ってのが、実はけっこういい加減にあつかわれるか、

完全方便に埋没するかっていう感じですねん。。

 

仏教学的には、

三身(さんしん、さんじん)っていいますねん。

とりあえず並べてみます。。

 

【法身(ほっしん)】宇宙の真理・真如そのもの、仏性をいうてて、主に毘盧遮那仏のことで。。「華厳前提」解釈が主流でおます。

【報身(ほうじん)】「これって仏性が利他っていう動きをする」っていう「地球が回ってます」的な「抽象解釈」されることがありますけど、

 

☆☆☆

もとは「菩薩が行に報われてブッダ(普通名詞つまり釈迦限定じゃない)になること」でしてん。

こういう、「般若(智慧)からの利他(慈悲)のはたらきをする。。」っていうストーリーがあるのは、「阿弥陀仏」しかおへんし、

「法蔵菩薩が阿弥陀仏になるっていうストーリーで阿弥陀仏定義」がよく使われてて、

 

こういう事情で「浄土論」なんかやと、はっきり「誓願のストーリーがあるから法蔵菩薩・五念門行」って書かれてて、「法蔵菩薩がメイン」やし「法蔵菩薩の行を五念門行」って定義して「無碍光如来」で結果「光明です」って《真実寄り》してますけど。。

 

「善導さん」になると「法蔵菩薩ってどこにいはりますねん」っていうぐらいの勢いで、「阿弥陀仏メイン」になってて、《方便寄り》になってまいます。。

 

せやから「讃嘆(称名)の行者」は「法蔵菩薩メイン」🈁「念仏の行者」は「阿弥陀仏メイン」みたいになってて、《真実寄り》🈁《方便寄り》かどっちにします?

みたいな「論調」が「教行証文類」ですねん。。

 

けど、これは「マジどっち寄りでもゴールは一緒」っていう構造になってますし、

「まさに、教行証文類ひとつ(イチ)で、すべてをおさめとる(一切)になってる」し、

むちゃくちゃ「スゴイ」って珍しく「修飾語」を使いますけど。。

「普通では書けまへん

☆☆☆

 

【応身(おうじん)】は現世で「さとり」を得て、「梵天さんが《説いてください》」っていうたのに「応じた身」ってことで「固有名詞」の釈迦牟尼仏でおます!

 

けど、この三身やったら「証文類」にあいまへん。。

 

《法身(ほっしん)》っていうのんには「色身(しきしん)」だの色んなパターンがありますねんけど、上の3つが基本ですねん。。けど。。

 

 

親鸞さんは、「法身と報身」をイコールにしてはります。。

ほんで。。

【報身】「法身と報身」を「如より来生」ってことで合体させて《真実と方便》の根本を同じにしはります。。

【応身】これは応身でいうてる《釈迦限定》で基本路線でおます。。

【化身】変化身って言い方もしますけど、「真如が凡夫のレベルにあわせて現す、天や竜神や人っていうような仏以外の姿」で「利他る」ことですし、

「すべて仏性原則」でいうたら、「虫も木もなんでもすべて《功徳荘厳・変化身》やって観ること」っていえますねん!!

 

せやし、

「如より来生し、報応化、種々の身を示し現じたまふなり」の部分は、

《行者がどの目線で、世の中を観て進むのか》っていうポイントでもあるし、

「真実寄りでも方便寄りでも、《行者が結果そうなる》ってこと」をいうてるんです!!

 

けっこう「すらっと」

「報身は阿弥陀さんで、応身はお釈迦さんで、化身は変化身ですわ」

って感じで「流してまう」のと、

 

そもそもの「如より来生し」を「きっちり《真如定義》せず」に、「如」を「おさとりの世界でお浄土のことです」とかって、そこは「方便解釈したらあきません」っていう「重要な部分」ですねんけど。。

 

「テキトーにあしらってるなぁ」っていう布教が多い感じがしますねん。。

 

ここは根拠と展開を書いてはる「チョー重要な部分」ですねん

 

 

 

2019/01/18[4−4

 

307ページ【2】ですが、これが「証文類」の根拠になる《第十一願》です。

「必ず滅度に至る願」っていうぐらいですから《自我の滅》っていう「真楽・法楽」に至る願いですってことで。。

 

ふつうに真宗で使っている「大経」では「国中人天が正定聚」っていう「初地(歓喜地)」に住すって書いてあって、これは。。

「現生のいま」「讃嘆門を生きるもの」が「正定聚(しょうじょうじゅ)」っていう「不退転」になって、必ず滅度っていう「楽」を得られますねんでって書いてます!

 

けど【3】の異訳の大経「如来会」には、「等正覚をなり」って書いてて、初地っていう「41位」から

51位」までランクアップしていますねん!

 

これは【6】の如来会の成就文に「邪、不定聚」に対象してますし。。

結果、因果同時の「初地も等覚も同じ」って解釈できますねん!

そういうことやし、「行者は初地でもあり等覚でもある」っていうていい根拠が、ここで明確になりますねん

 

ほんで【4】は、もと「大経」の十一願成就文で、「十一願が成就して、みんな正定聚に住して。。邪聚、不定聚はない」って書いてて、「第十九願」に該当するものはない。。

っていうか、そもそも「邪や不定」は《自我の混ざり具合》ですし、《自我の混じる行者》は、

「お名号によって私がお浄土で永遠の命をいただいて、また会える」っていう、【世俗の持ち越し】も含みますねん!!

 

そこで、「補足3」の(88)にも書いた。。

あくまでも「《現生往生》《現生に功徳荘厳を観る》《名字の入れ換えと讃嘆時間のある因信心の因果同時》」が両方にまたがる「大前提」の《キーポイント》ですねん

 

っていうように、【5】からは、「荘厳功徳」を観る、多次元智慧の世界観が書かれています!

7】の「論註」の「荘厳妙声功徳成就」ってとこで。。

「凡夫が荘厳功徳に包まれて、《国土の名字》が《仏事(利他)》をする中で、名字の変換が起こり、《清浄安楽》を願う世界に往生を願って、往生を得(果位)る」ってことで。。

 

《現生で往生を得て、荘厳功徳成就の中に生きる》

 

っていうことを明確にしてます!

ここからはこの《荘厳功徳》をイメージ化して書いていますねん!

 

(あんまり一度にたくさん書かない方が読み手が読みやすいっていうご意見があったので、

今日はこのぐらいにしときますね(≧∀≦))

 

 

 

2019/01/214−5

 

309ページの【7】ですけど、前回に続いて、「荘厳功徳」について書かれているのですけど、

後ろから3行目の「不朽薬」っていう「腐ること」がないクスリを種子に塗れば、どんなことが種子におこっても、因と縁によって生まれるように、

「安楽浄土」至れば、その後に「三界」つまり「煩悩に苦しむ世界」に生まれて

「衆生を教化しようとして、浄土の命を捨てて願いによって煩悩の火の中に生まれても」

《不朽薬》に譬えてる「正覚の阿弥陀が住持」してるから、「煩悩に染まるようなことはない」って、ややこしげなことを書いていますが、これは、

「荘厳《主》功徳成就」の「正覚阿弥陀 法王善住持」を解釈してて、

 

その最初に、「正覚の阿弥陀の善力に住持」されているからっていう理由を書いてて、

ほんで「住は不異不滅で、持は不散不失」って解釈してあります。

 

つまり、「真実(さとり)」そのものは、「煩悩の火」とか「浄土の命を捨てる」とか、そういうことはもともとないのだけど、わかりやすく表現して「浄土の命を捨てて」「煩悩の火に飛び込んでも」っていうニュアンスで、

そこに「衆生を教化しようとして」っていう「慈悲前提」だから。。

悟りの智慧には、「浄土と煩悩の火」とか「不異不滅(異や滅)そのものがない」また「不散不失(散や失)そのものがない」っていう「対立概念がない」っていうことを言うてます。

 

ここでは「荘厳」の《主》の「功徳」は「そんだけスゴイ住持力がある(方便側面)」っていうてることと、「さとりには対立概念がない(真実側面)」ってことを言うてます。

この辺は「真実側面」「方便側面」こみこみの内容ですねん。

 

だから、この次は「荘厳」《眷属》「功徳成就」ってあって、

「一切の煩悩界」の「生まれかた」には、「哺乳類」のように《胎》や「鳥類」みたいに《卵》や、

当時は「湿気」から生まれるって思われてた「ハエ」みたいな生まれ方をする「眷属」の生まれ方があるけど、「そういう苦楽を持った、いろんなランクの生まれ方がある」けど、

それは「いろんな行ない(雑業)」によるからで、

「みんなが同じように念仏」した「浄土の眷属」は「化生っていう《忽然とした》特別な生まれ方をしますねん」ほんで、この「化生」する念仏の道「ひとつ」でこういった「生まれ方」をしますねんけど、

「遠く通じてて(永遠の過去未来に通じてて)」「四海」っていう「世界中の衆生」がそうなるから「けっきょくみんなが兄弟で、浄土の眷属(一族)」で、「無量」ですねん。。

って書いてて、「異なるように思える衆生(一切」も「浄土の眷属《一(イチ)》」ですねんで。。

 

って「眷属功徳成就」っていう「側面」からいうても「真実と方便」があるけど、

「一即一切」ですねん。。って書いてます!!

