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2019-07-15 23:25:00

お天道さまと阿弥陀さま❣️

昔から日本人は太陽を「お日様やお天道様」と呼んでいた。

そしてお日様の恵みで、お米などがいただけるのだと「お日様」に手を合わせていた。

 

しかし、現代人には「太陽」は太陽であり、「お日様やお天道さま」という感覚は馴染まない。

 

「阿弥陀様」も同じである。

現代人に阿弥陀様といっても「???」

親鸞さんも同じ感覚だったのだろう。

 

だから教行証文類に「阿弥陀如来」の本質は「光明」であり「智慧」であると示されたと推測できる。

また、末灯抄などに「色もなく形もましまさず、ことばも絶えたり」とあり、各所には法性(法則性)であると示されている。

 

そして「阿弥陀仏」というより「阿弥陀如来」。

「真如より来生した如来」という表現がほとんどである。

 

親鸞さんは、とてつもない学問をしているのだから、その感覚は当然であろう。

 

すなわち現代において「阿弥陀様」という表現は、太陽を「お日様」「お天道さま」といっているのと同じ感覚である。

 

とはいえ現代人でも太陽の組成は

 

水素73.46 %[8]   ヘリウム24.85 %   酸素0.77 %   炭素0.29 %

鉄0.15 %   ネオン0.12 %    その他0.11 %    窒素0.09 %    ケイ素0.07 %

マグネシウム0.05 %   硫黄0.04 %

 

なんて理解している人は少ないであろう。

 

また、その太陽により「光合成」が起こり、

(以下面倒なので読み飛ばしてください)

光合成とは、光のエネルギーにより生物が二酸化炭素を同化して有機化合物を生成する過程。緑色植物の場合には,クロロフィルおよびカロテノイドの働きにより光のエネルギーを吸収し,6CO2 + 12H2O → C6H12O6 + 6O2 + 6H2O の反応で,糖類,さらにこれから多糖類を生成する過程をいう。光合成の過程は,光を必要とする明反応と必要としない暗反応とから成る。前者は,光エネルギーの化学エネルギーへの転化で,アデノシン三リン酸 ATPの生成,光エネルギーによる還元型補酵素NADPの生成およびそれに伴う O2 の発生であり,後者は上に生じた ATPと NADPを用いて CO2 を有機化合物内に固定する反応である。光合成は,緑色植物のように酸素の発生を伴うものと,紅色細菌のように硫化水素その他の物質の酸化を伴うものとがある。地表上の物質変化の過程としては水の蒸発に次いで大きく,地球上の有機物の大部分および大気中の酸素の大部分は,光合成により生成されたものと推定されている。

 

(ここからまたお読みください)

 

そして、お米は昔「排泄物」などの肥料で肥やされた土の恵みとお日様の恵みという感覚だった。

今は肥料は「窒素、リン酸、カリ」の要素で作られた化学肥料でいいという感覚だ。

 

こういう時代感覚なのに、「阿弥陀様がお救いくださる」などといっても「わからん」ということになる。

よほど、「マインドコントロール」されるか、「住職だからそう思わなければいけない」とセルフマインドコントロールするか、「難しい原理を学習するモチベーションがない」かのいずれかであろう。

親しい人が信じているからとか、大切な人を亡くしたというような「逆境との出会い」から「阿弥陀さま」に出会ったということも、

もちろんあるのだろうが。。。

 

しかし、「住職や僧侶布教使など」のプロフェッショナルであるなら、太陽の組成や光合成などに例えるなら、「基本的な原理」を最低限「教行証文類」に学び、その上で布教しなければそれこそ「資格」がないと言えるかも知れない。

 

(以前、僧侶は資格か?という議論があったが、「免許は解除」「資格はその能力」という意味であるから、得度は「発願の意思」、布教使などは「資格」だと言えるかもしれない)

 

とりあえず、浄土真宗の教育は、まず教行証文類をしっかり学ぶことから始めなければ、教行証文類が、「浄土真宗の根本聖典」とされる意味がない。

 

現代の布教は、まずは「阿弥陀様」から「阿弥陀如来」への感覚の転向が必要である。

そして「真実則の無碍光如来」の論を腹に据えなければ、「お寺不要論」が加速していくであろう‼️

2019-07-15 22:19:00

脳は正しく世の中を見ていないという一例❣️(無明という存在の人間)

光の速度と音の速度は違って、圧倒的に光の速度の方が早い。

なのに、《目の前の人の口の動きと声は違うスピードなのに同時》に見えている。

光の速度と、音の速度が等しくなるのは、ほぼ27メートル先なのだ。その前後である場合、完全脳の勝手な修正である。

 

脳はこのように、勝手に「ズレを修正する」。

水平方向に25メートル先を見るのと、垂直方向に見るのとも、

距離感が全く違う。

距離感としては、水平方向が修正で、垂直方向が実際なのだ。

 

私たちは見ていることすら確定的に正確であると言えない。

こういうことも知っておく方が良いと思う。

 

《このようなことがわかれば、人間は「虚妄分別」でしかない》ということが、科学でもわかります‼️

 

ちなみに

前回光と音が同時になる時点は27メートルと書きましたが、

より正確には以下の引用のような記事もありました。

 

○光と音の情報が「同時」に我々に達するのは、どれくらいの

    距離でしょう?

