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2019-12-27 17:50:00

スピリチュアル❗️

「魂」について、このような非物質的で精神的な要素を根本に据(す)えてものごとを解釈する立場をスピリチュアリティと呼ぶことができます。スピリチュアリティには、人間を健康という望ましい状態に導く傾向があります。

なぜなら、人間の性質の中でも、崇高とまでは言わないとしても好ましい思考と感情を表現することが、スピリチュアリティによって促されるからです。

反対に物質偏重主義は、私の考えでは硬直した考え方であり、人間の本質についての解明をもたらさないので、遅かれ早かれ、不安という感情が必然的に生じることになります。

 

2019-12-26 05:58:00

善因楽果、悪因苦果か?

「善因善果、悪因悪果」は「善因」に起因することが「苦楽」のいずれになろうとも「善果」と受け取れるひとであり、、

「悪因」を起こすひとは「苦楽」のいずれをも「悪果」と受け取るひとといえるであろう。

 

ここには「因果とも」に「善悪の定義」がされていない。

「なにが善でなにが悪か」を知ることは難しい。

 

たとえ、これらが「楽果」や「苦果」だとしても、

まず「善因」を行なうひとには、必ずしも「楽果」を求めないひともいる。

 

また「悪因」から「苦果」が生まれるとしても、

「悪因」を起こすようなひとは「苦果」だと思っていないことも多いものであるうえ、そもそも本人は「悪因」とすら思っていないことも多いものである。

 

そもそも親鸞さんは「善悪の二つを総じて存知せざる」といっているのは、

「善も楽も」「悪も苦も」凡夫の思うところのものではない。

このポイントを「真仏土文類」の涅槃の徳における「楽」について記述している。

 

因果論はそれほど「単純」ではないということである❗️

 

ーーー

 

「この現実は、私の業のしからしむるところだ」という表現は正しい。自業自得、自己責任性がはっきり表明されているからである。受験に失敗したのは私が不勉強だったからであって、社会、先生、家庭のせいではない。責任転嫁を許さないのが業の理論である。

↑↑

この論はどこかおかしいと思うのですが。。⁉️

因果論には「縁」が関係するので、「不勉強」でも合格するひともいるし、

「勉強して」も不合格になるひともある。

 

「裏口」のひとも「エンコ」のひともいるから、「単純因果」で見るべきではない。

「因縁果」を論じなければ、真実は見えない。

そして必ずしも「自業自得」のみとはいえない。。

 

根本仏教でも、こういう「極論」で語っていない。

 

故に「六因四縁五果」を「倶舎論」で論じる流れになったのだと言える。

 

このような「自業自得」解釈は、「自己責任」といいながら、、

「政治責任」を「国民の自己責任とすり替える論」と変わらないと思うけれど、、

 

こんなことばかり書くから「また嫌われる」のだろうなぁ。。

 

これぞ「自業自得」なり❗️

 

ーーー

 

「善因善果、悪因悪果」は「善因」に起因することが「苦楽」のいずれになろうとも「善果」と受け取れるひとであり、、

「悪因」を起こすひとは「苦楽」のいずれをも「悪果」と受け取るひとといえるであろう。

 

ここには「因果とも」に「善悪の定義」がされていない。

「なにが善でなにが悪か」を知ることは難しい。

 

たとえ、これらが「楽果」や「苦果」だとしても、

まず「善因」を行なうひとには、必ずしも「楽果」を求めないひともいる。

 

また「悪因」から「苦果」が生まれるとしても、

「悪因」を起こすようなひとは「苦果」だと思っていないことも多いものであるうえ、そもそも本人は「悪因」とすら思っていないことも多いものである。

 

そもそも親鸞さんは「善悪の二つを総じて存知せざる」といっているのは、

「善も楽も」「悪も苦も」凡夫の思うところのものではない。

このポイントを「真仏土文類」の涅槃の徳における「楽」について記述している。

 

因果論はそれほど「単純」ではないということである❗️

 

資本主義のシステムの中で「儲ける」ことを考えるなら、

「だまし」や「誇大広告」をすれば良い。

ほとんどの「大企業」は、これらをやっている。

 

これを彼らは「悪因苦果」だとすら思っていない。

 

マジメに「仕事」をしていても、日本の資本主義で「中小企業は儲からないシステムになっている」から、、

この人たちは「善因苦果」でしかない。

 

世の中は、そう単純ではないと言える❗️ 

2019-12-25 03:17:00

⒊1415。。❗️

いわずと知れた「円周率」である。

数学では「0.99999。。。=1」なのだそうである。

 

「科学」であれなんであれ、どこかで「折り合いをつける」しかない。

 

つまり「論理」だけでは成り立たないのが事実であり、「情」がその「折り合い」をつけるのである。

ここに「人間」に「論理と情」が並行している《真実》がある❗️

2019-12-25 02:23:00

旅行と旅❣️

「旅行」は、目的地に向かうことがメインであり、

「旅」は、目的地を特定せず「放浪」のように、「一歩一歩のなかに感じることや学ぶことを大事にする」

というような歩みを進めることといえるだろう。

 

「人生」も同様に思う。

 

「生きる意味や目的」などは「無常無我」なのだから。。

 

