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2019-12-17 16:21:00
教行証文類を知るために、これが重要です‼️
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-125.htm
「華厳経」善財童子の旅‼️
善財童子は最後に「普賢菩薩」のもとで「さとる」という点は、「証文類」や、第二十二願の「還相回向」相応しています。
また、「行文類」などの重要な部分に「華厳経」が引用されます。
ーーー(以下関連)
「華厳経の普賢菩薩」
普賢菩薩:このうえないさとりの心は感応する。金剛蔵道場におられる普賢菩薩は、一つ一つの毛孔より無数の光明を放って、あるとあらゆる世界を照らしていた。不可思議な威神力を見た善財は、十の不可壊の智慧の法門を得ることができた。善財童子は今やその真実の世界の中心にいながら、しかも、今度はその世界の中心を目指して、再び永い行の道を歩み始める。ここに、「初発心時便成正覚」しかも、「歴劫修行(菩薩が長い間、過去現在未来の三世において転生を繰り返して修行すること)」、という事態が示された。普賢菩薩は右手で善財童子の頭を撫でた。すると童子は無限の三昧門を得ることができた。普賢菩薩が、「わたしの自在神力の不可思議を見ましたか」と尋ねると、善財童子は、「はい、見ました」と答えた。
さらに自分の清浄なる法身を観ぜよ。といった。仏は衆生を救うために、さまざまに形をかえて姿を現すという。太陽が暗闇を照らしだすのと同じように、如来の浄智は三世の闇夜を除いてくれる。宿業のなかに苦しむ人間にとって、仏の存在はまさしく太陽に等しい。
「華厳経」の「入法界品」は次の言葉で結ばれるそうです。「此の法を聞きて歓喜し、心に信じて疑うことなき者は、速やかに無上道を成じて、諸々の如来と等しからん」
華厳経のお話の中に、「入法界品」(にゅうほっかいぼん)というのがあって、これは一種の物語になってる。善財童子という青年が主人公で、彼は、悟りの道を求めてさまざまな人物(善知識・ぜんちしき)に教えを請う旅を続けるのですが……この善知識、つまり、彼にいろんなことを教えてくれる「先生」はぜんぶで53人いるそうで……
その53人の中には、普賢菩薩とか文殊菩薩とか、いかにも「先生」にふさわしい方々もおられる一方、なんと「遊女」も……善財が悟りの道を求めているのを知って、ある人は、遊女なんかに会っちゃダメというけれど、また別の人は、ぜひ会いなさいともいう……善財は迷うのですが、結局、その遊女の善知識に会って、教えを請う……
その女性は、絶世の美女で、彼に、自分は「無欲」だという。そして、自分の抱擁を通じて、人は、悟りの世界に至れる……ともいう。このあたり、かなりスゴイです。華厳教……これは、ちょっとタダものじゃないかもしれない……また、そんなところが、すべてを包絡して浄めていくハスの花のイメージにもピッタリなんですが……
以前に、ある映画の中で、能『江口』のラストシーンがでてきました。『江口』のシテは遊女なんですが……この遊女は、最後に、なんと普賢菩薩に「変身」して、光明世界の中に消えていく……これはあきらかに、華厳経のこの入法界品から影響を受けたものなんじゃないかと思うのですが……人の世の、さまざまな世界を一つ残らず救っていく……
このあたり、通常の宗教のイメージとはだいぶ違うなあと思います。一神教の「汝、姦淫するなかれ!」とは様相をかなり異にしています。べつに「姦淫せよ」とはいってないんですが、そういう、「汚れ」みたいにふつうは思われてしまうものにまで一種普遍的な「聖性」を与えてしまう……さすがに、無限世界の入れ子構造の包容力だ……
人は、より高められ、浄められたいと願うとき、やっぱり「汚れ」から自分をひきはなそうとします。光を、高みをめざして上昇しようとするとき、足をひっぱる「汚れた欲望」……人は、なんとかそれから逃れたいと思い、さらには、彼の目からそのように見える存在をこの世から消してしまいたいとまで思うようになる……ヒトラーが、印象派や表現主義の作品を嫌ったのは有名な話ですが……
