インフォメーション(日々更新中)

2019-05-17 03:35:00

ご心配をおかけしました❣️

ある読者さまから「続けて欲しい」との「ご連絡があり」ちゃんと「読んでますから失せないでください」って励まされました❣️

今夜17日から18日の午後までには、続きを書きますね(≧∀≦)

2019-05-16 00:04:00

ユングがいっていた!

昨日の「わたし(A)」もアスペルガーに書いた内容は、

心理学で有名な「ユング」という人が言っている、

「外向性と内向性」ということになるかも知れません。

 

「外向性」っていうのは、「自己」以外に「基準」を求めるから、

「ひとの顔色を伺い」ひとに合わせようとするタイプ!

「内向性」っていうのは、「自己」に「基準」を置くから、

「他に合わせるより自己の意思」を基準にする。

 

一般的にいう「社交性」とは違う概念です。

「内向性」は、「自分勝手」ではなく、自己に論理的意味があるので、

「自己は無我」と納得すれば「わたしは無い」とも思えるけれど、

そう思えず「他の顔色ばかり伺っているひとが不思議でならない」となります。

 

以前「暁烏さん」の「独立者」という意味がここに合うと思います。

「自己は無我」なので「仏の智慧」を「自己」とする‼️

そういう意味です。

 

まぁとはいえ「アスペルガー」と「ユングの内向性」が、まったくイコールだとはいえませんが、

ユングの時代の解釈だったのではないか⁉️

と思えます(≧∀≦)

2019-05-14 23:45:00

⭐️わたし(A)もアスペルガー(≧∀≦)❣️読んでください🙏⭐️

「わたし(A)」は「無常、無我」がわかるし、

「わたし」へ、そんなに「執着がない」けれど、どんどん「周り」が「わからなく」なっていました。(決して悩んでいるのではないけど)

「なぜ仏教の真実則をそんなに難しいっていうのか」って。。

逆に「わたしA」のように「方便則」が「奇怪に思えて、無意味感がある」というひとも意外と多い。

 

そこで先日「論理家タイプの1」の記事からそうかと思っていました。

(お知らせ5/11)

そして「今日」知ったのが、👇

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

「アスペルガーは障がいではない」ということだったんです。

そして、ほぼ「社会で一般的に生きてるだれもが」5/11の2の「論理家」になれるんです。

仏教の「智慧」を現実的に生きられるようになるってことです。

「そこに誘うのが《仏教の真実》すなわち智慧と慈悲なのかも知れません❣️」

 

結果、釈尊も親鸞さんも同じだったかもって思います。

けど、「この状態」が「わからない」ひとにとっては、

「オマエ」は、自分が「釈尊と親鸞」と同じだといいたいのか‼️

「おごっている」って言われるのかもしれません!

けっきょくそういう風に「理解されない」存在なのです(≧∀≦)

 

「法然」も「親鸞」も同じだといっていいのは「親鸞さん」だからってこと?

ここには「如来からあたえられた信心」が同じってことがあるんだ。

っていう「非現実的な方便論」を「なんの疑問もなく」納得している人たちにとっては、

「信心」が同じなのではなく、

「無常無我、空性」という「実相」において同じということが「わからない」といわれます。

しかし、「実相」において同じといえば「現実的」なのです。

☆現代人にも「納得できる」んです。

 

けど、「阿弥陀如来」と「親鸞さん」と「阿闍世」と「わたし」が同じっていうのは、

「真実則」ならわかるはずの「むちゃくちゃ簡単な論理」ですけど、

定義を「真実則」に置けないひとには「わからない」ってなるようです。

 

だから、こういうことが「この講義」を書く「気持ちが失せていた」理由なのかもしれません。

いろんな人から「このページを《見ている》」とは言われるけれど、

「読んでいる」と言われず、「読んでも難しい」と言われることが多くなったのです。

「プリントアウト」してくださったら「だれでも読めますよ」っていうけれど、

「だれもそこまでしない!」

 

