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2019-07-07 00:59:00
なるほど。。解説。。←けっこう重要です‼️
前回の内容から。。「生命は生命からしか生まれない」
人間という生命体ができるまでに、普通なら「RNA」が進化して「DNA」になった、という理論が一般的だと思います。
しかし、それぞれの「種」において「進化の産物ではない」、さらに言語を使えるのは「人間種」のみであるという「科学の論」でいうほうが「先進国の世界標準」だといいます。
つまり「人間種」は、ほかの「生命体」からの進化はありえないという理由で、「地球よりさらに進んだ惑星」から「量子レベル」で「人間種」が飛んできた。
という「思想」もあり、「キリストと神と聖霊」の三位一体原則で、宇宙以前から存在とされている「キリスト(神そのもの)」が「人間種」を創造したとするなら、「アダムとエバ」から「人間種」がスタートしていると言えますが、これこそ「神学」の「不毛な論」といえるかも知れません‼️
なぜなら、このような問いは「月を指す指」を見ているという「化身土文類」にある記述と同じことに陥っているからです。
「仏教」でも、同じように「不毛な戯論」は多いようです。
つまり「阿弥陀如来は実在か?」などと「文面にとらわれて」浅い表面をなぞっているだけの「論争」などが「意外に多い」ということです。
「神やキリスト」にしろ「無碍光如来や阿弥陀如来」にしろ、「深い意味を受け止めていかなければ」まったくの「無意味になり、戯論になる」からです!
意図的にマインドコントロール前提で作られた(と思われる)「エホバの証人」が、聖書を理由に「献血も輸血もしない」というあり方を現実に実行する。(ラストの原文参照)
また、「阿弥陀如来の真実心を《信心》としていただかなければ悟れない」といっている「親鸞会」のように、「文言通りにしか理解しない」というのと大差ありません。
すべては「情報の発信者と受信者」が「言語または画像で定義した世界」を生きていますから、
《人為》が入るのです。
しかも「情報の発信者と受信者」が「言語を同じ定義で生きているとは言えない」という《大問題》があります。
人間が「現在までのコンピューター」とは違い、「知、情、意」で思考している以上、
「まったく同じ」にはならないため、基本的には「アインシュタイン」を待つまでもなく、
「すべてが《同じ次元を生きている》とは言えない」のです。
だから、同じ宗教の「布教者」によって「聞き手」が同じ次元の内容を喜び、かつ同じ宗教の「別の布教者」が「同じ文言で、違う次元の話をする」と「わからない」ということになります。
外国語を「翻訳」するときに、ある翻訳者が「日ごとの《糧》」という翻訳をしたケースにおいて、
この外国語を「別の翻訳者」が「食べもの」と翻訳した時に「翻訳者」が《いのちを生かすことがら全てを指して翻訳した》としても、文言通りに「食物」と「理解するもの」がいれば、
前者の「翻訳」の「糧(かて)」という意味が、事実上「狭く(せまく)」なってしまいます。
つまり「糧」を、後者の「翻訳」では、「食物限定」に狭められたことになり「次元」に変化が起こります。
そこで布教者Aが「食べもの」と書いているけれど、「じつは深い意味があって云々」とわざわざ説明しなければならないことになります。
しかし、布教者Bが「毎日食べものが与えられているのは神(または仏)のおかげです」といってしまうと、布教者Aと「次元が変化」します。
つまり「信心」は、「サンスクリット語ではプラサーダといって「浄心」をあらわします」
と、「学者らしくいってみても」「サンスクリット語」で「プラサーダ」と記述されている「意味不明な文言」が、「浄心」と翻訳された時点で、「なんとなく理解できる言語になり」ます。
しかしここに先ほどの《大問題》が生まれます。
それは、この「浄心」を説明する布教者によって「定義がほんの少しでもズレ」ると、《全く次元が変化》するということです。
現代の「中国語の共通語」で、日本語の「声」を中国語に翻訳すると、「声音」になり、「音」を翻訳しても「声音」になります。
このケースでいえば、「前後の文脈やシーン」によって解釈が変わります。
このように、わたしたち人間は、日常的に「同じ言語で、違う次元を生きている」ので、
なにが「真実か」というテーマは、じつは人ごとに違うのです。
なにが「真実か?」というテーマは「多数派や論理的か、または権威」といった基準で「判断」されていますが、
これにしても「操作された多数派」ということもあり得ます。
「ダーウィン」を「多数派」として、「論理的」と考えている「ヒト」が多いと思われる日本においては、「あたりまえのように《進化論》を信じる」という状態になっています。
「唯識論」の「認識」というテーマもほぼ同じことを言っています。
「ほぼ」というのは、「このことに限定されないから」、「ほぼ」と書いています。
ここで「親鸞」のいうことが「すべて」だと思っている人の中で、
親鸞が「浄土にて待ち参らせ候」と書いていれば、「また会える世界」という解釈も成り立ちますが、
「待つ」を「世俗とは違う、仏または還相回向の菩薩」になってくれることを「待つ」と表現して、「わたし(親鸞)と同じ結果」になるようにと、「隠密表現」していると理解する方が、適切な理解だといえます。(世俗の持ち越しではないということです)
また、「人間種」がどこから来たのか?
