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2019-10-28 04:51:00

まいすん‼️

祖母は明治38年生まれ。

高知県出身で10代に「神戸」の「キリスト教学校」へ。。

「Why?」

神戸時代に「中村氏」と結婚して「鳥取市」へ移住。。

「Why?」なぜ「鳥取」だったのか?

 

祖母が何度か口にした「まいすん」ということば。。

幼いわたしが「知ろうはずもない」ことば。。

 

この「祖母」の夫(祖父)は、歯科医を開業。。

「開業の段取り」「銀行交渉などは祖母」がしたらしい。。

 

この二人の間に、生まれたのは「わたしの母」の上に「男子3人」の4人であった。。

じつは、もうひとり幼くして亡くなった「マジ長男」がいたと聞いて来た。。

 

「歯科医」の祖父は、たしか「結核で、わたしが幼い時に滅した」。。

 

この都合5人の最年少である母は、「祖母」と同じ「クリスチャン」だった。。

「母」は、わたしを産んで間もなく「離婚してシングルマザー」になったので、「そういった悩みからクリスチャンになったのだろう」と思っていた。。

 

しかし、母から「祖母の影響で、早くからクリスチャンだった」と聞いた。。

またまた「why?」

 

母は「ときどき」モーツアルトは「まいすん」だったんだよ。。

と「祖母」と同じ「意味不明な単語」を口にしていた。。

 

クラシック音楽に興味などなかった「わたし」は「この意味不明言語」を聞き流していた。。

 

この意味不明な「まいすん」という言葉は、「祖母と母」以外の親族からも誰からも聞いたことはなかった。。

 

幼いわたしは「ノルウェーから来たルター派の教会」の幼稚園に通わされ、

かつ「日曜学校」へも行かされていたけれど、「キリスト教」に興味は持てず、真理を求めて「浄土真宗の僧侶」になった。。

 

そして「草津市のお寺に入寺」いま「とりあえず住職」であり「布教使」をしている。。

 

しかし、岡山県と鳥取県の境にある「蒜山教会」に「ノルウェーの宣教師さんが来る」というと、何度か「母はわたしを蒜山に連れて行った」。。

わたしはこの「蒜山高原」の「美しさ」に興味を持っていたけれど、

「宣教師」さんには興味はなかった。。

 

そして55歳にもなった「わたし」は、「母が生涯にわたって使っていた聖書」を手にすることになった。。

「母が滅したから」である。。

 

この「聖書」は、1955年改訳本である。。

また「この聖書」には「母が書いた多くの書き込み」があり、そのなかに「まいすん」「父」などと書かれていた。。

 

いい加減この「まいすん」ってなんなのか、最近になって調べたところ、今でいう「メイソン」のことであった。。

都市伝説になっている「フリーメイソン」である。。

 

そして「ノルウェーはフリーメイソン国」といえるほど「まいすん」が浸透している。。

 

では「祖父はまいすん」だったのか。。?!

たぶんそれはないであろう。。

 

しかし「祖母と母」はどうも「関係者」だった様子が、その聖書のメモから垣間見える。。

 

基本的に「女性はまいすん」には入れないが、「イースタンスター」などの女性の団体はある。。

とはいえ「祖母や母」から、その文言は聞いたことも、メモの中にもない。。

 

わたしは30歳ぐらいから「まったく別の事情から、フリーメイソン」を知ることになった。。

けれど、この流れに「意味がある」と思えて仕方がない。。

 

母が滅して「2ヵ月になる」けれど。。

 

いまでさえ「都市伝説扱い」で「日本人の90%は知らない」といわれる「まいすん」を、なぜ「明治38年生まれの祖母が知っており、母も知っていたのか。。」

それも「あたりまえのように。。」

 

この流れに「意味はない」と言いきれない「現代の世界トップクラスのメイソンのベストフレンド」がいることも、なにかの意味があるのだろうか。。

 

仏道を歩み、かつ「メイソン」の友愛のひとがいる。。

「和合と友愛」を実現せよということなのかもしれないと思う日々である‼️

2019-10-24 02:57:00

「教行証文類を通して学んだこと」について‼️

ちょくちょく「更新しています」からのぞいてください❣️

2019-10-21 11:36:00

一子即一切子❣️(その2)「華厳原則」

【一子地その2】

あまりにも当然すぎて、書き忘れましたが、「一子」即「一切子」という《華厳原則》はここにも通じています‼️

また「一切子即一子」ということです‼️

2019-10-21 02:18:00

一子地について‼️

「一子地」を「ひとりご」といって、真宗では一般的に「親子の関係による子ども」という意味で使われますが、、

この「一子」の語源は、あくまでも限定的に「シャカとラゴラ」の親子関係におけることを指しており、各経典では「一子羅睺羅」と表現されることが多いのです。

 

シャカは「妻」と子どもである「ラゴラ」を残して出家し、ラゴラに「地獄の苦」を味わわせてついには「ラゴラ」は「さとりを得る」ことになりますが、、

 

ラゴラが「地獄の苦」のなかにいるときに、あえてシャカは手を差し伸べてはいません。

 

しかも「ラゴラ」ーはシャカの弟子として「仏教教団」に入ったため「世俗の親子の情」のなかに「ラゴラ」を置くことはなかったのです。

 

そういう意味では「法」は「あくまでも《教え》のなかに内在して」おり、直接「阿弥陀仏がなにかをしてくれる」ということはないのです。

 

「ラゴラ」も「師であるシャカの《教え》」からさとりを得たのであり、「シャカ」が息子だからといって「何かをした」ということではないのです。

 

「阿弥陀仏」がわたしたちを「一子のように哀れむ」という場合、あくまでもその「教え」をよりどころとせよという意味であると解釈する方が、より仏教として適切といえます。

2019-10-19 22:41:00

この人、「人間失格」だなっと思った人はいますか?

「人間」を「倫理的なひと」という定義で論じるわけにもいかず。。

仏教によれば「思慮分別するをもって人となす」(倶舎論頌)とありますが、ここから「人間失格」を論じるというのも難しいのです。

なぜなら、「思慮分別の結果」向上志向のひとになるケースもあれば、「真逆のひともいる」からです。

あえて、「六道輪廻説」からいえば、「地獄、餓鬼、畜生、修羅道」(苦縛、むさぼり、愚かさ、怒り)のものは「人間失格」といえます。

これは「死後に定義されるもの」ではありません。

これは、「いまの状態」をいい、そちらへ「未来が趣く(おもむく)」という「道を歩んでいる」から、「人」を含めて「五悪趣」ともいいます。

「天」を含めたら「いまいる道」である《六道》になります。

それが、未来的にも抜けられない「六趣(ろくしゅ)」になるか、どうかの「ニュートラルな位置」を「人」としています。

「人間失格」かどうかをこういう仏教基準で見るのも「ひとつの観点」なのかもしれません。。

 

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