自己と日々を自然に任せ「旅」のように、功徳を感じ取りながら、

「なにかを感じ、学び生きる」

そこには「目的地への手段を選ばない《旅行》にはない」発見や感動がある。

 

「旅行」のように、目的地に行く道のりは「手段」であり、「到着」した時点で意味をなすという、、

 

「道のり」に特別な意識をもたない「旅行のような生き方」は

「とにかく目的地に行くこと」だけの「手段を生きる」なんて、

「それで本当に目的地に至るかどうかもわからない」のだから「虚しく、不安なこと」であろう。。

 

「旅」のように、「一日一瞬」を大事にする生き方には、「充実があり、あるがままで結論を生きる」のだから、「不安」もない。。

 

「悟りを得る手段」を生きるのではなく、、

「いま現生がさとりへの功徳荘厳を生きること」日々の歩みに「さとりが内在して結論を生きる」のである。

 

このことは「松尾芭蕉が事例」としてわかりやすいと思う。

月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎゆく年もまた旅人のようなものである。

 

舟の上に生涯を浮かべ、川を行き交う舟の上で人生をおくる船頭、

 

馬の口とらへて老いを迎ふる者は、馬の口をつかまえて老いを迎える馬借などは、

 

日々旅にして旅を栖(すみか)とす。毎日が旅であり、旅をすみかとしている。

 

古人も多く旅に死せるあり。旅の途上で死んだ者も多い。

 

予も、いづれの年よりか、私もいつの頃からか、

 

片雲の風に誘はれて、千切れた雲がたなびくのに誘われて、

 

漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、さすらいの旅に出たい気持ちを抑えられず、歌枕である須磨や明石(兵庫県)の海辺をさすらったりした。

 

去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、去年の秋、ようやく隅田川のほとりにある家(深川芭蕉庵)に戻り、くもの巣を払いのけたりしている内に、年末になった。

 

春立てる霞の空に、白河の関越えんと、春の空にかすみが立ちこめるようになると、白河の関所(福島県)を越えたいと思うようになり、

 

そぞろ神の物につきて心を狂はせ、気持ちをせきたてる、そぞろ神がとりついて、狂おしい心境になり

 

道祖神(どうそじん)の招きにあひて取るもの手につかず、道祖神(旅の神)にも招かれて何も手に付かなくなってしまった。

 

股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、股引きの破れをなおして、笠のひもをつけかえて、

 

三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、長旅に備えてヒザにお灸を据えたが、松島の月が心に浮かんできてわくわくを抑えられない。

 

住めるかたは人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、 今の小さな住まいは人に譲って、弟子の杉風の別荘にいったん引っ越した。

 

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家 この小さな草庵も、ついに住民が住み替わることになった。新しくやって来る家族にはお雛様を飾るような小さな女の子がいるらしい。今までの男だけの家とはちがい、ひな祭りを家族で祝う明るい家へと変わっていくのだろう

 

表八句を庵の柱に掛け置く。旅立つ前の挨拶として、この歌を庵の柱に掛けておいた。

 

2019-12-25 00:19:00

システムエラーとヒューマンエラー❗️

人間はよく間違える。

これを「ヒューマンエラー」という。

またなんらかの仕組みが間違う。

これを「システムエラー」という。

 

コンピュータでも、間違いは起こる。

こういったことを「バグ(不具合)」という。

 

システムというのは「形の有無」に関わらず、

なんらかの仕組みがあれば「システム」である。

 

わたしに「法話の依頼」が「メール」であって、わたしが「伺う」。

これが「システム」として、成り立っていれば、システムといえるだろう。

 

ここでわたしが、「依頼」を「予定表に書き込み忘れて」ダブルブッキングする。

これは、「わたしが予定表に書き込み忘れた」という「ヒューマンエラー」といえる。

 

しかしこういったことが「複数回」起こったら、「書き忘れ」ないように、

「書き忘れないシステム」を作る必要がある。

たとえば必ず依頼を「特定のメールアドレスから」にして、

毎日メールを、1週間分確認するなどのように「システム化」するのである。

 

いわゆる「クセにする」のである。

しかし、酔っ払って「寝てしまい」確認を忘れる。

「メール原則」を知らない依頼先からの依頼を書き忘れる可能性がある。

こういう「バグ」があるなら、「システム」を変える必要がある。

 

ヒューマンエラーを生むシステムは「バージョンアップ」した方が良い。

しかし、完全な「システム」もなければ、「ヒューマン」もいない。

 

ここで言いたいのは、

あなたが誰かと「トラブル」を起こして、

あなたがその相手に「腹を立てた」とする。

 

しかし、その状況を分析して「相手との関係性のバグ」がエラーを生んだか、

 

どちらかに、「認識のズレ」「誤解」「言語定義理解のズレ」などなどの

「エラー」があるのかもしれない。

 

このように「あなたに起こる出来事」を「分析」すれば、

「腹も立たない」うえ、「問題点や改善点」がわかる。

 

こういったことを実践することを、

「智慧」といい、その「問題点や改善点」を共有できれば、

「慈悲」になるだろう。

 

仏教は「こういったことを説いている」といえるように思うのである❗️

 

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