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2021-12-30 02:43:00

迷信高速❗️

イナカ (否定的な意味で) は迷信が育つとよく言われるのですが、都会的、又は都市的意識とはどういったものなのでしょうか?

これについては、使用する言語概念の問題があると思います。都会で精神的な問題を抱えた人が、心療内科などを受診して、例えば「パニック障害」等と言われていたとしても、田舎の村と言われるようなところにいるお年寄りたちがそういった言語概念を持っていないため、「キツネがついた」といったような表現をすると言うことがあると思います。しかし、近年の田舎のお年寄りでも、よほど山奥で孤立した村ではない限り、今更「キツネがついた」と言った事を言う人はほぼいないでしょう。

それは、テレビなどの媒体を通して、すでに心理的障害についての概念を持っているお年寄りが増えているからです。また、意外にも、神仏は信じないと言っている人たちが「幽霊は信じる」と言うような事は、実は都会でもあることだといえます。「私は霊感があるの、私は能力があるの」といったことを都会の人でも口にする事はよくあります。また、占いは都会に行けば大概の人は信じていたりしますし、血液型占いといったものもいまだに信じている人は多いと思います。

占いについては、テレビに出ていた大御所さんが流行させたと言う部分も大きく影響しているでしょう。しかし、日本でも、風水だとか果ては、財布の柄や色で金運が上がるなどと言うようなことを平気で吹聴している人たちが都会にもたくさんおられます。

結局、迷信は、田舎であるか都会であるかと言う問題よりも、その人たちが日常的に使っている言語とそれに伴う概念が生み出すものであって、全くそういった言葉を使用しないまたは、そういう概念を頭の中に作らない人は、田舎であるか都会であるかに関わらず、全くそういう思考を持ちません。

しかし、迷信やそれに類することは、テレビなどの媒体や雑誌やネットや様々なメディアに踊りやすい人たちが、個人レベルにおいて口にせずとも意外に信じるという類のもので、都会なんかでも結構信じている人が多いように思います。

また、都会ならではの、ノウハウ信仰、ハウツー信仰、セミナー信仰、といった、ノウハウを知ったり、セミナーを受講すれば何とかなると思っているような迷信もあります。

つまり、「実体のない、根拠のない、事柄や思考を信じること」を迷信とするなら、嘘の成功話や嘘の成功の証拠や嘘のお客様の声などを信じて、高額なセミナーを受講してみたところで何の結果も得ることができません。そういうポイントでは、都会でもたくさんの迷信だらけと言えるのではないのでしょうか。

2021-12-29 23:12:00

あなたは存在しているか⁉︎

《神という存在は結局のところ、人間の脳内に存在する全ての人格を統合する高次の意識を、人が外部にあると勘違いしただけなのではないですか?》

 

おっしゃることを私も以前はこのように思っていました。

ここで少し話が変わりますが、以前知人だった人が、「私は子供からおばあちゃんまで女性を見るとエッチの対象になるかどうか」と言うふうに見てしまうんです。と私に言った方が本当にいました。この人から見れば、女性はすべてエッチの対象であると言う物体に見えるのでしょう。また、現役を高度経済成長の時代で仕事をしてきた人は、「損か得か」と言う観点でものを見られる方が意外に多く、「nakagamiさんは、よー儲けてはるやろ」「坊主丸儲けやから」と言うようなことを普通におっしゃいます。

今どき、お坊さんなんてそんなに儲かるものではありませんが、損か得かで考えている方から見れば、儲けているように思うのかもしれません。

このように私たちは、様々な観点から現実世界を見ているので、同じ場所同じ時間にいても同じ現実を見ているとは言い難いのが事実かと思います。

昨日のあなたと今日のあなたは同じ人ですか?今日のあなたは昨日のあなたと同じであることを証明できますか?あなたを見ている私があなたを見ていると証明できますか?私がまたはあなたが認知症ではないと証明できますか?今のあなたは別次元のパラレルワールドから来たあなただと違うと証明できますか?明日のあなたは今日と同じ次元にいると確定的にいえますか?あなたは人間であることを確定的に証明できますか?神はいないと言うことを証明できますか?

などなど、量子物理学の不確定性原理から言えば、われわれは何をも証明できないと言うことがわかると思いますが、それでは困るので、脳が日常的なやりとりを便宜的に生み出していると言うことをご存じではないかと思います。脳はしばしば、人間の生命体を生かすために状況に応じて判断を変化させている、と言うことを、脳科学や認知行動心理学では言われているのもご存知であろうと思います。

つまり私たちは、存在を証明すると言うことができない前提の中で、何のために人間がいてどう生きるかと言うポイントで、「神なんかいないのだから人間の存在意味はない」と定義してしまうと、それこそ殺人であろうが自殺であろうが存在意味のないものをどのように扱おうと構わないと言う前提が定義されてしまいます。

そこで、だからこそ法律や倫理があるんだと言う社会が現代日本の社会であろうかと思います。

しかし、この法律の解釈の問題や、冤罪の問題や、倫理に明確な定義がない曖昧であることなど、法治国家だと言いながら、人脈だとか立場によって法律の適用が変わっていったり、弁護士の良し悪しで罪が変化したりといった、法律による様々な問題が生まれています。