8】も「観経の九品(くぼん)」も「いろんな川の水が海には入れば一味になる」ように、

違いはおへんねん。。って書いてます。

 

9】も「清浄功徳成就」って書いてて、

「生の結果、いろんな煩悩を持ってるものが、浄土に生まれれば、煩悩がそのまま涅槃の(イチ)」になりますねん」って、ここまでには、

 

「荘厳功徳の《主》《眷属》《清浄》の成就」について「真実側面と方便側面」から、

《主(正覚の阿弥陀さとり)》においては「対立概念」がないから、

すべてにおいて、「一即一切」ですねんでって書いてあります!!

 

 

 

2019/01/224−6

 

証文類の【10】安楽集で、いいたいのは、

釈迦は自分より「かの(阿弥陀仏)の方が《すぐれてる》から一切衆生を《かの仏》に帰依させようとして、釈迦はいろいろなところで(かの仏)を讃嘆してはります。」ってことで、

 

曇鸞さんも「西に帰依してはりますから《大経》を讃嘆して(讃阿弥陀仏偈)」に、

《安楽(浄土)》には、声聞や菩薩衆、人天などがいるけれど、これは、《他方》でこのようにいわれることに順じて「方角を書いてはる」だけで、

実際には、みんな《真実側面》でいえば、同じ「虚無の身で無極の体(さとりの実相無相、真如)」ですねん。

だからこういう「(さとりの)平等力を頂礼(びょうどうりきをちょうらい)」しますねん。。

って結果《真実側面》をいうてはって。。

 

11】からの「善導さん」は、「方便側面」で、「阿弥陀仏の大願業力」に乗って「増上縁(意識改革と促進力)」にしますねん。

けど、こういう「仏の意図は暁(さと)りがたい」から「疑わずに釈迦の発遣(はっけん)と阿弥陀の招喚(しょうかん)にしたがって」《浄土の楽》を証りましょう」って。。

 

☆☆☆☆☆

「完全方便側面」から「難しいことは置いといて、発遣と招喚の法に奉(つか)えて、穢身(煩悩に穢れた身)を捨てて証りましょう。」っていう感じです。

こういうところから、「仏の意図はわからないから、さとりについて《わからなくてもいい》」っていうような「布教」が多いんでしょうけど、

現代にはこの「方便側面」は逆に邪魔になって。。

12】に善導さんもいうてるように、「西方寂静の無為の楽(みやこ)は、《あるとかないとか》っていうことも離れて、大慈悲を以って《法界》に遊ぶ」って、「薗林遊戯地門」のような表現をして、

「変現の荘厳が意(こころ)にしたがって出てきますねん」

ほんで「群生」がこの「荘厳」を見れば、「罪が除かれて」。。

「如去如来(さとりへの往相還相)に帰依して、煩悩の魔境にはとどまらないんですねん。」

ってあって、この「帰去来」を、[脚注]には「さあ帰ろう云々」って書いてますけど、

「如去、如来に帰依する」と「仏教学解釈」した方が、「方便側面に内在する《真実側面》」に符合します。

そして、【12】の最後には「この生平(生涯)をおえて」「かの涅槃の城(みやこ)」に入りましょうって書いてて、「この生平」が「六道流転」の「生平なのか」「荘厳を見て罪が除かれてからの生平か」っていうところも、どっちでも読めますが。。

この引用部分は、「西方の《方便側面》の中の《真実側面》について書かれている」ので、

「荘厳を見て生きる生平が()おえて後」って「おえてを畢竟(とどのつまり)」って書いてある以上、「荘厳を見てさとりに向かう身として白道を歩んで後」に「究極の涅槃(正覚)に至る」と読むべきでしょう。

☆☆☆☆☆

 

そういうことだから、【13】に親鸞さんは、「このこと自体の全て」が「因果において」「阿弥陀如来の清浄願心」「回向の成就」によるねんから。。

凡夫の「自我のまじわらない」「因果清浄」になりますねん。。

って「証」の《真実と方便》について結論を書いてはります!!

 

こういう(Aで囲った)部分を読み違えると「さとりや仏の世界は凡夫にはわからなくていいし、

六道の生平(現生)が終わってから「浄土往生しますねん」っていうことになりますし。。

 

ほなら

11312ページの3行目の「来迎(らいこう、らいごう)」を「どう読みますねん」ってことになります

「真宗」は「不来迎」ですねんっていうてるのに、「19願でも20願でもない部分に《来迎》って書いてますけど、どないします?

ってなりますやろ。。

 

これは、「荘厳功徳」を観て生きることが「現生」に「報、応、化」の「阿弥陀如来の荘厳《主》功徳成就」を見ることでもあって、「現生に来迎を観る」ってことならスムーズに論が一貫しますねん

 

どうしても「死んだらお浄土」っていうてると、こういうところのムリクリなつじつま合わせが必要になりますねん。。

せやし「お西」の話は「よ〜わからん」って、布教使自体が「わからんでいいんです」ってむちゃくちゃいうてると、

聞き手は「布教使がわからんでええ」っていうてることも「わからん」し、「そもそもの真宗もわからへん」ってなって、どっちもわからへんってなりますねん!!

 

 

 

2019/01/234−7

 

313ページの【24】から、《還相回向》になります!

ここでおもしろいのは、「利他教化地の益」「必至補処(ひっしふしょ)の願より出てる」「一生補処の願と名づく」ってあって《22願》が根拠で、「還相回向の願と名づくべき」って書いておきながら。。

「論註」にあるから【ここで願文を出さない】って。。(・・?)

願文は。。 

「たとひわれ(ぶつ)()たらんに、 ()(ほう)(ぶつ)()(しょ)()(さつ)(しゅ) わが(くに)(らい)(しょう)して、 ()(きょう)してかならず*(いっ)(しょう)()(しょ)(いた)らん。 その本願(ほんがん)()(ざい)(しょ)() (しゅ)(じょう)のためのゆゑに、 ()(ぜい)(よろい)()て、 徳本(とくほん)(しゃく)(るい)し、 一切(いっさい)()(だつ)し、 諸仏(しょぶつ)(くに)(あそ)んで、 ()(さつ)(ぎょう)(しゅ)し、 十方(じっぽう)諸仏(しょぶつ)如来(にょらい)()(よう)し、 恒沙(ごうじゃ)()(りょう)(しゅ)(じょう)(かい)()して*()(じょう)(しょう)(しん)(どう)(りゅう)せしめんをば(のぞ)く。 (じょう)(りん)超出(ちょうしゅつ)し、 (しょ)()行》(ぎょう)現前(げんぜん)し、 ()(げん)徳》を(とく)(しゅ)(じゅう)せん。 もししからずは、 (しょう)(がく)()らじ。」

って内容ですねん。。

 

ここで「願文を出さない」ってのは、「現生即往生」解釈なら当然ですねん!

《真実側面》でいうたら「証文類」のはじめに「真如一如」になって「如来」するって書いてるのに、

ここで、この願文があると「えっ。。必至滅度で真如如来になったはずの者が、また一生補処の菩薩に格下げ?」ってややこしくなるから、

まず、「論註」で「荘厳功徳」や「阿弥陀如来の方便側面含めて説明」しないと「五果門としての還相回向の菩薩」っていう「立ち位置」が明確にならないから、

「第二十二願文」を後回しにしはったんでっしゃろ。。

 

けっこうこの願文はいろんな解釈しやなあかんぐらいめんどくさくみなさん苦労してはります。

結局「ジャマになるのが《死後往生解釈》ですねん」

 

そもそも今まで「還相回向」なんて、誰もいうてへんことを、親鸞さんがいうてるから。。

みなさん色々とこじつけるのに大変なようで。。エライ先生もいろいろもっともらしくいうてはりますけど、結局わかったようなわからんような感じになりますねん。

だから!!

「死んだら如来になるの?」「還相回向の菩薩になるの?」って、ようわかってへん布教が多いんですねん!

そんなん「真実側面」の「現生往生」確定したら「還相回向」なんて「五果門」で当たり前の話しですわ!!

