インフォメーション(日々更新中)

2019-12-31 13:19:00

ボチボチ日本が表立って変化するときに入りましたね❗️

日本は、来年あたりから、いろいろ知らされないまま変わりますから、5Gなど「また便利になった❣️」など、簡単にうれしがらないで、よく政府の動きを見ることが大切だし、そういう視点をもつことで、日本人の意識レベルが上がると思うので、みんなで意識レベルを上げて「変化に対応できる」ようになりましょう‼️

http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/32028/

2019-12-31 04:26:00

中神さんと呼んでる人に「中神さん」ってだれ?と思うへんなおじさん❗️

苦には、、

「苦痛」(痛み)、

 

「苦労」(物事がうまくいくように、精神的・肉体的に励むこと。逆境にあって、つらいめにあいながら努力する)

 

「苦難」(むずかしいこと。めんどうなこと。困難。 「 -をかける」容易ならぬこと。一大事)

 

「苦悩」(精神的にもあれこれと悩む)

 

これら4パターンのなかで、「苦悩」がもっともやっかいだと思う。

 

仏教は「除苦悩法」だけど、「抜苦与楽」ともいい、この「苦」を定義するとき、「苦痛、苦労、苦難」はなんとか乗り越えられそうだけど、、

 

「悩み」っていうのは、「深くて単純ではない気がする」から、ここを解決するのが「仏教」なんだろう。。

 

「四苦八苦」も先の3苦を伴うことがあるけれど、それらは「心のあり方」で乗り越えられるから「若い頃は苦労した」というように、、

「通り過ぎたら、なんとかなっているもの」である。

 

「苦悩はどうだろうか❗️」

あまりに「ひとごとに違っていたり、思考も絡まり合っていて」けっこう大変だと思う。。

 

その「苦悩の解決」は「脳内のゴミを捨てて、自我を捨てられるシステム」があれば「苦を功徳だ」と思えるようになる。

 

そうなれば「苦はない」または「浄土への道を歩むことに専念できる」だろう❗️

それが「名字の転換」であると思っていて実感している。

 

最近「認知症」かというぐらい「自分の名前や立場を忘れる時があるんです」。。

Nakagami さんと言われても「ピンとこない」、、

 

わたしという生命は「法蔵菩薩」だと思って行じているからかもしれないけど、、

こんなことを書くと「またへんなひと」だと言われそうですねぇ〜‼️

 

それでいいんです😆

2019-12-29 05:07:00

現代人は、どっちを選ぶ?

現代人が真面目に仏教を、求めた時「本願寺」と「こういう方々の団体」と、どちらを選ぶでしょう。。

どちらが「ほんとうの仏教」だと思うでしょう。。

ーーー

また、高橋佳子氏の「GLA」なども「仏教やあらゆる宗教の良さ」をどうしたらそうなるかという「具体策や具体的方法論」をもって説いています。

「あいまいや難しい仏教語」で教えられて、、

 

Q「それでどうするんですか?」という問いに、、

A「南无阿弥陀仏を疑わず受け入れて、浄土を願いましょう」

 

これで現代人は納得しますか?

 

すぐれた「ところに偏見を捨てて学ぶ姿勢」は、僧侶に必要なことだと思うのです❗️

 

「高橋佳子氏のGLA」

https://www.keikotakahashi-lecture.jp

「日本テーラワーダ仏教協会」

https://j-theravada.net/

2019-12-29 04:20:00

スピリチュアルのほんとうの意味‼️

引用

ーーーーー

 

「spiritual」という単語は英語の日常会話で、ごく普通に使われます。

たとえば、以下はNHKの語学番組「トラッド・ジャパン」で採り上げられた会話です。

 

「伊勢神宮に行ったことがありますか。」(Have you ever been to Ise-Jingu?)

 

「ええ、とても厳粛な気持ちになりました。」(Yes, I have. I found it be very spiritual experience.)

