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2019-07-30 20:49:00
論の違いから学ぶこと‼️
真宗の教えに、機の深信と法の深信という一つの信心の二側面が説かれるが、〇〇派の話を聞いていると「煩悩にまみれた私である」といただくことを機の深信といい、「そんな私を南无阿弥陀仏の名号が、私が望むと望まないとにかかわらず、すでに救いの中におさめとって、浄土へ往生させてくださるのだ」という法の深信が語られる。
このように「煩悩だらけで地獄行き(一定)の私が、南无阿弥陀仏の法のハタラキによって、浄土へ往生させていただくなんて、なんとありがたいことか。」というパターンで語られ、その上の称名は「そのことを感謝する念仏である」という。
しかしこれは明らかに論が通らない!
なぜならこの論理展開で行くと、煩悩は救いの機縁にはなっても、結果的に捨てられるものとなり、機(私)と法(阿弥陀仏)が2極化する論になるから、論理的に「転悪成徳の正智」「不断煩悩得涅槃」などの親鸞さんの「転じる」という言葉と大きなズレがあるからである。(微妙なズレが大きな違いになる)
これでは、「地獄へいくあなた」「阿弥陀如来が救う」という、2段論になってしまう。
もし阿弥陀如来が「どんなものでも救う」のが大前提なら、はじめの「地獄行き」は不要である。
単に「阿弥陀如来はすべてを救います」でいい。
なぜ「機の深信」があえて必要なのか。
なぜ「機の深信と法の深信」が「二種一具」なのかという提言に回答していないことになる。
さきほどの「不断」というのは「煩悩はそのままでいい」という意味ではない。
あえて煩悩を断つ必要がない、なぜならそれが「悟りへの糧」になるからである。
教行証文類など、この意味があらゆるところに散見できる。
「煩悩ないし煩悩だらけという煩悩」は捨てられるものではなく、阿弥陀仏の智慧に出会うことで悟りに向かうための糧となる重要なものだからである。
阿弥陀の教えに出会い、煩悩を見つめることで、無明という迷い(煩悩)の中で生きていることを知らされ、その煩悩が悟りへ向かう私へと転じるタネになるのだから、南无阿弥陀仏に出会うことで煩悩が名号の徳に転じられる。
ここにおいて「慚愧自我滅(破我)」に転じられる。
簡潔に言えば、「阿弥陀仏が煩悩を見せてくれたおかげで悟りへ向かう私に転じられ、仏の智慧の中で煩悩を功徳として転じつつ生きられるようになる」ということであり、これが機の深信と法の深信が二種ではあれど一つの信心の2側面ということになる。
そうでなければ二種一具の論理は成立しない。
ここで「ファンタジックなストーリー」が現実的になって、意味を持つのである。
すなわち「地獄が浄土(一如)に転じる」という「独特の論」である。
このことがわかり「現実的にそのように思えることで功徳荘厳が観え」て、信心を生きることが具体化し、
称名は「讃嘆である」と定義され、たんなる「感謝」ではない、諸仏の称名と同じ「利他」に定義されるのである。
追記
「Aは反AであるがゆえにBである」という弁証法から論じて、「さとりは反さとりであるからさとりという」という弁証法は、的確に仏教をあらわしているが、
「さとりは煩悩であるだから煩悩はさとりに転じる」
という論理展開の方が、より的確であり教行証文類には散見される。
これは西洋弁証法を超えているともいえる論理展開である!
ここに、仏陀や親鸞独特の論理があることを学んで、深く教行証文類を読みこむことの重要さを啓蒙しておきたい。
2019-07-26 03:19:00
阿弥陀さまのおこころ❣️
普段なら「阿弥陀如来の智慧」と語る内容を、
「阿弥陀さまのお心」と語って、
「意味するところが同じだ」と感じる「法話」に出会った!
