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2019-12-25 02:23:00

旅行と旅❣️

「旅行」は、目的地に向かうことがメインであり、

「旅」は、目的地を特定せず「放浪」のように、「一歩一歩のなかに感じることや学ぶことを大事にする」

というような歩みを進めることといえるだろう。

 

「人生」も同様に思う。

 

「生きる意味や目的」などは「無常無我」なのだから。。

 

自己と日々を自然に任せ「旅」のように、功徳を感じ取りながら、

「なにかを感じ、学び生きる」

そこには「目的地への手段を選ばない《旅行》にはない」発見や感動がある。

 

「旅行」のように、目的地に行く道のりは「手段」であり、「到着」した時点で意味をなすという、、

 

「道のり」に特別な意識をもたない「旅行のような生き方」は

「とにかく目的地に行くこと」だけの「手段を生きる」なんて、

「それで本当に目的地に至るかどうかもわからない」のだから「虚しく、不安なこと」であろう。。

 

「旅」のように、「一日一瞬」を大事にする生き方には、「充実があり、あるがままで結論を生きる」のだから、「不安」もない。。

 

「悟りを得る手段」を生きるのではなく、、

「いま現生がさとりへの功徳荘厳を生きること」日々の歩みに「さとりが内在して結論を生きる」のである。

 

このことは「松尾芭蕉が事例」としてわかりやすいと思う。

月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎゆく年もまた旅人のようなものである。

 

舟の上に生涯を浮かべ、川を行き交う舟の上で人生をおくる船頭、

 

馬の口とらへて老いを迎ふる者は、馬の口をつかまえて老いを迎える馬借などは、

 

日々旅にして旅を栖(すみか)とす。毎日が旅であり、旅をすみかとしている。

 

古人も多く旅に死せるあり。旅の途上で死んだ者も多い。

 

予も、いづれの年よりか、私もいつの頃からか、

 

片雲の風に誘はれて、千切れた雲がたなびくのに誘われて、

 

漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、さすらいの旅に出たい気持ちを抑えられず、歌枕である須磨や明石(兵庫県)の海辺をさすらったりした。

 

去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、去年の秋、ようやく隅田川のほとりにある家(深川芭蕉庵)に戻り、くもの巣を払いのけたりしている内に、年末になった。

 

春立てる霞の空に、白河の関越えんと、春の空にかすみが立ちこめるようになると、白河の関所(福島県)を越えたいと思うようになり、

 

そぞろ神の物につきて心を狂はせ、気持ちをせきたてる、そぞろ神がとりついて、狂おしい心境になり

 

道祖神(どうそじん)の招きにあひて取るもの手につかず、道祖神(旅の神)にも招かれて何も手に付かなくなってしまった。

 

股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、股引きの破れをなおして、笠のひもをつけかえて、

 

三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、長旅に備えてヒザにお灸を据えたが、松島の月が心に浮かんできてわくわくを抑えられない。

 

住めるかたは人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、 今の小さな住まいは人に譲って、弟子の杉風の別荘にいったん引っ越した。

 

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家 この小さな草庵も、ついに住民が住み替わることになった。新しくやって来る家族にはお雛様を飾るような小さな女の子がいるらしい。今までの男だけの家とはちがい、ひな祭りを家族で祝う明るい家へと変わっていくのだろう

 

表八句を庵の柱に掛け置く。旅立つ前の挨拶として、この歌を庵の柱に掛けておいた。