汚れそのもの、猥雑さと野卑な欲望が渦巻く世界……彼には、近代絵画の拓いていく世界が、そういうふうに見えたにちがいない。ヒトラーは、元々画家志望の青年だったらしいですが……彼の理想とする絵画は、新古典派をゲルマン風味で調理したフリートリヒのような世界だったのか……ということで、彼は、「汚れた絵」を集めて一掃しようとした……
しかし、その彼の手が、死と血と鉄の匂いに穢れていく……これは、なんとも一種の皮肉といいますか、運命のいたずらというべきか……「光」を求める人って、こういうワナにおちいりやすいですね。でも、ハスの花は、そういうすべてを見て、さらに美しく凛としてにおいやかに立つ……まさに蓮華蔵世界のみのりと豊かさ……
切らず、捨てず、なにものにも「悪」のレッテルを貼ることなく、ただみずからを浄めて豊かにきちんと立っている……ハスの花を見ていると、やっぱりそんな生き方もできるんじゃないか……そう思えてきます。ハス自身はどう思ってるのかしりませんが……
2019-12-15 15:02:00
功徳荘厳に関して、「華厳経と善財童子」から‼️
功徳荘厳に関して。。
「華厳経と善財童子」から。。
ーーー引用
広狭自在無礙門(こうきょうじざいむげもん)
というのがあるんです。これは「広」というのは無限の広さに考えれば「無限性」といっていいでしょうね。それから「狭」というのは限定として考えれば「有限性」と考える。そうすると、私たち、いま生きているいのちの有限性が無限の宇宙のいのちと円融といいますか、まろやかに融け合って、そこに礙わりなく一つだというような、そういう考え方ですね。
ちょっと例を挙げますと、私がお会いしていた方が、ご主人を亡くされて、それで「ご主人がどこへいっちゃったんだろう」と。「お父さん、どこへいったの、どこにいるの」という、そういう内からの叫びの中で非常に揺れておった方がありました。その方が、ある日日常のお洗濯をして、そしてアイロン掛けをやっていたそうですね。そうしたら、「あ、お父さんも一緒にいるんだ。この宇宙の中に、どこへもいっていないんだ」と。いま永遠の世界にいるお父さんと、今ここにいる残された奥さんが、「あ、一緒にいるんだ」ということをスーッと感じ取られて、心が収まっていったということがありましたけどね。凄いなと思いましたね。まさに「広狭自在無礙門」じゃないでしょうかね、そんなことがありました。
それからもう一つ考えてみますと、
一多相容不同門(いったそうようふどうもん)
お互いが一つひとつという独自性を明確に持ちながら、その一つひとつの中に全部をみんな含んでいるというわけですね。例えば、具体的なことで申しますと、例えば私どもはよく登校拒否で困っていらっしゃるご家庭のご相談を受けます。そうしますと、いつも感じるんですけども、例えば四人のご家族がいますね。そうすると、そのお一人おひとりの有り様が、例えて言えば、サッカーボールみたいなんですね。要するに、そこに所在はするけれど、お互いがうつし合っていないんですよ。ところが、カウンセリングのプロセスを通しながら、少しずつ少しずつサッカーボールは、敢えて言えば、鏡の玉になっていく。ミラーボールになってくる。そうすると、一人ひとりが、お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、お子さんはお子さんでありながら、お互いがうつされていく。一人の中にお互いがみんな入り合っている。そこに深い安心感が生まれてきて、そこにお子さんの生きる力が取り戻されていく、そういうことをよく辿るわけですね。そうしてみますと、なるほど、「一多相容不同門」―哲学的な解釈すれば、それなりの解釈はあると思いますけど、私は華厳思想というものをあまり思想的にだけ見るんじゃなくて、生きた智慧として生かしたいという願望があるものですから、今いったように、そういう基本的な華厳の意味合いを示している言葉の中からも随分具体的に教えられることがあるんです。
松村: そうですね。生きる智慧というのはこうして伺っていましても、現代の投げかけている問題に応える智慧という感じがしますね。
大須賀: そうだと思います。大きな現代社会の問題に応える智慧をもっているということですね。私もその通りだと思いますね。
「華厳経と善財童子」つづきから。。
ーーー
自業(じごう)に住する念仏門衆生の積集(しゃくじゅう)する所の業に随ひて
