インフォメーション(日々更新中)

2021-12-13 04:22:00

愛憎!

《Quoraから》

【愛情の裏返しにある憎しみとは、どういうものでしょうか?】

 

「愛」が独りよがりの扁桃体思考の感情的愛の場合には、その対象が思い通りに行かなかった時には「憎しみになる」のでしょう。

 

しかしこれはDNAよるところも大きくて、動物でも「愛憎」はあるようです。つまりこれさえも「種の保存」の本能と言えるかも知れません。

 

ある人がある人と「愛」の関係にあって、そこでまずは自己の保存、そして種の保存や繁栄を望む状態が生まれたと思っているところに、その相手が他に興味を持つようになると、その「自己の保存と種の保存」に不安定感が生まれて、扁桃体は「憎しみ」をもってしまうということもいえるのではないでしょうか。

 

だから「釣った魚に餌はやらない」と、手に入れたと世間に知らしめることができると、途端にそういう「愛憎」が消えたり、大事にしなくなるのでしょう。

 

しかし、そもそも前頭葉の知性的思考によれば、「愛」によって高め合うということがわかっているので、相手が他に興味をもっても、そこから何かを得て、また自己との関係において高め合うことができると思えるものなのです…

2021-12-13 04:21:00

勝ちグセ!

《Quoraから》

【勝ちグセを、どのようにつければよいでしょうか?いつも諦めてしまうのです。】

 

質問者さんが原田さんなので、これは原田さんの問いではないと思いますが、人間は「勝ち負け、健康と病気、金持ちと貧乏、生と死」などと分別したがりますが、この「ある状態を分断して価値をつけること」こそが、大きな間違いの元と言えるでしょう。

 

「人生のある状態を勝ちや負け」と定義できるものでしょうか…同じ状態が続くこともありませんから、「明日は我が身」というなかのほんのちょっとだけ「勝ち組」にいることができたとしても、いつのまにか情勢が変わって転落する可能性はいつでもありますから、「勝ち組」のひとは、ウラでは「怯えや怖れ、警戒心」という中にいなければならないものです。

 

また、勝つとか負けるという状態は存在するのでしょうか…多くの場合において、その基準が世間の価値観であって、自己が決めたものではないことが多いと思います。過去は変えられないといいますが、過去の解釈は変えられます。親が死んで「親孝行できなかった」「あんな親、死んでせいせいした」と思うか、「いろいろあったけど、いろんなことを教えてもらったなぁ」と回想すれば、良い親だったと思えるでしょう。

 

仕事でも「勝ちグセ」ではなく「糧グセ」をつけると良いでしょう。負けたと思ったこともすべてが、「糧」だったと解釈できる知恵を持てば、前進できます。「負けたと思えるようなこと」を「そのことが私を大きくして強くしてくれた」と解釈できる知恵をもてば、そのひとにとっては、どんなことも「糧」ですから、負けることも勝つことも関係なく、「なにをすべきなのか」という観点から生きていけるようになるでしょう!

 

「嵐をひとつやり過ごすたびに、オレたちは強かになる」ということばがありますねぇ…

2021-12-10 21:23:00

宿屋。

《旅路より》

海の街は、広大な海や潮の香りがとても心を洗ってくれます。

 

また、こんなわけのわからんおっさんの面倒みてくれるようなおばちゃんもいます。

 

ここでは、いのちを生かしも殺しもする海の存在に感謝をしておられますが、やはり皆さん、その中で培われた、何かに感覚的な鋭さを持っておられるなぁと感じています。

 

そういえばアフリカの人は視力が5.0とか、何キロの先の声であっても聞こえるといった人間の本来の能力を活かしながら生きておられるようです。

 

ここのおかみさんたちも感覚が鋭い!!

 

ここのおかみさんも「酒が強い❗️」

一回勝負して負けてしまいました。

 

とにかくいろいろ話し込んで、「あんたのいうとることは難しいけんど、ホントのことを言うとるっていうのんはわかるだけぇ」「じゃなきゃ、めんどうみとりゃせん」って、理屈じゃなくて感覚で判断しておられて、宿泊代も5,000円じゃなかったみたいで…

 

「あんたの言うとる事は難しいけん」と言って、私の話の中身がどうなのかということよりも、ただ私が自分に嘘をついたり相手を騙そうとしていないということを「ホントのことを言うとる」っていってはるんやなぁと感じました。

 

これって、布教でもこういう感覚で聞かれる方がじつは多いのじゃないかとも思ったものです。

 

文明が発展することによって、この感覚と言うものがどんどん鈍っていると言うことをつくづく感じています。

 

文明に毒された、ショッピングモールなんていうのも全くないし、コンビニエンスストアなんて言うものも車で10分以上走らさなければないし、若い人もほとんどいなくなっているけど…

 

ここにいる40代位までの若い人は、やっぱりパソコンとかタブレットとか持っているけれど、「ネットゲームなんて、よーわからんわい」「SNなんとかも、一緒に酒も飲めんけん」っていいながら、なんとなく毎日どこかでみんなが集まって飲んでる…

コロナさえ気にしてない人も多くて、「そんなもんより海の方が怖い時は怖いけん」というわかもんが多いし…

 

時代の問題じゃない、環境の問題なんだってよくよく思いました。

都会には、無機質な建物が多くて、デザインもモノトーンの無機質な感じだし…

カッコよくてスマートだけど、なんだか冷たいんです。都会は…

 

そして、都会に毒された人はもう帰ってこない。

こんなに良い環境で、人も理屈を超えた暖かさがあるのに、そういうのが煩わしいなんて思っている人も多いようだけれど、無機質な都会の中で、SNSでつながっている友達とも言えない人間関係の中で、生身の人間の関わりがないから、気楽だとは思うけれど…

 

やはり人間が人間である理由と、人間が失ってはいけない最も重要な部分がすっぽりと抜け落ちてしまう!

そんなふうにここでお手伝いをしながらよくよく実感したのです。

 

あさっての朝には、さようならしますが、なんだか明日の晩またかなり飲まなきゃいけない感じ😂

2021-12-10 20:53:00

ひとを殺しても良い⁉️

Quoraの投稿から

人を殺してもいいんですよ。

法律は人を殺してはいけないとは書いていないんです。

例えば、夜中に勝手に忍び込んできた泥棒がナイフを持っていて、こちらに迫ってきたケース。近くにあった傘で目をひとつきして殺してしまっても、

差し迫った急迫性があり、

不正の侵害が行われており、

防衛の意思によって行っているため、

正当防衛は成り立つと考えられ、殺人の罪に問われないことになると思います。

自殺もそうです。自殺は罪には問われません。

戦争中もそうですね。兵士はあいての兵士を殺しても罪には問われません。

命の重さというのは、実は同じではないんです。時に軽くなってしまうし、重くもなってしまいます。

そしてそれは相対的なものです。私にとってわたしの子の命は、わたしより重いし、妻の命もわたしの命より重いんです。

家に入ってきたナイフを持った泥棒の命なんかより、自分の命は重いし、家族の命はもっと重い。

同様に、人間にとって人間以外の生物の命は軽いです。それは別の生物も同じです。

猿にとって、猿山の群れの猿の命は、人間の命より重いです。

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