「シオンの議定書」が「ニセモノであれなんであれ」

「ユダヤ人は古くから論理」で生きている。

多くのひとは「情と権力」に振り回される。

という話に「うなずける」のも、「アスペルガー」だからなのかも知れません❣️

 

ほとんどの人は、

「論」から「現実を智慧によって観られ」て「法楽」が得られて「ものごとが整理される」

つまり「功徳荘厳」になることが、

「事実」だとわかってくれない。

 

「情動」が「世の中をややこしくしてる」っていう「事実」も理解されない。

だからといって、「わたし自身が悩んでいるわけではない」んです。

「わたし」は実在ではない「空性」ですから。。

 

そしていま「利他」るなかで、「そうなっているひと」も数名居るし。。

教行証文類の「真実則」の「論」が「事実検証されて」いるから。。

文学の中にある「論」も「社会的意義がある」と「自然法爾が証明」している。

(証はさとり)

 

ただ「教行証文類」の「方便則」があまりにも「ミエミエな方便」だし、

「現代」において、「なまんだぶ」っていうてるひとが「奇異」に見えるし、

「仏教を知らない《現代人》」に「お参りしてもらっても同じ」ように、

「異様な雰囲気」っていう。

 

僧侶だって「本堂や仏壇」の前ではいえる、けど電車の中や街中で「ひとに聞こえる声」で「なんまんだぶ」っていうてるのんを、一度たりとも聞いていない。

南無妙法蓮華経も同じ。(まぁお題目は本尊前が基本なんでしょうけど)

現代のように「コミュニティ」が「ムラ」だけではない時代に、「公然」な中で「なんまんだぶ」って言えなくて当たり前でしょう。

 

やはり「五念門行」の「称名」を「広讃嘆」定義した方がどう考えても「現代には合う」と思うんです。

「真実の教行証」でいい「時機」(時代とひと)なのかもしれません。

そういう点で「教行証文類」は、「平安(鎌倉)時代から現代」そして「人間種すべて」(世界人類)をカバーする「スゴイ書」って言えます。

 

先日「八尾のお寺」さんに、お参りして思ったことです。

お参り後の「友人へのメール」をコピペします。

ーーー

今日思ったのですが「僧侶目線」ではなく、「はじめてお参りした現代人」と自分を設定して「今日の法要」に参って見ました。(9月の彼岸に向けて「聞く側」に「身を置きました」)

 

とにかく皆さんが「当然のように念仏しているすがた」って意外と「異様」ですね!

布教使が「最近は念仏が出ない」といいますが、

 

「現代は念仏が出ない方が自然なのかもしません」

 

「お母さんはあなたが大事だよ」が阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」という喚び声で、

親心に気づいて「ありがとうお母さん」というのが「わたしの称名念仏」だとしたら、

「讃嘆」というより「マザコンのキモいひと」って感じですし、

 

「地獄行きのわたしをすでに救ってくださっていたことに気づく《信心》をいただいた《感謝》の念仏」としたら「まったく妄想癖なファンタジスト」って感じになります。

 

とにかく「仏教の基本」を「法」(ダンマ)として「無為法定義の無碍光如来」が基本で、

方便の「有為法(人格)にもなる阿弥陀如来」は、あくまでも「如来」であり「様」ではないことを心掛けないと「さとりを有為法」にしてしまうと「仏教」ではなくなります。

 

「無碍光」はどう転んでも「人格」つまり「有為法」にはならないという意味です。

 

今日、運転してくれた山本さんは「こういう場面」がはじめてで、

今後「運転」をしていただくことが多くなると思いますが、

 

山本さんも、、やはり「失礼ですけど、ちょっと現代人は(あの本堂での一同の念仏)を聞いたら引くかも。。」

って感想を率直に言われました。

じつはこれは「意外とよくいわれる」んです。

 

そういう意味では「憶念と広讃嘆(心におもうこととおはなしと声明)」を「門徒さんもできるようになる」ことが、「現代」という「時機相応」なのかも知れません。

 

「礼拝」の梵語が「屈服」を意味するのですから、日々「真理摂理に屈服して」いれば、

「手を合わせ」なくても「礼拝定義」になります。

 

