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2019-07-18 01:00:00

往生して何になるの?

◯証文類

 

よく往生すると成仏するといわれるのに「還相の菩薩になる」というのがわからない。

往生即「阿弥陀と同じ身」になるといわれたり、往生しても「諸仏になる」という布教使もいて、結局どうなのかわからない。

このように問われました。

 

たしかに意外にもこういう重要ポイントで違うことをいう布教使はいます。

 

親鸞聖人は、天親、曇鸞を受けて、「入出二門つまり五念門と五果門」を「往相還相に合わせ」て、出の第五門「薗林遊戯地門」に至るという《利他を結論にされている》ためです。

正信偈の「入生死薗示応化」の部分です。

 

ですから証文類の後半には「還相の菩薩になる」と落とし込んでおられます。

 

つまり正信偈のその前に「遊煩悩林現神通」とありますが、遊ぶが如く、自由に利他の活動ができるということです。

 

しかし、証文類のはじめには、「証とは利他円満の妙位〜真如なりすなわちこれ一如なり」と書かれていて、わたしが究極のさとりに入ることを行の果」と論じています。

 

そして「しかれば弥陀如来は如より来生して〜」と、いったん締めくくっています。

このすべてがわたしの「行果」ということです。

 

念仏の行者は、まず「無色無形の言葉も絶えた究極のさとりに入り、阿弥陀如来となって報、応、化といろんな身になって教化する」という流れになるんだという結論です。

 

そしてその流れを引用して、「還相回向」へ論点を移します。

 

ここで注目すべきは、なぜかここでは、「はじめにあえて願文を出さず、先に天親、曇鸞の浄土論、論註の出門を出して、還相の菩薩になる」といっています。

 

それはそう論じながら、往生した者はシャマタ、ビバシャナという「止観(瞑想)」して、方便力を成就する」とありますように、究極のさとりによって方便を使うチカラを得て、「生死の薗にはいり教化する」という流れを論じています。

 

これは究極のさとり(真如)から来生するという阿弥陀如来と同じであるという構造です。

ですから引用の流れが、

「即阿弥陀を観じ、成仏の者になり、その上で垂迹の菩薩になる」と表す内容に変化していき、還相の菩薩は本来阿弥陀と同じ立場からの垂迹であると定義されていきます。

 

これは、往生成仏すると「法蔵菩薩と同じように、さとりから垂迹して利他をする」といっているのです。

 

ですから、垂迹の菩薩とあかしたところで、「ようやく二十二願文」を出されています。

 

結論、「往生するとは完全成仏して、阿弥陀如来と同じになって、菩薩に垂迹して利他をする」ということです。

 

これを「時間論」や「三法印」に合わせると、「現生と滅後」の次元が「重なっている」ので、

「真実則の現生と方便則の滅後」に分類しても、「現生のありようは同じ」になります。

同じにならないならば、「どこかを間違えて、情報発信している」ということになります❣️

 

これが証文類の内容です。