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2019-10-04 03:44:00

性悪説が正しいと裏付ける実例はありますか?

性悪説と言えるかどうかわかりませんが、生命体は、なぜか「自己防衛」をします。

「動物の毒」も「防衛規制」と同じといえます。

毒を持たない動物も、なんらかの「防衛規制」を持っています。

そして、人間においての「毒」は、いわゆる「煩悩」です。

この毒がある限り、例外はあったとしても、およそすべての生命体は「性悪」といわざるを得ないといえます。

ただ、人間は「防衛」以上に「侵略」をしようとします。また、快楽を求めるために「手段を選ばない」面もあります。

このような「人間の特殊性」を「動物以上」に「性悪」といわざるを得ないということを「親鸞」はいっているようです。

キリスト教においても「神への背信」を「原罪」とするのは、無宗教のひとでもわかる表現をすれば、「自然への背信」であり「自然への侵略」です。

「自然界への侵略」を「バベルの塔」に併せれば、まさに「人間は自然を破壊し、生態系を狂わせる」といった「背信者」です。

だから、いま「人間」という生命体に「さまざまなカルマ」が起こっているのでしょうか。。

日本人は「国家が何をしているか」といったことに「無関心」なので、「地球の周りに1万機以上の人工衛星や宇宙ゴミ」があり、

5Gスマホなどが出たら、どれだけ「人体に影響が出るか」なぜ「東北が復興しないのか」といった理由を問いません。

「温暖化の原因はホントに二酸化炭素」だけなのか。。

こういう「カルマ」がどんどんスピードを増しているのに「自己防衛」しか考えない。。

宗教者でさえ「同じカルマの中にいる」といわざるをえません。

宗教を英語では「religion(レリジョン)」といい「神との絆再び」といった意味がラテン語の本来的な意味です。そうだとするなら、キリスト教者の多数は「神との絆再びのチャンス」を切ってしまったのか。。

日本で「宗教や信仰」と翻訳したのは、「仏教者」で「宗とする教え」「仰ぎ信じる」という意味に変わっていますが、「仏教の僧侶も同じ堕落(自己保身)状態」です。

もとい、このように「宗教者」でも「教えの深さ」を忘れて、「表面だけをなぞり」至るべき「智恵慈悲の世界観」まで程遠いほど、

「自己保身」に迷走しています。これも「自己防衛」がマイナスに動いている状況だと言えるでしょう。

生命体という以上にDNAが「なにをしたいのか」わかりませんが、「自然から生まれた生命体が自然を破壊する」というアンビバレンツな現象は、

「神が人間を破壊することなのか」「仏教の智慧が難しすぎる反面、智慧に導くストーリーにはまり込み《月を指す指》ばかり見ている」から「僧侶が堕落しているのか」なぜ「自己防衛をコントロール(調伏)するはずの教え」を生きていて堕落するのか。

もと「信仰」という「翻訳」は「信じ仰ぐ悟りの智慧を生きる無我者の和合体」を意味するコトバだったのに、「信じ合えない、自我の侵略者」を増やしている。

だからなのか、「親鸞」は「煩悩を功徳に転換するシステム」を作ったけれど、「僧侶が教えの深みにはいる能力がない」というより「快楽を求め、安心、安定を求める」という愚かな状態になってしまっている。親鸞は平安時代末期からすでにいまのような状態だったから、そういうシステムを構築したのですが、なかなか機能していないといえます。

これらはすべて「性悪だから」と済ませていいのか。。

やはり「DNA」という「発生の理論(起源)」が未だ「じつは不明」でやっかいな「プログラム」に動かされ「DNAがなにをしたいのか」がわかるまでは、「性悪」な状態を「ナチュラルな性善に転じる」のは難しいことなのかも知れません。。

最近「いろいろな質問や他の方の回答」を読んでいて、いろいろと思慮しているので、内容があちこちしました。。

 

ご了承くださいませ。。

2019-10-02 21:07:00

悲歎。。そして摂取❗️

愚禿悲歎述懐和讃から、親鸞さんが「なに」を歎いているのか?

