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2019-07-11 23:17:00
浄土の端っこ⁉️
「辺地懈慢界」っていうのは、
お西の主流派的には、時間でいうと「死後」、空間でいうと「浄土の端っこ」っていうことになりますけど、仏教学でいえば「次元論」だから、
現生を《ことばで定義》する上で、「日々を愚痴れば愚痴の世界、むさぼれば餓鬼道、苦しいと思っているなら地獄」という《次元》になります。
同じ時空にいても、「自我執から日々を見ない」で、「現象(人間も出来事も)の中」で、
「汚いも綺麗もなく」《すべてが功徳荘厳定義で整然としてくる》と見ながら、
可能な限り「日々の普通の行ないを利他」で定義する。
お仕事も「利他」と定義して、食事を作るのも、家事も、お参りも、友達付き合いも、
すべて「利他」と定義していく、つまりこれらすべてが「自然のなか」だから❣️
「拝金教」はすべてが「お金になるならん」の「自我定義」になる‼️
「情動教」もすべてが「面白いおもしろくない」の「自我定義」になる‼️
あなたは「なに教」ですか?
大乗仏教は、「利他定義」のために「仏智」を学ぶ、そのために「四十八願」を学ぶ。
しかし、「仏教学がない布教者が、四十八願を説いても、絵空事(ファンタジー)になる」
だから、「仏教学を学んで、四十八願を学ぶと、四十八願がよくわかる」から、仏教の基礎学は重要になる‼️
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一方、「わたしは念仏やってますアピールするひと」「でかい声で《他力だ》といいながら、これ見よがしに念仏するひと」
こういう「自己実現のために《自我行》念仏」するひとは、
「日々、なんの問題もない、食事も恵まれて、トラブルもなく、阿弥陀さまのおかげです。ありがたい」なんていう「自己都合を喜ぶ」‼️
こういうひとりよがりを「辺地、懈慢界」次元、と定義する。
さとりへ向かうのではなく「隅っこで、驕っている」「浅い浅い次元で生きる」自我満足‼️
だから「真の極楽浄土定義できない」んです。
「真の極楽浄土は、現生で、現実を《利他》に定義していくことで、現実を見る次元が変わっていくということ」です。
「空」などの「仏教学」を学ぶことで「自我は本来的にはゼロなんだ」とか学ぶと、
「自己や周囲を見る見方が変わってくる」のです‼️
学習を積み上げると「必ず変化が起こりますから」だんだんと「現実が整理され、現実に功徳荘厳が見える」ようになります❣️
平たく、深い言い方をすると、
「日々神の愛(仏教でいう自然)のなかにいるのだから、神の愛(如来の慈悲)を《仕事、家庭、その他》という行ないで《施していく》」
これで「生きている次元が変わる」んです。
キリスト教「表現の方がわかりやすくて深いことを語れる」けれど、
キリスト教のひとで「こういう次元で話せる人が少ない」のも事実ですねぇ。。
「マジ自我を仏智で滅されながら、日々を利他定義する」これ浄土‼️
「自我をアピールするために、念仏をして語る」これ自我行、辺地‼️
聴聞で「仏智を学び」少しずつ「アタマが整理される」
これが「功徳荘厳」であり、「自我の滅への歩み」そのもの!
また「日々《仏教》を学び、さらに自我滅への歩みを進める」日々の歩みが重要‼️
「あのことは、あの人が悪いとかではなく、こういうことだったんだ」というふうに、
理解できるようになることが「仏智を得ること」で「歩みが始まって、どんどん深く次元が変化していっていることがわかる」とおもいます!
聞いて「ありがたいなぁ」というお話があったとして、「情動が感じて、ほんで。?」という「なにも智慧にならない、慈悲ばかりの話。」これは「識字率」の低い時代の「教え」です。
いまもこういう「世俗の持ち越しや、世俗レベルに貶めた法話」が多く、聞いていてもなんの次元も変化しません。