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2019-07-13 00:51:00

功徳荘厳‼️

「功徳荘厳」について、具体的な意味を聞かれたので、記述します。

 

文言上は「そのひとやものごとが適材適所に整う」といってもいいでしょう❣️

あなたにとって「もっとこの人は、この場所でこうすれば能力を発揮するのに。。」と思う人がいるなら、そうしてあげましょう‼️

 

雑多になっているものが「映える」と思うところに置きましょう。

そのように「適材適所でものごとが整う」ということが「功徳荘厳」だと言っていいでしょう‼️

 

あなた自身ができることはする、無理はしないでいい!

すべてが、適材適所であるとは限らないし、そうできるともいえないけれど、

あなたの周囲に「沈んでるなぁ」とか「もっとこうすればいいかもしれない」というアンテナを張って、損得にかかわらず、実行すること。。

 

「これらは利他」るなかで観えてくるといえます❣️

 

そのためには「あなた自身」が「自然法爾」にいなければ、「計らい」が入ってしまいかねません。。

「自然法爾」に住していると、この観点で「自然にすべきこと」が、見えてきます。。

 

そういう「無碍光の智慧」によって「功徳荘厳」を見極めることが「実践として」重要なことなのでしょう❣️

2019-07-11 23:17:00

浄土の端っこ⁉️

 

「辺地懈慢界」っていうのは、

お西の主流派的には、時間でいうと「死後」、空間でいうと「浄土の端っこ」っていうことになりますけど、仏教学でいえば「次元論」だから、

 

現生を《ことばで定義》する上で、「日々を愚痴れば愚痴の世界、むさぼれば餓鬼道、苦しいと思っているなら地獄」という《次元》になります。

 

同じ時空にいても、「自我執から日々を見ない」で、「現象(人間も出来事も)の中」で、

「汚いも綺麗もなく」《すべてが功徳荘厳定義で整然としてくる》と見ながら、

可能な限り「日々の普通の行ないを利他」で定義する。

 

お仕事も「利他」と定義して、食事を作るのも、家事も、お参りも、友達付き合いも、

すべて「利他」と定義していく、つまりこれらすべてが「自然のなか」だから❣️

 

「拝金教」はすべてが「お金になるならん」の「自我定義」になる‼️

「情動教」もすべてが「面白いおもしろくない」の「自我定義」になる‼️

 

あなたは「なに教」ですか?

 

大乗仏教は、「利他定義」のために「仏智」を学ぶ、そのために「四十八願」を学ぶ。

 

しかし、「仏教学がない布教者が、四十八願を説いても、絵空事(ファンタジー)になる」

 

だから、「仏教学を学んで、四十八願を学ぶと、四十八願がよくわかる」から、仏教の基礎学は重要になる‼️

 

ーーー

 

一方、「わたしは念仏やってますアピールするひと」「でかい声で《他力だ》といいながら、これ見よがしに念仏するひと」

 

こういう「自己実現のために《自我行》念仏」するひとは、

 

「日々、なんの問題もない、食事も恵まれて、トラブルもなく、阿弥陀さまのおかげです。ありがたい」なんていう「自己都合を喜ぶ」‼️

 

こういうひとりよがりを「辺地、懈慢界」次元、と定義する。

さとりへ向かうのではなく「隅っこで、驕っている」「浅い浅い次元で生きる」自我満足‼️

 

だから「真の極楽浄土定義できない」んです。

 

「真の極楽浄土は、現生で、現実を《利他》に定義していくことで、現実を見る次元が変わっていくということ」です。

 

「空」などの「仏教学」を学ぶことで「自我は本来的にはゼロなんだ」とか学ぶと、

「自己や周囲を見る見方が変わってくる」のです‼️

 

学習を積み上げると「必ず変化が起こりますから」だんだんと「現実が整理され、現実に功徳荘厳が見える」ようになります❣️

平たく、深い言い方をすると、

 

「日々神の愛(仏教でいう自然)のなかにいるのだから、神の愛(如来の慈悲)を《仕事、家庭、その他》という行ないで《施していく》」

これで「生きている次元が変わる」んです。

 

キリスト教「表現の方がわかりやすくて深いことを語れる」けれど、

キリスト教のひとで「こういう次元で話せる人が少ない」のも事実ですねぇ。。

 

「マジ自我を仏智で滅されながら、日々を利他定義する」これ浄土‼️

「自我をアピールするために、念仏をして語る」これ自我行、辺地‼️

 

聴聞で「仏智を学び」少しずつ「アタマが整理される」

これが「功徳荘厳」であり、「自我の滅への歩み」そのもの!