なんていう問いに「明確な解答」がないならば、「不明」という「理解」の方が適切だと思うひとは、
「そういう選択肢もある」と「論理付け」しても良いでしょう。
しかし「なんでもかんでも」「不明」と結論づけてしまうと「現実が理解できないまま、虚(むな)しく生きなければいけなくなり」ます。
そこで「人間を超える者」がなんらかの「理由」をもって「この現実がある」と理解して生きる方が、深い、または高いステージ(次元)を生きていけるようになるでしょう。
そういった《示唆》を与えるのが《人間を超えるもの》であるといえます。
しかし「どうしても説明がつかないことがら」については、「理解不能」だけれど「大いなるものが与えた、なんらかの理由はあるのだろう」という「現実理解」をして「あるがままを流れに応じて生きている」と、「ある時にその理由がわかるタイミングが来る」といえます。
この「ある時」は《次元が変化した時》という「定義ができ」ます。
「宗教に限らず《法律》も解釈次第」というのが、人間というレベルです。
【最重要】ポイント‼️
人間は《文言によって、創造された世界を生きている》だから《はじめに言葉があった》という「聖書」の記述は「なるほどその通り」といわざるを得ないのです‼️
一般的には、それこそ「理解不能」かもしれませんが、「各々の人間が生きている現実は《ことば》によって《現象》を定義された《次元》である」という《重要なことがわかれ》ば、
より「高い(深い)世界観」を生きられるのです。
このポイントがわかれば、各々の「個体としての人間」が、「人間として生きる理由を問う」ことができるようになり、「次元が変化」します。
これを「十二縁起の《名色》で定義する」のも同じ理由です❣️
ーーーーー(以下、エホバの証人ホムペ)
聖書は,だれも血を摂取してはならない,と命じています。ですから,全血を,あるいはどんな形態のものにせよその主要成分を,食物としても輸血としても受け入れるべきではありません。以下の聖句に注目してください。
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創世記 9:4。神はノアとその家族に,大洪水後,食物として動物の肉も食べてよいとされましたが,血を食べてはならないとお命じになりました。神はノアに,「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」とお告げになったのです。この命令は全人類に対するものです。人類は皆ノアの子孫だからです。
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レビ記 17:14。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。神は魂つまり命を,血の中にあるものとみなされました。そして,魂は神のものです。この律法は,イスラエル国民にだけ与えられたとはいえ,血を食べてはならないという律法を神がどれほど重視しておられたかを示しています。
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使徒 15:20。『血を避けなさい』。神は,ノアに与えたのと同じ命令をクリスチャンにもお与えになりました。歴史は,初期クリスチャンが血を飲もうとはせず,たとえ医療目的であっても血を用いなかったことを示しています。
「神はなぜわたしたちに,血を避けるよう命じておられるのですか」
輸血を避けることには,しっかりした医学的理由もあります。しかし,より重要なこととして,神は,血の象徴する命がご自分にとって神聖なものであるがゆえに,血を避けるよう命じておられるのです。―レビ記 17:11。コロサイ 1:20。
ーーーーー(以下、エホバの証人に対する反論)
他のキリスト教を主とする宗教関係者から、エホバの証人の血液に関する主張は拡大解釈である、教条主義であるといった批判がある。輸血を受けるということと、宗教的な救いとを結びつけるような主張について、
福音書に書かれているようなモーゼ律法の字句のみにこだわった行動を戒めるイエスの言行と照らし合わせ、
エホバの証人の主張はイエスの福音に反するという批判をしている。
例としては、
- 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」マルコ福音書 二章二三〜二八節
- 「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」 マタイ福音書十二章九〜十四節
などのものがある。
なお、エホバの証人の解釈を支持する他の宗教は皆無である。
2019-07-06 20:18:00
なるほど。。
情報は物質ではない。ゆえに物質の性質を持たない
しかし、科学法則は、「非物質な存在である情報を物質が生み出すことは不可能である」と言います。また「情報は知性と意思を持つ発信者によってのみ生み出されるものである」とも言います。ですから、進化論が可能であると考えることは、永久運動機関が可能であると考えることに等しいのです。これが、ダーウィンの進化論のアキレス腱なのです。この時点で、進化論とは、科学法則を否定しない限り成り立たない説であることが明らかになります。これらのことは、私の著書『初めに情報ありき 情報―自然と科学を理解する鍵』にて詳しく説明しています。
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情報(言語、言説)がなければ、「存在は確定できない」ことは「仏教も同じ」ですから「無色無形絶言」という「さとり」が成立するのでしょう‼️
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生命はどこから来たのだろうか?
