インフォメーション(日々更新中)
2019-07-21 00:46:00
マザーテレサと還相回向❣️
マザーテレサの書簡にこんな内容があります❣️
もし、わたしが聖人になるとしたら、
きっと“暗闇”の聖人になります。地上で闇の中に住む人たちに光を灯すために、
いつも天国を留守にすることになります。
コルカタのマザーテレサ
☆まるで「還相回向」のようです(≧∀≦)b☆
ーーー
興味のある方はぜひ「女子パウロ会」から購入ください‼️
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以下は「女子パウロ会」のパンフからですが、「功徳荘厳」を観察するためのポイントがわかりやすくなると思うので載せました‼️
2019-07-20 02:41:00
実家(鳥取県)の母が滅しそうなので。。
たぶん数週間、更新が不定期になります。
いわゆる「延命措置」(挿管)を拒否する判断を「義兄」としました。
(母は再婚していて、このAには義兄がいます)
正式な手続きを「義兄」があさって(月曜日)「病院に」いってして来るってことです。
あくまでも、母が再婚してるので、「義兄」が権限をもってるんです。
この義兄は、優しくていい人なので、「アキオは、土日はお寺が忙しいだろうから任せといて」っていうてくれてるんです。
まぁ、来週には滅するでしょう❣️
「母は」クリスチャンなので、なんかこのタイミングで「蒜山高原の教会」にいったのもご縁かと思いますし、ここに掲載している「キリスト教についての理解」も母に話したので、「人間界」に納得したのかもしれません。
こういう「自然」って、おもしろい(趣がある)なぁと思っていますが、
なんにせよ、物理的には「原子」「量子」に戻る。
仏教的には「空、無我」で「五蘊仮和合」が《如》に戻るだけなので、気持ちはなにも変わりませんが、
時間的物理的に「この講義」の更新が遅れると思うので書いておきます。
また、「このアホのA」が「母親の死(状態変化)」にどう向き合ってるかも書いてみたいと思って書いています。
わたしの母は、再婚して「曹洞宗」の家に嫁いでいるので、事実上の喪主は「義兄」になり、母の再婚相手が十年前に滅した後「わたしが死んだら曹洞宗の葬儀でいい」と言っていましたから、「義兄」
が「曹洞宗」で葬儀をしようという判断をして「同意」しました。
けど、そこに「牧師」を招き、このアホのAは「色衣、七条」で出ようと思っています。
このアホのAは、「喪服なんかアホらしくて着る気もない」し、その方が「牧師さん」も出やすいだろうという判断です❣️
ちょっと「おもしろい」でしょ(≧∀≦)
まぁ「マジ滅するまでは」《予定は通常通り》です‼️
2019-07-19 03:20:00
ヒューマニズムと宗教‼️
講義の補足5の155をを見てください‼️
「ヒューマニズムと宗教」の危機‼️
https://r.goope.jp/sainenji/free/hosoku5
「ヒューマニズム」とは、人間にとって人間が最高で、人間性こそ尊重すべきものだとする、態度・思想傾向・世界観。例、人間が具えるべき理想の資質に誇りをもってそれを伸ばそうとする、キケロの態度や、イタリアのルネッサンス期に始まって欧州に広まった、古典を重んじ教会の勢力に抗して人間性の解放・向上を目指す運動。人文主義。人本主義。
ーーー以下私見
ヒューマニズムについて、ホムペで「意思決定権」を人間が持つべきではない。
とキリスト教の牧師さんと話しをして、わたしが蒜山で感じた事を記述しました。
「すべてには理由があるから、人間が裁判(虚妄分別)しないほうがいい」「人間が意思決定権」を持つべきではない‼️と話したんです。
「仏智について」さえ「死んだら浄土」なんていう「ファンタジー」を語っている。
本当の「仏智に聞く」姿勢がない。
「バイブル至上主義者」の牧師が多い中で、
蒜山の牧師は「バイブル」を、広い観点から見てる人だったんです。
だからこのアホのAは、「人間が意思決定権」を放棄して、「良き教えによって生きること」を啓蒙しています。
ほぼ無力ですが。。
「すべてに理由がある」ということは、牧師さんのことばで、仏教では「すべてが功徳荘厳」といいますと伝えました。
「この蒜山は人為がないからいいですね」と蒜山の牧師さんにいったら。。
各地から研修といって来る牧師でも、わざわざここにきてまで、「次は祈りの時間、次は勉強会、次は食事」というプログラムをこなすのに、信者さんが「自然を感じるヒマもなく、疲れ切っている」というケースが多いのが残念ですと仰っていました。
「人為がない」っていい表現ですね!
といった、やりとりが、牧師さんとありました。
ヒューマニズムについては、
実際に「殺す」まではいかなくても、本〇寺の正義は「気に入らない」と異端だと言って無視して抹殺します!
