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2019-07-22 00:37:00
聖書の翻訳について❣️(追加)
教行証文類の現代語訳も大概なんで、「聖書」はどうやねんと思って聞いてみました‼️
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教行証文類の見逃してはいけない一文
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🔴教行証文類講義[1] (30/12/07)[3−4]の唯識まで🌅
🔴教行証文類講義[2] [3–14] 〜[3−23]結構重要ポイント多いです❣️
🔴教行証文類講[3] 19/04/17 [5–5]まで 「人間種の愚かさへ」 「二河白道」 「信文類本文」 (重要な前提のあとから) 🚨
🔴教行証文類講義[4] 2019/06/14 信文類終わり[5−21]
🔴教行証文類講義[5] 2019/09/13 🙆♂️ [6−18] 「化身土文類」
✴️関西風仏教解説《真如論華厳涅槃経》教行証文類を読むために重要🌇💖
📕講義補足その1🎆(30/12/07まで)
📕講義補足その2📖2019/01/12(86)まで
📕講義補足その3🤗2019/04/18 127、Aの認識 126、「量子はあるか?」 「輪廻とDNA」125、 「輪廻は神」124
📕講義の補足その4📙2019/06/11 148、は補足その5へ 147、弥勒と同じの根拠? 146、無我、非我
📕講義の補足その5📙2019/09/11 160、次元や時間、そして浄土のひとまとめ❣️
2019/06/05 ☝️浄土真宗を理解するための注意点⚠️
❣️真宗の教えについて小難しげなお話し❣️
30/10/25📕小難しげなお話ver2🖍
🌸法話🌺
30/10/30 🌷法話ver2🌷
30/10/21📕質疑応答編💝
2019/06/13《初心者向け》 「法事」 「名前」 「葬儀について」 🅾️仏教初心者のみなさまへあきおちゃんのお話💌
✍️唯識論分けときますね❣️
⭐️ブッダのことば⭐️
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あきおちゃんのお話ver.2。
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㊙️発見❣️大江和上の教行信証講義😃
大江淳誠和上の大行論
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30/10/13🔴超重要🔴4必読❣️
下書きのページ!
2019-07-22 00:37:00
教行証文類の現代語訳も大概なんで、「聖書」はどうやねんと思って聞いてみました‼️
↓ は研究者さんからの回答です‼️
牧師さんから、こういう説もあるようです‼️↓
キリスト教の牧師として回答します。
『聖書が神の言葉』という理解は、キリスト教における「教義的な意味」です。なので、『聖書』という、今日わたしたちが本屋で手に入れることのできる本に書かれている内容そのものが「直接的な神のことば」なのではありません。
なお、質問者さんが「聖書が、神のことば」とする教義は、イスラム教において妥当します。イスラム教の『クルアーン/コーラン』は、アラビア語で書かれたものであって、天上に存在する神さまが記した「原書」を、ムハンマド/マホメットが天使の語って聞かせる言葉を、そのまま「口述筆記」して書かれたものが『クルアーン/コーラン』であるとされます。
すなわち、イスラム教における『クルアーン/コーラン』は、まさに「神のことば」であって、だからこそ「クルアーン/コーランの言葉は真に神のことば」として理解されています。ちなみに、そうするとイスラム教において神さまが使用する言語は「アラビア語」であって、「アラビア語以外に翻訳されたクルアーン/コーラン」は本当の意味で『クルアーン・コーラン』なのではなく、イスラム教においては、たとえば『日本語訳 クルアーン/コーラン』というのは正典・聖典ではなく、参考書的な位置づけになります。
さて、キリスト教に話をもどします。