☆☆☆

「生死にかかわらず《滅度や真如》に至ったものが《如来するときに法蔵菩薩のように垂迹する》」ってことを言うてはるんです。

ここで「生死にかかわらず」っていうのは、

「現生で因果同時」に行じる《五念門五果門》ですし、そもそも[生や死]っていう《虚妄分別、生死分断のない状態》を行じるんですから、《生か死か》なんてどうでもいいんです。

☆☆☆

せやし、「わたしならぬわたしの生命体を《如来名字》が五念門を行じる」ってことですねんから、

「もはや《私》がない」状態の生命体が「同時に五果門の利他を行じる」っていうのが、

親鸞さんがいうてる「究極の浄土教」で「真楽・法楽」の状態ですねん

 

ところで「浄土教」で「三願」って論じる時は、真宗みたく「181920願」とか、いろいろありますねんけど。。

 

曇鸞さんは「第十八・十一・二十二」の三願を重視してはるようです。

『往生論註』()に「第十八願の願力によって十念の念仏により往生する」っていうて、

「第十一願」によって往生して、正定聚を得ることにより迷界に帰ることがなくなって、

「第二十二願」によって往生した《菩薩》が階位を順次に登ることを超え(諸地の行)て、いきなり普賢菩薩の慈悲・利他の徳行を身につけることができる。。

っていうてます。

これって「死後」のことやないんです。

とにかく「仏教と相応」の教えでは「生死分断はない前提」ですし、このことは「真宗に限ったことやない」んです。

親鸞さんはこういうとこを根拠にしてはるのか、「諸地と初地(歓喜地)」を同じ扱いしてはりますねん。。

 

つまり「曇鸞さん」では《法蔵菩薩の》五念門・五果門の行が、「方便の阿弥陀仏の四十八願の《この三願》に書かれてる」っていうてて、これを「三願的証」っていうたりしてます。

 

せやから、曇鸞さんは、第十七願の「諸仏の称名讃嘆」を第十八願と引っ付けて(二十四願経と同じ)

「法蔵菩薩の五念門行」の「讃嘆門行」(第十七願)を「第十八願」の「乃至十念の称名行者」になればってことで「第十八願」の称名の行者は、

 

《称名讃嘆門行》によって「第十一願の必至滅度」(五念門五果門))になって、「薗林遊戯地門」の《利他行》になるから「第二十二願」になるってことで「第181122願」の三願ですねんけど。。

 

親鸞さんは「第十八願の解釈」を「至心信楽」中心で解釈しはりますから、

「第十七願」の「諸仏の称名」を「至心信楽」で受けて「讃嘆(乃至十念)するものになる」っていう解釈で。。

「諸仏の称名讃嘆に《至心》があってそれを《信楽》で受けて《欲生》になってから、(乃至十念)になる」っていう流れですねんし、

第十八願の成就文から「願生彼国《即得往生》」ですねんから。。

 

けっきょく「現生即往生」「往相還相因果同時」で理解したら簡単なんです。

 

こういう解釈で第二十二願を読めば。。

「浄土に生まれたもの《現生で名字を換えて五念門行(称無碍光如来名)を生きるもの》または《名号に自我名を破られて名号主体で生きるもの》が一生補処になって、《諸地の行》(初地だけど十地全て)の行を、法蔵菩薩のように《菩薩として》《常行大悲の益(信文類の十益)》に生きる」

ってことですから、

 

171811願=22願」の流れで、そもそも11願の《必至滅度》と22願の《利他》を同じで解釈してはります。

あくまでも「11願の滅度と22願の利他教化地(還相回向)は同じ」なのです。

つまり「教行証文類の構造」は、

 

「教(大経)→(諸仏称名・真実心を含む)→(至心を信楽して称名讃嘆する)→(往相の必至滅度と還相の利他教化地)」これらが「因信心」で「因果同時(真実側面)に起こるけれど、現実的(方便側面)には距離or 時間がある」

 

ってことですねんから、

《真実側面》でいえば、「還相回向含めて《現生の讃嘆行者》のあり方」ってことで簡単なんですけど。。

《方便側面》があるから、ここで「論註」を先出しして、「第五果門を重視して」けっきょく【願文を出さない】ってかなりイレギュラーなことをいうて、316ページにさらっと「第22願を出してる」っていう流れになりますねん。。

 

まぁとにかく長い引用ですけど、

五念門五果門の《真実側面》と阿弥陀如来の《方便側面》を合わせて論じ。。

行者として「常行大悲する方向」と「その中でこのように功徳荘厳を観察する」っていう、

「還相回向の行者のありよう」を書いてはるんです。

 

けど、「死後往生」っていうお西の標準で読むと「けっきょく一生補処はいつ?」「死んだら如来になるの?菩薩になるの?」「亡くなった先祖が還相回向の菩薩さんなん?」「こんな長い内容はけっきょくお浄土はこういうとこですってこと?」「ほんで、死んだらこういうとこに行くってことでっか?」

とかわけわからん話しになるんです。

 

【以下親鸞さんが還相回向について書いてはる部分と、A以外に現生往生を論じてはる方の引用です】

 

*コノグワンハグヱンサウノヱコウノグワンナリ。一シヤウフショノグワントマフスナリ

 (宗祖御真蹟 九願文)

 

必死補処の願 一生補処の願 還相回向の願  

 

「教行信証」の証巻にて命名し、さらには論註から引用して

 

*実相を知るを以ての故に、則ち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、則ち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、則ち真実の帰依を起こすなり。

 

道綽の安楽集、第十大門には

 

*このゆゑに『大経』(上・意)にのたまはく、「それ衆生ありて、わが国に生ずるものは自然に勝進して、常倫諸地の行に超出して、仏道を成じるに至るまでさらに回復の難なし(第二十二願)」と。 (安楽集 第十大門)

 

「如来二種廻向文」には

 

*二つに、還相廻向トイフハ、浄土論ニ曰ク、

「本願力の廻向を以ての故にと、これを出第五門{コレハコレゴネンモンノウチニエカウモンナリコレハミダニョライノリタノエカウナリ}と名づく」

と。コレハコレ還相ノ廻向ナリ。

コノコヽロハ一生補処ノ大願ニアラワレタリ。

大慈大悲誓願ハ大経ニノタマハク、

「たとひわれ仏を得たらむに、他方仏土の諸の菩薩衆、わが国に来生して、

究竟して必ず一生補処に至らしめむ。その本願の自在の所化、衆生のための故に、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱して、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化し、無上正真の道を立せしめんおば除かむと。常倫に超出し、諸地(クワンギチナリ)の行現前し、普賢の徳を修習せむ。もししからずは、正覚を取らじ」と。文

 

 

コレハ如来ノ還相廻向の御チカヒナリ。

コレハ他力ノ還相ノ廻向ナレバ、自利、利他トモニ行者の願楽ニアラズ、法蔵菩薩ノ誓願ナリ。他力ニハ義ナキヲモテ義トスト大聖聖人ハオホセゴトアリキ。

ヨクヨクコノ選択悲願ヲコヽロエタマフベシ。

 

まず注目しなくてはならぬは、

 

常倫に超出し、諸地(クワンギチナリ)の行現前し

 

この「諸地」とは五十二位説にあるように華厳経の『十地論』に説かれてる初地(歓喜地)から十地までの諸々の行成就して体現されてくるいう意味なのですが、聖人はあえて「歓喜地」即ち初地と読んでおられる。

 

ーーーーー(以下お西本流の言い分)

これはとても重要なことです。

 

還相廻向などということは死後成仏した後この世に還って思うが如く衆生を済度することで、この世で煩悩成就の凡愚が行うことなどでは断じてありえない!

 

【凡愚は理屈を言わずただ念仏しなされ。罪悪の凡夫が今生で仏となるような言動まかりならぬ】

ーーーーー

 

これ《本願寺の正統派の言い分》

こういうことと、「名号のひとりばたらき願船往生」は「真実則」ではあり得ない

ってことです!!

 

 

 

2019/01/244−8

補足91から読んでみてくださるといいかもです。

https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku3

 

証文類の《還相回向》の内容は、

313ページの【15】の「出第五門」というスタートからわかるように、「五果門」なかでも「薗林遊戯地門」について書かれているのは明確で、教行証文類は「真実側面」で読む「五念門五果門」中心で構成されているのんは明確ですねんから。。

善導の「五正行」は「方便側面」だということも明確で、「お西」の《五正行原則》の「法義立て」は「教行証文類」すら読めない「御文章中心時代」いわゆる「第二次大戦前後」までの「教義立て」やし、

教行証文類をこれだけ明確に読める現代では、「教義の見直し」が必要やと思うんです。

 

そういう意味では、「証文類」は「仏教学」なしには読めません

「無常無我、空、唯識、華厳、涅槃、実相無相、真如論」などは最低理解して読まなければ、「理解不能」になりますねん。

できたらここをご理解くださいませ

 

https://r.goope.jp/sainenji/free/buddhabase「関西風仏教解説」

 

「お浄土に行ったらこんな世界で還相回向しますねん」なんていう話に、こんなに「沢山の引用は必要ない」って思いませんか?