伊勢神宮を訪れたときの気持ち(雰囲気)が英語では「spritual」と表現され、日本語では「厳粛な」と訳されていました。日本人の私たちには「spiritual」が表現する雰囲気が、この例で良く理解できるのではないでしょうか。

 

では、どうして日本ではカタカナ語の“スピリチュアル”には、

かなり異なる意味が与えられてしまっているのでしょうか。

 

ひとつには、「spiritualism」(スピリチュアリズム)という言葉との混同が考えられます。

これは19世紀中頃にフランス人のアラン・カルデック(本名イポリット・レオン・ドゥニザール・リヴァイユ、1804~1869年)が広めた降霊術のことを指します。

「spiritual」という英語の典型的な美しい意味には、この降霊術のことは含まれていません。

 

そして、もうひとつ、「psychic」(サイキック)という言葉との混同があります。

この語の語源はギリシャ語の「サイキ」であり、元々は魂のことを意味していました。

辞書によれば、「psychic」には、「精神の」、「心的な」、「心霊の」などの訳語があてられるので、

「spiritual」(スピリチュアル)と混同しやすい語です。

 

この「psychic」(サイキック)という言葉が典型的に使われるのは、

現在では、いわゆる超心理学の分野です。

つまり、クリヤボイエンス(千里眼と透視)、プレモニッション(予知)、テレパシー(思考伝達)、

サイコキネシス(念動)などの超常能力に関連する事柄を指しています。

 

このような能力が人間にほんとうにあるかどうかを、ここで議論しようとは思いませんが、

「spiritual」(スピリチュアル)という英語がその意味に含んでいる「人の心のもっとも深奥にある、善良さ美しさと素朴さ」というニュアンスと、「psychic」(サイキック)という言葉の意味は、

かなり離れたものであることはご理解いただけることと思います。

ーーーーー(引用)

2019-12-28 05:53:00

論と情のバランス《智慧と慈悲》❗️

【論と情のバランス】

 

仏教の「智慧」をもつと、「こころは[論]に落ち着く」のです。

「無常無我(非我 )空」といった内容です。

 

ここに徹するための良き方便(善巧方便)は、ひとつには「阿弥陀如来や法蔵菩薩モデルを生きること」といえますが、ここに「情の側面」として「慈悲」が出てきます。

 

これが「無常無我(非我 )空」ではあるけれど、「相手を理解して、相手の状態に相応しい態度を持って、相応しい言葉や示唆を与える」キリスト教では「愛」といえるような「精神的感応道交の関係」といえます。

 

ここに「無我(非我 )と無我(非我 )の一如を元にした、論が情から伝わる」という関係性が生まれます。

 

そこには「なんの駆け引きも損得もない状態が生まれる」のです。

 

「子どもを亡くした親に、何をいえばいいのか?」という駆け引きのような思いは必要もなく、そういう人にでも「分かりますよといった気持ちで穏やかに接する」だけでいいのでしょう。

 

以前「神奈川県」で、「電車の踏み切りで立ち往生しているお年寄りを助けて、助けた40才ぐらいの女性が電車にはねられて亡くなったという事故」がありました。

 

わたしはそのお宅に「なんの意図もなく、友人の発案でお悔やみに伺った」ことがあります。

 

そのお宅は「異なる宗派」でしたが、「友人の気持ちに誘われて」伺いました。

いきなり伺って見ず知らずではあるけれど、「僧侶として伺いました」といったところ、抵抗感もなく、おうちにあげてくださいました。

 

その時は「ご両親のお話を、穏やかにありのままの気持ちでお聞きしていました。」

 

ひとつだけ、ご両親から「娘は成仏していますか?」と聞かれたので、

ふつうに「もちろんです」というと安堵されていたのを、いまこれを書きながら思い出しました。

 

そこで「わたしは、悲しみを和らげてあげようとか、なにか言ってあげようという思いは全くなかった」のです。

 

自然体のやりとりでした。

 

「智慧と慈悲という、論と情のバランス」が自然と取れるようになる。

これが現代の定義による「至高のスピリチュアル」なのだと思うのです‼️

(事故は2013年10月のことでした。)

 

村田奈津恵さん(40)

https://matome.naver.jp/odai/2138068664668978601

1 2 3 4 5 6 7 8