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2019-07-17 01:51:00
無生の生(曇鸞)‼️
無生の生
人間にせよ、全ての存在は仮和合の存在である。
こんなことは、分子や原子の存在を知っている現代人ならわかること。
浄土論や論註には「無生であるのに往生というのはなぜか?」という問いに、
「あくまでもそう認識した主体が真如をさとるという一貫性を表すためである。」と
いう回答する問答があり、教行証文類にも引用されている。
そもそも仏教の「中観」からいえば、全て無生である。
人間に生まれたというのも、量子物理学の「不確定性原理」であり、私が人間に生まれているということさえ、証明不可能な姿なのだから、中観の無生ないしは空有と同じである。
阿弥陀仏が、人間に生まれて仏法にあうために私を念仏者たらしめたというのは、方便であって真如ではない。
真如の方便すなわち「如より来生したアミダ」という観点で、親鸞さんは「如来」という表現がやたら多いわけである。
現代の迷信や幽霊を信じる人に対しては、それと同じレベルで「阿弥陀仏が救ってくださる」という表現は適応するかもしれないが、およそ理数系というか論理的な人には「阿弥陀様」は「ご先祖様を大事に思う」というほどにしか理解されないであろう。
ならば現代においては「証文類の真如、真仏土文類の光明.智慧」の観点から説く方がいいと思うのだが、仏教学を学んでいない上、「教行証文類」すら仏教学的理解ができない念仏者には、理解していただけないのがもどかしい。。
現代に真如や中観の観点から説くことは、「真宗教学の発達」「真宗教学の進化」であり、
絶対神を説いているわけではない仏教においては、「法の進化」として、あっても良い姿であると思うのだが。。。