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2019-07-09 01:31:00
倶会一処の誤解、その1、(サンガの意)
化身土文類でも「触れました」が、
親鸞がいう「浄土で待つ」という表現は、たとえば。。
785ページの最後に
「さだめてさきだちて往生し候らはんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。」とありますが、これは、
ーーーーー(ご消息26引用)
そのゆゑは、
また
この
あなかしこ、 あなかしこ。
ーーーーー
このお手紙のラストは、「七百五十回大遠忌法要の音楽法要」で用いられたものですが、
ここの読み方も「この身は〜さだめてさきだちて往生し候はんずれば。。」というややこしい言い回しですが、およそ。。
古典の連語として
①「さうらふ」が動詞場合
②「さうらふ」が補助動詞の場合、動詞・補助動詞「さうらふ」の未然形+推量の助動詞「んず」の終止形+推量の助動詞「らん」なんて書いてると、
またまた「意味不明」になりそうですから、現代語で見てみます。
ーーーーー(現代語訳)
お尋ねになった念仏の教えに関する疑問について。
念仏して往生すると信じる人が、 辺地といわれる方便の浄土に往生するなどと嫌われるようなことは、 まったく理解できません。
なぜなら、 阿弥陀仏の本願は、 名号を称える人を極楽浄土へ迎えようとお誓いになっているのですから、 そのことを深く信じて名号を称えるのが尊いことなのです。 信心があるといっても、 名号を称えないようなら、 それは意味のないことです。 また、 ひとすじに名号を称えても、 信心が浅いようなら往生することはできません。
ですから、 念仏して往生すると深く信じて、 しかも名号を称える人は、 間違いなく真実の浄土に往生するのです。 結局のところ、 名号を称えるといっても、 本願他力を信じないようなら辺地に生れることでしょう。
本願他力を深く信じる人が、 どうして辺地に往生するようなことになるでしょうか。 このことをよく心得て、 念仏しなければなりません。
わたしは今はもうすっかり年老いてしまい、 きっとあなたより先に往生するでしょうから、 浄土で必ずあなたをお待ちしております。 謹んで申しあげます。
七月十三日
親鸞
ーーーーー
この翻訳でいうと、②の「補助動詞」になるでしょう。
しかしこの翻訳自体が「適切」と言いがたい内容です。
「きっとあなたより先に往生する」という翻訳は、原文の「さだめてさきだちて往生」の部分を、
現代では、不確定な《きっと》という「およそ(ほぼ)」というニュアンスで訳しています。
古典の「副詞」では「間違いなく」「必ず」という意味ですが、「きっと〇〇でしょうから」と
「翻訳」すると、
現代では「たぶん〇〇だろうから」というニュアンスで理解されてしまいます。
いずれにせよ、「この部分は《正定聚》定義から書かれている」と読む方が適切でしょう。
そこで、「わたしは年老いてボチボチ終わりかかっている」(古典自動詞) と記述して、
「わたしは年老いて滅しかかって(自動詞の「極限に達する」の意味)ますから。。(補助動詞)」
「間違いなくあなたより先に往生して。。」
「浄土にて、あなたが仏果を経て《還相回向の菩薩》になってくれることを《期待して待って》います。」
と読む方が、「情緒」的ではないかもしれませんが、「より正確」な翻訳になると思います。
そしてこの御消息の意図は、
「あなたが、疑城胎宮、懈慢界の《果》にならないよう、本願の信心を得て正定聚になりなさい」
「そうすればわたしと同じ《果》になる」という「化身土文類の内容」に値する「厳しい内容」です。
ーーーーー
とにかく親鸞が「読み手を意識して」書いている内容ですから、「真実則」ではないと考える方が妥当です。
しかしこれを「阿弥陀経」の「倶会一処」と伴って、「また会える」なんていうと「間違い」ます。
「世俗の持ち越し以上に《大間違い》になります」‼️
「阿弥陀経」のこの部分を、親鸞の教義で、正確に読むと、
「一生補処などの諸上善人」と「倶会一処」というのは、
「現生において、正定聚になっているものたちが倶に一処で会う」という意味ですから、
「死後定義」ではありません‼️
いわば、「サンガ(和合衆)」の意味です。
ですから、この部分に「少善根、福徳因縁では、かの国に生ずることを得られない」と
「いまのこと」として記述されているのです。(不可、以少善根福徳因縁、得生彼国)
だからその上に、「阿弥陀仏の説くを聞きて、執持名号、若一日、若二日。。。」と進んでいくのです。
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このように「浄土にて待つ」や「倶会一処」がいかに「大間違い」になっているか。
ここを「まず」抑えてください‼️