キリスト教において、キリスト教の正典として『聖書(新約聖書+旧約聖書)』が定まったのは歴史的にはおよそ8世紀頃と言われており、イエスが生きて活動していたと思われる西暦1世紀の前半からすれば、およそ700年近くも後の時代になってからでした。
イエスが生きて活動した時代には、イエスと共に神の国運動に参加した生き証人の人たちが居ました。イエスの十字架における処刑の時に、多くの人たちはイエスが処刑されたことに失望し、そこで元の生活に帰っていった人たちがありましたが、しかし、その中において、マグダラのマリアで知られる人物によって「イエスは復活された」という、イエスの神の国運動の新しい展開が起こります。この時、マグダラのマリアから「イエスの復活」を知らされた、いわゆる「12使徒」と呼ばれる人たちが、イエスの実の弟である「主の兄弟ヤコブ」を中心として、「初代エルサレム教会」が組織されるようになります。
そして、使徒たちはそこからローマ帝国治世下における地中海沿岸地域に点在するユダヤ教の集会を訪ねて、そこで「復活のイエス」の運動がシリアのアンティオキア教会を中心として起こります。そして、パレスチナを北上する運動の他に、アレキサンドリア、エジプト、カルタゴといった方面へ展開するもの、海路をローマへと向かうもの、またアラビア半島や今でいうイラン・イラクへと展開する運動など、様々な流れが起こります。
ところが、1世紀~1世紀半くらいにかけては、主に口頭による口伝によって、使徒と呼ばれる生き証人の人たちによる宣教活動が行われたのですが、「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、当時は、まだ自分たちの信仰を文字にして伝承するという事があまりなされていなかったのです。
そうした動きの中で、使徒と呼ばれた人々の中で、誇張はありますが、もっとも最後に使徒として出てきた人物にパウロがいました。パウロは、持ち前の旧約聖書(当時としては、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記まで。ギリシア語の『70人訳聖書』を知っていたと思われる)の知識を駆使して、先の使徒たちの働きに続いていくのですが、彼の一番の功績が「信仰を文字化した」という点にありました。
そして、そうしたパウロの功績に倣う形で、使徒ペトロ、使徒パウロが相次いで処刑され、キリスト教信仰の危機的局面を迎えた時に、最初の福音書である『マルコによる福音書』が編纂されます。「キリスト教信仰はイエスとの出会いと交わり」を通して継承されますが、マルコによる福音書はパウロの信仰的理解に基づいて編集され、生前のイエスについての歴史的記録を含むことによって、『マルコによる福音書』を読むことを通じて、読者をイエス・キリストの使徒とする道を開いたのです。ただ、わたしたちがよく誤解するのは『マルコによる福音書』は最初からキリスト教の正典であったわけではない、という事です。むしろ、『マルコによる福音書』が巷に流れた時に、「これはいただけない」というダメ出しをする人たちが多くいた(なぜなら「マルコ」は使徒の弟子であっても使徒ではないからです。弟子が使徒を差し置いて『福音書』を記したということが、そもそも受け入れにくかった点でもあります。またイエスの人間性を強調したため、イエスの神性についての表記において弱かった)ということです。そうした事もあって、『マルコによる福音書』に対する対抗運動的なかたちで、1世紀末から2世紀にかけて、そうしたローマ帝国治世下において、キリスト教信仰を補足し、また各地にあった教会毎の信仰的理解を記したものなど様々な「キリスト教文書」が記されました。
およそ紀元90年頃に書かれた『ルカによる福音書』の冒頭には次のように記されています。
わたしたちの間で実現した事柄(イエス・キリストの出来事)について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々(直接的には使徒たち)がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています(つまり、キリスト教文書が当時、数多く成立していた事実を示す)。(ルカによる福音書1章1節。太字部分は永野による註)