今日、進化論を推進する学者で、生命がどこから来たかという質問に適切に答えれる人は一人もいません。生命を持たない物質がどのようにして生命を持つようになったかについて、進化論者は答えを持っていません。
生化学者スタンレー・ミラー(1930~2007)が、1953年に行った「原始スープ」の実験は、あらゆる生物学の教科書に登場しています。しかし彼自身は、進化論に基づいた生命の起源に関するいずれの仮説も科学の検証に耐えられるものではないことを、その実験から40年後に認めています。そして、これまでの進化論に基づいた試みを「無意味」な「紙面上の科学」だと表現しています。
一方、微生物学者のルイ・パスツール(1822~1895)は微生物レベルで科学的な検証を行い、「生命は生命からしか生まれない」という今日でいう生命遺伝学の基本法則を確立しました。
イエス・キリストは、「わたしがいのちなのです」(ヨハネ14:6)とご自身を指して言われました。また「万物は御子(イエス)にあって造られた・・・天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、・・すべて御子(イエス)によって造られたのです。」(コロサイ1:16)「すべてのものは、この方(イエス)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つのない」(ヨハネ1:3)とあります。
聖書は、イエス・キリストがこの宇宙、そして生命の源であると証言しています。生命の起源に関して、イエス・キリストが創造者であるということを無視した仮説を立てるなら、それは最初から真理へと辿り着く可能性を放棄していることになります。
進化論は、世界の歴史上もっとも偉大な過ちといってもよいでしょう。進化論は、何億人もの人々を創造主を否む不信仰へ追いやりました。不幸なことに、今日多くの人々はそのような不信仰が、死後、永遠の滅び(地獄)というどん底に至る、ということを知らされないでいます。真の悲劇は、今日の世界が万物の創造者であるイエス・キリストに感謝と敬意を捧げることを忘れていることにあります。ジャーナリストは「ダーウィンありがとう!」と言う代わりに「イエス・キリストありがとう!」と伝えるべきなのです。
また多くの人は、イエス・キリストが私たちに偉大な贈り物を用意しておられることを知らずにいます。イエス・キリストは、「わたしは門である」(ヨハネ10:9)と言われました。それは、天国への門という意味です。(五念門もさとりへの入り口ですね)
2019-07-06 19:22:00
神がサタンを放置。。
サタンを放置する理由。。
これは「機の深信」と同じで、「自我により意思決定」していては「煩悩」に支配されます。
しかし「その煩悩」が、「転じた」ら、「菩提になる」というのと同じ構造です❣️
2019-07-06 05:12:00
柔軟心に排除があるか?
一切衆生が「柔軟心」で受け入れられるという「真実則」でいえば、
法蔵菩薩道を「五念門行」で生きる場合「利他を行じていて、こいつは救わない」という判断をするべきではないでしょう‼️
その人がなにを「信じていようが構いません」という関わりがなければ「一切衆生」は救えません。
そして「真の仏弟子」が「柔軟心を得る」のに、「救う対象」を選べません。
マザーテレサのように「その人が信じていること」を大事にする!
だから「無碍光如来の法」が「キリスト教」になって、世界を救っている!
そこの文言や内容が微妙に違っていても、結論「無我に定義できるから」そこにあるのは、「神」という「無為法」だといえる。
そもそもが「無色無形絶言」の自然なのだから「そこから如来する、文言の違いは問題にならない」といえます‼️
けっきょく「このポイントで行けば、化身土文類のすべては、「真」に導くためと、「マジマジニセモノ」を仕分ける意味もあるでしょう。。
「仕分け」といっても「排除」ではありません。←ここ重要!
何にせよ「自然(無我)」であることだといえます❣️
たとえ「キリスト教は戦争をしてる」といっても、真宗も浄土宗も「国内ではかなりな戦争」をしてきています!
和歌山あたりに行くと「石山合戦時代の門主からの檄文(読、げきぶん。意、行動への決起を促す文書)」が残っています。
こういう「教団」を守るのか、「信仰」を守るのか、戦争をしなければならないというのは、「信仰」を悪用するリーダーがいるからで、
どの「すぐれた信仰(しっかりとした教義を持つもの)も、《その教えのすべてはすべてのためにある》」のですから‼️
何にせよ「判断は自己ではない」ことが大前提でしょう。
「無我無心」に「自己を超えるものと日常的にする、憶念や祈りの中」で「自然に判断は出る」でしょう。
「いまなにをなすべきか」ということが。。❣️
仏教も「偶像崇拝」ではないのですから、日常的にどこでも「憶念」はできます。
現代ですから「広いコミュニティのなか」で「電車の中などの公共の場」で声に念仏を出す必要もなく、「ムリクリ聞かせる」のでもなく、「自己を超えるもの」に「憶念という仕方で、判断を聞くクセ」をつけることでしょう‼️