インフォメーション(日々更新中)
2020-09-30 21:52:00
伺います❣️
まだまだ「法要」や「法座」ができないお寺が多いようです。。
たとえ、おひとりの方に向けてでも「法話」に伺います。
「交通費」だけで伺います。
また「当院にお越し」いただいても結構です😊
気軽にお声がけください。
09077650987に、メッセージかお電話をください❣️
2020-09-30 20:55:00
人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ‼️
以前「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本があった。
わたしは、自分や身近な人を見ていて、、
「ひとは幼い頃から高校生あたりまでのパターンを繰り返している」という気がしている。
さりげなく、「あなたは〇〇なお子さん」だったんでしょうね!
と問いかけると、、
「どうしてわかるんですか」と言われる。
もしあなたが誰かを信用できるかどうかとか、面接を担当しているというような時に、、
この質問は有効であると思うが、、
絶対とはいえないし、概要しかつかめないと思うけれど、
悪用されないように、知りたいことを知る文言は伏せておきます。
2020-09-27 02:26:00
初地と等覚(51位から10段進む)
法蔵菩薩は成仏したのか、十劫の昔に成仏したといえるか?
法蔵菩薩が十劫のむかしに成仏したというのは、
「法蔵菩薩」は、完全なさとりからの垂迹(方便)、
言い換えると「真如からの来生」であるといえます。
大経の論から「法蔵菩薩のさとりへの道」は、
わたしの「大乗菩薩道」《願行》の道であると、
真如が誘導していると理解できますし、
それが「大経」の真実です。
こう理解しなければ、「法蔵菩薩の存在」も「願行」も本来不要と
いうことになってしまいます。
法蔵菩薩が「讃仏偈」によって「世自在王仏を讃嘆していること」が、
「讃嘆門行」とのちに天親が定義したのかもしれません。
そして、ストーリーに「設我得仏〜不取正覚」とある以上、
わたしが迷っている限りにおいては、法蔵菩薩が成仏しているとは
いえないという矛盾に思える内容の答えです。
「成就文」は「願いの成就」でしかありません。
しかも本願力は増上縁ですから、わたしがこの本願力を
「無疑」に受け入れ、わたしに着床しなければ、
大乗菩薩道(法蔵菩薩の願行)を生きることにはなりません。
ですから「法蔵菩薩は真如のさとりからの垂迹である」と理解して、
わたしが、願行に生きて「初地から等覚に至る」という、実践の
必要性をストーリーにされているのです。
ですからわたしたちは「初地から等覚への歩み」を法蔵菩薩とともに
生きることによってこそ、念仏行を生きるといえるのです。
そういうポイントで、親鸞は「等覚よりも初地」について、
いろいろな場面で論じ、まず初地にはいり、究極は、正信偈に記述した
「成等覚証大涅槃」
という究極の境地に至ることを述べています。
つまりわたしたちは、五念門行で「如来」が着床し、熟していくと、
肉体だけ残した「等覚」に至れるのです。
2020-09-26 04:36:00
なんのために生きる?(現実から)
なんのために生きる?
自分のため(どういう理由で?)
妻のため、夫のため。
家庭のため、市町村のため。
国のため。
こうやって書くとだんだん「大きくなると漠然」とします。
まずは「パートナー(夫や妻)のため」って考えれば、
具体的になるでしょう。
パートナーが今日はなにを求めているか。。
そういうことを埋めていく。
「相手からは求めない」
今日は1度でも笑ってもらえることをしよう。。
といった「些細なこと」です。
よく「家のローンのため」とか「家族のために仕事に振り回されて本末転倒すること」があります。
それってどこかでミスっています。
パートナーや家族に「ローンにムリが出てきたから、賃貸に引っ越そう」っていうとどうなるでしょう。
「イヤだ」といわれたら、じゃあ残業とかバイトとかするから、土日の家庭サービスができなくなるけどいい?」と真剣に聞いて見ましょう。
「仕事で出張ばっかであんまり家にいないけど、不満はないか?」と聞いて見ましょう。
「もっといてほしい」といわれたら、じゃあ転職を一緒に考えて欲しい」といいましょう。
「なんのために生きるか」ということについて、「悟りを得る」「魂を磨く」なんていうと仰々しいけど、、
目の前にある小さなことのために「生きる」ということではないかと思います。
そこには「じつはさまざまな智慧が必要になること」がわかります。
そこで智慧を巡らせることが、あなたを育てます。
そうしているとまたさらに「あなたに向けられるすべきこと」が転がり込むことでしょう。
これをシンクロニシティといいます。
そのなかで「大局」に関わることも自然と出てくることもあるでしょうから、そういう時でも「目の前」を忘れてはいけません。
これは「時機が熟す」というところに現れてくるものなのです。