一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じて覚悟せしむることを知るが故に。
「自業に住する念仏門」というのは誰にもその人独自に受け持って生きるいのちの流れがありますね。自分のいのちの流れを、まさにわがいのちとして、そこに住み切るといいますか、わがいのちを受け取りきるといいますか、そうすることが仏さまの世界を望むことなんですね。一つの入り口だ、というわけです。ちょっと難しいですね。よく「自業自得(じごうじとく)」というでしょう。なんか悪いことをしたからお前は悪い結果になったんだとかね。あれはそうじゃありませんね。ほんとに自分のいのちをわがいのちとして自得していくといいますか、それはある意味で大変深いことですね。ここでは、ですから次ぎに出てきますが、「衆生」というのはこれは悩みを持って生きる私たちのことですが、私たちが無限の過去からズーッと積み重ねてきた一つの因果関係といいますか、そういうものの積集(しゅうせき)のところで生きているわけですが、「衆生の積集(しゃくじゅう)する所の業に随ひて」―つまり私たちの受け持ってきている、それぞれが受け持っている、その人だけのいのちにちゃんと随って、「一切の諸仏は」―仏さまたちがそこに仏さまそのものの姿ではないけど、影の姿になって、ちゃんと私たちを守ってくださり、そして、「影像(ようぞう)を現じて覚悟せしむることを知るが故に」―つまり影の姿が現れて、そして私たちに悟りを覚えさせるといいますか、気付かせてくださる。そういう働きをもっているんですよ、と。だから、わがいのちをわがいのちとして引き受けること自体が仏さまの世界を望みみる入り口なんですよ。こういうことがいわれています。すごいことですね。たくさんあるんですよ。何年かかっても終わらないほどたくさんあります。
松村: そうですか。この内容は、さらにこれからのお話に深めていって頂きたいと思うんですけれども、これが徳雲というお坊さんに会った時、徳雲が説かれたお話ということになっているんですね。
大須賀: そうです。その後、どんどん会っていきますからね。とにかく五十三人会っていくわけですから、これ全部話できませんがね。
四番目に彌伽(みか)というお医者さんが出てくるんです。お医者さんなんですね。そこへ善財がまた訪ねていくわけですね。それで、私はそこのところで非常に心打たれていることがあるんです。その彌伽というお医者さんは―「獅子の座」といいますが、獅子の座る座ということですから、説法する一番大事な場所という意味でしょうね―そこに座っているわけですね。そこへ善財が行って、「菩薩になるための道を求めております。それについて先生、いろいろ教えて頂きたい」ということを問いかけるわけです。「こういうことを求めたいのはどうなんでしょう」「こういうことを願っているんですけど、どうなんでしょう」。たくさんあります。その中に、
諸有(しょう)の趣(しゅ)に流転すれども
常に菩薩の心を忘失せず
という言葉があるんですね。「諸有」というのは何なんだろうということですけれども、私たち生きとし生けるものが、「趣」というのは、「六趣(ろくしゅ)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)」なんていいますけど、私たちの生きている心の苦しみの度合いでもって序列をつけている一つの有り様を示した六趣ということがありますが、そこを私たちの心は常に流転していますね。今日天のような気持でいたかと思うと、明日は地獄のようなところに落ちるかもしれない。だけど、常に流転しているけれども、そういう人生の流れをありのままに引き受けながらも、しかもそこに菩薩の心で悟りを求め、そして多くの人たちを救っていこうとする心を失わないで、彌伽先生はいらっしゃるけれども、そういうのはどうしたら得られるんでしょう、というような問いかけをたくさんするんですよ。そうしますと、彌伽は、「あなたはほんとに求めている方なんですね」といって、にわかに獅子の座を立って下りて、そして、「五体投地の礼」というのがあるんですが、身体を全部バサッと地上に伏せて、そして相手に対して最高の礼をする。そういう礼をもって善財童子を迎えた、と書いてあるんですよ。彌伽先生の方がね。
松村: どういうことですかね。