 

また「日々《仏教》を学び、さらに自我滅への歩みを進める」日々の歩みが重要‼️

 

「あのことは、あの人が悪いとかではなく、こういうことだったんだ」というふうに、

理解できるようになることが「仏智を得ること」で「歩みが始まって、どんどん深く次元が変化していっていることがわかる」とおもいます!

 

聞いて「ありがたいなぁ」というお話があったとして、「情動が感じて、ほんで。?」という「なにも智慧にならない、慈悲ばかりの話。」これは「識字率」の低い時代の「教え」です。

 

いまもこういう「世俗の持ち越しや、世俗レベルに貶めた法話」が多く、聞いていてもなんの次元も変化しません。

 

2019-07-09 04:37:00

倶会一処その2 死後について❣️

以下はキリスト教の「死後」についての解説です。

Q:死ぬと、人の魂はどうなりますか。天国に行くのでしょうか。

A. 回答

A:これは、どなたにとっても非常に重要な質問です。信者と不信者の行き先は異なります。 

1 番目に、聖書的ではない考え方を紹介します。

①死んだら魂は消滅するというのは、聖書の教えではありません。死後も魂は生き続けます。②死後、魂は最後の裁きのときまで眠りに就くというのも、聖書的ではありません。③死ぬとすぐに神の裁きを受け、天国か地獄かのどちらかに送られるというのも、聖書の教えではありません。

2 番目に、信者の魂がどうなるかについて説明します。

①信者は神との平和を持っていますので、死ぬと、その魂は直ちに天に挙げられます。天とは、パラダイスと呼ばれるところで、キリストがそこにおられます。信者にとっての死は、  「肉体を離れて、主のみもとにいる」 (2コリ5:8)ことなのです。

②終わりの日に、信者は栄光の体に復活します。そのとき、信者の魂は復活の体と合体します。

③最後に信者は、復活の体を持って「新しい天と新しい地」に永遠に住まうようになります。

ーーー(引用以上)

この2番目の、内容は、「阿弥陀如来の眷属になる」という「布教現場でよく聞くストーリー」に酷似しているように思えます。

たしかに「浄土真宗」で、「魂」の概念はありません。

ただ、「報恩講私記」に、


   南無帰命頂礼尊重讃嘆祖師聖霊
【3】 第二に本願相応の徳を嘆ずといふは、念仏修行の人これ多しといへど

   南無帰命頂礼尊重讃嘆祖師聖霊
【4】 第三に滅後の徳を述すといふは、釈尊、教網を三界に覆ふ。なほ末世苦

         南無帰命頂礼尊重讃嘆祖師聖霊
   南無帰命頂礼大慈大悲釈迦善逝

 

などとあるため、「近年」に、「(入滅された)著名な真宗学の勧学さん」が、「霊」は使っていいんじゃないか!

といわれていたようです。

いずれにせよ、布教の現場で「死後、浄土に行ったら、阿弥陀如来と同じ(妙覚位)になる」といわず、

「菩薩(還相回向)」とか「諸仏などの眷属」になる。

というような布教が増えています。

また「浄土で会いましょう」「阿弥陀さまのみもと」「阿弥陀さまに抱かれて」なんていうことを、

平気でいっている布教者が多いようですが、

これだと「キリスト教」とイメージは同じですから、

「浄土」であれ「天国」であれ、結果「同じストーリー」になっています。

 

この辺は、仏教であれば「キッチリ」しなければいけない部分です!