事実わたしが知っている「女性布教使さん」が「布教先でイチャモンばかりつけられて、750回大遠忌の年のお盆に亡くなるということ」がありました。
わたしは「よく相談を受けていたので、それから教団には必要以上に関わらない」と決めました。
仏法の扱いも、西洋ヒューマニズムと同じなのだと思います。
西洋ヒューマニズムは「意図的なもの」なので、「ポイントや情報ルートがあれば」まだわかりやすい。
本〇寺などの「良き団体」と思われる組織は、「権力者の情動」なので、仮面をかぶるから、わかりにくい‼️
ユングは「統合失調の人が発する意味不明なことばにも必ず意味がある」という姿勢で関わって、その意味を理解していくことを使命とした。などなど。
2019-07-18 01:00:00
往生して何になるの?
◯証文類
よく往生すると成仏するといわれるのに「還相の菩薩になる」というのがわからない。
往生即「阿弥陀と同じ身」になるといわれたり、往生しても「諸仏になる」という布教使もいて、結局どうなのかわからない。
このように問われました。
たしかに意外にもこういう重要ポイントで違うことをいう布教使はいます。
親鸞聖人は、天親、曇鸞を受けて、「入出二門つまり五念門と五果門」を「往相還相に合わせ」て、出の第五門「薗林遊戯地門」に至るという《利他を結論にされている》ためです。
正信偈の「入生死薗示応化」の部分です。
ですから証文類の後半には「還相の菩薩になる」と落とし込んでおられます。
つまり正信偈のその前に「遊煩悩林現神通」とありますが、遊ぶが如く、自由に利他の活動ができるということです。
しかし、証文類のはじめには、「証とは利他円満の妙位〜真如なりすなわちこれ一如なり」と書かれていて、わたしが究極のさとりに入ることを行の果」と論じています。
そして「しかれば弥陀如来は如より来生して〜」と、いったん締めくくっています。
このすべてがわたしの「行果」ということです。
念仏の行者は、まず「無色無形の言葉も絶えた究極のさとりに入り、阿弥陀如来となって報、応、化といろんな身になって教化する」という流れになるんだという結論です。
そしてその流れを引用して、「還相回向」へ論点を移します。
ここで注目すべきは、なぜかここでは、「はじめにあえて願文を出さず、先に天親、曇鸞の浄土論、論註の出門を出して、還相の菩薩になる」といっています。
それはそう論じながら、往生した者はシャマタ、ビバシャナという「止観(瞑想)」して、方便力を成就する」とありますように、究極のさとりによって方便を使うチカラを得て、「生死の薗にはいり教化する」という流れを論じています。
これは究極のさとり(真如)から来生するという阿弥陀如来と同じであるという構造です。
ですから引用の流れが、
「即阿弥陀を観じ、成仏の者になり、その上で垂迹の菩薩になる」と表す内容に変化していき、還相の菩薩は本来阿弥陀と同じ立場からの垂迹であると定義されていきます。
これは、往生成仏すると「法蔵菩薩と同じように、さとりから垂迹して利他をする」といっているのです。
ですから、垂迹の菩薩とあかしたところで、「ようやく二十二願文」を出されています。
結論、「往生するとは完全成仏して、阿弥陀如来と同じになって、菩薩に垂迹して利他をする」ということです。
これを「時間論」や「三法印」に合わせると、「現生と滅後」の次元が「重なっている」ので、
「真実則の現生と方便則の滅後」に分類しても、「現生のありようは同じ」になります。
同じにならないならば、「どこかを間違えて、情報発信している」ということになります❣️
これが証文類の内容です。
2019-07-17 01:51:00
無生の生(曇鸞)‼️
無生の生
人間にせよ、全ての存在は仮和合の存在である。
こんなことは、分子や原子の存在を知っている現代人ならわかること。
浄土論や論註には「無生であるのに往生というのはなぜか?」という問いに、
「あくまでもそう認識した主体が真如をさとるという一貫性を表すためである。」と
いう回答する問答があり、教行証文類にも引用されている。
そもそも仏教の「中観」からいえば、全て無生である。
人間に生まれたというのも、量子物理学の「不確定性原理」であり、私が人間に生まれているということさえ、証明不可能な姿なのだから、中観の無生ないしは空有と同じである。
阿弥陀仏が、人間に生まれて仏法にあうために私を念仏者たらしめたというのは、方便であって真如ではない。
真如の方便すなわち「如より来生したアミダ」という観点で、親鸞さんは「如来」という表現がやたら多いわけである。
現代の迷信や幽霊を信じる人に対しては、それと同じレベルで「阿弥陀仏が救ってくださる」という表現は適応するかもしれないが、およそ理数系というか論理的な人には「阿弥陀様」は「ご先祖様を大事に思う」というほどにしか理解されないであろう。
ならば現代においては「証文類の真如、真仏土文類の光明.智慧」の観点から説く方がいいと思うのだが、仏教学を学んでいない上、「教行証文類」すら仏教学的理解ができない念仏者には、理解していただけないのがもどかしい。。
現代に真如や中観の観点から説くことは、「真宗教学の発達」「真宗教学の進化」であり、
絶対神を説いているわけではない仏教においては、「法の進化」として、あっても良い姿であると思うのだが。。。