インフォメーション(日々更新中)

2021-12-04 04:12:00

旋律。

《録音》

どうしようもなく人間をやめたい時…

どうしようもなくここにいたくない時…

どうしようもなくひとと関わりたくない時…

そこまで人生に疲れた時…

どうしても疲れが取れない時…

疲れに押し潰されそうな時…

なにを言われてもどうにも気持ちがおさまらないとき…

なぐさめも涙も同情があっても気持ちがおさまらないとき…

そばにいてもらっても気持ちがおさまらないとき…

泣いても意味がないと思う時…

泣きたくても泣けない時…

泣くことが情けない時…

ひとはおさまりがつくような旋律を探すものなのです。

2021-12-04 04:02:00

自己。

《録音》

仏陀は仏教徒ではないのです。

キリストもキリスト教徒ではないのです。

 

私は私以外の何者でもないのです。

だからといって私は自我でも中神でも章生でもないのです。

 

なぜかこの時代のこの時にはここに生まれたいのちなのです。そこで輝くしかない植物のようなものなのです。

 

いのちはでっかいところで小さく生きていてもでっかいところに生まれたのです。

そのいのちは自然に生きる植物のようにそこにあるいる理由を果たすしかないのです。

 

その理由は考えなくても自然に生きることでわかってくるものなのです。

それがこの私という自己を知ることであり自己が社会や愚かな思想や信条に侵されることがないもっとも本来的な生き方を生きることなのです。

2021-12-02 14:56:00

霊…

《霊ってなんなんでしょうか?現代科学ではまだ解明出来るだけの技術が無いってだけのことですか?》

 

ひとことに霊と言っても様々な現象や体験や状況を指して言っているので、どの状況における霊のことを定義すれば良いか、このご質問だけでは分かりませんが、人間の心を精神と言うところからさらに深層心理を探り、さらにその根源を探っていくような心理的な思索における状態は霊性と言われます。これはスピリチュアルからソウルと言ういった英語などでも表現の違う状態が定義されるように、日常よりもさらに深い精神状態を表しています。また霊的な現象と言うことについては、心理学で解明されている内容や物理学で解明されている内容そして脳科学で解明されている内容もあり、現代科学で解明できるだけの技術は十分にあって、すでに多くの現象は科学で説明できます。ただし、冒頭に書いた霊性と言う精神状態については、人間と言うことを深く追求した内容による所のものが多いので、これは科学と言うよりも人間と言う観点から尊重して捉えていくべき内容であると思います。

2021-12-02 03:24:00

資本主義カルト!

《創価学会ってカルト宗教ですよね?辞めるのも一苦労だと聞きます。》

 カルトについての定義がそもそも統一されたものであるかどうか分かりませんが、創価学会がカルトであると言うことを言う人たちも多く見られると思います。とは言え、その全盛期は確かに辞めるのも難しかったようですが、現代においては、信者さんが2代目3代目となってきているので、その辺のことは明確には存じません。

ただ、私は資本主義そのものがカルトであると思っていて、お金を神のように崇拝している人たちの集まりが資本主義カルトだと思っています。それこそ、この資本主義カルト辞めるとか抜け出すと言う事は非常に難しいことであると言わざるを得ません。

そういう意味で、特定の宗教や特定の思想信条についてのみカルトと言う表現を使うことが多いようですが、そもそも「拝金教」とも言える資本主義について、カルトであると考えることができないほど、その価値観を刷り込まれていると言わざるを得ないと思っています。

そして、この資本主義カルトは、意図的に作られたものであると言うことも知られていませんが、世の中のことをご存知の方はよく知っておられることであろうと思いますが、ヨーロッパの辺のある人たちが、人間を支配し堕落させていくためにあえて作られた堕落のシステムが資本主義カルトであると言うことなのです。

今や、およそ1700年代位から世の中を動かしてきた資本主義カルトに終焉が訪れていると言う状況でもあると言うことを多くの方はまだ認識するに至っていないように思えます。

2021-12-01 01:55:00

信じる!