「証文類」の講義部分に記述したように、「真如、法性」になる。

そこから「阿弥陀如来」と同じように「報、応、化」と如来する。

つまりは「滅度」(煩悩の滅は、五蘊の滅)で、そこから「自在に利他」るけれど、

「法蔵菩薩」の従果向因のように「還相回向の菩薩」にもなれる。

という「教義の抑えからズレて」は、仏教ではなくなります。

 

しかしこれは「方便則」です。

ここを「真実則」でいえば、「時間は過未現」であり、

「過去と未来が、更迭するところに現在がある」という「時間論」(補足5の148)や、

「教行証文類」の「真実則」からいえば、

「現生において因果同時」になりますから、「生死の別はない」ということになります。

 

ここまでに「キリスト教」と「仏教」の共通性を記述してきましたが、この「果」についての「結論」は変わります。

 

ここの深い部分を「牧師さん」に聞きたくて、近隣の「教会」へ行ったりしましたが、

「蒜山の牧師さんレベル」(次元)の方がいなくて、「お決まりごと」しかお話しいただけないので、

また「蒜山」へ伺いたいと思っているところです‼️

 

キリスト教は「パラダイス」、浄土真宗は「ピュアランド」といって見ても、違いを説明できないようでは「間違い」ます。

一般の方からいえば、「何が違うねん」となるでしょう‼️

この「A」は「全世界」を救うための「顕彰隠密の言説の違い」ということなのか⁉️

とも思っていますが。

 

いずれにせよ、布教の現場を見直すことがなければ、「キリスト教と同じ」「天国でもいいじゃないか」と言われても、仕方がありません❣️

 

2019-07-09 01:31:00

倶会一処の誤解、その1、(サンガの意)

化身土文類でも「触れました」が、

親鸞がいう「浄土で待つ」という表現は、たとえば。。

785ページの最後に
「さだめてさきだちて往生し候らはんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。」とありますが、これは、

 

ーーーーー(ご消息26引用)

 

たづおおせられそうろ念仏ねんぶつしんのこと。

念仏ねんぶつおうじょうしんずるひとは、 へんおうじょうとてきらはれそうろふらんこと、 おほかたこころえがたくそうろふ。

そのゆゑは、 弥陀みだ本願ほんがんもうすは、 みょうごうをとなへんものをば極楽ごくらくむかへんとちかはせたまひたるを、 ふかくしんじてとなふるがめでたきことにてそうろふなり。

 信心しんじんありとも、 みょうごうをとなへざらんはせんなくそうろふ。

また一向いっこうみょうごうをとなふとも、 信心しんじんあさくはおうじょうしがたくそうろふ。 されば念仏ねんぶつおうじょうとふかくしんじて、 しかもみょうごうをとなへんずるは、 うたがなきほうおうじょうにてあるべくそうろふなり

せんずるところ、 みょうごうをとなふといふとも、 りき本願ほんがんしんぜざらんはへんうまるべし。 

本願ほんがんりきをふかくしんぜんともがらは、 なにごとにかはへんおうじょうにてそうろふべき。 このやうをよくよくおんこころえそうろうておん念仏ねんぶつそうろふべし。

 このは、 いまは、 としきはまりてそうらへば、 さだめてさきだちておうじょうそうらはんずれば、 じょうにてかならずかならずまちまゐらせそうろふべし。

あなかしこ、 あなかしこ。

 七月しちがつじゅう三日さんにち            親鸞しんらん

 

    ゆう弥陀みだぶつおんかえり

ーーーーー

このお手紙のラストは、「七百五十回大遠忌法要の音楽法要」で用いられたものですが、

ここの読み方も「この身は〜さだめてさきだちて往生し候はんずれば。。」というややこしい言い回しですが、およそ。。

古典の連語として

①「さうらふ」が動詞場合

②「さうらふ」が補助動詞の場合、動詞・補助動詞「さうらふ」の未然形+推量の助動詞「んず」の終止形+推量の助動詞「らん」なんて書いてると、

またまた「意味不明」になりそうですから、現代語で見てみます。

 

ーーーーー(現代語訳)

 

お尋ねになった念仏の教えに関する疑問について。

念仏して往生すると信じる人が、 辺地といわれる方便の浄土に往生するなどと嫌われるようなことは、 まったく理解できません。

 

 

