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2019-12-15 15:02:00
功徳荘厳に関して、「華厳経と善財童子」から‼️
功徳荘厳に関して。。
「華厳経と善財童子」から。。
ーーー引用
広狭自在無礙門(こうきょうじざいむげもん)
というのがあるんです。これは「広」というのは無限の広さに考えれば「無限性」といっていいでしょうね。それから「狭」というのは限定として考えれば「有限性」と考える。そうすると、私たち、いま生きているいのちの有限性が無限の宇宙のいのちと円融といいますか、まろやかに融け合って、そこに礙わりなく一つだというような、そういう考え方ですね。
ちょっと例を挙げますと、私がお会いしていた方が、ご主人を亡くされて、それで「ご主人がどこへいっちゃったんだろう」と。「お父さん、どこへいったの、どこにいるの」という、そういう内からの叫びの中で非常に揺れておった方がありました。その方が、ある日日常のお洗濯をして、そしてアイロン掛けをやっていたそうですね。そうしたら、「あ、お父さんも一緒にいるんだ。この宇宙の中に、どこへもいっていないんだ」と。いま永遠の世界にいるお父さんと、今ここにいる残された奥さんが、「あ、一緒にいるんだ」ということをスーッと感じ取られて、心が収まっていったということがありましたけどね。凄いなと思いましたね。まさに「広狭自在無礙門」じゃないでしょうかね、そんなことがありました。
それからもう一つ考えてみますと、
一多相容不同門(いったそうようふどうもん)
お互いが一つひとつという独自性を明確に持ちながら、その一つひとつの中に全部をみんな含んでいるというわけですね。例えば、具体的なことで申しますと、例えば私どもはよく登校拒否で困っていらっしゃるご家庭のご相談を受けます。そうしますと、いつも感じるんですけども、例えば四人のご家族がいますね。そうすると、そのお一人おひとりの有り様が、例えて言えば、サッカーボールみたいなんですね。要するに、そこに所在はするけれど、お互いがうつし合っていないんですよ。ところが、カウンセリングのプロセスを通しながら、少しずつ少しずつサッカーボールは、敢えて言えば、鏡の玉になっていく。ミラーボールになってくる。そうすると、一人ひとりが、お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、お子さんはお子さんでありながら、お互いがうつされていく。一人の中にお互いがみんな入り合っている。そこに深い安心感が生まれてきて、そこにお子さんの生きる力が取り戻されていく、そういうことをよく辿るわけですね。そうしてみますと、なるほど、「一多相容不同門」―哲学的な解釈すれば、それなりの解釈はあると思いますけど、私は華厳思想というものをあまり思想的にだけ見るんじゃなくて、生きた智慧として生かしたいという願望があるものですから、今いったように、そういう基本的な華厳の意味合いを示している言葉の中からも随分具体的に教えられることがあるんです。
松村: そうですね。生きる智慧というのはこうして伺っていましても、現代の投げかけている問題に応える智慧という感じがしますね。
大須賀: そうだと思います。大きな現代社会の問題に応える智慧をもっているということですね。私もその通りだと思いますね。
「華厳経と善財童子」つづきから。。
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自業(じごう)に住する念仏門衆生の積集(しゃくじゅう)する所の業に随ひて
一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じて覚悟せしむることを知るが故に。