 

なかでも317ページの6行目の〈略してハ句を説きて。。〉ってところに。。

「自利利他功徳荘厳次第に成就したまへるを示現したまえり」〜「仏の口業。。《名聞を知んぬ》」って、浄土で「名聞」するの?

☆☆☆

つまり、「時空を超えて《生死分断分別》を超えてること」が明らかになってます。

☆☆☆

318ページにまたいで「人天の大師となって化を受けるのに堪えたひとは。。」ともあって、浄土に人天がいてその「大師?」って、「なんで浄土で化を受けてその大師?」

そして、真ん中あたりに「菩薩の荘厳功徳成就を観察する」ってあって「真如は諸法の正体なり」

「体、如にして行ずればすなわちこれ不行なり」「不行にして行ずるを、如実修行と名づく」

って書いてて、「四行」について書いていかれますけど。。

こんなんみな「仏教学」ですわ!!

 

こういうことは「仏教学がないとわからない」んです。

320ページの〈三つには〉ってとこに、「分別心あることなし」なんていう文言でも「さらっ」と「〈わけへだてしないで〉ってことね」なんて読んでたら、

続きの「あまねく一切世界一切諸仏の大会(だいえ)に至って、一世界・一仏会()」のって、なにいうてんのんか「一即一切原則」がわからんと、ここにも「華厳経原則」があることがわかりません!!

 

ほんで321ページの「浄入願心」の「浄」が「無常無我空、実相無相、一即一切、真如一如」などが元になって、「法蔵菩薩の願心」に込められて「荘厳功徳成就」しているという「涅槃経」から来ている「浄」の意味が消えてしまいます。

 

だから、ここの「浄入願心」は「仏土、仏、菩薩」の「三種荘厳には《浄》」が「願心」って言う「俗諦」または「方便」に込められているって読まなあきまへん!!

 

せやから、「因果の浄」って書いてて、〈入一法句(にゅういっぽっく)〉って「十七句とハ句と四句」が「広げたもので()」。。「一法句」が「略したもの()」やって書いてて。。

「一切即一」原則を元に「荘厳功徳」が書かれていることが明確で。。

☆☆☆

「法性法身」っていう《真実から方便を出して》。。「方便法身」っていう《方便から真実を出す》っていう「方便法身から法性法身を知る」っていう『意図』が明確にされてて、

「この二つの法身は一でも異でもない」っていう【広略相入】〈一即一切〉を「菩薩」が知らんかったら「自利利他」できまへんって書いてます!!

☆☆☆

そして、続いて「一法句」が「清浄句」で「真実の智慧無為法身」で、「真実智慧実相智慧無相真智無智。。無為法身法性法身」「法性寂滅法身無相無相(だから自在にいろんな姿をとる)→相ならざることなしだから相好荘厳=法身」云々。。

なんていう流れは、「仏教学」さえ知ってれば、《なんて言うことのない流れ》ですねん!!

☆☆☆

せやし、こういうところは「そもそも無為の法」だから「凡夫の対象によって荘厳された功徳成就」だから「菩薩」として「現生」に「名字名号」を行じるものが「このように現実を観察したり、このようにみんなが見えるように教化することが《利他教化地》《常行大悲の益》を行じる」ってことやって、

なんの疑問もなく読み込めますねん

 

結果325ページに「善巧方便」を「善巧摂化(ぜんぎょうせっけ)」って書いてて、ここまでのことが「善巧方便っていうことですねん」っていうことで「かくのごとき《菩薩は》《広略修行成就して柔軟心(にゅうなんしん)なり》」っていうて。。

「対象に応じて柔軟に対応して利他をする」って書いてます。

この荘厳功徳などの根拠は第三十願あたりにあって、第三十三願に「柔軟心」について願われてます!

 

そして「証文類」の結論は、332ページから「五念門と五果門」の因果であると締めくくってて。。

335ページの【18】の親鸞の言葉に。。

「天親〈論主〉が《一心》っていうて《群萌》の苦が開放される教えを開いてくれはって、

それを曇鸞〈宗師〉が《往還回向》にあらわして「如来が法蔵菩薩に垂迹して【私たちがすべき菩薩の行()】を教えてくれはった《他利》によって、私たちが《利他》に生きるようになれる《深い意図》を広めてくれはりましてん」

 

ここの「天親の一心」を「信文類」で「信楽疑いのない一心」ってあらわしてはるわけです!!

 

つまり「証文類」は、

「如より来生し報応化した《如来》」が「私たちに《他利》する」「私たちが名字を入れ換える」(往相回向)→「自我名が転換した私たちが《号》になって《利他》を行じる」(還相回向)→「破我された私たちが如へ至る(如去)「如より来生(如来)して報応化する」って循環してて、これが時空を超えて因果同時に起こることをいうてます。。

 

この場合の「如来」は《真実側面》では「無碍光如来」、《方便側面》では「阿弥陀如来」ってことですねんけど。。

「菩薩の行」っていう時には、

「法蔵菩薩の誓願」のストーリーに「天親さん」が「五念門行」を《法蔵菩薩の行》って定義して。。

「天親さんも曇鸞さんも」の《法蔵菩薩》で統一されます

 

こういう「五念門五果門の往相還相」の「循環」を《曇鸞さん》があきらかにした「他利利他」の「深い意図()」っていうことですやろって思いますねん!!

 

まぁ親鸞さんは、こんな風に書いてはって、「仰いで奉持して、ことに頂戴しましょう」って喜んではります

 

「証文類」はマジマジ「仏教学」を知ってれば「どうってことない内容」なんですけど。。

なぜかスゴイ真宗学の先生までも「死後の話」ってもっていかはるのんが不思議でなりまへん!!

 

とにかく「生死分断虚妄分別」を超えた「一即一切原則の因果同時」の《真実則》で。。

「今私っていう生命体が名字名号の入れ換えによってすべき《菩薩の行》」による「荘厳功徳成就」なんです

それが《方便側面》か《真実側面》かっていうことでしかないんです

 

「証文類」はその原則を「詳細に説明」してはります

 

 

 

2019/01/284-9

 

真実流れでこのまま「真仏土文類」に移ります。

337ページの【1】の親鸞さんの「御自釈」から書いていきますけど。。

「仏は不可思議光如来」「土は無量光明土」って書かれてますのんは、結局「どっちも《光明》」ってなってて、

それが、「大悲の誓願に報われた仏土(報身と報土)で、第十二願と第十三願が根拠です」て書いてはるんですけど、「誓願に報われた、法蔵菩薩の行果」っていうてるこの辺は、「真仏土への序曲」でおます。

これがそのまま標挙になっていますねん。

標挙はこれだけって「真仏土」やし「四十八願」でいうたら、これで全部をあらわしてますねん。

 

ほんで意外と阿弥陀仏ってのはややこしくて「अमिताभAmitābha(無量光)と「अमितायुस् Amitāyus(無量寿)っていう、「無量光仏」と「無量寿仏」の二つの意味を持つ複合語から構成されてるので、チベット仏教なんかでは「別々の仏っていう扱いを受けたりする」んですねん。

 

だから337ページに「第十二と十三願の引用」を書いて、【4】のところに「大経」に出てくる「仏名」の「無量寿仏」をとりあえずまずは「根拠」にして。。

そこから「光明」が出てくるっていう流れになっとります!(無量寿仏光明)

これを逆からいうと「無量寿仏は結果《光明》ですってことですわ」。。(338ページ)

この《真実即》の流れで行くから「正信偈」は「無量寿如来」から始まり「不可思議光」になってるんです。

そしてさきほどの「根拠」って思われてる「無量寿仏」を338ページでは、「無量寿仏」は「無量光仏、無辺光仏。。」って。。

結局、根拠と思っていた「無量寿仏」のさらなる根拠は「光明だった」ってことに転じるんです。

 

だから【】に「真の仏も土も《光明》」になってるんです。

まずは真の仏土は「光明」っていう結論です。

 

そしてこの「光明」に出会ったものがどうなるかってことで。。 (いちいち「遇う」を使いまへん)

338ページの4行目に「身意柔軟(にゅうなん)なり」っていうところを、脚注では「やわらかでおだやか」って書いてますけど。。

これは、【】の「異訳の大経」の後ろから5行目にある「自在の意の。。」っていう「自在に利他をする」っていう意味で読まなければ、

「情」解釈になって「柔軟」という文言の意図が不明瞭になってしまいます。

 

こういう言語定義をあいまいな定義してはいけません!(真宗ではこういうケースが多いようです!)

 

いずれにせよ、ここで「真仏土」は、「光明」っていう結論で、

光明に出会うと、「三垢とか三塗」というような「三大煩悩」に「苦しむことがなくなって自在になり、歓喜勇躍して、善心(利他心)が生まれますねん」って。。

《光明に出会ったものがどうなるか》ってことを書いてます。

 

ここに、「これは、光明にあって煩悩が寿(いのち)終えて、解脱をこうむるって。。」書いてますけど、ここの「いのち」は「時間軸に限定されている《自我》前提」で《寿》って書かれているので、

「光明にであって、《自我》のいのち(寿)が終わって解脱へ向かう」と読み込めます。

その「自我」のいのちが終わって「菩薩道」を生きるようになると「解脱を得る」っていうことですねん!