なぜなら、 阿弥陀仏の本願は、 名号を称える人を極楽浄土へ迎えようとお誓いになっているのですから、 そのことを深く信じて名号を称えるのが尊いことなのです。 信心があるといっても、 名号を称えないようなら、 それは意味のないことです。 また、 ひとすじに名号を称えても、 信心が浅いようなら往生することはできません。

 

ですから、 念仏して往生すると深く信じて、 しかも名号を称える人は、 間違いなく真実の浄土に往生するのです。 結局のところ、 名号を称えるといっても、 本願他力を信じないようなら辺地に生れることでしょう。

本願他力を深く信じる人が、 どうして辺地に往生するようなことになるでしょうか。 このことをよく心得て、 念仏しなければなりません。

 

わたしは今はもうすっかり年老いてしまい、 きっとあなたより先に往生するでしょうから、 浄土で必ずあなたをお待ちしております。 謹んで申しあげます。

七月十三日

親鸞

   ゆう阿弥陀あみだぶつへのお返事

 

ーーーーー

 

この翻訳でいうと、②の「補助動詞」になるでしょう。

 

しかしこの翻訳自体が「適切」と言いがたい内容です。

 

 

「きっとあなたより先に往生する」という翻訳は、原文の「さだめてさきだちて往生」の部分を、

 

現代では、不確定な《きっと》という「およそ(ほぼ)」というニュアンスで訳しています。

 

 

古典の「副詞」では「間違いなく」「必ず」という意味ですが、「きっと〇〇でしょうから」と

 

「翻訳」すると、

 

現代では「たぶん〇〇だろうから」というニュアンスで理解されてしまいます。

 

 

いずれにせよ、「この部分は《正定聚》定義から書かれている」と読む方が適切でしょう。

 

 

そこで、「わたしは年老いてボチボチ終わりかかっている」(古典自動詞) と記述して、

 

「わたしは年老いて滅しかかって(自動詞の「極限に達する」の意味)ますから。。(補助動詞)」

 

「間違いなくあなたより先に往生して。。」

 

「浄土にて、あなたが仏果を経て《還相回向の菩薩》になってくれることを《期待して待って》います。」

 

と読む方が、「情緒」的ではないかもしれませんが、「より正確」な翻訳になると思います。

 

そしてこの御消息の意図は、

 

「あなたが、疑城胎宮、懈慢界の《果》にならないよう、本願の信心を得て正定聚になりなさい」

 

「そうすればわたしと同じ《果》になる」という「化身土文類の内容」に値する「厳しい内容」です。

 

ーーーーー

 

とにかく親鸞が「読み手を意識して」書いている内容ですから、「真実則」ではないと考える方が妥当です。

 

しかしこれを「阿弥陀経」の「倶会一処」と伴って、「また会える」なんていうと「間違い」ます。

 

「世俗の持ち越し以上に《大間違い》になります」‼️

 

「阿弥陀経」のこの部分を、親鸞の教義で、正確に読むと、

 

「一生補処などの諸上善人」と「倶会一処」というのは、

 

「現生において、正定聚になっているものたちが倶に一処で会う」という意味ですから、

 

「死後定義」ではありません‼️

 

いわば、「サンガ(和合衆)」の意味です。

 

ですから、この部分に「少善根、福徳因縁では、かの国に生ずることを得られない」と

 

「いまのこと」として記述されているのです。(不可、以少善根福徳因縁、得生彼国)

 

だからその上に、「阿弥陀仏の説くを聞きて、執持名号、若一日、若二日。。。」と進んでいくのです。

 

ーーーーーーー

 

このように「浄土にて待つ」や「倶会一処」がいかに「大間違い」になっているか。

 

ここを「まず」抑えてください‼️

 

 

 

 

 

 

 

 

2019-07-09 01:02:00

テンポを落とします!それは。。

あれこれ「アップが早くて読み込む時間が欲しい」というご意見があったので、

少しテンポを落として、内容によっては「2、3日あけます」から、よろしくお願いいたします🤲

意外なことに「キリスト教」について、「知らないことが多かったけど偏見だった」など、プラスの意見をお聞きして、「お知らせ、インフォメーション」も「キチンと読み込みたい」という意味のご意見複数いただいています!

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