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2019-07-06 05:12:00

柔軟心に排除があるか?

一切衆生が「柔軟心」で受け入れられるという「真実則」でいえば、

法蔵菩薩道を「五念門行」で生きる場合「利他を行じていて、こいつは救わない」という判断をするべきではないでしょう‼️

その人がなにを「信じていようが構いません」という関わりがなければ「一切衆生」は救えません。

そして「真の仏弟子」が「柔軟心を得る」のに、「救う対象」を選べません。

 

マザーテレサのように「その人が信じていること」を大事にする!

だから「無碍光如来の法」が「キリスト教」になって、世界を救っている!

そこの文言や内容が微妙に違っていても、結論「無我に定義できるから」そこにあるのは、「神」という「無為法」だといえる。

 

そもそもが「無色無形絶言」の自然なのだから「そこから如来する、文言の違いは問題にならない」といえます‼️

 

けっきょく「このポイントで行けば、化身土文類のすべては、「真」に導くためと、「マジマジニセモノ」を仕分ける意味もあるでしょう。。

「仕分け」といっても「排除」ではありません。←ここ重要!

何にせよ「自然(無我)」であることだといえます❣️

 

たとえ「キリスト教は戦争をしてる」といっても、真宗も浄土宗も「国内ではかなりな戦争」をしてきています!

和歌山あたりに行くと「石山合戦時代の門主からの檄文(読、げきぶん。意、行動への決起を促す文書)」が残っています。

 

こういう「教団」を守るのか、「信仰」を守るのか、戦争をしなければならないというのは、「信仰」を悪用するリーダーがいるからで、

 

どの「すぐれた信仰(しっかりとした教義を持つもの)も、《その教えのすべてはすべてのためにある》」のですから‼️

 

何にせよ「判断は自己ではない」ことが大前提でしょう。

「無我無心」に「自己を超えるものと日常的にする、憶念や祈りの中」で「自然に判断は出る」でしょう。

「いまなにをなすべきか」ということが。。❣️

 

仏教も「偶像崇拝」ではないのですから、日常的にどこでも「憶念」はできます。

現代ですから「広いコミュニティのなか」で「電車の中などの公共の場」で声に念仏を出す必要もなく、「ムリクリ聞かせる」のでもなく、「自己を超えるもの」に「憶念という仕方で、判断を聞くクセ」をつけることでしょう‼️