「自業に住する念仏門」というのは誰にもその人独自に受け持って生きるいのちの流れがありますね。自分のいのちの流れを、まさにわがいのちとして、そこに住み切るといいますか、わがいのちを受け取りきるといいますか、そうすることが仏さまの世界を望むことなんですね。一つの入り口だ、というわけです。ちょっと難しいですね。よく「自業自得(じごうじとく)」というでしょう。なんか悪いことをしたからお前は悪い結果になったんだとかね。あれはそうじゃありませんね。ほんとに自分のいのちをわがいのちとして自得していくといいますか、それはある意味で大変深いことですね。ここでは、ですから次ぎに出てきますが、「衆生」というのはこれは悩みを持って生きる私たちのことですが、私たちが無限の過去からズーッと積み重ねてきた一つの因果関係といいますか、そういうものの積集(しゅうせき)のところで生きているわけですが、「衆生の積集(しゃくじゅう)する所の業に随ひて」―つまり私たちの受け持ってきている、それぞれが受け持っている、その人だけのいのちにちゃんと随って、「一切の諸仏は」―仏さまたちがそこに仏さまそのものの姿ではないけど、影の姿になって、ちゃんと私たちを守ってくださり、そして、「影像(ようぞう)を現じて覚悟せしむることを知るが故に」―つまり影の姿が現れて、そして私たちに悟りを覚えさせるといいますか、気付かせてくださる。そういう働きをもっているんですよ、と。だから、わがいのちをわがいのちとして引き受けること自体が仏さまの世界を望みみる入り口なんですよ。こういうことがいわれています。すごいことですね。たくさんあるんですよ。何年かかっても終わらないほどたくさんあります。
松村: そうですか。この内容は、さらにこれからのお話に深めていって頂きたいと思うんですけれども、これが徳雲というお坊さんに会った時、徳雲が説かれたお話ということになっているんですね。
大須賀: そうです。その後、どんどん会っていきますからね。とにかく五十三人会っていくわけですから、これ全部話できませんがね。
四番目に彌伽(みか)というお医者さんが出てくるんです。お医者さんなんですね。そこへ善財がまた訪ねていくわけですね。それで、私はそこのところで非常に心打たれていることがあるんです。その彌伽というお医者さんは―「獅子の座」といいますが、獅子の座る座ということですから、説法する一番大事な場所という意味でしょうね―そこに座っているわけですね。そこへ善財が行って、「菩薩になるための道を求めております。それについて先生、いろいろ教えて頂きたい」ということを問いかけるわけです。「こういうことを求めたいのはどうなんでしょう」「こういうことを願っているんですけど、どうなんでしょう」。たくさんあります。その中に、
諸有(しょう)の趣(しゅ)に流転すれども
常に菩薩の心を忘失せず
という言葉があるんですね。「諸有」というのは何なんだろうということですけれども、私たち生きとし生けるものが、「趣」というのは、「六趣(ろくしゅ)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)」なんていいますけど、私たちの生きている心の苦しみの度合いでもって序列をつけている一つの有り様を示した六趣ということがありますが、そこを私たちの心は常に流転していますね。今日天のような気持でいたかと思うと、明日は地獄のようなところに落ちるかもしれない。だけど、常に流転しているけれども、そういう人生の流れをありのままに引き受けながらも、しかもそこに菩薩の心で悟りを求め、そして多くの人たちを救っていこうとする心を失わないで、彌伽先生はいらっしゃるけれども、そういうのはどうしたら得られるんでしょう、というような問いかけをたくさんするんですよ。そうしますと、彌伽は、「あなたはほんとに求めている方なんですね」といって、にわかに獅子の座を立って下りて、そして、「五体投地の礼」というのがあるんですが、身体を全部バサッと地上に伏せて、そして相手に対して最高の礼をする。そういう礼をもって善財童子を迎えた、と書いてあるんですよ。彌伽先生の方がね。
松村: どういうことですかね。
大須賀: これね、私は分かるようですよ。カウンセリングのようなことをやっておりますと、私なんか日常まあなんとか平穏に過ぎているわけですね、いつどういうことがあるかわかりませんけれどもね。しかし、ご相談に見える方は今まさにいわば地獄のような苦しみの中に立って、そこからなんとか道を求めようとしておられる方ですね。そういう深い苦しみの中でこそ届いてくる言葉を、そこで洞察した思いを私に伝えてくれるわけですよ。そうしますと、カウンセラーが来た方にどうしてやる。そんなことじゃないですよ。ほんとに、「はぁー」と思って、心の中でまさに五体投地じゃありませんけども、手を合わせて聞かせて頂く。常にそうですよ。ですから、私は、彌伽(みか)の心というのは凄くわかる気がしますね。
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