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2019-05-14 23:45:00

⭐️わたし(A)もアスペルガー(≧∀≦)❣️読んでください🙏⭐️

「わたし(A)」は「無常、無我」がわかるし、

「わたし」へ、そんなに「執着がない」けれど、どんどん「周り」が「わからなく」なっていました。(決して悩んでいるのではないけど)

「なぜ仏教の真実則をそんなに難しいっていうのか」って。。

逆に「わたしA」のように「方便則」が「奇怪に思えて、無意味感がある」というひとも意外と多い。

 

そこで先日「論理家タイプの1」の記事からそうかと思っていました。

(お知らせ5/11)

そして「今日」知ったのが、👇

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

「アスペルガーは障がいではない」ということだったんです。

そして、ほぼ「社会で一般的に生きてるだれもが」5/11の2の「論理家」になれるんです。

仏教の「智慧」を現実的に生きられるようになるってことです。

「そこに誘うのが《仏教の真実》すなわち智慧と慈悲なのかも知れません❣️」

 

結果、釈尊も親鸞さんも同じだったかもって思います。

けど、「この状態」が「わからない」ひとにとっては、

「オマエ」は、自分が「釈尊と親鸞」と同じだといいたいのか‼️

「おごっている」って言われるのかもしれません!

けっきょくそういう風に「理解されない」存在なのです(≧∀≦)

 

「法然」も「親鸞」も同じだといっていいのは「親鸞さん」だからってこと?

ここには「如来からあたえられた信心」が同じってことがあるんだ。

っていう「非現実的な方便論」を「なんの疑問もなく」納得している人たちにとっては、

「信心」が同じなのではなく、

「無常無我、空性」という「実相」において同じということが「わからない」といわれます。

しかし、「実相」において同じといえば「現実的」なのです。

☆現代人にも「納得できる」んです。

 

けど、「阿弥陀如来」と「親鸞さん」と「阿闍世」と「わたし」が同じっていうのは、

「真実則」ならわかるはずの「むちゃくちゃ簡単な論理」ですけど、

定義を「真実則」に置けないひとには「わからない」ってなるようです。

 

だから、こういうことが「この講義」を書く「気持ちが失せていた」理由なのかもしれません。

いろんな人から「このページを《見ている》」とは言われるけれど、

「読んでいる」と言われず、「読んでも難しい」と言われることが多くなったのです。

「プリントアウト」してくださったら「だれでも読めますよ」っていうけれど、

「だれもそこまでしない!」

 

「シオンの議定書」が「ニセモノであれなんであれ」

「ユダヤ人は古くから論理」で生きている。

多くのひとは「情と権力」に振り回される。

という話に「うなずける」のも、「アスペルガー」だからなのかも知れません❣️

 

ほとんどの人は、

「論」から「現実を智慧によって観られ」て「法楽」が得られて「ものごとが整理される」

つまり「功徳荘厳」になることが、

「事実」だとわかってくれない。

 

「情動」が「世の中をややこしくしてる」っていう「事実」も理解されない。

だからといって、「わたし自身が悩んでいるわけではない」んです。

「わたし」は実在ではない「空性」ですから。。

 

そしていま「利他」るなかで、「そうなっているひと」も数名居るし。。

教行証文類の「真実則」の「論」が「事実検証されて」いるから。。

文学の中にある「論」も「社会的意義がある」と「自然法爾が証明」している。

(証はさとり)

 

ただ「教行証文類」の「方便則」があまりにも「ミエミエな方便」だし、

「現代」において、「なまんだぶ」っていうてるひとが「奇異」に見えるし、

「仏教を知らない《現代人》」に「お参りしてもらっても同じ」ように、

「異様な雰囲気」っていう。

 

僧侶だって「本堂や仏壇」の前ではいえる、けど電車の中や街中で「ひとに聞こえる声」で「なんまんだぶ」っていうてるのんを、一度たりとも聞いていない。

南無妙法蓮華経も同じ。(まぁお題目は本尊前が基本なんでしょうけど)

現代のように「コミュニティ」が「ムラ」だけではない時代に、「公然」な中で「なんまんだぶ」って言えなくて当たり前でしょう。

 