先日の「当別院」に来てくださった布教使さんである。
必ずしも現代において「阿弥陀さま」という文言が、
「ダメなわけではない」と、改めて気づき、
その「表現の方がフィットする」という「聴衆の声」も聞き、
さずがだという「その布教使の奥深さ」から感じとる内容は、
「時代遅れでもないんだ」と改めて気づいた。
しかし、そう感じる法話を話せるひとの方が少ないというのもまた事実である。
布教使の人徳や、仏教に取り組む姿勢が、素直で受けを狙わず、
媚びない、へつらわない。。
そういったことを読み取って聞けるから、
「阿弥陀さまでも阿弥陀如来」でも同じなのだろう‼️
来月(8月)25日にも同じ布教使さんにお願いをしと、
先日の参加者に「告知したら」早速「参加申し込み」が今現在で、
5人おられるというのは「事実」です❣️
2019-07-26 01:06:00
生命について❣️
母の滅を目前にしているいま、動けなくなる直前まで母が個人的に通っていた「福音ルーテル教会」へ伺って、牧師さんから深い話をお聞きしました。
ーーー(以下は牧師さんとのやりとりから記述しているので、すべてが牧師さんのことばではありません)
仏教で煩悩と言っている「原罪」を作ったアダムとエバが食べた木の実が、「神のように善悪を知る実」であった。
つまり善悪を知る者になって「生と死と別れること」を知ってしまった。
アダムとエバは、私たちそのものであるという。
仏教でいう「虚妄分別」のことである。
そして「神の身」である、キリストを「人間によって十字架につけて殺させて」「復活した」から、「人間の生命は永遠」であるという事実‼️
あなたの生命も、わたしの生命もすべて「神による復活の身」であるといえる。
だから「わたしの意思」ではなく「神の意思」を祈りの中で聞く。
あなたの生命も、わたしの生命もすべて「如来により生まれかわった身」であるといえる。
だから「わたしの意思」ではなく「如来の意思」を憶念の中で聴聞する。
これを「自然」「神」「如来」という「無色無形絶言」の世界を聞くことと定義する。
しかし、「はじめに言葉があった」という聖書の記述のように、私たちが「現実を定義するのは言葉による」から、
「聖書や教行証文類などの聖典の言葉は重要である」
しかし「その文言をどういう意味内容に定義して解釈すること」に違いが起こるから、「次元が変わる」のである。
アダムとエバは、聖書に出てくるひとの名前だと、俯瞰解釈すると、物語になる。
阿弥陀ストーリーも俯瞰すると、ただの物語になる。
「光」という言葉で「物理的に捉えるひと、太陽光をイメージするひと、ライトをイメージするひと」などなど。。
「光」という言葉から「智慧や神をイメージするひと」は、一般社会では皆無かもしれない。
いろんな人生や出来事があって、「光」という言葉の意味内容すら統一していないという事実を「無視して」いるから、
「じつはみんな別次元を生きている」ことを理解していない。
「宗教を持たない日本人は特にそうなっていること」を理解していない。
「宗教、政治、野球」の話は「してはいけない」と接待で学ぶような国民は、言葉を「自己定義語」で語るから、
「理解しあえないけど、妥協する、議論はしない」という、
狭くて、浅い関係しか作れない。
このFBという媒体で、何人から「いいね」をもらったか?
ということを「自己実現」にしているひとは「その次元のひと」の群れを生きるしかないのかも知れないけど、
もっと「現実世界には人智を尽くしても考えられないスゴイ世界があること」を「仏教やキリスト教」は教えている❣️
2019-07-25 03:33:00
聞くと見るとでは。。(実母が‼️)
実母がボチボチ「滅する」との報告に応じて、
鳥取に帰りました。
たぶんまだ「ボチボチではなさそう」でした❣️
お気づかいをいただきましたみなさま「お騒がせ」しました‼️
母の事情的には、ボチボチの可能性は充分あったのですが。。
2019-07-22 00:37:00
聖書の翻訳について❣️(追加)
教行証文類の現代語訳も大概なんで、「聖書」はどうやねんと思って聞いてみました‼️
↓ は研究者さんからの回答です‼️
牧師さんから、こういう説もあるようです‼️↓