「無量寿仏」に「無量(寿)」について、「《ア》ミター」の「ア」は「否定」を意味して、「ミター」は「思議や計る」を意味するので「無量」っていう「量れない」っていう「否定の仕方」がされていますねんけど、さらに的確な言い方は「数に限定されない」っていう意味ですねんから、

大経なんかのいろんなところに「数えられない」って書いてありますねん。。

 

そしてつづきに「無量寿仏即光明」という「一仏」の光明が、「十方諸仏の国土を照らす」っていう「一切仏」を照らすって「一即一切原則」で書かれていて。。

「照曜(しょうよう)」して「聞こえざることなし」って。。

「照らしといて聞こえないことはない」って、《視覚から聴覚》ってまたややこしげなことが書かれてますけど、

一般的に日常で「ええ天気ですなぁ」って、《太陽が照ってる状態》を言語にしますわねぇ。。これと同じことが起こる前提ってことです。

 

ほんでつづいて「ただわれいまその光明を称するのみにあらず」って「私(釈迦)」だけがいうてるんやなくて「一切の諸仏・・・」「ことごとくともに嘆譽(たんよ、たんにょ)することまたかくのごとし」って書いてる通りですねん!

 

「ええ天気」になると「ええ天気ですなぁ!」って、いろんなとこから「聞こえてくる」ってことですねん。

まぁここは、「もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説し・・・」って書いてるように「日夜に称えたり」「説」って、「語り合ったり」ってことでっしゃろ。

ここらにはこういう「真実仏土の光明による功徳」について書かれていますねん。

せやし《光明が仏道を歩ます》っていう「真実側面」を338ページの後ろから4行目あたりで結ばれています!

そして、ここからの引用は「同じ内容」について「異訳の大経」にて証明しています。

 

】の引用の中で、341ページの5行目に「蜎飛蠕動(けんぴねんどう)」って昆虫について出てくるのは、「行文類」と同じです。

 

ただ、このページの後ろから8行目の「擒狩(きんしゅ)」っていわゆる「畜生」を「獣」にたとえているのは、

人間が「論理」よりも「情と権力」によって動くという「動物脳」優位の人が多いことを意味しているとも言えますねん。(人間も煩悩で生きてると弱肉強食に怖れて生きるってことですわ)

(擒っていう字はけものへん"ですねんけどパソコンにはおまへん)

つまりは「現代人」でも意外と「論」よりも「情」優位なひとが多い。。

ここが「完全真実側面」(前頭葉)で論じきれない「情っていう方便側面が要る」(扁桃体寄りの人がまだ多い)「人間も進化の途中」ってことなのかもしれまへん。

まぁとにかく「親鸞さん」はそういう意味でか。。

《真実側面と方便側面》で「教行証文類」を書かれているんでしょうねぇ( ..)φカキカキ

 

ほんでまた、そのあとに「死して後」って書いてあるのも、「自我の死」を意味しているってことは、さきほどの「寿」と同じことですわ。

 

】の引用に「当生」っていう部分は、時間軸というよりも、「まさに生まれるべき処は」って読むべきですねん。

 

この「当」を漢文読みして「まさに○○すべし」っていうのは、「将来」と読んではいけまへん。。

「目前」のことですねん。

「人間」を含めて「一切の存在は刹那滅の繰り返し」っていう「倶舎論原則」でいうたら、

「一刹那後」ですし、即、目前の刹那でおます。

「無常、無我、空原則」でいうたら「因果同時」でもありますねん。

とにかくい「今」というた瞬間に「今ではなくなる」「今」ですねん。

 

「阿弥陀経」に「已発願、今発願、当発願」ってあるのも、「過去、現在、未来」の時間軸で読むと、「仏教の時間論」とあいまへん。

「そもそも方便経だから」っていうよりも、「すでに発願し、今発願し、まさに発願すべし、そうなると欲生する」ってよむほうが的確ですねん。

 

【9】からの「涅槃経」は、ここまでの「光明」についての「方便に内在する真実」が解釈されている根本で「ほぼまるっぽ真実」について書かれていますねんけど、ややこしいので、次回にしますわ。。

 

 

 

2019/01/29410

 

342ページの【9】の涅槃経の引用ですけど。。

ここからは真実のさらに真実側面で書かれています。

まぁとにかくこの「涅槃経」の引用ですねんけど「どんだけややこしいねん」って感じで始まります。

とにかくこの部分を整理してみますね。

単純に《文言》を抜き出して並べます。

 

解脱虚無、虚無解脱

解脱如来、如来虚無ってところまでを解析してみると

 

は、有為法っていう《存在認識》をしていた衆生(主に人間)が《さとる》と「解脱」になって、

本来は「虚無」だったってなる。ここは《成仏への菩薩の歩み(自利)》をあらわしています。

これが「解脱虚無」

 

そして《そもそも自我》は「いろもかたちもなく、ことばも絶えた状態」の「虚無」から《因縁生起》したものだから、《菩薩道》を歩めば「解脱」に至るっていう《道理、真理を智慧として知る》ってことです。

これが「虚無解脱」

 

人間が「解脱」して《成仏することは即利他を行じる》「如来」になるっていうことをあらわしています。

 

そしてこういう①②の《自利利他(往相還相)》のながれが「証文類」の《煩悩成就の凡夫が真如一如》になって《如より来生する》っていう流れのことだけど、

けっきょく、この「如来」の本質も《そもそも実体のない》「虚無」やってことをいうてて。。

 

①②はそもそも「虚無」っていう「いろもかたちもなく、ことばも絶えた状態」ですねんってことで、の後ろ「如来虚無」っていうことをあきらかにしてますねん

 

次のめんどくさい部分ですけんど。。

 

「如来」は「虚無」ですっていうて「非作の所作」っていう部分は。。

「如来」ってのは「虚無」ってことだから「非作の所作」ってことですねんって、これらは《自然》に起こっていることで《誰かが意図的にしてることではない》って明確にしてて《神》のようなことではないってこと!!

 

ほんで、「真解脱」「不生不滅」=「解脱」「如来」っていうのは、

「真解脱」って。。

「解脱」っていうても《声聞や縁覚》などのいうてる「解脱」もあるけど、「不生不滅」を言うてる《大乗菩薩道》が「真解脱」で、これこそが「解脱」ですっていうてて。。

だから《声聞や縁覚のような自利》だけやのうて「如来」っていう《利他》をしますねん

ってことです。

 

ほんで「如来」だからっていうても「不生不滅、不老不死、不破不壊」が本質だし「有為法」じゃないってことですねん

って「如来」っていう《実体があるわけじゃない》っていうてます!!

 

 せやから「如来《入》大涅槃」って改めていうてて。。

 

「解脱」「無上上」っていうて《無上のさとり》っていうて、

「真解脱」「如来」って《ホンマの解脱は如来する》っていうてるんです。

 

だから、「阿耨多羅三藐三菩提」を成し得たら「無愛無疑」になりますって、ここで「無愛無疑」を2回書いてて「阿耨多羅三藐三菩提」になったら「自我執着」なんかの「虚妄分別執着」がなくなって《破我名字の入れ換え》=「無疑」になりますねん。

 

ほんでこの「無愛(破我名字の入れ換え)」と「無疑っていう一心」によって「真解脱」になるんでっせって言いたい感じになってます!

 

だいたい仏教で「阿耨多羅三藐三菩提」は《サンスクリット語そのものを漢字で書いたもの》で、「無上正遍道」ってよく訳しますけど、「無上のさとり」ってことで、

「とにかくこれ以上のさとりはおまへん」って時によく使われます。

 

この「阿耨多羅三藐三菩提」を成し得たら「無愛無疑」で「真解脱」になって「如来」するって書いた続きに。。

 

「如来即涅槃」って「涅槃ってのは寂静」って言われてますけど。。

《大乗仏教》やと《涅槃は無住処》っていうて《固定した状態にはなくて利他の動きに転じること》っていう意味を持ってるので、《利他の如来になる》ってことですっていうてます。

 

ほんで、「無尽」ってのは《華厳経の法界縁起は「全ての縁起っていう形式の存在」は「重々無尽」に関わり合っている》っていう《真理》をいうてて、だから《一切が「仏性」ですねん》ってなって、

そのことが智慧として受け入れられたら《さとり》に「決定(けつじょう)」して「阿耨多羅三藐三菩提」に至りますねんって書いてます。

 

この流れをまとめると、

最高の目的に使われる《阿耨多羅三藐三菩提が如来していて(他利)》その「如来」っていう言葉であらわされてる「智慧慈悲」を受け入れると「法界縁起仏性」の《智慧》を得る結果になって《一切衆生のさとり》が「決定」し「阿耨多羅三藐三菩提」に至って《如来(還相の菩薩などに「報応化」)します(利他=慈悲)》ってことですねん!!

