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2019-12-26 05:58:00
善因楽果、悪因苦果か?
「善因善果、悪因悪果」は「善因」に起因することが「苦楽」のいずれになろうとも「善果」と受け取れるひとであり、、
「悪因」を起こすひとは「苦楽」のいずれをも「悪果」と受け取るひとといえるであろう。
ここには「因果とも」に「善悪の定義」がされていない。
「なにが善でなにが悪か」を知ることは難しい。
たとえ、これらが「楽果」や「苦果」だとしても、
まず「善因」を行なうひとには、必ずしも「楽果」を求めないひともいる。
また「悪因」から「苦果」が生まれるとしても、
「悪因」を起こすようなひとは「苦果」だと思っていないことも多いものであるうえ、そもそも本人は「悪因」とすら思っていないことも多いものである。
そもそも親鸞さんは「善悪の二つを総じて存知せざる」といっているのは、
「善も楽も」「悪も苦も」凡夫の思うところのものではない。
このポイントを「真仏土文類」の涅槃の徳における「楽」について記述している。
因果論はそれほど「単純」ではないということである❗️
ーーー
「この現実は、私の業のしからしむるところだ」という表現は正しい。自業自得、自己責任性がはっきり表明されているからである。受験に失敗したのは私が不勉強だったからであって、社会、先生、家庭のせいではない。責任転嫁を許さないのが業の理論である。
↑↑
この論はどこかおかしいと思うのですが。。⁉️
因果論には「縁」が関係するので、「不勉強」でも合格するひともいるし、
「勉強して」も不合格になるひともある。
「裏口」のひとも「エンコ」のひともいるから、「単純因果」で見るべきではない。
「因縁果」を論じなければ、真実は見えない。
そして必ずしも「自業自得」のみとはいえない。。
根本仏教でも、こういう「極論」で語っていない。
故に「六因四縁五果」を「倶舎論」で論じる流れになったのだと言える。
このような「自業自得」解釈は、「自己責任」といいながら、、
「政治責任」を「国民の自己責任とすり替える論」と変わらないと思うけれど、、
こんなことばかり書くから「また嫌われる」のだろうなぁ。。
これぞ「自業自得」なり❗️
ーーー
「善因善果、悪因悪果」は「善因」に起因することが「苦楽」のいずれになろうとも「善果」と受け取れるひとであり、、
「悪因」を起こすひとは「苦楽」のいずれをも「悪果」と受け取るひとといえるであろう。
ここには「因果とも」に「善悪の定義」がされていない。
「なにが善でなにが悪か」を知ることは難しい。
たとえ、これらが「楽果」や「苦果」だとしても、
まず「善因」を行なうひとには、必ずしも「楽果」を求めないひともいる。
また「悪因」から「苦果」が生まれるとしても、
「悪因」を起こすようなひとは「苦果」だと思っていないことも多いものであるうえ、そもそも本人は「悪因」とすら思っていないことも多いものである。
そもそも親鸞さんは「善悪の二つを総じて存知せざる」といっているのは、
「善も楽も」「悪も苦も」凡夫の思うところのものではない。
このポイントを「真仏土文類」の涅槃の徳における「楽」について記述している。
因果論はそれほど「単純」ではないということである❗️
資本主義のシステムの中で「儲ける」ことを考えるなら、
「だまし」や「誇大広告」をすれば良い。
ほとんどの「大企業」は、これらをやっている。
これを彼らは「悪因苦果」だとすら思っていない。
マジメに「仕事」をしていても、日本の資本主義で「中小企業は儲からないシステムになっている」から、、
この人たちは「善因苦果」でしかない。
世の中は、そう単純ではないと言える❗️