 

花火の例をとってみてもわかるように、夜空に美しい花火が炸裂する。そして私たちはそれを「見ます」。

それからしばらくしてドーンという音を「聞きます」。花火から発せられた光と音の情報は、時間差で

我々に届くのです。

 

なぜなら光速のほうが音速より速く、音速は毎秒約330メートル、光速は毎秒3億メートル。

言い換えると、音速はマッハ1、光速はマッハ90万。つまり光の方が音の90万倍の速さで伝わるのです。

 

となれば、光と音の情報がわれわれに「同時」に到達するなんてありえないと考えるのが妥当です。

 

しかし、そこにはあるからくりがあるのです。

 

そのからくりは実は我々人間の中にあります。

 

上記のように花火を見たり聞いたりするのは、光速と音速という物理的な速さだけによらないのです。

光の情報は、目に入ってから網膜で化学反応が起きて、その情報は脳内の後頭部の視覚野で処理されます。

同様に、音の情報は、耳に入ってから鼓膜を振動させ、それから様々なプロセスを通じて脳内の

側頭部の聴覚野で処理されます。

 

この音と光が人間の体内に入ってからの情報処理速度の実験によるとなんと

 

聴覚情報の方が視覚情報より速い  という結果が得られたのです。

(実際の反応速度は聴覚反応速度は約0.13秒、視覚反応速度は約0.17秒)

 

つまり光の情報は空中を飛んでくるのは速いが、体内に入ってから人間が「見えた」と認識するまでに時間が

かかってしまいます。反対に音の情報は、空中では遅いが対内に入ってから「聞こえた」と感じるまでは

意外と速いのです・

 

そんなわけで、問題の「光と音の同時ライン」の測定実験によると、人間の周囲12メートルからの光と音

の情報が人間の脳に同時と感じるらしいのです。

 

このことはスポーツ、とくに卓球のような12メートル以内の距離で行われるスポーツでは目から得られる

情報で反応するよりも耳からの音の情報を先にとらえてから体が反応することが相手に勝つための

キーポイントになってるということからも理解できるかと思います。

 

皆さんの思っていた数字と近かったでしょうか?以外に短い距離の12メートルが正解でした。

 

というご意見もありますね!

 

しかし、脳の処理速度も個体差があるでしょうから、

 

結局はおっしゃるように、わからないというのが正しいのかもしれません(^^)

2019-07-15 22:09:00

死んだらどうなるか「一歩前」⁉️

死んだらどうなるのか?(一年前のFBに投稿した内容)

 

現代では、今あなたや私が実在することすら証明できない時代。

 

昨日のあなたと今日のあなたは同じですか?

一瞬前のあなたと今という時間軸のあなたは同じですか?

 

そもそも時間は実在しますか?

時間は存在に伴っていますか?

単独に存在しますか?

 

あなたが認知症になっていないといえますか?

今認識している世界は本当に他者と共有できていますか?

 

あなたが地球や宇宙を認識しなくなり、能所が成立しなくなった状況に宇宙や地球は有りますか?

 

こんな風に、物理学的にも、心理学的にも、哲学的にも、

今の自分の存在を証明すること自体が不可能と言われているのに。。

 

ましてや死後の世界なんて、更なる絵空事でしかない。

 

なにゆえに「仏のみぞ真実」というのか。。

 

仏は、「この証明できないということを、無常、無我という悟りそのもの」としているからである❣️

2019-07-15 02:33:00

「クリスチャンさんへ」間違っていたらごめんなさい🙏

このページに、「仏教から見てキリスト教がわかった」ということを書いていますが、

「はじめに言葉があった」として「神が」「光があれ」と言ったら「光ができた」というような「創世記」などの理解は「人間は文言で存在を定義する」といった仏教の論を知っていれば「納得」というような内容が意外と多いんです。

 

アダムとエバの「善悪をする木の実」でも「仏教の虚妄分別」から解釈できます。

つまり「仏教を学んで、キリスト教を学ぶ」と「より深くキリスト教が理解できる」と思うのです。

 

また、逆に「聖書」には現実的な「人間界のこと」が書かれているので、

「仏教のように抽象的な論や文言の持つ意味」が「キリスト教」によって明確になる。

という側面もあります。

 

この2つの教えは「ひとつに合わせる」とより明確になるのだと思います。

日本の新宗教で、「あれもこれも合わせて教義立てしている宗教団体」もありますが、

内容は「ほぼ無茶なものが多いから」これは論外です‼️

2019-07-13 12:30:00

7月21日(日)の13時から16時に「講師」を招いて。。

講師を招いて「布教会(ふきょうえ)」を行ないます‼️

 

寺院関係者の皆さんは、日曜日の忙しいところでしょうが、

滅多にない機会なので、ご来場くださいませ❣️

 

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