 

これは、「一切法」がさとりを循環する中に「そもそも一切衆生はある」ってことを「信知する(無疑)」刹那に「因果同時」に「明確になる」《真実》です。

 

☆☆☆

ままややこしい文面ですけど、「さとり」を意味する言葉を単純に羅列してるってことやなくて、

この流れが《真実側面》をあきらかにしてますし結構重要なんで、あえて飛ばさずに解析しましてん

☆☆☆

 

そこで次に「迦葉菩薩っていう在家の菩薩(浄土教が《在家菩薩道前提》だからあえて在家の菩薩)」が世尊に尋ねはります。

 

「涅槃、仏性、決定、如来」って言葉が「一義名(同じ意味をあらわす名字)」なら。。

なんで「三帰依」するんでっか?って。。

 

(世尊)は回答しはります。

 

善男子(ここは菩薩道を歩む迦葉さん)、一切衆生はね。。

「生死っていう虚妄分別(生死分断)をして、怖畏(おそれ)るから、三帰依を求める(三帰依した方がええんです)

「三帰依で、仏性、決定、涅槃の意味を知ることになって、(さとりの智慧によって)怖畏(おそれ)がなくなりますねん」

 

☆☆☆

ここにあるようにあくまでも「苦からの解放目的」「真楽・法楽」を得ることが仏教の目的ですねん

☆☆☆

 

善男子よ!

「法の名《言葉や単語(名字)》」にはね、《一義異》(言葉は違うけど意味が同じ)表現や、法の《名義倶異》(言葉も意味も違う)表現がありますねん」

 

「一義異」には《仏法僧、涅槃、虚空》なんかが「常」をあらわしています。

『注』(仏法僧、涅槃、虚空っていう《真理》そのものは「常」っていう意味です)

これらは《言葉は違うけど意味は「常」って同じ意味》をいうてます。

 

「名義倶異」でいうたら「仏覚、法不覚、僧和合」

『注』(仏はさとる主体「覚」、法はさとられる客体「不覚」っていう意味です)

これらは《言葉も意味も違うこと》をいうてます。

 

「涅槃解脱」「虚空非善・無碍」っていうのも「名義倶異」ですねん。

『注』ここの「非善」を脚注に「非善は善悪っていう相対的なものを超える」ってことです。

って書いてますけど「超える?」って「真宗でよく使われますけど、あいまいな言語です」

 

「非善」は「さとり」においては「ことばが絶えた状態」だから「善や非善」っていう《言語定義できない》ってことです

 

真宗は、あいまいな表現や言語が多いから「わかりにくい」って言われるんです!

 

世尊は「善男子よ!」「三帰依もこのようなことです」って結んではりますけど、

これらは「さとり」《真諦》をあらわす「言語」《俗諦》について、

《一義異》と《名義倶異》という2つのパターンがあることをいうてます。

 

冒頭の「解脱」だの「虚無」だの「如来」だのってのもこういうことだっていうことも意味してるって思いますねん!

 

ほんで、この2つのパターンの延長が「方便(ストーリー)」になりますけど、この「真仏土文類」は《真実則》のみについていうてますから、この部分の2つのパターンは《俗諦》表現についていうてます

 

☆☆☆なんでこんなめんどくさいことを書いてはるのかっていう目的が。。☆☆☆

 

10】のさりげないけど重要やからあえて引いてる「一文」にある。。

「真仏土」を「光明」って定義したけど、

「光明の具体的意味は《智慧》である」ってことですねん

〈不羸劣っていう「疲れず衰えず」っていう修飾語は「智慧」がそうだから、智慧を得たものもそうなる〉ってことだと理解しましょう!

 

☆☆☆

結論「光明」は「智慧」ってことです

☆☆☆

 

 

 

2019/02/044−11

 

343ページの【11】の引用から、「涅槃経」の「四徳」(ただし親鸞さんは「我」を引用してへんので「三徳」になってます。

まずは「常、楽、浄」の三徳の「常」について解釈されてます。

 

「そもそも有為(存在)は、みんな無常のなかにある」

「虚空っていう《空》状態は、存在ではないから《無為》っていう」

だから「無為は《常》」ですって書いてます。

「いろもかたちもないことばも絶えた状態」は無常に左右されない「虚空」やから、

「常」ですねんって、要するに「無常は常」ですって、

「存在は《変化する》っていうこと自体は《変化しない法則》」ですってことです❗️

 

「変化するということは変化しません」「だから真理そのものは《常》」ってことです。

ここが受け入れられたら、「私」っていう「自我」は変化するけど「私即仏性」ってことで見れば、

「変化して当たり前の無我な存在」ってことになって「仏性無為常」ってなってます。

 

ほんで、そこから「非作の所作」っていう「神様とか誰かの意図ではなく」自然の智慧が「釈迦の頭脳から出てきた如来ってのは。。」

《如より来生した》如来だから、「虚空仏性如来無為=常」ってなります。

「釈迦の頭脳から出てきた」って感じで経典を読むといいのですが。。

「釈迦が智慧(仏性)で発見した《虚空の真理》を、弘く広めるためにわかりやすく《如来のストーリー》っていう方便側面を発明した。」っていえば、現代的ですねん

 

だからここで「仏は常」って書いてて、「常は法」って書いて「法無為=常」って「三宝」全て「常」って「迦葉菩薩さん」の問いの流れから、「すべて無為に帰結するから常です」って書いてはるんです。

これを「おんなじ牛乳の味がチーズになっていく様子」を「乳味、酪味、生蘇味、熟蘇味、醍醐味」って「おんなじ牛乳」が如来っていう「究極の味」になるって例えてて、

でも根本は「すべて牛乳」でそれが「仏性によって熟していく様子」を表現して、

この最高の醍醐味の薬は「そのほかの薬が全部おさまってる薬で、これを飲んだらどんな病気も治る」「衆生の煩悩や群に振り回されるってことが除かれます」って書いてます。

 

この例えで、「仏もこれと同じ」で、「仏十二部経(経や偈などの十二の説法)→修多羅(経典)→方等経(大乗経典)→般若波羅蜜(空の智慧を説く中観)→大涅槃」ってなりますねん。

これが、「牛乳が醍醐味の薬」になるように、「仏が大涅槃の教え」に進化していくプロセスをあらわしてて、「醍醐を仏性に例えてて、これが如来って薬になって、私たち衆生の病いを治しますねん」

せやから「如来が持ってる功徳は、無量無辺不可称計(むりょうむへんふかしょうげ)って言いますねん」って書いてます。

 

 

 

2019/02/084−12

 

344ページの【12】に。。

「涅槃経」から、「道」には「常道」と「無常道」とある的な書き方がされていますが、

これは、「無常に振り回されるか、《無常を常》として歩めるか」ってことです。

 

ここから「涅槃の四徳」(親鸞さんの引用は「三徳」)について書いてはる部分です。

345ページに「一切衆生は。。。煩悩に覆われて」ってあって、あくまでも「覆われてる」ので、

「仏性有り前提」ですねん!!

 

ほんで「慧眼」がないから「無常の中にある」ことが見えずに、一生懸命に「戒、定、慧の三学」を修行して「道菩提涅槃」を観て「菩薩が道菩提涅槃を得る」って「名づく」ってあって。。

本質のないことに《とりあえず》「名づけ」ますねんってことをいうてはります!

 

ここでいう「三学」は《真実則》の「讃嘆門」(破我)のことやって言いたいから「慧眼」とか、

このすぐあとに「称量」っていう文言をあえて引用している様子です。

 

つまり存在の本質は「無我、空性」ですっていう意味を「不生滅」「色像ないけど仏性が観える」「よくよく称量(讃嘆門)して知りなはれ」そしたら「()実の(はたらき)用が見えまっせ」って書いてます。

この「実」に「用あり」ってのが「如来する」ってことやっていいたいって様相ですねん

 

けど、「衆生の心」はそもそも「法有」やけれど「智慧で見れば、色(存在)でも、長短でも、粗(あらい)ことも細(微細)でも、束縛でも解脱でもないので、《実相無相》で「見えるような性質のものやない」って「法の本質による無常の《常》つまり実相を観る」っていう功徳について書いてます

 

なお「大乗の涅槃経」は、龍樹の後の成立で「天親さん」の影響が強いと言われてるので、

龍樹の「我空法空」やなくて「我空法有」っていう、「我は空」やけども「法は有る」っていう解釈になるので「天親さん」の「倶舎、唯識」で「五位七十五法」または「五位百法」の「法」は「有る」っていう前提。。

「法有」前提でここは書かれてます

 

 

 

2019/02/094−13

 

345ページの【12】は《涅槃の徳》の一つ目の「常」について書いてましたが、

13】は、涅槃の2つ目の《徳》「真楽、法楽」について書いてます。

 

ここでは、出だしで「大楽」って表現してます。

この大楽の前提として「涅槃は無楽なり」って書いてます。

これは当然なことで、「色も形もなく言葉も絶えた」「法性」っていう原点は、「苦楽の定義ができない状態」なのですから、当然なんです!