つまり、1~2世紀にかけて様々なキリスト教文書が書かれたのですが、まだ、この時代は世界においてキリスト教の権威の中心がなく、各地のキリスト者たちの手によって、様々な信仰的創作物が書かれたのです。(今日的に説明すれば、オリジナルのマンガに対する同人誌です。当然、これらは質問者さんが考える「神のことば」ではありません。)
その後、キリスト教会は各地において司教座を据えるほどに組織とその権力が大きくなっていきます。そして、ローマ皇帝のコンスタンティヌスは西暦313年にミラノ勅令を出してローマ帝国におけるキリスト教の国教化に踏み切るのです。
ただ、この時は『聖書』以前に、キリスト教信仰さえ各地の教会で足並みが取れておらず、まずは「キリスト教信仰」というものを確定するために、この時から70年を経てキリスト教の特徴でもある「三位一体説」が採用するに至ったのです。
当然、この運動の中にあって、各地に点在した教会の信仰がローマ帝国の権力と結びつき、正統信仰とそうではない異端信仰との選別が激しくなってきます。そうした流れにあって異端として破門されたり、改心の印としてそうしたそれまで教会に伝えられた初期のキリスト教文書を破棄したりする動きが起こりました。
そして、アフリカのヒッポで行われた教会会議(西暦393年)において、キリスト教の正典についての議題が起こります。ただ、この時でさえ、あくまでも議題に上ったのは「新約聖書」の部分についてであって、それまでのところでも各地の教会には様々な新約文書が存在し、読まれていたのです。
つまり、『聖書』は、そうした歴史的な中で生まれて来た「信仰的な創作物」が長いキリスト教の歴史と、ローマ帝国権威によって、最終的に今日、わたしたちの知っている『聖書』として教会会議等で定められてきたのであって、そういう意味では「さまざまな信仰的創作物の寄せ集め」なのです。
しかし、それは最終的には西方教会においてはローマ法王の権威に基づいて、それまで「さまざまな信仰的創作物の寄せ集め」が『聖書』としての権威を付加された時に、はじめて『聖書』はキリスト教の正典となり、聖典としての権威を持ち、「神のことばを指し示すもの」とされたのです。
その意味で、今日おいて『聖書は間違いなく神のことば』であると信じる教会もあれば、『聖書は全体において神のことばを指し示すもの』として信じる教会もあり、これまた色々なのです。
特に、アメリカにおけるキリスト教保守/キリスト教原理主義といった人たちにとっては今も『聖書』は「まさしく神のことば」として信じられている事から、「進化論は間違っている/人は神によって歴史的に創造された」「人工妊娠中絶は罪である」「LGBTQは罪である」というような極端な信仰を持つ人たちが居ることもまた確かです。
ただ、日本国内におけるキリスト教会においては、そうしたアメリカにおけるキリスト教原理主義的な理解に立つ教会はあまり多くは無いのではと思います。
具体的にはそうした信仰を以下のように呼んでいます。
ちなみに、わたしが所属する日本ナザレン教会は、「十全霊感説」と言って、「聖書の中には矛盾する事も書いてあるけれども、全体としてそれが神のことばであると信じる」信仰の教会です。ポイントは「啓示」(指し示すもの)という表現にあります。
私たちは、聖書の完全霊感を信じる。すなわち、旧新約聖書66巻は神の霊感によって記され、私たちの救いに必要なすべてのことについて、神のみこころを誤りなく啓示している。それゆえに聖書に含まれていないことは、いかなることも信仰箇条としてはならない。
ただ、日本ナザレン教会も30年くらい前までは「逐語霊感説」に立つ教会でした。時代と共に『聖書』に対する見方・信仰も変わっていきます。そういう意味では、キリスト教信仰は時代と共に移り変わるものであって、当然、変化しない部分もありますが、その価値観は時代と共に変遷すると理解していただければよいかなと思います。
結論としては、『聖書』それ自体がそもそも神のことばでなく、教会の信仰告白によって「神のことば」とされているだけですので、翻訳以前の元になる文書自体が質問者さんが言われる「神のことばではない」という事です。
しかし、それが今日的にキリスト教会においてあまり問題にならないということは、キリスト教会において『聖書』が正しく翻訳されているかという事は重要な事柄ではありますが、実際問題(聖書翻訳は専門家の人たちによって訳が徹底的に研究されてるので)としてあまり問題にはならないという所です。