親鸞は、この和讃において、占いや迷信などを僧侶や法師という立場の者がやっていて、名誉や利益を求めていることを歎いていると思うのです。

 

つまり、「占いや迷信に迷っているひと」自体ではなく、「それを利用して利益を得ようとする《詐欺坊主》を歎き」そのように「不本意な利益で生きることしか選択できない坊主が生まれていること」を歎いている。

 

まじめに「法を説いても聞いてもらえない、生活に困る」という現代においても、同じように「真宗以外」においては、「お守りやお札」を売ったり、「霊能者を演じてみたり」という「本来仏教ではないこと」で生きている僧侶もいる。

 

また、「それができない真宗において」はどうやって生活を成り立たせようかと「悩んでいる」僧侶が多い状況で、なんとなく「先祖供養」をやってるような。。

 

どうしようかという「現代」においては、、

 

改めて「キッチリ法を生きることしかない」と思えるのです。

 

さまざまな事情で「お寺の法要も減って」布教使に渡す「お礼すら今までのように払えない」という事情もあるなかで、「布教使」や「住職のあり方」が問われているなかで、親鸞さんから「悲歎」されないように「法を生きることを本気でまじめに行なう」ことが重要なのであり、、

 

「どうしたら寺が残れるか」なんていう研修をして「なんらかのテクニックを駆使する」のではなく、「地味に利他ることを(たとえば寺の周辺を掃除することだとしても)行動に示すこと」こそが大事であると思うのです。

 

テキトーな教えを説いて、「みなさん一同でお念仏を申しましょう」なんてムリクリ念仏をさせてみたところで、「坊さんの自己満足」で終わり、一般の現代人からすれば「面倒なこと」だと思われることを「強いている」と気づかない「裸の王様」が「坊さん」だと、、

親鸞さんが歎くようなことをしない方がいいと感じています。。

そして最も「カナメ」は、そうだといっても「仮も偽も」摂取のなか。。

 

つまり「そういう状況」を歎いておられても「批判されている」わけではない。

そういう次元にしかおられない人もいるという、究極の「摂取不捨」のなか。。

 

 

という事実です‼️

2019-10-02 12:17:00

2年前にFBに投稿したこと❣️

深い意味なく「阿弥陀仏って実在なん?」って聞かれることがあったら、「徳川家康は実在したん?」って聞き返してみるといいですよ。

たいがい「実在した」っていわはります。

けど、実在論を論じるまでもなく、その人のイメージしてる「徳川家康さん」でしかない「虚像」。

親鸞さんでも、吉川英治の親鸞さんと五木寛之の親鸞さんでは違うひと。

 

全て「虚像」。

なにがホントなんてわからんってのがホントのとこ。。

サトリってのはそんな感じ。。

2019-10-02 01:16:00

裸の王様に見えなかったものは?

「裸の王様」にも「街のみんなにも」見えていないのは、「すばらしい服を持ってきた詐欺師」と「詐欺師に同調してほんとうのことをいえない、またはいわないほうが自己保身できると思っている部下」の「損得と保身の心」だといえます。

また、「街のひと」は「問題意識のない傍観者として明日は我が身」を学習しようとしない姿勢が見て取れます。

この話は「王様」をあざけっている話しのようで、じつは「関係者すべてがもっている課題」を明確にする「簡潔な物語」といえると思います。

この物語のなかで、「裸や!」っていったひと(子)と「王様」の「その後」はどうなったのでしょう。。

ご質問のこの物語で王様が見えなかったことは、「社長や住職」という立場で生きてきたわたしから見ると「信頼おけると思っている部下や檀家さん」でも、

「ほんとうのことを言わないということに気づいていない、性善説でひとを見ていることのミス」といえます。

ウラを返せば、「祭り上げられている人は、正確な情報判断ができなくなる」ほど「愚かな判断をしてしまう」ということです。

決して「王という立場にのぼせ上がっていなくても、起きうる判断ミス」なのです。

もちろん「マジで愚かな王もいます」が、この物語を「どの立ち位置で読むか」という読み方で、「見えなかったもの」は変わります。

 

2019-10-02 00:46:00

自由の女神の「自由」ってなんですか?

「自由と平等」は両立しない。

という前提において「アメリカ」はいろいろな問題がありながら、「ルール」にしばられず、「各々が独自のルールをもって」います。

合衆国というように「各州の法律(ルール)」と「連邦法」の関係が、個人間にもあるようです。

「女神」にはいろいろとここに書きにくいこともありますが、「イギリスとフランス」各々のルールが、「個人レベル」に止揚されているのが、

「アメリカのフリーダム」だといえるでしょう。

日本は「〇〇ハラスメント」などの「暗黙のルール」というか「不文律」が増えすぎて、全体のルールにしばられるために「ストレス社会」になっています。

アメリカとは逆に「各個人が独自のルールをもっていない」うえ「個人独自のルール」を持つという発想がないのです。

アメリカは「相手のルールをリスペクトできるかできないか」といううえに成り立つ「フリーダム」だといえるのではないかと思います。

 

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