 

しかし「この苦楽を定義しないこと」これこそが「大楽」なんです

この「大楽」に「四種類ある」って書いてます。

 

1、これこそ、「世俗的な楽を求めない(諸楽を断ずる)」ことで、「世俗的な楽を求めることは《苦》です」って書いてます!

そして「無苦無楽」が「大楽」で《涅槃の性》って書いてます。

 

ついで、「凡夫の楽と諸仏の楽」の定義をしています。

凡夫の楽は、「無常の上に成り立っているから、敗壊(壊れる)」って「マジ無楽()」ですって書いてます。

諸仏の楽は、「変易しないから《常楽》だから《大楽》っていいますねん」って書いてます。

 

このは「変化する(無常)を受け入れている状態だから(無常を常としているということだから)変易しない」ていう意味です。

歎異抄第2条の「法然聖人に騙されて地獄に堕ちても後悔しない」っていうことが、まるまるこのことで、第2条の「そのゆえは。。他の行ができる私なら、地獄に堕ちたら後悔するかもやけど、残された道は念仏しかないから後悔しまへん」って、「ほな他の行ができる前提」なら「後悔するんかい

ってツッコミ入れたくなる理由が書かれてますが、これは「唯円か誰かの勘違いか?」「唯円向けなのか」。。

「後悔しない」って理由について、「大楽は、そこじゃないですよ」「あなた方が思っているような凡夫の楽ではないんです」って「唯円か誰か」にいうてるはずなんです!!

もはや、「地獄と極楽」は「対立概念ではなくて、同次元に荘厳されています」または「念仏で無常を受け入れれば、地獄極楽は問題じゃない」ってことになるので、ここはけっこう重要ポイントです

 

☆☆☆

この「涅槃経」は「善男子よ」って呼びかけてるので、「凡夫対象説法」ではなくて、

「大乗菩薩道の行者対象」で書いてるっていうことがポイントでもあるし、対象が「唯円なんか」だと必ずしも「唯円が善男子」じゃなかったっていうてもいいかもです!

☆☆☆

 

ついで「善男子よ」「感受」する上で「3パターンある」って書いてて、「苦受」「楽受」「不苦不楽」が世俗レベルであるけれど、これらはみんな「苦」で、世俗の「苦でも楽でもない(不苦不楽)」っていうのは、文言が涅槃の「不苦不楽」と同じでも、「内容は全く違います」って書いてます。

 

とにかく「無常の上に成り立っている状態はすべて《苦》」なんです。

「大楽」だから「大涅槃」っていいます。って書いてあって。。

 

2、に、「涅槃の性質は大寂静」です。って書いてます。

だから、「一切憒鬧(かいにょういろんなことに煩わされる)」の「有為法」を離れるから《大寂》っていいます」って書いてて、「涅槃寂静」について、「事実定義」してます。

実際に「名字を入れ換えて、無碍光如来を主体にしていると静寂」になりますねん

世の中で「客体(仮名人)のわたしという生命体」として「法蔵菩薩または称無碍光如来名」を生きてると、「世俗に振り回されることも、自我に振り回されること」も無くなって行き、冷静で静かになりますねん。

Aも「テレビを見なくなった」ので「何が世間で起こっているか、いちいちの情報は知りません」し、日本の世の中の情報は「完全操作(プロパガンダ)前提」なので、「アホらしくて見ません」

また、ネットの情報も仕分けしていけます。

仕分けの「智慧ポイント」は、「情動や動物脳」に反応を促そうとする情報は、ほぼ90%以上「プロパガンダ(悪意操作の広告、誘導)」です。

こうやって「俗世のニュースや情報」はだれがどうやって操作しているかという視点を「智慧」で観られるようになると、「慌てることも、煩悩が騒ぐこともないのでムチャ楽」ですねん

けど、この楽は「マジマジ世俗的な意味やありまへん」「どうなろうと当たり前という状態に落ち着く」「世俗の自我に執着しなくてもよくなる」補足39798の「独立者」っていうことが、こういうことなんだろうなぁと思います。

 

3、に「一切智」だから「楽」だって書いてます。

たしかに「智慧のある状態と無明の(智慧がない)状態」では、世界が全く違って観えます。

そして、ここに「諸仏plus如来」って。。「如来」が出てきます。

「凡夫を智慧に誘導する、存在ではない存在」だからでしょう。

諸仏が讃嘆する「智慧に誘導する《真実則》の存在」として「一切智」に含まれるので、

plus如来」になっているようです。

 

4、に「不壊」(壊れない)だから「大楽」だって書いてます。

「因縁生起」したものつまり「有為法」は、「無常」の中で「壊れ」ます。

「如来」という「色も形もことばも絶えた真如への誘導言語」は「そもそも《法》(無為法)」なので、壊れようがありません。

だから「金剛不壊」で「煩悩身」でもないし「無常の身」でもないから、「如来」は「大楽」で「大涅槃」ですって、そりゃそうでおま!

「あくまでも言語上の存在(俗諦もしくは方便)」なんやし。。

けど、「煩悩の凡夫」が「如来に出会って、智慧を得て、真如の《大楽》に向かうためには重要な言語上の存在」だから「如来」っていうのは重要ですねん

 

ここまでで、「《常と楽》涅槃の二つの徳」について書いてはります

 

 

 

2019/02/114−14

 

ここまでに「涅槃経」の「涅槃の四徳」について引用してきてはりますけど。。

「我」の徳については、引用されません

これって意外と「重要」だと思うんです。

 

涅槃経的には「無我」が「一切我」っていう「大我」であるっていうようなことをいうてるんですけど、親鸞さんは「我の否定」を徹底していて、「それすらも受け入れられない」っていうことなんやないかって思えるんです。

だから、ここから「大我」をすっ飛ばして、「浄の徳」について引用しはります。

 

14】に、まず「大涅槃」は「純浄」って「涅槃の浄徳」の「前提」が書かれています。

「純浄」って、「ピュア」「クリア」って感じですねんけど。。。

「ありのままの状態」「自然のまま」「自我で成り立っていない」「色も形もなくことばも絶えた状態」つまり「無常無我、空」「実相無相」といった意味でしょう。

そこで、「浄」に「四種」あるって書いてて。

 

1、二十五有(これはややこしいから「迷界」「迷いの状態」)ってことでいいんですけど、

あえて二十五有って書いてるのは、とにかく「あらゆる。。もうとにかく迷いの状態全部」って定義してるんです。

この「二十五有の迷界」を断ち切るから、「浄」っていうってこと!

ほんでこれが「涅槃です」って、「基本定義」しはります!

 

ここで親鸞さんは、「こういう《さとりの状態》つまり涅槃《は有る》から《涅槃》って《名づくことを得る》」けど「実相でいうと、あるわけじゃない」って書いてはって。。

確かに、「色も形もなくことばも絶えた状態」は「無為、空性、無我」って感じで「さとりという状態」としては有るっていえますねん。

「無い」っていう状態が「有る」ってことで、それを「涅槃」って言いますねんってことです。

けどあくまでも「名づくことを得る」ってことで、《言語化》《ことば上の存在》だから「実にこれ有にあらず」っていうてはります。

 

しかしここを、脚注に書いてるように、「かくのごとく涅槃もまた有と名づくことを得れども、しかもこの涅槃は、実にこれ有にあらず」って読むと、

「涅槃は有るって言ってもいいけど実際は無いんです」「涅槃は有為法じゃなくて無為法ですねん」っていう意味になるから、けっこうこの方がスムーズに読めそうやのに。。

 

親鸞さんがあえてこんなややこしい読み方をしてはるのは。。

()の《さとりの状態は有るから涅槃って名づくことを得る》って《》の部分をつなげると、

「色も形もなくことばも絶えた、涅槃という状態は、無いけど有るから、《涅槃》って《言語化》できます」

っていうことで、

「涅槃という名を得る」っていうことが「俗諦」ですねんって強調したいんやと思うんです。

せやし、「諸仏如来っていう言語上の存在」は「さとりの俗諦(言語化)」ですねん。

つまり世俗にわかってもらうために「言語化」して《有るって表現してること》と同じように《涅槃は有る》っていうこともそういうことです」って続いてます。

 

つまり脚注のように、「涅槃も有るって言えるけど実際はないんです」って読むと。

「涅槃」も「無常無我、空、実相無相だってことね!」ってなるから。。

「涅槃」っていう「文言が有る理由」がぼやけてしまいますねん。

いうたら「そもそも無為無相なら《涅槃》ってことばも不要やんか」ってなります。

 