大須賀: これね、私は分かるようですよ。カウンセリングのようなことをやっておりますと、私なんか日常まあなんとか平穏に過ぎているわけですね、いつどういうことがあるかわかりませんけれどもね。しかし、ご相談に見える方は今まさにいわば地獄のような苦しみの中に立って、そこからなんとか道を求めようとしておられる方ですね。そういう深い苦しみの中でこそ届いてくる言葉を、そこで洞察した思いを私に伝えてくれるわけですよ。そうしますと、カウンセラーが来た方にどうしてやる。そんなことじゃないですよ。ほんとに、「はぁー」と思って、心の中でまさに五体投地じゃありませんけども、手を合わせて聞かせて頂く。常にそうですよ。ですから、私は、彌伽(みか)の心というのは凄くわかる気がしますね。
引用元
2019-12-15 14:27:00
星座(コンステレーション)❗️
功徳荘厳は、、
ユングの「コンステレーション」(星座)と同じ構造ですが、「意味のなさそうな多くの星を線でつなげば白鳥やオリオン」などになる。
日々の出来事や、日々を構成する要素は無数の星と同じ。。
それをどういう線でつなげば、なにが見えてくるのか❗️
それが「より利他的であり、自然であるか」という「線でつなげられる」なら、このランダムな星のような「日常に大きな意味を与える」ようになる。
およそこんな意味です😊
2019-12-14 21:35:00
あなたの周囲の「功徳荘厳」❣️
「荘厳」とは、「整然とすること」である。
わたしたちも「日常的に《片付け》る」けれど、「なに基準」なのか?
「便利」「とにかくキレイにしたい」「しつけ」「お客さんが来るから」などいろいろな「お片付け基準」があるだろう。
工業系の会社では「整理、整頓、清掃、清潔、しつけ」と言った「5S」という基準を設けることが多いようであるが、これはもとは「あるコンサルティング会社の商品」でもある。
こういうことをして「生産効率をあげる」などの意味があるようであるが、「実態はよくわからない」けれど、ひとつの基準である。
仏教の「荘厳」(しょうごん)は、「功徳」を観ることといえる。
ほぼ「直線のない自然のなか」に、「雑然としているように見える、自然の持つ意味や理由を尋ねる」ことである。
これは「仏の智慧によって、仏性を観る」ということである。
いま「あなたが社会的に与えられている立場や仕事」にも、「自然の意味や理由」があるのだろう。
「そんなものはない」と言う前に「そのように観ていくクセをつけてみよう❗️」
「無常、無我(非我 )、空」のなかに「五蘊仮和合我」として在るあなたが「無機質に無意味な存在だ」というのも事実かもしれないけれど、、
「無常無我(非我 )空」のなかに「有機的意味があるのも事実」である。
だから「色即是空、空即是色」の両面があり、「華厳経」の「一即一切」ということでもある。
必ず「あなたと全体はつながっていて、重要な意味がある」けれど「見出せていない」or「見出そうとしていない」ということである。
場や状況においても「地獄からも得るものはある」といえるし、そうなればそこは「浄土の功徳荘厳界」であるといえる。
「自然のなか」で、「いまあなたの周囲にある雑然のなか」に、「深い意味や理由を見出せたら功徳荘厳を観る」ことになるのである。
そして「雑然」のまま「整然となる」のである。
あなたの周囲の「カオス(混沌)」が、整然とした意味を持つのである。
「いま起こっていることから功徳荘厳を見出し」て、「智慧を得て、慈悲を行じる」ということである‼️
「あなた」にもきっと「あの時は意味不明だったけれど、学ばせてもらったなぁ」「あの時は苦しかったけれど、あれがあったからやってこれた」ということなどなどあるはずである。
そういうことを「クセにしていくことが、功徳荘厳を観る」ことになり、「次元に変化が起きる」といえるのである。
このように生きると「雑然や喧騒」が「整然とした寂静になる」のである❣️
2019-12-13 02:38:00
現実論と仏教‼️
穢土としての現世→往生(正定聚)→浄土で行じて一生補処し→成仏(浄土宗)
現生に浄土を行じて(正定聚)一生補処し→成仏(親鸞)
プロセスをひとつ前倒しにして、「そもそも無常、無我」な存在が「滅土に至る」。。
という「現実論」と「原始仏教」を併せて、「仏教と相応」の教えに「改めている」。。