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2019-06-23 02:30:00

大橋牧師のおはなし❣️

「すべてが生きてくる」

2018年6月17日より!

(まずはじめに、)

私は若い頃、渡辺和子氏のエッセイが好きで、神学校を卒業してすぐに蒜山バイブルキャンプに派遣された際も、彼女の言葉に随分と支えられた。その中に「雑用」という文章があった。シスター渡辺が米国の大きな修道院の食堂で奉仕をしていた時のことだった。指導役の人から「ひとつひとつ音をさせないように静かに置いてごらんなさい。更にそこに座る人が幸せになるようにと心を込めて置いてごらんなさい。」と指導されたとのこと。とても恥ずかしい思いをされたそうだ。やがて「この世の中には雑用なんて名前の仕事はない。それは自分が用を雑にしたときに生まれる」ということに気づいていかれたとのこと。当時、バイブルキャンプで来る日も来る日も〈雑用〉をやらされていると感じていた私にとって、まさにジャストミートな言葉だった。

 

(今日の本題)

さて、今日登場するサドカイ派は、復活を信じない人たちだった。彼らは主イエスに質問を投げかけた。「順々に七人兄弟の妻となった女は、復活のとき何番目の妻になるのか」という意味のものだった。初めから復活などあり得ないと思っていた彼らは主イエスを試したのだった。

 

それに対して主イエスは言われた。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と。つまりアブラハムもイサクもヤコブもこの世的には死んでいる者だが、神の前では生きていると。いのちの神との関りの故に生きている。神が関りをもたれる限り、すべての人は生きたものとして不滅であるということ。したがって神の前には、いのちしかない。死んでいるものは何一つない。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とは、そういう意味なのだ。

 

主イエスがサドカイ派に言われた、もう一つの言葉にも注目してみよう。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」と。この世の延長線上で復活を考えていた彼らに言われたのだ。聖書をどんなに繰り返し読んでも、多くを暗唱していたとしても、思い違いをした読み方があるということだ。

大事なのは、いま述べたように、神の前ではすべてが生きている、すべてが生きてくるということ。聖書を読んで、すべてのものが意味あることとして生きてくる、そして、そのいのちの源としての神に出会うことである。

 

雑用と思えるような仕事も生きてくるのだ。報いられなかった忍耐も生きる。無駄だったと思える努力も生きる。実際には役に立たなかった準備も生きてくる。そう、すべてが生きるのだ。不幸も生きる。病気も生きる。悩みも苦しみも生きてくる。そのように、あらゆるものを生かして(活かして)くださるのが聖書の神、復活の神なのだ。

 

(大橋道也師)