☆☆親鸞さんは、「涅槃」っていう「ことばの必要性」と「その言葉が示すこと」の重要性をいうてはるんです☆☆

 

結果「世俗のために」「さとりが《涅槃》って俗諦化(言語化)されてる」っていうことを、

まずポイントにしたいんでっしゃろって読み込めます。

ほんで、「涅槃と《名づくる》ことを得」って、「色も形もなくことばも絶えた状態」を「涅槃」とか「諸仏とか如来」って「名づけること」が意味をもっていて。。

 

「菩薩が成仏して、諸仏や如来や還相回向という状態になる」って「言語化」することに「意味がある」っていうことでもあるように読めます

☆☆☆

ここを「行文類から証文類」を通して《真実則》で理解すると、「私の自我名」が「五念門の讃嘆行を行じるなかで《如来名》に転じられて」「涅槃」と《名づく》「さとりの状態」になり、「五果門の利他」「薗林遊戯地門」に至るっていう一貫性が明確になり、「称無碍光如来名」が「涅槃に至る行」って明確になります。

☆☆☆

だから、「真実側面」で、例えに「世の中で《父母》なんて実在じゃない状態を《父母》っていうてる」ように。。

「涅槃っていう文言も世俗にしたがって《仏法を説くにあたって》諸仏が有るとか大涅槃とかっていうてるんです」って書いてます。

 

つまり「涅槃」は《色も形もなくことばも絶えた「さとりそのもの」やし「浄」》ってことです

 

歎異抄第5条の「父母の孝養のために念仏したことはない」っていう理由はこのことだっていうなら、スムーズなんですけど、惜しいけど歎異抄の「そのゆえは。。」からがおかしいんです。

とりあえず「おかしい」んですけど、ラストの「まずは有縁を度すべき」って、さとりに「有縁優先(うえんゆうせん)」って「そもそもさとりに優先順位」はないやろってツッコミはいります!!

もちろんこれを全て「現生往生」やっていうんなら、とりあえずいま「関係者に取り組みましょう」ってことならわかりますけど、「いそぎ浄土のさとりをひらきなば」が前提やったら、「妙覚」前提になりますし。。「いけてまへん」。。

まぁ歎異抄は「問題定義部分」はいけてますけど「回答部分がいけてへん」のんです。

 

そして涅槃の「浄功徳」その2

「業清浄」ってこれは、「涅槃っていう言語化と同じ、諸仏如来の行ない()」は、「自我」による行ないやおません「利他行」のみですってことです。

ここで「大浄」だから「大涅槃」ですって、「修飾するぐらい《浄》」ですねんってことです!

 

そして三つ目。

「如来の身」は「無常に流されない、変化しないから清浄です」って。。

そりゃそうです。「無常無我、空性」の言語化ですから。。

これも「大浄で大涅槃」ですって書いてます。

 

四つ目。

「心が清浄」ですけど、ここに「有漏(うろ)」っておます。

有漏sāsrava)ってのは、「倶舎や唯識」でいう「法有の煩悩の法」をいいますねん。

āsrava)ってのは、さまざまな心の汚れの総称ですけど、なんで「漏れるやねん」っていうと。

「汚れ・煩悩は六根(視覚・聴覚など五官と心)から流れ出て、心を散乱させる」ってことです。

せやし、逆に「煩悩の汚れが滅し尽された状態」《仏心を無漏(むろ anāsrava)》って言いますねん。

けど、「法有」前提でなくても「法空」でいうても、「そもそもここでいう諸仏如来は《無相》」の「言語上の存在」やし「漏れようがおへん」。。

「人間や衆生は《漏れ》」ます

 

とりあえずここまでに「涅槃の徳」について書いてはって。。

「真仏土」は「光明」で具体的には「智慧」で、その智慧の徳がこの「涅槃の徳」っていう流れになってます

次には、この「智慧」を「菩薩道」として「五念門五果門」「薗林遊戯地門」にあわせていかはります

 

 

 

2019/02/124−15

 

348ページの【15】に、迦葉菩薩(善男子)にいわはります。

「諸仏如来は煩悩が起こらないから《涅槃》って名づく」

って書いてて、諸仏如来が「所有している智慧は。。」

「法」において「無碍ですねん」って。。

ここで面倒なのが、この「法」は、どの意味なんかってことです!

 

ーーーーー(仏教の「法」)

 

仏教の「法」ってのは「धर्म, dhárma  ダルマ(ダーマ)」パーリ語の「dhamma(ダンマ)」っていうのんがもともとですねんけど。。

これらの言語の本来の意味は「保持するもの」「支持するもの」「規範」「規則性」ってことで、そこから、「秩序」「法則」「慣習」など様々な状態をいうたりしますけど。。

これがまたややこしくて。。仏教は「状況によって、これらをいろんな意味で使ってる」ので、一筋縄ではいきまへん!

 

 そやし「法」が《法則、真理、教法・説法、存在(具体的な存在の根源要素)》の意味だったり、

 

部派仏教になると「存在=法」として「有為法、無為法」などに分けて。。

「有為法」っていう「無常変転する存在」つまり《色法、心法、不相応法(身体、心、それ以外)》などだったり、

「無為法」っていう「常住不変の法《虚空などや現前してる法、現前しなかった法》など」に分類してたり。。

 

 部派仏教でも特に「倶舎、唯識」などは、この《存在としての法》を「我空法有」を基本にして「五位七十五法とか五位百法」に分類してたりします。

これは「存在を5パターンに分けて、それらをさらに細分化した分類を法」っていうてます。

ややこい分類を見てみたい方は👇

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D

 

また「単純」に「教え」を「法」っていうたりします。

 

 まぁこれらをまとめたら。。

1、「真理」をあらわす仏教の「教義」「教法」「法則」っていう側面。

2、「存在するもの」の意味から《存在の「性質」「徳性」》だったり、

3、「具体的な存在」を構成している「実体的要素」

(現代なら原子や量子的なもので、仏教の古典的な存在の構成要素の「池水火風空」の《五大》とかっていうパターンになるでしょう。)

 

意外とサラッと、仏教で「法」ってつこうてますけど、実は仏教で「法」いうときは、これらの「なにを指しているのか」定義しないと間違うことが多いんです。

 

そういう意味で、「仏典は読んでて《悩ましい》ときがある」から、

 

ーーーーー(ここでいう「法」はどれやねん!)って感じになりますねん

 

けど、「法において無碍で《これを如来》とする」っていうことから、これらの「法」すべてを包摂してて、

「《如来は》これ凡夫、声聞、縁覚、菩薩(仮和合の存在)じゃなくって、《それらに内在する「仏性」そのもの》です」って書いてます。

【ここで否定されてる「菩薩」は《自我行を行じる聖者(従因至果)の人間などの菩薩》のこと】

 

ほんで、「如来は身心智慧。。。」って「時空を超えてあらゆる事物に遍満してて、さまたげるものはない(障碍するものがない)から、虚空って言います。。」って書いてて。。

「如来常住(変易なし)→実相」って書いてて、「だから如来はとどのつまり涅槃であるけど、単純な涅槃じゃなくて、いわゆる《無住処涅槃》」なので。。

《涅槃》は《涅槃へ導く「利他」のムーブメント(動き)を自然に起こし》「一定な処に安住せず」《無住処》の法則に従って「菩薩になって教化する」んですっていうてて。。

 

真如法性(実相無相)「涅槃」は、「垂迹」(すいじゃく)「従果向因」(じゅうかこういん)っていう動きを起こすので、さとり(涅槃)の「果位」から利他するために「因位の菩薩」に転じあらわれますねん。

そしてそれこそが「菩薩(法蔵菩薩)ですねん」って。。

 

親鸞さんは、「真仏土」の「智慧」を具体的にあきらかにするために。。

「五念門の讃嘆門行で《大会衆門》の果が起こり、回向発願門から《薗林遊戯地門》の果が起こるという」「五念門五果門」の「行」が《利他を行じる》ってことを、具体的に言いたくて、こういう引用をしているように思えます。

 

親鸞さんは、涅槃経から「法蔵菩薩」を解釈してはって。。

「凡夫にも仏性がある」から「法蔵菩薩の行(破我行)」を行じて、「自我行」ではなく「如来行」の「五念門」を行じたら《因果同時》に「五果門の利他を行じるものになるよ」って勧めているようです

「真仏土文類」ですし、「方便則」はほぼありませんねん

 

ここまでで「真仏土」は「光明」で具体的には「智慧」で、その智慧の徳がこの「涅槃の徳」で、

「涅槃の徳」は「遍満してる」から「法蔵菩薩道」の「五念門五果門」を行じれば「利他」の「薗林遊戯地門」になりますねんって、どんどん具体的な定義をして論を進めていはります