五念門の「礼拝」を「屈服定義」するなら「手を合わせるスタイルの問題」ではなく、

「言語の讃嘆」そして「回向発願」へと生きることは「スタイル」の問題ではなくなり、

「さとりの観察を憶念すること」と「そのなかで学んだことを語る」で充分「念仏行」といえるでしょう。

 

また、あのような「内陣と外陣」が「権威と民衆」という分断されたイメージとして、強烈に「支配構造」を感じました。

とにかく「改めて」外陣から、「法衣」をつけず「念珠」ももたず、俯瞰してみると、

「堂内のひと」が一斉に「なまんだぶ、なまんだぶ」と言っている状況は「カルト」と「なにが違うのか」と感じます。

以前、日蓮系の「葬儀」に参列して、「南無妙法蓮華経」を一斉に唱えているすがたを見て「感じた」ことと同じです。

 

しかもその「なまんだぶ」と大声でいっている人ほど、「自我が強い」って感じます。

仏教の真実から遊離して「自我の叫び」と感じられる。

「あの大きな声で[なんまんだぶ]っていってる人って、目立ちたいんですか?」

これは「運転して」いただいた「山本さん」から、帰りの道中に出た「問い」です。

「かもね」「まぁ伝統なんでしょ」っていうときましたけど。。

 

本当の意味で「時機相応」の「教え」に目を向けないと、

「アスペルガー」にとっては、「理解不能」になりますし、Aのような「アスペルガー」のひとが増えている時代ということも「考慮」する必要があるでしょう。

 

勝手なことを書いていますが、すべて「ご参考に」ということでしかありません❣️

他意はありません。

 

ーーー

 

アスペルガーから見れば「人間種」唯一の「前頭前野」を使わないのは「なぜなのか?」って思うんです。

「情動」なんて「脳」を持つ生命体なら、ほぼ「簡単なこと」ですし、

「現代」のように「論」があふれている時代だから「アスペルガー」が増えているとも思うんです。

 

2019-05-11 01:04:00

これってAは1に該当する「社会不適合者」かもしれません❣️

『論理的な思考ができる人』は世の中に2パターンいると思っています。

[1]生まれつき思考回路が論理的な人

[2]生まれつき思考回路が論理的なわけではないが、論理的思考力に価値があると考え、実際に使うようにしている人

世の中の多くの人は[2]に所属していると思います。[1]に所属する人は、しばらく付き合っているとなんとなく『あ、この人は物事を論理的にしか考えない人だ』と感じる瞬間があります。

[1]の人は、目的や背景がはっきりしていない物事に納得することはありません。その場の雰囲気で周囲に合わせていても、心の底では『なぜこの目的からこの結論に至るのかわからないんだけど?』と後で聞いてきます。上司である場合『以前と同じだから』という説明をしても納得してくれません。『そもそもこれはどういうものだから以前はこうしたのか調べろ。そのうえで以前と今回を比べて変更なしで良いことを示せ』と言われます。雰囲気に流されることがなく、うかつなことを言うと『それってどういう意味?』と漏れなく突っ込んでくるタイプの人間です。細かいわけではなく、本当に論理的でないことが理解できないのです。

[2]の人は、基本的に論理的ではあるものの、忙しかったり自分に影響がない事柄に関しては、説明が論理的でなかったのにもかかわらず(説明が下手だった場合や、意図して余計な情報を出さなかった場合を含む)納得してくれるときがあります。

私は間違いなく[2]の人間です。[1]の人は、仕事においては非常に優秀なタイプだと思いますが、プライベートでも常に論理的に考えて行動していないと容赦なく突っ込んでくるので、一緒にいて疲れます。

私は理系大学に進学し、メーカー技術職に勤めてきましたので、基本的に出会った人は論理的な人ばかりだったと思っていますが、それでも[1]に該当すると感じた人は今までの人生で3人だけでした。(もしかしたら、抜群のコミュニケーション能力で、[1]に該当するのにもかかわらずそれを感じさせなかった人もいたかもしれませんが)

 

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