また、そもそも生きる意味がないのに、なんでそんなにがんばらなければいけないのか、人間は金さえ儲けて、人がどう傷つこうがどう悲しもうが、そんなこと知ったこっちゃない、現実世界では面白くないのでバーチャルな中でアバターとして動く方が面白いなどと言った心理状態に悩むひとも増えています。

これは、「何も証明できない人間」が最終決裁者のようになって、人間が人間をさばいたり、人間が生み出した何らかの価値をよしとして、その価値を得られない人は落ちこぼれていくといった世界観を生み出したり、人間が根源的な問題に意思決定をすることによって、様々な問題を生み出していると言わざるをえません。

つまり私たちは、自分の存在さえ証明できないけれど、「前提を定義する事はできる」と言えるのです。

何のためにどのように生きるのか、と言う前提定義を持つことによって、曖昧で不明確な人間が最終決裁者になるのではなく、「聖書という共通認識を共有」しながら不確定な人生を「神に定義をゆだねていく」ということが、実は最も科学的であって、合理的であると言うことが言えると思うのです。

欧米主導の世界が、基本的に、聖書に基づいて歴史を進めていると言う事実があるのはこのためだと言えるでしょう。

そこで、カトリック教会が主導権を持っていましたが、ルターのプロテスタントの解釈が主流になりつつあります。

2021年現在、新約聖書への移行時期に入ったと言うふうに言われていると言うことも耳にしております。

アメリカの大統領は基本的に神が指名したと言う前提があるので、聖書に手を置いて宣誓します。そして、基本的に日本のような総理大臣が解散をするといった形式で、アメリカ大統領が解散をすると言う事は無いのです。神の指名だからこそ…

2021-12-29 03:15:00

楽しいから!

何かのために生きるんじゃない、誰かのために生きるんじゃない、自分自身が楽しいと思うから生きるんだよ❗️

2021-12-27 00:27:00

自由意思!

《欧米の映画や創作で「自由意志対運命」がテーマにされがちなのは何故ですか?キリスト教的な世界観も関係しているのでしょうか?》

 

そもそも、民主主義の世の中で、自由意志というのがどこまで自由なのかと言うポイントが、この問いの中では明確になっていませんが、生まれる場所や親や環境やいろいろな事柄を選んで生まれているわけでもなく、世界中の可能性を検討して生き方を選んでいるわけでもなく、我々がいかに限定された中でしか物事を選択せず、また教育や常識や情報や周囲の観点に振り回されて自由だと錯覚をしていると言うことも多く見られることです。

 

このような中で、欧米などでは人間の限界を理解するために「人間が最終決裁者になってはならない」と言う前提があると思います。

人間は狭い範囲内でしか自由意志を持てず、しばしば過ちを犯します。

ですから、自分が考えていることなど、ほんの微々たる観点でしかないと言う前提のもと、神の意思を聞くと言う点において、自分の意思や出来事等についてどのような神的な理由があるかと考えるかと言う前提が、人間にとって重要であると言うことが大きな基本にあると考えられます。

 

民主主義において、多数が正解であると言えないことも、しばしばあると思います。

そういう中で自由意志=自らに由来する思考が本当に自らに由来しているのかと言うことを自覚しないまま、浅い思考をインスタントのように展開していると言う事だけではないのか、そういった自由と言うことが本当に自由なのかと言う検討がなされないまま多数で物事を決定しているということが大きな問題であると言わざるを得ません。

 

そういう中で、共通認識を根源とする聖書の世界観をもとに生きると言うことが、人間が最終決済をせず、共通認識における神を最終決裁者とすることが重要であると言う事が西洋の思考の根底にあると考えられます。

 

アメリカ大統領は、神が指名したと言う前提で聖書に言っておいて宣誓をするのです。

2021-12-27 00:26:00

善悪の境い目!

《相模原殺傷事件判決にとても興味があり、この様な善悪に関する質問をいくつか立てています。》 

世の中にはさまざまな「DNA」「背景、理由」「環境因子」「心理的要因」「洗脳(心理操作)」「対人的要因(信用してる人に騙されるなど)」「化学物質(麻薬など)」多くの要因があって、その中を生きている人間がなにをやってしまうかということについての原因は、いつの時も「要因の絡み合い」なので、決定的に善悪を問えないでしょう。とくに最近は麻薬の問題がありますが、オイルに麻薬を入れて「マッサージ」という名目で塗られてもわからないので、「知らないうちにそういう人にされるということ」もあるものです。しかし報道はいつの時も「部分」でしかありませんから、電車の中吊り広告のようなものです。私たちが善悪を見るときには、報道されない部分で考えられるだけの要因を考えて「じつはどうなのか」という検討が必要でしょう。コメンテーターは「盛り上げ役」でしかありません。そのために「多くの学習」が必要なことと、知らないところや怪しげなところでは「飲食や身体的接触を避けること」は重要な危機管理です。

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