《科学とは疑うことから始まるものだと言われます。宗教や人間関係は信じることから始まるものです。この2つは相容れないものですか?科学者や僧侶はどのようにその矛盾を解決していますか?》

 

科学と言うのは、そもそも神探しから始まっているといわれます。いろんな観点で、様々な事柄を探求することで、そこに神を見いだすことができるかどうかと言うことによって、分科学と言うところから始まっていると言う見方が本来であるといいます。そういう点で、宗教や人間関係も疑うところから入っていくと言う観点が失われる事で大きな間違いを招くことになるともいえます。つまり、信じると疑うと言う文言の定義がされないまま、信じると言う言葉や疑うと言う言葉を平気で普通に使っていることから、人間関係や宗教において大きな錯覚や誤解や間違いを生んでいるといえます。

あなたを信じていたのに裏切られた。などと言う事は、本来ありえない文言だといえます。なぜなら、その人をあなたがあなたが思うように動いてくれたり考えてくれると思うこと自体が大きな間違いだからです。

また、自分に余裕があるときは、私を信じてくれとか私を信頼したら良いと言えますが、状況が変わってきた時に、ごめん私を信じてもらったら困るねん、と言うふうに改めて言う人は意外と少ないのです。ですから、信じてくれ、信頼してくれと言われたから信じたのに裏切られたと言うような状況が起こってきます。こういう状態は、お互い様と言うひとことで終わる内容です。

ここで、やはり問題になるのが、信じると言うのはどのような状態であるかと言う定義と言うことになります。今現在天気が晴れであるか雨であるかといったことを、確認できるにもかかわらず、私は雨であると信じる、と言う人はほぼありえないでしょう。では、科学で証明されていることを確認しない、または確認するだけの学びがないにもかかわらず、科学がが正しいと信じると言う事は言えるのでしょうか。あのスタップ細胞でも、今ではハーバード大学あたりで特許がとられていると言うように実は存在したと言う出来事について、この問題が起こったとき、やっぱりそんな細胞ないんや、と思った人は、何をどう信じたのでしょうか。それが、ハーバード大学が特許を取った、と言った時点で、やっぱりあったと信じていた、と言う人がどんどん出てきていると言う事実もあります。

このような観点から、宗教においても人間関係においても同じであると言うのは、そこに五感で感じ取る以上のものを感じ取ろうとするか、単に五感で感じ取られると思われる事柄についてのみ信じて生きていく、と言うような生き方を選択するかといったことであると言えるでしょう。

いくら信用していても、期待が外れた、裏切られた、と言うようなことを言うのではなく、私はその時その人を信用した、けれど状況や何らかの事柄が変化したために、期待通りの事柄が進まなかった、と言うだけのことだと思うことこそが的確であると言えましょう。

宗教についても、宗教が本当に科学と全く異なることを言っているのか、そうではなくさらに深い思索のもとに成り立っているのかと言う事はその宗教ごとにも違うと言えると思いますし、その何らかの宗教に関わっていない状態で、その真偽や良し悪しを語ると言うこと自体が、非科学的、ないしは非論理的であると言えるのではないでしょうか。

相対性理論に何が教えられているのか、その理論を通してどういったテクノロジーが開発されているのかといったことをきちんと理解もしていない中で、アインシュタインは凄いからと言うだけの理由で、相対性理論を科学として価値が高いと思うことも、非科学的、非論理的であると言えると思うのです。

世界は、キリスト教を中心に大きく動いているのに、宗教を否定する日本人が、世界で動いている事柄について正しく理解できていないというのが現実であるといえます。つまり、日常的に宗教を否定している日本人は、大きな誤解や錯覚の中で生きていると言わざるを得ないと言えるでしょう。

世界は、普通に当たり前に宗教に説かれている事柄を、人間以上の思索であったり智恵であったり、人間を超えたものだと理解しながら、聖書に基づいて生きているというのが標準的なあり方であるといえます。まさに、今起こっている世界の出来事は、全てバイブルに基づいている流れであると言うことをよくわかっていないのが日本人であるといえます。

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