やはり「五念門行」の「称名」を「広讃嘆」定義した方がどう考えても「現代には合う」と思うんです。

「真実の教行証」でいい「時機」(時代とひと)なのかもしれません。

そういう点で「教行証文類」は、「平安(鎌倉)時代から現代」そして「人間種すべて」(世界人類)をカバーする「スゴイ書」って言えます。

 

先日「八尾のお寺」さんに、お参りして思ったことです。

お参り後の「友人へのメール」をコピペします。

ーーー

今日思ったのですが「僧侶目線」ではなく、「はじめてお参りした現代人」と自分を設定して「今日の法要」に参って見ました。(9月の彼岸に向けて「聞く側」に「身を置きました」)

 

とにかく皆さんが「当然のように念仏しているすがた」って意外と「異様」ですね!

布教使が「最近は念仏が出ない」といいますが、

 

「現代は念仏が出ない方が自然なのかもしません」

 

「お母さんはあなたが大事だよ」が阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」という喚び声で、

親心に気づいて「ありがとうお母さん」というのが「わたしの称名念仏」だとしたら、

「讃嘆」というより「マザコンのキモいひと」って感じですし、

 

「地獄行きのわたしをすでに救ってくださっていたことに気づく《信心》をいただいた《感謝》の念仏」としたら「まったく妄想癖なファンタジスト」って感じになります。

 

とにかく「仏教の基本」を「法」(ダンマ)として「無為法定義の無碍光如来」が基本で、

方便の「有為法(人格)にもなる阿弥陀如来」は、あくまでも「如来」であり「様」ではないことを心掛けないと「さとりを有為法」にしてしまうと「仏教」ではなくなります。

 

「無碍光」はどう転んでも「人格」つまり「有為法」にはならないという意味です。

 

今日、運転してくれた山本さんは「こういう場面」がはじめてで、

今後「運転」をしていただくことが多くなると思いますが、

 

山本さんも、、やはり「失礼ですけど、ちょっと現代人は(あの本堂での一同の念仏)を聞いたら引くかも。。」

って感想を率直に言われました。

じつはこれは「意外とよくいわれる」んです。

 

そういう意味では「憶念と広讃嘆(心におもうこととおはなしと声明)」を「門徒さんもできるようになる」ことが、「現代」という「時機相応」なのかも知れません。

 

「礼拝」の梵語が「屈服」を意味するのですから、日々「真理摂理に屈服して」いれば、

「手を合わせ」なくても「礼拝定義」になります。

 

五念門の「礼拝」を「屈服定義」するなら「手を合わせるスタイルの問題」ではなく、

「言語の讃嘆」そして「回向発願」へと生きることは「スタイル」の問題ではなくなり、

「さとりの観察を憶念すること」と「そのなかで学んだことを語る」で充分「念仏行」といえるでしょう。

 

また、あのような「内陣と外陣」が「権威と民衆」という分断されたイメージとして、強烈に「支配構造」を感じました。

とにかく「改めて」外陣から、「法衣」をつけず「念珠」ももたず、俯瞰してみると、

「堂内のひと」が一斉に「なまんだぶ、なまんだぶ」と言っている状況は「カルト」と「なにが違うのか」と感じます。

以前、日蓮系の「葬儀」に参列して、「南無妙法蓮華経」を一斉に唱えているすがたを見て「感じた」ことと同じです。

 

しかもその「なまんだぶ」と大声でいっている人ほど、「自我が強い」って感じます。

仏教の真実から遊離して「自我の叫び」と感じられる。

「あの大きな声で[なんまんだぶ]っていってる人って、目立ちたいんですか?」

これは「運転して」いただいた「山本さん」から、帰りの道中に出た「問い」です。

「かもね」「まぁ伝統なんでしょ」っていうときましたけど。。

 

本当の意味で「時機相応」の「教え」に目を向けないと、

「アスペルガー」にとっては、「理解不能」になりますし、Aのような「アスペルガー」のひとが増えている時代ということも「考慮」する必要があるでしょう。

 

勝手なことを書いていますが、すべて「ご参考に」ということでしかありません❣️

他意はありません。

 

ーーー

 

アスペルガーから見れば「人間種」唯一の「前頭前野」を使わないのは「なぜなのか?」って思うんです。

「情動」なんて「脳」を持つ生命体なら、ほぼ「簡単なこと」ですし、

「現代」のように「論」があふれている時代だから「アスペルガー」が増えているとも思うんです。